感染拡大から抜け出る細い道が見えてきた、ような気がする

専門家じゃないのでものすごく雑な話になる。たとえば抗体検査で抗体ありと出ても必ずしもそれで再度の感染をしない保証にはならないとか、たぶん詳しい人にはごく初歩になる前提とかもすっ飛ばしているかもしれない。けれど、抗体検査の結果がぼちぼちと出はじめて、ようやく出口に至る道筋が見えてきたように、シロウトなりに感じている。で、シロウトが居酒屋談義を始めたって仕方ないのだけれど、そういうレベルの話だとことわっておいてする分には害もなかろう。専門家の方から見て、「ああ、世間の誤解はこの程度なのか」と理解する一助になるかもしれないし。

 

まず、従来考えられてきた「出口」には二通りがある。ひとつは完璧な防御であり、たとえば天然痘が撲滅されたようなイメージだ。「コロナ制圧」とか言ってる人のイメージはそういうものなのだろう。もうひとつはいわゆる集団免疫の獲得で、これはウィルスとの共存ということになる。インフルエンザが完全に撲滅されているわけではないけれど既存のインフルエンザに関しては流行があっても別に緊急事態とはならないのと同様、感染する人が発生しても大流行にはならなければOKというイメージだ。この両者の中間に特効薬が開発されて治療法が確立することで解決していくイメージがある。これは「特効薬でウィルス撲滅」から「感染したら特効薬で治療」というところまで、ちょうど2つのイメージの中間の広い範囲をすべて埋め尽くす曖昧さをもっている。語る人によってイメージがちがうので、ちょっと厄介かもしれない。

この出口のイメージによっては以下の話がタワゴトにしか聞こえないだろうから、予めことわっておく。私は、水際作戦が失敗した時点で(後知恵で見ればそもそもあれが「水際」だったのかどうかも怪しいが)、出口は後者でしかないと思っている。つまり、「制圧」なんてのは無理、共存していくしかないんだろうなあと思ったし、いまもそう思っている。インフルエンザ治療薬の現在を見れば、仮に特効薬が出ても、それはほんのちょっと回復への道を助けてくれるぐらいで、基本的には厄介なまま残るのだろうと思う。もちろん、それでも薬はあったほうがいい。けれど、共存戦略の基本は、集団免疫であり、それはつまり、表現は悪いが「みんなでかかろう」ということなのだろう。

じゃあ、いま、外出を自粛し、三密を避け、手洗いを励行し、マスクをかけているのはなんのためなのかということになる。みんなで感染することが出口なのだとしたら、なぜ感染予防をするのだろうか。それはひとえに医療崩壊を起こさないためだ。

感染すれば、一定の比率で重症者が出る。爆発的な流行では、その数は膨大になる。重症者は医療機関で治療しなければあっさりと死ぬ。したがって病院に連れて行かないわけにいかないが、病院が対応できる患者数には限度があり、それを超えると医療機関が正常に稼働できなくなる。結果として、感染症以外の患者の治療もできなくなり、多くの救える生命が失われる。もちろん、医療機関から溢れ出した感染者の生命も失われる。これが医療崩壊のイメージだ。実際にイタリアで起こっていることはこれに近いのだろう。

だから、重要なことは、医療崩壊を起こさない程度のスピードで感染がひろがることだ。そして、そのスピードは、ブレーキを常に踏み続けない限りすぐに加速する。だから、自粛やらリモートワークやら何やらと、負担の大きい予防策をとらねばならないわけだ。これが現状。つまり、政策も、その実態を見る限り、「完全制圧」ではなく「集団免疫」を目指している。私がそう思うというレベルではなく、どうやら日本は(そして世界のほとんどの国は)それを目指している。

 

ただ、このブレーキ戦略、ブレーキを踏み過ぎるといつまでたっても集団免疫が獲得されないというジレンマをかかえている。感染者数が爆発すると医療崩壊が起こり、増えなければいつまでたっても集団免疫に必要とされる「70%の人が抗体を獲得する」ところまでいかない。ちなみに、少し余談になるが、「多くの人がいったんは感染すべき」ということと「高齢者は死亡リスクが高い」ということを併せて考えると、「どっちみち年寄りは死ぬしかないんやね」という結論に達してしまうように見える。これは今日、高齢の私の母親が言ったことだ。「ちゃうねん。若い人らが抗体をもったら、流行は止まる。そうしたら、感染力をもったひとが高齢者に出会う確率も下がるやろ。そやから、集団免疫ができるまで、できるだけ年寄りは感染せんようにせんといかんねん。そして集団免疫ができたら、年寄りでもある程度は安心してふつうの生活ができる」と、私は説明した。「じゃあ、どのくらい我慢したらええん?」と母親は聞いてきた。そこのところがいちばんの問題だ。

その手がかりになるのが、抗体検査のデータだ。海外では、地域住民をランダムに抗体検査したところPCR検査によって感染が確認された人数の数十倍の人が抗体をもっていたことが判明したというニュースもあった。日本でも、しばらく前にある医師が抗体検査を行った結果を発表したが、そちらの方はサンプル抽出やデータの処理に問題があって、あんまり参考にならない。そして、神戸の病院で「外来患者1000人の無作為抽出で33名のサンプルから抗体が検出された」というニュースがあった。

www3.nhk.or.jp

もちろんこれは、「病院を受診している」時点で既に体調不良の人が含まれる割合が高いわけで、多少のバイアスがかかっている。それでも、すべてのひとが不調を訴えて受診しているわけではないわけで、ある程度は参考にできるデータだろう。そしてこれは、希望であると私は思う。

というのは、これが合理的な感染拡大スピードを教えてくれると思うからだ。この調査が行われた4月7日の時点で神戸市は医療崩壊は起こしていない。つまりはこの程度の感染の拡大であれば医療崩壊は起こさないのだということがわかる。神戸に感染が広がり始めたのはおそらく2月であろうから、長めに見積もっても2ヶ月で人口の3%程度が感染するような流行であれば、医療崩壊は起こさない。そして、その程度の流行をダラダラと続ければ、おそらく3〜4年程度で集団免疫は成立するのではないだろうか。もしもその期間に医療機関の増強が行われれば、もう少し流行の強度は上がってもいいかもしれない。仮にワクチンができれば(私はあまり期待していない)、その期間はさらに短縮可能だろう。どちらかがうまくいけば、2年ぐらいで出口だろうか。

 

ということで、シロウト考えだが、この抗体検査の結果は、細くて長く、両側が崖っぷちの危うさを含んだ、それでも合理的に達成可能な出口への道筋を見せてくれたのだと思う。そういう意味で、福音だ。この道をうまくたどることができれば、医療崩壊も起こさず、軟着陸できる。そのためには感染拡大状況をコントロールすることはもちろん重要だ。そしてそれだけでなく、その他の撹乱要因が発生しないように細心の注意を払わなければならない。たとえば、まったく別種の感染症が追い打ちをかけて広まったら、それだけで医療機関へのダメージは計り知れないものとなるだろう。災害も同様だ。経済的要因による健康悪化でさえ、大規模に発生すればダメージをあたえる。実に危ない道だが、しかしそれでも、遠くに出口は見えている。

 

さて、そんなシロウトの希望がもしも正当だとして、その上で何が重要なのかということだ。それは、「うまくいっても2年かかる」というタイムスパンだ。そして、人間の緊急対応は2年どころか2ヶ月ももたないという事実だ。2年は、過ぎてしまえばあっという間だ。しかし、これから迎えるにあたっては、あまりにも長い。これをしっかりと認識することだ。

たとえば、2年間も売上がなければ、たいていの事業は干上がってしまう。私は自営業が長いので3ヶ月ぐらいは無収入でもどうにかこうにかなるぐらいの乗り切り方を身につけているつもりだが、言葉をかえればそのあたりが限度だ。実際、以前、震災後の不況で仕事が半年にわたって途絶えたときには安い時給で雇われの身にならざるを得なかった。事業によってはそんな悠長なことさえ言っていられないだろう。特に、実店舗を構える事業では、固定費負担がバカにならない。「経済を回す」みたいな脳天気な言葉なんかでは話にならないぐらいにえげつなく、お金が入ってこないことは事業を直撃する。

