翻訳の思い出

自分名義の翻訳書が何冊かあるので「翻訳者」を名乗ってもバチは当たらないと思うのだけれど、経済的な寄与でいったら私の生涯の収入に翻訳からの印税や翻訳料が占める割合はそれほど多くない。いろいろな半端仕事を継ぎ接ぎしながら生きてきた、そのパッチワークでちょっと色のちがう柄が翻訳だという程度のことだ。なかには潰れた企画やムダ働きになった仕事もあったけれど、それらのおかげで多少は英語に詳しくなれたのだから文句はいえない。実際、翻訳で初めてお金をもらった頃の私の英語力は情けないほど低かった。仕事をしながら覚えてきたわけで、だからあまり自慢できるようなものではない。

私にとっての最初の翻訳本が出版されたのは1985年の3月のことで、まあなんとも古い話になってしまう。なぜたいして英語のことも知らない若造に翻訳ができたのかというのは、それはそれでちょっとおもしろい話だが、やたらと長くなるのでここに書くようなことではなかろう(実際、20年ほど前にその話を書いたら、1冊の本になってしまった)。重要なのは、どうやって駆け出しの私の訳文がなんとか書店に並べられるぐらいのものに仕上がったのか、ということだ。それは、ひとえに編集を担当してくださったOさんのおかげだ。いやフルネームできちんと書いてもいいんだけど、感謝の気持を伝えるには、こんなブログでは足りないから、とりあえず頭文字にしておく。

なにせ、インターネット以前の時代の話だから、初めて会うまで、お互いのことは何も知らない。Oさんは「手紙の字が乱れてるから相当なおじいさんかと思いましたよ」と笑っていたが、生まれついて字が汚いだけのことで、ほんと恥ずかしい。ちなみに、字が汚かったから当時発売されたばかりのワープロ専用機にいち早く飛びついて、このときの原稿は16×16ドットのドットインパクトプリンタで打ち出したものだった。そんなタイプ原稿が物珍しいような時代だった。当然、印刷も写真植字であり、いまのコンピュータ化されたものとは世界がちがう。ただ、大手印刷会社が電算写植というシステムを大々的に売り込み始めていた頃で、少しだけは現代に近づいていた時代でもあった。

私はなにしろ世間知らずだった。若くて経験がないのだから、しかたない。ただ、世間知らずであるほど、そのことを隠そうとするものだ。いまの私なら知らないことは平気で知らないと言えるのだけれど、二十代の頃の私にはそれができなかった。だからまるで出版界のことを知り尽くしたベテランのような顔をしてOさんと話し始めた。もちろんOさんは瞬間でその見栄を見破っていた。そしてきっと、厄介な若者を引き受けちまったもんだと思ったに違いない。

そこから編集会議で正式に企画が通り、私の方も手直しした原稿を入稿して、初校が出た。編集者の仕事を見せつけられたのはこのときだ。なんとOさんは、びっしりと付箋が貼られた校正紙を持って打ち合わせのための喫茶店(たぶんルノワール)に現れたのだ。そこから3時間ぐらいもかかったのではないかと思う。たかだか百数十ページの小説の翻訳にあたっての問題点を、延々と追及された。「ここはどうしてこんなふうに訳したんですか?」「この表現はまずいと思いますね」「ここって、意味がわかんないですよ」「もうちょっとどうにかなりませんかね」「原文のここ、抜けてませんか?」といった具合に、駆け出しの私は針の筵の気分だった。もちろん半分ぐらいは自分なりの正当な根拠を示すことができた。けれど、半分くらいはやっぱりまずかった。そして根拠のある部分でも、「でも、読者としてはここはわかんないですよ」と、改良を求められた。途中で、「そこまでよくわかってんだったら、Oさんが翻訳したらいいじゃないですか」という言葉が出そうになった。

後になって私自身が農業関係の編集をやるようになってよくわかったのだけれど、編集者は専門家である必要はない。専門家はあくまで著者であり、編集者はそのスパーリングパートナーだ。スパーリングパートナーだとかバッティングピッチャーは、決して一流のプレーヤーである必要はない。相手を打ち負かすのが仕事ではなく、相手の能力を引き出すのが仕事だ。そしてその仕事は、専門家の仕事とは全く質が異なるものだ。Oさんは、実にその仕事に長けていた。私はプロの編集者の仕事に圧倒されるばかりだった。

同じような凄さは、私の3冊めの翻訳本を担当した別の出版社のNさんにも感じた。おしゃれな街のおしゃれな会社に勤めていたNさんはおしゃれなキャリアウーマンであったけれど、仕事の徹底ぶりはすばらしいものだった。私がどう調べても出てこなかった単語を「それ、原著の誤植でしょ」と、一刀両断に解決したのが印象に残っている。

 

むかしの編集者がすべてそうだったのかどうかは知らない。私の出会った翻訳書を扱う編集者は、皆、原文の一行たりともゆるがせにしない厳しさをもっていた。ただ、それでは翻訳書が原著の完全な再現ということになるかというと、特段にそういうわけでもなかった。たとえば、原著にある「まえがき」を割愛するとか、原著の膨大な参考文献リストを「どうせこういうのは日本では手に入らないのだから」と削除するとか、そういった作業はふつうにやっていたように思う。このあたりは現代でも変わらない。うまくいけばこの夏には久しぶりに私の名前で翻訳書が上梓されるのだけれど(とはいえ、監訳者は私ではない)、その担当編集者も昔気質の人のようだ(直に会ったことがないまま何年も仕事が続くのはいかにも現代的だ)。そしてやっぱり同じように、ツキモノ(本文以外の部分をそんなふうに呼ぶ)に関してはあまり原著にこだわらず、むしろ読者にとっての利便性を考えている。

原稿を商品としての書籍に仕上げるのが編集者の仕事なのだから、このあたりは頷ける。商品としてはまず本文が正確であることは欠かせないが、読者の理解のためには大鉈を振るってもかまわない。出版とはそういうものだと思う。文化的な背景も基礎的な知識も大きくちがう場所に移植するときに、せっかくの作品が枯れてしまわないように配慮するのは当然なのだろう。

それにしても、文章が基本的に情報である以上、情報が失われたり曲げられたりしてならないのは当然だ。そういうことを思うのも、こんな話を最近聞いたからだ。

原文を省略する翻訳は、あってもいい。しかしそういった訳は抄訳と呼ばれる。抄訳であっても、読者がそういうものだと了解して読むのであれば、それはそれで意味はある。ただ、それを知らされないで原文がそのようになっていると思い込んで読むのでは、そうはいかない。それは誤解を広めるだろう。

もちろん、こういった意図的もしくは意図的でない脱落は、洋の東西を問わずむかしからあった。 たとえば、源氏物語をヨーロッパに紹介したことで名高いアーサー・ウェイリーのThe Tale of Genjiは「葵」までしか訳していないし、それどころか途中、どう考えても1ページ分が脱落していることを後の訳者であるサイデンスティッカーが指摘している。彼の説ではある朝、ウェイリーが朝食に食べていたトーストのジャムがページにくっついてしまったのではないかというのだけれど、東洋のマイナーな言語で書かれた本の翻訳ではさすがに編集者も気づかなかったのだろう。また思い出すのは(現物に当たれないのが残念なのだけれど)、1970年代の「リーダーズ・ダイジェスト」誌に掲載されていたアメリカの読書家のエッセイだ。ヨーロッパの小説の翻訳を取り寄せたらいちばん好きな部分がカットされていたと書店に手紙を書き、そこから交流が始まる、みたいなストーリーだったように思う。してみると、かつては「翻訳」と銘打ちながら実は抄訳に過ぎないものが数多く出回っていたのだろう。そういえば、「アラビアンナイト」の翻訳も底本が不明でかなり怪しいものだという話もある。もともとは翻訳なんてその程度の扱いを受けてきたのかもしれない。その程度であっても、珍奇なものを紹介する意味はあったのだろう。

とはいえ、世の中はインターネットの時代だ。世界が狭くなっていて、情報は豊富に手に入る。そういう時代に不正確なことをやっていては通用しない。特にそれが誤解を生みやすい文脈に置かれたものであれば、なおのことだ。このあたりは自戒も込めて、よくかみしめておきたい。

