9月新学期再考 - 後手後手の対策はすべてを消耗させる

先週末あたりから急にこのブログへの検索からの流入が増えたなと思っていたら、その頃、有名教育評論家が「9月新学期」を言い出したらしい。そして、それを受けて文部科学大臣も「様々なところで声が上がっていることは承知している」みたいなことを言ったとか。私が、「9月新学期」について

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ブログ記事を書いたのが4月1日だから、3週間以上もたってようやくそういう話が表面に出てきたわけだ。おかげでアクセスが増えるのは「ごっつぁん」ではあるのだけれど、正直なところ、「なんで今頃になって?」と首を傾げざるを得ない。

感染拡大の状況がたかだか1ヶ月の緩いロックダウンでどうにかなるわけではないことは3月末には明らかだった。そして、文部行政的に(私の好みじゃないよ)1ヶ月以上始業を遅らせることが困難なことも明らかだった。この2つを足し合わせたときに最も合理的な案のひとつが「9月新学期」になることは火を見るよりも明らかだった(もちろん別の合理的な案もあって、たとえば私はもっと根本的な教育制度改革のほうがいいと思うけど、そんな過激な案はだれも賛同しないことぐらいはわかる)。

それはおそらく、多くの教育関係者が感じていたことだろう。だが、彼らは見ないふりをした。なぜなら、そんな気の長い話をするよりも、もっと短期的な目の前の課題が山と積まれていたからだ。とりあえず通常の始業がなくなって5月始業ということになると、それを前提にした調整作業だけで気が遠くなるほどの仕事になる。教育評論家だって、まずはこの1ヶ月の過ごし方とかそういった方にネタが山ほどあるから、長期的な政策なんかに手を出す必要はない。だから、ほとんどの人が見てみないふりをした。たまたま昨年末に体調を崩して生徒を極端に減らしたままリハビリ中で暇な家庭教師である私のような人間を除いては。

 

しかし、もうひとつの重要な関係者である生徒にしてみれば、実はそれがいちばん困るのだ。もちろん、生徒たちは多様だ。私が現在教えている数人の生徒だけとっても、休みで嬉しい生徒から、期待して進学した学校が始まらずに困惑している生徒、来年以降に不安をかかえている生徒、友だちに会えずに残念がっている生徒まで、実にさまざまだ。それでも、現代人の子ども時代が学校を中心に回るように設計されているのは否定できない事実であり、それは教育を受ける権利として法の根幹にもなっている。そして、彼らは「教育を施してもらう」客体ではなく、「教育を受ける」主体である(ちなみにこういう書き方をするとeducationの翻訳を「教育」としたのはよく指摘されるように誤りだったように思えてくるのだが、まあ、それは別の話だ)。学校が閉じたままそれがいつ再開されるかのメドもたたないことから最も影響を被るのは、生徒たちなのだ。

2月に突然、学校閉鎖の要請が官邸から出たとき、遠方の高校の寮に入っている息子を迎えに行った帰りの車のなかで、私は息子にこんなふうに言った。「休みにするのはひとつの手段として有りやと思うけど、ほんまに難しいのは再開するタイミングやで」と。その段階で官邸は4月春休み明けでの通常のスケジュールを想定していたようだが、当然、そうならない可能性も(その頃の常識としても)かなりあった。それは「状況を見て判断する」ということだったけれど、じゃあ、再開できなかったらその次はどうなるのか、どういう状況になったら再開可能と判断するのかとかいった具体的なポリシーは何も出さなかった。そして春休みになってまずは東京で学校再開が1ヶ月延期になり、「これは絶対に波及するな」と見ているうちに緊急事態宣言で主要都市にそれが拡大した。最終的には緊急事態宣言の全国への適用で、さらに多くの学校が休みになった。いまここ、だ。

文部科学大臣は「あらゆることを想定しながら対応したい」とか言っているそうだが、その内容を明らかにしない。あらゆることを想定するのであれば、それを何パターンかに分け、「こういう場合はこうする、こういうときにはこんなふうに対応する」と明示すべきなのだ。でなければ、現場はそのときがくるまで何が下りてくるかわからず、全方面作戦を強いられることになる。それでは現場がもたない。

そしてなによりも、生徒たちが消耗してしまう。いつになったら始まるかわからない学校に対して、「家庭学習で…」みたいなことを言われても困るのだ。「いつ再開されてもいいように準備しましょう」なんて言ったって、準備態勢を無期限に長く続けることはおよそ現実的ではない。いつ、どんな形で学校が始まるのかのイメージがなければ、ただただ先の見えない五里霧中に迷うばかりだ。

 

だから、私が「9月新学期」を主張したのは、何よりも「再開のメドをはっきりさせる」ことが重要だと考えたからだ。だからそれは「9月新学期」でなくてもいい。「こういう形でこの時期に再開させますよ」と、行政がわかりやすい形で示すことが何よりも重要なのだ。「9月」と言ったのは、それがいちばん受け入れられやすく、かつ、状況に合わせた変革を行うのに最低限必要な時間を確保できると考えたからだ。だから、そこにはこだわらない。最も重要なことは、ロードマップを明らかにすることなのだ。

そう思えば、文部科学大臣の「あらゆることを想定しながら対応したい」はとんでもない発言だということがわかる。5月連休明けの再開に加えて、さらに2週間とか、さらに1ヶ月とか、場合によっては9月とか、そんなふうに選択肢を増やしても何もならない。いま重要なのは決めることだ。あやふやなまま様子見をしていても、どんどん不具合はたまっていく。そして、その不具合を解消することもできなくなる。なにしろ、下手に動いて「やっぱりそうではなかった」となったらどうしようもないからだ。

 

感染がどのように収束していくのか、まだまだ見えない。だから、明確なロードマップを描きにくいというのはわかる。しかし、それは「平常に戻る」ことを前提にしているから、そうなるのだ。以前同様に戻すつもりなら、感染の影響がほぼなくなる時期を待たねばならず、それはいつになるか不明だ。そうではない。「感染が拡大しても、その上でなお教育機会を確保するにはどんな方法があるか」を模索し、検討し、議論して、「どんな状況になってもこれなら再開できるね」という教育方法を打ち出さなければならない。それができてはじめて、「何月何日に再開できます」と明言できる。そして、それこそが明確なロードマップであり、それを描くことは不可能ではない。

だから、「9月再開」(あるいはそれ以外の明確な再開時期の提示)は、大きな教育改革を伴わなければ無意味だ。斉一講義式の現在の授業方法では、それこそ感染が完全に抑えられない限り再開不可能になる。そうではなく、もっと密集を避けた指導方法、極端な点数主義に陥らない探求型学習、ICTを活用した遠隔学習などのセットでもって、学習指導要領の本質をついた新たな教育方法を確立しなければならない。そして、休校措置の間の時間は、従来型の方法をなんとか繕うおうとする個別対応(たとえばプリントの作成とか動画コンテンツの急造など)に費やすのではなく、もっと遠くを見据えた指導方法の研究と議論にあててほしい。

 

そういった根本的な改革を伴わない単なる「9月新学期」は、ズルズルと時間を失うだけに過ぎない。実際、既にこのほとんど1ヶ月を失っている。単純に失っているだけでなく、その間に多くの関係者、特に生徒とその家庭を消耗させている。このあたりで大きな方向性を出してほしい。そして、それは思いつきではなく、理性的な議論を経たビジョンにもとづくものであってほしい。

 

ビジョンが伴わない政策ほど虚しいものはないのだからね。

 

 

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【追記】

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