教育についてもそうだ。学校なんて2ヶ月や3ヶ月休んだってどうということはない。これは他の生徒が登校している最中に不登校になった場合でもそうだ。だから今回のように全員が休みになっているなら、なおのことどうってことはない。しかしこれが年単位になると、そのダメージは取り返しがつかなくなる。その好例は太平洋戦争中の勤労奉仕に見られた。非常事態ということで教育が打ち切られて子どもたちは工場や田畑に駆り出されたが、そこで失われた教育は、埋め合わされることがなかった。

だから、いま、緊急事態宣言が解除されるのを気長に待つようなことは、やってはならないのだ。なぜならそれは、断続的に2年間続く可能性が高いからだ。出口への細い道をたどるつもりであれば、緊急事態宣言は、いったん解除されても、必ず再度、発動される。感染拡大が一定のペースを超えたと判断されれば、いつでも再び緊急事態が宣言されるはずだ。だから、緊急事態宣言下で事業を止める、教育を止めるようなことを続けていては、取り返しのつかない被害が発生してしまう。いや、その被害は既に発生している。それがどんどん拡大し、深化し、社会を大きく傷つけてしまう。

 

2年間を失うわけにはいかない。ではどうするべきなのか。それは、緊急事態宣言下でも可能な形で事業や教育を再開することしかない。ここで思い出すのは、1970年代の「公害」だ。私はその時代、堺市の郊外で小学校から中学校に通っていたのだが、「光化学スモッグ注意報」が発令されると校庭には赤い旗が立ち、子どもたちは教室から一歩も外に出るなと厳命された。もちろん体育の授業も校庭を使えない。休み時間に遊ぶこともできない。正常な教育ができないという反発や不安が高まったが、やがて環境規制が功を奏して事態が正常化するまでの数年間、学校はそれで乗り切った。学校を閉鎖するのではなく、教育の形を変えてでも、継続する道を選んだわけである。

今回の感染拡大は、対策がもっともっとたいへんだ。赤旗を立てれば済むようなことではない。けれど、「緊急事態宣言下でも可能な形態の教育」は、思い切った改革を行えば十分可能なはずだ。行政はリソースを集中的にそういった改革に対して投入すべきだ。

そして、現在は感染拡大状況では絶対に再開できないと思われているような業種に関しても、何らかの工夫で、営業ができるようになるものがあるのではないだろうか。だから、政府はいつまでも休業補償を行うのではなく(あ、最初からやってなかった? 失礼。いや、最初の半年ぐらいはきっちりやろうよ)、「感染対策強化設備投資」や「感染対応業態転換投資」「感染に係る事業転換投資」などに対する融資や補助金、奨励金を積極的に出して、「緊急事態宣言下でも営業可能な事業」を増やしていくべきだ。そういうふうにして事業や教育を再開していかないと、とても2年は乗り切れない。

 

「経済が死ぬから緊急事態宣言を解除」とかいうのは、滅びへの道である。同時に、「感染が落ち着くまでは我慢」というのもそれ以上に地獄への道である。どちらも選ぶべきではない。必要なことは、2年間は緊急事態宣言が継続すると覚悟して、それでも社会活動が再開できるように、人間の行動様式を変えることだ。いみじくも、「新しい生活様式」が提唱されている。これはほんの小さな第一歩だと思う。そこからさらに踏み出して、感染拡大下でなお可能な活動を再開しよう。そして、行政は、それを積極的に模索し、支援すべきだ。そのぐらいのことができなくて、なんの政治だと思うよ。

 

ま、居酒屋談義だけれどね。あーあ、飲み屋も行けないんだから…

学校はどうすればいいのだろう - 現在進行中の不具合

春休みを含めれば既に2ヶ月、そしてこの先の1ヶ月の合計3ヶ月にわたる学校休業は、既に大きな被害をもたらしている。直接の原因は天災である。新型コロナウィルスの流行がなければこういった事態にはなっていないわけで、そういう意味では誰の責任でもない。しかしながら、教育を受ける権利が最高法規に明記されている以上、さらにはそれ以前に子どもたちを健全に育てねば社会が崩壊することが明らかである以上、いつまでも放置するのは社会として無責任であると言えるだろう。そして、制度上、責任は行政府にある。政府には、これを打開する責任がある。

これが、今回のような感染拡大でなければ、事態がおさまるのを待って再開という手段が妥当な選択肢に数えられるだろう。たとえば地震や洪水による被害であれば、復興を待って学校教育を再開というのは従来もとられてきた政策である。その際に失われた時間は、長期休暇の短縮等で埋め合わせることができる。

しかし、今回に関しては、同じように考えるわけにはいかない。ここのところがよく誤解されているように思う。5月の末だろうが9月だろうが、そこで感染拡大が収束している保証はひとつもない。希望的観測としては「梅雨時になれば…」とか「暑くなれば…」「いくらなんでも秋には…」というのもあり得るし、実際、私だって一日も早くいい兆候が出て元に戻って欲しいとも思う。しかし、いろいろと今回の騒動の本質が明らかになるにつれて、「元通り」はしょせん無理なんだなということがわかってきた。待ってもムダになる可能性が高い。なかなかはっきりしたことを言わない政府でさえ、「新しい生活様式」と言い出した。元通りにならないことをこれほど明確に表現したことは、これまでなかったのではないか。もしも戻る気があるなら、「新しい」なんて言わなかったはずだ。ここから先、かなりの長期にわたって生活様式を変えなければならないことがよく表現されている。

元通りに戻すわけにいかないこと、そして、感染拡大がどう推移するか読めないことを併せて考えれば、子どもたちの教育に関しても、「新しい教育様式」を考えないわけにいかない局面だということが自動的にわかるはずだ。なぜなら、従来の学級制をベースにした学校運営では、感染リスクを誘発する密集が避けられないからだ。もちろん物理的に教室を広くして拡声器などを使用して密集を避ける方法もないことはないが、もっと単純に、子どもたちの集団単位を小さくすることのほうが有効ではないかと思う。そして、そういった変化を準備するには時間がかかる。

現在、学校はてんてこ舞いだろう。小出しに延長される休業に対処するため、さまざまな仕事が発生している。そういう消耗戦を続けても、「新しい教育」は見えてこない。そうではなく、いったん完全にオフにして、その代わり、きっちり準備して「新しい教育」をスタートするほうがいいのではないかと考えた。だから私は以前このブログで「9月」を主張した。このあたりのことは、ここまでくどいぐらいに書いてきた。(そろそろこの話題から離れたいのだけれど、どうも世間の議論がアサッテの方向から動かないので、そうもいかない。やれやれ)

 

特に、現在の議論からすっぽりと抜けているのは、「じゃあ、対策しないでこのまま放っておけばどうなるのか」という視点だ。現在どんな不具合が生じているのかを直視することだ。そこに焦点を当てれば、「どうも感染が収まらないからまた1ヶ月休業を延長します」みたいな対応を続けることはもう無理だということがわかるはずだ。これが他の災害なら、そういう様子見だってあり得るのだし、教育改革なんて時間と手間のかかる議論はもっと落ち着いたときにやってくれという話も説得力をもつ。けれど、現状はマズい。そしてこれを続けることはもっともっとマズい。先の見通しがたたないことは、破滅的にマズい。子どもたち自身やその家庭では、かなりのひとがそれに気づいているはずだ。

 

学習面に関してマズいのは、子どもたちの教育がバラバラに行き当りばったりで行われていることだ。もちろん、緊急時にはそういう現場の臨機応変な対応こそが必要とされるし、そういった対応の中からしか未来は生まれない。だから個別で頑張っておられる教員の方々には頭が下がるし、その努力はきっと報われるものと思う。しかし、さまざまな学校の生徒を横断的に指導する立場の家庭教師から見れば、このような対応が生徒一人ひとりの単位で学習への取り組みに大きな差を発生させることにつながっているのが見える。そして、そこで失われるものは、現行の枠組みを維持したいのであれば、とてつもなく大きい。(私自身の個人的な信条からいえば、学習進度がてんでんばらばらになることには何の問題もなく、むしろ、その方が世界が豊かになるとさえ思う。皆が同じカリキュラムを同じように学ぶことが前提である現在の教育制度はむしろ子どもたちを不幸にしていると思う。だが、緊急事態下にそこまで話を広げるべきではないので、ここは現行の枠組みを尊重する形で話を進める)。