生きにくさは社会的な文脈で変わる - 「忘れ物」は特異な概念かも

前回、忘れ物のことを書いたら、かなり多くのひとが読んでくれたようだ。特に私同様に忘れ物で苦労したひとからのコメントが多かったのは心強かった。それと同時に、私から見たら筋違いと思われるようなコメントも、それなりにいろいろ考えさせてくれるヒントになったので、ありがたかった。それらはまた先々のネタに使い回させていただくかもしれない(たとえば私は前回の文中で「叱る」と「叱責」を同じ概念の単なる言い換えとして使ったのだけど、この2つを別概念として使い分けている人がいると知ることができたのは非常に刺激的だった)

mazmot.hatenablog.com

この記事は仕事の隙間時間の1時間弱で書いたので(「所要時間20分」みたいな神業は私にはできない)、かなり中途半端だった。そういうこともあって、最後の締めくくりに「じゃあどうすればいいのか、みたいなことまで書きたかった」と書いたのだけれど、実際には「こうすればいい」銀の銃弾があるわけではない。特に、個人の側の対応としては、よく言われる「忘れ物対策」的なもの以上の妙案はないだろう。

ただ、問題は個人的なレベルだけのことではない。これはだいぶ以前に貧困問題と絡めて書いたのだけれど、人間の抱える問題は多くの場合社会的な現象として現れる。社会的な現象に対しては、社会的な対策が可能になる。たとえば制度の設置や変更・改良などの政策的な対応であったり、あるいは社会的な規範・意識に働きかけることであったりする。重要なことは、社会的な現象は常に統計的にしか把握できないということであり、統計であるから、個別の事例に降りていけば必ず相反する事例が存在するということである。そして社会的な現象は基本的には個別の事例の積み重ねからしか見えてこないのだから、ここで泥沼のような議論が発生することになる。社会レベルの話に個人レベルでの対策みたいなものがまぎれこんでくる。たとえば「貧乏だとかいうけど、無駄遣いを抑えたらもっと少ないお金でも十分に暮らせるじゃない」みたいな議論だ。そして多くの場合、その個別の解決策は一定の正しさをもっているから、厄介なのだ。社会的な現象の解決策として個人的なレベルの対策を持ち出すのは、それは本質的にすれ違いを生むだけだ。

社会的なレベルの話は、個人的なレベルの個別の話と切り分けて語らなければならない。そして両者はときには矛盾するように見える。けれど、レベルが違うのだから、しかたない。たとえば、貧困問題に関しては、私は基本的に社会保障制度を拡充して誰もが気軽に利用できるようにすべきだと思っているが、その一方で個人レベルではそういう制度なんかに頼らなくてもごくわずかの現金で生きていく方法に関心があるし、なんならそういう貧乏生活マニュアルみたいなものを書ける自信さえある。そういう「貧しくても元気」みたいな生き方は、「だから自助!」みたいなところに容易に結びついてしまう。そうじゃなくて、ここは切り分けてほしいのだ。社会的な視点は統計の視点である一方で、個人的なレベルは唯一無二の特殊なものだ。同じ人間を対象にしていても、その発想は両極にある。

「忘れ物」に話を戻せば、それで個人が困るのは、あくまで個人のレベルの話だ。その対策は基本的には個人レベルで行う「忘れ物対策」であり、たとえばカバンに必要なもの一式を入れておいて常にそのカバンを携行するとか、メモを玄関扉に貼り付ける習慣をつけるとか、もうあちこちで言われていることになる。それはそれで重要だし、いくつかは私も実践して、多少マシになった。ちなみに、そういうので困っている個人に対して「ちゃんとしなければ困るだろう」とか言って働きかけるのは大きなお世話であって、ましてそれを叱ることで治せると思うのは現実を全く見ない行動だ。それでなくても本人は困っていてどうにかしたいと思っているのだ。それをさらに責めてどうなるよ、と、そのあたりのことをいいたくて、前回のエントリを書いたわけだ。

その一方で、「忘れ物をされると迷惑だ」「他の人が困るだろう」という視点は、個人のレベルのものではない。人間が複数いるときに限って発生する問題は社会の問題であり、社会の問題については社会的な対応が必要になる。その問題の解決を「お前が忘れるからだ」と個人のレベルに押し付けるのは誤っている。ちょうど貧困問題を「個人の努力が足りないからだ」と捉えるのに似ている。そういうところにフォーカスしても解決には至らない。そうではなく、貧困問題の場合は「一定の比率の貧困が発生するとして、それが人々の幸福を妨げないためにはどうすればいいのか」とか、「社会全体で貧困の発生率を下げるためにはどうすればいいのか」といった視点で考えなければならない。そして、忘れ物の場合は、「忘れ物するひとがいたとして、それでも全体が困らないようなありかたにはできないのか」とか、「忘れ物の発生率を下げるために社会としてできることはないのか」といった観点でなければならないだろう。前回記事のさらに大元となっていた小学校校長の取り組みは、まさに前者にあたる。そういう意味でこれは評価に値する取り組みだと思うし、「そんなことしたら当事者の子どもが将来社会に出たとき困るだろう」という否定的な意見には、「その社会を変えたらいいんじゃないの」としか返せないと思う。社会はそうやって進歩してきたのだと思うのだし。

で、ようやくここからが本論になる(前置きが長い!)。忘れ物が多いことが問題であるとして、そして学校での問題行動の多くが「障害」として分類され、その枠組みで対応されるようになってきた流れの中で、これが注意欠陥/多動性障害(ADHD)のひとつの特徴として捉えられるようになってきた、という認識が私にはあった。だから、前回のエントリを書いたあと、「こりゃ、続きを書くにはそのあたりのことをもうちょっと調べておかんといかんなあ」と思った。特に、「個人的な一例だけでよくそんなことが言えるな」的な反応に対しては、「いや、引用する時間がなかったけど、ADHDへの対応として叱ることは明確に否定されてるんだよ」と根拠を示す必要があると思った。なので、まずは調べようと、基礎的な文献を探し始めた。まだ手をつけたばかりの段階なのでその結果までは今回は書けないのだけれど、その途中で、奇妙なことに気がついた。それは、日本語で書かれたものと英語で書かれたものの違いだ。つまり、日本語の一般的な解説では、ADHDの特徴として「忘れ物」がほとんど必ず言及されている。ところが英語ではそうではない。全く言及されていないわけではないが、その頻度は明らかに少ない。この不一致に、「え? なんで?」と思った。そして考え込んだ。

だいたいが、英語に「忘れ物」に相当する単語はない。もちろんその概念を英語で表すことはできる。ただし、それはかなりまだるっこしい表現になる。たとえば、(授業で必要なものについて)「忘れ物をする」は forget to bring materials to class などと表現できるのだけれど、じゃあ「忘れ物をする」を forget to bring とイコールでつなげるのかというと、かなり無理がある。まして、その名詞型の「忘れ物」を forgetting to bring などと置き換えれるかといえば、そりゃどうしたって無理だろうということになる。

じゃあ、英語で「忘れ物」の概念をどのようにADHDと結びつけているのかなと思ってみてみたら、そもそもが診断基準の方には「忘れ物」が入っていない。近いところで「なくす」というのと「忘れる」というのはあり、

often loses things necessary for tasks and activities (toys, school assignments, pencils, books, or tools)
(例えば、おもちゃ、学校の宿題、鉛筆、本、道具など)課題や活動に必要なものをしばしばなくす。

is often forgetful in daily activities
しばしば毎日の活動を忘れてしまう。

DSM IV TR)

と定義されているらしい。これを日本人的に解釈すると「あ、これは忘れ物のことだな」となるだろう。けれど、よくよく注意してほしい。英語圏の社会で注目されているのは、「モノ」に対しては「なくす」という行動であり、「忘れる」という行動の対象になっているのは「毎日の活動」だということだ。もちろん現象としては私たち日本人が「忘れ物」と呼んでいるのは「授業がはじまったときに宿題や鉛筆や教科書が出てこないこと」であり、その原因のかなりの部分が「忘れ物がないかどうかをチェックするという毎日の活動を忘れること」なのだから、この2つの行為は日本人にとっては「忘れ物」と表現するのが最もふさわしい。しかし、もしも英語圏のひとにとってそうなのだったら、これは英語でもそうなっているはずだろう。ところが2つの行為に分けられているということは、それぞれが別々の現象として彼らには現れているわけであり、そこには「忘れ物」で括られる問題は存在しないのではないかと考えられる。

そんなバカなと思うかもしれないが、「忘れ物」のような問題は社会的な問題であることを思い出してほしい。社会的な問題は、ある現象が存在することだけではなく、その現象が社会にとって「問題である」と捉えられることによってはじめて出現する。そりゃ、英語圏にだって我々の概念でいうところの「忘れ物」はたくさんあるだろう。ひょっとしたら日本以上にひどいかもしれない。しかし、彼らはそれを「忘れ物」としては問題化しない。たとえば授業で使うコンパスを誰かが持ってこなかったとしよう。日本ならこれは典型的に「忘れ物」の問題だ。しかし、英語圏ではこれは「必要なものを失くした」とか「しばしば指示に従えず、学業、用事、または職場での義務をやり遂げることができない(反抗的な行動または指示を理解できないためではなく)」と、別の問題として認識されている可能性が高い。

