中学受験は、そろそろ根本的に変わったほうがいい

役に立ってない中学受験勉強

中学受験はおよそ害悪だ。私がそう思う理由は単純だ。それが子どもたちの役に立っていないからだ。中学受験制度そのものは、それは何らかの役に立っているのかもしれない。少なくともそれを実施する私立中学校にとっては、メリットがあるはずだ。そうでなければやらないだろう(そのメリットも、後述するように怪しいものではあるけれど)。けれど、当事者のもう一方である子どもたちにとって、得られるものは「合格」以外のものはなにもない。そういうものだと言ってしまえばそれまでなのだが、じゃあ、合格競争のためだけに貴重な時間を無駄にすることはどうなのか、ということになる。私はそれを害悪だと思う。

なぜ、「子どもたちの役に立たない」というのか。それは、家庭教師としての経験からだ。私は中高一貫の私立中学・高校の生徒の指導にあたった経験が過去に何件もある。いずれも中学受験を無事に突破した生徒たちだ。あるいは、失敗して公立中学に進んだ生徒も何人かみてきた。これらはサンプル数としては少ないし、多くがトップレベルではない中の上くらいの私立中高生で、しかも「もうひとがんばり」と発破をかけられて家庭教師のサポートを必要としている生徒である。「成功例」ではないのかもしれない。それでも、彼らを見て、また、彼らからのヒアリングや彼らが持ち帰る学校での授業プリントなどを見て、思うのだ。「あれ? あの難問をエレガントに解いていた中学受験生が数年たってこれなの?」と。

たとえば算数。中学受験であれほど叩き込まれた比の操作、図形の解法のほとんどを、多くの私立中高生は忘れてしまっている。鶴亀算的な操作は使わないから忘れても別にかまわないとして、数値計算の工夫なんかは実用的だからぜひ日常的に使ってほしいのに、通り一遍のところから踏み出せない。すべてがそうではないけれど、家庭教師として実際に中学受験の難問を小学生とともにくぐり抜けてきている身としては、実に物足りない。もっと頭を使えよと言いたくなる。選抜をくぐり抜けた優れた頭脳があるんだろうと言いたくなる。だが、彼らの積み上げたはずのものは、合格の喜びとともにすでに過去のものとなっているのだ。

 

なぜそういうことが起こるのだろうか。中学受験に挑む生徒たちを教えてきて、なんとなく見えてきたような気がする。ちなみに、こちらも数は多くない。私はもともと中学受験生を教えるのは気が進まない。一言でいえばめんどくさいのだ。中学受験にはいろいろお約束ごとがあって、自由な発想で指導計画を展開しにくい。手間がかかる割におもしろくない。だから、なるべく中学受験生は請けないようにしてきた。スケジュールの関係なんかの都合で請けても、何かと口実をつくって他の講師に引き継ぐ機会を伺い、そして手渡してきた。家庭教師も長いことやってると、そのあたりのワガママの通し方もうまくなっていく。そして、地域的にも、このあたりは関東とはちがって中学受験はそれほど盛んではない。近年は(といっても十年単位でいうような「近年」だが)以前に比べると中学受験が一般化してきているが、それでも比率からいえばまだまだ私立中学校へ進学する生徒が少ないのが地域的な特徴なのだ。

だから、もともと中学受験生は年に1人とるかとらないか程度だった。それが今年は、やたらと中学受験生が多い。4人もいる(さらに1人増えそうな)うえ、その多くが週2回、3回と複数コマをとっている。これは上記のようにこの地域でも中学受験が増えてきていること、それを受けて数年前から会社の方でも中受に力を入れるようになっていることに加え、私がオンライン専任に配置換えになったこととかも関係しているのだろう。

ともかくも、家庭教師のお呼びがかかる中受生は、ほぼ学習塾に行っている。学習塾の進度についていくために家庭教師の補習を必要とする場合、学習塾から見放されそうになって家庭教師を頼る場合、学習塾に見切りをつけて家庭教師に切り替える場合と様々だ。学習塾と全く無縁なのはレアケース。なので、学習塾の様子は手にとるようにわかる。これがよくない。有り体に言って、ひどい。

彼らは基本的に、子どもたちを追い立てることしかしない。やたらと精神論ばかり吐く。ひとりひとりをとれば良い教師もいるかもしれないし、実際、子どもの親身になっていろいろとアドバイスを送ってくれる先生がいるのも知っている。しかし、塾全体の空気はそうではない。なぜなら、もともとが学習塾のビジネスモデルが「脱落者は捨てていく」ことを前提に成り立っているからだ。特に、任意性の強い中学受験では、そういうビジネスモデルを展開しやすい。だから容赦がない。

どういうことか。学習塾にとっては、入塾者が増えることがすなわち事業成功への鍵だ。入塾者をどうやって増やすのか。実績が最高の宣伝材料になる。有名校に年間何十人単位で塾生を送り込んだ事実があれば、親は喜んで高額の授業料を払う。「ここに入れば必ず志望校に入れてくれる」とか、ときには「ここに入らなければ合格なんて無理」と思いこんで、子どもを送り出す。この子どもたちに対して学習塾は、とにかく猛烈なプレッシャーをかける。競争に駆り立て、無理なほどの宿題を出し、「そんなことではダメだ! もっと頑張らなければ負ける!」と発破をかける。当然ながら、多くの子どもはそれに耐えられない。脱落者がどんどんと出る。それでかまわないのだ。なぜなら、生き残った生徒たちはそれなりに高得点を叩き出すのに適応できた精鋭であり、さらにそれを鍛えれば有名校合格が勝ち取れる。そうやって合格者の実績をつくりあげることができれば、翌年にまた大量の入塾者を確保することができる。大量の入塾者の中には必ず一定の割合、学習塾の苛烈なやり方に適応できる子どもたちがいるはずだから、同じようにしてふるい落として精鋭部隊をつくっていく。これを繰り返すことで、事業は成長する。

これが基本戦略だが、さらに事業を安定させるための追加的な戦略もある。どんどんふるいにかけて使えない生徒はふるい落としたほうが合格率は上がるとはいえ、収益性からはできるだけ長く在塾してもらったほうがいい。そこで段階別にクラス編成をして、脱落者には下のクラスに回ってもらう。そこで行われる学習指導はひどいものだけれど、そこは単純に資金源でしかないので、学習塾にとっては授業内容はどうでもいい。主要なリソースは生き残りで構成された精鋭部隊に注ぎ込めば、実績はきっちり上がるのだから。

そういったビジネスモデルなのだということは容易に理解できるのだが、子どもの側に立ってみたらこれがクソだということはすぐにわかる。競争を煽り、ひたすら得点ゲットのための技能を身に付けさせることは、子どもの成長にとってなにひとつ利するところがない。

「いや、勉強してるじゃないか」と、素朴に思うかもしれない。「将来の基礎をつくるじゃないか」とか「若いうちに頭を使うことが重要だ」と思うかもしれない。けれど、塾のやり方ではそれはほぼ当てはまらない。その証拠が、中学受験で身につけたはずの技能を一切忘れてしまった私立中高一貫校の生徒たちだ。だが、これではなぜそういう生徒たちが発生するのかの説明になっていない。それを分析するには、塾でどんな指導方法をやっているのかに立ち入らなければならない。

点取りゲームは傾向と対策

入学試験は、点取りゲームだ。これはもうはっきりしている。その人の本質とか適性とか一切関係なく、単純に得点の高いほうが勝利する。もちろん出題者は志願者の適性を見極めようとして問題を設計・作成するのだけれど、いったんゲームとなったら必勝法はそこにない。ゲームの必勝法は傾向と対策だ。そして反復だ。

これはゲーム機やスマホでゲームをやっている人にはすぐに同意してもらえるのではないだろうか。どのタイミングでどういう操作をすればいいのかを習得し、それが完璧にできるように繰り返し練習すれば高スコアが得られる。ゲームのテーマがどうとか、製作者の意図がどうかとか、ほぼ関係がない。たとえばいま話題のGhost of Tsushimaをプレイするのに、元寇の史実を知る必要はない。もちろん、それを知ってプレイすればより味わいは深まるだろう。あるいは、ゲームから興味をかきたてられて対馬の自然をさらに学ぼうと思うかもしれない。けれど、そういった味わいや知的興奮は、ゲームプレイには基本的に無関係だ。ゲームをクリアすることが目的であれば、そういったものは不要だ。そして、全リソースをゲームのクリアに注がなければならないのであれば、味わいや知的興奮はお荷物にさえなるだろう。

これがいま、受験業界で起こっていることだ。その本質は無視して、ともかく点数を上げることだけにフォーカスする。そのためにはまず「出そうな問題」を洗い出し、そしてその解法をパターン化する。パターン化した解法を難易度順に整理し、そのひとつずつを段階的に反復させていく。そうすることで解法パターンを暗記させ、いつでも使えるような道具にする。そうすれば、自動的に高得点が取れるようになる。

そういうものが「勉強」だと思いこんでいる人にとっては、「え? だから何が問題なの?」という感想しか出てこないかもしれない。けれど、こんなものは、単純に「点取りゲーム必勝法」でしかない。だからこそ、受験勉強が不要になった合格後には、速やかに忘れ去られる。

学習は、子どもの成長の発達段階に沿って計画されている。ことに小学校においては、年齢によって理解できる程度がはっきりと異なる。ところが、入学試験は小学校6年生段階に設定されているため、12歳の子どもが理解できる程度の学習内容が出題される。傾向と対策に基づいた反復練習によってそれを身につけるためには時間がかかる。結果として、それを理解できる年齢に達するはるか以前から、理解も何も関係なく、反復を始めなければならない。そして、本質の理解なんてなくても、きっちりとパターン化さえしておいてもらえれば、子どもたちは早い年齢から対応が可能になる。だから「くもわ」「みはじ」の呪文であり、「ことで聞かれたらこと、もので聞かれたらもの」の鉄則であるわけだ。そして、深いレベルでの理解がないものだから、必要性がなくなればすぐに消えてしまう。