子どもたちの学習が遅れることに対して、ある学校では「宿題」で対処し、ある学校ではさらに「オンライン教材」を加えて対応する。その出し方の工夫も千差万別だ。そういった差も大きいが、それ以上に大きいのは子どもたちの側、家庭の側の受けとめ方だ。同じ課題が出ても取り組み方の程度の差は、通常時に比べてはるかに大きい。というのも、学校は表向き休業であり、休業中の自宅学習は成績に反映しないというタテマエになっているところが多い。それを額面通りに受け取ってサボるのも、それはそれであり得る対応だろう。その一方で、「この休みの間にこそ差をつけろ」とハッパをかけられて取り組む生徒もいる。そういった意識の差は通常時でもあるのだけれど、ふだんであれば学校教師はあの手この手を使って子どもたちの取り組みの強度を揃える。いわゆる「やる気」を上げるための各種の手口はあざといほどで、私なんかは「そこまでせんでも」といつも思うのだけれど、そういうふうにすることで(特に中学・高校では)生徒たちの「学力」(つまりはテストの得点能力)がある程度足並みをそろえた水準で保たれている面も否定できない。そういうフォローがない状態で、コロナ休み明けに蓋を開けたら、とんでもない格差が発生していることに気づくはずだ。

そして、こういった臨時の学習形態は、教材に依存することになる。それが本当に正しいことかどうか、私は疑いをもっている。というのは、授業もなしにいきなり問題集の問題に取り組ませるのは、海図もなしに航海に送り出すのと同じようなものだからだ。ただ、皮肉なことに、一部の優秀な生徒に関しては、むしろ余分な授業なんかなしにひたすらドリルに取り組む学習のほうが得点能力をあげている。特に高校生ではそれが顕著だ。その一方で、一部の生徒にとっては教材を開いても何をしていいのかさえ見当がつかない事態を発生させている。結果として、学校が同じ対応をしている生徒であっても、そこに大きな学力差が生まれていくことになる。

さらに、学習産業の対応も一様ではない。教室型の塾や予備校は特に都市部では休業要請を受けて閉鎖されている。それらの塾や予備校でも、オンラインに移行できるところはオンラインで商売をしているが、やはりそれは利用者のリテラシーによって結果の差を拡大する。家庭教師は一部営業を続けているが、自粛下の需要は特に増えている様子もない。このようなところからも格差はひろがっていくだろう。

 

学習面の個人差は、大きな視点に立てば問題ないともいえる。あるいは、数年かけて修復していくこともできる。より大きな問題は、子どもたちが蒙っている精神的な被害だ。これは、子どもの年齢によって性質が多少異なっているように見受けられる。

小学生の場合、被害は遊びを通じた人間関係の成熟が阻害されることだ。そしてこれにはかなり個人差が大きい。近所に仲のいい友だちがいて、どちらの家庭でも外遊びに対して強い抵抗がない場合には、影響が小さい。一方で、学校が休業することで仲のいい友だちに会えなくなって孤立する子ども、家庭から外出を強くいましめられて友だち関係が切れてしまう子どもも生まれている。集団の中での自己形成が重要な年齢において友だちの果たす役割は大きく、長期にわたることによってその被害は加速度的に大きくなっていくだろう。

中学生に関しては、友だち関係の重要性もあるが、思春期の重要な時期に不安をひとりで抱え込まねばならないことの影響が大きいようだ。親子関係が変化しはじめる時期でもあり、特に両親が在宅勤務になった場合など、思わぬ影響が出ることにもなるだろう。学校はそういった場合の逃げ場としての役割ももっていたのだけれど、逃げ場をなくした子どもが追い詰められるケースもこれから増えてくるのではないだろうか。

高校生になると、なによりも将来に対する不安が高まってくる。学校は、「ふつうに学校に行っていればどうにかなる」という、ある意味根拠のない自信を与えてくれる安全装置の役割ももっている。その学校が休業することで、それでなくともこの年齢に生まれがちな将来への不安を覆い隠すことができなくなる。漠然とした不安は、長く続くとひとを蝕むだろう。

そしていずれの年齢においても、いつ再開されるのかわからない、いつになったらこの状況から抜けられるかわからないという不安が常に日常につきまとうことになる。その影響は個人差が大きいが、センシティブな子どもにとっては負担が大きすぎるのではなかろうか。

 

そして、無視できないのが、子どもたちを育てる家庭の負担だ。多くの家庭は、子どもたちが学校にいって昼間は留守にすることを前提にその生活を組み立てている。小学校低学年の子どもに対しては生活ケアをしなければならないので、学校がない場合、そのめんどうをみるおとなの在宅を必要とする。私自身の経験では、在宅仕事中に6〜7歳の子どもが周囲をウロウロするのは、仕事の能率を大きく下げる。学年があがるとそのあたりの負担は急速に減るが、怪我やけんかなどのトラブル対応が多くなる。もちろん、交通安全などの面での不安も高まる。高学年になると、学校からの要請によっては勉強の管理をしなければならなくなる場合もある。中学生との間で精神的なコンフリクトが発生しやすいことは先にも述べた。高校生ぐらいになると、子どもが在宅することによる親の精神的な負担はほとんどなくなる。せいぜい、バカでかい生き物が家庭内のスペースを専有することによるストレスぐらいでおさまる場合もあるだろう。

精神的なダメージを倍加させるのが、やはりここでも「先が見えない」ことだ。特に、休業期間中の子どもはたいていは生活リズムが狂いがちで、学校の勉強もなかなか進まないため、親の方は「こんなことではこの子はダメになるのではないか」といういわれのない不安を感じるようになる。よその子どもと比べて、「この時期に差がついてしまうのではないか」と焦ることにもなる。前の方で書いたように学校の対応も子どもの側の受け取り方も多様で「これがふつう」というものがないため、「ふつう」に慣れた多くの親は「だいじょうぶだろうか」と思わずにいられない。

そういった精神的なダメージほどではないが、もちろん、子どもが家にいることによる家事負担、経済的負担は小さくない。子どもといっしょにいられる時間をポジティブな方向にもっていける場合もあって決して困ったことばかりではないのだけれど、やはり学校の存在は大きいと思い知らされるのが、今回の休業なのだ。

 

こういった不具合が現実に被害として発生している。そして、重要なことは、そういった被害が既に発生してしまっただけでなく、今後さらに続き、そして徐々に修復が困難なほどに拡大していくことだ。1ヶ月耐えることと2ヶ月耐えることでは、ダメージの大きさが単純に2倍というわけにはいかない。先行きの不透明さがあたえるダメージは、それをさらにさらに悪化させるだろう。

だからこそ、「新しい生活様式」を確立するのと同じくらい、感染拡大下でも可能な「新しい教育様式」を打ち立てなければならないのだ。それが確立できれば、たとえ感染拡大状況の中でも、学校は再開できる。そういった教育改革を行うためには時間がかかるが、最低限の時間はかけてでも、それをつくり出す意義は大きい。そして、そのために必要な時間は中途半端な対応策はすっぱりとあきらめてつくりだし、そのかわり、仕切り直しのスタート時期を明確にする。それが被害の拡大を最小限に留める最善の方法だと思う。

 

考えてみれば、子どもたちが全面的に教育機会を奪われる状況、そしてそこから新たな教育方法が打ち立てられて再開していった状況は、初めてではない。去年、八十八歳で幸福な人生を終えた私の父親の子ども時代がそうだった。現在の中学生に相当する年齢のころ、父は戦時体制のためほとんど教育らしい教育を受けられなかった。そして戦後、教育改革の中で、ほとんど何も知らないまま、新しい制度によってつくり出された高校へと進学し、そこでほとんど何も学ばないままに卒業させられた。旧制から新制への移行にはそれなりの配慮が設定されていたはずなのに、現実には戦時下の教育機会の損失はついに埋め合わせられなかったのだ。

そういった失敗を繰り返してはならない。戦時下にはすべての世代が被害を蒙ったのだからと、非常事態のせいにしてはならない。同様に、感染が拡大しているのだからと、公正な教育機会が失われるのを座視していてはいけないのだと思う。

もちろん、私個人の思いとしての「学校なんて行かなくったって…」というのはあるのだけれど、それを言い出したら、混乱に拍車をかけるだけになるのだし…。とにもかくにも、コロナ、はやくおさまってほしい…

