なぜいま9月新学期を検討すべきなのか

4月は学校新年度、というのはもう日本では明治以来常識であって、それを前提にした文化も定着している。入学式には桜の花吹雪だし(最近は温暖化と流行歌のせいで桜はすっかり卒業式に前倒しになったが)、教科書も春から始まる。たとえば小学校の理科では春に種子を播いて育てていくパターンが定着している。中学校の新入生が着る制服も、春先のまだ暑くなる前だからこそサマになったりもする。

世界を見渡せば、決してそうばかりではないことがわかる。よく知られているのは、アメリカやイギリスの新学期が9月だということだ。とはいいながら、日本だけが特別かというとそうでもない。シンガポールは1月、フィリピンは6月など、各国それぞれの事情に応じてそれぞれにちがう。欧米に9月が多いことからそれが世界標準のように錯覚してしまうが、決してそこまで標準化されているわけでもない(この辺を参考にした)。

だから、「世界が9月始まりなのだから日本が4月始まりなのはおかしい」みたいに論じるつもりはない。昨今は海外への進学も以前に比べれば増えているが、たとえば3月に卒業した高校生が9月に始まる海外の大学に行く場合でも、その半年に語学その他の準備がしっかりできるため、かえって好都合という側面だってある。年度の開始が異なることでなにか大きな不便が発生しているようには思えない。

けれど、そういうこととはまったく別な意味で、「やっぱり9月始まりのほうが子どもたちにとってはいいんじゃなかなあ」と思うこともたまにある。そして、今回のコロナ騒ぎだ。今年度の特殊事情として、特に東京都内では、公立学校の4月スタートが困難になった。だとしたら、これを機会に全国一律に学校のスタートを9月にしたらいいんじゃないか、と思いついた。予算で動く行政がそれほど柔軟に対応できるとも思えないので空論になる可能性は高いけれど、ひとつのアイデアとして提起しておこうかと思う。

 

まず、今回、4月の学校スタートを見送ったことに関しては、どこか「もうちょっと別の方法があったんじゃないかなあ」という思いもありながら、あえてそれに反対する気持ちにもなれない。最終的に(インフルエンザと人類がとりあえず共存しているように)Covid-19と人類は少なくとも一時的には何らかの形で共存していかなければならないのだろうが、その前提として、まずは少しでも感染拡大のスピードを抑制しなければならない。そのための社会的な方法のひとつとして外出禁止や学校閉鎖はあり得るのだろう。もちろん、それがベストかどうかはわからない。専門家の立場からなら、もっと別の方法がよりよいとわかるのかもしれないし、あるいは学校閉鎖がかえってマイナスであるというような知見さえあるかもしれない。しかし、歴史的な過程は、検証が困難だ。仮説と検証という科学的な手法に馴染みにくい。その中でも現代の民主主義制度はできるだけ科学的な手法で政策を決定するように求めているわけだけれど、やっぱり現在の人間の実力では、ある程度「えい、や!」で政策を決めなければならないのもやむを得ない。だから「もうちょっと別の方法があったんじゃないかなあ」と思いながらも、「そういうふうに決めてそういうふうに対処していこうっていうんなら、ま、やってみないといけないんだろうな」と受け入れるところは、私にはある。多くの人もそうではなかろうか。

その上で、「5月の連休明けから再開」としたのは、マズいと思う。なぜそうしたのかは、学校の立場にたってみれば明確だ。連休明けまでは1ヶ月だ。1ヶ月の学業の遅れは、夏休みを短縮すれば辻褄を合わせることができる。言葉を替えれば、1ヶ月以上始業を遅らせた場合、正規の教育課程を実施するには時間が足りなくなる。仮に(学校の運営上はほぼ不可能だろうけれど)夏休みや冬休みを完全になくすつもりなら、2ヶ月まではなんとかなるかもしれない。それ以上になると、1日あたりの授業時間数を増やすか土曜日を出席にするか、相当な工夫をしない限りは規定時間に達しない。そこまでして時間数にこだわる必要もないだろうと家庭教師の立場からは思うのだけれど、おそらく文部科学省的にはそうはいかないだろう。だから、「5月の連休明けから再開」は、ある意味、学校運営上のギリギリの線だと思う。しかし、それで本当に意味があるのだろうか。

今回の流行の推移を見ていると、4月初頭の時点で、まだまだ増加のカーブは傾きを増しつつある。そして、Covid-19の特徴として、インフルエンザなんかに比べると潜伏期間も長いし、発症期間も長いことがある。感染力が保持される期間が長いし、発症しない感染者の存在など、いろんな側面で潜伏しやすい。そうすると、仮にこの時点で感染拡大が抑制されるベストのシナリオが実現したとしても、この先1ヶ月は実は危険性は現状とほぼ変わらないかより大きいと予測できるのではなかろうか。そうすると、「5月の連休明けから通常通りに再開」というのは、あまりにも現実離れした構想に見えてくる。

なぜその現実離れした予定を組まねばならないかといえば、それは感染が広まっていない地域の学校が通常通りに始まるからだ。もしも感染拡大が大都市部だけの現象で抑え込むことができるなら、地方の学校は通常通りに年度が進行する。進学・進級のことを考えれば、最低でも年度内には足並みをそろえる必要がある。となれば、上述のようにどんなに遅らせても1ヶ月、最悪でも2ヶ月以内にはスタートさせねばならない。

しかし、それでいいのだろうか。いまこの感染症に対してできることは(本当は病原体の根絶が望ましいにせよ)、当面は感染速度の抑制である。ということは、1ヶ月後、2ヶ月後にはさらに感染が拡大している(ただし爆発的な感染はなんとか抑え込めている)というのが、楽観的に見てももっともありそうな未来だろう。そんなときに、「教育課程の要請上、学校を再開します」というのが受け入れられるだろうか。世論はそれに賛成するだろうか。そしてもしも世論の賛同が得られず、再開ができなければ、そのときに生徒たちが受ける被害はどのようにして償えるのだろうか?