多様な技を覚えてそれをいつでも使えるようにしておくことは「深いレベルの理解」ではないのだろうか。それはまったくの別物だ。深いレベルで物事を理解するためには、まず時間をかけてゆっくりと物事のつながりを考えなければならない。「AはBね」という知識を覚えることは理解でもなんでもない。「AはBでBはCなのだとしたら、AはCのはずだ。もしそうでないなら、そこにはほかの条件が隠れているはずだ。ということは、BはCだけなくBはDでもあるのかもしれない」みたいに延々と考え続けることが若い頭の鍛錬には必要だ。たとえ誤った迷路や袋小路に踏み込もうと、そうやって考え続けていれば、そのこと自体が財産になる。けれど、学習塾は絶対にそういうことを許さない。すべてのパターンは「AならB」式に明瞭化されているし、それを素早く、正確に繰り出すことを求めている。迷うのは「時間の無駄だ」と判断するし、その原因を「練習が足りないからだ」と断じるから、考え込むことを評価しないのだ。

孔子も言っているではないか。「学びて思わざれば則ち罔し」と。いくら知識を覚えようが、思索のないところに光は射さない。受験勉強の目的が高得点をゲットすることであれば、それでもかまわない。高得点には思索など必要はない。ただ、パターン化と反復練習さえこなす体力があればいい。だからこれは学問ではない。学問ではないから、あとに残るものはない。

多くの親は、ここを勘違いしている。「受験勉強という名前で子どもにやる気を起こさせれば、そこから先に役立つ重要な学びをその過程で得ることができるだろう。だから、仮に受験に失敗するにしても、そこに挑戦させる意味は大きい」ぐらいに考えている親は多い。学習塾も、そういった誤解を助長するような宣伝をする。しかし、考えさせない学習は学習ではない。「いや、ウチの塾は考えさせる教育をします」「頭の使い方を学ぶのが勉強です」みたいに主張する学習塾もあるだろう。だが、彼らのいう「考える」とか「頭を使う」は、せいぜい「この問題はどのパターンに当てはまるだろう」と判別させるとか「この問題はこのパターンとこのパターンの組み合わせだな」と思いつくとか、その程度のことでしかない。その程度に頭を使うのが教育なら、むしろ子どもをゲーム機の前に座らせておいたほうがいいぐらいだ。学問とはそういうものではない。

なぜ伝統芸能のような中学受験対策が生まれたのか

私が中学受験の指導をつまらないと感じるのは、それが伝統芸能の世界のように閉じた世界になってしまっているからだ。たしかにいろいろな知識はアップデートされている。社会科の総合問題には、最新の時事問題が反映されていたりもする(今年はコロナとかオリンピック中止とかじゃないかな)。けれど、突き詰めていえばそこで問われている内容に大きな変化はない。何なら半世紀前の問題集の問題をそのまま使っても指導ができるほどだ。学問は進歩しているのに、その姿にはほとんど変化がない。

なぜそうなっているのか。それは、中学受験が奇妙な方向に進化してしまっているからだ。まず基本的には入学試験は公平でなければならない。公平性を確保するために、学習指導要領からはみ出した内容は出題しないことになっている。これは中学受験に限らず、高校入試でも大学入試でも同じことだ。ただし、特殊な技能を求めることが前提である学科・コースはその限りではない。一般の中学入試はそうではないので、学習指導要領の範囲を逸脱しないことが前提になっている。しかし、通常小学校で教える程度の問題を出したのでは、全員が正解をはじき出し、差がつかなくなる。そこで、「小学校の範囲ではあるのだけれど、ふつうの小学生には解けない」難問を工夫する方向に受験問題は進化することになった。ただし、実際にはそれ以前に、学習指導要領が変化する前の伝統というものが存在する。

たとえば鶴亀算だ。私が小学生だった半世紀前には、この解法は教科書に載っていた。確か4年生か5年生の授業で出てきたのだと思う。なぜそれを覚えているかというと、私はこれがさっぱり理解できず、母親が半分キレながら特訓してくれた場面が印象に残っているからだ。鶴と亀に飽きてきた私をライオンと人間とか、いろいろに題材を変えてどうにか解けるようにしてくれた。母親は別に算数が得意とかいうことの一切ない人だったので、それなりに苦労したんだろうと思う。ま、思い出話はともかくも、鶴亀算旅人算も植木算も和差算も、その頃には学習指導要領のもとでふつうに教えられていた。だが、なかなか理解することは難しく、それをちょっとひねった形で中学入試に出題しても、それはそれなりに差がついた。ひとつ上の兄が中学入試に挑んでいる(そして敗退している)ので、そのあたりのことは子ども心にもだいたい理解できた。

そして、そんなふうに多くの子どもが理解できない「特殊算」を学校で教えるのはどうなのよという話になり、指導要領の改定でこれらの計算は徐々に教科書から姿を消すことになった。私が学習参考書業界で小学生向けの算数の問題集を編集していた1980年代にはすでに小学校の教科書からこれらの特殊算はほぼ姿を消していた。「こんなんでほんまに大丈夫なんかいな」という古手業界人たちの杞憂をよそに、小学校教育はその後もごくふつうに進行した。鶴と亀が何匹いようがA君がお兄さんに追いかけられることがなくなろうが、だれひとり困らなかったわけだ。

そして、大きな影響を受けると予想された中学入試も、ほとんど変わらなかった。これは、「鶴亀算旅人算も時計算も差集め算も、教科書からは消えたかもしれないが、学習指導要領にある四則計算の応用として解くことは可能ではないか。だったら、指導要領外とはいえないはずだ」という解釈による。そういうことを言いだしたら世の中のあらゆる学問は小学校の国語算数理科社会の応用だといえなくもないので何でもありの世界になってしまうのだが、そこは奇妙な自主規制が不文律として通用するようになった。すなわち、古い指導要領で扱われていた内容はOK、それ以外はダメ、というものだ。だから鶴亀算旅人算で方程式を使ったらアウトみたいな慣例が通用するようになった。正負の数は中学の学習事項だから使ってはダメなので方程式的な操作は不可だが逆算ならやってよろしいとか、四則計算でもよく意味のわからない線引きがある。その割に図形問題はどう考えても中学校の範囲だろうという平行線定理や相似な図形の処理が認められている。国語ではやはり中学の学習範囲である品詞分類はあからさまには出題されないが、実質それに等しい知識を必要とする問題は出る。それでも、「品詞分類を知らなくても『使い方が違うかどうか』は注意すればわかるはずだから」というようなギリギリのラインが引かれている。理科や社会でも一見中学、ときには高校の問題が出題されているが、「ここをたどれば知識がなくても解けるはず」という細いラインが引かれているので、セーフということになっている。

それが何十年、続いている。いったいなにがセーフで何がアウトなのかという外枠は、高校入試、大学入試に比べても非常にわかりにくくなっている。わかるのはその道何十年のベテランと、そこから直伝を受けた塾関係者だけではないかと思うくらいだ。閉じた世界であり、第三者から見ての明瞭な基準がない。ただ、「昔から中学入試ってこんなもんだ」という了解だけのもとに成り立っている世界だ。すなわち、伝統芸能の世界と同じである。非常にやりにくい。

結局のところ、中学入試は古い古い枠組みを温存するためだけに強引で独りよがりな基準が不文律として成立し、そしてそれをすべてのプレーヤーが所与のものとして受け入れることで存続してきた非常にいびつなものである、といえるのだと思う。そして、それを受け入れることが無条件で子どもたちに求められている。学問の体系を考えたら、これでは先に何もつながらないことになる。多くの受験技能が中学以降に忘れ去られる理由は、こんなところにもあるのではないかと思う。

それって優秀な生徒を選抜できてないと思う

中学入試に限らない、私は入試全廃論者である。それでも、私立中学校が入学志望者を何らかの基準で選抜するのは理解できないことではない。私立学校は教育の多様性を確保する上でその存在意義が大きいし、公立の学校と一線を画す以上、生徒に何らかの特性を求めることがあってもかまわないと思う。アドミッション・ポリシーやカリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシーが重視されるこの時代、中学校であっても「ウチではこんな生徒を求めています」「ウチではこんな教育を実施します」ということが明らかになっている。当然、それに適合した生徒を選ぶ必要があるのだし、そのために何らかの試験を実施するのは、道理にかなったことでもある。

たとえば、いま私が担当しているある生徒の志望校には、こんなアドミッション・ポリシーが掲げてある。

  1. 本校の使命や教育方針を理解する生徒
  2. 学力が優秀で知的好奇心が豊かな生徒
  3. 自分で考え、積極的に行動できる生徒
  4. 人間尊重の精神を持ち、社会貢献の意識が高い生徒

1番はまあ当たり前のこととして、2番から4番のような生徒を選考するのに、この学校の入試問題が役立つだろうか。そういう観点から過去問題を見てみると、それなりに頷けないこともない。算数の問題はなによりも「学力が優秀」でないと歯が立たないだろうし、それだけではなく「自分で考え、積極的に行動」する姿勢があって(すなわち試行錯誤を繰り返すことで)解けるような問題だ。理科の問題は「知的好奇心」があってこそうまく解けるだろうし、社会科の問題には「人間尊重の精神」や「社会貢献の意識」が反映しているといえなくもない。たしかに、虚心坦懐に問題を見るならば、これはアドミッション・ポリシーにうたわれた生徒像を反映する入学志望者を選抜するための問題であるようにも見える。

しかし、現実はそううまくはいかない。なぜなら、ごくふつうの勉強をしてきた上記にピッタリと該当する生徒と、上記にはまったく当てはまらないけれど学習塾式の猛特訓で準備をしてきた生徒と、どちらが高得点をとるかといえば圧倒的に後者だからだ。なぜなら、本来は「自分で考え」ることで解決することが期待されている問題も、パターン化し、階層化し、反復によって解法を暗記することで十分に解けるようになるし、そして、その手法はほとんどすべての領域をカバーするからだ。学習塾式の勉強をやらない生徒には、どこかの領域に穴がある。場合によっては、算数や国語はノー勉で解けるが社会科はダメ、みたいなことも起こる。結果として、点取りゲームに勝てない。

結局のところ、出題者の意図がどこにあるにせよ、中学入試の問題では「パターン化、序列・階層化、反復訓練」の学習塾式の勉強を勝ち抜いた者が勝利する。そして、その厳然たる事実を前に、学習塾や親、当事者である子どもたちさえも、誤解してしまう。私立中学校が欲しい生徒は、厳しい塾の訓練に耐えて勝ち残ることができる生徒なのだと。あるいは、すべての解法を知識として詰め込んだモンスターのような生徒なのだと。そうではないということはアドミッション・ポリシーを素直に読めばわかるのに、「あれは単なる建前で、ほんとうはそうじゃないんだろう」と勝手に決めてかかる。だから学習塾は悪びれることもなくまるで正しいことをやっているかのように堂々と親を叱咤し、子どもを激励する。親は言われるままに追加の教材や講習会に投資し、子どもたちは最後のアドレナリンを絞り出す。

