医師は男性で看護師は女性 - 文化としての医療

先月、父親が入院した。どこがわるいわけでもない、というよりも、(検査の数値的には)わるいところだらけで、そういった数値からだけではいったいなにが原因なのか特定は非常にしにくい。ともかくも、ふらふらになってぶったおれそうだったので、とりあえず病院に行って、首をひねるばかりの医者に「朝から水も飲めない状態ですよ。明らかに脱水症状ですよ」とねじこんで、入院させた。実際、放っておけばおそらく血管系かどこかに命とりのイベントが発生したように思う。ただ、たまたま食欲がなくなって脱水症状になってくれたからよかったようなものの、そうでなかったらいくら本人が苦痛を訴えていても、「数値ではどこにも特に急変はみられませんねえ」で放置された可能性が高い。まあ、入院させてもらえてその後は順調に回復をみせて退院も近いのであまり悪口を言ってもいけないのだけれど、医療の現場なんてそんなもんだろうと思う。

今日も退院前の診察があるというので病院に行ってこようと思っているのだけれど、この病棟、ご多分にもれず女性の職場である。いくら「婦長」が「師長」に変わったとはいえ(それでも古手の看護師は昔ながらの呼び方をうっかり使っていたりしたが)、目につく看護師は全員女性である。もちろん院内には男性看護師もいるのだろうが、そこは適材適所で何らかの役割分担があるのだろう。ナースステーションに見かけることはない。一方の医師の方だが、担当医や当直医は男性だし、入院時の外来の医師も(なにせわるいところだらけなので順番に4人の医師の診察を受けたのだが)、全員が男性だった。当番医の表をみると女性医師もいるのだけれど、あたらなかったのはたまたま以上のものがあるように思う。

 

少し前、はてな匿名ダイアリー(通称:増田)を中心に、女性医師が現場で「使えない」というような話があった。医療関係者でもない外野の素人から見れば、それなら単純に人員を増やせばいいじゃないかと思うのだが、まあ、そうもいかない現場のいろいろもあるのかもしれない。だが、実際に医療現場には男性も女性もいて、それぞれが相当にタフな仕事に従事しているのだから、「医者は男で女は看護師」という分布の不均衡に何らかの合理性があるようには思えない。医師1人を養成するのにかかる費用は1億円ともいわれるので、1人あたりの稼働率をあげたいというのはわからないことではないが、おそらくそれは別の問題だろう。

とはいいながら、現実がそうなっている以上、「まあ、やっぱり女性は医者になりたがらないのかなあ」ぐらいには思っていた。ところが、医科系の大学で、女性受験者の点数を意図的に操作して女性の入学者比率を調整していたという報道があった。なりたがらない、のではなく、させたがらない、だった。

www.nikkei.com

mainichi.jp

news.livedoor.com

高校生を教えていると、いわゆる学力に性差はあんまり関係ないということがわかる。アホな男子もいれば、突き抜けた男子、優秀非の打ち所のない女子、どうにかしてくれよという女子、そしてそういったカテゴリー分けに当てはまらない多様な生徒がいる。女性の方が比較的「真面目」な場合が多いように見えるのは、なにか文化的な分析ができるかもしれない。頭の構造はちがうのかもしれないが、たかが学校の勉強程度のことではっきりとあらわれるような差異ではない。

だから、大学入学者の男女比の差が発生するのは、能力のせいではなく、志望者比率のちがいでしかないはずで、それはつまり大学卒業後のキャリアパスをどう描くか、どう描けるかという社会学的な問題でしかないと思っていた。まさか、大学が男女のちがいで入学者を選別していたとは、ちょっと思いもよらなかった。

実際、かつて医者を志望する女性が男性よりも少なかったのは日本だけではない。アメリカでもヨーロッパでも、はるかむかしには医師は男性、看護師は女性という偏向があったようだ。しかし、イギリスでは2011年の予想で2017年には医師の男女比率では女性の方が多くなるとされており(おそらくもうそうなっているのだろう)、さらにアメリカ合衆国では2017年の医学部の入学者の男女比率は女性の方が多かった。そもそも日本の内閣府男女共同参画局の文書にさえ、「医療分野への女性参画促進について」として、この問題に関して言及がある。

わが国における総医師数に占める女性の比率は、近年、一貫して上昇しており、図表 6-1のように 2008 年末で 18.1%となり確実に増えている。医学部学生に占める女性の割合は、さらに増加傾向にあり、医師国家試験の合格者における女性の割合は 1998 年以降、30%を越えている(図表 6-2,6-3)。そして、過去 18 年間を通して、医師国家試験の男女別合格者はすべて女性の方が高い合格率を示している。

と現状を認識した上で、

日本の科学技術の進展や国際競争力の強化を生み出し、支える人材の確保のために、女性医師・女性研究者の能力を最大限発揮し、活躍するための環境を整えていくことが重要であることが指摘されている。

との問題意識を明らかにしている。そして、タテマエとしては、大学側もそれに賛同し、なんと補助金までもらっている。

医師・医学生支援センター 文部科学省「平成25年度女性研究者研究活動支援事業」に採択されました | 東京医科大学

 

であるというのに、その入り口である大学入学において男女比率を意識的に調整しているというのは、ちょっと解せない。さあ、社会学者は商売のしどころだ。どういう社会的な圧力に寄ってこんな奇妙な現象が生じているのか、ぜひ明らかにしてほしいものだと思う。

実際、アメリカでも、「医者は男の仕事」的な意識が、いまだに強いようだ。たとえば、

www.theguardian.com

によれば、医療の現場では男性主導のセクハラ・パワハラなんてあたりまえというどこかで聞いたような話が、海の向こうでも存在するらしい。非常に古めかしい世界である。

歴史を遡ると、医療は決して男性に専有されていたのではないようだ。ヨーロッパ中世の魔女が民間医療を担っていたのは有名な話だし、女性の保健は多くの文化で助産師によって担われてきた。この話はぜひもっと詳しく調べたいと思ってネタを温めているのだけれど、どうも19世紀に一気に医療の科学化と男性化が起こっている。どうやら、男性が、科学の権威を借りてそれまでの民間療法を駆逐するキャンペーンを行ったようなのだけれど、確かにその結果として医療が進歩した面もあるので、あまりネガティブな面ばかりに注目するのも公平じゃない。

科学というのは、方法論としては厳正中立であるかもしれないが、その用いられ方にはつねに社会的な圧力がはたらいてきた。また、その発展が、新たな社会的圧力を生み出すこともすくなくなかった。医療の文化史は、そういう面で非常に興味深い。もうちょっときちんと調べてからこのあたりのことは書ければいいと思うけれど、それだけの力があるかなあ。ま、なんにしても、もしも書けたら、近代医療文化の男性性は、絶対におもしろい話になると思うよ。

 

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追記:フランスでも、医学部は女子のほうが多いらしい。ただ、医師全体が同数になるのはまだ数年先とか。ということは、やっぱりフランスでも、もともとは「医師は男性」文化があったんだろうな。

 

アメリカの方の現状はこちら。

cakes.mu

 

