「生活作文」の気楽な書き方 - 昨夜のアドバイスをもとに

コロナのおかげでどうなるのかと興味深く(失礼!)見ていたのだが、どうやら私の観測範囲では、学校の夏休みの宿題はいずれも例年に比べて少なくなっているようだ。そりゃそうだろうと思う。夏休みは短いし、その短い夏休みに補習を実施するところも少なくない。実質的に休めないのに、例年通りの課題を出すなんてむちゃは、さすがに人間としてできないのだろう。いいことだ。

特に私が評価したいのは、ドリル系の課題が大幅に減っていることだ。あんなもの、子どもたちの成長にとってロクに役に立たない。問題を解くことが役に立たないと言っているのではない。どうしたってやっつけ仕事にならざるを得ない「夏休みの宿題」としてやらせることが役に立たないと言いたいわけだ。ああいった練習問題は、じっくりと時間をかけて、あれこれ悩んで答えにたどり着いてこそ、思考力の訓練になる。それが心浮き立つ夏休みなんかにできるわけがなかろうと、そのぐらいのことを教師は考えもしない。

その一方で、作文や自由研究系の課題は例年に変わらず出題されていることが多い。自由提出になっていたり、課題の量が減らされている場合もあるが、それでも印象としてはドリル系よりも例年に近い。これはこれでOKなことだと思う。こういった課題は、教師が適切に指導してやりさえすれば、子どもの成長に役立つだろう。ま、指導が適切かどうかというのには疑問が残るけれど。

ちなみに、自由研究に関しては、子どもと侮れない素晴らしい研究が生まれることも現実にあるのだけれど、大多数の生徒にそれはあてはまらない。だから、ここで重要なのは研究のテーマではない。そうではなく、研究の内容をきっちりと伝えるレポートの書き方が評価対象になっている。それをしっかりと伝えることが教師の役割だ。テーマは使い古されたものやとるに足らないものでもかまわない。その目的、方法、結果、考察をきっちりとまとめあげることができれば評価は高い。いや、今日の話は作文の方だった。

 

昨日のことだ。オンラインで中学生と話していて、「夏休みの宿題はどう?」と尋ねたら、「生活作文に困ってます」とのことだった。「寝てる間と学校に行ってる間のこと以外なら何でもいいっていうんですけど、それ以外の時間に特に面白いことがあるわけでもないし、受験生だから勉強しかしてないし、書くことがないんです」とのこと。ああ、これは一言必要だなと思ったんで軽くアドバイスしたらずいぶん喜んでくれた。なので、それをシェアしておこうということ。たいした話ではない。

 

まず、作文では、「おもしろいことを書こう」とか、絶対に思わないことだ。そんんな面白いネタがそこらに転がっているわけはない。感動的な体験をする確率だって、ずいぶんと低いはずだ。珍しいこと、印象的な事件もそうそう起こるものではない。もちろん、そういう素材があるひとは、素直にそれを書けばいい。けれど、自由研究と同じで、ほとんどの人はそんなに恵まれていない。周囲を見渡せば、何の変哲もない、見飽きた日常ばかりだろう。

だから、発想を変える。できるだけつまらないことを書くことにする。つまらなければつまらないほどいい。たとえば、晩ごはんのおかず。茄子の田楽とか、麻婆豆腐とか、およそ代わり映えのしないものがそこにあるはずだ。それを書く。

ただし、「今晩のおかずは冷凍餃子でした」だけでは話にならない。だから、さらにもっと、つまらないことをつけ加えていく。その冷凍餃子はどこでだれが買ったのか、どのくらいの頻度で出るのか、具は多いのか少ないのか、ラー油をつけるのかつけないのか、家族のなかでだれがいちばん食べるのか、などなど、およそだれも知りたくないだろうどうでもいいことをどんどん書いていく。できるだけ、「こんなことは書いても仕方ない」と思えることを掘り出して書くようにする。そうすると、どんどん文字数は稼げる。

それでもうまく筆が進まないときには、できるだけネガティブなことを書く。人間、満足しているときはあまり言葉が出ないものだが、不平不満になるといくらでも出てくるものだ。「なんで毎日茄子ばっかり出るんだ」とか「田楽は嫌いだ。特にあの味噌の甘ったるいところが嫌だ」とか、文句を書き出したらけっこうな量が書ける。某匿名日記とか見たら、ネガティブな書き込みばかり見つかるはずだ。よくもまああんなに書けるよと感心する。人間は不平不満を原動力に生きているといってもいい。それを作文に応用する。

「それでも3枚もあるんですよ!」と、分量が気になるかもしれない。実際には、上記の作戦で3枚どころか10枚だって軽く書けるだろうけど、そうは思えないかもしれない。その場合は、あらかじめ、ワードリストを用意しておく。たとえば食事について書こうと思うのなら、まずは食卓を見渡して、「醤油、ごま、ふりかけ、ごはん、ポテサラ、ウィンナー、謎の珍味、私の嫌いな漬物、親のビール、箸、台ふきん……」みたいに、見えるものを列挙していく。テーマが別なら、たとえば窓の外に見えるものをリストにしたり、駅までの道の途中に見えるものをどんどん書き出していく。30個ぐらいの単語のリストが用意できれば無敵だ。その上で、話題に詰まったら、段落を変え、そのリストの単語を拾ってきて、書く。その単語の下に続けてまた、「つまらないこと」や「不平不満」を書き始めれば、そこからまたしばらくは続けていけるはずだ。

そんな急な話題転換は不自然ではないかと思うかもしれないが、読んでいる方からすれば案外と違和感はないものだ。どうしても気になるなら、最後の段落で回収する。「こんなこと、あんなことがありましたけれど、私は元気です」みたいに、最後のまとめですべてのエピソードに言及しておく。そうすれば、なんとなく「ああ、そういうことね」と意味もなく納得するのが人間なのだ。

 

どうだろう? 少なくとも私の生徒は、こんなアドバイスに納得してくれた。「それならできる」と思ってくれた。「つまらないこと」「不平不満」「ワードリスト」が、キーポイントだ。「なんなんだそれ?」と思うかもしれない。けれど、実は、これはもっと、もっともらしい言葉に置き換えることができる。

「生活者の多くは、ふだん自分の生活を意識していないが、見落としている日常の中に重要なことが隠されている。小さなことに着目すると、気がつかなかった発見がある。そして、そこに批判的な視点を持ち込むことで、日常の中に新たな展開を創り出すことができる。そのためには、目にするものを客観的に記録していくことが重要なのだ。」

こんなふうに書いたらどうだろう。私のアドバイスは、それほどアホっぽく見えなくなるはずだ。

とはいいながら、夏休みの宿題がアホっぽいという大前提はもうどうしようもない。だから、こういうのはサッサと片付けてしまうに限る。つまらないことで苦しむのは馬鹿らしい。教師は、生徒が苦しまないようにすることを最優先にすべきなんだと思うよ。