さらにわるいことには、中堅の私立中高一貫校あたりになると、彼ら自身があえてその誤解を自己のものとしてしまうことがあるように見えることだ。アドミッション・ポリシーは単なる看板で、ホンネでは彼ら自身、塾の訓練に耐え忍んできた生徒を好んで選考しようとしているのではないか、と見えることだ。これはちょっと怖ろしい。

 

トップレベルの中高一貫校の入試問題が難問になるのには、それなりの理由がある。これらの学校の「難問・奇問」と呼ばれるものを仔細に分析してみると、実は言うほど難問でも奇問でもないことが多い。表面上のとっつきにくさやわかりにくさにかかわらず、素直な心で読めば正答への道筋が浮かび上がってくるものが多いのだ。むしろ良問であったりする。では、なぜそれを学習塾が「難問・奇問」と呼ぶのかといえば、それが過去問題を分析して得られたパターンでは解けないからだ。彼らの必勝法であるパターン化と反復訓練が通用しないから、それをなにか特別なものであるかのように扱う。そして、その対策を無理矢理に自分たちのパターン化の中に当てはめようとする。結果、新しいパターンがそこに追加される。そのようにして、学習塾の「対策」は、どんどん高度化、精緻化していく。しかし、素直に読めば、そんなもの必要ないケースが多い。たとえば、「室蘭の鉄」(室蘭に日本製鐵の重要な工場があること)で解ける問題が、ある中学校の過去問題にある。「室蘭の鉄」は伝統的に中学校の社会科の問題としてポピュラーなものだった(ただし、近年は教科書本文には載らず、図版の片隅をよく見ないと出てこない情報になってしまった)。いわば、古臭い上に高度な問題だ。だが、こういうのが出題されるのを見た学習塾は、それを押し戴いて、「室蘭の鉄」を暗記項目に加えるだろう。しかし、問題をよく読んでみれば、解答への道筋はちゃんと別に用意されていることがわかる。つまり、これは古臭い問題に偽装した読解力を試す問題で、古臭い特殊な知識が必要に見せかけることで読解力のない生徒をふるい落とすために工夫された問題なのだ。ところが、読解力を涵養するのにはとてつもない手間がかかる(ちなみに学習塾で「読解力」と呼んでいるものは正しい意味での読解力ではないと私は思っている)。それよりは、「室蘭の鉄」と呪文を生徒に暗唱させたほうが手間がかからず効果が高い。ただし、それは中学校の教科書でさえいまや隅っこの方の7ポイント文字を拾わなければ出てこない情報だ。つまり、学習塾の観点から言えば、出題頻度の少ない「難問」と分類される。別の道筋を通ってとけばごくふつうの常識で解ける問題なのに、反復練習に頼って解こうとすると、「難問」になるわけだ。

それでもなお、学習塾はその方法論で乗り切ろうとする。そして乗り切ってしまう。トップレベルの学校はそれを避けるために、次々と新しい趣向を考案する。素直に見れば難易度が上がっているわけではないのだけれど、学習塾は「新傾向」として、「これは対策のレベルを上げなければならない!」と力む。そして、(子どもたちに負担をかけることで)乗り切ってしまう。「難関校対策はウチでなければできません!」と、宣伝材料にさえする。学校の工夫は、たいてい塾のゴリ押し的な対策で無効化されてしまう。

それでも、そういう仕組みのなかで学校側が意識して問題を工夫しているのなら、まだマシだと思う。「本当はガリ勉タイプなんかほしくない。自由に発想を展開できる想像力豊かな生徒が欲しいのだ。あらゆる知識に貪欲で、それを活用できる創造的な力を持った生徒が欲しいのだ。単純に知識を詰め込んだり、解決方法をパターンとして暗記している生徒なんかは欲しくないのだ」という意識から工夫を重ねているのなら、まだそれはいい。たとえ、現実には学習塾が生徒のイマジネーションやクリエイティビティを圧殺するような教育を施してその結果として単純に体力・資力・忍耐力のある生徒を選抜して送り込んでくるようなことがあっても、それでもそういう意識があるのなら、やはり何割かは望んだ資質を持った生徒を獲得することができるかもしれない。問題は、ごく一部のトップレベルの学校を除いた多くの中堅私立中高一貫校にそういう姿勢さえ見られなくなっていることだ。

そういった「並」の入試問題を見ていると、それは単純に「生徒の間に点数差をつけやすいように問題の難易度を調整する」という観点でしか作成されていないように見える。情けない話だが実際そういう観点は試験問題を作成するときのポイントのひとつとされていて、得点分布のヒストグラムがきれいな正規分布に近いほど上手な問題作成だといわれていたりもする。ともかくも、これらの学校は、既存の(ということは半世紀も前の学習指導要領下で成立した時代遅れの)中学入試問題の枠組みの中で、「ウチの学校ならこの程度の問題に答えられるぐらいの生徒が適当だろう」的な発想でできている。算数だったら、「計算問題はこんな感じ、特殊算の文章題を入れて、図形の問題を入れて、グラフを読み取る問題と、規則性の問題を配合しておけばまんべんなく勉強してきたかどうかがわかるだろう」的な発想で作られているようにしか見えない。そしてその姿勢は、すなわち、既存の学習塾の対応をアテにしている。それに依存している。だから、彼らが選びたい生徒の資質は、アドミッション・ポリシーにどんな綺麗事が書いてあろうと、ホンネでは「意味があろうがなかろうがやれといわれたことを黙々とこなすことができる従順な生徒」だと読み取れてしまう。なぜなら、こういった学校の入試問題は、ひたすらに学習塾の指導に従っていればたいていどうにかなるからだ。あるいは、そういった手法(パターン化して序列化して反復練習でその階層を上がっていくことをひたすら繰り返す方法)以外では歯が立たないものであると言ってもいい。それをくぐり抜けられるのは、まずは高額な学習塾に投資できるだけの資力が家庭にあることであり、次にそういったバカバカしい作業を受け入れることができる資質が生徒にあることであるからだ。そして、中堅私立中高一貫校がそれを必要としているのだろうというのは、そういった学校で実際に教育を受けている生徒を指導する中で見えてくる。彼らがやっている教育は、一面をとればまさに学習塾式のパターン化して序列化して反復する行為の連続でしかないのだ。

 

子どもたちの数が減る中で、私立学校は生徒を獲得する競争のただ中にある。生徒を安定して獲得するためには評判がだいじだ。世間の学校に対する評価は、どんな大学にどれだけの卒業生を送り込んだかで決まる。つまり進学実績だ。進学実績を確保するためには、現在の受験制度のもとでは、「対策」を実施するのが最も確実かつ投資効果が高い。そういった「対策」とはすなわち大学入試問題の解法をパターン化し、序列・階層化して、反復練習を重ねて暗記していく方法である。これが点取りゲームの必勝法なのだから、しかたない。そして、そういった点取りゲームに参加して好成績を上げる生徒とは、すなわちそれを支える経済力が家庭にあり、無意味かどうかなんて疑問を持たずに命じられたことに取り組む素直な性格とそれをやり抜く忍耐力がある。もちろんある程度の脳の性能がともなわなければならないにしても、それは飛び抜けたものである必要はなく、そこそこ平均的なもの以上であればかまわない。ただし、特性としては持続力、持久力、記憶力、計算力などに強みがある方が好ましい。そしてそういった特性は、中学受験への長距離走の中で学習塾がふるい分けるものだ。それに当てはまらない生徒を容赦なくふるい落とすのが学習塾だ。

だからこそ、世間からの評価を上げることにやっきな中堅私立中高一貫校の多くは、学習塾の価値観をそのまま受け入れる。学習塾を自らに好ましい生徒の選別機関として活用しようとする。その際に、入試問題は生徒のもつイマジネーションやインスピレーション、ロジックやクリエイティビティを測定するものであってはならず、むしろ、学習塾でどれだけがんばったかだけを評価できるものでなければならない。その尺度として伝統的で旧弊な中学入試の枠組みは、それがほぼ無意味であるがゆえに利用しやすい。それはもう、どれだけ学習塾式の教育に順応できたかどうかを測る尺度でしかなくなっているからだ。

 

けれど、だからこそ私は私立教育機関の関係者に問いたい。あなた方が求めている生徒像はほんとうにそういうものなのですかと。

多様性が求められる時代にあって

私の教える中高一貫校の生徒の多くは、学校の指導方法にうまく馴染めなくなっていった生徒たちだ。彼らのほとんどは、学校が指示する膨大な課題、宿題の量に圧倒されている。彼らは中学に入ったその日から、大学入試を目指して地道な積み上げの作業に従事させられる。実に細分化された知識をこれでもかというほどの反復によって確実に自分のものにするように訓練される。多くの生徒は中学受験への道程を通じてそういう作業に慣れっこになっているから、それが勉強というものだと素直に受け入れる。けれど、人間は成長する。成長の過程で、さまざまに疑問をもつ。また、長期間の作業に倦み疲れる。同じことをやっても能率の上がらない日がやってくる。そして、精緻に組み上げられた受験への階梯は、少し目をそらしただけで次の一歩が踏み出せなくなる。成績が下がって、家庭教師にSOSを求めることになる。

そうやって出会った生徒のほとんどは、素晴らしい資質を持った人々だ(だからときどき私は、あんなひどい入試制度でもやっぱり人物を選別する多少の機能はあるのかもしれないという気持ちにもなったりする)。ただ、彼らはその豊かな才能を反復しなければならない課題の量に押しつぶされそうになっている。そして哀しいのは、彼らがその置かれた状況を「勉強のやり方がわかっていない」「時間の使い方が下手くそだ」「問題の解き方を知らない」というふうにしか捉えることができておらず、そもそも自分が受けている教育がどういうものであるのかが見えない場所に追い立てられているということなのだ。自分が点取りゲーム上達のための技術を習得しようとしているのだということに気づかず、それこそが唯一無二の「勉強」であると思っている。だから彼らは、家庭教師からも宿題を期待する。そりゃ、私だってそれが実行可能なら宿題のひとつやふたつ、出さないでもない。けれど、無理だろう、それ。学校からの課題も十分にこなす時間がないのに、どうやって家庭教師の宿題をやる? 睡眠時間を減らしますったって、まずあんたがやらなければならいのは十分な睡眠時間の確保だろうと、思う。そして、睡眠時間を削らなければ消化できないほどの課題を生徒に出して平気な学校のやり方に腹を立てる。それができなければ、「あなたは時間の使い方が下手だ、効果的な勉強ができない」とひとのせいにする教師に怒りを覚える。