追々記:各国別の男女比は、こちらにあった。詳しい。

labcoat.jp

「結果」は解釈抜きに成り立たない、という話 - 成果主義のマヤカシについて

私の生業の半分を占める家庭教師では、結果がすべてだ。それがいちばんシビアに出てくるのが入試結果で、合格すれば「ありがとうございます! 家庭教師をお願いしてよかった」となるし、不合格なら「高いお金を払ったのになんだよ」と、たとえ面と向かって言われなくとも文句をこらえているのがわかってしまう。結果を前にしては、どんな言い訳も成り立たない。

合否がはっきり出る入試までいかなくても、テストの点数はひとつの結果になる。点数が上がった、下がったに敏感な家庭もあって、テストのたびにヒヤヒヤする。ただ、こちらには多少は逃げ道がある。「素点は下がってますけど、平均も下がってますから」「順位は少しあがりましたね」と言えればむしろこちらの勝利だし、「今回の範囲は苦手なところだったので…」みたいに中身に逃げ込むことも場合によっては不可能ではない。それでもやっぱり、あらゆる逃げ道をふさがれて「スミマセン」と頭を下げるしかない場合も少なくない。結果はかくもシビアである。

 

しかし、結果がすべてなら、それをコントロールすることも実は可能である。たとえば、入試の結果として「合格」が欲しければ、合格が確実な学校を受験させればいい。実際、たとえば公立中学校の高校進学に向けての進路指導なんかはそういうスタンスで実施されていて、決して冒険をさせない。合格確実なところに輪切りで落とし込んでいくようにする。そういう学校の進路指導をうまく利用すれば、家庭教師も必ず結果を出せる安全側にいることが可能になる。ふだんのテストでも、最初から「次のテストは点数がとれませんが、長期的な計画の中では織り込み済みです」と説明しておけば、「予告通りの結果です。順調です」と胸を張ることができる。

そういうごまかしをやらなくても、結果での評価にはちょっと落ち着かないところがある。なぜなら、ひとつの方法を実施してある結果が出たとして、もしもその方法をとらなかったらどういう結果になったのか、そこを判定する方法がないからだ。

たとえば、私はだいたいは「D判定からが勝負」と思ってるクチで、模試の結果がわるくても気にしない。最後の3ヶ月で一気に仕上げる戦略で、割とうまく乗り切ってきた。そんな自信がある。その細かいノウハウは書くつもりはないけれど、綿密な計画を生徒とともに練り上げ、着実に実行していく。言葉を替えれば、そこに至るまでの長い時期は、その最後の作戦を実行できるようにするための下準備である。特に高校入試に関しては、こういうやり方にはそれなりの実績も根拠もある。

けれど、自分自身の中にさえ、疑念はある。それは、「もしも別のやり方でやったら、もっといい成果が出たんじゃないか?」というものだ。この疑い、決して消すことができない。

 

もしも科学的にその疑いに取り組むなら、やるべきことはかんたんだ。2グループの同じような生徒を用意し、一方に対してはある手法、別のグループに対しては別の手法で受験準備を実施して、その結果を比較する。しかし、これは一人の家庭教師ができることではない。なぜなら、まず「同じような生徒」が2人といないということがある。一人ひとりの生徒は個性や能力がちがう。それ以上に、人生に対して求めているものがちがう。ある生徒に対してベストなことは、別な生徒に対してはマイナスであったりもする。そして、統計的にそれを薄められるほどの人数を一人の家庭教師は受け持つことができない。では複数の家庭教師が協力してデータをとればいいのかというと、家庭教師にもまた一人ひとり個性があり、同じことをやっているつもりでも生徒にあたえる影響はすべてちがう。結局のところ、客観的なデータなんて、実験の設定からして無理になる。

まして、生徒を実験対象にするなんて、倫理上、問題だ。家庭教師は職業上、生徒のベストになる指導を実施する。自分がベストだと信じている方法があるときに、そうではない方法と比較するため、ベストではないことを生徒に対しておこなうのは、正義ではないだろう。結局、実験はできない。実験はできないから、疑いは解消できない。

極端なことをいうと、自分がやっていること、あるいは自分の存在そのもの(つまり家庭教師を雇うこと)が、プラスに働いていると断言するだけの客観的根拠はどこにもない。それでもプロである以上、「いや、それでもこれは役に立っている」と主張しなければならない。主張できるだけの(たとえ客観的ではないにせよ)根拠がなければならない。それは、「経験」というきわめてあやふやな中から導き出されたものということになる。

 

経験から生まれた確実な方法で、家庭教師は仕事をする。そして、テストの点数が上がらない。そんなとき、家庭教師の心の中に去来するのは、「点数が下げ止まったのは自分が頑張ったからだ」という思いだったりする。実際、放っておけばもっと底なし沼のようなところに落ちていくはずの生徒を、なんとか現状維持にとどめることができたのなら、それはひとつの「成果」だと誇れるだろう。

しかし、それが本当に正しいのか、疑いを晴らすことはできない。なぜなら、実際、放置しておいたら成績が本当に下がったのかどうか、確認することはできないからだ。あるいは、もっと別の方法をとったら現状維持どころか点数が上がったかもしれないという疑問を否定することができないからだ。歴史は繰り返さない。たったひとつの経過をたどるたったひとつの事象に関して、「こうしていたらどうだったか?」「こうしなかったらどうだったか?」という問いかけを実証することはできない。

だから、家庭教師が「対策をしたからようやく下げ止まりました」と胸を張って「結果」が出たと主張しても、「点数が上がってないじゃないか」と「結果」を否定する家庭側の主張を打ち消すことはできない。あるいは、打ち消すためには口八丁手八丁のあまり本筋ではない技術が必要になったりする。うまく言いくるめられるかどうかが家庭教師の実績につながるというのも、なんともやりきれない実情。

 

「結果」というのは、観測される事象として確実に存在するようにだれもが思う。けれど、それは「れば、たら」の集積の上に成り立つ単なる解釈に過ぎない。

たとえば、一方に「医者に殺された!」と医療の結果を恨む人がいるとき、同じ事実を前に「医者のおかげであそこまで生き延びた」と評価する人がいる。「景気がこれだけ上向いたじゃないか」と数値を並べる人に対して、「それは自然循環であって、余分なことをしてなければもっと景気は上がったはずだ」と主張する人も出てくる。そういった解釈を、実証的に裏付けることはできない。

もちろん、多くの事象を学べば、そこに共通する変化の中で、ある程度のことはいえる。「この治療にはこの程度の延命効果がある」「この景気対策にはこのような効果が見込める」などの知見は蓄積されている。けれど、それでもなお、歴史的な一回こっきりの事象に対しては説得力が十分ではない。「先生、そういいますけど、糖尿病だけじゃなくて肺も悪かったんですよ」とか、「産業構造がちがう時代の景気対策と現代では本質的に同じじゃないでしょう」とかいう言説に、完全に理詰めで反論することはむずかしい。

 

「結果」というのは、しょせんはそれをどう解釈するかということを抜きにしては成り立たないのだ。だから、結果にもとづいて人を評価するというのは、厳密な数値や事実をもとに評価しているようで、実は恣意的に評価を行っているに過ぎない。「成果主義」がむなしいのは、そういうところなんだろう。