つまり、同じ現象に対して、別な枠組みで問題化されている可能性が高いのではないかと思うわけだ。「どっちにしても問題なんじゃないか」と言ってしまえばそうなのだけれど、問題の枠組みが異なれば、当然、対処の枠組みも異なってくる。社会的な対応も変わってくる。それによって、困難を抱えた当事者の生きやすさ、生きにくさも変わってくるのではないか。少なくとも、「忘れ物」という概念がない世界では、その頻度がクラストップである不名誉とか、そんなものは存在しないのではなかろうか。もちろん、その代わりに他の不名誉があるかもしれないのだけれど。

それにしても、私たちは学校という枠組みがつくりあげた概念に縛られた社会に生きているのではないかと思う。「忘れ物」もそうだ。現実の社会では、同じような不注意をしても、学用品の持参を忘れたことによって発生するような被害が起こらないケースだって数多い。たとえば私は家庭教師として生徒宅を訪問するときに、よく忘れ物をする。けれど、「今日は◯◯を持ってくるのを忘れたので別のことをやりますね」と進めるので、何一つ困らない。まあ、モノを届けるだけの用事のときにそれを忘れたら話にならないとしても、たいていの用事はひとつやふたつモノがなくてもつつがなく進めることができて特別に問題になることがない。特にこのインターネットの時代、資料を忘れたらPCを開いて探し出せばいいのだし、PCさえ忘れたらスマホもあれば、なんなら出先で端末を借りることだってできる。学校の教師が警告するほどには(そして多くの親が心配するほどには)忘れ物は社会的に問題にならない。

「忘れ物」だけではない。学校が「社会に出たら役に立つから」と生徒に(おそらくは心からの温情として)与えようとする枠組みの多くは、実は時代遅れになっている。このブログでもたびたび文句を言っている「目的や結果はどうであれとにかくがんばっている姿勢だけを評価する」こともそうだ。そんな概念を植え付けるから、他人の足を引っ張ることだけにがんばってるひとが周囲から高い評価を受けるようなわけのわからないことが起こったりするのだ。「秩序を守ること」もそうだ。本当の意味での秩序は尊重されるべきなのかもしれないが、外見を揃えることだけに力点が置かれた学校式のやり方は、結局は多様性の排除にしかつながらない。

文句をいい出したらきりがない。とにもかくにも、重要なことは、社会的に問題を捉えるとき、その概念の立て方は重要であるということだ。そして、無意識に「そんなもの常識だろう」と思って概念化したことは、案外と思考を縛ることになる。それが生きにくさにつながっていないか、日々、再点検しながら進むしかないんだろうな、とか思う。

なぜ「忘れ物を叱る」のが無意味なのか

忘れ物をしても叱らない教育をしている学校があるとかいうTogetter記事を見て、「そりゃそうだ」と思ったのだが、そこについてるブコメ群のかなりの部分を占める意見が否定的なのに驚いた。いや、ほんとに驚いた。

b.hatena.ne.jp

もちろん、「叱ってもいいことない」という論調に賛同するコメントもないことはないのだけれど、「いや、それは当人のためにならないだろう」という意見が多い。ああ、地獄への道は善意で舗装されてる、と思った。

もともと教育現場で「叱る」という行為が横行していることに関しては別途思うところがあるのだが、そこまで話を広げると収拾がつかなくなるので、そこはおくとしよう。教師が叱ることが場合によっては認められるとした上で、なお、少なくとも忘れ物に関しては効果はほとんどない。それは私自身がほとんど常にクラスいちばんの忘れ物王者であり、そしてそれはいくら叱られたってなおらなかった過去をもっているからだ。忘れ物は叱ったからってなおらない。たかが一例でそう断言するのはおかしいのかもしれないが、実際、最近の研究でも注意欠陥/多動性障害に関しては叱責のような感情的なアプローチに効果がないことは明らかになっているはずだ(適切な文献がすぐに見つけられないのだけれど、例えばこのあたりにも叱責は否定的に書かれているように見える)。「いや、忘れ物が全部注意欠陥/多動性障害というわけじゃないだろう」というかもしれないが、だったらなおさらのことだ。ちなみに、私は注意欠陥/多動性障害の診断を受けたことはないし、たぶん診断基準に当てはまったことはないと思うのだけれど、スペクトラムな人間として、そういう傾向を生得的にもっていたことはあり得ると思っている。

 

「叱責すべきだ」と考えているひとは、たったひとつの事実を誤解しているのだ。それは、忘れ物をした当人が忘れ物をどう受け止めているのかだ。彼らは、「忘れ物をするやつは、そもそも『忘れ物をしてはいけない』という認識がないのだろう。だから忘れるし、忘れたことをわるいとも思っていないにちがいない。その認識は改めさせなければいけない」と考えているように見える。それはちがう。断じてちがう。

忘れ物常習犯だった者として言わせてもらおう。だれも忘れ物をしたいなんて思っていない。事実はまったくの逆で、忘れ物に対してはひどく緊張する。私の時代には叱責されるのが当然だった。毎日のように黒板に名前を書き出され、恥をかかされた。そんな状態を望ましいと思ってるひとなんていない。それ以前に、たとえ叱責されることがなかったとしても、忘れ物をすると困る。これは特に叱責されることがない個人的な場合にははっきりと感じることができる。たとえば財布を忘れて出かけたら、駅からすごすごとUターンしてこなければならない。せっかく買ったばかりのものを店に忘れて帰ってきたら、その敗残感たるや言葉に尽くせるものではない。忘れ物は、気がついた瞬間にひどく落ち込むものだ。だれも平然となんかしていない。もしも平然としているように見えるとしたら、それはあまりのことに茫然自失しているのだ。「あれほど忘れないようにと気をつけたのに、なんで忘れてしまったんだろう!」と、自分で自分を責めている。その姿が、外見上は「こいつ、全然反省しとらんやないか!」と逆に受け取られてしまう。

「じゃあ、忘れ物しないようにしたらいいじゃないか」というかもしれない。しかし、なぜそれができるのか、忘れ物ばかりしてる本人にはわからないのだ。十分に注意しているつもりだし、言われた手順は全てやっている。けれど、忘れる。忘れ物常習者というのは、そのぐらいにひどい。そして、それは叱ったからといって治るもんじゃない。

 

じゃあどうすればいいのか、みたいなことまで書きたかったんだけど、ちょっと今日は時間がない。またいつか、続きを書けたらと思う。

退屈からの脱出 - なんだかわけのわからない予告として

ラジオが好きなのは、自分の好みの範疇からはみ出して、新しい音楽を聞けるからだ。アルバムを漁ったり(若い頃はレコード屋に入ったらなかなか出てこれなかった)、あるいはいまならYouTubeで検索したりして音楽を聞くと、どうしても自分に馴染みのあるものしか聞かなくなる。ラジオだと、もちろん局を選ぶ時点で自分の好みから大きく外れるものは除外するのだけれど、それでもあえて自分からは選ばないだろうジャンルをどんどんかけてくる。まだインターネットなんて言葉を聞いたこともなかった時代、仕事をしながら聞いていたのは駐留米軍がAM電波を使って流していたFEN(Far East Network)だった。洋楽好きの私は好みの曲がたまにかかるのでいつかそこからダイヤルを動かさなくなっていた。ただ、そのカバーするジャンルは実に広く、いわゆるポップ・ミュージックからもっとハードなロック、オールディーズからトップ40、R&Bからジャズと、さまざまな番組が用意されていた。軍隊にはあらゆるタイプの人が集まるから、その嗜好も多様で、ラジオにもそれが反映されていた。私は(日曜日にごくわずかあるクラシックの時間は聞かなかったが)そのほとんどを聞いた。そして、自分がそれまでに聞いていたボブ・ディランビートルズとディープパープルとエリック・クラプトン(なんだかこっ恥ずかしくなる取り合わせだ)及びその周辺なんて広い広い音楽界のごく一部分でしかないのだということを知った。結果として、私はさまざまな音楽を無節操に吸収し、それは自分自身の血肉になっていった。ラジオは私を変えた。だから私はラジオに感謝している。

