「9月新学期」について再々考

4月1日のエントリと前回のエントリで、「COVID-19による学校閉鎖問題のひとつの解決策としての9月新学期への制度変更」について書いた。この問題に関しては緊急に議論を深める必要があると思う。その議論はもちろん、こんな片隅の雑記ブログなどではなく、国政レベルで行われるべきだとは思うのだが、ここのところ検索で(このブログにしては比較的)多くの人が読んでくれているようでもあるし、さらに話を進めてみようと思う。

というのも、Yahoo!ニュースで、次のような記事を見かけたからだ。

news.yahoo.co.jp

9月入学・新学期は進めるべきではない ― 子どもたちと社会への影響を重く見るべき4つの理由(妹尾昌俊) - 個人 - Yahoo!ニュース

これは私の主張とはちがって「この時期に制度の変更は行うべきではない」というものだ。主張はちがうのだが、それなりに説得力のある論だと思ったので、そこへの反論を書いておこうと思った次第。

上記の記事では、制度変更をすべきではない理由を4つあげてある。

第一に、9月新学期にすると、児童生徒、学生は、みんな半年余分に学校に通うことになる。(中略)

第二に、9月新学期にすると、高校生や大学生らにとっては、学費や生活費が余分にかかることになる。(中略)

第三に、9月新学期は、社会への影響が甚大だ。企業などの採用時期を見直す必要があるが、これは時期をずらすか、通年採用などにすればよい話でもあるので、手間、労力はかかるとはいえ、そこまで大きなダメージだとは考えにくい。

深刻なのは、人手不足への影響である。9月新学期を主張する方々は、6ヶ月間、新規の労働力が約100万人分減ることをちゃんと考えておられるのだろうか?(中略)

4つ目の問題は、この危機のときに、9月新学期という制度改正に、文部科学省等の人的リソースを割くのが賢明と言えるのか、という点だ。

9月新学期にするには、少なくとも、学校教育法施行規則の改正が必要となる。(後略)

と、まず主張の核心部分だけを引用させていただいた。ちなみに、これだけでは著者の主張の根拠になる部分が抜けているので、詳細は原文を参照していただいたほうがいいだろう。

それぞれもっともなのだけれど、これらにはすべて合理的な反論が可能と思う。ひとつずつ書いていこう。

 

1. 半年余分に通わねばならない問題

これは確かに、児童生徒にとっては等閑視できない問題である。多様なニーズのなかで、半年長く学校にいることが耐えられないほどに感じられる場合もあるだろう。実際、私はいまでも、小学校を卒業できたとき心底ホッとしたのを覚えている。どうにも馴染めない学校だったから、一刻も早く抜け出したかった。あの6年生の春に「もう半年」と言われたら、たぶんひどく落ち込んだことだろう。

けれど、もしも現行の教育カリキュラムを尊重するのであれば、実質的に既に1ヶ月は失われてしまっている。そして、その失われた1ヶ月を補うため、夏休みの短縮であるとか授業時間数の増加であるとか、そういったつじつま合わせが必ず発生する。その場合、たとえば夏休みを心底楽しみにしている子どものニーズは無視していいのだろうか? 6時間授業が負担になってそれ以上はどうやっても無理という生徒の不利益は考えなくていいのだろうか?

どのような対応をとろうと、既に感染拡大によるダメージは発生している。そのダメージを最小限にする努力は必要であろうが、その努力は9月新学期と矛盾するだろうか? そして、「9月新学期などのオオナタを振りかざす前にやるべきことがある」のかもしれないが、しかしまた、やれることには限界がある。感染拡大が収束していない状況下においては、いったん局面を切り替えて「やれること」をしっかりと整える必要があるのではないか。そのために子どもたちの時間をもらうことは、既に蒙り、そしてこれから蒙るであろうダメージとの天秤のなかで、あり得ないことではないのではないか。

2. 学費・生活費の問題

問題は2つに切り分けられている。当面の学費・生活費と、本来得られるはずだった潜在的給与を失う問題である。この切り分けはうまいと思う。

そして、前半だが、

政府や大学等のほうでなにか支援策が講じられるかもしれないが、全額補填などはないだろうから、自腹をきることは覚悟しておいたほうがよい。

と書いておられるわけだが、なぜ、そこで「覚悟しておいたほうがいい」と断定できるのだろうか。もしもそれが問題であり、そして支援策によってその問題が解決できるというのであれば、それを政策に含めるように議論を盛り上げていくほうが筋ではないのだろうか。もちろん、政策には予算的裏付けが必要であり、無い袖は触れないだろう。けれど、いまは非常事態として必要なところには手当を行う姿勢を政府も(不十分とはいえ)示している。やはりここは、支援を取り付ける方向で解決できるのではなかろうか。