とはいいながら、家庭教師としては、ほかの部分で評価してくださいとはクチが腐ってもいえない。いや、言いたいことはある。たとえば生徒がどれだけ指導時間を楽しんだかとか、どれだけ考える習慣が身についたかとか、どれだけ批判的な態度を身につけたかとか。けれど、そういうものは目に見えないし、もしも目に見えるようになったとしても、やっぱりそれは「結果」として解釈の対象になるだけなんだ。だから、最後にはやっぱり、「でも、○○くん、よくがんばったじゃないですか!」みたいな精神主義でごまかすんだろうな。やれやれ。

「正しい教育」を不可能にしているもの

なんか、増田ばっかり見てるようで「ヒマ人か」とバカにされそうでもあるのだけれど、ここのとこ体調がイマイチで、気合を入れて行動するだけのエネルギーがなかなかとれない。そのエネルギーを本来はそれほどエネルギーを要求されないはずの家庭教師の仕事のために温存しなければならないから、いきおい、ダラダラ過ごす時間が長くなる。まるで中学生がサボる言い訳のようではあるが、まあ、低調な時期がくればまたテンションの上がる時期も来るはずと、ここは開き直っている。

で、ここのところ気になった「はてな匿名ダイアリー」の投稿、通称「増田」2件:

anond.hatelabo.jp

anond.hatelabo.jp

前の方のエントリで、著者は

・時間内に長文から要点を抜き出してまとめる能力(理解力・まとめ力)

・読み上げた音声から概要を図にして説明する能力(理解力・整理力)

・3回読み上げられた文章をできる限り暗記して、書き出す能力(暗記力)

・問題と解答を見せて、それと同じ論理の問題をその場で応用して解く能力(論理理解力・応用力)

・見出しと小見出しだけ見せて、だいたいの内容を予想する能力

・3回画面に表示される難しい言葉をその場で覚える能力(語呂合わせを使えとか、頭文字を覚えろとかヒントを出す)(暗記力)

・読むのに15分くらいかかる文章(キーワードは太字)を読ませ、読み終えてからキーワードについての感想や知識を書き出させる(集中力・理解力)

について「テスト」をすれば「勉強する能力」が高まると主張する。これに対して、

それこそ普段の授業でやってることでは? ちゃんと聞いてる?

というコメント(私じゃないよ)が入ったのに対する反論として、あとの方のエントリがある。ただ、私から見れば、ここのところ、実は著者の「わかってない」ところが端的に現れているように見える。

この方法そのものを授業で教えようって言ってるんだ。

地頭のいい人たちが自然にできている学習の力を、意識的に学ばせてできなければできるまでやらせて、勉強の苦手な人を減らそうという意図だよ。

どういうことか? ひとことで言ってしまえば、「最初はテストって言ってるのに、あとの方では授業って言ってるじゃないの」ってことなのだけれど、それだけじゃ揚げ足を取ってるようにしか見えないだろうから、もうちょっと長く書くことにしよう。

 

まず、「普段の授業でやっていること」という反応そのものが正しいのかどうか、私は疑問をもっている。国語の教師なんて、国語が語学教育であることさえ認めないような輩がいくらでもいるようだし、漢文なんて業界の都合だけでカリキュラムが組み立てられている疑いがある。ただし、本来あるべき姿としては、あるいはタテマエとしては、実際、最初のエントリ(元増田)の主張している能力は、ほぼそのまま学習指導要領に記載されているものとして解釈することができる。つまり、本来は、「普段の授業でやる」ことが期待されているわけだ。

だが、これが実際にできていないのではないかというのが、著者の主張になる。「しかし、普段の国語の授業は余計な解説が入るし、一つの文章を何時間もかけて読むので短時間に長文から要点をまとめるという技能だけを何度も教え込むことはできない」とか「ノートの取り方や、理解の力は自己責任として突き放してるのが今の教育ではないかという話」とか「もっと重点的に暗記に絞った訓練をするべきだ」とかいった主張は、それらを授業で教えてもらえなかった著者の個人的な体験から来ている。そうしてもらえたらよかったのになあということからの提言なのだろうから、そこは確かなものとして受け止めるべきだろう。

だが、こういう「効果的な指導法」のようなものは、実は個別の生徒の個別の状態によって異なっている。いみじくも著者が「なぜかといえば、僕がIQが高いアスペだったからだ」と書いているように、この方法は著者のような人には有効かもしれないが、他の人には同じ教育目標のために別なアプローチが必要かもしれない。極端な話、おそらくこの著者よりももっとアスペな私には、国語の勉強なんてほぼゼロで十分だった。そんな太古の話を持ち出されてもこまるのだろうが、参考書や問題集を一冊ももっていないにもかかわらず、高校時代には進学校でトップ番付の常連だった。だが、そういう無手勝流は、他の生徒には通用しない。だから、私は家庭教師になって国語を教えるのにいちばん苦労した。自分がやったことがない勉強をどうやって教えたらいいかがわからなかったからだ。まあ、そこから先は余談だが、実際、生徒によって各種のテクニックがある。その中にはオリジナルの秘伝もあったりするので、どうしても知りたければ本を買って欲しい(ま、たいしたものじゃないけどね)。

そして、個別の生徒に対する特殊な指導法は、大人数に対して教えなければならない学校の教室では使えない場合が多い。最大公約数的な部分をとっていけば、どうしても国語の授業は退屈になる。学校の授業が(特にアタマの回転の早い生徒にとって)ピントのはっきりしないボヤケたものに感じられるのは、基本的にはそういう理由なのだと思う。だが、それよりももっと根の深い問題もある。

 

私が中学生、高校生だった1970年代には、まだまだ学校の教師には教育者としての矜持があった。ただし、「昔はよかった」的なことを言うつもりはない。その「矜持」の中身の大半は「教育者は聖職者であって生徒を導く模範でなければならない」みたいな大時代的なものであって、その裏返しとして「愛のムチ」である体罰はあたりまえみたいなアホな信念が生まれるようなものでもあった。さらに、玉石混交度合いはたぶん昔のほうがひどく、ただ威張るだけで中身のない教師なんてのものいくらでもいた。それでも一部の「玉」の方の教師には、子どもの本当の意味での成長を支えるのが自分の役割だと自覚している人々も多く、そして、それらの人々は、安直な「勉強」がもつ弊害をしっかりと意識していた。

だから、世間がどれほど受験熱に浮かされようが、「学校はそういうところではありません」と、きっぱりと「教えるべきことを教える」という姿勢を貫いていた。授業ではあくまで学習項目の理解を優先し、点取りのためのテクニックを教えるようなことは基本的にしなかった。

