退屈からの脱出 - なんだかわけのわからない予告として

ラジオが好きなのは、自分の好みの範疇からはみ出して、新しい音楽を聞けるからだ。アルバムを漁ったり(若い頃はレコード屋に入ったらなかなか出てこれなかった)、あるいはいまならYouTubeで検索したりして音楽を聞くと、どうしても自分に馴染みのあるものしか聞かなくなる。ラジオだと、もちろん局を選ぶ時点で自分の好みから大きく外れるものは除外するのだけれど、それでもあえて自分からは選ばないだろうジャンルをどんどんかけてくる。まだインターネットなんて言葉を聞いたこともなかった時代、仕事をしながら聞いていたのは駐留米軍がAM電波を使って流していたFEN(Far East Network)だった。洋楽好きの私は好みの曲がたまにかかるのでいつかそこからダイヤルを動かさなくなっていた。ただ、そのカバーするジャンルは実に広く、いわゆるポップ・ミュージックからもっとハードなロック、オールディーズからトップ40、R&Bからジャズと、さまざまな番組が用意されていた。軍隊にはあらゆるタイプの人が集まるから、その嗜好も多様で、ラジオにもそれが反映されていた。私は(日曜日にごくわずかあるクラシックの時間は聞かなかったが)そのほとんどを聞いた。そして、自分がそれまでに聞いていたボブ・ディランビートルズとディープパープルとエリック・クラプトン(なんだかこっ恥ずかしくなる取り合わせだ)及びその周辺なんて広い広い音楽界のごく一部分でしかないのだということを知った。結果として、私はさまざまな音楽を無節操に吸収し、それは自分自身の血肉になっていった。ラジオは私を変えた。だから私はラジオに感謝している。

そんなFENの番組の中でも特に私が楽しみにしていたのは毎晩夜に1時間だけ放送されるR&Bの番組と、週末に放送されるカントリーのカウントダウン(ヒット曲を順番に放送する番組)だった。R&Bとカントリーといったら、まるでBLMとQアノンぐらいに対極の存在なのだけれど、完全に無縁かといえばそうでもなくて、古くはレイ・チャールズがカントリーソングをヒットさせたり、当時だとライオネル・リッチーポインター・シスターズアニタなんかがカントリーチャートに顔を出したりしていた。カントリー系のアーティストから尊敬を集めるプレスリーが生前にはジェームズ・ブラウンと親交があったとか、ジャンルは聞く人の便宜のためのものであって、音楽そのものではないように思う。ともかくも、そんなふうに当時のモダンなカントリーを聞いていたせいで、いまでもふっと、その頃の曲が頭を流れたりする。たとえば、

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Garth BrooksのStanding Outside the Fireなんて曲が、今朝目覚める前に頭の中で流れていた。そして、若い頃の自分、いまの自分をそれにあてはめてみたりしていた。

 

たぶん高校生の頃からだと思うのだけれど、私は「生きる意欲」みたいなものを感じられないひとだった。恵まれた生まれ方をしたので、何不自由ない生活だし、なにか不満があるわけでもない。強いていうならもうちょっとハンサムに生まれたかったとかもうちょっと健康でいたかったとか(アレルギー体質で喘息とか湿疹で苦労していた)、小さな不満がないわけではなかったが、だからといって人生が嫌になるほどの問題ではなかった。死にたいというほど積極的に嫌なことは何一つなく、とはいえ生きたい思うほどに魅力的なことにも行き当たらず、ただひたすらに退屈していた。息をするのもめんどくさいから、もしも自主的に止められるものなら止めてもいいやぐらいの感覚でしか生きていなかったのだと思う。ときにはじゃあいっそ死んじまうかなあ、みたいなことも思った。若い人は、大人が思う以上に死に近い(これは十分に意識しておかないと忘れがちなことだ。自分自身がそうだったことさえ、時には忘れてしまう。長く生きてきた人から見たら、ほとんど理由にもならないようなことであっさり死んでしまうのが若い人なのだ。死ぬのがめんどくさい以上の理由が、生きていることにないなんて普通だということは、よくよく思いだしておいたほうがいい)。

当時はノストラダムスの大予言が流行するぐらいに終末感が漂っていた。公害とか資源の枯渇とか東西冷戦とか、世の中ロクでもない話題ばかりだった。だから、いっそカタストロフがきてみんないっしょに消えてしまうならそれはそれでおもしろいぐらいに思っていた。そして、奇妙なことに、どうやらそれがごくわずかだけ、私を生かしてくれる動機になっていった。

つまり、大破滅なんて、そんなしょっちゅう見れるもんじゃない。もしもそれが起こるなら、その一部始終を見届けずに死ぬのは残念だ。まあ、私みたいなひ弱なやつは最初の一撃で死ぬほうかもしれないけれど、それでもそれがどんなふうに始まるのかぐらいは見れるだろう。知らずに死んだら、無念のあまりに化けて出るかもしれない。せめてそこまでは頑張って生きようよ、と、なぜだかそこに「生きる理由」を見つけてしまった。

やがて1970年代も終わり、どうやら世界はそう簡単に壊滅しないらしいとわかる年齢に私も成長していった。そして、この「世界の終わりを確かめたい」という動機のほうもそのまま成長して、「世界がどう変わっていくのかを見極めたい」という気持ちに変わっていった。自分の生きているいまは、ひどく退屈だ。たとえばローマ帝国が崩壊するときに、その地域に住んでいたとしたら、さぞスペクタクルだったろうとか思う。関ヶ原の戦いだったら、足軽としてでも参加したかったと思う。けれど、そういう変化がひょっとしたら実は起こりつつあるのではないかという気がするようになっていた。退屈に見える日常だけれど、それは気がつかないだけで、見える場所から見たら案外と歴史は大きく動いているのかもしれないと思うようになった。

「社会」という概念でものを考えるようになったのはその頃からだったと思う。社会は人間一人ひとりの寄せ集めだけれど、人間一人ひとりとは異なった動きをする。人間は退屈かもしれないが、社会の動きはダイナミックだ。社会がどう変化するのかを眺めることができれば、それは退屈な毎日を紛らせてくれるかもしれない。そのためには、それを眺めるのに適した場所にいくべきだろう。それはきっと、自分のいる場所ではない。そう思った私は、思い切って10年馴染んだ東京の生活を引き払った。いろんなひとに出会い、いろんな動きに手を貸した。勝つ見込みのない選挙運動に走り回ったこともある。会社を立ち上げて人を雇ったこともある。売れない本の束を抱えてイベント会場からイベント会場へと渡り歩いたこともある。いろいろな集まりに顔を出し、ときには自分でそれを仕切った。数百人の集まりの事務仕事の裏方を組織したこともある。その過程で進化するコンピュータと格闘し、バッドノウハウを溜め込んだりもした。それを使って仕掛けを作っては失敗したりもした。

そういう姿だけ見れば、私自身が「熱く生きている」ようにに見えたかもしれない。けれど、私は常に冷めていた。炎の只中にいてさえ、自分はそれを外側から眺めている気分でいた。なぜなら、それが自分の望んだことだったからだ。最もよく見える位置は、それが起こっている中心部だ。参与観察という言葉を私は意識していた。変化に関わっていく人たちを見るために自分はここにいるのであって、その変化そのものを起こそうとしているわけではない。関心があるのは変化だけれど、それは自分の外側で勝手に起こるものであって、自分が起こすものではない。社会の変化というものはそういうものだと考えていた。たとえば当時はほぼ電力としてはゼロに近かった太陽光エネルギーの利用を本気で代替エネルギーとして現実化しようと運動している人たちを見るには、そういう人が主催する勉強会に参加するのが手っ取り早かった(実際、そのおかげで後にフィードイン・タリフの政策が実現したときにそのブレイン的な位置についた人をそういう時代が来る前に見ることができたりもした)。そういう勉強会に参加しているひとの多くがそういう未来を信じていたり、あるいはそういう未来を望ましいものとして熱意をもって語るのに比べて、私にはそういう情熱はなかった。ただ、変化していく時代、変化していく社会を、そういう人々の動きを感じることができるのがおもしろかった。そういう位置にいるためだけに、私は「生きているフリ」をしていたともいえる。自分自身の執着は、生きることにではなく、社会の変化を見ることの方にある。好奇心が生への執着よりも先にくる。だから私は少しぐらいの損は気にしなかったし、少しぐらいの苦労は進んで引き受けた。そのほうがよく見える場所にいけるなら、喜んでそうした。「キミは変わってるな」みたいに言われることもあった。議論に参加せず、議論の成り行きをひたすらに眺めていた。そのほうがおもしろかったからだ。私はひどく冷めていた。

実際、大きな変化は起こったのだ。振り返ってみると、子どものころに退屈していた毎日の中でさえ万博は開かれ、連合赤軍浅間山荘にこもり、オイルショックでトイレットペーパーはなくなり、ドルが安くなって海外旅行にいけるようになり、スリーマイルで爆発が起こり、NECのパソコンが普及し、ベルリンの壁は崩壊し、チェルノブイリで事故が起こった。これらは皆、歴史の教科書に載ることになる。そして、よく見える場所に行こうと思ってから私が目の当たりにしたのは、米の自由化であり、地方都市の衰退であり、農業の高齢化であり、インターネットの普及であり、その他、短くまとめることがとてもできない数多くの社会の変化であった。そういうものをお腹いっぱいになるぐらいに見ることができたのだから、ある意味、私は正しかったのだ。炎の中で熱く燃えてしまったのでは、それに気づけなかったかもしれない。たとえ炎の中に踏み込んでいるように見えても身の回りにバリアを張って(また古い言い回しだ)いて、常に冷めていた。だからこそ、変化を変化として見てくることができたのかもしれない。

 

ただ、そういった経験は、徐々に私を変えた。これもまた、まちがいのないことだ。ちょうど好みの音楽を聞きたいと思って流していたラジオ局がいつの間にか私の好みを変えていったのと同じことだ。その最大の変化は、社会を自分の外側にあるものとして見なくなったことだろう。社会は個人の単なる寄せ集めではない。社会には社会の独自の力学がある。しかしまた、社会は個人が集まることによって成立している。そして、その外側に出ることはできない。あるいは外側に出てしまえばその力は働かず、つまりは存在しないも同然になるのが社会だ。社会を見るときには常にその内部に入ることが必要になり、内部に入るということは自分自身が社会の一部になるということだ。つまり、部分として全体を見るという禅問答のようなあり方をしなければ本当に社会を見ることはできない。そのときに、自分自身はバリアの内側にいて、あるいは雨のかからない傘の中にいるつもりでいても、実際にはそんな防壁は存在しない。雨が降れば濡れるのだし、棍棒で殴られれば痛い。自分が透明人間になったつもりでいても実際にはその存在だけで人を傷つけることさえある。参与観察なんてのは嘘っぱちだ。社会を見るときには、ただ当事者として部分を見ることができるだけで、それを積み重ねることによって全体を想像できるに過ぎない。そういうことがだんだんにわかってきたのだと思う。

そして、それを通り過ぎて、ようやく私は自分自身に興味をもつことができるようになった。自意識が目覚めはじめた中学生の頃のような興味のもち方ではない。そういう興味は、自分自身の外見が冴えないという認識や成績の方もパッとしないとかスポーツはダメダメという事実の前に急速にしぼんでしまう。そうではなく、自分自身の変化に対する興味だ。若い頃に世間に対しての興味はまったくなかったのに、社会の変化を見ることに執着できたのとよく似ている。結局、おもしろいのは存在ではなく変化なのだ。