だが、学校の教師に多くを求めるべきではないのかもしれない。彼らのほとんどは、点取りゲームの必勝法を「勉強」だと信じて子ども時代を過ごしてきて、そしてそこに勝ち残った人々なのだ。私のように実質受験勉強ゼロで大学に進学したような裏道を通ってきた人々は、ハナから教師なんかにはならない。「いまの自分は子どもの頃の頑張りのおかげだ」と信じている人は、やはり子どもたちに頑張りを求めるだろう。それが幸福への唯一の道であると思うからだ。私はそうではない。

だから、私は子どもたちに、思う存分に寝ることを基本として求める。適切な運動も必要だ。アタマはカラダの一部分でしかない。そのうえで、興味関心のあることに好きなだけ打ち込むことを勧める。勉強なんて、その空き時間でやればいい。大人を安心させることは、子ども時代を幸福に過ごす上で重要なポイントだ。だから、大人が不安にならない程度に勉強している姿を見せるのはたいせつだ。学校教師だって、機嫌を損ねてトクをすることはない。だから学校教師が喜ぶようなこともしてやろう。そのためには宿題なんかも、できるだけ労力をかけずに形を整えてやればいい。その方法なら知っている。時間の有効な使い方とか効率的な勉強の仕方なんて、この世の中にはない(なぜなら、もしあったとしたらそれがスタンダードになっているはずだから)。そうではなく、自分が何をやりたくて、何をやろうとしていて、そして何をやっているのかに意識を向けることだ。そうすれば、自ずと落ち着くところに落ち着いていく。もしもそれでうまくいかないのなら、そのときには小さなアドバイスをすることはできる。5分で解ける数学の問題に15分かかるのなら、まずは1時間かけてそこを整理してあげよう。そうすれば、以後はそんなに苦労をしなくて済むから。

私はそんなスタンスで子どもたちに接している。そして不思議なことに、「家庭教師を始めてからウチの子は前よりも勉強するようになりました」とか、「集中力が高まったみたいです」とか、こっちが何も手を付けてないことでご家庭から評価をいただく。そしてお約束のように、自分が教えたのではない教科の成績が伸び始める。これは自己嫌悪になるほどのパターンなのだけれど、たとえば私が数学を教えたら社会科の成績が伸び、英語を教えたら理科の成績が伸びる、みたいなことばかり起こる。けれど、子どもも家庭もそれでハッピーだ。それがいちばんだと思う。そしていったんプレッシャーが除かれると、抑えつけられていた生徒一人ひとりの特徴がゆっくりと花開いていく。

そういう変化は、家庭教師という触媒を通して、子どもが自分の立ち位置を客観的に捉えることができるようになって起こるのではないかと思う。さらに、それまでは「やらなきゃいけない、怠けてはいけない」と強迫的な思い込みがあったところから解放されることで余裕が生まれ、じっくりと考える時間ができることで起こるのではないかと思う。状況を客観的に把握して深く考えることは、批判的な思考につながる。いわゆるクリティカル・シンキングである。なぜだか日本ではこの言葉は好まれずロジカル・シンキングという言葉で置き換えられるのだが、論理的思考と言おうが批判的な思考と言おうが、同じことだ。批判は論理的でなければならず、また論理を展開する上では必ずそこに破綻がないかを批判的に考えていかなければならない。そして、そういった論理的思考は、実に学習指導要領が求めているものでもある。公的に合意された教育目標なのだ。だからこそ、それを育むことは点取りゲームの必勝法を習得するよりも重要であり、そのためには「ひたすら反復することこそ勉強だ」的な思い込みを子どもたちから取り除いてやらなければならない。

それを最も阻害しているもののひとつが、中学受験の現在の仕組みではないだろうか。私立中高一貫校の競争は、決して進学実績がすべてではない。視野を広める海外研修であったりボランティアなどを通じた社会との関わり方であったりスポーツを通じた身体の育成であったりと、より幅広い活動の中で評価を受ける。もっといえば、「制服がかわいい」とか、「駅で見かける生徒の態度が悪い」とか、どうでもいいようなことが評価を左右したりもする。そしてこの多様性の時代、さまざまな長所を備えたさまざまな生徒が在籍することが、生徒同士の刺激にもなり、また世間からの評価を上げることにもつながるだろう。

だからこそ、多様な教育を確保する上で欠かせない存在である私立教育機関においては、生徒の多様性を花開かせるような教育をしてほしいし、画一的に育てられた生徒を選抜するような現在の入試選考方法を改めてほしい。便利だからと伝統的な方法に寄りかかり、それが進学実績をつくりあげるからと予備校的な教育に傾斜するのは、本質的な意味で公教育に求められているゴールと乖離したものであると意識してほしい。そうではなく、私立であることのアドバンテージを最大限に活かすためにはどういう生徒がほしいのかを改めて意識してほしい。それは決して、無意味なことであっても頑張ったことだけが成果につながる作業にいそしむ生徒ではないはずだ。

中学受験で扱われるさまざまなエレガントな技法は、もしもそれが批判的思考を発展させるためのツールとして自由に使われるのであれば、あるいは役に立つかもしれない。けれど、現在行われているカリキュラム設計の中では、それは中学教育、高校教育のどこにも接続しない。だからこそ、中学、高校で改めて大学受験を最終目標とした受験勉強をスタートしたとたん、忘れ去られる運命にある。結局、中学入試での得点は、「何を知っているか、何ができるか」を見分けるためにではなく、「どれだけ耐えられるか、どれだけ従うか」を判定するためのツールとして使われてしまっている。それはあまりに情けない。

だからこそ、私は、「中学受験は、そろそろ根本的に変わったほうがいい」と思う。伝統芸能なんてクソ食らえだ。宗匠を食わせるために多くの子どもたちが愚にもつかないことをさせられるのは、ほんと、不幸でしかないと思うよ。

雷は巨大な電気 - 命があってよかった

雷に打たれたことがあるひとは、それほど多くないだろう。私はその数少ないひとりだ。もっとも、正確には直撃ではない。そうであれば生きてこんなところでのんびりとブログなんかは書いていないはずだ。おそらく数十メートル離れた場所に落ちた。そして、そのショックを体感した。あれは怖ろしい経験だった。ほんの少し間違っていれば、あっさりと死んでいただろう。そのぐらいの至近距離だった。

あれは私が学生時代、山岳部員として剱岳周辺のいろんなルートを試みていた夏山のことだった。午前中よかった天気が、午後から急速に崩れた。夏山ではよくあることだ。小窓の王と呼ばれる岩峰を回り込んだあたりで雨が降り始め、遠雷が聞こえてきた。2人の後輩(といいながら年齢はほとんど変わらない最も信頼する山仲間)と3人で行動していたのだが、「これはマズいよね」と、這松の間に岩の窪みを見つけ、そこに姿勢を低くして嵐をやり過ごすことにした。

雷は金属に落ちる。だから、金属を身から離すのは基本なのだが、実際には濡れた岩は金属並みに電気を呼ぶので、そこまでの効果はないと言われている。むしろ重要なのは身を低く保つことだ。雷は、少しでも高いところがあればそこに落ちる。だから、地面に這いつくばるようにして身を低くするのがいいと言われている。岩の窪みを探したのは、そういう基本に忠実に従ったからだ。

実際、それがよかったのだと思う。というのは、間もなくして、至近距離に雷が落ち始めた。光ってから3秒、2秒と刻々と近づいてくる。1秒。おそらく岩峰の上に落ちているのだろう。と思った次の瞬間、身体が宙に浮いた。私は後輩が一緒に身をかがめているはずの背後を振り返った。

「なにするねん!」

背中を蹴飛ばされたと思ったのだ。ところが、後輩の顔を見て言葉を飲み込んだ。彼もわけがわからない顔をしている。そして私はようやく悟った。すぐ近くの岩の上に落雷があった。そして、地表面を大電流が流れた。電流は電子の流れだ。電子のクーロン力で、私の身体は宙に浮いた。電気ショックで、私は背中を蹴飛ばされたように感じた。そういうことなのだ。もうひとりの後輩は、その瞬間に光を見たと言っていた。人間と地面の間に火花が飛んだのかもしれない。

 

夏山での雷は初めてではなかった。というよりも、私は「カミナリ男」と異名がつくぐらい、1年生のときから雷には祟られていた。4年生のその夏になるまで、夏山だけでなく、季節を問わず、私が入山すると雷が鳴ると言われたものだ。だが、こんなふうに電気ショックを感じたのはこのときが初めてだった。

地面を流れる雷の余波の電流だけで、あれだけのショックがある。こりゃあ、直撃したら命がないのももっともだと青ざめた。そうはいいながら、いまさら逃げ場もない。雷が通り過ぎるのを祈るような気持ちで待った。あれはほんとに怖かった。

 

以上、オチも何もない、思い出話。

子どもの世界は安全になったのか - 子どもの目に映る世界

昭和の子どもの世界は非常に危険だった。直接的な危害だけでも、私の記憶の中には「あれは本当に危なかった」というのがいくつかある。たとえば、当時、宅地化が進みつつあった私の家の近所には、(子どもの目からみて)広大なジャンクヤードがあった。廃物の家財道具や電化製品、廃車に至るまでのありとあらゆるガラクタ類がうず高く積み上げて放置してあったのである。もちろんまったく放置されていたわけではなく、そこに廃品を持ち込む業者や、そこから廃品を運び出していく業者が出入りしていた。けれど、常駐の管理人などはおらず、周囲との境界も曖昧で、子どもたちが勝手に出入りする遊び場となっていた。そしてひどく危険な場所であった。たとえば、当時の冷蔵庫は外側からノブを引かなければ開かない構造になっていたのだが、その冷蔵庫の中に子どもが隠れるぐらいのスペースはあった。結果として、冷蔵庫内への子どもの閉じ込めによる死亡事故が多発していた(さらにその結果として、冷蔵庫の扉はわずかな力で開閉できるように改良された)。私自身、そんな放置された冷蔵庫の中に入って遊んだことがある。外からロックされてたらあっさりと死んでいただろう。