そういう姿勢に対して、世間の風当たりは強かった。ネットがない時代だったから情報があやふやだし、私自身の記憶もいい加減なのだけれど、確か1970年代の末か80年代の半ばまでのことだったと思う。「なぜ予備校や学習塾にできることが学校にできないのか」という学校叩き、「学校が機能していない」という声高な主張が行われるようになった。「学習塾で教えてもらったら生徒はこんなに点数が伸びる。学校はダメじゃないのか」という批判だ。そして、その結果として「塾に学べ」みたいな風潮が、確か関東を中心とした中学・高校に広がり、学習塾の講師が指導法を学校教師に教えるみたいな実践が行われるようになった。その結果として、多くの中学・高校が変質し始めた。具体的には受験を目標とした補習が広く行われるようになり、小テストの繰り返しとそれをマイルストーンにした対策が授業に盛り込まれるようになった。こうして、学校と塾のやっていることはだんだんと変わらなくなっていった。

重要なことは、このような変化が学習指導要領の変化と無関係に進行したことだ。学習指導要領そのものは、改訂のたびにより幅広く柔軟に思考する力を伸ばす方向や、よりコミュニケーション能力を重視する方向へと進化していった。ところが学校の方は、よりテスト対策を重視する方向へと進んでいった。そして、まるでその埋め合わせとでも言うかのように、技巧を敵視する古臭い作文教育のような、無意味なところばかりは温存した。

 

ここで重要なことは、「点数をとるための対策」は、基本的に学習指導要領に記載された学習の諸目的とは完全に別物であり、ときには対立さえするものだということだ。すなわち、

mazmot.hatenablog.com

に書いたように、本来テストとは「一定の能力が獲得できたらこれだけの問題は解けるはず」として作成されているのだが、それが「これだけの問題が解けることが一定の能力である」として運用されてしまっている。だから、伝統的に学習塾や予備校でやってきた「点取りゲームに勝つ方法」が「教育」であると誤解されて、それが誤解であることさえ意識されない現状ができあがってしまっている。あるいは、やたらと技巧ばかりを重視する数学教育のようなものができあがる。それは教育ではないということが、もはや寝言や譫言のようにしか聞こえない時代になってしまっている。

 

こういった現状認識があれば、なぜ「増田」が最初のエントリで「テスト」を提案しているのに後のエントリで「授業」を語っているのが「わかってない」と感じられるのか、理解してもらえるのではないだろうか。つまり、増田には「本来学校教育はこうあるべき」という理想がある。それが実現困難なことはさておこう。あるいは、「本来は学習指導要領でそういうのを教えることになっている」というタテマエと現実の乖離も、とりあえずは脇に置こう。そういうのをさておいても、もしもそういう教育によって得られるものを「テスト」にかけ、そしてそのテストで成績であるとか大学進学であるとか、あるいはその先につながる生涯年収であるとかが左右されるようなところを認めてしまうとしよう。そうすると、学習産業は、増田の主張する教育目的とは全く無関係に、「そのようなテストで点数をとる技法」を開発する。これはもう、そういう関係のプロとして保証する。これは増田が想像している以上のものを出してくる。最小限の努力で最大限の点数のアウトプットを出すことが受験産業に求められているわけだから、その手法が教育目標と合致していようがいまいが、そんなことはどうでもいい。仮に、入試がじゃんけんで決められるような日が来たとしたら、じゃんけん必勝法でも無理矢理に編み出してしまうのが受験産業というものだ。

そして、そうやって得られる高得点は、増田が望む能力を実現して得られるものとは全く別物になるはずだ。そんな未来を増田が望むわけはない。そういう未来が実現したとき、増田がどれほど地団駄踏むか、容易に想像できる。だから、「増田はわかってない」と、私は言う。

 

私たちは、まだ本当の意味で人間を評価する手法を知らない。そういう手法の代替として長く運用されている学力試験というシステムは、巨大な弊害を生み出し続けている。ここを変えるためには、単純に試験方法を工夫するだけでは無理だ。なぜなら、新しい方法には、必ず新しい対策が生まれるからだ。「傾向と対策」を繰り返すだけでは本質はなにも変化しない。

そうではなく、人間の評価をどのように社会に当てはめるべきかという思想、あるいは、そもそも人間の評価を必要とする社会の仕組み、そういったものから再構築していかなければならないのではないか。あーあ、たいへんだ。そんなことするよりも、点取りゲームを楽しんだほうがよっぽどラクだ。かくして、世の中は、今日も変わることなし。

 

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追記:こういう返事を頂いた。

anond.hatelabo.jp

 

ま、どんな道を通っても真理に至る人はいるので、そこは否定はしない。ただ、「指導法」ってのは多くの人が多くの試行をしてきて、「これがベスト」ってのがないってことはほぼ明らかになってる。要は、個別の事例、個別の状況によって、さまざまな手法が必要ってことなんだけどなあ。

 

まあ、学習塾に三代続けて通うような時代だから、いまさらそういうのがおかしいってのは、アホみたいに見えるんだろうなとは思うよ。けど、こっちからみたら、そういうのがアホみたいに見えるんだけどなあ。ま、立場のちがいということで。

規格外を認めない学校システム

家庭教師をやっていると、けっこうな確率で学習障害発達障害など、ハンディを抱えた生徒に遭遇する。理由はかんたんで、そういうハンディを抱えた子どもは、サポートを必要とする。必要なサポートが得られなければ、高額な負担をしてでも家庭教師を雇わなければならなくなる、というわけだ。それが一概にいいことなのかどうかはわからない。まあ、いろいろやってみることそのものは、わるいことではないのだろう。

ただ、どういうわけだか、私はまだ典型的な学習障害、典型的な発達障害の生徒を受け持ったことがない。家庭教師の仲間内の話では、かなり壮絶な事例を聞く。別段誇張があるとは思わないし、自分ならうまく対処できる自信もない。まあ、ここまでラッキーだったのだろう。私の運の良さは親譲りだ。

だから、発達障害についてのこんな話題に、何か具体的な事例で反応するわけにはいかない。

gendai.ismedia.jp

この記事、まずは「発達障害」という枠組みがもつ二面性について整理している。この部分、よく整理されてはいるが、特に目新しい視点でもない。発達障害という枠組みは、こまっている当事者を保護する役割を果たすと同時に、社会的に疎外することにもつながる。「障害者だから守らなければならない」と虐待から保護すると同時に、「発達障害というラベル」によって、社会から一方的に非を押しつけられることにもなる。障害の概念には、必ずこういう二面性がつきまとう。

このような現状に対して、この記事の著者は「発達障害」の概念に環境の要素を盛り込もうと提案する。ここのところがこの記事の肝。それは、端的にこの部分に現れていると思う。

たとえば、学校固有の「こうでなければならない・ああでなければならない」を基準点として「こまり」がつくりあげられ、それが「発達障害」流行により精神科受診につなげられ、診断がなされることによって診断数が急増したところの――従来の「学校都合の発達障害」にあたるものは、

診断名: 〈発達-環境〉調整障害スペクトラム・環境帰責型(学校タイプ)

に置き換える。

すなわち、何らかの障害が発生していることを認めた上で、その発生メカニズムまで診断名に組み込むことで、こまっている当事者が一方的に責められることを防ぐことができるのではないか、ということだと、私は理解した。単純に命名だけのことではあるようだが、どのように名付けるかということは、その後の人間の行動に反映される。小さくとも重要なステップというべきだろう。

 

