「9月始業」は目的ではない - 手段と目的を取り違えることの危険

突然のように学校の「9月入学・始業」が取り沙汰されるようになった。私はほぼ1ヶ月前から「9月始業」を唱えてきたので、本来これを喜ぶべきなのだろう。もちろん、「今頃になって遅すぎる」という不満はある。けれど、議論の初動が遅れるのはやむを得ないとも言える。ということで、4月1日以来、3つの記事を書いて、これについて論じてきた。

mazmot.hatenablog.com

mazmot.hatenablog.com

mazmot.hatenablog.com

だから議論の盛り上がりは歓迎すべきなのだろうが、かえって危機感をいだいている。というのは、議論が「9月入学・始業」にフォーカスされているからだ。そこ、本質じゃないから。

 

最も重要なことは、ボールドで書こう。こういうことだ。

子どもの教育機会は奪われてはならないし、子どものいのちも失われてはならない。

しかし、COVID-19は、どちらも損なっている。重要なことは、この被害が既に発生しており、かつ、今後も継続するのがほぼ確実だということだ。

感染拡大の収束が予見できない状況で学校再開を先延ばしにすることは、教育機会を奪う。感染拡大の中で再開すれば生命への危険が発生する。

ことに、1ヶ月単位で行われる学校休業の延長は、教育の遅れだけでなく、子どもたち、子どもを育てる家庭にとってとてつもない精神的なダメージを与えている。先が見えないことがどれほど人間の精神を毀損するかは、ちょっと立ち止まって考えてみればわかることだ。

「感染拡大がいつ止まるかわからないから仕方ないじゃないか」というのが大人の言い分だろうが、じゃあ、感染症が脅威であれば教育なんてできないのか。感染症の脅威は仮に今回のウィルス騒ぎがおさまっても何度でもやってくる。感染症を理由に教育ができないなんて、それはおかしいだろう。本当に感染拡大の状況下で教育はできないのか? 方法さえ工夫すればできるはずだ。

教育機会と子どもたちの安全を両立させるには、教育制度をふくめた教育方法の大規模な変更が不可欠になる。そしてそういった改革には時間がかかる。

通常なら、数年以上の時間をかけて検討すべきだろう。しかし、緊急事態だ。急いでやってやれないことはない。ただ、いくら全力で急いだって、ふつうなら半年はかかる。だから、4月1日の時点で、半年後の秋を、主張した。そこで「10月」と素直にいえばよかったのだが、たぶん「9月」のほうがウケがいいだろうと思った私が甘かったよ。

教育改革を実施するには、時間がかかる。けれど、期限を切って行なえば出来ないはずはない。そして、それを行うのであれば、子どもたちに対して「いつ再開します」と約束ができる。

そうすれば、教育機会と生命の安全と、両立できるのだ。もちろん、この混乱時に拙速を避けるべき、という意見も十分に説得力はある。けれど、それは感染拡大がおさまって平常に戻ることが前提であり、先が見通せない政策になる。子どもたちはそれではもたない。

こういった前提をすっ飛ばして、やれグローバルスタンダードだの何だのと、吐き気がする。アホちゃうかと思う。そりゃ、そういうメリットもあるだろう。けれど、いま全力で取り組むべきなのは、「どうやったら安全な教育が可能なのか」というその一点なんだよ。わかってくれよ。「9月入学・始業」は手段であって、目的じゃないんだ!