もっと危なかったのは、廃車の中に閉じ込められ、火をかけられた経験だ。近所の悪ガキと遊んでいて、廃車の中に入ったら、外から閉じ込められてしまった。夏の暑い日だったから、それだけでも熱射病で死にかねないイタズラだ。こっちも危ないのはわかるから、「出してくれ!」と泣きわめく。たぶん、外から重いものでバリケードにしていたんじゃないかと思う。だが、ガキどもはおもしろがって出してくれない。それどころか、こともあろうに、その廃車の脇で焚き火をはじめた。いまでは信じられないだろうが、喫煙者が幅を利かせていた当時マッチはどこにでも転がっていて、小さな子どもが火遊びをすることぐらいは珍しくなかった(当然、火事も起こった)。ゴムの焦げるにおいのする煙が車内に充満して、冗談じゃなく「あ、ここで死ぬんだな」と思った。炎がチラチラと見えて絶体絶命と思ったときに、さすがにバリケードは外された。苦しみながら転がり出た姿が想像以上にひどかったのだろう。それまで笑い転げていた悪ガキどもは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。私は大泣きに泣きながら家に帰った。何があったかは一言も喋らなかった。

そのジャンクヤード以外にも、危険な場所はいくらでもあった。田んぼには野ツボとかドツボと呼ばれる肥溜めがあって、そこにハマったら死ぬと言われていた。もとより糞まみれで死にたいやつなどいないからふつうは近寄らないのだけれど、宅地への転用が進む荒れ果てた田んぼには隠された落とし穴のようなドツボが残されていて油断がならなかった(だから「ツボにはまって笑う」神経が私にはわからない)。その一方で公害問題が注目されるようになった時代で、川は汚れきっていた。河原に降り立つとヘドロが水面を覆っている場所があって、そこは陸地と見分けがつかない。そんな場所にうっかり足を踏み入れて私の目の前で溺れかけた友だちもいた。あるいは、開発が進行する時代で、いたる所に危険な工事現場があった。いま思い出しても肝が冷えるのは、工事中の橋桁に柵を乗り越えて入ってその桁の上で遊んだことだ。コンクリートの河床まで10メートルぐらいの高さがあったから、落ちたらよくて骨折、下手すれば即死の遊び場だった。あんなアホなことをよくやったもんだと思う。

 

いまは、そんな危険な場所はめっきりと減った。たとえ危険な場所があっても、大人の管理が厳しく、子どもたちはそこに近づけない。けっこうなことだと思う。子どもの命が失われるのは悲しいし、傷を背負わせて人生を歩ませるのも親としてはいたたまれない。昔はよかった式の話をするつもりは毛頭ない。あれはひどい時代だったと思う。

いまの子どもたちは、真綿にくるまれたようにたいせつに育てられる。それは正しいことだと思う。だから根性がないみたいな話には、困難に打ちひしがれたひとには新たな困難に耐える力が残されていないことが多いという観察でもって反論しよう。危険を経験させるメリットがないとはいわないが、それと危険によるダメージを総合的に計算したら、多くの場合、危険を回避することのほうがずっと合理的であるはずだ。

ただ、そういうことを前提にして、私が思うのは、いまの子どもたち、決して大人が思うほど安全な世界に生きてはいないのだということだ。確かに客観的に見て危険は大幅に減少した。それでも、当事者である子どもの目から見れば、世界は相変わらず危険に満ちている。大人は気がつかないが、どうやらそういうことになっている。

それを知ったのは、息子と話していてのことだ。ウチの息子、もう高校3年でほとんど大人だから、親としてはもう子育ては終了という感覚だし、彼の方も子ども時代を遠くに見るような感覚でしゃべる。その彼が、「あのときは死ぬかと思った」という経験を話すのだ。それも私が知らない場面、たとえば道路脇で車にはねられそうになったこととか、キャンプに行ったときに滝で溺れそうになったこととか、本人しか知らないことばかりだ。

息子は、親がかなり年を食ってからできたたったひとりの子どもということもあって、たいせつに育ててきた。「箱入り息子」を公言して、意識的に過保護なぐらいに扱ってきたつもりだ。危険なことには近寄らせないし、本人も親がやかましくいうものだから、あえて危険には近寄らない。生まれもっての臆病な性格でもある。ところがその息子でさえ、親の知らないところで交通事故や溺死に近い経験をしているのである。

もちろん、それは本人の思い込みだけで、実際にはそこまで危ない局面ではなかったのかもしれない。けれど、そういうことを言い出したら、私のジャンクヤードでの体験だって、本当はそこまで切羽詰まってはいなかったのかもしれない。生死を分かつ経験は、実際には客観的な評価とはまったく独立して、本人の主観に依存する。経験している本人が、「あ、ヤバイ、死ぬかもしれない」と思う感覚は、嘘でも偽りでもない。そして、時代がどれほど安全になろうと、そういう感覚を覚える瞬間はだれにでもある。なぜなら人間は必ず死ぬものとして運命づけられているのだし、実際、案外にしぶとい一面を持っているくせに、驚くほどもろく、ときにあっさりと死んでしまう生き物であるからだ。

 

そして、考えてみれば、子どもにとって、この世界が未知の不安で満たされたものであるという事実は、世の中がどう変わろうと同じことなのだ。成長とは、そういう未知の世界に一歩を踏み出していくことである。その未知の世界には、それまで出会ったことのない喜びや発見がある半面、危険もまた同時にふつうに存在する。それを確かめながら、ひとは世界についての感覚をつかんでいく。

だから思うのだ。この緩衝材とクッションで厳重梱包された段ボール箱並みに危険から守られた世界にあっても、やはり子どもたちは危機を乗り越えながら成長していくのだろうと。そして、何十年かの後には、「おれが子どもの頃はあんな危ないことがあった、こんな危険があった」みたいな昔話をするのだろうなと。

 

 

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こんなブログ記事を読んで感じたことを書いた。

p-shirokuma.hatenadiary.com

"本当は正しくない『となりのトトロ』"が、受け入れられている - シロクマの屑籠

「生活作文」の気楽な書き方 - 昨夜のアドバイスをもとに

コロナのおかげでどうなるのかと興味深く(失礼!)見ていたのだが、どうやら私の観測範囲では、学校の夏休みの宿題はいずれも例年に比べて少なくなっているようだ。そりゃそうだろうと思う。夏休みは短いし、その短い夏休みに補習を実施するところも少なくない。実質的に休めないのに、例年通りの課題を出すなんてむちゃは、さすがに人間としてできないのだろう。いいことだ。

特に私が評価したいのは、ドリル系の課題が大幅に減っていることだ。あんなもの、子どもたちの成長にとってロクに役に立たない。問題を解くことが役に立たないと言っているのではない。どうしたってやっつけ仕事にならざるを得ない「夏休みの宿題」としてやらせることが役に立たないと言いたいわけだ。ああいった練習問題は、じっくりと時間をかけて、あれこれ悩んで答えにたどり着いてこそ、思考力の訓練になる。それが心浮き立つ夏休みなんかにできるわけがなかろうと、そのぐらいのことを教師は考えもしない。

その一方で、作文や自由研究系の課題は例年に変わらず出題されていることが多い。自由提出になっていたり、課題の量が減らされている場合もあるが、それでも印象としてはドリル系よりも例年に近い。これはこれでOKなことだと思う。こういった課題は、教師が適切に指導してやりさえすれば、子どもの成長に役立つだろう。ま、指導が適切かどうかというのには疑問が残るけれど。

ちなみに、自由研究に関しては、子どもと侮れない素晴らしい研究が生まれることも現実にあるのだけれど、大多数の生徒にそれはあてはまらない。だから、ここで重要なのは研究のテーマではない。そうではなく、研究の内容をきっちりと伝えるレポートの書き方が評価対象になっている。それをしっかりと伝えることが教師の役割だ。テーマは使い古されたものやとるに足らないものでもかまわない。その目的、方法、結果、考察をきっちりとまとめあげることができれば評価は高い。いや、今日の話は作文の方だった。

 

昨日のことだ。オンラインで中学生と話していて、「夏休みの宿題はどう?」と尋ねたら、「生活作文に困ってます」とのことだった。「寝てる間と学校に行ってる間のこと以外なら何でもいいっていうんですけど、それ以外の時間に特に面白いことがあるわけでもないし、受験生だから勉強しかしてないし、書くことがないんです」とのこと。ああ、これは一言必要だなと思ったんで軽くアドバイスしたらずいぶん喜んでくれた。なので、それをシェアしておこうということ。たいした話ではない。

 

まず、作文では、「おもしろいことを書こう」とか、絶対に思わないことだ。そんんな面白いネタがそこらに転がっているわけはない。感動的な体験をする確率だって、ずいぶんと低いはずだ。珍しいこと、印象的な事件もそうそう起こるものではない。もちろん、そういう素材があるひとは、素直にそれを書けばいい。けれど、自由研究と同じで、ほとんどの人はそんなに恵まれていない。周囲を見渡せば、何の変哲もない、見飽きた日常ばかりだろう。

だから、発想を変える。できるだけつまらないことを書くことにする。つまらなければつまらないほどいい。たとえば、晩ごはんのおかず。茄子の田楽とか、麻婆豆腐とか、およそ代わり映えのしないものがそこにあるはずだ。それを書く。

ただし、「今晩のおかずは冷凍餃子でした」だけでは話にならない。だから、さらにもっと、つまらないことをつけ加えていく。その冷凍餃子はどこでだれが買ったのか、どのくらいの頻度で出るのか、具は多いのか少ないのか、ラー油をつけるのかつけないのか、家族のなかでだれがいちばん食べるのか、などなど、およそだれも知りたくないだろうどうでもいいことをどんどん書いていく。できるだけ、「こんなことは書いても仕方ない」と思えることを掘り出して書くようにする。そうすると、どんどん文字数は稼げる。