さて、上述のように私は発達障害の生徒に出会ったことはないのだけれど、いわゆる「スペクトラム」な生徒はけっこういる。というよりも、100%定型の人なんてふつうはいないわけで、たいていはどっかがズレている。そのズレが困難にまで至って、ようやく「障害」という枠組みに組み入れられる。だから、一応どうにかして対処できている彼らは、定義上の学習障害発達障害ではない。

それでも、たとえばある生徒、宿題の提出ができずに学校で叱責ばかりされている生徒を見ていると、「別に放っといてくれればいいじゃないの」と思ったりもする。その生徒にとって学校生活を困難なところまで追い詰めているものではないが、それがなければもっと多くのことを学べるだろうと思う。頭のいい生徒だから、たぶん、反復練習なんてしなくてもだいたいの理解はできている。完璧まではいかないだろうが、完璧を求めてどうするよとも思う。それよりも、もっと新しい知識にどんどんと触れさせたほうが知性は伸びていくだろう。

あるいは、忘れ物が多いことを毎日のように注意され、常に黒板に名前を書かれている生徒。忘れ物をしてこまるのは本人なのだから、ある程度は自己責任、放っておけばいいだろうと思うのだけれど、その上にトドメを刺すようにさらし者にする。それは状況をより悪化させるだけだと、傍目には思うが、学校というところはそうではないらしい。

そうでなくとも、教師は生徒を自分の枠にはめようとする。たとえば代数のエックスの書き方なんて、実際には区別がつけばそれでいい。けれど、自分が信じている「正しい方法」でなければ激怒する数学教師にはしょっちゅう出会う。自分の授業を聞いていたかどうかだけを確認するための問題を出す国語教師、英語教師にもときどき遭遇する。既に時代遅れになった問題を、自分の好みだけで出題する社会科教師、理科教師も珍しくない。

そして思い出すのは、まだ駆け出しの頃にしばらく教えた中学2年生だ。彼女は実に、四則演算からして怪しかった。もちろん足し算、引き算の概念はある。掛け算、割り算が何かも理解している。ただ、繰り下がり、繰り上がりの操作が複雑になるとギブアップしてしまう。まして中学校の方程式だとか関数だとか、そういったものには手もつけられない。私の出会った生徒の中では最も学習障害に近い生徒だった。

それでも私が彼女を学習障害ではないと判断しているのは、 そういった試験問題に出そうな問題を解く能力はたしかに著しく低いものの、理性的な判断力や理解力は一般の生徒と何ら変わらないのを観察したからだった。ではなぜそれほどまでに問題が解けないのかと言えば、これは単純にその方法を学んでこなかったからでしかないようだった。あまりに長く学んでこなかったので、いまさらどうすればいいのかわからない、というのが彼女の置かれた状況だった。

私は最初、なぜそういうことが起こったのか、理解に苦しんだ。なぜなら、彼女はずっと学校に行ってきたのであり、どこかで躓いたとしても、それをとりかえす時間は十分にあったはずだ。教師だってどうにかしようと思うだろう。ていねいにひとつひとつ教えていけば、それなりにわかっていくはずだ。なぜそれをしないのだろうと。

その謎が解けたのは、ある日、彼女が学校の宿題をしているのを見たときだった。私が行ったとき、「宿題が間に合わないからやってもいいですか」と、彼女は学校の宿題をこなしていた。「しかたないね」と私はそれを傍観しはじめたのだが、すぐに「おいおい」と思った。なぜなら、彼女は解答集の答えを一生懸命書き写していたからだ。

「どうしても間に合わないときは仕方ないですけど、それって本当は意味がないんですよ」と、私はちょっとお説教をした。解答を書き写すことには、時間潰し以上の意味はない。ただ、どうしても提出物のかたちを整えなければいけない場合にはそうでもしなければやっていられないし、ある程度は学校でも黙認していたりもする。生徒の方でもそれはわかっている、はずだ。

けれど、このときの彼女の答えは私を驚かせるのに十分なことだった。「でも、先生がそうしろって言ったんです」。え?「学校の先生が、答えを書き写してきなさいって言いました。それでちゃんとマルがもらえます」

私は面食らって、そして、根掘り葉掘り問いただした。その結果、わかったことは、彼女は小学校のある段階からずっと、学校の教師から「学習障害」として、特別枠に入れられてきたらしい。これはカギカッコ付きの「学習障害」だ。どういうことかといえば、学習障害を克服するための特別プログラムなどは用意しない。ただ、学習障害なのだから、通常の学習は無理だ。ではどうするかというと、形だけ、通常の学習に参加しているようにする。そのためには、他の子どもと同じようにプリントをこなし、他の子どもと同じように提出物を揃えればよろしい。ただし、他の子どもと同じように考えることができないのだから、答えの丸写しを特例として認める。答えを丸写しして見かけ上は他の子どもと同じ学習進度を保っていれば、それで成績をつけましょう。そういう扱いを受けてきたのだ。

そうであれば、理解できる。いったん理解に遅れを取ってしまえば二度と浮かばれなくなるわけだ。学校の教師にとって、「勉強させる」というのは、「学習内容を理解させる」ということではなく、「みんなと同じことを同じ時間にやっている」ということでしかない。わからないことをいくらやってもわかるはずはないのだから、彼女にとって勉強とはみんなと同じことをする儀式に過ぎなくなる。何年学校にいたって点数がとれるようになるわけはない。

 

結局私は、9ヶ月ほど教えて、他の講師に交代した。それはもう単純に事務上の都合でしかなかったのだけれど、その9ヶ月で彼女の学習理解をいくらかでも改善できたと言い切る自信はない。それでも、彼女は立派な知性をもった人だった。なぜなら、その後のことが気になって出した年賀状に、こんな返事をくれたからだ。

先生はいつも、わからなかったらひとつ戻って考えなさいと言います。けれど、私は戻るのではなく、前を向いて進んでいきたいと思っています。

 

これだけしっかりと、批判的に考え、きちんと自分の意見を表明できる人なのだ。その長所を伸ばしていけば、学習指導要領に記載された目的を彼女の中に達成していくことは容易なはずだ。けれど、学校の教師は不毛な写経を彼女に強制する。なぜなら、規格を外れた生徒に対処する術を学校はもたいないからだ。

生徒の直面する困難は、部分的には内在的なものであるかもしれないが、多くは外部との相互作用の中で発生する。そして特に、堅くて融通の効かない学校システムは、そういった困難を引き起こし、増悪させる要因となる。それを意識させてくれるだけで、「診断名: 〈発達-環境〉調整障害スペクトラム・環境帰責型(学校タイプ)」みたいな書き方は歓迎すべきなんじゃないかと思う。

人は、人の能力を正しく測定できるのだろうか?