社会とかかわる中で、私は変化する。「社会とかかわる」といっても、実際に相互作用が発生するのは抽象的な社会との間ではなく、他の個人との間でのことだ。たとえば家庭教師として、私は生徒の変化に付き合う。人間は変化するものだし、特に若いうちの変化は目覚ましいものだ。そういった変化にかかわる中で、実は私自身が変化している。それを感じることができるから、おもしろい。こんなおもしろいことがあるから、人間やめられんわ、と思う。若い頃、口を開けば「退屈だ」と言っていたのが嘘のように感じられる。

 

半年ほど前からはじめたプロジェクトがある。まだまだ道半ばで、どこまでいけるのか、どんなアウトプットになるのか、ぼんやりとしている。それでも私はこれを形にしたいと思っている。カントリーソングの歌詞を借りるなら、火中で踊っている。やけどをするかもしれない、恥をかくかもしれない、それでも前に進みたい。それは、そこから発せられることになるメッセージそのものよりも、それを通じて自分が変化することが楽しみだからなのだ。

そして、このプロジェクトは私ひとりのものではない。自分ひとりならできないことができると思えるのは、力を貸してくれるひとがいるからだ。そのひともまた、この仕事を通じて変わるだろう。まだまだ若いから、これからどんどん変わる。その変化を見ることができるのも、楽しみのひとつだ。成長という言葉がぴったりくる変化は、きっとあざやかなものだろう。

既に自分の中には、半年前にはなかったものがある。変化はもうはじまっている。ゴールはまだ遠いけれど、きっと何かが生まれる。具体的に書ける日がくるのが待ち遠しくて仕方ない。

「手伝い」の概念は変化してきたのか? -  生業と家事のあいだ

「家のことを子どもが手伝うみたいな言い方をするようになったのって、いつ頃ですかね」。古い友だちにコーヒーをご馳走になりながら話していたときのことだ。田舎で百姓をやりながら大工としてそこそこに名前も売れてきたその友人とは、知り合ってもう四半世紀にもなる。いつの間にか遠くはなれてしまったが、人が大地に近いところで暮らしていくことの重要性については、それほど遠くない意識を共有できていると私は勝手に思っている。彼が淹れてくれるコーヒーはうまい。コロナだからと遠慮して、青空の下で飲む。稲刈りも済んで、すっかり秋の風景だ。

「えっと。そりゃ、子どもは家のことを昔から手伝ってきたんやろ。むしろ家の手伝いもしないで勉強みたいなのが最近のことで」

「そうじゃないんです」

私が理解できないのを見て取って、彼はゆっくりと説明をはじめた。もともと田舎の仕事というのは、暮らしの延長線上にある。暮らしとは生きていくことだから、たとえば飯を食うことだ。飯を食おうと思ったら料理をしなければならないから、料理は特別な仕事というわけではなく、生きていくことの延長であり、言葉をかえれば生きていくことそのものだ。料理をしようと思ったら畑の大根をひいてこなければならないから、自給用の畑をつくるのも暮らしの延長であり、そのまま生きていくことだ。このように、田舎で暮らすということは、そのまま、生きるために必要なおこないを実行することである。もちろんそれが田舎のすべてかというと、そうではない。古くは年貢のための田んぼをつくることはプライベートな生活ではなく、公的な勤めであっただろう。生活のために金銭が必要になる現代では、いくらそれが生きるためだといっても、賃金を稼ぐことまでは暮らしの延長としてとらえられないはずだ。だが、家のこと、たとえば雨戸を開けるとか布団をたたむとか、掃除をするとか草取りをするだとか、水やりをするとか犬の散歩をするだとか、そういったことは経済が支配する現代にあってさえ、生活そのものであって、生きている以上、することが当たり前なことのはずだ。さて、彼は若いころ、海外の農村に長期滞在していた。厄介になっていた家の子どもがよく働くのを見て、「おまえ、家の手伝いをようするな。エライな」と話しかけたら、キョトンとされた、というのだ。言葉が通じなかったわけではない。そうではなく、少年がやっていた家の仕事、家畜の世話だとかそういった仕事を、「手伝い」(親を助けること)のように表現されたのが、少年にとって腑に落ちなかったという話なのだ。つまり、それは少年にとって生活そのものであり、自分がそこで生きていく以上、やるのが当然なことであって、それで誰かを助けるとか、ましてそれをやるからほめられるというような種類のことではない。生きることそのものは確かに称賛に値することであるのかもしれないが、それでもわれわれはウンコをしている人に向かって「エライね」とは言わないものだ(乳幼児に向かってなら言うかもしれないが)。つまり、少年の仕事は生きることそのものであり、それを家のことを「手伝う」と表現する発想が、本来ありえないのではないか、と友人は気づいたというのだ。

「さあ。もしもそういうことなら、1960年代のエネルギー革命あたりかなあ」と、私は曖昧に返事をした。たしかに、一昨年死んだ昭和一桁の私の父親が少年時代に毎朝牛の草刈りに出かけていたとき、それを「家の手伝い」とはあまり思わなかったのではないか、という気もしたからだ。「家の手伝い」という概念が成立するのは、「家の仕事」が「主婦の仕事」とイコールで結ばれるようになってからなのかもしれない。いわゆるサラリーマン世帯が主流になるまでは、男も女もいっしょになって暮らしを立てるための仕事をしていたわけで、そのときにあんまり「お母さんのお手伝い」みたいな感覚は生まれないかもしれない。主婦がやるのが当然になって、主婦以外の立場は「手伝い」になったのではなかろうか。

まあ、このあたりは実際のところ、よくわからない。友人と話しても、そこに証拠が出てくるわけではない。だから私は、この興味深い仮説を抱えて帰宅することになった。

 

さて、そもそも「手伝い」という言葉はどこから来たのだろうか。辞書には意味は載っているのだけれど、日本の辞書には語源に関する解説が少ない(英語ではetymologyといって、割と調べやすい)。ならばと古語辞典をひいてみると、学習用の簡易な古語辞典(三省堂の「全訳読解古語辞典 第二版」)にはそもそも「手伝い」の項目がない。「伝ふ」の項目はあるが、これはまあ、現代語とそれほど大きな差はないようだ。古語に用例がないわけではないだろうが、あえて項目を立てるほど重要な言葉ではなかったようだ。

それは、この言葉が漢語ではなかったからなのかもしれない。そのあたり私は完全に素人なのだけれど、漢籍リポジトリで検索してみると(「手伝い」の伝は旧字の「傳」にして)、186件とヒット数が少なく、どうも熟語として成立していた気配はない。読みも訓読みだし、どうも日本で日本の事情に合わせて成立した言葉ではないかという気がする(この辺は少し詳しい人には容易に判断がつくのかもしれないが)。諸橋轍次の大漢和辭典にも記載はない。

それではいつ頃から「手傳」の語が使われていたのかというと、軽い検索で私が見つけたもっとも古いものとして平安時代の行事の記録(漢文)のなかに一箇所あったほかは、概ね江戸初期以降になるようだ。あるいはその少し前、大名たちが土木工事を行う際に、その役職名として「手傳方」として登場するのがどうも広く使われはじめた最初のように見える。まあ、素人の片手間の調査だけれど。そして、この「手傳」は、「お手伝い」、つまり主体が他にあってその指図で助力をする立場というよりは、むしろ、ある種の権限を移譲された役職であるようだ。そう思うと、(こちらは古語辞典に項目のあった)「手代」とよく似ているのかもしれない。「手代」は、江戸時代の下級武士の役職であり、それは文字通り「手」の「代理」であろう。「手傳」は、トップの「手」を「伝える」管理者の意味であったのではないかと思われる。

しかし、江戸中期になると、そういった管理者の意味での「手傳」に加えて、より現在の使い方に近い「手傳ひ」の用例が見られるようになってくる。労働者としての「手傳人足」のような使い方、「手傳五人」のように員数を表すような表記も見られる。そして「囲碁の手傳ひ」のように、傍目八目観衆の行動を表す川柳も詠まれるようになる。こうなってくると、現代的な用例とそれほど変わらない。

明治になると、織物生産の労働力として「手傳人」を記載した文書ものこっている(この手傳人の給金は織手女より低く、賄方よりも高い:「幕末・明治初期における桐生織物の生産構造」木村隆)。それでも明治時代の国語辞典には、やはり「手傳ひ」の項目は立てられていない。それほど重要な言葉ではなかったのだろう。もちろん、薄い辞書一冊で何が言えるわけでもないので、もうちょっと探すべきだろう(暇があれば)。ではあっても、少なくとも昭和に入るころには「〜も手傳って」のような用例が頻繁に出てくるようになる。「○○先生のお手傳いで」のように、「補助的な役割を果たす」的な用法も増えてくる。「植木職手傳」は植木職人の少し格下のものとして定義されていたりもする。

ただ、それでも、そういった言葉が「家の手伝い」という文脈で用いられることはなかったのではないかという疑いは残る。しかし、結論からいうと、そうではなかった。「家の手伝い」として生活に関する仕事を分担する概念は、少なくとも江戸時代に遡るようだ。

孫引きになるが、貞女教訓女式目に「十の年の頃よりも外へ出さず行儀作法の正しき道を行はせ、親たちの言ひ付け給ふ事を少しも背かずして、それより後は苧を績み、紡ぎ、物縫ふ事どもを教へて母親の手傳をさすべし」という記述があるらしい(「江戸時代に於ける裁縫教授の範囲に就いて」常見育男)。ちなみにこの本がいつ頃のものなのかはちょっと不明なのだが(似たような書名のものはあるのだけれど)、江戸時代に既に、家事仕事を娘(未婚の女性)に手伝わせるという概念はあったようである。

下って昭和になると、そういった概念にもとづいているのではないかと思われる文献が多くなる。例えば関東大震災のことを描いたエッセイには、兄が小さな妹にお膳を出すのを手伝ってくれと言っているセリフが描かれている(「震災美談 小さい勇士」中村左衛門太郎)。これは明治以降明らかに一般化している「力を貸す」意味での手伝いであるのかもしれないが、日常のお膳を出すことに「手伝う」という言葉を使っていることから、暮らしのなかで「家事を手伝う」という言い方が不自然でなくなっていたのだろうと想像できる。また、農村での生活を描いた心理学の論文には、「『兄も気の毒だ。』と小いすつぽ抜けた嘆息を洩す三吉には、この時からどうも子供の無邪気がなくなつて行つた。それは、田舎の子供に通有するまめな手傳によって家族を助ける風は俄に三吉から去つて、一見呆然として戸外に佇んでゐる事が屢々となり、且今迄になく、家の内に頭を抱へて寝そべり返る事も亦少くないやうになつたのでも分る」(「二等卒の三吉」石井淳)という記述もある。子どもが家を手伝うのが普通であったという記述である。戦前の泉鏡花の小説には、「農家の娘で、野良仕事の手傳を濟ました晩過ぎてから、裁縫のお稽古に熱海まで通ふんだとまた申します」という一節もある。野良仕事は生活の延長だから、そこでの活動が娘にとって「手伝い」と位置づけられているのである。また、「富士郡に於いては大部分の兒童が家事或は農事の手傳ひをなすが、兒童にとりては可成りの力役である」(「身體發育に及ぼす後天的影響について〔三〕」藤本薫喜・勝田早苗)と、農村部の子どもの活動を、少なくとも教育関係者は「手伝い」と捉えていたと思われることを示す文書もある。