暗算のヒント - 人間の頭の構造は人それぞれだけど

何年か前、「ズルい算数」という本を書こうと思ったことがある。暗算を中心に、主に四則演算の計算方法について、実用的な方法をまとめておこうと思ったのだ。出版のアテがあったわけではない。書けたらオンデマンド印刷でもやって生徒に配ろうと思っていた。実際、書きかけのものをプリントアウトして生徒に渡したこともある。ずいぶんと不評だった。難しすぎるという。まだまだ修行が足らんわと思って、続きを書く手が止まった。それ以来放置してある。

暗算は、一応、小学校の算数のカリキュラムの中には組みこまれている。けれど、学校ではこの技法を推奨しない。面倒でも筆算をしなさい、そのほうが正確だからというのが、多くの学校教師の立場だ。だが、私の経験上、実際には筆算だから正確ということはない。要は、人間はまちがえる生物なのだ。どんな方法をとっても必ずまちがえる。だから、要点は2つ。まず、必ずまちがえることを前提に、まちがえが多発する操作は避けること。もうひとつは、自分は必ずまちがえると心得て、じゃあ、一旦まちがえたときにどうやって被害を最小限にとどめるかを考えることだ。この2点に留意すると、暗算の価値がぐっと上がることになる。ちなみに、小学校算数の教科書を素直に読めば、そういうことが前提なんだなあと思える箇所がいくつもある。決して私のオリジナルな説ではないと思う。

 

さて、まずは、四則演算において、まちがえが多発する操作はどういうものかということだ。長いこと生徒を観察してきて、ごくシンプルな事実に気がついた。まず、人は、1桁と1桁の計算はほとんどまちがえない(割り算は除く)。加減の計算も掛け算も、2つの数を扱うわけだが、両方が1桁のときはまずまちがえない。これは、組み合わせが少ないから、自然におぼえてしまうからだろう。掛け算に関しては、九九という呪文で強制的におぼえてしまう。だから、ある程度の練習を積んだあとでは、ほぼ百%の正答率が得られる。

次に、2桁と1桁の加減乗算は、あまりまちがえない。慎重にやりさえすれば、ほぼまちがえないといってもいい。だから、ここまでは安全圏だといえる。

ところが、2桁と2桁の加減乗算は、けっこうな確率でまちがえる。そして、3桁と2桁とか、3桁と3桁の計算は、たとえ筆算でていねいに処理しても、手計算であれば無視できない確率で、どこかでまちがいが発生する。確かにドリルをやったら90点以上はとれるだろう。けれど、たとえば100題解いたら1題まちがえるようなときには、計算ドリルなら「満点、合格!」と言えるのだが、実用的には信頼性が著しく低いといっていい。特に、シーケンシャルに計算が続く大問だと、途中のどこかで1回まちがえるだけで答えが合わなくなる。

だから、手計算で解かなければならない計算問題が発生したら(そして日本の教育課程は何故か手計算にこだわって、電子機器を使わせない)、まずはその計算を可能な限り「1桁と1桁の計算」に落とし込むことだ。実際、筆算は、そういうことをシステマティックに実行する手法だ。だが、残念なことに、筆算がそういう仕組みだと意識して計算している人は少ない。筆算の導入時にその仕組みは学習するけど、小学生にはなかなか理解できない。結果として、ブラックボックス化した自動処理として筆算は「身体で覚える」よう指導される。それはそれで関数的な発想でわるくはないのだけれど、もったいないなあと思う。筆算の原理は、中学校ぐらいで復習しておくべきだと思う。そうすれば、計算間違いがぐっと減るはずだ。まあ、グチはこのぐらいにしておこう。

もう1点のポイント、「まちがえても被害を最小限にする」は、どうやってまちがいを発見するかということでもある。つまり、検算方法だ。そして、小学校ではこの有効な方法をカリキュラム的には組み込んでいるのに、積極的に推奨しない。なぜなのかわからない。

検算をやるのに、「もう一回やる」のは、まったく合理的ではない。もしもまちがいが発生したのなら、同じところで同じまちがいが発生するリスクが非常に高く、結局、まちがいを発見できないからだ。人間の頭の構造はそうなっている。同じ失敗は、同じところで発生しやすい。だから、同じことをやったのでは検算にならない。

じゃあ、別の方法として何があるかといえば、概算とサンプリングだ。たとえば3桁×3桁の計算は、上述のように非常にまちがいが発生しやすい。このとき、致命的になるのは桁違いの計算結果が出ることだ。だから、頭1桁にまるめて計算をして、その概算結果と見比べる。そうすれば、桁違いの計算まちがいはすぐに発見できる。これで致命的な部分は回避できる。

それでも、細かいところが違っていれば、やはりマズい。そういうときには、たとえば最後の1桁に注目する。末尾1桁同士の計算結果のさらに末尾1桁は、必ず答えの末尾1桁になっているはずだ。そこが確認できたら、まあ、大きな勘違いはしていないだろうと推測できる。もしもそれで不安なら、別のサンプリングをすればいい。

 

以上、計算を実行するときの原則を2つあげた。重要なことなので、改めて箇条書きにする。

  • 一度に計算する演算桁数を極力下げること。
  • 概算とサンプリングでチェックを実行すること。

これだけで、計算の精度は、手計算であっても実用的になる。そして、これでようやく、暗算に関する大前提がそろったことになる。やれやれ、そりゃ、小学生にこの説明は、たいへんだよなあ。

 

さて、暗算の細かいテクニックだが、これは単純な訓練からスタートする。といっても、ソロバン式の暗算ではない。私にとって、あれは謎だ。なんで頭の中にソロバンをイメージするだけで暗算できるのかわからない。ほんと、人間の頭の構造は人それぞれなんだなあと思う。

 

最初の訓練は、これは実は小学校1年の算数で既にできている。「いくつといくつで10」というやつだ。理屈に深入りすると面倒なのだけれど、現代の算術は10進法でものごとを考える。ということは、目の前に数があったとき、「それを10のカタマリにするにはどうすればいい?」と考えるべきなのだ。だから、小学校1年では、任意の1桁の数を提示して、「あといくつで10になる?」という訓練を実施する。これができてはじめて、繰り上がり、繰り下がりができるようになる。

そして、実用的に、これはもっと上の桁まで拡張できる。つまり、2桁の数を見て、「あといくつで100になる?」という訓練だ。そんなものができるのかと思うかもしれないが、やってみればかんたんだ。なんなら3桁にまで拡張して、「この数にあといくつで1000になる?」もできる。というか、多くのひとは、買い物をする際に、無意識にこれをやっている。たとえば、レジで458円を払うとき、無意識に多くのひとが千円札を出す。そして「ああ、おつりは542円だな」と思うだろう。思わないかもしれない。私は思うし、確認してみたらそういう人は他にも結構いる。そう思わない人もいるだろうけれど、ここは訓練ですぐに到達できる。ちょっとやってみるといい。