そんなFENの番組の中でも特に私が楽しみにしていたのは毎晩夜に1時間だけ放送されるR&Bの番組と、週末に放送されるカントリーのカウントダウン(ヒット曲を順番に放送する番組)だった。R&Bとカントリーといったら、まるでBLMとQアノンぐらいに対極の存在なのだけれど、完全に無縁かといえばそうでもなくて、古くはレイ・チャールズがカントリーソングをヒットさせたり、当時だとライオネル・リッチーポインター・シスターズアニタなんかがカントリーチャートに顔を出したりしていた。カントリー系のアーティストから尊敬を集めるプレスリーが生前にはジェームズ・ブラウンと親交があったとか、ジャンルは聞く人の便宜のためのものであって、音楽そのものではないように思う。ともかくも、そんなふうに当時のモダンなカントリーを聞いていたせいで、いまでもふっと、その頃の曲が頭を流れたりする。たとえば、

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Garth BrooksのStanding Outside the Fireなんて曲が、今朝目覚める前に頭の中で流れていた。そして、若い頃の自分、いまの自分をそれにあてはめてみたりしていた。

 

たぶん高校生の頃からだと思うのだけれど、私は「生きる意欲」みたいなものを感じられないひとだった。恵まれた生まれ方をしたので、何不自由ない生活だし、なにか不満があるわけでもない。強いていうならもうちょっとハンサムに生まれたかったとかもうちょっと健康でいたかったとか(アレルギー体質で喘息とか湿疹で苦労していた)、小さな不満がないわけではなかったが、だからといって人生が嫌になるほどの問題ではなかった。死にたいというほど積極的に嫌なことは何一つなく、とはいえ生きたい思うほどに魅力的なことにも行き当たらず、ただひたすらに退屈していた。息をするのもめんどくさいから、もしも自主的に止められるものなら止めてもいいやぐらいの感覚でしか生きていなかったのだと思う。ときにはじゃあいっそ死んじまうかなあ、みたいなことも思った。若い人は、大人が思う以上に死に近い(これは十分に意識しておかないと忘れがちなことだ。自分自身がそうだったことさえ、時には忘れてしまう。長く生きてきた人から見たら、ほとんど理由にもならないようなことであっさり死んでしまうのが若い人なのだ。死ぬのがめんどくさい以上の理由が、生きていることにないなんて普通だということは、よくよく思いだしておいたほうがいい)。

当時はノストラダムスの大予言が流行するぐらいに終末感が漂っていた。公害とか資源の枯渇とか東西冷戦とか、世の中ロクでもない話題ばかりだった。だから、いっそカタストロフがきてみんないっしょに消えてしまうならそれはそれでおもしろいぐらいに思っていた。そして、奇妙なことに、どうやらそれがごくわずかだけ、私を生かしてくれる動機になっていった。

つまり、大破滅なんて、そんなしょっちゅう見れるもんじゃない。もしもそれが起こるなら、その一部始終を見届けずに死ぬのは残念だ。まあ、私みたいなひ弱なやつは最初の一撃で死ぬほうかもしれないけれど、それでもそれがどんなふうに始まるのかぐらいは見れるだろう。知らずに死んだら、無念のあまりに化けて出るかもしれない。せめてそこまでは頑張って生きようよ、と、なぜだかそこに「生きる理由」を見つけてしまった。

やがて1970年代も終わり、どうやら世界はそう簡単に壊滅しないらしいとわかる年齢に私も成長していった。そして、この「世界の終わりを確かめたい」という動機のほうもそのまま成長して、「世界がどう変わっていくのかを見極めたい」という気持ちに変わっていった。自分の生きているいまは、ひどく退屈だ。たとえばローマ帝国が崩壊するときに、その地域に住んでいたとしたら、さぞスペクタクルだったろうとか思う。関ヶ原の戦いだったら、足軽としてでも参加したかったと思う。けれど、そういう変化がひょっとしたら実は起こりつつあるのではないかという気がするようになっていた。退屈に見える日常だけれど、それは気がつかないだけで、見える場所から見たら案外と歴史は大きく動いているのかもしれないと思うようになった。

「社会」という概念でものを考えるようになったのはその頃からだったと思う。社会は人間一人ひとりの寄せ集めだけれど、人間一人ひとりとは異なった動きをする。人間は退屈かもしれないが、社会の動きはダイナミックだ。社会がどう変化するのかを眺めることができれば、それは退屈な毎日を紛らせてくれるかもしれない。そのためには、それを眺めるのに適した場所にいくべきだろう。それはきっと、自分のいる場所ではない。そう思った私は、思い切って10年馴染んだ東京の生活を引き払った。いろんなひとに出会い、いろんな動きに手を貸した。勝つ見込みのない選挙運動に走り回ったこともある。会社を立ち上げて人を雇ったこともある。売れない本の束を抱えてイベント会場からイベント会場へと渡り歩いたこともある。いろいろな集まりに顔を出し、ときには自分でそれを仕切った。数百人の集まりの事務仕事の裏方を組織したこともある。その過程で進化するコンピュータと格闘し、バッドノウハウを溜め込んだりもした。それを使って仕掛けを作っては失敗したりもした。

そういう姿だけ見れば、私自身が「熱く生きている」ようにに見えたかもしれない。けれど、私は常に冷めていた。炎の只中にいてさえ、自分はそれを外側から眺めている気分でいた。なぜなら、それが自分の望んだことだったからだ。最もよく見える位置は、それが起こっている中心部だ。参与観察という言葉を私は意識していた。変化に関わっていく人たちを見るために自分はここにいるのであって、その変化そのものを起こそうとしているわけではない。関心があるのは変化だけれど、それは自分の外側で勝手に起こるものであって、自分が起こすものではない。社会の変化というものはそういうものだと考えていた。たとえば当時はほぼ電力としてはゼロに近かった太陽光エネルギーの利用を本気で代替エネルギーとして現実化しようと運動している人たちを見るには、そういう人が主催する勉強会に参加するのが手っ取り早かった(実際、そのおかげで後にフィードイン・タリフの政策が実現したときにそのブレイン的な位置についた人をそういう時代が来る前に見ることができたりもした)。そういう勉強会に参加しているひとの多くがそういう未来を信じていたり、あるいはそういう未来を望ましいものとして熱意をもって語るのに比べて、私にはそういう情熱はなかった。ただ、変化していく時代、変化していく社会を、そういう人々の動きを感じることができるのがおもしろかった。そういう位置にいるためだけに、私は「生きているフリ」をしていたともいえる。自分自身の執着は、生きることにではなく、社会の変化を見ることの方にある。好奇心が生への執着よりも先にくる。だから私は少しぐらいの損は気にしなかったし、少しぐらいの苦労は進んで引き受けた。そのほうがよく見える場所にいけるなら、喜んでそうした。「キミは変わってるな」みたいに言われることもあった。議論に参加せず、議論の成り行きをひたすらに眺めていた。そのほうがおもしろかったからだ。私はひどく冷めていた。

実際、大きな変化は起こったのだ。振り返ってみると、子どものころに退屈していた毎日の中でさえ万博は開かれ、連合赤軍浅間山荘にこもり、オイルショックでトイレットペーパーはなくなり、ドルが安くなって海外旅行にいけるようになり、スリーマイルで爆発が起こり、NECのパソコンが普及し、ベルリンの壁は崩壊し、チェルノブイリで事故が起こった。これらは皆、歴史の教科書に載ることになる。そして、よく見える場所に行こうと思ってから私が目の当たりにしたのは、米の自由化であり、地方都市の衰退であり、農業の高齢化であり、インターネットの普及であり、その他、短くまとめることがとてもできない数多くの社会の変化であった。そういうものをお腹いっぱいになるぐらいに見ることができたのだから、ある意味、私は正しかったのだ。炎の中で熱く燃えてしまったのでは、それに気づけなかったかもしれない。たとえ炎の中に踏み込んでいるように見えても身の回りにバリアを張って(また古い言い回しだ)いて、常に冷めていた。だからこそ、変化を変化として見てくることができたのかもしれない。

 

ただ、そういった経験は、徐々に私を変えた。これもまた、まちがいのないことだ。ちょうど好みの音楽を聞きたいと思って流していたラジオ局がいつの間にか私の好みを変えていったのと同じことだ。その最大の変化は、社会を自分の外側にあるものとして見なくなったことだろう。社会は個人の単なる寄せ集めではない。社会には社会の独自の力学がある。しかしまた、社会は個人が集まることによって成立している。そして、その外側に出ることはできない。あるいは外側に出てしまえばその力は働かず、つまりは存在しないも同然になるのが社会だ。社会を見るときには常にその内部に入ることが必要になり、内部に入るということは自分自身が社会の一部になるということだ。つまり、部分として全体を見るという禅問答のようなあり方をしなければ本当に社会を見ることはできない。そのときに、自分自身はバリアの内側にいて、あるいは雨のかからない傘の中にいるつもりでいても、実際にはそんな防壁は存在しない。雨が降れば濡れるのだし、棍棒で殴られれば痛い。自分が透明人間になったつもりでいても実際にはその存在だけで人を傷つけることさえある。参与観察なんてのは嘘っぱちだ。社会を見るときには、ただ当事者として部分を見ることができるだけで、それを積み重ねることによって全体を想像できるに過ぎない。そういうことがだんだんにわかってきたのだと思う。