はっきりとその概念が文書に残っているのが、昭和14年頃の警察によるケーススタディである「或る反抗少女の行動分析と性格變化」(井原法洞・城戸幡太郎)である。ここには、「…学校から断はられて中途退学をした。この頃から近所の知合から金を借りてゐたらしい。それから家に居て家事の手傳ひをさせて置いたが、近所の洋裁教授所に通ってゐる間に…」と、学校中退で定職のない少女が「家事手伝い」という体裁をとっていたことが明らかになっている。さらに学校教育で「手伝い」は、

生徒の經驗を重んじ、實習を獎勵すべきことは、家事教授作用に於ける第三の原理である。今家庭に於ける生徒の日常生活に就て見るに、生徒は家事の手傳に依り、可なり多くの家事上の經驗を有し、特に家庭に於ける家事の手傳を獎勵することに依り、存外多くの經驗を有せしめ得るものである。(「家事教授上の諸問題〔五〕」常見育男)

といった扱いがされている。してみると、どうやら第二次世界大戦前後には、少なくとも都会においては、「未成年女子に家事を手伝わせる」という概念が成立していたのは間違いがないようである。そして、そういった概念が、「子どものお手伝い」という概念形成に繋がったのではなかろうか。

余談になりかけるが、若い女性と「お手伝い」が親和性が高いのは、戦後に(履歴書や釣書で多用された)「家事手伝い」という言葉とともに、「女中」と呼ばれていた職業が「お手伝いさん」と呼称を変えたことも関係しているかもしれない。誰の小説だったか1970年代の軽い読み物に「お手伝いさん」という呼称を拒否して「女中」であることにプライドを持っている女性が登場していた記憶があるが、女中の呼称は1960年代くらいまでではなかったかと思う。谷崎潤一郎の「台所太平記」は「お手伝いさん奮闘記」として話題になったそうなので、1960年代にはもう「お手伝いさん」のほうが一般的だったのかもしれない。

話をもとに戻すと、結局のところ、「子どもの手伝い」という概念を最終的に定着させる上で大きな役割を果たしたのは、学校教育であったようだ。たとえば、戦後の家庭科の創設に関して、次のような記述がある。

昭和22年の家庭科の学習指導要領は、この新しい家庭科の特色を鮮明に示している。家庭科の中心目標は「よい家庭」の建設、「よい家庭人」の育成である。従来のように、よい妻、よい母のみではなく、夫・妻、父・母・子、兄弟姉妹、祖父母・孫、しゅうと・しゅうとめ・嫁として、すべてよい家族の一員の育成をめざしている。戦後の日本にとって民主化至上命令であったし、日本の民主化の基礎は家庭の民主化にあるので、家庭の民主化を担当する家庭科の教育は、民法の改正と相まって重要なものと考えられた。家庭科では、個人の尊厳と両性の本質的平等を実現することが説かれ、それに必要な範囲において家事技能と家事知識とが与えられた。具体的に言えば、「お父さんは日曜大工をし、子どもたちは自分のことは自分でした上に能力に応じて家事の手伝をし、おりおり家族会議を開き、お母さんに教養の時間を作ってあげる」というような種類の内容が取扱われた。男子にも家庭科を課したことは、日本教育史上特筆すべき革命的処置でさえもあった。(「戦後における家庭科教育の諸思想とその批判」原田一

ここで「子どもたちの家事手伝い」という概念がはっきりと学校教育に盛り込まれたようである。つまり、戦前の「女は家のことをしておればよい」という儒教的な考え方から、「なにか訳のわからない家の雑事は女の手伝い」という考え方が、「それは男女平等だから、子どもが男女を問わず手伝うべきだ」と変化したのではなかろうか。そのなかで、「お父さんは日曜大工」と、「男」の仕事は別格におかれているのが、やがて1960年代の産業構造の大変化で「男は仕事」とされるようになったのかもしれない。

戦後の教育の中での「お手伝い」の位置づけをたどるのは、それはそれでおもしろそうだけれど、たいへんそうだ。ともかくも、ここでは、

  • 「生業に関して子どもが『手伝う』という概念が生まれたのは近年ではないか」という疑問は、一応、否定された。
  • 「手伝」は、もともとは「助力」とは別の管理的な仕事を指す言葉であったのが転用されてきたらしい。
  • 家事に関する「手伝い」は江戸時代頃より女性のものとされてきたが、それが戦後教育のなかで変化したらしい。

というあたりがわかったということで、いったん調査の手を止めようと思う。いや、いろいろと知らないことが多いもんだわ。

待ちぼうけ

1時間余の暇ができたから会って話をしましょうと約束をしていたのに、その人は現れない。場所をまちがえたことに気がついたのは、もう次の予定が入っている直前だった。あわてて連絡をとったけれど、その時点ではもう会えないことがはっきりしてしまっていた。しかたない。約束はあきらめた。

こんな待ちぼうけ、むかしはよくあったものだ。いまのようにモバイル通信手段が発達していない時代、待ち合わせは高度な技術だった。だからよく失敗もした。約束をしていて会えないことはザラだった。待ち合わせに「5分前」に行くことが常識であったのも、失敗を避けるためにそれが必要だったからだ。それでも思わぬ電車の遅れやらなにやらで相手が約束の時刻に現れないことはふつうだった。だから人々の許容度も高く、30分ぐらい待っていても、それで関係が破綻してしまうようなことはなかった。さすがに寝坊して1時間も待たせたような相手には腹も立ったが、そういう場合はさっさと帰ってしまってもそれはそれで許容されるようなところがあった。次の予定があるなら、伝言板に謎のようなメッセージを残して立ち去ることもできた。

駅の伝言板さえ見なくなって久しい現代では、そうはいかない。遅れるのならLINEなりSMSメッセージを入れておくのが当然だし、そうなると、「ああ、遅れるのだな。だったらこういうふうに対応しよう」と、待つ方の行動が変わる。便利な世の中だけれど、少々窮屈でもある。来ぬ人の事情をあれこれと想像しながら待つことは、たしかに気の揉めることではあるが、それなりに意味のあることでもあったなあと思う。無駄に過ごす時間は余裕でもあり、その時間にいろいろな気付きや発見もある。そういった余裕を失って久しい。

昨日、私が待っていた相手は、現代を生きる若い人だ。だからスマホをはじめとする電子機器もちゃんと使いこなす。けれど、どこか時代からずれたところがある。メッセージを送っても返事が来るまで時間がかかる。けっしてこちらのメッセージを無視することはない。必ず返事はくれる。まるで文通するような気の長い周期でやり取りが成立する。若いころ、便箋や封筒をえらんで切手を買いに行った頃のような気持ちにもなる。

そういう感覚を覚えさせてくれるのが気に入って、私はその人を自分のあるプロジェクトに巻き込んだ。だから、ときどき会う。プロジェクトそのものもどこか曖昧さのあるものだから、打ち合わせともちょっとちがう。そういう部分もあるが、もう少しゆるい。ゆるい雰囲気のなかでなんだかよくわからないけれど、プロジェクトはゆっくりと進みはじめている。私はそれを成功させたい。せっかちな性格だから気持ちは焦る。けれど、それを押し止めるように、ゆったりとしたペースでしか前に進まない。そういうペースをつくってくれる人、相棒として、こういう人が必要だったのだなあと、思ったりもする。

昨日、会えなかったのは残念だった。私がまちがった場所で待ち時間をつぶすために仕事をしていた時間、その人は正しい場所でわけもわからず待ち続けてくれていたのだろう。古い時代の人間である私には、待つことに対する耐性がある。2時間や3時間、待ちぼうけを食らうことは若い頃には普通にあった。どうってことはない。現代の若い人にとっては耐えられないことだろう。1時間近く、どんな気持ちで待ち続けていたのだろうと想像すると、申し訳なくなる。しかしまた、現代の時間の流れとはどこかちがう時間の流れのなかで生きている人でもある。待つ時間を意義あるものに変えてくれたかもしれないとも思う。待つことで生まれる心の動きを、しっかりとここからの養分として蓄えてくれたかもしれない。

そうであってほしいと願う。

PCR検査を受けた話

ここ1週間ばかり、ちょっとした騒ぎがあった。発端は高校3年生になる息子の発熱である。

息子は、箱入りで育てたせいか無理のきかない性質があって、フル稼働運転を続けるとどこかでダウンして熱を出す。そういう人だとわかっているので、今回、熱を出したのも、結局はコロナ後に再開した学校のスケジュールが詰みすぎていたのが原因なのだろうと振り返って思う。だが、最初に発熱の報告を聞いたときは、不意をつかれてとまどった。私が仕事中、「しんどいけど、どうしたらいい?」と電話がかかってきたのだ。考えてみたら、そこからが奇妙なことだった。

息子は、大学入学関係の何かがあって(どういう趣旨で大学に招集されたのだかいまだによくわからない)、志望する学校に行っていた。少し遠い場所にある大学で、片道3時間ぐらいかかる(なので来年からはもう少し学校に近い私の実家に彼は拠点を移すのだろう)。遅くに帰るという話は聞いていたし、なにを親に連絡してくる必要があるのだということでもある。体調不良であればなおさらのこと、さっさと帰ればいいだけのことだ。電車に乗れないほどしんどければ、救急車でも呼ぶしかないだろう。そうなったらそうなったでその旨を連絡すればいいわけで、もうじき18歳にもなろうという一人前の男が「どうしたらいい?」もないものだ。だが、後で考えたら、その時点でもうそういう判断もできないくらいに調子が悪化していたのだろう。それを察知できなかった私も、ずいぶんな間抜けである。

ともかくも、帰宅してすぐに寝かせた。その時点で38度を超える発熱があった。私は「またいつもの発熱だ。寝てりゃ治る」式に放ったらかして仕事をしていたのだけれど、妻は別のことを心配していた。

「保健所に連絡したほうがいいんじゃない?」

 

この時代、息子の発熱がいわゆる新型コロナによるものかもしれない、という可能性は、私も感じていないわけではなかった。けれど、息子は若いし、若い人は安静にして経過をしっかりと観察しておけば、たいていはふつうの風邪と同様に回復するという。こちらが感染しないように気をつける必要はあるにしても、たとえコロナでもしっかり寝ることがまず第一だ、と私は判断していた。

患者個人に関してはそれでもかまわないのかもしれない。しかし、感染症は社会的な病でもある。妻の言うように、家庭内だけのことで放っておいていいものではない。そこで、「帰国者・接触者相談センター」に電話をした。渡航歴の有無、感染者との濃厚接触の有無等、いくつかのチェック項目を尋ねられ、かかりつけ医の受診を勧められた。いろいろな報道で聞いていたとおりの対応だ。だが、実際に我が身に起こると、「ほう、そういうものなのか」と、改めて感じた。

翌日、早速近所の開業医に電話をした。ちなみに息子の熱は40度近くまで上がっている。この時点で素人判断としては「コロナじゃないな」とは思った。そこまでの高熱でもないと聞いていたから。けれど、シーズン外れのインフルエンザかもしれない。どっちにしても安静がいちばんだけれど、相談センターは受診を勧めるし、そこは時代の流儀に従うべきなんだろう。医院の方では、「通常の待合室から入っていただくわけにいかないので、時間になったら電話しますから、まずはインターホンで呼び出してください。裏口に案内します」とのことだった。いよいよコロナっぽくなってきた。