ある人に何かの能力があるかどうかを知るには、実際にそのタスクをやってもらうのがいちばんだ。たとえば、ある人がお茶を点てることができるかどうかを知りたければ、お点前をお願いすればいい。よどみない動作で美味しいお茶をいれてくれたら、素人目にも、「ああ、この人はお茶ができるのだな」とわかる。茶道の目的がWikipediaにあるように)「人をもてなす際に現れる心の美しさ」にあるのであれば、実際にもてなしてもらって、その動きを観察すればいい。美しい心は自ずとかたちになってあらわれるものだから。

けれど、茶道の達人であれば、そこまでの必要もないらしい。茶室を横切るその歩き方を見るだけで、しっかりとした茶の心得があるかどうかがわかるそうだ。きちんと茶道を学んだ人は、畳の上の歩き方からしてはっきりとちがう。そういう細部をゆるがせにしない気配りが、自然に身についているものらしい。

さて、ここで、多くの人々を対象に、茶道の心得があるかどうかを検査しなければならない事情が発生したとする。たとえば茶道の能力によって国家から一定の年金が支給されるようになったとでもしようか。こういう制度がもしも実現したら、人々はこぞって茶道を学ぼうとするだろう。受験者も殺到するにちがいない。

けれど、残念なことにお茶の道は時間のかかるものだ。師匠について何年も、細かなことをひとつひとつ身につけていかなければならない。その一方で、試験を実施する側もたいへんだ。お茶の実力の判定のためにいちいち茶席を設けなければいけないとなると、けっこうなコストがかかる。どちらの側にも、いろいろと問題が発生する。

ただ、お茶の能力は歩き方だけで判定できる。だとしたら、能力判定のためにお点前させる必要はない。受験者を師範の前で歩かせればいいということになる。試験が歩き方だけでいいとなったら、「じゃあ歩き方だけ練習すればいいじゃない」と考える不届き者が出るのはあたりまえだろう。そして、お茶を極めた結果として美しい歩き方ができる人と、歩き方だけを集中的に練習してそれを身につけた人と、おそらく判別はできない。もしも判別できるとしたら、その細かなちがいを分析して、さらにそこを訓練することで対応ができる。茶道の実力が歩き方だけで判定されるようになったら、ほとんどの人が「お茶の練習とは歩き方の練習である」と受け止めるようになるだろう。そこに何の不都合もない。

けれど、もしも本当に茶道の能力を評価したいのなら、それはちょっとおかしい。では、どうするか。たとえば歩き方の練習だけ積んだ人には、袱紗がさばけない。ならば袱紗のさばき方も試験項目にい入れればいい。いや、茶道はやっぱりお茶をいれてこそだろう。茶筅の使い方もチェックしなければならない。こうやって項目が追加されれば、それぞれの項目について受験者は一生懸命練習するようになるだろう。全てのチェック項目にパスすれば、その人は茶道を極めているといえるはず。そうだろうか?

一般に、「AならばB」であることは、必ずしも「BならばA」であることを意味しない。「茶道の心得がある人はきちんと歩ける」が正しいとしても、「きちんと歩ける人は茶道の心得がある」とはいえない。ただし、普通なら、後者も実用的に正しいといって問題ないのだろう。つまり、他人に茶道の心得があると錯覚させることを目的として歩き方を練習するやつなんて、ふつうであればいないからだ。これは、「歩き方」を「歩き方と袱紗の扱いと茶筅の扱いと…」と項目を増やしても同じこと。むしろ、項目を増やせば、常識的には逆はほぼ正しいといえるはず。

ただし、ここにそうやって人を欺くことが何らかの利益につながるような事情が発生すると、一気に話は変わる。これらのチェック項目さえクリアすればお金がもらえるのだとなれば、人はその項目の一つ一つについて最低限のコストで最大の効果を出すような投資をしてくるものだ。「茶道の心得があるからできるはずのこと」が、「茶道の心得があることを示すためにできなければならないこと」として習得されるようになる。たとえそのようにして習得される技術が基本的にチートであって、茶道そのものではないとしても。

むしろ、そういったことをする人々にとっては「茶道を学ぶこと」と「茶道の試験に合格するための練習をすること」の区別がそもそもつかないだろう。なぜなら、「歩き方ができ、袱紗が捌け、茶筅が正しく扱え…」といった項目ができれば公に「茶道の心得がある」と認定されるときに、それらの個別の練習をすることが茶道を学ぶことでないわけはないではないか。そうではない、というのは、お茶の師範であれば誰だって思うことだろう。けれど、「いや、歩き方さえ見ればお茶をやってるかどうかはすぐにわかります」と主張したのは師範自身であり、その言葉に間違いはないはずだ。さすがにそれではまずいと思っても、「じゃあ、歩き方も袱紗のさばき方も何もかも全部完璧だったらいいじゃないですか」と言われたら、言葉の返しようもない。たとえそれが「BならばA」でもって「AならばB」を担保しようとする無茶ぶりであることが明らかであっても、反論はできなくなってしまう。

これがいま、学校教育で起こっていることだ。学校教育の目的は、ごく大雑把に言ってしまえば批判的思考力やコミュニケーション能力、情報収集・処理能力を身につけることである。これは私が言ってるんじゃなくて、文部科学省が出している学習指導要領に書いてある(要約のしかたが大雑把すぎるのは私のせいだけれど)。そして、随所で行われる学力試験(考査、テスト、その他いろいろな名前で呼ばれる)は、「そういった能力が身についていたらこのぐらいは解けるはず」という観点から、問題を作成し、出題するものだ。つまり、授業を中心とする日常の学習活動の中での目標の達成度を把握するために実施されるのが試験である。そして、日常の学習活動は、常に教育の目的である現代社会に必須の能力の獲得のために行われるはずのものだ。ところが、いったん試験によって評価するという風習が定着してしまうと、「試験で高得点をとる」ことが「学習活動の達成」とイコールであるという誤解が生まれる。つまり、「AならばB」であるはずのものが、「BならばA」として解釈される。結果、「学習活動」はすなわち「試験対策」と同義になり、試験に出そうな問題を繰り返し練習することが「勉強」であると受け止められるようになる。こうやって、最終的には入試をゴールにおいた現代の教育システムができあがる。

私は何も、「試験のための勉強は誤っている」と、一義的に断罪するものではない。なぜなら、もしも何かをすることで明らかに利益が得られることがわかっているときに「それはちがう」とダメを出す権利など、誰にもないからだ。ゴミのような練習問題を繰り返し解くことで試験で高得点が得られ、高得点が得られることで難関校に合格が決まり、それによって最終的に生涯年収が数千万円から数億円ちがってくるようなときに、「それは本末転倒だから」とストップをかける権利は、少なくとも教師には、ない。たとえチートであっても、そこをくぐり抜けていくことで人生を築き上げていくことを私たちは何ら非難できない。

もちろん、個人的には基礎的な能力を上げていくことでほとんどの試験問題は解けるようになるものだと信じているし、最終的にはそちらのほうが早道で、より高いところまで到達できる方法だと思っている。だから自分の生徒にはなるべくそういう教え方をしているのだけれど、その一方で目の前にテストがぶら下がったときには、やっぱり(特に進学のための受験を前にした時期には)チートである点取りゲームを率先して指導する。だいいちが、「試験対策こそ勉強」というわけのわからない信念のもとに長年培われた教育体系の中では、ある程度それに合わせたこともやっておかないと、生徒が著しい不利益を被ってしまう。だから、私だって付き合い程度に試験対策はやるし、その程度なら大きな害悪もないのかとさえ思う。ときには、そういった圧倒的な誤解の中で本来の目的である批判的思考力やコミュニケーション能力をどうやってつけさせるかという課題こそが、プロとしての自分のセールスポイントであるとさえ思ったりもする。