つぎに、半年分の給与が得られない問題だが、もしもそれが一概に言えるのであれば、なぜ中卒・高卒で就職を選ぶ人ばかりではないのか、説明がつかないだろう。教育は、それを受けたことによって生涯賃金が上昇する効果をもつ。近年はそれも少し怪しくなってきているが、原理としては、学校で学ぶ時間は、賃金の上昇分で埋め合わせられてお釣りがくることになっている。だとしたら、半年余分に学ぶことは、それだけスキルを上昇させることにもつながるわけで、生涯賃金的にいえば何らの損失でもないのではなかろうか。そういうことにこだわりだしたら、浪人や留年は絶対的に避けるべき損失にしか算定されないだろう。しかし、多くの浪人、留年経験者は、それが単純な損失だったとは語らないはずだ。

3. 人材供給が途絶える問題

これも著者による問題切り分けがあり、特に前半に関しては著者自身が「そこまで大きなダメージだとは考えにくい」と、問題視していない。ということで、後半の「6ヶ月間、新規の労働力が約100万人分減る」という部分だ。

これは実際のところ問題であるかもしれない。しかし、いま教育現場の態勢を建て直さないまま、形だけ現在の年間スケジュールを維持した場合、実際には子どもたちに十分な教育が実施されないまま年度が過ぎていく危険性がある。この1年は、形の上では単位は取得できたけど、それはコロナ特例であって、実際には学習によって得られるコンピテンシーが身についていないという結果になるかもしれない。そして、そういう人々が人材として供給されることが、果たして望ましいだろうか? それは、戦時下に教育もそこそこに兵士が足りないからと若い人を前線に駆り出した発想と共通するところはないだろうか?

現実を直視した場合、既に1ヶ月は失われている。そして、この先も、まだまだ失われるものが多いことはほぼ確実と思われる。そういうときに、その失われるものを現場の工夫や子どもたち自身の頑張りや「やる気」などを動員してなんとか埋め合わせる形をとることが、本当に実効的であるだろうか。それよりは、失われる時間をきっぱりと捨ててしまって、新たな「withコロナ」の時代にマッチした教育方法で再出発するほうが、人材の供給という側面を考えても得策ではないのだろうか。

4. 非常時にリソースを割く問題

これは説得力があるように見えて、実はそうではない。なぜなら、手を拱いていても、非常事態のもとではリソースはどんどん空費されるからだ。現在、文部行政は混乱している。小出しにされる学校閉鎖にどのように対応すべきか、さまざまな対策を考え、通達を出し、現場の調査を行うなど、想像するだけでとてつもない仕事量だろう。しかし、「オオナタを振るう」ことによって、こういった細かな対応は棚上げできる。つまり、非常時だからこそ、大局に立った大きなアクションがリソースをセーブできる可能性があるのだ。

もちろん、より一層の混乱を招く可能性もある。そこは政治の世界であり、政治家がプロとしての力量を発揮してくれることに期待するしかない。それが望み薄であるというのなら、そこは同意せざるを得ないのだけれど。

 

 

以上、「4つの理由」はそれぞれもっともではあるけれど、決してそれでもって「9月新学期」の案を否定するものではないということを示したつもりだ。もちろん、これらの理由、あるいはその他の理由で、「やっぱり9月新学期はマズいよ」という結論になる可能性もある。

しかし、重要なのは、オープンな場で議論が行われることであり、そして、それを踏まえてできるだけ早急にこの先のロードマップが提示されることである。現状が最も危険なのは、この先どうなるか、行き当りばったりでしか対応できないことだ。緊急事態宣言が解除されるのか継続されるのか、どの程度継続するのか、またその際に学校の扱いはどうなるのか(継続しても学校は別扱いになる可能性が高いと私は踏んでいる)、そういったところがまったく読めないまま日々を過ごすのは、子どもたちにとってやりきれず、現場の教育関係者にとっても仕事にならない。そういった現状から脱出することを政策の最優先においてほしいと願っている。

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【追記】

mazmot.hatenablog.com