医者には妻が付き添って行った。それによると、単なる裏口で、いったん入ったら他の患者がいる場所も平気で通るし、診察室も同じ、医師も防護服を着ているわけでもなく、特別な対応はほとんどなかったらしい。そして診断は、「コロナに関してはウチでは検査もできないし、検査の必要もないでしょう。コロナかどうかがはっきりしない以上、インフルエンザの検査もできない。季節的にいってインフルエンザではないでしょう。解熱剤と抗生物質を出しときますから、安静にして様子を見てください」とのことだった。これもまた、ある意味、常識的な対応だと思う。医院内の防御体制はどうかとは思うが、リスクの低い患者は安静と経過観察というのは、判断としては正しいのだろう。

 

だが、話はそれでは済まなかった。というのは、妻が「これでは仕事に行けない」と主張したのだ。そして、私も困った事実にようやく気がついた。私も家庭教師として生徒宅を訪問することができなくなっているのだ。

息子は、親の感覚からいえば「いつもの発熱」であって、コロナではない。けれど、その可能性は否定できない。インフルエンザである可能性も否定できない。まあ、医者はインフルエンザじゃないっていってるし、コロナの時代でなければどうということはない。けれど、このご時世、家族内に発熱者がいる人に接近されるのは、多くの人にとって迷惑でしかないだろう。

事務職である妻の現在の勤務先は病院だ。高齢者をはじめ高リスク群が集まる病院は、コロナを持ち込まれて最も困る場所だ。欠勤の連絡を入れて事後を相談すると、「PCR検査を受けてくるように」との指示があったという。だから妻は、近所のかかりつけ医からPCR検査への流れを想定していた。ところが、「検査の必要なし」と、そこは否定された。「検査して欲しい」とかなり食い下がったらしいのだが、そこは突っぱねられたのだという。

 

世の中には、PCR検査派と検査不要派がある、らしい。もちろんそういう大雑把なくくりは現実を反映しないものであり、そこにはさまざまな温度差がある。おそらく現在最も一般的に認められた考え方は「検査は必要なときに必要なだけ行うべきであり、その判断は医師が行う」というものだろう。そういう基準に則ってPCR検査が行われており、そういった運用からはPCR検査は十分に足りている、と現状を分析することもできる。そして、相談センターのアドバイスも、それを基準にしたものだといえるだろう。ウチの近所の開業医の判断も、そういう考え方にもとづいていえば概ね妥当なものだといえると思う。

PCR検査拡大論者からみれば、それは手ぬるいということになるのだろう。検査はどんどん行うべきであり、少しでも疑わしければどんどん検査してウィルスの発見に努めなければならない。そのためには日本のPCR検査は絶対的に不足している(キャパシティが不足しているのか実施数が不足しているのか、そのあたりは論者によって異なるように見受けられるが)。保健所の判断、医師の判断などといわず、希望者は全員検査を受けられるようにすべきだ、というのがそこから出てくる主張だろう。そういう考え方にもとづけば、検査を希望した妻が拒否されたのは、「だから日本はダメだ」ということにつながるのだろう。

私は概ね、前者の立場に賛同している。むやみやたらと検査数を増やしたって消耗するだけだし、医療リソースは重症者や高リスク群に割り当て、リスクの低い集団はおとなしく風邪対応にしておけばいいのだぐらいに思ってきたし、基本的にはいまでもその考えは変わらない。けれど、個別の事例としてそれが自分の身に降り掛かってくると、やっぱり困ってしまう。仕事、どうするよ?

 

実際、公的には「医師の判断によって検査を行う」立場をとっている病院でさえ、現実には「疑惑を消すため」の検査を必要とする。妻は特段の要職というわけではない単なる事務職員だが、それでも休まれると仕事が滞る。とはいえ、濃厚接触者である疑いを抱いたままで出勤されても困る。そこで、病院は、「息子さんにPCR検査を受けさせてください。もしも近隣で検査できなければ、こっちまで息子さんを連れてきてください。ウチでPCR検査するから、それで陰性だったら出勤してください」と解決策を示してきた。検査が勤務の前提である、という条件を示してきたのだ。これは、非正規雇用である妻にとっては抜き差しならない問題になる。公欠であれば賃金は保証されるが、検査を受けずに疑いだけで欠勤したのでは、休んだ分だけ給料が失われる。私だってそうだ。疑いがある以上、生徒宅への訪問はできないし、訪問しなければ収入にならない。だいいちが、生徒に迷惑をかける。ラッキーだったのは大半の生徒がオンラインに移行していたことだ。それでも数名は、訪問指導の生徒がいる。放置はできない。

再度、相談センターに電話をかけると、「他の医療機関セカンドオピニオンを求めることは患者の権利ですし、自費で検査を受け付けている機関もあります。そういうところを利用されるのも権利です」と、これもまた教科書的な返答。それはそうだろうと思う。けれど、高くもない時給で得られる僅かな収入のために自費で検査を受けるのもバカバカしいし、また、検査のために相変わらず熱の下がらない息子を遠方まで連れて行くのも本末転倒だ。遠方ということでいえば妻の勤務先病院も決して近隣ではないので、やっぱり熱を出して苦しんでいる息子をそこに連れていくのは躊躇される。

セカンドオピニオンを求めるとすれば近隣の医療機関ということになるのだけれど、これは結局、同じことになる可能性が高い。というのは、近所の医院の反応が、現在の対コロナ戦略からいって正統派であったからだ。状況から見て、どうもコロナではない可能性が高い。高リスク群でもない。だったら検査するよりも安静にして経過観察というのは、いちばんありそうな判断だ。医療としてはそれでいい。そういうもんだろうと私も思う。だが、私と妻のニーズは、そこにはない。仕事に行けるかどうか、その担保が必要なのだ。

そういった担保としてPCR検査を求めることがバカバカしい話だというのは、私も妻も認識している。検査なんぞクソ喰らえだ。いま最も大事なのは熱を出している息子が楽になることであって、検査したってそれで病気が治るわけじゃない。ところが、仕事となると、そのバカバカしいところにどうしたって巻き込まれざるを得ない。笑って2週間の休みがとれるほど、世の中気楽にはできていない。

そりゃ、私や妻が休んだからといって、それで仕事が全て止まるわけではない。代わりの人員はいくらでもいるだろう。だが問題は、休んでいるうちに自分の仕事が失われてしまう可能性がゼロではない、ということだ。非正規雇用とはそういうものだ。実際、私だって、喘息の発作が起こって去年の暮れに生徒の大部分を手放したあと、復帰までに長い時間がかかった。月収が通常の2割程度まで落ち込んだ月が続いたのだ。他の講師に交代してもらった生徒は、ふつう、取り戻せない。コロナのおかげでオンラインの生徒が一気に流れ込んでくるまでの数カ月は、半分は失業状態だったわけだ。

 

医療とは根本的に異なった事情から、PCR検査が必要だ。とはいえ、「お願いします」「じゃあやりましょう」という状況にはない。私は半分諦めかけていたが、それでも妻は「一応、あたってみてよ」と言う。半分は、もう職場の病院まで連れて行って検査を受けさせる気になっているわけだ。だが、嫌な言い方だが、その際の前提として「近所の医療機関で断られました」という事実を積み上げておかねばならない。アリバイ工作のようでなんだかなあと思いながら、近所の病院に電話した。

相談センターで聞かれたのと同様の教科書的な質問リスト、渡航歴や感染者との接触履歴を聞かれるなかで、「同居の息子さんが発熱したということですね」という言葉に「いいえ、息子はふだんは高校の寮に住んでいます」と答えたとき、電話の向こうの空気が変わった。気のせいかもしれないが、私にはそう感じられた。そして「医師の判断を求めますので、追って連絡します」という返答が得られた。夕方になってからの連絡では、「明日、午前、PCR検査をします」とのこと。「発熱からの時間経過の関係で、今日ではなく明日のほうがいいでしょう」と。求めていたものが得られた。どうにもこうにも複雑な気分だった。

あくまで推測でしかないのだが、「寮=クラスターの発生」という可能性が、担当看護師の頭をよぎったのではないだろうか。大規模感染の芽はつぶしておかなければならない。それは患者個人のリスクの高低とは別の話だ。そういう判断ではなかったのかと思う。

病院の指示に従って、改めて先に受診した開業医から紹介状をもらい、検査に備えた。

 

翌日、車に息子を乗せて近所の病院に向かった。通常の受付ではなく通用口に回るように指示され、受付も車から降りずに済ませた。汚染を防ぐためにボールペンさえ持参するように指示されていて、医師の診断も専用の小ブースに取り付けられたインターホン越しという徹底ぶりだった。検体は、唾液を小さなガラス容器に入れて提出するように言われた。息子の検査中に別の女性が同様の検査でやってきたが、車に乗っていない彼女はプレハブづくりの仮設待合室で同様の対応を受けていたようだった。

そして、結果は晴れて陰性。医師の診断は電話連絡で、「結果は陰性でしたので、熱が下がらないようなら改めてかかりつけ医を受診してください」というものだった。そのころには、まだ熱は下がらないものの息子の様子も少し安定してきており、「この調子なら引き続き安静にしていればだいじょうぶだろう」という判断もできた。そして、最終的に、時間薬で熱は下がり、どうにかこうにか息子は健康を取り戻しつつある。妻も私も仕事に復帰することができ、まずはめでたし。

 

しかし、どうにも割り切れないものが残る。「検査をしたからオッケーよ」とはとても思えない。検査がなければ仕事も学校も休まねばならないという現状と、うかうか休んでばかりもいられないという状況と、本当に改善しなければならないのはどっちなのだろう。

「いついつまでにこれこれのことをしなければならない」という縛りが、人間の生活の中には存在する。それは、「種まき時を逃せばその年の収穫はない」という農業に依存していた昔から、人間にとって逃れられないことであるのかもしれない。けれど、食っていくだけなら、たとえば田植えの時期を逃してしまったら、蕎麦を播けばどうにかなるのだ。それでどうにもならないのは、年貢を米で納めなければならないからだ。結局のところ、われわれの「いついつまでにこれこれのことをしなければ」は、社会的な圧力によるものだとも言えるだろう。そして、社会的な歪は、社会の仕組みを変えることである程度まではどうにかなるのではなかろうか。

すぐに休むことばかり考えるのは、根性がないのかもしれない。けれど、根性なしに生まれついたものとしては、休みたいときに休めるような社会のほうが嬉しい。そうなればいいな、いつかそうなればいいなと思いながら、今日も安い時給で働くことになる。

中学受験は、そろそろ根本的に変わったほうがいい

役に立ってない中学受験勉強

中学受験はおよそ害悪だ。私がそう思う理由は単純だ。それが子どもたちの役に立っていないからだ。中学受験制度そのものは、それは何らかの役に立っているのかもしれない。少なくともそれを実施する私立中学校にとっては、メリットがあるはずだ。そうでなければやらないだろう(そのメリットも、後述するように怪しいものではあるけれど)。けれど、当事者のもう一方である子どもたちにとって、得られるものは「合格」以外のものはなにもない。そういうものだと言ってしまえばそれまでなのだが、じゃあ、合格競争のためだけに貴重な時間を無駄にすることはどうなのか、ということになる。私はそれを害悪だと思う。

なぜ、「子どもたちの役に立たない」というのか。それは、家庭教師としての経験からだ。私は中高一貫の私立中学・高校の生徒の指導にあたった経験が過去に何件もある。いずれも中学受験を無事に突破した生徒たちだ。あるいは、失敗して公立中学に進んだ生徒も何人かみてきた。これらはサンプル数としては少ないし、多くがトップレベルではない中の上くらいの私立中高生で、しかも「もうひとがんばり」と発破をかけられて家庭教師のサポートを必要としている生徒である。「成功例」ではないのかもしれない。それでも、彼らを見て、また、彼らからのヒアリングや彼らが持ち帰る学校での授業プリントなどを見て、思うのだ。「あれ? あの難問をエレガントに解いていた中学受験生が数年たってこれなの?」と。