つまり、現状は原則論からいえば問題だが、現実論からいえばしかたないといえる。あるいは、教育の内側だけの議論では変えられない問題だから、内側の議論をしても始まらないと思う。これは、試験によって人間を評価する社会システムのもつ問題であり、学校を序列化のための道具として利用してきた産業社会全体の問題だから、そこを含めた議論をしなければ解決への糸口は見えない。そこを無視して教育の中身だけで話をしても、「学力評価にはどんな方法が適切なのか」みたいなところにしか落ち着かない。ところが、「試験対策」が効かないタイプの試験にさえ対策しようとするのが業界のならいだ。序列化が前提になっているとき、その方法を変えても結局行き着くところは同じ。

私が問題にしたいのは、そういった現実があることは重々承知の上で、なお、「学力=試験の成績」つまり、「AならばB」として設計されたものを「BならばA」の研究に使って何の疑問ももたない教育研究の世界のことだ。「学力試験」の成績を「学力」として扱って平気な研究のことだ。そういうものが存在する、というよりも、学力に関する研究にはほとんどそういうものしか存在しないことを最近知って愕然とした。それって、科学的じゃないから。

科学的な研究では、実験が重んじられる。実験結果は、統計処理されて議論の根幹となる。なるほど、特に近年の教育関係の研究は、そのあたり、きっちりできているように見える。けれど、その実験結果としての学力試験の得点は、どのような意味をもった数字なのだろうか。

ほとんどの学力試験において、生徒はそれぞれ高得点を目指す。これは、小学校の高学年から中学生ぐらいにかけては特に顕著になる。なぜなら、高得点をとることが彼らの利益につながるからだ。この「利益」とは、、たいていの場合、保護者からの承認が得られるであるとか、クラス内での地位が確保できるとか、何らかの方向付けをされた価値観が満たされることによる快感であるとか、およそ学習活動の目的とは無関係なものであることが多いのだが、それはそれでかまわない。ともかくも、多くの生徒が「よい点を取ろう」と努力をすることが、現実の学力試験においてはふつうに発生する。

ところで、たとえば糖尿病に関連して何らかの薬品の効果を実証しようとしている研究があるとしよう。当然、ランダムに被験者を選び、無作為抽出によって投与群と対照群を分け、一方に薬品を与え、他方には偽薬を与える。さて、この被験者に対して、「これから糖尿病の実験をしますから、頑張って糖尿病を治しましょう」と告げることは、実験をよりよいものにするだろうか。実験結果の数値、たとえば血糖値の数値目標を設定し、そこに近づけるために患者に頑張らせることは正しいだろうか。7日おきに血糖値を測定すると決めたとき、「水曜日は測定日だから、火曜日には腹八分でお願いします」みたいに患者にお願いすることは正しいことだろうか。

もちろん、そういうことをやってもきちんと比較ができるように、対照群を用意してあるわけだけれど、それでもやっぱり、「よい結果を出すために普段とちがうことをする」というのはタンパリングであって、実験結果の信頼性を落とすことになる。仮に一部の被験者が試験薬以外の薬品を使用したとしたら、その人々は統計から外すべきだろう。科学的な試験の基本は、調べたい条件以外の部分にはできるだけ触らないようにすることである。

ところが、「学力」を測定する試験では、あらかじめよい点数が取れるような「対策」を実施することが常識になっている。その時点で既にこれは科学的なデータとしてはかなり有効性が下がっていると言わざるを得ないだろう。それも、その「対策」が、目先の点数を上げるため以上の意味をもたないようなものでしかなく、かつ、それを実施することで実際に点数が大きく変化してしまうとき、何らかの働きかけ(たとえばある教材を使用した理科実験の手法)が生徒の理解(理解度が高まればテストの点数が上がるものとしてテストが設計されている)を高めたかどうかなど、どうして試験の点数から判別できようか。そういった効果は、「テスト勉強」の前に埋没してしまうのが明らかだというのに。

正しい測定というのは、案外とむずかしい。特に、測定の対象が人間である場合には、かなりむずかしい。それでも、その困難を超える方法を科学は編み出してきた。

だが、測定の結果が人間の利害に直結するとき、すなわち社会的な力関係を規定してしまうとき、測定される人間はありとあらゆる方法を使ってその測定の裏をかこうとする。試験があれば、必ず対策をしようとする。その対策をすることが正しいことであるとさえ信じ込んでしまう。結果として、測定結果は全く信用できないものとなる。

だから、世にあふれた「○○学習法」みたいなのは、およそ科学的な根拠をもたないものとなる。それでも私は、やっぱり何らかの方法で、人間の批判的思考力やコミュニケーション力、情報処理の力を高めることができるのではないかと思っている。だって、それが仕事なのだから。そして、科学的な根拠があればなあと思う。思うのだけれど、それを正しく測定する方法は見つからない。だって、テストやったら、みんながんばってしまうんだもんなあ。

60年前のスパゲティレシピについて

なんか、しょうもない増田につけたコメントにやたらと星がついてるみたいなので、補足しておく。いや、補足するほどの情報もないのだけれど、ちょっと誤解を招いてはいけないなあとも思ったので。

30年前のスパゲッティ

一方、60年前に出された料理本には、「スパゲッティの麺は手に入りにくいので、細めのうどんを使います」と書いてあった。

2018/06/05 18:23

b.hatena.ne.jp

 

元増田

anond.hatelabo.jp

に関しては、「ちょっと時代がズレてないか」みたいな指摘もブコメに多い。私もそう思わないでもないが、まあ、地域差、コミュニティの差というようなものもあるのだろう。私自身の経験ではたしかに子どもの頃はいわゆるナポリタンが標準で、それが70年代にミートソースが出始め、80年代にはもう一通り揃ってたような気がするのだが、個人的には自分自身の成長の中で新しいものを知っていったという感覚なので、それが時代と関係していたとまで断言する気にはなれない。

 

さて、60年前の方だが、60年前には私は生きていない。じゃあなぜ、「60年前の料理本」なんて書けるのかというと、これはウチの母親が嫁入り修行中に買ったと思われる料理本で、長らく母親のネタ本になっていたのを中学生か高校生ぐらいのときに面白半分で読んだのを覚えているからだ。だから、ひょっとしたら70年ぐらい前のものかもしれない。奥付もちゃんと見たのだけれど、はっきりと覚えていない。ただ、1945年よりは後のものであったことはまちがいない。だから、70年以上前ということはないだろう。

 

「スパゲッティの麺は手に入りにくいので、細めのうどんを使います」というのは、そこに書いてあった。もうちょっと正確には、「細めの乾麺をゆでて使います」だったと思うが、正確な表現は思い出せない。なぜそんなことを覚えているかといえば、なんだかあまりにもあんまりだったので、とてつもなく奇妙に思ったから。私が子どもの頃にはもうスパゲッティは日常食だったから、「これはあり得ないよな」と思ったのも無理はない。

 

