たねをとるのは自然権 - 種苗法に寄せて

種苗法改正を巡って、いろいろな人の声を聞くようになった。私は以前、自家採種に関する本の編集に携わったこともあって、この方面には決して無関心ではない。けれど、法制度に関してはその本の著者グループの間でさえ温度差があり、私のようなシロウトがあまり踏み込んではいかんのだろうという感覚もおぼえた。現行の制度を変えるべきかどうかはともかく、現行の制度でさえ、問題点がないわけではないことも理解できる。なので、改正するのであれば、それはきちんと有識者が議論して、正しい方向性で改正されるべきであり、そういうことであれば、いまさら私がどうこういうことでもなかろうと、近頃では距離をおいていた。

種苗法にかぎらず知的財産関連の制度では、それをタテにとったグローバル企業の世界戦略との関連性が必ずとりあげられる。細かい話をすると長くなるので一言で乱暴に端折ってしまうとそういう世界戦略は概ね人類にとって好ましいものではない。なので、基本的に警戒すべきはそういった業界の企みだ。そして、そういう認識は多くの人が共有している。だからまあ、私が不勉強なままでゴチャゴチャ言わなくても、適当なところでブレーキがかかるだろうとタカをくくっていたところもある。

けれど、種苗法に関するニュースについたブックマークのコメントを見ていて、ちょっと別種の危機感をもった。一方的にグローバル企業を悪者に想定して警戒しているだけでは足元をすくわれるぞ、と感じた。というのは、思いのほかに、一般の人々が農業の感覚を共有していないと気づいたからだ。種苗の問題は、最終的には食料問題としてすべてのひとにかかわることではあるが、第一には農家の問題である。だから、農業の感覚がなければその本質が理解できないだろう。そして、本質をはずした議論ほど、危険なものはない。

日本はもともと農で持ちたる国だ。社会のあり方としては長く、農業とその他の生業をうまく組み合わせることで成り立ってきた。前世紀の半ば頃までは農家が社会の半数を占めた。すべてを農業に依存するのではなく、商売や職人をしながら少しの田畑を耕作する複合的な生き方が社会の主流であった。非農家の人々も、そういう社会の中では農業から遠いところにはおらず、農業に対する基本的な理解は社会の中に共有されていた。都会の人々もその多くは根っこを田舎にもっていて、田畑がどのように管理されているのかをぼんやりとでもイメージできていた。都会と田舎という対立軸だけではなく、農に対する共通理解の基盤も同時にもつことができた。だからこそ、前提を共有した議論が成立した。しかし、規模拡大を偏重する農政が農業の産業化を進めた結果(それ自体は世界的潮流でもある)、生活の延長にある農という共通理解の基盤は失われ、逆に産業としての標準が農業に求められるようになった。そしてその立場から見れば、農業には理解できないところが多くあるだろう。それをそのままにして産業的な視点だけで農業の法制度を議論されたら、想定外の結論が出てしまいかねない。そんな危機感をおぼえた。

本来なら、そういった見当はずれの議論が行われないためには、もっと別の根本的な動きを起こさねばならないのだろう。けれど、そのような膨大な作業を行う時間も当面ない。なので、とりあえず、種苗関係のことだけ、それもごく部分的に、その前提を以下に書いておこうと思う。

 

たね(以下、種苗のことを「たね」と書く)は守られるべきものだ。これは農業の基本だ。なぜなら、年を超えてたねをつないでいかなければ、収穫は絶えてしまうからだ。農業とは、たねをもとに作物を増やすことである。そのためには、たねは守られねばならない。