たとえば算数。中学受験であれほど叩き込まれた比の操作、図形の解法のほとんどを、多くの私立中高生は忘れてしまっている。鶴亀算的な操作は使わないから忘れても別にかまわないとして、数値計算の工夫なんかは実用的だからぜひ日常的に使ってほしいのに、通り一遍のところから踏み出せない。すべてがそうではないけれど、家庭教師として実際に中学受験の難問を小学生とともにくぐり抜けてきている身としては、実に物足りない。もっと頭を使えよと言いたくなる。選抜をくぐり抜けた優れた頭脳があるんだろうと言いたくなる。だが、彼らの積み上げたはずのものは、合格の喜びとともにすでに過去のものとなっているのだ。

 

なぜそういうことが起こるのだろうか。中学受験に挑む生徒たちを教えてきて、なんとなく見えてきたような気がする。ちなみに、こちらも数は多くない。私はもともと中学受験生を教えるのは気が進まない。一言でいえばめんどくさいのだ。中学受験にはいろいろお約束ごとがあって、自由な発想で指導計画を展開しにくい。手間がかかる割におもしろくない。だから、なるべく中学受験生は請けないようにしてきた。スケジュールの関係なんかの都合で請けても、何かと口実をつくって他の講師に引き継ぐ機会を伺い、そして手渡してきた。家庭教師も長いことやってると、そのあたりのワガママの通し方もうまくなっていく。そして、地域的にも、このあたりは関東とはちがって中学受験はそれほど盛んではない。近年は(といっても十年単位でいうような「近年」だが)以前に比べると中学受験が一般化してきているが、それでも比率からいえばまだまだ私立中学校へ進学する生徒が少ないのが地域的な特徴なのだ。

だから、もともと中学受験生は年に1人とるかとらないか程度だった。それが今年は、やたらと中学受験生が多い。4人もいる(さらに1人増えそうな)うえ、その多くが週2回、3回と複数コマをとっている。これは上記のようにこの地域でも中学受験が増えてきていること、それを受けて数年前から会社の方でも中受に力を入れるようになっていることに加え、私がオンライン専任に配置換えになったこととかも関係しているのだろう。

ともかくも、家庭教師のお呼びがかかる中受生は、ほぼ学習塾に行っている。学習塾の進度についていくために家庭教師の補習を必要とする場合、学習塾から見放されそうになって家庭教師を頼る場合、学習塾に見切りをつけて家庭教師に切り替える場合と様々だ。学習塾と全く無縁なのはレアケース。なので、学習塾の様子は手にとるようにわかる。これがよくない。有り体に言って、ひどい。

彼らは基本的に、子どもたちを追い立てることしかしない。やたらと精神論ばかり吐く。ひとりひとりをとれば良い教師もいるかもしれないし、実際、子どもの親身になっていろいろとアドバイスを送ってくれる先生がいるのも知っている。しかし、塾全体の空気はそうではない。なぜなら、もともとが学習塾のビジネスモデルが「脱落者は捨てていく」ことを前提に成り立っているからだ。特に、任意性の強い中学受験では、そういうビジネスモデルを展開しやすい。だから容赦がない。

どういうことか。学習塾にとっては、入塾者が増えることがすなわち事業成功への鍵だ。入塾者をどうやって増やすのか。実績が最高の宣伝材料になる。有名校に年間何十人単位で塾生を送り込んだ事実があれば、親は喜んで高額の授業料を払う。「ここに入れば必ず志望校に入れてくれる」とか、ときには「ここに入らなければ合格なんて無理」と思いこんで、子どもを送り出す。この子どもたちに対して学習塾は、とにかく猛烈なプレッシャーをかける。競争に駆り立て、無理なほどの宿題を出し、「そんなことではダメだ! もっと頑張らなければ負ける!」と発破をかける。当然ながら、多くの子どもはそれに耐えられない。脱落者がどんどんと出る。それでかまわないのだ。なぜなら、生き残った生徒たちはそれなりに高得点を叩き出すのに適応できた精鋭であり、さらにそれを鍛えれば有名校合格が勝ち取れる。そうやって合格者の実績をつくりあげることができれば、翌年にまた大量の入塾者を確保することができる。大量の入塾者の中には必ず一定の割合、学習塾の苛烈なやり方に適応できる子どもたちがいるはずだから、同じようにしてふるい落として精鋭部隊をつくっていく。これを繰り返すことで、事業は成長する。

これが基本戦略だが、さらに事業を安定させるための追加的な戦略もある。どんどんふるいにかけて使えない生徒はふるい落としたほうが合格率は上がるとはいえ、収益性からはできるだけ長く在塾してもらったほうがいい。そこで段階別にクラス編成をして、脱落者には下のクラスに回ってもらう。そこで行われる学習指導はひどいものだけれど、そこは単純に資金源でしかないので、学習塾にとっては授業内容はどうでもいい。主要なリソースは生き残りで構成された精鋭部隊に注ぎ込めば、実績はきっちり上がるのだから。

そういったビジネスモデルなのだということは容易に理解できるのだが、子どもの側に立ってみたらこれがクソだということはすぐにわかる。競争を煽り、ひたすら得点ゲットのための技能を身に付けさせることは、子どもの成長にとってなにひとつ利するところがない。

「いや、勉強してるじゃないか」と、素朴に思うかもしれない。「将来の基礎をつくるじゃないか」とか「若いうちに頭を使うことが重要だ」と思うかもしれない。けれど、塾のやり方ではそれはほぼ当てはまらない。その証拠が、中学受験で身につけたはずの技能を一切忘れてしまった私立中高一貫校の生徒たちだ。だが、これではなぜそういう生徒たちが発生するのかの説明になっていない。それを分析するには、塾でどんな指導方法をやっているのかに立ち入らなければならない。

点取りゲームは傾向と対策

入学試験は、点取りゲームだ。これはもうはっきりしている。その人の本質とか適性とか一切関係なく、単純に得点の高いほうが勝利する。もちろん出題者は志願者の適性を見極めようとして問題を設計・作成するのだけれど、いったんゲームとなったら必勝法はそこにない。ゲームの必勝法は傾向と対策だ。そして反復だ。

これはゲーム機やスマホでゲームをやっている人にはすぐに同意してもらえるのではないだろうか。どのタイミングでどういう操作をすればいいのかを習得し、それが完璧にできるように繰り返し練習すれば高スコアが得られる。ゲームのテーマがどうとか、製作者の意図がどうかとか、ほぼ関係がない。たとえばいま話題のGhost of Tsushimaをプレイするのに、元寇の史実を知る必要はない。もちろん、それを知ってプレイすればより味わいは深まるだろう。あるいは、ゲームから興味をかきたてられて対馬の自然をさらに学ぼうと思うかもしれない。けれど、そういった味わいや知的興奮は、ゲームプレイには基本的に無関係だ。ゲームをクリアすることが目的であれば、そういったものは不要だ。そして、全リソースをゲームのクリアに注がなければならないのであれば、味わいや知的興奮はお荷物にさえなるだろう。

これがいま、受験業界で起こっていることだ。その本質は無視して、ともかく点数を上げることだけにフォーカスする。そのためにはまず「出そうな問題」を洗い出し、そしてその解法をパターン化する。パターン化した解法を難易度順に整理し、そのひとつずつを段階的に反復させていく。そうすることで解法パターンを暗記させ、いつでも使えるような道具にする。そうすれば、自動的に高得点が取れるようになる。

そういうものが「勉強」だと思いこんでいる人にとっては、「え? だから何が問題なの?」という感想しか出てこないかもしれない。けれど、こんなものは、単純に「点取りゲーム必勝法」でしかない。だからこそ、受験勉強が不要になった合格後には、速やかに忘れ去られる。

学習は、子どもの成長の発達段階に沿って計画されている。ことに小学校においては、年齢によって理解できる程度がはっきりと異なる。ところが、入学試験は小学校6年生段階に設定されているため、12歳の子どもが理解できる程度の学習内容が出題される。傾向と対策に基づいた反復練習によってそれを身につけるためには時間がかかる。結果として、それを理解できる年齢に達するはるか以前から、理解も何も関係なく、反復を始めなければならない。そして、本質の理解なんてなくても、きっちりとパターン化さえしておいてもらえれば、子どもたちは早い年齢から対応が可能になる。だから「くもわ」「みはじ」の呪文であり、「ことで聞かれたらこと、もので聞かれたらもの」の鉄則であるわけだ。そして、深いレベルでの理解がないものだから、必要性がなくなればすぐに消えてしまう。

多様な技を覚えてそれをいつでも使えるようにしておくことは「深いレベルの理解」ではないのだろうか。それはまったくの別物だ。深いレベルで物事を理解するためには、まず時間をかけてゆっくりと物事のつながりを考えなければならない。「AはBね」という知識を覚えることは理解でもなんでもない。「AはBでBはCなのだとしたら、AはCのはずだ。もしそうでないなら、そこにはほかの条件が隠れているはずだ。ということは、BはCだけなくBはDでもあるのかもしれない」みたいに延々と考え続けることが若い頭の鍛錬には必要だ。たとえ誤った迷路や袋小路に踏み込もうと、そうやって考え続けていれば、そのこと自体が財産になる。けれど、学習塾は絶対にそういうことを許さない。すべてのパターンは「AならB」式に明瞭化されているし、それを素早く、正確に繰り出すことを求めている。迷うのは「時間の無駄だ」と判断するし、その原因を「練習が足りないからだ」と断じるから、考え込むことを評価しないのだ。

孔子も言っているではないか。「学びて思わざれば則ち罔し」と。いくら知識を覚えようが、思索のないところに光は射さない。受験勉強の目的が高得点をゲットすることであれば、それでもかまわない。高得点には思索など必要はない。ただ、パターン化と反復練習さえこなす体力があればいい。だからこれは学問ではない。学問ではないから、あとに残るものはない。

多くの親は、ここを勘違いしている。「受験勉強という名前で子どもにやる気を起こさせれば、そこから先に役立つ重要な学びをその過程で得ることができるだろう。だから、仮に受験に失敗するにしても、そこに挑戦させる意味は大きい」ぐらいに考えている親は多い。学習塾も、そういった誤解を助長するような宣伝をする。しかし、考えさせない学習は学習ではない。「いや、ウチの塾は考えさせる教育をします」「頭の使い方を学ぶのが勉強です」みたいに主張する学習塾もあるだろう。だが、彼らのいう「考える」とか「頭を使う」は、せいぜい「この問題はどのパターンに当てはまるだろう」と判別させるとか「この問題はこのパターンとこのパターンの組み合わせだな」と思いつくとか、その程度のことでしかない。その程度に頭を使うのが教育なら、むしろ子どもをゲーム機の前に座らせておいたほうがいいぐらいだ。学問とはそういうものではない。

なぜ伝統芸能のような中学受験対策が生まれたのか

私が中学受験の指導をつまらないと感じるのは、それが伝統芸能の世界のように閉じた世界になってしまっているからだ。たしかにいろいろな知識はアップデートされている。社会科の総合問題には、最新の時事問題が反映されていたりもする(今年はコロナとかオリンピック中止とかじゃないかな)。けれど、突き詰めていえばそこで問われている内容に大きな変化はない。何なら半世紀前の問題集の問題をそのまま使っても指導ができるほどだ。学問は進歩しているのに、その姿にはほとんど変化がない。