「授業」はもう時代遅れなのか - 言葉はていねいに使わなければいけないなあ

授業
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

教師が諸分野の知識,技能を生徒に習得させるために行う活動。講義や一斉教授など教師中心の授業が伝統的であったが,今日では新教育の影響で,生徒の自主性や経験が重んじられ,多様な授業方式がある。また授業の改善,科学化を求めて,授業分析などの授業研究が盛んになってきている。

デジタル大辞泉の解説
[名](スル)学校などで、学問や技芸を教え授けること。「国語の授業を受ける」「教科書なしで授業する」「授業時間」

授業(じゅぎょう)とは - コトバンク

家庭教師は気楽な商売だ。というのは、生徒と一対一で学習を進めるからだ。たまには「きょうだい一緒に面倒見てください」みたいな注文もあって、複数の生徒を同時に指導することもある。三人きょうだいを同時に指導した経験もあって、やってやれないことではないことは知っている。けれど、それはあまりにも負担が大きく、指導の質を著しく低下させる。なので、数年前からはそういう注文はできるだけ水際でことわるようにしている。なんだかんだと口実をつけて、同時指導は避けている。

だから、私は学校の教員に対して、いろいろと文句をつけながらも、「すごいなあ」と尊敬の念は失っていないつもりだ。もちろん、指導内容があんまりにもあんまりでどう考えても尊敬できない教師もたまにはいる。けれど、それであっても、私にはとうていできない複数の生徒の指導、それも二人や三人ではなく、その一桁上の人数の指導を同時にやるのが学校の授業なのだから、やっぱりすごいことだと、素直に思う。生徒にも常々そのことは言うようにしている。商売敵である学習塾の悪口は平気で言うが、学校は商売敵とは思っていない。むしろ、共同して子どもを育てていくパートナーだと、一方的に思っている(学校側が家庭教師をそんなふうに見てくれないのはしんどいのだが、それは長くなる別の話だからやめておこう)。

家庭教師の指導中には、そんなふうに生徒と学校の話もよくする。そして、そういう会話の中で、つい数日前、小学校六年生の生徒がこんなことを言った。ちなみに彼は、ある私立小学校の生徒である。

「オンラインで授業の動画をアップしてくれてるなんて、親切な学校やなあ」

「でも、ぼくは学校の授業のほうがいいな」

「だよね」(そりゃ友だちに会えるからだろうなあ)

「学校での授業だと質問できるでしょ。オンラインだと質問ができない」

「ほう」(おや、けっこう本質をついてるな)

「学校の先生が言ってたんだけど、授業料ってのは無限回数質問ができるチケットみたいなもんだって。何回質問しても料金はかからないんだから、どんどん質問しなさいって」

「いい先生やなあ」

「家庭教師が嬉しいのはそこ。何を聞いても答えてくれるでしょ」

(こら、そこで胡麻を摺るな!)

というような内容である。そして、これは「家庭教師は気楽な商売」の本質をついているだけでなく、実は学習というもののひとつの本質をついている。

現代の学校教育が、近代科学の手法をその基礎としていることは、逃げようとしても逃げられない事実だ。その手法を大雑把にいえば、疑問をもち、仮説を立て、仮説を検証するための実験・観察を企画し、それを実行し、結果を考察して、仮説の妥当性を確認し、そして最初の疑問に戻るというサイクルである。けれど、実はあらゆる疑問に対して実験・観察を行うべきなのかというと、そうではない。多くの人が認めた既知の事実については、その事実が導き出された過程をたどることで、実験・観察を行わなくてもよいとされている。そして、そういう既知の事実を追跡する過程を補助するのが教師の役割であり、その行為が広義の「授業」ということになるだろう。そして、その「授業」の方法として、古代より採用されてきた方法が「対話」である。

たとえばプラトンは、学習の方法として対話を重んじ、彼の学園では教育は基本的には教師と生徒の対話で進行したと伝えられている。その著述も多くは対話形式でまとめられている。孔子の教えは基本的に「師曰」と対話形式で残されているし、江戸時代の安藤昌益の著作にも対話によって学問を深めていったと思しき部分が残されている。

対話がなぜすぐれているかといえば、それが思いもかけない関連性を明らかにしてくれるからだ。ヘーゲル弁証法ではないが、生徒の質問に対する教師の答えは、そこでとどまるものではない。教師が答えることによって生徒には新たな疑問が生まれるし、教師の側にも同時に別な疑問が生まれる。それを解決するためにいずれかが新たな問いを発することになり、それに対する答えはまた新たな疑問を生む。このようにして連鎖的に断片的な知識がつながっていくことによって、それまで見えなかった新たなことが見えてくる。教師は既知の事実を提供するデータベース的な機能をもつが、その知識の連関をつけていく作業は実は教師一人でできるものではない。生徒からの問いかけによって新たなつながりが見えることはごくふつうに起こる。だから、そんなふうに指導するスタイルで家庭教師をやっていると、「いっしょに学ぶ」という言葉がキレイごとでもお題目でもないことが実感される。私は、生徒との対話から、実に多くのことを日々学んでいる。若いころに学参業界で問題集・参考書の編集をしていたときには教科書の隅々まで読み込んでそこに書かれてある内容は完璧に理解していたつもりでいたけれど、いまは毎日のようにそこに新たな発見をしている。そこまでの含蓄があったのかと驚くことも少なくない。

だから、質問ができることに価値を認めているその小学六年生は学問の本質の一部を的確につかんでいるのだと思う。実際、私だって、学会発表なんかで質疑応答の時間がなかったらひどくがっかりする。もちろん、私自身が質問の手を上げることなんかあり得ない(専門分野とよべるものがない私が講演会や学会を覗く機会は多くないし、その場合でも門外漢としてそこにいるので、とても発言の資格なんかない)。けれど、私よりもずっと頭のいい人々が、私の感じた疑問をより適切な言葉で質問してくれる。私がぼんやりと感じていて言葉にできなかったようなモヤモヤをすっきりさせてくれる。質問は本当に大事なんだと思う。

 

さて、「授業」という言葉は、「学問や技芸を教え授けること」と辞書にあるので、その定義どおりに使うのであれば、上記のような対話をふくんだ生徒と教師の相互作用全般を指すことになるのだろう。そのような活動は、おそらく人間社会においてはいつまでもなくならない。人間の知的活動の根本のひとつといってよいように思う。

しかし、「授業」という言葉で思い浮かぶのは、百科事典に「講義や一斉教授など教師中心の授業が伝統的であった」と記述されているように、小中学校からはては大学に至るまで、教室で教師が教壇から行う講義であろう。そして、そのような講義は、多くの場合、決まりきった解説の繰り返しになる。実際、かの小学六年生のように教師を質問責めにするような優秀な生徒は少ないし、特に中学生ぐらいになると教師のほうが、教師が「不規則発言」と判断するような質問を拒絶するケースが増える。これは教科の枠組みをつくってしまう現行の指導方法もよくない。たとえば、例の小学六年生に弥生時代の話をしているとき、「その前は?」「縄文時代」「その前は?」「旧石器時代」「そのもっと前は?」「いろんな食べ物を求めて移動生活していたと考えられているね」「その前は?」「尾のない猿が分かれる前だから、猿を思い浮かべてもらえばいい」「猿になる前は?」と、どんどん話がさかのぼって、ついにはビッグバンまでいったことがあった。こういうのは、現行の科目の枠組みではあり得ない。仮に高校理科まで含めることがOKだとしても、社会科が理科になり、理科の生物領域がやがて地学領域へと進む。そういう科目の枠組みを超えることは授業ではできないから、仮に質問を自由に受け付けるスタイルの授業を行っていても、あるラインからは拒絶しなければならなくなる。

そこまでもいかない。多くの学校の授業では、教師が教えようと思った内容から踏み出すことはない。質問はその内容の細部に関するものに限定され、それも、「理解が不足している」「誤解している」部分を補正するものにしかならない。これは教師が悪いのではなく、ひとつには授業がそのように設計されているためであり、もうひとつにはアウトプットとしての特定の技能・知識がテストの点数として測定対象になっているからである。たとえばいま、ここで比率の知識を教えたいときに、合金の知識や栄養素の知識に踏み込んだ質問をされては困るのである。それでは目的の成果が得られない。いきおい教師の授業は、その授業で伝えることを絞り込んだエッセンスに集中してしまう。そして、そのようなギリギリに洗練されきった教師の言葉には生徒の側もたいした疑問を抱く余地がなく、よって授業は活気を失い、最悪の場合には「ここ、試験に出るから」という情けない一言で生徒の注意力を喚起するしかなくなる。