これができると、桁数の多い加減算が非常に楽になる。たとえば3桁の足し算なら、2つの数の最初の数を見て、「あといくつで1000だな」と思ったら、それに見合った数がもう一方の数にあるかどうかをみる。なければ答えは1000より小さいし、あったら、その数を減らして1000に加えればいい。つまり、繰り上がりを3桁まとめて実行できるようになる。

これは、「演算の桁数を下げる」という原則と矛盾するように思えるかもしれない。けれど、3桁をまとめて1桁のように扱うことで、実質的に演算の桁数を下げることになっている。実際、こういうふうに数を扱うと、暗算でも計算まちがいがほぼなくなってくる。

 

次の訓練は、「2倍」と「半分」だ。どんな数でも、つねに2倍と半分は一瞬で出せるように訓練する。やってみるとこれも意外にかんたんだということがわかる。まず2倍は、同じ数を足せばいいだけだ。九九を使うよりも、そのほうが早くて正確だ。この際、上記の「いくつといくつで10、100、1000」の訓練を積んでいると、より正確さとスピードが上がる。しばらく練習すると、2倍は一瞬でできるようになる。

「半分」の方は、少し難しい。私の場合、これは図形的なイメージを使っている。ただ、人間の頭の構造は人それぞれなので、あえて私の方法は示さない。半分に分ける計算も、訓練によってどんな数でも一瞬でできるようになる。

さて、これができると、実は九九なんかはおぼえなくても掛け算・割り算の大半ができるようになる。なぜなら、半分にすることは、5をかけて桁を1つ下げることと等価だからだ。すなわち、

    ×5=×10×1/2

だからだ。同様に、2倍することは、5で割って桁を1つあげることと等価になる。こうすると、5倍するのと5で割るのは、実は既に訓練済みとなる。

そして3倍は、2倍にさらに同じ数を足せばいい。4倍は、2倍を2回実行する。6倍は3倍してから2倍する。8倍は2倍を3回実行。9倍は3倍を2回実行すればいい。となると、7倍だけが厄介で、8倍から同じ数を引くか、6倍に同じ数をたすことになるけれど、実用的にそれはかなり危険だ(計算まちがいが発生しやすくなる)。だからここは、素直に7の段の掛け算を使ったほうがいい。

 

以上の基礎的なスキルを訓練するだけで、暗算は飛躍的に楽になる。だが、お楽しみはこれからだ。この2種類のスキルを組み合わせ、さらに演算法則を組み込むことで、相当なところまでは暗算で計算が実行可能になる。だが、それを書き出したら、やっぱり本1冊分になってしまう。

そして、ここで何よりも重要なのは、こういう工夫は、基本的に演算の実行を楽にしてくれるということだ。そして、ストレスの小さい方法では、計算まちがいの発生頻度が大きく下がる。つまり、「楽して正確」になる。そんなうまい話がと思うかもしれないが、楽をすることによって、より正確になるのは事実なのだ。何も進んで苦しむ必要はない。

ここに書いたようなことは、すべて、原理的には小学校の教科書に書いてある。ただ、それを実用的にやらせる訓練を小学校ではせず、教条的な筆算ばかり練習させる。あれも原理に戻って理解すれば悪くない方法なんだけど、原理よりも「慣れる、覚える」方を優先する。あれじゃあ子どもらがかわいそうだと思う。

ただ、そう思って子どもたちにこんなことを教えようとしても、たいていは拒否反応にあう。そこで思う。やっぱり、人間の頭の構造は人それぞれだなあと。ただ、その構造を秩序付けていくのは教育で、教育にもうちょっと柔軟な発想があればなあとも、残念に思ったりもする。

 

こんな増田記事を見たので、書いてみた。

anond.hatelabo.jp

暗算ってどうやったらできるようになるの

BlackLivesMatterは「黒人の命は大事」なのか?

合衆国を吹き荒れる#BlackLivesMatterの嵐は、けっして他人事ではない。現代社会がコロンブス以降のグローバル化の果に成立していることを思えば、そのなかで植民地支配の歴史と人種差別の歴史はすべての人々の生活に分かちがたく絡まり合っているといえる。だから、合衆国に依然として残る人種差別の問題は、世界にすむすべての人々の問題でもある。

ということはなにも私が言うまでもないことなのだが、この記事のタイトルを見て「?」となった。いや、誤訳じゃない。これはこれで正しいのだけれど、それでいいのか?と。

www.bbc.com

「黒人の命は大事」、ホワイトハウス前に巨大ペイント 米ワシントン - BBCニュース

議論があるにしても、「black」がかつてアフリカ大陸から暴力で連行された人々にルーツを持ち、一部その他の人々も含みながら現在も合衆国で差別されている人々を表す言葉であることは間違いない。そしてblackという言葉がかつて差別的に使用された経緯があるにせよ、その上でなおBlack is beautiful. と価値を逆転させる闘争なども経て、現在はポジティブにも中立にも使用されるようになっていることもまた事実だろう。その翻訳が適当なのかどうかにも議論はあるが、「黒人」も、かつて差別的に使用されていたことは事実だが、現代ではそこに新たな意味を加えられているのだと主張してもかまわない。だから「黒人の」という部分は、とりあえず批判するつもりはない。翻訳を業としてきた者として気になるのは、livesとmatterだ。

もちろん、livesはlifeの複数形であり、今回、無残にも警官に奪われた生命を含め、差別によって奪われてきた数多くの生命を表現内に含むことは間違いない。matterは、この場合は動詞であり、「重要である」という意味である。だから「黒人の命は大事」は、誤訳ではない。けれど、適切かどうかということで疑問が残る。あまりにも削ぎ落としてしまった部分が大きいのだ。

 

これは中高生に英語を教えるときの定番ネタなのだが、英和辞書をひくと概ねlifeには3つの意味が掲載されている。詳しい辞書だともっと多くの意味が載っているが、それらも概ね3つの概念から派生したものとして理解できる。その3つとは、「生命」「生活」「生涯」だ。日本語では、これら3つは独立している。だから、英文中にlifeが出てきて「日本語で表しなさい」という問題になったら(昔のように「和訳しなさい」という設問は最近は流行らなくなった)、どの概念が当てはまるかをよく考えて訳さなければならない。ここまでは、学校の授業でもやることだろう。