なぜそうなっているのか。それは、中学受験が奇妙な方向に進化してしまっているからだ。まず基本的には入学試験は公平でなければならない。公平性を確保するために、学習指導要領からはみ出した内容は出題しないことになっている。これは中学受験に限らず、高校入試でも大学入試でも同じことだ。ただし、特殊な技能を求めることが前提である学科・コースはその限りではない。一般の中学入試はそうではないので、学習指導要領の範囲を逸脱しないことが前提になっている。しかし、通常小学校で教える程度の問題を出したのでは、全員が正解をはじき出し、差がつかなくなる。そこで、「小学校の範囲ではあるのだけれど、ふつうの小学生には解けない」難問を工夫する方向に受験問題は進化することになった。ただし、実際にはそれ以前に、学習指導要領が変化する前の伝統というものが存在する。

たとえば鶴亀算だ。私が小学生だった半世紀前には、この解法は教科書に載っていた。確か4年生か5年生の授業で出てきたのだと思う。なぜそれを覚えているかというと、私はこれがさっぱり理解できず、母親が半分キレながら特訓してくれた場面が印象に残っているからだ。鶴と亀に飽きてきた私をライオンと人間とか、いろいろに題材を変えてどうにか解けるようにしてくれた。母親は別に算数が得意とかいうことの一切ない人だったので、それなりに苦労したんだろうと思う。ま、思い出話はともかくも、鶴亀算旅人算も植木算も和差算も、その頃には学習指導要領のもとでふつうに教えられていた。だが、なかなか理解することは難しく、それをちょっとひねった形で中学入試に出題しても、それはそれなりに差がついた。ひとつ上の兄が中学入試に挑んでいる(そして敗退している)ので、そのあたりのことは子ども心にもだいたい理解できた。

そして、そんなふうに多くの子どもが理解できない「特殊算」を学校で教えるのはどうなのよという話になり、指導要領の改定でこれらの計算は徐々に教科書から姿を消すことになった。私が学習参考書業界で小学生向けの算数の問題集を編集していた1980年代にはすでに小学校の教科書からこれらの特殊算はほぼ姿を消していた。「こんなんでほんまに大丈夫なんかいな」という古手業界人たちの杞憂をよそに、小学校教育はその後もごくふつうに進行した。鶴と亀が何匹いようがA君がお兄さんに追いかけられることがなくなろうが、だれひとり困らなかったわけだ。

そして、大きな影響を受けると予想された中学入試も、ほとんど変わらなかった。これは、「鶴亀算旅人算も時計算も差集め算も、教科書からは消えたかもしれないが、学習指導要領にある四則計算の応用として解くことは可能ではないか。だったら、指導要領外とはいえないはずだ」という解釈による。そういうことを言いだしたら世の中のあらゆる学問は小学校の国語算数理科社会の応用だといえなくもないので何でもありの世界になってしまうのだが、そこは奇妙な自主規制が不文律として通用するようになった。すなわち、古い指導要領で扱われていた内容はOK、それ以外はダメ、というものだ。だから鶴亀算旅人算で方程式を使ったらアウトみたいな慣例が通用するようになった。正負の数は中学の学習事項だから使ってはダメなので方程式的な操作は不可だが逆算ならやってよろしいとか、四則計算でもよく意味のわからない線引きがある。その割に図形問題はどう考えても中学校の範囲だろうという平行線定理や相似な図形の処理が認められている。国語ではやはり中学の学習範囲である品詞分類はあからさまには出題されないが、実質それに等しい知識を必要とする問題は出る。それでも、「品詞分類を知らなくても『使い方が違うかどうか』は注意すればわかるはずだから」というようなギリギリのラインが引かれている。理科や社会でも一見中学、ときには高校の問題が出題されているが、「ここをたどれば知識がなくても解けるはず」という細いラインが引かれているので、セーフということになっている。

それが何十年、続いている。いったいなにがセーフで何がアウトなのかという外枠は、高校入試、大学入試に比べても非常にわかりにくくなっている。わかるのはその道何十年のベテランと、そこから直伝を受けた塾関係者だけではないかと思うくらいだ。閉じた世界であり、第三者から見ての明瞭な基準がない。ただ、「昔から中学入試ってこんなもんだ」という了解だけのもとに成り立っている世界だ。すなわち、伝統芸能の世界と同じである。非常にやりにくい。

結局のところ、中学入試は古い古い枠組みを温存するためだけに強引で独りよがりな基準が不文律として成立し、そしてそれをすべてのプレーヤーが所与のものとして受け入れることで存続してきた非常にいびつなものである、といえるのだと思う。そして、それを受け入れることが無条件で子どもたちに求められている。学問の体系を考えたら、これでは先に何もつながらないことになる。多くの受験技能が中学以降に忘れ去られる理由は、こんなところにもあるのではないかと思う。

それって優秀な生徒を選抜できてないと思う

中学入試に限らない、私は入試全廃論者である。それでも、私立中学校が入学志望者を何らかの基準で選抜するのは理解できないことではない。私立学校は教育の多様性を確保する上でその存在意義が大きいし、公立の学校と一線を画す以上、生徒に何らかの特性を求めることがあってもかまわないと思う。アドミッション・ポリシーやカリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシーが重視されるこの時代、中学校であっても「ウチではこんな生徒を求めています」「ウチではこんな教育を実施します」ということが明らかになっている。当然、それに適合した生徒を選ぶ必要があるのだし、そのために何らかの試験を実施するのは、道理にかなったことでもある。

たとえば、いま私が担当しているある生徒の志望校には、こんなアドミッション・ポリシーが掲げてある。

  1. 本校の使命や教育方針を理解する生徒
  2. 学力が優秀で知的好奇心が豊かな生徒
  3. 自分で考え、積極的に行動できる生徒
  4. 人間尊重の精神を持ち、社会貢献の意識が高い生徒

1番はまあ当たり前のこととして、2番から4番のような生徒を選考するのに、この学校の入試問題が役立つだろうか。そういう観点から過去問題を見てみると、それなりに頷けないこともない。算数の問題はなによりも「学力が優秀」でないと歯が立たないだろうし、それだけではなく「自分で考え、積極的に行動」する姿勢があって(すなわち試行錯誤を繰り返すことで)解けるような問題だ。理科の問題は「知的好奇心」があってこそうまく解けるだろうし、社会科の問題には「人間尊重の精神」や「社会貢献の意識」が反映しているといえなくもない。たしかに、虚心坦懐に問題を見るならば、これはアドミッション・ポリシーにうたわれた生徒像を反映する入学志望者を選抜するための問題であるようにも見える。

しかし、現実はそううまくはいかない。なぜなら、ごくふつうの勉強をしてきた上記にピッタリと該当する生徒と、上記にはまったく当てはまらないけれど学習塾式の猛特訓で準備をしてきた生徒と、どちらが高得点をとるかといえば圧倒的に後者だからだ。なぜなら、本来は「自分で考え」ることで解決することが期待されている問題も、パターン化し、階層化し、反復によって解法を暗記することで十分に解けるようになるし、そして、その手法はほとんどすべての領域をカバーするからだ。学習塾式の勉強をやらない生徒には、どこかの領域に穴がある。場合によっては、算数や国語はノー勉で解けるが社会科はダメ、みたいなことも起こる。結果として、点取りゲームに勝てない。

結局のところ、出題者の意図がどこにあるにせよ、中学入試の問題では「パターン化、序列・階層化、反復訓練」の学習塾式の勉強を勝ち抜いた者が勝利する。そして、その厳然たる事実を前に、学習塾や親、当事者である子どもたちさえも、誤解してしまう。私立中学校が欲しい生徒は、厳しい塾の訓練に耐えて勝ち残ることができる生徒なのだと。あるいは、すべての解法を知識として詰め込んだモンスターのような生徒なのだと。そうではないということはアドミッション・ポリシーを素直に読めばわかるのに、「あれは単なる建前で、ほんとうはそうじゃないんだろう」と勝手に決めてかかる。だから学習塾は悪びれることもなくまるで正しいことをやっているかのように堂々と親を叱咤し、子どもを激励する。親は言われるままに追加の教材や講習会に投資し、子どもたちは最後のアドレナリンを絞り出す。

さらにわるいことには、中堅の私立中高一貫校あたりになると、彼ら自身があえてその誤解を自己のものとしてしまうことがあるように見えることだ。アドミッション・ポリシーは単なる看板で、ホンネでは彼ら自身、塾の訓練に耐え忍んできた生徒を好んで選考しようとしているのではないか、と見えることだ。これはちょっと怖ろしい。

 

トップレベルの中高一貫校の入試問題が難問になるのには、それなりの理由がある。これらの学校の「難問・奇問」と呼ばれるものを仔細に分析してみると、実は言うほど難問でも奇問でもないことが多い。表面上のとっつきにくさやわかりにくさにかかわらず、素直な心で読めば正答への道筋が浮かび上がってくるものが多いのだ。むしろ良問であったりする。では、なぜそれを学習塾が「難問・奇問」と呼ぶのかといえば、それが過去問題を分析して得られたパターンでは解けないからだ。彼らの必勝法であるパターン化と反復訓練が通用しないから、それをなにか特別なものであるかのように扱う。そして、その対策を無理矢理に自分たちのパターン化の中に当てはめようとする。結果、新しいパターンがそこに追加される。そのようにして、学習塾の「対策」は、どんどん高度化、精緻化していく。しかし、素直に読めば、そんなもの必要ないケースが多い。たとえば、「室蘭の鉄」(室蘭に日本製鐵の重要な工場があること)で解ける問題が、ある中学校の過去問題にある。「室蘭の鉄」は伝統的に中学校の社会科の問題としてポピュラーなものだった(ただし、近年は教科書本文には載らず、図版の片隅をよく見ないと出てこない情報になってしまった)。いわば、古臭い上に高度な問題だ。だが、こういうのが出題されるのを見た学習塾は、それを押し戴いて、「室蘭の鉄」を暗記項目に加えるだろう。しかし、問題をよく読んでみれば、解答への道筋はちゃんと別に用意されていることがわかる。つまり、これは古臭い問題に偽装した読解力を試す問題で、古臭い特殊な知識が必要に見せかけることで読解力のない生徒をふるい落とすために工夫された問題なのだ。ところが、読解力を涵養するのにはとてつもない手間がかかる(ちなみに学習塾で「読解力」と呼んでいるものは正しい意味での読解力ではないと私は思っている)。それよりは、「室蘭の鉄」と呪文を生徒に暗唱させたほうが手間がかからず効果が高い。ただし、それは中学校の教科書でさえいまや隅っこの方の7ポイント文字を拾わなければ出てこない情報だ。つまり、学習塾の観点から言えば、出題頻度の少ない「難問」と分類される。別の道筋を通ってとけばごくふつうの常識で解ける問題なのに、反復練習に頼って解こうとすると、「難問」になるわけだ。

それでもなお、学習塾はその方法論で乗り切ろうとする。そして乗り切ってしまう。トップレベルの学校はそれを避けるために、次々と新しい趣向を考案する。素直に見れば難易度が上がっているわけではないのだけれど、学習塾は「新傾向」として、「これは対策のレベルを上げなければならない!」と力む。そして、(子どもたちに負担をかけることで)乗り切ってしまう。「難関校対策はウチでなければできません!」と、宣伝材料にさえする。学校の工夫は、たいてい塾のゴリ押し的な対策で無効化されてしまう。