そして、それを通り過ぎて、ようやく私は自分自身に興味をもつことができるようになった。自意識が目覚めはじめた中学生の頃のような興味のもち方ではない。そういう興味は、自分自身の外見が冴えないという認識や成績の方もパッとしないとかスポーツはダメダメという事実の前に急速にしぼんでしまう。そうではなく、自分自身の変化に対する興味だ。若い頃に世間に対しての興味はまったくなかったのに、社会の変化を見ることに執着できたのとよく似ている。結局、おもしろいのは存在ではなく変化なのだ。

社会とかかわる中で、私は変化する。「社会とかかわる」といっても、実際に相互作用が発生するのは抽象的な社会との間ではなく、他の個人との間でのことだ。たとえば家庭教師として、私は生徒の変化に付き合う。人間は変化するものだし、特に若いうちの変化は目覚ましいものだ。そういった変化にかかわる中で、実は私自身が変化している。それを感じることができるから、おもしろい。こんなおもしろいことがあるから、人間やめられんわ、と思う。若い頃、口を開けば「退屈だ」と言っていたのが嘘のように感じられる。

 

半年ほど前からはじめたプロジェクトがある。まだまだ道半ばで、どこまでいけるのか、どんなアウトプットになるのか、ぼんやりとしている。それでも私はこれを形にしたいと思っている。カントリーソングの歌詞を借りるなら、火中で踊っている。やけどをするかもしれない、恥をかくかもしれない、それでも前に進みたい。それは、そこから発せられることになるメッセージそのものよりも、それを通じて自分が変化することが楽しみだからなのだ。

そして、このプロジェクトは私ひとりのものではない。自分ひとりならできないことができると思えるのは、力を貸してくれるひとがいるからだ。そのひともまた、この仕事を通じて変わるだろう。まだまだ若いから、これからどんどん変わる。その変化を見ることができるのも、楽しみのひとつだ。成長という言葉がぴったりくる変化は、きっとあざやかなものだろう。

既に自分の中には、半年前にはなかったものがある。変化はもうはじまっている。ゴールはまだ遠いけれど、きっと何かが生まれる。具体的に書ける日がくるのが待ち遠しくて仕方ない。

「手伝い」の概念は変化してきたのか? -  生業と家事のあいだ

「家のことを子どもが手伝うみたいな言い方をするようになったのって、いつ頃ですかね」。古い友だちにコーヒーをご馳走になりながら話していたときのことだ。田舎で百姓をやりながら大工としてそこそこに名前も売れてきたその友人とは、知り合ってもう四半世紀にもなる。いつの間にか遠くはなれてしまったが、人が大地に近いところで暮らしていくことの重要性については、それほど遠くない意識を共有できていると私は勝手に思っている。彼が淹れてくれるコーヒーはうまい。コロナだからと遠慮して、青空の下で飲む。稲刈りも済んで、すっかり秋の風景だ。

「えっと。そりゃ、子どもは家のことを昔から手伝ってきたんやろ。むしろ家の手伝いもしないで勉強みたいなのが最近のことで」

「そうじゃないんです」

私が理解できないのを見て取って、彼はゆっくりと説明をはじめた。もともと田舎の仕事というのは、暮らしの延長線上にある。暮らしとは生きていくことだから、たとえば飯を食うことだ。飯を食おうと思ったら料理をしなければならないから、料理は特別な仕事というわけではなく、生きていくことの延長であり、言葉をかえれば生きていくことそのものだ。料理をしようと思ったら畑の大根をひいてこなければならないから、自給用の畑をつくるのも暮らしの延長であり、そのまま生きていくことだ。このように、田舎で暮らすということは、そのまま、生きるために必要なおこないを実行することである。もちろんそれが田舎のすべてかというと、そうではない。古くは年貢のための田んぼをつくることはプライベートな生活ではなく、公的な勤めであっただろう。生活のために金銭が必要になる現代では、いくらそれが生きるためだといっても、賃金を稼ぐことまでは暮らしの延長としてとらえられないはずだ。だが、家のこと、たとえば雨戸を開けるとか布団をたたむとか、掃除をするとか草取りをするだとか、水やりをするとか犬の散歩をするだとか、そういったことは経済が支配する現代にあってさえ、生活そのものであって、生きている以上、することが当たり前なことのはずだ。さて、彼は若いころ、海外の農村に長期滞在していた。厄介になっていた家の子どもがよく働くのを見て、「おまえ、家の手伝いをようするな。エライな」と話しかけたら、キョトンとされた、というのだ。言葉が通じなかったわけではない。そうではなく、少年がやっていた家の仕事、家畜の世話だとかそういった仕事を、「手伝い」(親を助けること)のように表現されたのが、少年にとって腑に落ちなかったという話なのだ。つまり、それは少年にとって生活そのものであり、自分がそこで生きていく以上、やるのが当然なことであって、それで誰かを助けるとか、ましてそれをやるからほめられるというような種類のことではない。生きることそのものは確かに称賛に値することであるのかもしれないが、それでもわれわれはウンコをしている人に向かって「エライね」とは言わないものだ(乳幼児に向かってなら言うかもしれないが)。つまり、少年の仕事は生きることそのものであり、それを家のことを「手伝う」と表現する発想が、本来ありえないのではないか、と友人は気づいたというのだ。

「さあ。もしもそういうことなら、1960年代のエネルギー革命あたりかなあ」と、私は曖昧に返事をした。たしかに、一昨年死んだ昭和一桁の私の父親が少年時代に毎朝牛の草刈りに出かけていたとき、それを「家の手伝い」とはあまり思わなかったのではないか、という気もしたからだ。「家の手伝い」という概念が成立するのは、「家の仕事」が「主婦の仕事」とイコールで結ばれるようになってからなのかもしれない。いわゆるサラリーマン世帯が主流になるまでは、男も女もいっしょになって暮らしを立てるための仕事をしていたわけで、そのときにあんまり「お母さんのお手伝い」みたいな感覚は生まれないかもしれない。主婦がやるのが当然になって、主婦以外の立場は「手伝い」になったのではなかろうか。

まあ、このあたりは実際のところ、よくわからない。友人と話しても、そこに証拠が出てくるわけではない。だから私は、この興味深い仮説を抱えて帰宅することになった。

 

さて、そもそも「手伝い」という言葉はどこから来たのだろうか。辞書には意味は載っているのだけれど、日本の辞書には語源に関する解説が少ない(英語ではetymologyといって、割と調べやすい)。ならばと古語辞典をひいてみると、学習用の簡易な古語辞典(三省堂の「全訳読解古語辞典 第二版」)にはそもそも「手伝い」の項目がない。「伝ふ」の項目はあるが、これはまあ、現代語とそれほど大きな差はないようだ。古語に用例がないわけではないだろうが、あえて項目を立てるほど重要な言葉ではなかったようだ。

それは、この言葉が漢語ではなかったからなのかもしれない。そのあたり私は完全に素人なのだけれど、漢籍リポジトリで検索してみると(「手伝い」の伝は旧字の「傳」にして)、186件とヒット数が少なく、どうも熟語として成立していた気配はない。読みも訓読みだし、どうも日本で日本の事情に合わせて成立した言葉ではないかという気がする(この辺は少し詳しい人には容易に判断がつくのかもしれないが)。諸橋轍次の大漢和辭典にも記載はない。

それではいつ頃から「手傳」の語が使われていたのかというと、軽い検索で私が見つけたもっとも古いものとして平安時代の行事の記録(漢文)のなかに一箇所あったほかは、概ね江戸初期以降になるようだ。あるいはその少し前、大名たちが土木工事を行う際に、その役職名として「手傳方」として登場するのがどうも広く使われはじめた最初のように見える。まあ、素人の片手間の調査だけれど。そして、この「手傳」は、「お手伝い」、つまり主体が他にあってその指図で助力をする立場というよりは、むしろ、ある種の権限を移譲された役職であるようだ。そう思うと、(こちらは古語辞典に項目のあった)「手代」とよく似ているのかもしれない。「手代」は、江戸時代の下級武士の役職であり、それは文字通り「手」の「代理」であろう。「手傳」は、トップの「手」を「伝える」管理者の意味であったのではないかと思われる。