たねを守る方法のひとつは、それを広めることだ。農家は伝統的にそういう手法をとってきた。たとえば、私の母は50年も前からピクルス用のキュウリのたねをとり続けてきたのだけれど、5、6年前だったか、彼女の夫の入院や不作などが重なって、たねとりができなかった。ピクルスを漬けたことがある人なら知っていると思うが、ふつうの生食用のキュウリは大きすぎてピクルス容器に収まらない。小さなキュウリがなるピクルス用のキュウリのたねは市販されているが、苦味が強く、家庭でうまく漬けるのがむずかしい。母が育ててきたたねは、大きさと味わいのバランスのとれた秘蔵のものだった。それが絶えてしまった。母は数年、市販のたねをいろいろ試したが、どうにも納得のいくピクルスが漬けられない。ところがある日、親戚の家に、かつて自分が育てたたねが残っているのを知った。ずいぶん前にレシピとともにおすそ分けしたたねを途切れずに育ててくれていたのだ。そこからたねを分けてもらって、懐かしの味を再現することができた。

このように、たねは広めることで守ることができる。だから農家は、本能的に、たねを分けることに寛容だ。これは、実際にたねをとってみれば理解できる。たとえば自家菜園用に育てているダイコンのたねをとるとしよう。ひと株のダイコンに花を咲かせたら、ふつう、来年播くのに必要な量の何倍ものたねがとれる。まして、良いたねをとろうと思ったら、ひと株ではいけない。複数の株を残して強いたねをとるのが農家の知恵だ。結果として、多くのたねが余る。そのたねは、ひとにもらってもらうしかない。そして、そうやってたねを広めることで、たねは守られる。

たねを守ることは、たねを進化させることでもある。栽培植物は、長い歴史の中で、農家による選抜によって姿を変えてきた。農家は小さな遺伝子の変化も見逃さず、人間にとって有利な方向に作物の形質を変えていく。ただ、その方向性は、育種する農家の指向性によって決まる。たとえば母のピクルス用キュウリにしたところで、ある意味、食品工業的に最適化された既存のピクルス用キュウリには不満であると感じたから、母がそれをベースに交配と選抜を繰り返して生まれたわけだ。方向性は無数にあり得る。多くのひとが、さまざまな環境でそれぞれの好みや都合で育種することで、作物は多様な方向に分散する。そうやって、野菜や果樹、穀物には無数の品種が生まれてきた。たねをシェアし、共有財産として守ってきたからこそ、そこに多様性が生まれてきた。たねはオープンなものとして公開され、そこに自由に改変を加えることでさらにオープンな世界がひろがっていく。これが、農業の基本として続いてきたし、これから先も続いていかなければならない。

しかしまた、たねを守ることには、別な方向性もあった。それは、外部からの略奪を防ぐということである。特に、日本では江戸時代以降、特産品に関して、そういう政策がとられるようになった。領内の特産品を他藩に奪われては経済的利益が失われる。門外不出の品種が生まれた。

その重要性は農民の側も理解していた。しかしまた、農民には古来からの「たねを広める」本能的な姿勢もあった。だからこの時代、禁制のたねを髪の毛の間に隠して密輸する話だとか、偶然に入手する僥倖であるとか、そういったさまざまなエピソードが生まれている。信州名物の野沢菜は、京都の名産の蕪をこっそりと持ち出したが気候風土の違いから葉っぱばかりが育ってしまった失敗作が起源だという話も伝わっている。知的財産の保護は、重要ではあるが、決して厳格には行われ得ない。そしてそこからこぼれていく部分や境界の曖昧な部分から新たな進化が生まれ、多様性が花開いていく。

 

たねは、必ず必要以上の量がとれる。きっちりと優良な系統をつないでいこうとするのであれば、必ずたねは大量にとれてしまう。そういった性質があるから、農村では「たねとり」をする農家と、それに依存する農家が生まれるのが必然であった。そういったたねとり農家が土着の種苗店やそこと契約する育種農家へと発展していった。重要なことは、もともと種苗店や育種農家が栽培農家でもあったという点である。自家採種に必要な量を超えて採取する部分が販売用となり、だんだんとその比重が大きくなっていった。しかし、採取の基本は、栽培農家としての視点である。それがあるからこそ、なにが優良でなにがそうでないかを判断できる。育種には、必ず栽培者としての観点が必要になる。やがて品種の多様化に伴って地域の種苗店も自家育成への依存を減らし、たねを仕入れて販売する比重が増えていった。それでもまだ、地方には、「このたねはウチだけしか扱えない」という秘蔵の品種をかかえた種苗店が存在する。そういうところでも、実際の育種はその種苗店と契約した育種農家がやっているのだけれど、育種の現場はたいていは同時に生産の現場でもある。伝統野菜はそんなふうにして守られてきた。