それでも、そういう仕組みのなかで学校側が意識して問題を工夫しているのなら、まだマシだと思う。「本当はガリ勉タイプなんかほしくない。自由に発想を展開できる想像力豊かな生徒が欲しいのだ。あらゆる知識に貪欲で、それを活用できる創造的な力を持った生徒が欲しいのだ。単純に知識を詰め込んだり、解決方法をパターンとして暗記している生徒なんかは欲しくないのだ」という意識から工夫を重ねているのなら、まだそれはいい。たとえ、現実には学習塾が生徒のイマジネーションやクリエイティビティを圧殺するような教育を施してその結果として単純に体力・資力・忍耐力のある生徒を選抜して送り込んでくるようなことがあっても、それでもそういう意識があるのなら、やはり何割かは望んだ資質を持った生徒を獲得することができるかもしれない。問題は、ごく一部のトップレベルの学校を除いた多くの中堅私立中高一貫校にそういう姿勢さえ見られなくなっていることだ。

そういった「並」の入試問題を見ていると、それは単純に「生徒の間に点数差をつけやすいように問題の難易度を調整する」という観点でしか作成されていないように見える。情けない話だが実際そういう観点は試験問題を作成するときのポイントのひとつとされていて、得点分布のヒストグラムがきれいな正規分布に近いほど上手な問題作成だといわれていたりもする。ともかくも、これらの学校は、既存の(ということは半世紀も前の学習指導要領下で成立した時代遅れの)中学入試問題の枠組みの中で、「ウチの学校ならこの程度の問題に答えられるぐらいの生徒が適当だろう」的な発想でできている。算数だったら、「計算問題はこんな感じ、特殊算の文章題を入れて、図形の問題を入れて、グラフを読み取る問題と、規則性の問題を配合しておけばまんべんなく勉強してきたかどうかがわかるだろう」的な発想で作られているようにしか見えない。そしてその姿勢は、すなわち、既存の学習塾の対応をアテにしている。それに依存している。だから、彼らが選びたい生徒の資質は、アドミッション・ポリシーにどんな綺麗事が書いてあろうと、ホンネでは「意味があろうがなかろうがやれといわれたことを黙々とこなすことができる従順な生徒」だと読み取れてしまう。なぜなら、こういった学校の入試問題は、ひたすらに学習塾の指導に従っていればたいていどうにかなるからだ。あるいは、そういった手法(パターン化して序列化して反復練習でその階層を上がっていくことをひたすら繰り返す方法)以外では歯が立たないものであると言ってもいい。それをくぐり抜けられるのは、まずは高額な学習塾に投資できるだけの資力が家庭にあることであり、次にそういったバカバカしい作業を受け入れることができる資質が生徒にあることであるからだ。そして、中堅私立中高一貫校がそれを必要としているのだろうというのは、そういった学校で実際に教育を受けている生徒を指導する中で見えてくる。彼らがやっている教育は、一面をとればまさに学習塾式のパターン化して序列化して反復する行為の連続でしかないのだ。

 

子どもたちの数が減る中で、私立学校は生徒を獲得する競争のただ中にある。生徒を安定して獲得するためには評判がだいじだ。世間の学校に対する評価は、どんな大学にどれだけの卒業生を送り込んだかで決まる。つまり進学実績だ。進学実績を確保するためには、現在の受験制度のもとでは、「対策」を実施するのが最も確実かつ投資効果が高い。そういった「対策」とはすなわち大学入試問題の解法をパターン化し、序列・階層化して、反復練習を重ねて暗記していく方法である。これが点取りゲームの必勝法なのだから、しかたない。そして、そういった点取りゲームに参加して好成績を上げる生徒とは、すなわちそれを支える経済力が家庭にあり、無意味かどうかなんて疑問を持たずに命じられたことに取り組む素直な性格とそれをやり抜く忍耐力がある。もちろんある程度の脳の性能がともなわなければならないにしても、それは飛び抜けたものである必要はなく、そこそこ平均的なもの以上であればかまわない。ただし、特性としては持続力、持久力、記憶力、計算力などに強みがある方が好ましい。そしてそういった特性は、中学受験への長距離走の中で学習塾がふるい分けるものだ。それに当てはまらない生徒を容赦なくふるい落とすのが学習塾だ。

だからこそ、世間からの評価を上げることにやっきな中堅私立中高一貫校の多くは、学習塾の価値観をそのまま受け入れる。学習塾を自らに好ましい生徒の選別機関として活用しようとする。その際に、入試問題は生徒のもつイマジネーションやインスピレーション、ロジックやクリエイティビティを測定するものであってはならず、むしろ、学習塾でどれだけがんばったかだけを評価できるものでなければならない。その尺度として伝統的で旧弊な中学入試の枠組みは、それがほぼ無意味であるがゆえに利用しやすい。それはもう、どれだけ学習塾式の教育に順応できたかどうかを測る尺度でしかなくなっているからだ。

 

けれど、だからこそ私は私立教育機関の関係者に問いたい。あなた方が求めている生徒像はほんとうにそういうものなのですかと。

多様性が求められる時代にあって

私の教える中高一貫校の生徒の多くは、学校の指導方法にうまく馴染めなくなっていった生徒たちだ。彼らのほとんどは、学校が指示する膨大な課題、宿題の量に圧倒されている。彼らは中学に入ったその日から、大学入試を目指して地道な積み上げの作業に従事させられる。実に細分化された知識をこれでもかというほどの反復によって確実に自分のものにするように訓練される。多くの生徒は中学受験への道程を通じてそういう作業に慣れっこになっているから、それが勉強というものだと素直に受け入れる。けれど、人間は成長する。成長の過程で、さまざまに疑問をもつ。また、長期間の作業に倦み疲れる。同じことをやっても能率の上がらない日がやってくる。そして、精緻に組み上げられた受験への階梯は、少し目をそらしただけで次の一歩が踏み出せなくなる。成績が下がって、家庭教師にSOSを求めることになる。

そうやって出会った生徒のほとんどは、素晴らしい資質を持った人々だ(だからときどき私は、あんなひどい入試制度でもやっぱり人物を選別する多少の機能はあるのかもしれないという気持ちにもなったりする)。ただ、彼らはその豊かな才能を反復しなければならない課題の量に押しつぶされそうになっている。そして哀しいのは、彼らがその置かれた状況を「勉強のやり方がわかっていない」「時間の使い方が下手くそだ」「問題の解き方を知らない」というふうにしか捉えることができておらず、そもそも自分が受けている教育がどういうものであるのかが見えない場所に追い立てられているということなのだ。自分が点取りゲーム上達のための技術を習得しようとしているのだということに気づかず、それこそが唯一無二の「勉強」であると思っている。だから彼らは、家庭教師からも宿題を期待する。そりゃ、私だってそれが実行可能なら宿題のひとつやふたつ、出さないでもない。けれど、無理だろう、それ。学校からの課題も十分にこなす時間がないのに、どうやって家庭教師の宿題をやる? 睡眠時間を減らしますったって、まずあんたがやらなければならいのは十分な睡眠時間の確保だろうと、思う。そして、睡眠時間を削らなければ消化できないほどの課題を生徒に出して平気な学校のやり方に腹を立てる。それができなければ、「あなたは時間の使い方が下手だ、効果的な勉強ができない」とひとのせいにする教師に怒りを覚える。

だが、学校の教師に多くを求めるべきではないのかもしれない。彼らのほとんどは、点取りゲームの必勝法を「勉強」だと信じて子ども時代を過ごしてきて、そしてそこに勝ち残った人々なのだ。私のように実質受験勉強ゼロで大学に進学したような裏道を通ってきた人々は、ハナから教師なんかにはならない。「いまの自分は子どもの頃の頑張りのおかげだ」と信じている人は、やはり子どもたちに頑張りを求めるだろう。それが幸福への唯一の道であると思うからだ。私はそうではない。

だから、私は子どもたちに、思う存分に寝ることを基本として求める。適切な運動も必要だ。アタマはカラダの一部分でしかない。そのうえで、興味関心のあることに好きなだけ打ち込むことを勧める。勉強なんて、その空き時間でやればいい。大人を安心させることは、子ども時代を幸福に過ごす上で重要なポイントだ。だから、大人が不安にならない程度に勉強している姿を見せるのはたいせつだ。学校教師だって、機嫌を損ねてトクをすることはない。だから学校教師が喜ぶようなこともしてやろう。そのためには宿題なんかも、できるだけ労力をかけずに形を整えてやればいい。その方法なら知っている。時間の有効な使い方とか効率的な勉強の仕方なんて、この世の中にはない(なぜなら、もしあったとしたらそれがスタンダードになっているはずだから)。そうではなく、自分が何をやりたくて、何をやろうとしていて、そして何をやっているのかに意識を向けることだ。そうすれば、自ずと落ち着くところに落ち着いていく。もしもそれでうまくいかないのなら、そのときには小さなアドバイスをすることはできる。5分で解ける数学の問題に15分かかるのなら、まずは1時間かけてそこを整理してあげよう。そうすれば、以後はそんなに苦労をしなくて済むから。

私はそんなスタンスで子どもたちに接している。そして不思議なことに、「家庭教師を始めてからウチの子は前よりも勉強するようになりました」とか、「集中力が高まったみたいです」とか、こっちが何も手を付けてないことでご家庭から評価をいただく。そしてお約束のように、自分が教えたのではない教科の成績が伸び始める。これは自己嫌悪になるほどのパターンなのだけれど、たとえば私が数学を教えたら社会科の成績が伸び、英語を教えたら理科の成績が伸びる、みたいなことばかり起こる。けれど、子どもも家庭もそれでハッピーだ。それがいちばんだと思う。そしていったんプレッシャーが除かれると、抑えつけられていた生徒一人ひとりの特徴がゆっくりと花開いていく。

そういう変化は、家庭教師という触媒を通して、子どもが自分の立ち位置を客観的に捉えることができるようになって起こるのではないかと思う。さらに、それまでは「やらなきゃいけない、怠けてはいけない」と強迫的な思い込みがあったところから解放されることで余裕が生まれ、じっくりと考える時間ができることで起こるのではないかと思う。状況を客観的に把握して深く考えることは、批判的な思考につながる。いわゆるクリティカル・シンキングである。なぜだか日本ではこの言葉は好まれずロジカル・シンキングという言葉で置き換えられるのだが、論理的思考と言おうが批判的な思考と言おうが、同じことだ。批判は論理的でなければならず、また論理を展開する上では必ずそこに破綻がないかを批判的に考えていかなければならない。そして、そういった論理的思考は、実に学習指導要領が求めているものでもある。公的に合意された教育目標なのだ。だからこそ、それを育むことは点取りゲームの必勝法を習得するよりも重要であり、そのためには「ひたすら反復することこそ勉強だ」的な思い込みを子どもたちから取り除いてやらなければならない。

それを最も阻害しているもののひとつが、中学受験の現在の仕組みではないだろうか。私立中高一貫校の競争は、決して進学実績がすべてではない。視野を広める海外研修であったりボランティアなどを通じた社会との関わり方であったりスポーツを通じた身体の育成であったりと、より幅広い活動の中で評価を受ける。もっといえば、「制服がかわいい」とか、「駅で見かける生徒の態度が悪い」とか、どうでもいいようなことが評価を左右したりもする。そしてこの多様性の時代、さまざまな長所を備えたさまざまな生徒が在籍することが、生徒同士の刺激にもなり、また世間からの評価を上げることにもつながるだろう。