それでもうまく筆が進まないときには、できるだけネガティブなことを書く。人間、満足しているときはあまり言葉が出ないものだが、不平不満になるといくらでも出てくるものだ。「なんで毎日茄子ばっかり出るんだ」とか「田楽は嫌いだ。特にあの味噌の甘ったるいところが嫌だ」とか、文句を書き出したらけっこうな量が書ける。某匿名日記とか見たら、ネガティブな書き込みばかり見つかるはずだ。よくもまああんなに書けるよと感心する。人間は不平不満を原動力に生きているといってもいい。それを作文に応用する。

「それでも3枚もあるんですよ!」と、分量が気になるかもしれない。実際には、上記の作戦で3枚どころか10枚だって軽く書けるだろうけど、そうは思えないかもしれない。その場合は、あらかじめ、ワードリストを用意しておく。たとえば食事について書こうと思うのなら、まずは食卓を見渡して、「醤油、ごま、ふりかけ、ごはん、ポテサラ、ウィンナー、謎の珍味、私の嫌いな漬物、親のビール、箸、台ふきん……」みたいに、見えるものを列挙していく。テーマが別なら、たとえば窓の外に見えるものをリストにしたり、駅までの道の途中に見えるものをどんどん書き出していく。30個ぐらいの単語のリストが用意できれば無敵だ。その上で、話題に詰まったら、段落を変え、そのリストの単語を拾ってきて、書く。その単語の下に続けてまた、「つまらないこと」や「不平不満」を書き始めれば、そこからまたしばらくは続けていけるはずだ。

そんな急な話題転換は不自然ではないかと思うかもしれないが、読んでいる方からすれば案外と違和感はないものだ。どうしても気になるなら、最後の段落で回収する。「こんなこと、あんなことがありましたけれど、私は元気です」みたいに、最後のまとめですべてのエピソードに言及しておく。そうすれば、なんとなく「ああ、そういうことね」と意味もなく納得するのが人間なのだ。

 

どうだろう? 少なくとも私の生徒は、こんなアドバイスに納得してくれた。「それならできる」と思ってくれた。「つまらないこと」「不平不満」「ワードリスト」が、キーポイントだ。「なんなんだそれ?」と思うかもしれない。けれど、実は、これはもっと、もっともらしい言葉に置き換えることができる。

「生活者の多くは、ふだん自分の生活を意識していないが、見落としている日常の中に重要なことが隠されている。小さなことに着目すると、気がつかなかった発見がある。そして、そこに批判的な視点を持ち込むことで、日常の中に新たな展開を創り出すことができる。そのためには、目にするものを客観的に記録していくことが重要なのだ。」

こんなふうに書いたらどうだろう。私のアドバイスは、それほどアホっぽく見えなくなるはずだ。

とはいいながら、夏休みの宿題がアホっぽいという大前提はもうどうしようもない。だから、こういうのはサッサと片付けてしまうに限る。つまらないことで苦しむのは馬鹿らしい。教師は、生徒が苦しまないようにすることを最優先にすべきなんだと思うよ。

暗算のヒント - 人間の頭の構造は人それぞれだけど

何年か前、「ズルい算数」という本を書こうと思ったことがある。暗算を中心に、主に四則演算の計算方法について、実用的な方法をまとめておこうと思ったのだ。出版のアテがあったわけではない。書けたらオンデマンド印刷でもやって生徒に配ろうと思っていた。実際、書きかけのものをプリントアウトして生徒に渡したこともある。ずいぶんと不評だった。難しすぎるという。まだまだ修行が足らんわと思って、続きを書く手が止まった。それ以来放置してある。

暗算は、一応、小学校の算数のカリキュラムの中には組みこまれている。けれど、学校ではこの技法を推奨しない。面倒でも筆算をしなさい、そのほうが正確だからというのが、多くの学校教師の立場だ。だが、私の経験上、実際には筆算だから正確ということはない。要は、人間はまちがえる生物なのだ。どんな方法をとっても必ずまちがえる。だから、要点は2つ。まず、必ずまちがえることを前提に、まちがえが多発する操作は避けること。もうひとつは、自分は必ずまちがえると心得て、じゃあ、一旦まちがえたときにどうやって被害を最小限にとどめるかを考えることだ。この2点に留意すると、暗算の価値がぐっと上がることになる。ちなみに、小学校算数の教科書を素直に読めば、そういうことが前提なんだなあと思える箇所がいくつもある。決して私のオリジナルな説ではないと思う。

 

さて、まずは、四則演算において、まちがえが多発する操作はどういうものかということだ。長いこと生徒を観察してきて、ごくシンプルな事実に気がついた。まず、人は、1桁と1桁の計算はほとんどまちがえない(割り算は除く)。加減の計算も掛け算も、2つの数を扱うわけだが、両方が1桁のときはまずまちがえない。これは、組み合わせが少ないから、自然におぼえてしまうからだろう。掛け算に関しては、九九という呪文で強制的におぼえてしまう。だから、ある程度の練習を積んだあとでは、ほぼ百%の正答率が得られる。

次に、2桁と1桁の加減乗算は、あまりまちがえない。慎重にやりさえすれば、ほぼまちがえないといってもいい。だから、ここまでは安全圏だといえる。

ところが、2桁と2桁の加減乗算は、けっこうな確率でまちがえる。そして、3桁と2桁とか、3桁と3桁の計算は、たとえ筆算でていねいに処理しても、手計算であれば無視できない確率で、どこかでまちがいが発生する。確かにドリルをやったら90点以上はとれるだろう。けれど、たとえば100題解いたら1題まちがえるようなときには、計算ドリルなら「満点、合格!」と言えるのだが、実用的には信頼性が著しく低いといっていい。特に、シーケンシャルに計算が続く大問だと、途中のどこかで1回まちがえるだけで答えが合わなくなる。

だから、手計算で解かなければならない計算問題が発生したら(そして日本の教育課程は何故か手計算にこだわって、電子機器を使わせない)、まずはその計算を可能な限り「1桁と1桁の計算」に落とし込むことだ。実際、筆算は、そういうことをシステマティックに実行する手法だ。だが、残念なことに、筆算がそういう仕組みだと意識して計算している人は少ない。筆算の導入時にその仕組みは学習するけど、小学生にはなかなか理解できない。結果として、ブラックボックス化した自動処理として筆算は「身体で覚える」よう指導される。それはそれで関数的な発想でわるくはないのだけれど、もったいないなあと思う。筆算の原理は、中学校ぐらいで復習しておくべきだと思う。そうすれば、計算間違いがぐっと減るはずだ。まあ、グチはこのぐらいにしておこう。

もう1点のポイント、「まちがえても被害を最小限にする」は、どうやってまちがいを発見するかということでもある。つまり、検算方法だ。そして、小学校ではこの有効な方法をカリキュラム的には組み込んでいるのに、積極的に推奨しない。なぜなのかわからない。

検算をやるのに、「もう一回やる」のは、まったく合理的ではない。もしもまちがいが発生したのなら、同じところで同じまちがいが発生するリスクが非常に高く、結局、まちがいを発見できないからだ。人間の頭の構造はそうなっている。同じ失敗は、同じところで発生しやすい。だから、同じことをやったのでは検算にならない。

じゃあ、別の方法として何があるかといえば、概算とサンプリングだ。たとえば3桁×3桁の計算は、上述のように非常にまちがいが発生しやすい。このとき、致命的になるのは桁違いの計算結果が出ることだ。だから、頭1桁にまるめて計算をして、その概算結果と見比べる。そうすれば、桁違いの計算まちがいはすぐに発見できる。これで致命的な部分は回避できる。

それでも、細かいところが違っていれば、やはりマズい。そういうときには、たとえば最後の1桁に注目する。末尾1桁同士の計算結果のさらに末尾1桁は、必ず答えの末尾1桁になっているはずだ。そこが確認できたら、まあ、大きな勘違いはしていないだろうと推測できる。もしもそれで不安なら、別のサンプリングをすればいい。

 

以上、計算を実行するときの原則を2つあげた。重要なことなので、改めて箇条書きにする。

  • 一度に計算する演算桁数を極力下げること。
  • 概算とサンプリングでチェックを実行すること。

これだけで、計算の精度は、手計算であっても実用的になる。そして、これでようやく、暗算に関する大前提がそろったことになる。やれやれ、そりゃ、小学生にこの説明は、たいへんだよなあ。

 

さて、暗算の細かいテクニックだが、これは単純な訓練からスタートする。といっても、ソロバン式の暗算ではない。私にとって、あれは謎だ。なんで頭の中にソロバンをイメージするだけで暗算できるのかわからない。ほんと、人間の頭の構造は人それぞれなんだなあと思う。

 

最初の訓練は、これは実は小学校1年の算数で既にできている。「いくつといくつで10」というやつだ。理屈に深入りすると面倒なのだけれど、現代の算術は10進法でものごとを考える。ということは、目の前に数があったとき、「それを10のカタマリにするにはどうすればいい?」と考えるべきなのだ。だから、小学校1年では、任意の1桁の数を提示して、「あといくつで10になる?」という訓練を実施する。これができてはじめて、繰り上がり、繰り下がりができるようになる。

そして、実用的に、これはもっと上の桁まで拡張できる。つまり、2桁の数を見て、「あといくつで100になる?」という訓練だ。そんなものができるのかと思うかもしれないが、やってみればかんたんだ。なんなら3桁にまで拡張して、「この数にあといくつで1000になる?」もできる。というか、多くのひとは、買い物をする際に、無意識にこれをやっている。たとえば、レジで458円を払うとき、無意識に多くのひとが千円札を出す。そして「ああ、おつりは542円だな」と思うだろう。思わないかもしれない。私は思うし、確認してみたらそういう人は他にも結構いる。そう思わない人もいるだろうけれど、ここは訓練ですぐに到達できる。ちょっとやってみるといい。

これができると、桁数の多い加減算が非常に楽になる。たとえば3桁の足し算なら、2つの数の最初の数を見て、「あといくつで1000だな」と思ったら、それに見合った数がもう一方の数にあるかどうかをみる。なければ答えは1000より小さいし、あったら、その数を減らして1000に加えればいい。つまり、繰り上がりを3桁まとめて実行できるようになる。

これは、「演算の桁数を下げる」という原則と矛盾するように思えるかもしれない。けれど、3桁をまとめて1桁のように扱うことで、実質的に演算の桁数を下げることになっている。実際、こういうふうに数を扱うと、暗算でも計算まちがいがほぼなくなってくる。

 