 

大都市圏の学校を閉鎖するのであれば、むしろ、全国一律に学校のスタートを遅らせたほうがいい。そうすれば、他地域と足並みをそろえるために無理をする必要がなくなる。そうはいいながら、子どもたちへの教育をいつまでも放置するわけにはいかない。だから、私は、この際、全国一律に学校新年度のスタートを9月にすればいいと思うのだ。

9月になれば状況はよくなっている、という保証はない。それは5月の連休明けに状況がよくなっているはずはないというのと同じように、確かなことだ。けれど、9月に延ばすことは、「1ヶ月始業を遅らせる」こと以上にメリットが大きい。なぜなら、その期間に、新たな授業方法の検討が可能になるからだ。

5月スタートにする場合、授業はほぼ現状と同じだろう。単純に時期を遅らせるだけだ。特に、他地域で既に従来型の授業が進んでいる以上、大都市圏だけ別種の形態の授業を行うということは、横並びを旨とする教育行政の中ではほとんど想定できないだろう(本当は、学習指導要領を尊重する限りは授業形態なんて学校ごとに異なっていてもまったく問題はないのだけれど)。けれど、全国一律に9月から仕切り直しということになれば、全国一斉に、新しい状況に対応した授業形態をとることができる。具体的には斉一講義式の授業の見直しであり、通信機器を利用した遠隔授業の導入である。生徒全員が黒板に向かって並び、教師が一方的に講義する形式が時代遅れであることがいわれるようになって久しいが、それを大きく変えることができていない。授業への電子機器の導入も、必要性をいわれながら効果的な形態はなかなか実現していない。しかし、密集・密閉・密接を避ける授業スタイルを模索すれば、当然、こういったところから新たな授業形態が構想できるはずだ。

たとえば、定型的な講義に関しては、もうビデオでも見てもらえばいい。視聴するための場所は、どこでもいいだろう。自宅であっても、学校のどこかであってもかまわない。少なくとも教室の密集を避けることは容易だろう。一方、特に小中学校では、定型的な講義なんかでは伝えられないことのほうが多い。そういう部分は、少人数の集団で学習をする。現在の在り方だとそれを実施するには教師の数が足りないが、もしも動画の視聴を組み込めばその時間は教師の手が空くので、結果的に教師の人手不足が解消する。クラスの半数が動画を見ている時間に、残りの半数をさらに2〜3グループに割り、その少集団の学習活動に対して教師が巡回して介入するといった方式なら、現在の教師のスキルで十分に対応できるだろう。

もちろん、もっといい方法も考えられるはずだ。教育現場にはさまざまな知恵が蓄積していることだろう。それをこういうときこそ現実に応用すべきなのだ。そして、重要なのは、それをスタンダードとして実施することであり、そのためには全国的な実施と、そして十分な準備期間が必要になる。それは、5月連休明けのスタートでは無理だろう。しかし、9月スタートならできる。

 

何よりも重要なのは、時間という戦力を逐次消耗しないことだ。学校の開始を少しずつ先延べをしてくのは、たしかに先が見えない現状では仕方ないのかもしれない。けれど、それは単純に時間を失っているだけだ。そうではなく、思い切って建て直しのために十分な時間を確保し、その時間でもって次の一手を十分に検討し、そして実施の態勢を整えることだ。そのためには、5月ではなく、全国一斉の9月がいい。そして、9月スタートにすれば、当然そこから1年かかるわけで、以後の学年も4月スタートに戻すわけにはいかなくなる。つまり、制度として、9月の学校年度開始に変更が必要になる。そのぐらいの思い切ったことをしないと、ジリ貧に陥るだけではないだろうか。

 

もちろん、学校には教育機能以外のさまざまな機能が、好むと好まざるとにかかわらず負わされている。授業のことだけを考えていいわけはない。特に、明示的にいわれることが少ないにもかかわらず、実は社会的に学校が果たしてる役割として最も重要なのはその託児機能、居場所としての機能だ。

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全国一斉に9月まで学校がないとなったら、多くの親はパンクするだろう。私だって、もしも息子が小学生の時にそんなことを言われたら、絶望してしまっと思う。だから、学校、開けられるところは開ければいいと思う。感染が拡大していない地域では、ふつうに学校を開くことができるだろう。ただし、そこでは授業はやらなくていい。少なくとも、教科学習はやらなくていい。もしも教師に力があれば、教科にとらわれない学習を進めることができる。そして、それはこの困難な時期を経験する子どもたちにとって、この上ない贈り物になるはずだ。

教師の側にだって、カリキュラムにとらわれずに子どもたちを思いっきりのばしてやりたいという望みがある。ふだんはできないそういうことを、この数ヶ月の間に実践すれば、それは貴重な経験として後世に残るのではないだろうか。そういうことをやってみたい教師は少なくないはずだ。

 

はずだ、と思いたいのだけれどなあ…

 

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【追記】

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