だからこそ、多様な教育を確保する上で欠かせない存在である私立教育機関においては、生徒の多様性を花開かせるような教育をしてほしいし、画一的に育てられた生徒を選抜するような現在の入試選考方法を改めてほしい。便利だからと伝統的な方法に寄りかかり、それが進学実績をつくりあげるからと予備校的な教育に傾斜するのは、本質的な意味で公教育に求められているゴールと乖離したものであると意識してほしい。そうではなく、私立であることのアドバンテージを最大限に活かすためにはどういう生徒がほしいのかを改めて意識してほしい。それは決して、無意味なことであっても頑張ったことだけが成果につながる作業にいそしむ生徒ではないはずだ。

中学受験で扱われるさまざまなエレガントな技法は、もしもそれが批判的思考を発展させるためのツールとして自由に使われるのであれば、あるいは役に立つかもしれない。けれど、現在行われているカリキュラム設計の中では、それは中学教育、高校教育のどこにも接続しない。だからこそ、中学、高校で改めて大学受験を最終目標とした受験勉強をスタートしたとたん、忘れ去られる運命にある。結局、中学入試での得点は、「何を知っているか、何ができるか」を見分けるためにではなく、「どれだけ耐えられるか、どれだけ従うか」を判定するためのツールとして使われてしまっている。それはあまりに情けない。

だからこそ、私は、「中学受験は、そろそろ根本的に変わったほうがいい」と思う。伝統芸能なんてクソ食らえだ。宗匠を食わせるために多くの子どもたちが愚にもつかないことをさせられるのは、ほんと、不幸でしかないと思うよ。

雷は巨大な電気 - 命があってよかった

雷に打たれたことがあるひとは、それほど多くないだろう。私はその数少ないひとりだ。もっとも、正確には直撃ではない。そうであれば生きてこんなところでのんびりとブログなんかは書いていないはずだ。おそらく数十メートル離れた場所に落ちた。そして、そのショックを体感した。あれは怖ろしい経験だった。ほんの少し間違っていれば、あっさりと死んでいただろう。そのぐらいの至近距離だった。

あれは私が学生時代、山岳部員として剱岳周辺のいろんなルートを試みていた夏山のことだった。午前中よかった天気が、午後から急速に崩れた。夏山ではよくあることだ。小窓の王と呼ばれる岩峰を回り込んだあたりで雨が降り始め、遠雷が聞こえてきた。2人の後輩(といいながら年齢はほとんど変わらない最も信頼する山仲間)と3人で行動していたのだが、「これはマズいよね」と、這松の間に岩の窪みを見つけ、そこに姿勢を低くして嵐をやり過ごすことにした。

雷は金属に落ちる。だから、金属を身から離すのは基本なのだが、実際には濡れた岩は金属並みに電気を呼ぶので、そこまでの効果はないと言われている。むしろ重要なのは身を低く保つことだ。雷は、少しでも高いところがあればそこに落ちる。だから、地面に這いつくばるようにして身を低くするのがいいと言われている。岩の窪みを探したのは、そういう基本に忠実に従ったからだ。

実際、それがよかったのだと思う。というのは、間もなくして、至近距離に雷が落ち始めた。光ってから3秒、2秒と刻々と近づいてくる。1秒。おそらく岩峰の上に落ちているのだろう。と思った次の瞬間、身体が宙に浮いた。私は後輩が一緒に身をかがめているはずの背後を振り返った。

「なにするねん!」

背中を蹴飛ばされたと思ったのだ。ところが、後輩の顔を見て言葉を飲み込んだ。彼もわけがわからない顔をしている。そして私はようやく悟った。すぐ近くの岩の上に落雷があった。そして、地表面を大電流が流れた。電流は電子の流れだ。電子のクーロン力で、私の身体は宙に浮いた。電気ショックで、私は背中を蹴飛ばされたように感じた。そういうことなのだ。もうひとりの後輩は、その瞬間に光を見たと言っていた。人間と地面の間に火花が飛んだのかもしれない。

 

夏山での雷は初めてではなかった。というよりも、私は「カミナリ男」と異名がつくぐらい、1年生のときから雷には祟られていた。4年生のその夏になるまで、夏山だけでなく、季節を問わず、私が入山すると雷が鳴ると言われたものだ。だが、こんなふうに電気ショックを感じたのはこのときが初めてだった。

地面を流れる雷の余波の電流だけで、あれだけのショックがある。こりゃあ、直撃したら命がないのももっともだと青ざめた。そうはいいながら、いまさら逃げ場もない。雷が通り過ぎるのを祈るような気持ちで待った。あれはほんとに怖かった。

 

以上、オチも何もない、思い出話。

子どもの世界は安全になったのか - 子どもの目に映る世界

昭和の子どもの世界は非常に危険だった。直接的な危害だけでも、私の記憶の中には「あれは本当に危なかった」というのがいくつかある。たとえば、当時、宅地化が進みつつあった私の家の近所には、(子どもの目からみて)広大なジャンクヤードがあった。廃物の家財道具や電化製品、廃車に至るまでのありとあらゆるガラクタ類がうず高く積み上げて放置してあったのである。もちろんまったく放置されていたわけではなく、そこに廃品を持ち込む業者や、そこから廃品を運び出していく業者が出入りしていた。けれど、常駐の管理人などはおらず、周囲との境界も曖昧で、子どもたちが勝手に出入りする遊び場となっていた。そしてひどく危険な場所であった。たとえば、当時の冷蔵庫は外側からノブを引かなければ開かない構造になっていたのだが、その冷蔵庫の中に子どもが隠れるぐらいのスペースはあった。結果として、冷蔵庫内への子どもの閉じ込めによる死亡事故が多発していた(さらにその結果として、冷蔵庫の扉はわずかな力で開閉できるように改良された)。私自身、そんな放置された冷蔵庫の中に入って遊んだことがある。外からロックされてたらあっさりと死んでいただろう。

もっと危なかったのは、廃車の中に閉じ込められ、火をかけられた経験だ。近所の悪ガキと遊んでいて、廃車の中に入ったら、外から閉じ込められてしまった。夏の暑い日だったから、それだけでも熱射病で死にかねないイタズラだ。こっちも危ないのはわかるから、「出してくれ!」と泣きわめく。たぶん、外から重いものでバリケードにしていたんじゃないかと思う。だが、ガキどもはおもしろがって出してくれない。それどころか、こともあろうに、その廃車の脇で焚き火をはじめた。いまでは信じられないだろうが、喫煙者が幅を利かせていた当時マッチはどこにでも転がっていて、小さな子どもが火遊びをすることぐらいは珍しくなかった(当然、火事も起こった)。ゴムの焦げるにおいのする煙が車内に充満して、冗談じゃなく「あ、ここで死ぬんだな」と思った。炎がチラチラと見えて絶体絶命と思ったときに、さすがにバリケードは外された。苦しみながら転がり出た姿が想像以上にひどかったのだろう。それまで笑い転げていた悪ガキどもは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。私は大泣きに泣きながら家に帰った。何があったかは一言も喋らなかった。

そのジャンクヤード以外にも、危険な場所はいくらでもあった。田んぼには野ツボとかドツボと呼ばれる肥溜めがあって、そこにハマったら死ぬと言われていた。もとより糞まみれで死にたいやつなどいないからふつうは近寄らないのだけれど、宅地への転用が進む荒れ果てた田んぼには隠された落とし穴のようなドツボが残されていて油断がならなかった(だから「ツボにはまって笑う」神経が私にはわからない)。その一方で公害問題が注目されるようになった時代で、川は汚れきっていた。河原に降り立つとヘドロが水面を覆っている場所があって、そこは陸地と見分けがつかない。そんな場所にうっかり足を踏み入れて私の目の前で溺れかけた友だちもいた。あるいは、開発が進行する時代で、いたる所に危険な工事現場があった。いま思い出しても肝が冷えるのは、工事中の橋桁に柵を乗り越えて入ってその桁の上で遊んだことだ。コンクリートの河床まで10メートルぐらいの高さがあったから、落ちたらよくて骨折、下手すれば即死の遊び場だった。あんなアホなことをよくやったもんだと思う。

 

いまは、そんな危険な場所はめっきりと減った。たとえ危険な場所があっても、大人の管理が厳しく、子どもたちはそこに近づけない。けっこうなことだと思う。子どもの命が失われるのは悲しいし、傷を背負わせて人生を歩ませるのも親としてはいたたまれない。昔はよかった式の話をするつもりは毛頭ない。あれはひどい時代だったと思う。

いまの子どもたちは、真綿にくるまれたようにたいせつに育てられる。それは正しいことだと思う。だから根性がないみたいな話には、困難に打ちひしがれたひとには新たな困難に耐える力が残されていないことが多いという観察でもって反論しよう。危険を経験させるメリットがないとはいわないが、それと危険によるダメージを総合的に計算したら、多くの場合、危険を回避することのほうがずっと合理的であるはずだ。

ただ、そういうことを前提にして、私が思うのは、いまの子どもたち、決して大人が思うほど安全な世界に生きてはいないのだということだ。確かに客観的に見て危険は大幅に減少した。それでも、当事者である子どもの目から見れば、世界は相変わらず危険に満ちている。大人は気がつかないが、どうやらそういうことになっている。

それを知ったのは、息子と話していてのことだ。ウチの息子、もう高校3年でほとんど大人だから、親としてはもう子育ては終了という感覚だし、彼の方も子ども時代を遠くに見るような感覚でしゃべる。その彼が、「あのときは死ぬかと思った」という経験を話すのだ。それも私が知らない場面、たとえば道路脇で車にはねられそうになったこととか、キャンプに行ったときに滝で溺れそうになったこととか、本人しか知らないことばかりだ。

息子は、親がかなり年を食ってからできたたったひとりの子どもということもあって、たいせつに育ててきた。「箱入り息子」を公言して、意識的に過保護なぐらいに扱ってきたつもりだ。危険なことには近寄らせないし、本人も親がやかましくいうものだから、あえて危険には近寄らない。生まれもっての臆病な性格でもある。ところがその息子でさえ、親の知らないところで交通事故や溺死に近い経験をしているのである。

もちろん、それは本人の思い込みだけで、実際にはそこまで危ない局面ではなかったのかもしれない。けれど、そういうことを言い出したら、私のジャンクヤードでの体験だって、本当はそこまで切羽詰まってはいなかったのかもしれない。生死を分かつ経験は、実際には客観的な評価とはまったく独立して、本人の主観に依存する。経験している本人が、「あ、ヤバイ、死ぬかもしれない」と思う感覚は、嘘でも偽りでもない。そして、時代がどれほど安全になろうと、そういう感覚を覚える瞬間はだれにでもある。なぜなら人間は必ず死ぬものとして運命づけられているのだし、実際、案外にしぶとい一面を持っているくせに、驚くほどもろく、ときにあっさりと死んでしまう生き物であるからだ。

 

そして、考えてみれば、子どもにとって、この世界が未知の不安で満たされたものであるという事実は、世の中がどう変わろうと同じことなのだ。成長とは、そういう未知の世界に一歩を踏み出していくことである。その未知の世界には、それまで出会ったことのない喜びや発見がある半面、危険もまた同時にふつうに存在する。それを確かめながら、ひとは世界についての感覚をつかんでいく。

だから思うのだ。この緩衝材とクッションで厳重梱包された段ボール箱並みに危険から守られた世界にあっても、やはり子どもたちは危機を乗り越えながら成長していくのだろうと。そして、何十年かの後には、「おれが子どもの頃はあんな危ないことがあった、こんな危険があった」みたいな昔話をするのだろうなと。

 

 

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こんなブログ記事を読んで感じたことを書いた。

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"本当は正しくない『となりのトトロ』"が、受け入れられている - シロクマの屑籠