次の訓練は、「2倍」と「半分」だ。どんな数でも、つねに2倍と半分は一瞬で出せるように訓練する。やってみるとこれも意外にかんたんだということがわかる。まず2倍は、同じ数を足せばいいだけだ。九九を使うよりも、そのほうが早くて正確だ。この際、上記の「いくつといくつで10、100、1000」の訓練を積んでいると、より正確さとスピードが上がる。しばらく練習すると、2倍は一瞬でできるようになる。

「半分」の方は、少し難しい。私の場合、これは図形的なイメージを使っている。ただ、人間の頭の構造は人それぞれなので、あえて私の方法は示さない。半分に分ける計算も、訓練によってどんな数でも一瞬でできるようになる。

さて、これができると、実は九九なんかはおぼえなくても掛け算・割り算の大半ができるようになる。なぜなら、半分にすることは、5をかけて桁を1つ下げることと等価だからだ。すなわち、

    ×5=×10×1/2

だからだ。同様に、2倍することは、5で割って桁を1つあげることと等価になる。こうすると、5倍するのと5で割るのは、実は既に訓練済みとなる。

そして3倍は、2倍にさらに同じ数を足せばいい。4倍は、2倍を2回実行する。6倍は3倍してから2倍する。8倍は2倍を3回実行。9倍は3倍を2回実行すればいい。となると、7倍だけが厄介で、8倍から同じ数を引くか、6倍に同じ数をたすことになるけれど、実用的にそれはかなり危険だ(計算まちがいが発生しやすくなる)。だからここは、素直に7の段の掛け算を使ったほうがいい。

 

以上の基礎的なスキルを訓練するだけで、暗算は飛躍的に楽になる。だが、お楽しみはこれからだ。この2種類のスキルを組み合わせ、さらに演算法則を組み込むことで、相当なところまでは暗算で計算が実行可能になる。だが、それを書き出したら、やっぱり本1冊分になってしまう。

そして、ここで何よりも重要なのは、こういう工夫は、基本的に演算の実行を楽にしてくれるということだ。そして、ストレスの小さい方法では、計算まちがいの発生頻度が大きく下がる。つまり、「楽して正確」になる。そんなうまい話がと思うかもしれないが、楽をすることによって、より正確になるのは事実なのだ。何も進んで苦しむ必要はない。

ここに書いたようなことは、すべて、原理的には小学校の教科書に書いてある。ただ、それを実用的にやらせる訓練を小学校ではせず、教条的な筆算ばかり練習させる。あれも原理に戻って理解すれば悪くない方法なんだけど、原理よりも「慣れる、覚える」方を優先する。あれじゃあ子どもらがかわいそうだと思う。

ただ、そう思って子どもたちにこんなことを教えようとしても、たいていは拒否反応にあう。そこで思う。やっぱり、人間の頭の構造は人それぞれだなあと。ただ、その構造を秩序付けていくのは教育で、教育にもうちょっと柔軟な発想があればなあとも、残念に思ったりもする。

 

こんな増田記事を見たので、書いてみた。

anond.hatelabo.jp

暗算ってどうやったらできるようになるの

BlackLivesMatterは「黒人の命は大事」なのか?

合衆国を吹き荒れる#BlackLivesMatterの嵐は、けっして他人事ではない。現代社会がコロンブス以降のグローバル化の果に成立していることを思えば、そのなかで植民地支配の歴史と人種差別の歴史はすべての人々の生活に分かちがたく絡まり合っているといえる。だから、合衆国に依然として残る人種差別の問題は、世界にすむすべての人々の問題でもある。

ということはなにも私が言うまでもないことなのだが、この記事のタイトルを見て「?」となった。いや、誤訳じゃない。これはこれで正しいのだけれど、それでいいのか?と。

www.bbc.com

「黒人の命は大事」、ホワイトハウス前に巨大ペイント 米ワシントン - BBCニュース

議論があるにしても、「black」がかつてアフリカ大陸から暴力で連行された人々にルーツを持ち、一部その他の人々も含みながら現在も合衆国で差別されている人々を表す言葉であることは間違いない。そしてblackという言葉がかつて差別的に使用された経緯があるにせよ、その上でなおBlack is beautiful. と価値を逆転させる闘争なども経て、現在はポジティブにも中立にも使用されるようになっていることもまた事実だろう。その翻訳が適当なのかどうかにも議論はあるが、「黒人」も、かつて差別的に使用されていたことは事実だが、現代ではそこに新たな意味を加えられているのだと主張してもかまわない。だから「黒人の」という部分は、とりあえず批判するつもりはない。翻訳を業としてきた者として気になるのは、livesとmatterだ。

もちろん、livesはlifeの複数形であり、今回、無残にも警官に奪われた生命を含め、差別によって奪われてきた数多くの生命を表現内に含むことは間違いない。matterは、この場合は動詞であり、「重要である」という意味である。だから「黒人の命は大事」は、誤訳ではない。けれど、適切かどうかということで疑問が残る。あまりにも削ぎ落としてしまった部分が大きいのだ。

 

これは中高生に英語を教えるときの定番ネタなのだが、英和辞書をひくと概ねlifeには3つの意味が掲載されている。詳しい辞書だともっと多くの意味が載っているが、それらも概ね3つの概念から派生したものとして理解できる。その3つとは、「生命」「生活」「生涯」だ。日本語では、これら3つは独立している。だから、英文中にlifeが出てきて「日本語で表しなさい」という問題になったら(昔のように「和訳しなさい」という設問は最近は流行らなくなった)、どの概念が当てはまるかをよく考えて訳さなければならない。ここまでは、学校の授業でもやることだろう。

私はもう一歩踏み込む。日本語と英語では、ひとつの単語の表現する守備範囲がちがうのが普通だ。だから、ひとつの単語が別の単語に一対一対応することはめったにない(たまにはあるし、学術用語なんかだと強制的に対応させているが、それはまた別の話だ)。だから、lifeに「生命」「生活」「生涯」の3つの意味があると捉えるのは誤っている。そうではなく、lifeという単語は、1つの単語で日本語のこの3つの意味のすべてをカバーするような概念を表現しているのだと理解すべきだ。たとえば、いま、目の隅になにか小さく動くものが見えたとしよう。よく見ると蜘蛛が一匹、机の上を這っている。こんなふうに動くものは「生命」だろう。その蜘蛛は動いてなにをしているのかといえば、「生活」をしている。その生活の様子を最初から最後まで追いかければ、それは蜘蛛の「生涯」を見たことになる。つまり、lifeという単語は、生命体を、その時間軸、空間軸まで展開して把握した概念だ。本来3つに分解してしまえるものではない。けれど、文脈によってその本質的な部分(生命)が重要になる場合もあれば、空間・時間(短期)的な展開(生活)が重要になる場合もあれば、時間(長期)的な展開(生涯)が重要になる場合もある。それぞれの文脈によって訳し分けることで、日本語に移し替えることができる。けれど、それはlifeをそのまま移し替えたのではない。

こんな話を、もっと噛み砕いて生徒にする。なんでこんなマニアックなところまで踏み込むかと言うと、そもそも語学教育の目的のひとつが言語を相対的、客観的に見る態度を涵養することにあるからだ。おっと、こっちに踏み込むと長いからこれはこのぐらいで置いておこう。ともかくも、多くの単語がそうであるなかで、特にlifeは典型的に日本語とイコールで結びつけにくい概念だ。

さて、BlackLivesMatterの文脈では、lifeはもちろん一義的には「生命」であるのだけれど、それは日常的に差別される「生活」であることも劣らず重要だ。そしてその毎日の生活の積み重ねで成り立つ「生涯」であることも重要だ。たとえば生涯賃金の格差であるとか、それだってlifeで語られる。つまり、ここでのlifeは、大まかに分けた3つの概念のすべてを含むものである。

 

matterの方はどうか。これは「重要である」という概念とそれほど大きく守備範囲は外れない。ただ、この文脈であえてmatterを使ったのは、このmatterが(相当な部分は無意識に)否定形で用いられてきた歴史があるからだろう。It doesn't matter. は、「たいしたこっちゃない」という感じで日常的に用いられる。そりゃ警官の横暴で一市民が死んだのは事件かもしれないが、世界情勢や経済情勢に比べたら「どうってことないじゃないの」みたいな文脈で否定形で用いられる。それをひっくり返して、「いや、それこそが現代社会の根本的な問題なんだ」と主張するためにあえて用いられている単語のように思える。その場合、たしかに「大事」なのだけど、なんだかそれでは軽すぎるような気がする。

 

特に、「命が大事」と対にして用いると、「え?」と思うのだ。そりゃあ命は大事だろう。いまさら言うことか?みたいに感じられてしまう。そういう意味で、この翻訳はどうなんだろう? 

とはいいながら、じゃあどう訳すと言われたら、私にも名案はない。そういう案件が来なかったことにホッと胸をなでおろしながら、こんな文句をつけるぐらいだ。訳すのが気が進まないから、#BlackLivesMatterと、ハッシュタグ付きで逃げるんだろうな、きっと。

 

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【追記】

もうちょっとマニアックな話をすると、matterが動詞である一方で「大事」が形容動詞の語幹であるというところも、文の与えるイメージを変えてしまっている。ま、長くなるからこの辺の話はまた別の機会にしよう。

たねをとるのは自然権 - 種苗法に寄せて

種苗法改正を巡って、いろいろな人の声を聞くようになった。私は以前、自家採種に関する本の編集に携わったこともあって、この方面には決して無関心ではない。けれど、法制度に関してはその本の著者グループの間でさえ温度差があり、私のようなシロウトがあまり踏み込んではいかんのだろうという感覚もおぼえた。現行の制度を変えるべきかどうかはともかく、現行の制度でさえ、問題点がないわけではないことも理解できる。なので、改正するのであれば、それはきちんと有識者が議論して、正しい方向性で改正されるべきであり、そういうことであれば、いまさら私がどうこういうことでもなかろうと、近頃では距離をおいていた。

種苗法にかぎらず知的財産関連の制度では、それをタテにとったグローバル企業の世界戦略との関連性が必ずとりあげられる。細かい話をすると長くなるので一言で乱暴に端折ってしまうとそういう世界戦略は概ね人類にとって好ましいものではない。なので、基本的に警戒すべきはそういった業界の企みだ。そして、そういう認識は多くの人が共有している。だからまあ、私が不勉強なままでゴチャゴチャ言わなくても、適当なところでブレーキがかかるだろうとタカをくくっていたところもある。