そういった種苗店を統合する形で発展してきたのが、大手種苗会社である。タキイやサカタといった大手種苗会社は、科学的な手法を育種に持ち込むことによって、より安定した形で各地で育成されたたねを育て、ひろめてきた。ただ、この規模になると、営業上の利益は守らねばならない。外国との攻防でも負けるわけにはいかない。そういったたたかいにおいては、知財を保護する法制度が武器として欠かせない。武器はもろ刃の剣でもあり、知財保護が過剰に働くと、伝統的な農家のたねをとる権利を制限してしまう。長い間ひとびとが実践してきたたねをとる行いを否定してしまう。多様性と持続性を損なってしまう。多国籍企業というモンスターに対抗するはずの国内種苗企業自身がモンスター化する危険性をはらんでしまう。かといって丸腰で戦えば勝ち目はないだろう。法制度が必要でありながら、なかなか「これでよし」という形にならないのには、そういった事情もある。

 

たねを巡る状況は、こんな簡単にまとめてしまえるほど単純ではない。たとえば、歴史的に、日本への多様な品種の移入(奈良時代室町時代、江戸時代、明治時代など、何度か大きな波があった)をみても、そこにはさまざまな興味深い要因がある。明治から昭和にかけて農業試験場が果たした役割は、語り尽くせないほどの大量のエピソードをもっているだろう。世界史に目を転じても、19世紀の帝国主義の時代の新品種探索と普及への情熱なんかは、現代的な感覚からは異様に感じられる。そしてなによりも、現場の農家のたねに対する感覚は実に多様だ。「自家採種こそ農業の醍醐味」と思う有機農家から、「プロやったらタキイのこのたねを、なんぼ高こついても買わんかったら売り物になる野菜はでけへんで」と誇りをもって語る施設園芸農家から、もう百人百様といっていい。そういう多様性こそが農業を支えているといえる。そしてさらに重要なことは、そういった立場や考え方が大きくちがう人々が、実は地域の同じコミュニティの住民であり、地域としては共通する仕事をともに担っているということだ。立場の違いを乗り越えて用水の管理に協力しなければ米もつくれない。それが農業というものだ。そして、そういった地域の集まりでは、立場の多様性を認め合いながら、それでも共通した話題で話し合うことができる。自家採種派であってもカタログにある種苗の優良な部分は認めることができるし、サカタの信奉者であっても自分のところの婆さんが昔からつないでいる里芋の煮物は好きだったりする。そういった複合する世界に生きているから、農家は多面的に物事を語ることができる。そういった曖昧さや「なあなあ」の感覚が気持ち悪いと感じることが、私にだってある。けれどそういう気持ち悪ささえ飲み込んでしまう懐の深さが、古来から続いてきたこの日本社会にはある。

 

だから、種苗法の改正には、そういった多様で、懐の深い議論がなされてほしいと思っている。そして、そういった複雑で微妙な世界を切り裂いていくような一方的な議論、競争に勝つことや経済的に有利になることや、そういった産業の理論だけで合理化された議論が進むことに、私は危機感を覚える。この感覚は、なかなか理解してもらえないだろうという気もする。それでも、それが持続的な日本社会をつくりあげてきた土台だと思うし、その上にのびていく未来であるとも思う。

そんなふうに振り返ってみると、やっぱり私はリベラルじゃないよなあとか、思ってしまう。いまだに自分がわからないよ。やれやれ。

 

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