私はもう一歩踏み込む。日本語と英語では、ひとつの単語の表現する守備範囲がちがうのが普通だ。だから、ひとつの単語が別の単語に一対一対応することはめったにない(たまにはあるし、学術用語なんかだと強制的に対応させているが、それはまた別の話だ)。だから、lifeに「生命」「生活」「生涯」の3つの意味があると捉えるのは誤っている。そうではなく、lifeという単語は、1つの単語で日本語のこの3つの意味のすべてをカバーするような概念を表現しているのだと理解すべきだ。たとえば、いま、目の隅になにか小さく動くものが見えたとしよう。よく見ると蜘蛛が一匹、机の上を這っている。こんなふうに動くものは「生命」だろう。その蜘蛛は動いてなにをしているのかといえば、「生活」をしている。その生活の様子を最初から最後まで追いかければ、それは蜘蛛の「生涯」を見たことになる。つまり、lifeという単語は、生命体を、その時間軸、空間軸まで展開して把握した概念だ。本来3つに分解してしまえるものではない。けれど、文脈によってその本質的な部分(生命)が重要になる場合もあれば、空間・時間(短期)的な展開(生活)が重要になる場合もあれば、時間(長期)的な展開(生涯)が重要になる場合もある。それぞれの文脈によって訳し分けることで、日本語に移し替えることができる。けれど、それはlifeをそのまま移し替えたのではない。

こんな話を、もっと噛み砕いて生徒にする。なんでこんなマニアックなところまで踏み込むかと言うと、そもそも語学教育の目的のひとつが言語を相対的、客観的に見る態度を涵養することにあるからだ。おっと、こっちに踏み込むと長いからこれはこのぐらいで置いておこう。ともかくも、多くの単語がそうであるなかで、特にlifeは典型的に日本語とイコールで結びつけにくい概念だ。

さて、BlackLivesMatterの文脈では、lifeはもちろん一義的には「生命」であるのだけれど、それは日常的に差別される「生活」であることも劣らず重要だ。そしてその毎日の生活の積み重ねで成り立つ「生涯」であることも重要だ。たとえば生涯賃金の格差であるとか、それだってlifeで語られる。つまり、ここでのlifeは、大まかに分けた3つの概念のすべてを含むものである。

 

matterの方はどうか。これは「重要である」という概念とそれほど大きく守備範囲は外れない。ただ、この文脈であえてmatterを使ったのは、このmatterが(相当な部分は無意識に)否定形で用いられてきた歴史があるからだろう。It doesn't matter. は、「たいしたこっちゃない」という感じで日常的に用いられる。そりゃ警官の横暴で一市民が死んだのは事件かもしれないが、世界情勢や経済情勢に比べたら「どうってことないじゃないの」みたいな文脈で否定形で用いられる。それをひっくり返して、「いや、それこそが現代社会の根本的な問題なんだ」と主張するためにあえて用いられている単語のように思える。その場合、たしかに「大事」なのだけど、なんだかそれでは軽すぎるような気がする。

 

特に、「命が大事」と対にして用いると、「え?」と思うのだ。そりゃあ命は大事だろう。いまさら言うことか?みたいに感じられてしまう。そういう意味で、この翻訳はどうなんだろう? 

とはいいながら、じゃあどう訳すと言われたら、私にも名案はない。そういう案件が来なかったことにホッと胸をなでおろしながら、こんな文句をつけるぐらいだ。訳すのが気が進まないから、#BlackLivesMatterと、ハッシュタグ付きで逃げるんだろうな、きっと。

 

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【追記】

もうちょっとマニアックな話をすると、matterが動詞である一方で「大事」が形容動詞の語幹であるというところも、文の与えるイメージを変えてしまっている。ま、長くなるからこの辺の話はまた別の機会にしよう。

たねをとるのは自然権 - 種苗法に寄せて

種苗法改正を巡って、いろいろな人の声を聞くようになった。私は以前、自家採種に関する本の編集に携わったこともあって、この方面には決して無関心ではない。けれど、法制度に関してはその本の著者グループの間でさえ温度差があり、私のようなシロウトがあまり踏み込んではいかんのだろうという感覚もおぼえた。現行の制度を変えるべきかどうかはともかく、現行の制度でさえ、問題点がないわけではないことも理解できる。なので、改正するのであれば、それはきちんと有識者が議論して、正しい方向性で改正されるべきであり、そういうことであれば、いまさら私がどうこういうことでもなかろうと、近頃では距離をおいていた。

種苗法にかぎらず知的財産関連の制度では、それをタテにとったグローバル企業の世界戦略との関連性が必ずとりあげられる。細かい話をすると長くなるので一言で乱暴に端折ってしまうとそういう世界戦略は概ね人類にとって好ましいものではない。なので、基本的に警戒すべきはそういった業界の企みだ。そして、そういう認識は多くの人が共有している。だからまあ、私が不勉強なままでゴチャゴチャ言わなくても、適当なところでブレーキがかかるだろうとタカをくくっていたところもある。

けれど、種苗法に関するニュースについたブックマークのコメントを見ていて、ちょっと別種の危機感をもった。一方的にグローバル企業を悪者に想定して警戒しているだけでは足元をすくわれるぞ、と感じた。というのは、思いのほかに、一般の人々が農業の感覚を共有していないと気づいたからだ。種苗の問題は、最終的には食料問題としてすべてのひとにかかわることではあるが、第一には農家の問題である。だから、農業の感覚がなければその本質が理解できないだろう。そして、本質をはずした議論ほど、危険なものはない。

日本はもともと農で持ちたる国だ。社会のあり方としては長く、農業とその他の生業をうまく組み合わせることで成り立ってきた。前世紀の半ば頃までは農家が社会の半数を占めた。すべてを農業に依存するのではなく、商売や職人をしながら少しの田畑を耕作する複合的な生き方が社会の主流であった。非農家の人々も、そういう社会の中では農業から遠いところにはおらず、農業に対する基本的な理解は社会の中に共有されていた。都会の人々もその多くは根っこを田舎にもっていて、田畑がどのように管理されているのかをぼんやりとでもイメージできていた。都会と田舎という対立軸だけではなく、農に対する共通理解の基盤も同時にもつことができた。だからこそ、前提を共有した議論が成立した。しかし、規模拡大を偏重する農政が農業の産業化を進めた結果(それ自体は世界的潮流でもある)、生活の延長にある農という共通理解の基盤は失われ、逆に産業としての標準が農業に求められるようになった。そしてその立場から見れば、農業には理解できないところが多くあるだろう。それをそのままにして産業的な視点だけで農業の法制度を議論されたら、想定外の結論が出てしまいかねない。そんな危機感をおぼえた。

本来なら、そういった見当はずれの議論が行われないためには、もっと別の根本的な動きを起こさねばならないのだろう。けれど、そのような膨大な作業を行う時間も当面ない。なので、とりあえず、種苗関係のことだけ、それもごく部分的に、その前提を以下に書いておこうと思う。