これが、一般的な「授業」のイメージだろう。そして、そういう授業が実際にはその目的であるアウトプットの測定値にもあまり寄与しないことが明らかになっている。そういう意味で、私は「授業は時代遅れ」と公言してはばからない。けれど、よく考えてみたら、それは本来の定義上の「授業」とは異なったものだ。本来の意味では「授業」が時代遅れになることなんかあり得ない。ああ、言葉はていねいに使わねばならないなあと、反省する。

 

点数をとるための授業は、実際に、私だってやる。具体的に例を上げると去年、大学受験を目指す生徒を担当した。彼女は不登校からのドロップアウトであり、高校に行かなかったから授業はまったく受けていない。高卒認定で受験資格はあるけれど、いきなり対策問題集を解かせようにもあまりに基礎知識がない。だから私は、数学・理科・社会の3教科を大急ぎで講義した。そんな講義では、それこそ試験に出ないようなことに踏み込む余裕はないから、基本的には学校でやるのと同じような授業になる。だから、たとえ時代遅れでも、世の中がそれを基準にして回っているときには、必要があればそれをやる。

学校の教員も、同じことなんだろうと想像する。本当はもっと、知的に興奮するようなことをやりたいのだろう。それをやるだけの力もある。けれど、枠組みが与えられ、目標値が与えられたとき、それを簡便にやっつけてしまう方法として、従来の方法が既に最適化されている。そこから踏み出すことはあえてできない。そういうことではないのだろうか。

だからこそ、枠組みを変えなければいけないと思うのだ。そしてその枠組みの転換は、決して現行学習指導要領をひっくり返すような過激なことを行わなくても可能だと思う。ただし、入試制度だけは変えなければならない。なぜなら、そこが点数主義の極北だからだ。それさえ変えてくれれば、変化は可能になる。可能になるだけで、実際に変化が起こるかどうかは別問題だ。そこは、現場の人々の意識にかかっているだろう。彼らのプロ意識を、私は信じている。

どのような形で「感染拡大下の教育」が可能になるのか - 極論としての試案

学校のスタートを9月にするという政策が動きはじめているようだ。1ヶ月前からそれを主張してきた私は、複雑な思いをかかえている。それに関しては前回のエントリに簡略に書いた。

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正直、この話題には少し辟易してきていて、そろそろ別の話題(たとえば料理のことだとか)に移りたいのだけれど、乗りかかった船、もう少しこれに絡んだことを書いていこう。

上記記事で、「感染拡大の状況下で教育はできないのか? 方法さえ工夫すればできるはずだ」と書いた。では、どのような方法が考えられるのだろうか。もちろん実際には公教育の外側で家庭教師なんかやっている私なんかよりもずっとそういうことを考えるのにふさわしい人々はいる。これから書くことは外野の騒音でしかない。けれど、立場がちがえば見えてくるものもちがう。私は学校内でのさまざまなことは知らないが、幼稚園児から大学生までさまざまな年齢の子どもたちを相手にしてきて、彼らの目を通した学校という存在はよく知っている。そういった視点からは、内部から見えないものが見えるかもしれない。そして、そういった異なる視点は、参照項目としては役に立つだろう。書き記す意味はあると思う。

 

本論に入る前に、まず、前提として、私の学校や公教育に関する考え方をごく短くでも述べておいたほうがいいだろう。というのは、こういった非常時の大きな動きに際しては、ふだんからの問題意識が前面に出てしまうもののようだからだ。たとえば、ふだんから「日本の学校はなぜ欧米のように9月始まりじゃないのだろう」という問題意識のある人は、この期に及んで、およそ本質とはかけ離れた9月始業の利点を語りだしたりする。彼らにとっては、それこそが本質なのだろう。

では、私にとって本質的な問題意識は何かというと、それは、「現在の公教育は、憲法に保障された教育を受ける権利を阻害している」というものだ。つまり、もともと根本的な問題をかかえている(詳細は当ブログの他の記事も参照していただければと思う)。これが、多くの人の思う「現代の教育問題」とは大きくちがう点だ。多くの人々が「問題」と思うのは、たとえばPISAの点数であったり、不登校生の増加であったり、大学の生産性であったりする。だが、私のように獣道を選んだ者にとっては、そういう問題意識はしょせん、現代の教育システムをうまく勝ち抜いてきた人々の「なんでお前らはダメなんだ」というおせっかいにしか見えない。それこそが「教育改革」がダメダメな根本原因だとさえ思っている。まあ、前フリはこのぐらいにしよう。

 

感染拡大下での教育の形は、子どもの年齢によって異なる

「学校」と一口に言っても、小学校から大学まで(あるいは幼稚園から大学院まで)その性質は大きく異なる。だから、対応もそれぞれに異なってくる。細かい話でいえば各学年ごとに異なるぐらいだが、あまり細かすぎる話をしてもこの段階で現実的ではないので、とりあえず学校種別ごとに考えてみよう。

まず、簡単なのは高校、大学だ。というのは、これらの学校で学ぶ人々は、それなりに大人である。分別もあれば、かなりのスキルもある。だから、ICTを活用したリモート教育も、それなりに可能になる。スクーリングや実習、実験などが必要となっても、短期間であれば常識的な安全対応で乗り切ることができるだろう。大学でも研究室での研究が必要な段階や、大学院での研究はそうとばかりも言っていられないかもしれないが、対人接触頻度を減らしながら実施することは、この年齢層ではある程度の自律によって可能であろう。もちろんそれを支援する体制が学校側になければどうしようもないのは言うまでもない。

一方、まるで事情が異なるのが小学校だ。なぜなら、小学校で最も重要なのは、教科学習ではなく、集団生活を通した社会的技能を身につけることだからだ。学習塾的な発想だと、「自宅でオンライン教材を用意すれば学力は…」となるのだが、小学生の成長のために必要なのは、そんなケチなものではない。

そして、もうひとつ重要なのは、小学生に関しては学校には教育以外のニーズもあるということだ。現在の学校に教育以外の役割があまりに多く社会から押し付けられている現状を私は好ましく思っていないのだけれど、それでも、まだまだ物理的にも精神的にも弱い存在である低学年児に関しては親が仕事中にその安全を守ってもらう役割(託児機能)が必要だし、探検や冒険に心が動く中学年から高学年にかけては別な意味で安全を確保してもらう役割がある。そういうニーズには対応してほしい。つまり、密集を避けるべき感染拡大状況と真っ向から対立する集団化がどうしても要求されるのが小学校なのだ。

中学校ぐらいになると、事情が変わる。だが、現実には、学習産業界でいうところの「教育ニーズ」が最も高いのが中学生なのだ。それはなぜかというと、もう単純に高校入試があるからでしかない。そして、たいへん申し訳ないのだが、これについてほとんどの中学校で思い違いの教育が行われている。現場の教員の方々は頑張ってるのに、そもそも枠組みの設定がおかしいから、子どもたちが一方的に苦しんでいる。そして、その状況で、もしもICT化とかで合理的な教育をやり始めたら、子どもたちの苦しみは倍加することだろう。だから、中学校に関しては、その在り方を根っこから変えない限り、感染拡大下での安全な教育はありえないと思う。

 

感染拡大下、小学校の教育はどう行われるべきか

小学校の場合、「子どもたちを学校に集める」スタイルは、変えるわけにいかない。ただし、それ以外のことは、現行指導要領に準拠しても、かなり変更が可能だ。

感染拡大下でまず手を付けるべきなのが、「学級制度」だろう。「学級」の歴史に関してはたとえば柳治男あたりの研究を参照してもらえればいいが、日本独自のものである。これが、多数の子どもを一人の教員が効率的に管理し、しかも同年齢集団を育成する上で効果的であるということは、まちがいないだろう。けれど、かつて45人から50人にまでふくれあがった1教員の担当児童の数は、現在では30人程度であり、さらに副担任制の導入などにより、多数を同時に管理しなければならないニーズは小さくなっている。それにもかかわらず多くの教員の苦労が減らない(どころか増えている)のは、教員が管理すべきとされる項目が一方的に増えすぎているからではないだろうか。もちろんそれぞれにはそれぞれなりの必要性があって増えているのだが、学習指導要領の精神からいっても、学校はもっとスリム化してもいい。そうすれば、必ずしも「学級制」は必要と言えないのではないか。