しかし、江戸中期になると、そういった管理者の意味での「手傳」に加えて、より現在の使い方に近い「手傳ひ」の用例が見られるようになってくる。労働者としての「手傳人足」のような使い方、「手傳五人」のように員数を表すような表記も見られる。そして「囲碁の手傳ひ」のように、傍目八目観衆の行動を表す川柳も詠まれるようになる。こうなってくると、現代的な用例とそれほど変わらない。

明治になると、織物生産の労働力として「手傳人」を記載した文書ものこっている(この手傳人の給金は織手女より低く、賄方よりも高い:「幕末・明治初期における桐生織物の生産構造」木村隆)。それでも明治時代の国語辞典には、やはり「手傳ひ」の項目は立てられていない。それほど重要な言葉ではなかったのだろう。もちろん、薄い辞書一冊で何が言えるわけでもないので、もうちょっと探すべきだろう(暇があれば)。ではあっても、少なくとも昭和に入るころには「〜も手傳って」のような用例が頻繁に出てくるようになる。「○○先生のお手傳いで」のように、「補助的な役割を果たす」的な用法も増えてくる。「植木職手傳」は植木職人の少し格下のものとして定義されていたりもする。

ただ、それでも、そういった言葉が「家の手伝い」という文脈で用いられることはなかったのではないかという疑いは残る。しかし、結論からいうと、そうではなかった。「家の手伝い」として生活に関する仕事を分担する概念は、少なくとも江戸時代に遡るようだ。

孫引きになるが、貞女教訓女式目に「十の年の頃よりも外へ出さず行儀作法の正しき道を行はせ、親たちの言ひ付け給ふ事を少しも背かずして、それより後は苧を績み、紡ぎ、物縫ふ事どもを教へて母親の手傳をさすべし」という記述があるらしい(「江戸時代に於ける裁縫教授の範囲に就いて」常見育男)。ちなみにこの本がいつ頃のものなのかはちょっと不明なのだが(似たような書名のものはあるのだけれど)、江戸時代に既に、家事仕事を娘(未婚の女性)に手伝わせるという概念はあったようである。

下って昭和になると、そういった概念にもとづいているのではないかと思われる文献が多くなる。例えば関東大震災のことを描いたエッセイには、兄が小さな妹にお膳を出すのを手伝ってくれと言っているセリフが描かれている(「震災美談 小さい勇士」中村左衛門太郎)。これは明治以降明らかに一般化している「力を貸す」意味での手伝いであるのかもしれないが、日常のお膳を出すことに「手伝う」という言葉を使っていることから、暮らしのなかで「家事を手伝う」という言い方が不自然でなくなっていたのだろうと想像できる。また、農村での生活を描いた心理学の論文には、「『兄も気の毒だ。』と小いすつぽ抜けた嘆息を洩す三吉には、この時からどうも子供の無邪気がなくなつて行つた。それは、田舎の子供に通有するまめな手傳によって家族を助ける風は俄に三吉から去つて、一見呆然として戸外に佇んでゐる事が屢々となり、且今迄になく、家の内に頭を抱へて寝そべり返る事も亦少くないやうになつたのでも分る」(「二等卒の三吉」石井淳)という記述もある。子どもが家を手伝うのが普通であったという記述である。戦前の泉鏡花の小説には、「農家の娘で、野良仕事の手傳を濟ました晩過ぎてから、裁縫のお稽古に熱海まで通ふんだとまた申します」という一節もある。野良仕事は生活の延長だから、そこでの活動が娘にとって「手伝い」と位置づけられているのである。また、「富士郡に於いては大部分の兒童が家事或は農事の手傳ひをなすが、兒童にとりては可成りの力役である」(「身體發育に及ぼす後天的影響について〔三〕」藤本薫喜・勝田早苗)と、農村部の子どもの活動を、少なくとも教育関係者は「手伝い」と捉えていたと思われることを示す文書もある。

はっきりとその概念が文書に残っているのが、昭和14年頃の警察によるケーススタディである「或る反抗少女の行動分析と性格變化」(井原法洞・城戸幡太郎)である。ここには、「…学校から断はられて中途退学をした。この頃から近所の知合から金を借りてゐたらしい。それから家に居て家事の手傳ひをさせて置いたが、近所の洋裁教授所に通ってゐる間に…」と、学校中退で定職のない少女が「家事手伝い」という体裁をとっていたことが明らかになっている。さらに学校教育で「手伝い」は、

生徒の經驗を重んじ、實習を獎勵すべきことは、家事教授作用に於ける第三の原理である。今家庭に於ける生徒の日常生活に就て見るに、生徒は家事の手傳に依り、可なり多くの家事上の經驗を有し、特に家庭に於ける家事の手傳を獎勵することに依り、存外多くの經驗を有せしめ得るものである。(「家事教授上の諸問題〔五〕」常見育男)

といった扱いがされている。してみると、どうやら第二次世界大戦前後には、少なくとも都会においては、「未成年女子に家事を手伝わせる」という概念が成立していたのは間違いがないようである。そして、そういった概念が、「子どものお手伝い」という概念形成に繋がったのではなかろうか。

余談になりかけるが、若い女性と「お手伝い」が親和性が高いのは、戦後に(履歴書や釣書で多用された)「家事手伝い」という言葉とともに、「女中」と呼ばれていた職業が「お手伝いさん」と呼称を変えたことも関係しているかもしれない。誰の小説だったか1970年代の軽い読み物に「お手伝いさん」という呼称を拒否して「女中」であることにプライドを持っている女性が登場していた記憶があるが、女中の呼称は1960年代くらいまでではなかったかと思う。谷崎潤一郎の「台所太平記」は「お手伝いさん奮闘記」として話題になったそうなので、1960年代にはもう「お手伝いさん」のほうが一般的だったのかもしれない。

話をもとに戻すと、結局のところ、「子どもの手伝い」という概念を最終的に定着させる上で大きな役割を果たしたのは、学校教育であったようだ。たとえば、戦後の家庭科の創設に関して、次のような記述がある。

昭和22年の家庭科の学習指導要領は、この新しい家庭科の特色を鮮明に示している。家庭科の中心目標は「よい家庭」の建設、「よい家庭人」の育成である。従来のように、よい妻、よい母のみではなく、夫・妻、父・母・子、兄弟姉妹、祖父母・孫、しゅうと・しゅうとめ・嫁として、すべてよい家族の一員の育成をめざしている。戦後の日本にとって民主化至上命令であったし、日本の民主化の基礎は家庭の民主化にあるので、家庭の民主化を担当する家庭科の教育は、民法の改正と相まって重要なものと考えられた。家庭科では、個人の尊厳と両性の本質的平等を実現することが説かれ、それに必要な範囲において家事技能と家事知識とが与えられた。具体的に言えば、「お父さんは日曜大工をし、子どもたちは自分のことは自分でした上に能力に応じて家事の手伝をし、おりおり家族会議を開き、お母さんに教養の時間を作ってあげる」というような種類の内容が取扱われた。男子にも家庭科を課したことは、日本教育史上特筆すべき革命的処置でさえもあった。(「戦後における家庭科教育の諸思想とその批判」原田一

ここで「子どもたちの家事手伝い」という概念がはっきりと学校教育に盛り込まれたようである。つまり、戦前の「女は家のことをしておればよい」という儒教的な考え方から、「なにか訳のわからない家の雑事は女の手伝い」という考え方が、「それは男女平等だから、子どもが男女を問わず手伝うべきだ」と変化したのではなかろうか。そのなかで、「お父さんは日曜大工」と、「男」の仕事は別格におかれているのが、やがて1960年代の産業構造の大変化で「男は仕事」とされるようになったのかもしれない。

戦後の教育の中での「お手伝い」の位置づけをたどるのは、それはそれでおもしろそうだけれど、たいへんそうだ。ともかくも、ここでは、

  • 「生業に関して子どもが『手伝う』という概念が生まれたのは近年ではないか」という疑問は、一応、否定された。
  • 「手伝」は、もともとは「助力」とは別の管理的な仕事を指す言葉であったのが転用されてきたらしい。
  • 家事に関する「手伝い」は江戸時代頃より女性のものとされてきたが、それが戦後教育のなかで変化したらしい。

というあたりがわかったということで、いったん調査の手を止めようと思う。いや、いろいろと知らないことが多いもんだわ。

待ちぼうけ

1時間余の暇ができたから会って話をしましょうと約束をしていたのに、その人は現れない。場所をまちがえたことに気がついたのは、もう次の予定が入っている直前だった。あわてて連絡をとったけれど、その時点ではもう会えないことがはっきりしてしまっていた。しかたない。約束はあきらめた。