 

たね(以下、種苗のことを「たね」と書く)は守られるべきものだ。これは農業の基本だ。なぜなら、年を超えてたねをつないでいかなければ、収穫は絶えてしまうからだ。農業とは、たねをもとに作物を増やすことである。そのためには、たねは守られねばならない。

たねを守る方法のひとつは、それを広めることだ。農家は伝統的にそういう手法をとってきた。たとえば、私の母は50年も前からピクルス用のキュウリのたねをとり続けてきたのだけれど、5、6年前だったか、彼女の夫の入院や不作などが重なって、たねとりができなかった。ピクルスを漬けたことがある人なら知っていると思うが、ふつうの生食用のキュウリは大きすぎてピクルス容器に収まらない。小さなキュウリがなるピクルス用のキュウリのたねは市販されているが、苦味が強く、家庭でうまく漬けるのがむずかしい。母が育ててきたたねは、大きさと味わいのバランスのとれた秘蔵のものだった。それが絶えてしまった。母は数年、市販のたねをいろいろ試したが、どうにも納得のいくピクルスが漬けられない。ところがある日、親戚の家に、かつて自分が育てたたねが残っているのを知った。ずいぶん前にレシピとともにおすそ分けしたたねを途切れずに育ててくれていたのだ。そこからたねを分けてもらって、懐かしの味を再現することができた。

このように、たねは広めることで守ることができる。だから農家は、本能的に、たねを分けることに寛容だ。これは、実際にたねをとってみれば理解できる。たとえば自家菜園用に育てているダイコンのたねをとるとしよう。ひと株のダイコンに花を咲かせたら、ふつう、来年播くのに必要な量の何倍ものたねがとれる。まして、良いたねをとろうと思ったら、ひと株ではいけない。複数の株を残して強いたねをとるのが農家の知恵だ。結果として、多くのたねが余る。そのたねは、ひとにもらってもらうしかない。そして、そうやってたねを広めることで、たねは守られる。

たねを守ることは、たねを進化させることでもある。栽培植物は、長い歴史の中で、農家による選抜によって姿を変えてきた。農家は小さな遺伝子の変化も見逃さず、人間にとって有利な方向に作物の形質を変えていく。ただ、その方向性は、育種する農家の指向性によって決まる。たとえば母のピクルス用キュウリにしたところで、ある意味、食品工業的に最適化された既存のピクルス用キュウリには不満であると感じたから、母がそれをベースに交配と選抜を繰り返して生まれたわけだ。方向性は無数にあり得る。多くのひとが、さまざまな環境でそれぞれの好みや都合で育種することで、作物は多様な方向に分散する。そうやって、野菜や果樹、穀物には無数の品種が生まれてきた。たねをシェアし、共有財産として守ってきたからこそ、そこに多様性が生まれてきた。たねはオープンなものとして公開され、そこに自由に改変を加えることでさらにオープンな世界がひろがっていく。これが、農業の基本として続いてきたし、これから先も続いていかなければならない。

しかしまた、たねを守ることには、別な方向性もあった。それは、外部からの略奪を防ぐということである。特に、日本では江戸時代以降、特産品に関して、そういう政策がとられるようになった。領内の特産品を他藩に奪われては経済的利益が失われる。門外不出の品種が生まれた。

その重要性は農民の側も理解していた。しかしまた、農民には古来からの「たねを広める」本能的な姿勢もあった。だからこの時代、禁制のたねを髪の毛の間に隠して密輸する話だとか、偶然に入手する僥倖であるとか、そういったさまざまなエピソードが生まれている。信州名物の野沢菜は、京都の名産の蕪をこっそりと持ち出したが気候風土の違いから葉っぱばかりが育ってしまった失敗作が起源だという話も伝わっている。知的財産の保護は、重要ではあるが、決して厳格には行われ得ない。そしてそこからこぼれていく部分や境界の曖昧な部分から新たな進化が生まれ、多様性が花開いていく。

 

たねは、必ず必要以上の量がとれる。きっちりと優良な系統をつないでいこうとするのであれば、必ずたねは大量にとれてしまう。そういった性質があるから、農村では「たねとり」をする農家と、それに依存する農家が生まれるのが必然であった。そういったたねとり農家が土着の種苗店やそこと契約する育種農家へと発展していった。重要なことは、もともと種苗店や育種農家が栽培農家でもあったという点である。自家採種に必要な量を超えて採取する部分が販売用となり、だんだんとその比重が大きくなっていった。しかし、採取の基本は、栽培農家としての視点である。それがあるからこそ、なにが優良でなにがそうでないかを判断できる。育種には、必ず栽培者としての観点が必要になる。やがて品種の多様化に伴って地域の種苗店も自家育成への依存を減らし、たねを仕入れて販売する比重が増えていった。それでもまだ、地方には、「このたねはウチだけしか扱えない」という秘蔵の品種をかかえた種苗店が存在する。そういうところでも、実際の育種はその種苗店と契約した育種農家がやっているのだけれど、育種の現場はたいていは同時に生産の現場でもある。伝統野菜はそんなふうにして守られてきた。

そういった種苗店を統合する形で発展してきたのが、大手種苗会社である。タキイやサカタといった大手種苗会社は、科学的な手法を育種に持ち込むことによって、より安定した形で各地で育成されたたねを育て、ひろめてきた。ただ、この規模になると、営業上の利益は守らねばならない。外国との攻防でも負けるわけにはいかない。そういったたたかいにおいては、知財を保護する法制度が武器として欠かせない。武器はもろ刃の剣でもあり、知財保護が過剰に働くと、伝統的な農家のたねをとる権利を制限してしまう。長い間ひとびとが実践してきたたねをとる行いを否定してしまう。多様性と持続性を損なってしまう。多国籍企業というモンスターに対抗するはずの国内種苗企業自身がモンスター化する危険性をはらんでしまう。かといって丸腰で戦えば勝ち目はないだろう。法制度が必要でありながら、なかなか「これでよし」という形にならないのには、そういった事情もある。

 