「学級」を解体することによって、「同時に一教室に全員が集まって同一の行動をする」必要がなくなる。そうすることによって、過密を避けることができるようになる。小学校をよく観察してみるとわかることだが、あれだけ広い敷地内に、常に児童が充満しているわけではない。児童は学級の行動とともに密集しており、ある時間にはある空間にだれもおらず、別の時間には別の空間がガランとしている。その一方で、児童は常に密集した集団内に存在する。これが現在の「学級」の在り方だ。

もしも、行動の単位を7〜8人程度までの小集団に変更することができれば、学校内での密集度をかなり下げることができる。その場合、現状の講義型授業中心のスタイルは無理になる。日本ではほぼそのスタイルでしか学校が運営されてこなかったためギョッとするかもしれないが、外国の例を見ると、小集団単位の探求型学習にはメリットが多いことがわかる。そして、それは現行の学習指導要領とも矛盾しない。実際、ごく少数であるが、日本でもそういう学校運営を取り入れて成果をあげている学校はある。それもずいぶん以前から。そういう手法が広まらないところが、学級制の強固なところなのだろう。だが、それは感染拡大と両立しない。

さらに密集度を下げる方法として、学校の敷地を広げる方法がある。単純に面積が広がれば人口密度が下がる理屈だ。これには分校方式を採用すればいいだろう。少子化の影響で、多くの学校が統廃合になっている。その校舎のかなりの部分は使用不能になっているが、まだまだ使える校舎は残っている。こういった空き校舎、空き教室を分校として復活させればいい。また、地域の公民館などの公共施設も、時期を限定して分校扱いで教室化することができるだろう。うまくいけば登下校の負担も軽減され、密集度を大きく低下させることが可能になるかもしれない。

感染拡大の中で、高校はどのように対応可能か

実はこの答えはもう出ている。多くの高校で、学習のオンライン化が進んでいる。その基盤となっているのがCMS(コース・マネージメント・システム)だ。実は私は翻訳者として十数年前から十年間ばかり、CMSの開発・販売をするある会社の仕事を継続的に受けていたことがある。だからその仕組みも長所・短所もよくわかっているのだけれど、システムそのものは非常に合理的にできている。各社さまざまなものがでているが、基本的な仕様に大きな差はない。うまく使えば、かなりのことがCMSを利用して可能になる(ただし、GIGO、使い方が誤っていればロクな結果にならない。もしも「あんなモノ使えない」と思っているユーザーがいたら、そもそも使い方が正しいのかどうかをもう一度見直してほしい)。現在最大手はベネッセのClassyというシステムらしいが、哀しいかな先日情報漏れを起こした。まあ、そのあたりは別の話だ。

学習の主要部分をオンライン化し、分散登校を組み合わせれば、高校では9月といわずすぐにでも学校は再開できるはずだ。そして実際、いくつかの学校ではオンラインによる課題管理と学習を4月から開始している。そして、非常に皮肉なことなのだが、家庭教師としてそういった生徒を教えていて、現在評価されている基準をもとにした「学力」だけを単純に測定するのであれば、今年の生徒のほうが去年の生徒よりもよく伸びている。申し訳ないが、学校の斉一式の授業よりもオンラインを利用した自習のほうが成績を上げるらしいのだ。

それで本当にいいのかと言われれば、私は絶対にちがうと主張したい。けれど、現在の高校の学習指導の主要部分は、大学その他への進学に引きずられている。そして、その中で、「テストの点数を上げる」こと以上の正義はないとされている。アホな話と思っても、現実にそこをやらないと生徒が進学において不利益を蒙ることになる。だから、高校の教育改革は大学入試制度改革を伴わなければ方向性も見えない。そして、いくらなんでも、コロナに紛れてそこまでやったら牽強付会と言われるだろう。だから、本当はそこからやらねばならないし、そこからやるのならさらに「感染拡大下での高校教育」についてもっと深い議論ができるのだろうけれど、それは当面、見送らなければいけないんだろう。残念ながら。

そして、中学校

小学校と高校の間にあって、中学校はいちばん厄介だ。現状の学校システムを破壊するぐらいに変えないと、感染拡大下での安全な教育なんてありえないだろう。たとえばオンライン授業するといったって、そもそも「スマホを禁止すべきかどうか」レベルで止まっている現在の精神状態じゃ、話にならない。さらに、高校では「やむを得ない」と目をつぶることもできる(なぜなら極端な話、高校は行かなくったってどうにかなるのがタテマエだから)「学力」重視の学習も、中学ではやはり本質論としてちがうと言わざるを得ない。ここでいう「学力」は、もちろん試験の点数のことであり、本当の意味での素養はそういうものではない。ただ、私たちはそういうものを評価する正しい方法をまだ知らないでいるので、下手にそこを語りだすといろいろとあやしいものが紛れ込んでくる。本質的に中学校教育にはそういう難しいところがある。その上、この年代は危険な年代でもある。精神的なケアも必要で、本来学校にそこを過剰に求めてはいけないのだが、それでも果たす役割は小さくないだろう。

ということで、もしも中学校に話を進めるのであれば、どうしても「じゃ、公教育って何よ?」というところまで風呂敷を広げなければいけなくなる。この緊急事態下でそれができるのかどうか疑わしいが、それでもやるべきことはやらねばならないのではないだろうか。

 

「9月入学で日本も欧米並み!」みたいな議論が、心底アホらしいことが、少しでもわかってもらえるだろうか。「9月」は、「感染拡大下での安全な教育」を可能にするための議論と準備にかける最低限の(たぶんもう足りないけれど)時間を確保する便法に過ぎない。そしてその議論って、ほんと、たいへんなんだから!

「9月始業」は目的ではない - 手段と目的を取り違えることの危険

突然のように学校の「9月入学・始業」が取り沙汰されるようになった。私はほぼ1ヶ月前から「9月始業」を唱えてきたので、本来これを喜ぶべきなのだろう。もちろん、「今頃になって遅すぎる」という不満はある。けれど、議論の初動が遅れるのはやむを得ないとも言える。ということで、4月1日以来、3つの記事を書いて、これについて論じてきた。

mazmot.hatenablog.com

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だから議論の盛り上がりは歓迎すべきなのだろうが、かえって危機感をいだいている。というのは、議論が「9月入学・始業」にフォーカスされているからだ。そこ、本質じゃないから。

 

最も重要なことは、ボールドで書こう。こういうことだ。

子どもの教育機会は奪われてはならないし、子どものいのちも失われてはならない。

しかし、COVID-19は、どちらも損なっている。重要なことは、この被害が既に発生しており、かつ、今後も継続するのがほぼ確実だということだ。

感染拡大の収束が予見できない状況で学校再開を先延ばしにすることは、教育機会を奪う。感染拡大の中で再開すれば生命への危険が発生する。

ことに、1ヶ月単位で行われる学校休業の延長は、教育の遅れだけでなく、子どもたち、子どもを育てる家庭にとってとてつもない精神的なダメージを与えている。先が見えないことがどれほど人間の精神を毀損するかは、ちょっと立ち止まって考えてみればわかることだ。

「感染拡大がいつ止まるかわからないから仕方ないじゃないか」というのが大人の言い分だろうが、じゃあ、感染症が脅威であれば教育なんてできないのか。感染症の脅威は仮に今回のウィルス騒ぎがおさまっても何度でもやってくる。感染症を理由に教育ができないなんて、それはおかしいだろう。本当に感染拡大の状況下で教育はできないのか? 方法さえ工夫すればできるはずだ。

教育機会と子どもたちの安全を両立させるには、教育制度をふくめた教育方法の大規模な変更が不可欠になる。そしてそういった改革には時間がかかる。

通常なら、数年以上の時間をかけて検討すべきだろう。しかし、緊急事態だ。急いでやってやれないことはない。ただ、いくら全力で急いだって、ふつうなら半年はかかる。だから、4月1日の時点で、半年後の秋を、主張した。そこで「10月」と素直にいえばよかったのだが、たぶん「9月」のほうがウケがいいだろうと思った私が甘かったよ。

教育改革を実施するには、時間がかかる。けれど、期限を切って行なえば出来ないはずはない。そして、それを行うのであれば、子どもたちに対して「いつ再開します」と約束ができる。

そうすれば、教育機会と生命の安全と、両立できるのだ。もちろん、この混乱時に拙速を避けるべき、という意見も十分に説得力はある。けれど、それは感染拡大がおさまって平常に戻ることが前提であり、先が見通せない政策になる。子どもたちはそれではもたない。

こういった前提をすっ飛ばして、やれグローバルスタンダードだの何だのと、吐き気がする。アホちゃうかと思う。そりゃ、そういうメリットもあるだろう。けれど、いま全力で取り組むべきなのは、「どうやったら安全な教育が可能なのか」というその一点なんだよ。わかってくれよ。「9月入学・始業」は手段であって、目的じゃないんだ!