こんな待ちぼうけ、むかしはよくあったものだ。いまのようにモバイル通信手段が発達していない時代、待ち合わせは高度な技術だった。だからよく失敗もした。約束をしていて会えないことはザラだった。待ち合わせに「5分前」に行くことが常識であったのも、失敗を避けるためにそれが必要だったからだ。それでも思わぬ電車の遅れやらなにやらで相手が約束の時刻に現れないことはふつうだった。だから人々の許容度も高く、30分ぐらい待っていても、それで関係が破綻してしまうようなことはなかった。さすがに寝坊して1時間も待たせたような相手には腹も立ったが、そういう場合はさっさと帰ってしまってもそれはそれで許容されるようなところがあった。次の予定があるなら、伝言板に謎のようなメッセージを残して立ち去ることもできた。

駅の伝言板さえ見なくなって久しい現代では、そうはいかない。遅れるのならLINEなりSMSメッセージを入れておくのが当然だし、そうなると、「ああ、遅れるのだな。だったらこういうふうに対応しよう」と、待つ方の行動が変わる。便利な世の中だけれど、少々窮屈でもある。来ぬ人の事情をあれこれと想像しながら待つことは、たしかに気の揉めることではあるが、それなりに意味のあることでもあったなあと思う。無駄に過ごす時間は余裕でもあり、その時間にいろいろな気付きや発見もある。そういった余裕を失って久しい。

昨日、私が待っていた相手は、現代を生きる若い人だ。だからスマホをはじめとする電子機器もちゃんと使いこなす。けれど、どこか時代からずれたところがある。メッセージを送っても返事が来るまで時間がかかる。けっしてこちらのメッセージを無視することはない。必ず返事はくれる。まるで文通するような気の長い周期でやり取りが成立する。若いころ、便箋や封筒をえらんで切手を買いに行った頃のような気持ちにもなる。

そういう感覚を覚えさせてくれるのが気に入って、私はその人を自分のあるプロジェクトに巻き込んだ。だから、ときどき会う。プロジェクトそのものもどこか曖昧さのあるものだから、打ち合わせともちょっとちがう。そういう部分もあるが、もう少しゆるい。ゆるい雰囲気のなかでなんだかよくわからないけれど、プロジェクトはゆっくりと進みはじめている。私はそれを成功させたい。せっかちな性格だから気持ちは焦る。けれど、それを押し止めるように、ゆったりとしたペースでしか前に進まない。そういうペースをつくってくれる人、相棒として、こういう人が必要だったのだなあと、思ったりもする。

昨日、会えなかったのは残念だった。私がまちがった場所で待ち時間をつぶすために仕事をしていた時間、その人は正しい場所でわけもわからず待ち続けてくれていたのだろう。古い時代の人間である私には、待つことに対する耐性がある。2時間や3時間、待ちぼうけを食らうことは若い頃には普通にあった。どうってことはない。現代の若い人にとっては耐えられないことだろう。1時間近く、どんな気持ちで待ち続けていたのだろうと想像すると、申し訳なくなる。しかしまた、現代の時間の流れとはどこかちがう時間の流れのなかで生きている人でもある。待つ時間を意義あるものに変えてくれたかもしれないとも思う。待つことで生まれる心の動きを、しっかりとここからの養分として蓄えてくれたかもしれない。

そうであってほしいと願う。

PCR検査を受けた話

ここ1週間ばかり、ちょっとした騒ぎがあった。発端は高校3年生になる息子の発熱である。

息子は、箱入りで育てたせいか無理のきかない性質があって、フル稼働運転を続けるとどこかでダウンして熱を出す。そういう人だとわかっているので、今回、熱を出したのも、結局はコロナ後に再開した学校のスケジュールが詰みすぎていたのが原因なのだろうと振り返って思う。だが、最初に発熱の報告を聞いたときは、不意をつかれてとまどった。私が仕事中、「しんどいけど、どうしたらいい?」と電話がかかってきたのだ。考えてみたら、そこからが奇妙なことだった。

息子は、大学入学関係の何かがあって(どういう趣旨で大学に招集されたのだかいまだによくわからない)、志望する学校に行っていた。少し遠い場所にある大学で、片道3時間ぐらいかかる(なので来年からはもう少し学校に近い私の実家に彼は拠点を移すのだろう)。遅くに帰るという話は聞いていたし、なにを親に連絡してくる必要があるのだということでもある。体調不良であればなおさらのこと、さっさと帰ればいいだけのことだ。電車に乗れないほどしんどければ、救急車でも呼ぶしかないだろう。そうなったらそうなったでその旨を連絡すればいいわけで、もうじき18歳にもなろうという一人前の男が「どうしたらいい?」もないものだ。だが、後で考えたら、その時点でもうそういう判断もできないくらいに調子が悪化していたのだろう。それを察知できなかった私も、ずいぶんな間抜けである。

ともかくも、帰宅してすぐに寝かせた。その時点で38度を超える発熱があった。私は「またいつもの発熱だ。寝てりゃ治る」式に放ったらかして仕事をしていたのだけれど、妻は別のことを心配していた。

「保健所に連絡したほうがいいんじゃない?」

 

この時代、息子の発熱がいわゆる新型コロナによるものかもしれない、という可能性は、私も感じていないわけではなかった。けれど、息子は若いし、若い人は安静にして経過をしっかりと観察しておけば、たいていはふつうの風邪と同様に回復するという。こちらが感染しないように気をつける必要はあるにしても、たとえコロナでもしっかり寝ることがまず第一だ、と私は判断していた。

患者個人に関してはそれでもかまわないのかもしれない。しかし、感染症は社会的な病でもある。妻の言うように、家庭内だけのことで放っておいていいものではない。そこで、「帰国者・接触者相談センター」に電話をした。渡航歴の有無、感染者との濃厚接触の有無等、いくつかのチェック項目を尋ねられ、かかりつけ医の受診を勧められた。いろいろな報道で聞いていたとおりの対応だ。だが、実際に我が身に起こると、「ほう、そういうものなのか」と、改めて感じた。

翌日、早速近所の開業医に電話をした。ちなみに息子の熱は40度近くまで上がっている。この時点で素人判断としては「コロナじゃないな」とは思った。そこまでの高熱でもないと聞いていたから。けれど、シーズン外れのインフルエンザかもしれない。どっちにしても安静がいちばんだけれど、相談センターは受診を勧めるし、そこは時代の流儀に従うべきなんだろう。医院の方では、「通常の待合室から入っていただくわけにいかないので、時間になったら電話しますから、まずはインターホンで呼び出してください。裏口に案内します」とのことだった。いよいよコロナっぽくなってきた。

医者には妻が付き添って行った。それによると、単なる裏口で、いったん入ったら他の患者がいる場所も平気で通るし、診察室も同じ、医師も防護服を着ているわけでもなく、特別な対応はほとんどなかったらしい。そして診断は、「コロナに関してはウチでは検査もできないし、検査の必要もないでしょう。コロナかどうかがはっきりしない以上、インフルエンザの検査もできない。季節的にいってインフルエンザではないでしょう。解熱剤と抗生物質を出しときますから、安静にして様子を見てください」とのことだった。これもまた、ある意味、常識的な対応だと思う。医院内の防御体制はどうかとは思うが、リスクの低い患者は安静と経過観察というのは、判断としては正しいのだろう。

 

だが、話はそれでは済まなかった。というのは、妻が「これでは仕事に行けない」と主張したのだ。そして、私も困った事実にようやく気がついた。私も家庭教師として生徒宅を訪問することができなくなっているのだ。

息子は、親の感覚からいえば「いつもの発熱」であって、コロナではない。けれど、その可能性は否定できない。インフルエンザである可能性も否定できない。まあ、医者はインフルエンザじゃないっていってるし、コロナの時代でなければどうということはない。けれど、このご時世、家族内に発熱者がいる人に接近されるのは、多くの人にとって迷惑でしかないだろう。

事務職である妻の現在の勤務先は病院だ。高齢者をはじめ高リスク群が集まる病院は、コロナを持ち込まれて最も困る場所だ。欠勤の連絡を入れて事後を相談すると、「PCR検査を受けてくるように」との指示があったという。だから妻は、近所のかかりつけ医からPCR検査への流れを想定していた。ところが、「検査の必要なし」と、そこは否定された。「検査して欲しい」とかなり食い下がったらしいのだが、そこは突っぱねられたのだという。

 