たねを巡る状況は、こんな簡単にまとめてしまえるほど単純ではない。たとえば、歴史的に、日本への多様な品種の移入(奈良時代室町時代、江戸時代、明治時代など、何度か大きな波があった)をみても、そこにはさまざまな興味深い要因がある。明治から昭和にかけて農業試験場が果たした役割は、語り尽くせないほどの大量のエピソードをもっているだろう。世界史に目を転じても、19世紀の帝国主義の時代の新品種探索と普及への情熱なんかは、現代的な感覚からは異様に感じられる。そしてなによりも、現場の農家のたねに対する感覚は実に多様だ。「自家採種こそ農業の醍醐味」と思う有機農家から、「プロやったらタキイのこのたねを、なんぼ高こついても買わんかったら売り物になる野菜はでけへんで」と誇りをもって語る施設園芸農家から、もう百人百様といっていい。そういう多様性こそが農業を支えているといえる。そしてさらに重要なことは、そういった立場や考え方が大きくちがう人々が、実は地域の同じコミュニティの住民であり、地域としては共通する仕事をともに担っているということだ。立場の違いを乗り越えて用水の管理に協力しなければ米もつくれない。それが農業というものだ。そして、そういった地域の集まりでは、立場の多様性を認め合いながら、それでも共通した話題で話し合うことができる。自家採種派であってもカタログにある種苗の優良な部分は認めることができるし、サカタの信奉者であっても自分のところの婆さんが昔からつないでいる里芋の煮物は好きだったりする。そういった複合する世界に生きているから、農家は多面的に物事を語ることができる。そういった曖昧さや「なあなあ」の感覚が気持ち悪いと感じることが、私にだってある。けれどそういう気持ち悪ささえ飲み込んでしまう懐の深さが、古来から続いてきたこの日本社会にはある。

 

だから、種苗法の改正には、そういった多様で、懐の深い議論がなされてほしいと思っている。そして、そういった複雑で微妙な世界を切り裂いていくような一方的な議論、競争に勝つことや経済的に有利になることや、そういった産業の理論だけで合理化された議論が進むことに、私は危機感を覚える。この感覚は、なかなか理解してもらえないだろうという気もする。それでも、それが持続的な日本社会をつくりあげてきた土台だと思うし、その上にのびていく未来であるとも思う。

そんなふうに振り返ってみると、やっぱり私はリベラルじゃないよなあとか、思ってしまう。いまだに自分がわからないよ。やれやれ。

 

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Web 2.0 以前のテレワーク - ノマド的生き方の思い出

私は若いころ、学参業界と呼ばれた出版業界の片隅でフリーの編集者をしていた。地味で泥臭い仕事で、だから大学を卒業しなかった私でも潜り込むことができたわけだ。主な業務は原稿作成から下版までの校正作業を含む一切だ。写植の時代から電算写植、DTP黎明期からDTPが標準になる時代ぐらいまで、そういう仕事をやっていた。編集プロダクションのアルバイトから修行を始め、足を洗う数年前は小さな会社をつくって事業にしていた。だから20年近い経歴はずっとフリーというわけではない。

もともとこの仕事、好きではなかった。生きるための稼ぎとして始めた仕事が、そのうちにクライアントの業務の流れに組み込まれ、抜けようにも仕事が追いかけてくるようになった。だから学参以外の仕事があれば必ずそっちを優先して請けるようにしていたし、学参の仕事は可能な範囲で下請けに出して、できるだけサボるようにしていた。もっとも品質は確保しなければいけないので、完全に丸投げはできなかった。このあたり、チキンな性格がよく出ている。

そんなふうに年月が過ぎていたのだが、ある年、「嫌な仕事とかゴチャゴチャ言わず、今年は死ぬ気で稼ぐぞ」と決心した日があった。というのは、その年は指導要領の改訂を受けての教科書大改訂の年にあたり、私が最も多くの仕事をもらっていたクライアントで大規模な業務が発生していた。そしてそのクライアントは電算写植へのデータ入稿を活用することで大幅な業務フロー改革を行って、その大波を乗り切ろうとしていた。その中で、データ入稿ができる実行部隊として、私に白羽の矢が立った。可能な範囲でいくらでも仕事は受注できる。ただし、まだまだ経験の蓄積されていないデータの世界だ。中途半端なことでは大規模な穴を開けてしまう。請けるか、逃げるか、ふたつにひとつだ。私は腹をくくることにした。

通常よりも早い2月あたりから仕事がはじまった。クライアントからNECのノートパソコンを支給され、私は準備にかかった。その矢先、札幌に住むひとつちがいの兄から緊急の連絡が入った。兄嫁が危篤だという。私はとるものもとりあえず札幌に飛んだ。そして1週間がたって、兄嫁の息は絶えた。

いまならまったく別な対応をするのだと思う。けれど、若い私はどうしていいかわからなかった。ただ、同様に若い兄を放っておくわけにいかないと感じた。そこで弔いの準備のためにいったん東京に戻った私は、PCや書類をカバンに詰め込んで札幌に戻った。そして、喪に服した家で仕事をはじめた。

仕事をはじめてみると、それはそれでなんとかなることがわかった。ひたすらデータをつくりこむ作業だから、誰にも会わず、ひきこもっていてもできる。東京では都心部にアパートを借りていてクライアントから呼び出しがあればいつでも行ける態勢をとっていたのだが、そこを離れても、雑用がないぶんだけ作業に専心できる。1ヶ月もこもっていれば数冊分の原稿ができるから、PCをかかえて東京に戻り、クライアントの編集部の片隅にデスクを借りて入稿のための仕上げ作業をやる。数日の滞在でそれを終えると、再び札幌に戻る。そういうサイクルを何度も繰り返すことで作業は進行した。

やがて最初の頃に入稿した原稿のゲラがあがってくる。これは宅配便で東京から送ってくる。朱を入れて、同様に宅配便で返送する。この間のメインの仕事は原稿作成だから、そのリズムを崩さないように、ゲラのための移動は行わない。最初は2000円近い運賃を高く感じたが、そのうち、そのぐらいできちんと届けてくれるのは安いものだと思うようになった。そうやって夏を乗り切り、すべてのデータを渡し、校正から下版へのサイクルになった。さすがにその作業は遠隔ではできず、私は東京に戻ることになった。その頃には兄の生活もすっかり落ち着いていた。悲しみは悲しみとして、ひとは日常を取り戻さねばならない。

大車輪で校了へと動いて、私の請け負った仕事はほぼ予定通りにゴールに到達した。だれもが未経験のチャレンジで、よくあれだけのことができたものだと思う。実際、他の編集プロダクションが担当した教科は大幅に進行が遅れていた。なので私はそちらへの応援にも駆り出され、そして最終的にかなりまとまった売上が手に入った。私の生涯で、ほぼ唯一、まともな収入があった年度だった。

その大金を懐に、私はようやく念願をかなえることにした。学参業界から足を洗うのだ。まずは東京を引き払った。そして、いろいろあって、2年ばかり、全国あちこちの田舎を見て歩くことになった。あちらに3日、こちらに10日というように、農家や田舎暮らしの人々の家に草鞋を脱いでは、その暮らしの様子をつぶさに学ばせてもらうことになった。その話は長い別の物語になる。