けれど、種苗法に関するニュースについたブックマークのコメントを見ていて、ちょっと別種の危機感をもった。一方的にグローバル企業を悪者に想定して警戒しているだけでは足元をすくわれるぞ、と感じた。というのは、思いのほかに、一般の人々が農業の感覚を共有していないと気づいたからだ。種苗の問題は、最終的には食料問題としてすべてのひとにかかわることではあるが、第一には農家の問題である。だから、農業の感覚がなければその本質が理解できないだろう。そして、本質をはずした議論ほど、危険なものはない。

日本はもともと農で持ちたる国だ。社会のあり方としては長く、農業とその他の生業をうまく組み合わせることで成り立ってきた。前世紀の半ば頃までは農家が社会の半数を占めた。すべてを農業に依存するのではなく、商売や職人をしながら少しの田畑を耕作する複合的な生き方が社会の主流であった。非農家の人々も、そういう社会の中では農業から遠いところにはおらず、農業に対する基本的な理解は社会の中に共有されていた。都会の人々もその多くは根っこを田舎にもっていて、田畑がどのように管理されているのかをぼんやりとでもイメージできていた。都会と田舎という対立軸だけではなく、農に対する共通理解の基盤も同時にもつことができた。だからこそ、前提を共有した議論が成立した。しかし、規模拡大を偏重する農政が農業の産業化を進めた結果(それ自体は世界的潮流でもある)、生活の延長にある農という共通理解の基盤は失われ、逆に産業としての標準が農業に求められるようになった。そしてその立場から見れば、農業には理解できないところが多くあるだろう。それをそのままにして産業的な視点だけで農業の法制度を議論されたら、想定外の結論が出てしまいかねない。そんな危機感をおぼえた。

本来なら、そういった見当はずれの議論が行われないためには、もっと別の根本的な動きを起こさねばならないのだろう。けれど、そのような膨大な作業を行う時間も当面ない。なので、とりあえず、種苗関係のことだけ、それもごく部分的に、その前提を以下に書いておこうと思う。

 

たね(以下、種苗のことを「たね」と書く)は守られるべきものだ。これは農業の基本だ。なぜなら、年を超えてたねをつないでいかなければ、収穫は絶えてしまうからだ。農業とは、たねをもとに作物を増やすことである。そのためには、たねは守られねばならない。

たねを守る方法のひとつは、それを広めることだ。農家は伝統的にそういう手法をとってきた。たとえば、私の母は50年も前からピクルス用のキュウリのたねをとり続けてきたのだけれど、5、6年前だったか、彼女の夫の入院や不作などが重なって、たねとりができなかった。ピクルスを漬けたことがある人なら知っていると思うが、ふつうの生食用のキュウリは大きすぎてピクルス容器に収まらない。小さなキュウリがなるピクルス用のキュウリのたねは市販されているが、苦味が強く、家庭でうまく漬けるのがむずかしい。母が育ててきたたねは、大きさと味わいのバランスのとれた秘蔵のものだった。それが絶えてしまった。母は数年、市販のたねをいろいろ試したが、どうにも納得のいくピクルスが漬けられない。ところがある日、親戚の家に、かつて自分が育てたたねが残っているのを知った。ずいぶん前にレシピとともにおすそ分けしたたねを途切れずに育ててくれていたのだ。そこからたねを分けてもらって、懐かしの味を再現することができた。

このように、たねは広めることで守ることができる。だから農家は、本能的に、たねを分けることに寛容だ。これは、実際にたねをとってみれば理解できる。たとえば自家菜園用に育てているダイコンのたねをとるとしよう。ひと株のダイコンに花を咲かせたら、ふつう、来年播くのに必要な量の何倍ものたねがとれる。まして、良いたねをとろうと思ったら、ひと株ではいけない。複数の株を残して強いたねをとるのが農家の知恵だ。結果として、多くのたねが余る。そのたねは、ひとにもらってもらうしかない。そして、そうやってたねを広めることで、たねは守られる。

たねを守ることは、たねを進化させることでもある。栽培植物は、長い歴史の中で、農家による選抜によって姿を変えてきた。農家は小さな遺伝子の変化も見逃さず、人間にとって有利な方向に作物の形質を変えていく。ただ、その方向性は、育種する農家の指向性によって決まる。たとえば母のピクルス用キュウリにしたところで、ある意味、食品工業的に最適化された既存のピクルス用キュウリには不満であると感じたから、母がそれをベースに交配と選抜を繰り返して生まれたわけだ。方向性は無数にあり得る。多くのひとが、さまざまな環境でそれぞれの好みや都合で育種することで、作物は多様な方向に分散する。そうやって、野菜や果樹、穀物には無数の品種が生まれてきた。たねをシェアし、共有財産として守ってきたからこそ、そこに多様性が生まれてきた。たねはオープンなものとして公開され、そこに自由に改変を加えることでさらにオープンな世界がひろがっていく。これが、農業の基本として続いてきたし、これから先も続いていかなければならない。

しかしまた、たねを守ることには、別な方向性もあった。それは、外部からの略奪を防ぐということである。特に、日本では江戸時代以降、特産品に関して、そういう政策がとられるようになった。領内の特産品を他藩に奪われては経済的利益が失われる。門外不出の品種が生まれた。

その重要性は農民の側も理解していた。しかしまた、農民には古来からの「たねを広める」本能的な姿勢もあった。だからこの時代、禁制のたねを髪の毛の間に隠して密輸する話だとか、偶然に入手する僥倖であるとか、そういったさまざまなエピソードが生まれている。信州名物の野沢菜は、京都の名産の蕪をこっそりと持ち出したが気候風土の違いから葉っぱばかりが育ってしまった失敗作が起源だという話も伝わっている。知的財産の保護は、重要ではあるが、決して厳格には行われ得ない。そしてそこからこぼれていく部分や境界の曖昧な部分から新たな進化が生まれ、多様性が花開いていく。

 

たねは、必ず必要以上の量がとれる。きっちりと優良な系統をつないでいこうとするのであれば、必ずたねは大量にとれてしまう。そういった性質があるから、農村では「たねとり」をする農家と、それに依存する農家が生まれるのが必然であった。そういったたねとり農家が土着の種苗店やそこと契約する育種農家へと発展していった。重要なことは、もともと種苗店や育種農家が栽培農家でもあったという点である。自家採種に必要な量を超えて採取する部分が販売用となり、だんだんとその比重が大きくなっていった。しかし、採取の基本は、栽培農家としての視点である。それがあるからこそ、なにが優良でなにがそうでないかを判断できる。育種には、必ず栽培者としての観点が必要になる。やがて品種の多様化に伴って地域の種苗店も自家育成への依存を減らし、たねを仕入れて販売する比重が増えていった。それでもまだ、地方には、「このたねはウチだけしか扱えない」という秘蔵の品種をかかえた種苗店が存在する。そういうところでも、実際の育種はその種苗店と契約した育種農家がやっているのだけれど、育種の現場はたいていは同時に生産の現場でもある。伝統野菜はそんなふうにして守られてきた。

そういった種苗店を統合する形で発展してきたのが、大手種苗会社である。タキイやサカタといった大手種苗会社は、科学的な手法を育種に持ち込むことによって、より安定した形で各地で育成されたたねを育て、ひろめてきた。ただ、この規模になると、営業上の利益は守らねばならない。外国との攻防でも負けるわけにはいかない。そういったたたかいにおいては、知財を保護する法制度が武器として欠かせない。武器はもろ刃の剣でもあり、知財保護が過剰に働くと、伝統的な農家のたねをとる権利を制限してしまう。長い間ひとびとが実践してきたたねをとる行いを否定してしまう。多様性と持続性を損なってしまう。多国籍企業というモンスターに対抗するはずの国内種苗企業自身がモンスター化する危険性をはらんでしまう。かといって丸腰で戦えば勝ち目はないだろう。法制度が必要でありながら、なかなか「これでよし」という形にならないのには、そういった事情もある。

 

たねを巡る状況は、こんな簡単にまとめてしまえるほど単純ではない。たとえば、歴史的に、日本への多様な品種の移入(奈良時代室町時代、江戸時代、明治時代など、何度か大きな波があった)をみても、そこにはさまざまな興味深い要因がある。明治から昭和にかけて農業試験場が果たした役割は、語り尽くせないほどの大量のエピソードをもっているだろう。世界史に目を転じても、19世紀の帝国主義の時代の新品種探索と普及への情熱なんかは、現代的な感覚からは異様に感じられる。そしてなによりも、現場の農家のたねに対する感覚は実に多様だ。「自家採種こそ農業の醍醐味」と思う有機農家から、「プロやったらタキイのこのたねを、なんぼ高こついても買わんかったら売り物になる野菜はでけへんで」と誇りをもって語る施設園芸農家から、もう百人百様といっていい。そういう多様性こそが農業を支えているといえる。そしてさらに重要なことは、そういった立場や考え方が大きくちがう人々が、実は地域の同じコミュニティの住民であり、地域としては共通する仕事をともに担っているということだ。立場の違いを乗り越えて用水の管理に協力しなければ米もつくれない。それが農業というものだ。そして、そういった地域の集まりでは、立場の多様性を認め合いながら、それでも共通した話題で話し合うことができる。自家採種派であってもカタログにある種苗の優良な部分は認めることができるし、サカタの信奉者であっても自分のところの婆さんが昔からつないでいる里芋の煮物は好きだったりする。そういった複合する世界に生きているから、農家は多面的に物事を語ることができる。そういった曖昧さや「なあなあ」の感覚が気持ち悪いと感じることが、私にだってある。けれどそういう気持ち悪ささえ飲み込んでしまう懐の深さが、古来から続いてきたこの日本社会にはある。

 

だから、種苗法の改正には、そういった多様で、懐の深い議論がなされてほしいと思っている。そして、そういった複雑で微妙な世界を切り裂いていくような一方的な議論、競争に勝つことや経済的に有利になることや、そういった産業の理論だけで合理化された議論が進むことに、私は危機感を覚える。この感覚は、なかなか理解してもらえないだろうという気もする。それでも、それが持続的な日本社会をつくりあげてきた土台だと思うし、その上にのびていく未来であるとも思う。

そんなふうに振り返ってみると、やっぱり私はリベラルじゃないよなあとか、思ってしまう。いまだに自分がわからないよ。やれやれ。

 

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