「9月新学期」について再々考

4月1日のエントリと前回のエントリで、「COVID-19による学校閉鎖問題のひとつの解決策としての9月新学期への制度変更」について書いた。この問題に関しては緊急に議論を深める必要があると思う。その議論はもちろん、こんな片隅の雑記ブログなどではなく、国政レベルで行われるべきだとは思うのだが、ここのところ検索で(このブログにしては比較的)多くの人が読んでくれているようでもあるし、さらに話を進めてみようと思う。

というのも、Yahoo!ニュースで、次のような記事を見かけたからだ。

news.yahoo.co.jp

9月入学・新学期は進めるべきではない ― 子どもたちと社会への影響を重く見るべき4つの理由(妹尾昌俊) - 個人 - Yahoo!ニュース

これは私の主張とはちがって「この時期に制度の変更は行うべきではない」というものだ。主張はちがうのだが、それなりに説得力のある論だと思ったので、そこへの反論を書いておこうと思った次第。

上記の記事では、制度変更をすべきではない理由を4つあげてある。

第一に、9月新学期にすると、児童生徒、学生は、みんな半年余分に学校に通うことになる。(中略)

第二に、9月新学期にすると、高校生や大学生らにとっては、学費や生活費が余分にかかることになる。(中略)

第三に、9月新学期は、社会への影響が甚大だ。企業などの採用時期を見直す必要があるが、これは時期をずらすか、通年採用などにすればよい話でもあるので、手間、労力はかかるとはいえ、そこまで大きなダメージだとは考えにくい。

深刻なのは、人手不足への影響である。9月新学期を主張する方々は、6ヶ月間、新規の労働力が約100万人分減ることをちゃんと考えておられるのだろうか?(中略)

4つ目の問題は、この危機のときに、9月新学期という制度改正に、文部科学省等の人的リソースを割くのが賢明と言えるのか、という点だ。

9月新学期にするには、少なくとも、学校教育法施行規則の改正が必要となる。(後略)

と、まず主張の核心部分だけを引用させていただいた。ちなみに、これだけでは著者の主張の根拠になる部分が抜けているので、詳細は原文を参照していただいたほうがいいだろう。

それぞれもっともなのだけれど、これらにはすべて合理的な反論が可能と思う。ひとつずつ書いていこう。

 

1. 半年余分に通わねばならない問題

これは確かに、児童生徒にとっては等閑視できない問題である。多様なニーズのなかで、半年長く学校にいることが耐えられないほどに感じられる場合もあるだろう。実際、私はいまでも、小学校を卒業できたとき心底ホッとしたのを覚えている。どうにも馴染めない学校だったから、一刻も早く抜け出したかった。あの6年生の春に「もう半年」と言われたら、たぶんひどく落ち込んだことだろう。

けれど、もしも現行の教育カリキュラムを尊重するのであれば、実質的に既に1ヶ月は失われてしまっている。そして、その失われた1ヶ月を補うため、夏休みの短縮であるとか授業時間数の増加であるとか、そういったつじつま合わせが必ず発生する。その場合、たとえば夏休みを心底楽しみにしている子どものニーズは無視していいのだろうか? 6時間授業が負担になってそれ以上はどうやっても無理という生徒の不利益は考えなくていいのだろうか?

どのような対応をとろうと、既に感染拡大によるダメージは発生している。そのダメージを最小限にする努力は必要であろうが、その努力は9月新学期と矛盾するだろうか? そして、「9月新学期などのオオナタを振りかざす前にやるべきことがある」のかもしれないが、しかしまた、やれることには限界がある。感染拡大が収束していない状況下においては、いったん局面を切り替えて「やれること」をしっかりと整える必要があるのではないか。そのために子どもたちの時間をもらうことは、既に蒙り、そしてこれから蒙るであろうダメージとの天秤のなかで、あり得ないことではないのではないか。

2. 学費・生活費の問題

問題は2つに切り分けられている。当面の学費・生活費と、本来得られるはずだった潜在的給与を失う問題である。この切り分けはうまいと思う。

そして、前半だが、

政府や大学等のほうでなにか支援策が講じられるかもしれないが、全額補填などはないだろうから、自腹をきることは覚悟しておいたほうがよい。

と書いておられるわけだが、なぜ、そこで「覚悟しておいたほうがいい」と断定できるのだろうか。もしもそれが問題であり、そして支援策によってその問題が解決できるというのであれば、それを政策に含めるように議論を盛り上げていくほうが筋ではないのだろうか。もちろん、政策には予算的裏付けが必要であり、無い袖は触れないだろう。けれど、いまは非常事態として必要なところには手当を行う姿勢を政府も(不十分とはいえ)示している。やはりここは、支援を取り付ける方向で解決できるのではなかろうか。

つぎに、半年分の給与が得られない問題だが、もしもそれが一概に言えるのであれば、なぜ中卒・高卒で就職を選ぶ人ばかりではないのか、説明がつかないだろう。教育は、それを受けたことによって生涯賃金が上昇する効果をもつ。近年はそれも少し怪しくなってきているが、原理としては、学校で学ぶ時間は、賃金の上昇分で埋め合わせられてお釣りがくることになっている。だとしたら、半年余分に学ぶことは、それだけスキルを上昇させることにもつながるわけで、生涯賃金的にいえば何らの損失でもないのではなかろうか。そういうことにこだわりだしたら、浪人や留年は絶対的に避けるべき損失にしか算定されないだろう。しかし、多くの浪人、留年経験者は、それが単純な損失だったとは語らないはずだ。

3. 人材供給が途絶える問題

これも著者による問題切り分けがあり、特に前半に関しては著者自身が「そこまで大きなダメージだとは考えにくい」と、問題視していない。ということで、後半の「6ヶ月間、新規の労働力が約100万人分減る」という部分だ。

これは実際のところ問題であるかもしれない。しかし、いま教育現場の態勢を建て直さないまま、形だけ現在の年間スケジュールを維持した場合、実際には子どもたちに十分な教育が実施されないまま年度が過ぎていく危険性がある。この1年は、形の上では単位は取得できたけど、それはコロナ特例であって、実際には学習によって得られるコンピテンシーが身についていないという結果になるかもしれない。そして、そういう人々が人材として供給されることが、果たして望ましいだろうか? それは、戦時下に教育もそこそこに兵士が足りないからと若い人を前線に駆り出した発想と共通するところはないだろうか?

現実を直視した場合、既に1ヶ月は失われている。そして、この先も、まだまだ失われるものが多いことはほぼ確実と思われる。そういうときに、その失われるものを現場の工夫や子どもたち自身の頑張りや「やる気」などを動員してなんとか埋め合わせる形をとることが、本当に実効的であるだろうか。それよりは、失われる時間をきっぱりと捨ててしまって、新たな「withコロナ」の時代にマッチした教育方法で再出発するほうが、人材の供給という側面を考えても得策ではないのだろうか。

4. 非常時にリソースを割く問題

これは説得力があるように見えて、実はそうではない。なぜなら、手を拱いていても、非常事態のもとではリソースはどんどん空費されるからだ。現在、文部行政は混乱している。小出しにされる学校閉鎖にどのように対応すべきか、さまざまな対策を考え、通達を出し、現場の調査を行うなど、想像するだけでとてつもない仕事量だろう。しかし、「オオナタを振るう」ことによって、こういった細かな対応は棚上げできる。つまり、非常時だからこそ、大局に立った大きなアクションがリソースをセーブできる可能性があるのだ。

もちろん、より一層の混乱を招く可能性もある。そこは政治の世界であり、政治家がプロとしての力量を発揮してくれることに期待するしかない。それが望み薄であるというのなら、そこは同意せざるを得ないのだけれど。

 

 