ただ、世の中、思ったように事は運ばない。それだけの仕事を成功させた人間を、クライアントは放っておいてはくれないのだ。大改訂の翌年で学参業界全体の仕事は大きく減っていたけれど、それでも小さな仕事は継続的に発生する。クライアントはそれを私に回してくれた。

奇妙なもので、いったん根無し草の生活をはじめると、やはり不安が生まれてくる。お金はほしいのだ。だから、私も「学参から足を洗う」という決心はどこへやら、追いかけてくる仕事を渡りに船と請けることになる。結果として、私は旅の荷物にゲラを突っ込むことになった。一応、根拠地として京都にアパートを借りていたから、ゲラはそっちに届く。不在配達票をもって荷物を受け取りに行くと、そのまま再び旅に出て、そして出先から宅配便でゲラを返送する。そのうちに担当者からは「次はどこから荷物が届くか楽しみです」とまで言われるようになった。「寅さんみたいですね」と笑っていた人もいた。携帯電話が普及していなかったから、電話連絡はこっちからするか、アパートにいるときに運良くかかってくるのを受けるかしかない。それではあまりに不便だというので、滞在先の電話番号を教えることもあった。固定電話をそういうふうに使う感覚は、いまとなってはちょっと不思議かもしれない。

ちょうど、パソコン通信なるものが世の中に出回り始めた時期だ。インターネットが日常になるよりはるか以前、まだまだコンピュータは暮らしの中に入り込んでいなかった。それでも旅を続けながら、私はコンピュータの基礎をおぼえ、DTPにつながる知恵を学んでいった。そこから先は、次の物語だろう。

 

この話はフリーランスの業務であって、いま急浮上してきたテレワークとはちょっと毛色がちがう。どちらかといえばだいぶ前に流行ったノマドワークに近いような気もする。とはいえ、インターネット以前、会社に行かずにどうやって業務を成り立たせていたのかという疑問に、ひとつの事例として答えられるのかなと思って、このコロナの時代に書いてみた。ま、若くて体力があったからできたんだよなあと思う。

インスタントラーメンの思い出

世間のひとに比べれば、私はインスタントラーメンを食べないのだと思う。半年ほど前だったか、従姉妹と話していて、「月に1袋か2袋ぐらいは食べるかなあ」と言ったら、「うそ、あんなん、毎日食べるやん!」と驚かれた。月に1袋か2袋というのはそれでも私の生涯の標準からいえば多い方だろう。忙しくなるとインスタント食品に頼りがちになるのは、まあふつうだと思う。

別段、インスタントラーメンが嫌いというわけではない。そうではなくて、どうも分量が合わない。1袋食っても食事としての満足感はないし、じゃあ2袋食えるかといえば口が飽きてしまう。野菜や肉でボリュームをつければいいのかもしれないが、そこまでする余裕があるならなにもインスタントラーメンを使う必要はない。間尺に合わないから、台所に買い置きがあっても使わないまま日が過ぎる。消費期限が近づいて慌てて食べるようなこともあった。

それは、独身時代からずっとそうだった。むしろ、独身時代のほうが食べなかった。たぶん、ひとり暮らしをしていた20年足らずの期間に、自分のキッチンで調理したインスタントラーメンは数袋程度だと思う。チキンラーメンは子どものころから好物だったから、たぶんそれは食べている。ただし、山登りでは別だ。山岳部の朝食はインスタントラーメンと決まっていて、それもシビアな連中は嵩張らないマルタイラーメン一択だった。だから山岳部の連中と山に登ったら、必ずインスタントラーメンを食った。私の中でのインスタントラーメンの位置づけは、そういうものでしかなかった。

この、山で食うマルタイラーメン、山岳部に入って合宿で1日おきぐらいに食わされて、旨いと思ったことがなかった。腹が減っているから食えるのであって、あんなもの、普段なら絶対に願い下げだと思っていた。ところが、下宿生は合宿の残食のマルタイラーメンを喜んでもって帰る。「そんなもの、下界で食うか?」と聞いたら、「マルタイ、旨いで」と言う。変わったやつがいるもんだと思っていた。

それが、ある合宿のあと、残食を持ち帰った中にマルタイラーメンの袋があった。ふつうなら次回の合宿のためにまた部室に持参するのだけれど、そのときはたまたま母親が昼飯の段取りをしておらず、「なにか食べるものないか」という流れでこのマルタイラーメンを持ち出した。私は気が進まなかったのだけれど、ふと、下宿生の言葉を思い出した。「ちゃんとつくったら旨い」と、言っていたな。じゃあ、ちゃんとつくってみようと、水の量を計り、茹で時間を測って調理したら、拍子抜けするぐらいに旨かった。母親が、「あんた、山でこんな美味しいの食べてるんや」と言ったぐらいだ。

山登りでつくるインスタントラーメンは、基本的にまずい。それはまず、水の量がいい加減だからだ。多くの場合、少なくなる。なぜかといえば、それはまず水が貴重だからだし、お湯を沸かすのに必要となる燃料や時間がもったいないからだ。水が少なければ、燃料も時間も節約できる。必然的にスープは少なくなるが、それは調味料の袋を1つ減らすことで対応する。入部したてのころ、先輩が「全部入れるな」と言っていたのは好みの問題以前だったわけだ。さらに、高山では気圧の関係でお湯の温度も低くなる。沸点が下がるのだから、沸騰していても温度が低いままなのだ。加えて、時間がいい加減だ。みんな腹が減っているから、3分の調理時間が待てない。こういった各種要因が全部積み重なるから、山で食うインスタントラーメンは団子っぽく、決して旨いものではない。そもそも旨くつくろうというインセンティブがない。腹が満たされれば上等というのが、大学山岳部における山飯の基本コンセプトなのだ。

だから、「マルタイが旨くない」というのは、実に失礼なことだったわけだ。ちゃんとつくらないから旨くない。ちゃんとつくれば、さすが、九州人の誇りであるわけだ。

 

さて、遅い結婚をして、私は地方都市で慎ましやかな新婚生活を始め、やがて子どもにも恵まれた。結婚時点で私は自営業に復帰したばかりであり、少しの売掛金はあったものの決まった取引先もなく、自営というよりは無職不透明に限りなく近い存在だった。後になって嫁さんは「よくそんなんで結婚しようと思ったなぁ」と呆れるようになったのだが、そんな男と結婚してもいいと言ったのはあんただろうと、笑い話にしかならない。結婚してからは「稼がなきゃ」とフリーの翻訳者として仕事を入れるようになったが、駆け出しの翻訳者は、強引にでも仕事をとってこなければすぐに干上がる。待っていて仕事が転がり込んでくるような身分ではないわけだ。そうやって条件の悪い仕事でも文句を言わずに請け負ってどうにか収入を確保したが、いよいよ出産となって、それどころではなくなった。半ば意図的、半ばやむを得ず、私は産休・育休に入った。そして、ほとんど仕事もせずに半年が過ぎた。