世の中には、PCR検査派と検査不要派がある、らしい。もちろんそういう大雑把なくくりは現実を反映しないものであり、そこにはさまざまな温度差がある。おそらく現在最も一般的に認められた考え方は「検査は必要なときに必要なだけ行うべきであり、その判断は医師が行う」というものだろう。そういう基準に則ってPCR検査が行われており、そういった運用からはPCR検査は十分に足りている、と現状を分析することもできる。そして、相談センターのアドバイスも、それを基準にしたものだといえるだろう。ウチの近所の開業医の判断も、そういう考え方にもとづいていえば概ね妥当なものだといえると思う。

PCR検査拡大論者からみれば、それは手ぬるいということになるのだろう。検査はどんどん行うべきであり、少しでも疑わしければどんどん検査してウィルスの発見に努めなければならない。そのためには日本のPCR検査は絶対的に不足している(キャパシティが不足しているのか実施数が不足しているのか、そのあたりは論者によって異なるように見受けられるが)。保健所の判断、医師の判断などといわず、希望者は全員検査を受けられるようにすべきだ、というのがそこから出てくる主張だろう。そういう考え方にもとづけば、検査を希望した妻が拒否されたのは、「だから日本はダメだ」ということにつながるのだろう。

私は概ね、前者の立場に賛同している。むやみやたらと検査数を増やしたって消耗するだけだし、医療リソースは重症者や高リスク群に割り当て、リスクの低い集団はおとなしく風邪対応にしておけばいいのだぐらいに思ってきたし、基本的にはいまでもその考えは変わらない。けれど、個別の事例としてそれが自分の身に降り掛かってくると、やっぱり困ってしまう。仕事、どうするよ?

 

実際、公的には「医師の判断によって検査を行う」立場をとっている病院でさえ、現実には「疑惑を消すため」の検査を必要とする。妻は特段の要職というわけではない単なる事務職員だが、それでも休まれると仕事が滞る。とはいえ、濃厚接触者である疑いを抱いたままで出勤されても困る。そこで、病院は、「息子さんにPCR検査を受けさせてください。もしも近隣で検査できなければ、こっちまで息子さんを連れてきてください。ウチでPCR検査するから、それで陰性だったら出勤してください」と解決策を示してきた。検査が勤務の前提である、という条件を示してきたのだ。これは、非正規雇用である妻にとっては抜き差しならない問題になる。公欠であれば賃金は保証されるが、検査を受けずに疑いだけで欠勤したのでは、休んだ分だけ給料が失われる。私だってそうだ。疑いがある以上、生徒宅への訪問はできないし、訪問しなければ収入にならない。だいいちが、生徒に迷惑をかける。ラッキーだったのは大半の生徒がオンラインに移行していたことだ。それでも数名は、訪問指導の生徒がいる。放置はできない。

再度、相談センターに電話をかけると、「他の医療機関セカンドオピニオンを求めることは患者の権利ですし、自費で検査を受け付けている機関もあります。そういうところを利用されるのも権利です」と、これもまた教科書的な返答。それはそうだろうと思う。けれど、高くもない時給で得られる僅かな収入のために自費で検査を受けるのもバカバカしいし、また、検査のために相変わらず熱の下がらない息子を遠方まで連れて行くのも本末転倒だ。遠方ということでいえば妻の勤務先病院も決して近隣ではないので、やっぱり熱を出して苦しんでいる息子をそこに連れていくのは躊躇される。

セカンドオピニオンを求めるとすれば近隣の医療機関ということになるのだけれど、これは結局、同じことになる可能性が高い。というのは、近所の医院の反応が、現在の対コロナ戦略からいって正統派であったからだ。状況から見て、どうもコロナではない可能性が高い。高リスク群でもない。だったら検査するよりも安静にして経過観察というのは、いちばんありそうな判断だ。医療としてはそれでいい。そういうもんだろうと私も思う。だが、私と妻のニーズは、そこにはない。仕事に行けるかどうか、その担保が必要なのだ。

そういった担保としてPCR検査を求めることがバカバカしい話だというのは、私も妻も認識している。検査なんぞクソ喰らえだ。いま最も大事なのは熱を出している息子が楽になることであって、検査したってそれで病気が治るわけじゃない。ところが、仕事となると、そのバカバカしいところにどうしたって巻き込まれざるを得ない。笑って2週間の休みがとれるほど、世の中気楽にはできていない。

そりゃ、私や妻が休んだからといって、それで仕事が全て止まるわけではない。代わりの人員はいくらでもいるだろう。だが問題は、休んでいるうちに自分の仕事が失われてしまう可能性がゼロではない、ということだ。非正規雇用とはそういうものだ。実際、私だって、喘息の発作が起こって去年の暮れに生徒の大部分を手放したあと、復帰までに長い時間がかかった。月収が通常の2割程度まで落ち込んだ月が続いたのだ。他の講師に交代してもらった生徒は、ふつう、取り戻せない。コロナのおかげでオンラインの生徒が一気に流れ込んでくるまでの数カ月は、半分は失業状態だったわけだ。

 

医療とは根本的に異なった事情から、PCR検査が必要だ。とはいえ、「お願いします」「じゃあやりましょう」という状況にはない。私は半分諦めかけていたが、それでも妻は「一応、あたってみてよ」と言う。半分は、もう職場の病院まで連れて行って検査を受けさせる気になっているわけだ。だが、嫌な言い方だが、その際の前提として「近所の医療機関で断られました」という事実を積み上げておかねばならない。アリバイ工作のようでなんだかなあと思いながら、近所の病院に電話した。

相談センターで聞かれたのと同様の教科書的な質問リスト、渡航歴や感染者との接触履歴を聞かれるなかで、「同居の息子さんが発熱したということですね」という言葉に「いいえ、息子はふだんは高校の寮に住んでいます」と答えたとき、電話の向こうの空気が変わった。気のせいかもしれないが、私にはそう感じられた。そして「医師の判断を求めますので、追って連絡します」という返答が得られた。夕方になってからの連絡では、「明日、午前、PCR検査をします」とのこと。「発熱からの時間経過の関係で、今日ではなく明日のほうがいいでしょう」と。求めていたものが得られた。どうにもこうにも複雑な気分だった。

あくまで推測でしかないのだが、「寮=クラスターの発生」という可能性が、担当看護師の頭をよぎったのではないだろうか。大規模感染の芽はつぶしておかなければならない。それは患者個人のリスクの高低とは別の話だ。そういう判断ではなかったのかと思う。

病院の指示に従って、改めて先に受診した開業医から紹介状をもらい、検査に備えた。

 

翌日、車に息子を乗せて近所の病院に向かった。通常の受付ではなく通用口に回るように指示され、受付も車から降りずに済ませた。汚染を防ぐためにボールペンさえ持参するように指示されていて、医師の診断も専用の小ブースに取り付けられたインターホン越しという徹底ぶりだった。検体は、唾液を小さなガラス容器に入れて提出するように言われた。息子の検査中に別の女性が同様の検査でやってきたが、車に乗っていない彼女はプレハブづくりの仮設待合室で同様の対応を受けていたようだった。

そして、結果は晴れて陰性。医師の診断は電話連絡で、「結果は陰性でしたので、熱が下がらないようなら改めてかかりつけ医を受診してください」というものだった。そのころには、まだ熱は下がらないものの息子の様子も少し安定してきており、「この調子なら引き続き安静にしていればだいじょうぶだろう」という判断もできた。そして、最終的に、時間薬で熱は下がり、どうにかこうにか息子は健康を取り戻しつつある。妻も私も仕事に復帰することができ、まずはめでたし。

 

しかし、どうにも割り切れないものが残る。「検査をしたからオッケーよ」とはとても思えない。検査がなければ仕事も学校も休まねばならないという現状と、うかうか休んでばかりもいられないという状況と、本当に改善しなければならないのはどっちなのだろう。

「いついつまでにこれこれのことをしなければならない」という縛りが、人間の生活の中には存在する。それは、「種まき時を逃せばその年の収穫はない」という農業に依存していた昔から、人間にとって逃れられないことであるのかもしれない。けれど、食っていくだけなら、たとえば田植えの時期を逃してしまったら、蕎麦を播けばどうにかなるのだ。それでどうにもならないのは、年貢を米で納めなければならないからだ。結局のところ、われわれの「いついつまでにこれこれのことをしなければ」は、社会的な圧力によるものだとも言えるだろう。そして、社会的な歪は、社会の仕組みを変えることである程度まではどうにかなるのではなかろうか。

すぐに休むことばかり考えるのは、根性がないのかもしれない。けれど、根性なしに生まれついたものとしては、休みたいときに休めるような社会のほうが嬉しい。そうなればいいな、いつかそうなればいいなと思いながら、今日も安い時給で働くことになる。