以上、「4つの理由」はそれぞれもっともではあるけれど、決してそれでもって「9月新学期」の案を否定するものではないということを示したつもりだ。もちろん、これらの理由、あるいはその他の理由で、「やっぱり9月新学期はマズいよ」という結論になる可能性もある。

しかし、重要なのは、オープンな場で議論が行われることであり、そして、それを踏まえてできるだけ早急にこの先のロードマップが提示されることである。現状が最も危険なのは、この先どうなるか、行き当りばったりでしか対応できないことだ。緊急事態宣言が解除されるのか継続されるのか、どの程度継続するのか、またその際に学校の扱いはどうなるのか(継続しても学校は別扱いになる可能性が高いと私は踏んでいる)、そういったところがまったく読めないまま日々を過ごすのは、子どもたちにとってやりきれず、現場の教育関係者にとっても仕事にならない。そういった現状から脱出することを政策の最優先においてほしいと願っている。

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【追記】

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9月新学期再考 - 後手後手の対策はすべてを消耗させる

先週末あたりから急にこのブログへの検索からの流入が増えたなと思っていたら、その頃、有名教育評論家が「9月新学期」を言い出したらしい。そして、それを受けて文部科学大臣も「様々なところで声が上がっていることは承知している」みたいなことを言ったとか。私が、「9月新学期」について

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ブログ記事を書いたのが4月1日だから、3週間以上もたってようやくそういう話が表面に出てきたわけだ。おかげでアクセスが増えるのは「ごっつぁん」ではあるのだけれど、正直なところ、「なんで今頃になって?」と首を傾げざるを得ない。

感染拡大の状況がたかだか1ヶ月の緩いロックダウンでどうにかなるわけではないことは3月末には明らかだった。そして、文部行政的に(私の好みじゃないよ)1ヶ月以上始業を遅らせることが困難なことも明らかだった。この2つを足し合わせたときに最も合理的な案のひとつが「9月新学期」になることは火を見るよりも明らかだった(もちろん別の合理的な案もあって、たとえば私はもっと根本的な教育制度改革のほうがいいと思うけど、そんな過激な案はだれも賛同しないことぐらいはわかる)。

それはおそらく、多くの教育関係者が感じていたことだろう。だが、彼らは見ないふりをした。なぜなら、そんな気の長い話をするよりも、もっと短期的な目の前の課題が山と積まれていたからだ。とりあえず通常の始業がなくなって5月始業ということになると、それを前提にした調整作業だけで気が遠くなるほどの仕事になる。教育評論家だって、まずはこの1ヶ月の過ごし方とかそういった方にネタが山ほどあるから、長期的な政策なんかに手を出す必要はない。だから、ほとんどの人が見てみないふりをした。たまたま昨年末に体調を崩して生徒を極端に減らしたままリハビリ中で暇な家庭教師である私のような人間を除いては。

 

しかし、もうひとつの重要な関係者である生徒にしてみれば、実はそれがいちばん困るのだ。もちろん、生徒たちは多様だ。私が現在教えている数人の生徒だけとっても、休みで嬉しい生徒から、期待して進学した学校が始まらずに困惑している生徒、来年以降に不安をかかえている生徒、友だちに会えずに残念がっている生徒まで、実にさまざまだ。それでも、現代人の子ども時代が学校を中心に回るように設計されているのは否定できない事実であり、それは教育を受ける権利として法の根幹にもなっている。そして、彼らは「教育を施してもらう」客体ではなく、「教育を受ける」主体である(ちなみにこういう書き方をするとeducationの翻訳を「教育」としたのはよく指摘されるように誤りだったように思えてくるのだが、まあ、それは別の話だ)。学校が閉じたままそれがいつ再開されるかのメドもたたないことから最も影響を被るのは、生徒たちなのだ。

2月に突然、学校閉鎖の要請が官邸から出たとき、遠方の高校の寮に入っている息子を迎えに行った帰りの車のなかで、私は息子にこんなふうに言った。「休みにするのはひとつの手段として有りやと思うけど、ほんまに難しいのは再開するタイミングやで」と。その段階で官邸は4月春休み明けでの通常のスケジュールを想定していたようだが、当然、そうならない可能性も(その頃の常識としても)かなりあった。それは「状況を見て判断する」ということだったけれど、じゃあ、再開できなかったらその次はどうなるのか、どういう状況になったら再開可能と判断するのかとかいった具体的なポリシーは何も出さなかった。そして春休みになってまずは東京で学校再開が1ヶ月延期になり、「これは絶対に波及するな」と見ているうちに緊急事態宣言で主要都市にそれが拡大した。最終的には緊急事態宣言の全国への適用で、さらに多くの学校が休みになった。いまここ、だ。

文部科学大臣は「あらゆることを想定しながら対応したい」とか言っているそうだが、その内容を明らかにしない。あらゆることを想定するのであれば、それを何パターンかに分け、「こういう場合はこうする、こういうときにはこんなふうに対応する」と明示すべきなのだ。でなければ、現場はそのときがくるまで何が下りてくるかわからず、全方面作戦を強いられることになる。それでは現場がもたない。

そしてなによりも、生徒たちが消耗してしまう。いつになったら始まるかわからない学校に対して、「家庭学習で…」みたいなことを言われても困るのだ。「いつ再開されてもいいように準備しましょう」なんて言ったって、準備態勢を無期限に長く続けることはおよそ現実的ではない。いつ、どんな形で学校が始まるのかのイメージがなければ、ただただ先の見えない五里霧中に迷うばかりだ。

 

だから、私が「9月新学期」を主張したのは、何よりも「再開のメドをはっきりさせる」ことが重要だと考えたからだ。だからそれは「9月新学期」でなくてもいい。「こういう形でこの時期に再開させますよ」と、行政がわかりやすい形で示すことが何よりも重要なのだ。「9月」と言ったのは、それがいちばん受け入れられやすく、かつ、状況に合わせた変革を行うのに最低限必要な時間を確保できると考えたからだ。だから、そこにはこだわらない。最も重要なことは、ロードマップを明らかにすることなのだ。

そう思えば、文部科学大臣の「あらゆることを想定しながら対応したい」はとんでもない発言だということがわかる。5月連休明けの再開に加えて、さらに2週間とか、さらに1ヶ月とか、場合によっては9月とか、そんなふうに選択肢を増やしても何もならない。いま重要なのは決めることだ。あやふやなまま様子見をしていても、どんどん不具合はたまっていく。そして、その不具合を解消することもできなくなる。なにしろ、下手に動いて「やっぱりそうではなかった」となったらどうしようもないからだ。

 

感染がどのように収束していくのか、まだまだ見えない。だから、明確なロードマップを描きにくいというのはわかる。しかし、それは「平常に戻る」ことを前提にしているから、そうなるのだ。以前同様に戻すつもりなら、感染の影響がほぼなくなる時期を待たねばならず、それはいつになるか不明だ。そうではない。「感染が拡大しても、その上でなお教育機会を確保するにはどんな方法があるか」を模索し、検討し、議論して、「どんな状況になってもこれなら再開できるね」という教育方法を打ち出さなければならない。それができてはじめて、「何月何日に再開できます」と明言できる。そして、それこそが明確なロードマップであり、それを描くことは不可能ではない。

だから、「9月再開」(あるいはそれ以外の明確な再開時期の提示)は、大きな教育改革を伴わなければ無意味だ。斉一講義式の現在の授業方法では、それこそ感染が完全に抑えられない限り再開不可能になる。そうではなく、もっと密集を避けた指導方法、極端な点数主義に陥らない探求型学習、ICTを活用した遠隔学習などのセットでもって、学習指導要領の本質をついた新たな教育方法を確立しなければならない。そして、休校措置の間の時間は、従来型の方法をなんとか繕うおうとする個別対応(たとえばプリントの作成とか動画コンテンツの急造など)に費やすのではなく、もっと遠くを見据えた指導方法の研究と議論にあててほしい。

 

そういった根本的な改革を伴わない単なる「9月新学期」は、ズルズルと時間を失うだけに過ぎない。実際、既にこのほとんど1ヶ月を失っている。単純に失っているだけでなく、その間に多くの関係者、特に生徒とその家庭を消耗させている。このあたりで大きな方向性を出してほしい。そして、それは思いつきではなく、理性的な議論を経たビジョンにもとづくものであってほしい。

 

ビジョンが伴わない政策ほど虚しいものはないのだからね。

 

 

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【追記】

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