仕事をしなかったのは、体力の弱った嫁さんを助けたかったのと、小さな子どもが気になって仕方なかったからだ。落ち着いて翻訳の案件を取りに行くだけの集中力もなかった。それでも半端な仕事を求めて再起を図ろうとしたが、子どもの泣き声が聞こえるたびにデスクをはなれていた。けれど、ウロウロするばかりの私が助けになることはあまりなく、産後の回復がなかなか進まない中で嫁さんの育児による疲労は増すばかりだった。

そうやって半年余りが過ぎたところで、このままでは詰んでしまうことに私も嫁さんも気がついた。まず、私が戦線離脱した。そのまま売上がほとんど立たない状態を続けるわけにいかないのを口実に、職安に行って奇妙な会社に雇われた(この一件は別の長い話になる)。一方の嫁さんは、しばらく孤軍奮闘を続けたが、すぐにあきらめて子どもを保育園に預けることにした。田舎のことだから待機もなく、すぐに受け入れてくれる園が見つかった。こうして彼女は、ようやく身体を回復することができるようになった。

地方都市のことだから、通勤はそれほどかからないのが普通だ。それでも私の新しい勤務先は、市街地を挟んでちょうど反対側にあって、バイクをすっ飛ばして15分ほどかかった。嫁さんと子どもが気になる私は、昼休みになるとすぐに会社を飛び出して、アパートに戻る。お互い、顔を見るとホッとするのだ(なにせまだ新婚だった)。そして昼飯ということになるのだが、彼女の体調の悪い日はなにも食べるものがない。じゃあ、さっとつくるよと言って、私がインスタントラーメンをつくることがよくあった。60分の昼休み、往復に30分とられるから、10分でつくって10分で食べるようなインスタントラーメンは重宝するのだ。そして彼女は、私がつくるインスタントラーメンが美味しいと、不思議がった。

なんの不思議なこともない。インスタントラーメンをほとんどつくったことがない私は、袋の表示通りに水と時間を測るしかなかったのだ。山岳部時代の経験から、水が足りないとインスタントラーメンが美味しくないということだけは知っていた。けれど、どのくらい入れれば十分なのか、経験がなかった。だから、スケールを持ち出してきて規定量を計った。キッチンタイマーで規定時間だけ調理した。それだけのことだった。それで十分な味が出るように、メーカーは設計している。

 

もちろん、あらゆる料理でそんなことをするかといえば、そうではない。私はどうも発達障害の気配があって、レシピを見ながら調理という並行作業ができない。ラーメンの水の量と加熱時間ぐらいならなんとかなるが、複数の調味料を使って、おまけにその投入のタイミングが決まっていたりするようなレシピは、未だに絶望的にこなせない。それでも独身時代からずっと台所に立ち続けているから、それなりに料理はできる。家庭菜園歴も長いから、他の人にはないバリエーションももっている。

そういう独特の料理をネタに、本を企画したことがある。知り合いの編集者と別の本の話をしていて、いつの間にか自分で料理の本を書くつもりになっていた。結局この原稿は日の目を見ることはなかったのだけれど、そこに書いた数十種類のレシピに、分量の記載はひとつもない。料理は一期一会であって、プロでもなければ再現性を求めるものではないように思う。

実際のところ、たとえ袋に書いてあるとおりにていねいにつくったとしても、もうあのときのインスタントラーメンの味は戻らないのだと思う。新婚の頃のあの驚きに満ちた日々は、あのときだけのものなのだ。

それもまた、人生というやつなのだろう。

なぜいま9月新学期を語るべきではないのか - 意見は変わるのが当たり前

思いもかけず「9月入学」の議論が行われるようになって、マズいなと思っている。本質からズレまくっているからだ。それに関してはもう1週間も前に書いた。

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「9月」は手段であって目的ではない。そして、手段としても既に遅きに失している。4月1日頃の時点では、「先が見えないと、安全な再開方法について十分な準備ができず現場が逐次消耗する。それよりは思い切った先に再開日を設定してそれに向けて準備すべきだ。結果的に秋から再スタートがいいだろう」と思えた。しかし、既に1ヶ月以上が失われている。それだけではなく、「安全な学校再開」という本来の目的を見失った議論で、こういった時期にもっとも避けるべき混乱が発生している。この方向で議論を続けても、「十分な準備」をするのに必要な時間を確保するどころか、むしろその時間がどんどん失われるだけだ。だから、この話はすっぱりと打ち切るべきだ。

そういう意味で、この朝日新聞の記事は本質をついている。これに何かを付け加えることはない。

www.asahi.com

 

私は「学校は変わるべき」と思っている。現状ではとても子どもたちの「教育を受ける権利」が保障されていないという問題意識をもっている。けれど、そういう問題意識を共有しない人々が主流の中で教育制度改革を訴えても、議論はアサッテの方向に行くだけだ。まずは問題意識をしっかりと人々に共有することが先であり、それがない状態で「この機会に問題解決を」と思っても無理だということに、いまさらながら気がついた。自分の愚かさを反省するしかない。

ただ、自分が問題を投げかけたことは後悔はしていない。もちろん「9月」は、有名教育評論家の思いつきが発端であり、私や、どこかの高校生が言ったことは議論の呼び水にはならなかった。それでも、多くの人が「ここまで引っ張ったらいっそ9月」と思ったから、議論がここまで盛り上がったわけだ。そして、こんな片隅のブログからでも、その議論に加われたことはよかったと思う。

そして、そういう議論の結果として、私は「やはり9月に仕切り直しというのは良くない」と意見を変えた。変節ではない。議論を通じて人は意見を変えるものだ。そうでなければ、議論の意味はない。これに関しては、以前に詳しく書いた。

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自分が誤ることを怖れて声を上げないことは、民主的な社会、科学的な態度を基調においた社会においてはもっともよくない。だから、私が「もう9月入学の議論はやめようよ」と言っても、やっぱり議論は続いていくだろう。だが、そこに加わる人々の意見もまた、変わるのだ。議論に加わる双方がそれぞれ意見を変えることによって、より次元の高い解決策が見つかる。それが議論の目的だ。

にしても、私はこの議論から抜けようと思う。だって、「欧米の主流に合わせよう」とか、あんまりにもレベルが低くて、アホらしいもの。それよりは、どうやって感染拡大下での教育が可能になるのか、そして、そのなかで私が問題だと思う子どもたちが学校で精神的に虐待されている問題はどのように推移するのか、そしてそれに対して自分に何ができるのかに、自分の意識を移していこうと思う。

 

それより何より、問題は息子を起こすことだ。学校休業のおかげですっかり生活リズムが狂ってしまっている。さ、朝飯の支度をして…