さて、ではこの料理本が書かれた1950年代には、それほどスパゲッティが珍しいものだったのだろうか。私はそうは思わない。いまのようにイタリアンの店がそこらにあるような状況ではなかったとはいえ、戦前から洋食を食わせる店はあり、スパゲッティもそれなりに供されていたらしい。では、なぜ「うどん」なのか。それは単純に戦後の物資不足のせいなのだろう。

第二次世界大戦後、日本は食糧難に陥った。何もかも放り出して総力戦を戦ったツケが回ってきたわけだ。戦争中は、案外と食い物はあったらしい。これは、自国内での生産が十分でなくとも、植民地から食料を移入できたから、というのが大きいようだ。だから、植民地の方の食糧事情は悪化したのだろうと思うのだけど、今回、そこまでは調べていない。ともかくも、植民地は失う、国内の農業は働き手を失って生産力が低下している(ちなみにこの頃にいまでいう中学生ぐらいだったウチの親父は、ムラに残った数少ない労働力としてこき使われ、百姓が厭になってしまったらしい)。そんな日本人を餓死させるわけにいかないから、アメリカは多くの物資を日本に支援した。その主力は小麦だったわけだが、大部分は薄力粉だったようだ。

スパゲッティは、グルテン含量の高い強力粉でつくられる。一方のうどんはふつうは中力粉でつくるが、いよいよなければ薄力粉でつくれなくもない。ということで、おそらく日本の製麺業界は、うどんの乾麺はつくれても、とてもスパゲッティまでは手が回らない状態だったのではないだろうか。

 

そういう状態は長くは続かなかったようで、この料理本の奇妙な記事を発見した私が母親に「むかしはスパゲッティの代わりにうどんを使ったの?」と尋ねたときには、母親は馬鹿にしたような顔で「そんなん、聞いたことない」と言い放った。だから、実際にうどんの乾麺をスパゲッティの代用にしなければならない時代はほんの短期間で終わったのだろう。おそらく花嫁修業中の母親がスパゲッティの項目まで進むまでに、スパゲッティは入手可能になったのではなかろうか。

 

もっとも、私の記憶にある家庭のスパゲッティは、ふにゃふにゃのゆで麺であり、決しておいしいものではなかった。あれだったら、うどんで代用というのも、あり得なくはなかったかもなあと思う。

 

資料が1冊の料理本に過ぎないので(しかもそれが記憶の中の断片に過ぎないので)、これ以上書くことはない。ただ、こういう食にまつわる歴史は、古本屋とかに行けばそれなりに資料も手に入るはずなので、いつか時間ができたらもうちょっと漁ってみたいなあとは思う。時間、あるのかなあ…

「文化の格差」という捉え方をやめよう - ちがっているのがあたりまえ

地方都市は住みやすい

若い頃、田舎まわりをしていた。それについて書き始めたら長編小説並みの自分語りになるのでやらないが(いつか書き残しておきたいとは思うけど)、沖縄を除いてほとんどの都道府県に足を踏み入れた。風来坊を泊めてくれる奇特な農家の厄介になって、いろんな田舎を見ることができた。もちろん、日本の隅々まで見たというつもりはない。田舎は実に多様で、山ひとつ越えれば風土も暮らし向きもちがう。人間だから、隣同士の人でも考え方がちがう。数十箇所の個別の事例だけからは、容易に全体像は見えてこない。そういう意味では、私は農村部の暮らしやそこでの生活感覚について、たいして知っているわけではない。

一方で、近畿地方北部の地方都市とその周囲の農村については、少なくとも都会を離れたことがない人たちよりは知っている。あわせて十年あまりの歳月をそこで過ごしたからだ。人口10万人レベル以上の地方都市に住んでみると(これも場所によって一律ではないとは思うが)、その便利さに驚く。なにしろ、必要なものがほとんどワンストップで揃っているからだ。たしかにいま、地方ではクルマが必須となっている。けれど、コアな部分は徒歩でぐるっとひと回りできる範囲に揃っている。東京だったら神保町で打ち合わせをしたあと渋谷で買い物をして、都庁に寄ってから池袋に呑みに帰ったら、その移動だけでずいぶんと時間がつぶれてしまう。地方都市だと喫茶店は駅前だし、買い物をするのは駅前の商店街(もっとも最近は郊外のショッピングセンターに移ってちょっと不便にはなったが)、役所はたいてい駅から歩いて10分以内だし、飲み屋も駅と役所の周辺が多い。都会のようにあちこち移動しなくても、だいたいの用事が身の回りで片付く。そんな場所に事務所を構えたら、必要なものはすべて近所で手に入るから、仕事が捗ること。

もちろん、提供されるサービスの量は小さいし、質も必ずしも高くない。たとえば裁判所は支部でしかないし、国の出先機関が少ないのでたとえば産業局への書類申請は中核都市まで出向かなければならなかったりする。いまでこそマニアックな品物はWeb経由で発注できるようになったが、私が地方都市にいた頃にはちょっと変わった品物は大阪や東京に出張した折に仕入れてくるしかなかった。ライブハウスや市民会館に大物がやってくることもふつうはなかった。図書館の蔵書は少なく、見るからに市役所から左遷されてきた職員のレベルも最低だった。美術館に常設されているのは、全国的にはほぼ無名の地元芸術家の作品でしかなかった。

しかし、それをもって「文化程度が低い」と断じる気には、私はなれない。なぜなら、その私にとって故郷ともいうべき地方都市にいたときのほうが、それ以前に住んでいた大阪、東京、京都といった大都市に住んでいたときよりも、あるいはその後に移ってきて現在住んでいる神戸市の近郊での暮らしよりも、生活はずっと優雅だったからだ。暮らしが優雅なことを文化的と表現するなら、あの頃が私の人生の中で最も文化的だった。

なぜなら、それは質と量の不足を補う利便性があったからだ。図書館ひとつとっても市立図書館のレベルは情けないものだったが、大学(これもいわゆるFランなのだろうが)の図書館はそれなりにしっかりしていて、そしてそれが市民利用を認めていることも広くアピールされていた。車社会だから、隣の自治体の図書館に足を伸ばすことも気軽にできた。やってくるアーティストの格は低かったかもしれないが、その分だけ低価格で気軽に覗きに行けた。地元に定着している田舎暮らし系のアーティストたちは都会にもっていけば吹けば飛ぶようなレベルなのかもしれないが、十人前後の集まりで目の前で演奏してもらう機会、作品の解説をお茶なんか飲みながら作者自身がしてくれるような機会は、それなり以上のインパクトがあった。田舎の資料館には、全国的な著名人の資料が収蔵されていて驚かされた。田舎の強みはそこに流れる時間の蓄積であり、長い歴史の中ではどんな草深い田舎でも一人や二人の偉人を生み出しているものだ。数は多くなくとも、一点突破式に歴史の複雑さを学ぶことができる。そして、そういった公共施設の多くは無料だ。こんなふうに、田舎は案外と、かんたんに文化的な生活ができてしまう。

多様性こそ文化の源

都会の多様性は、人口の多さによって担保されている。たくさんの人がいれば、それだけいろんな人がいるという理屈だ。数がいれば、その中に優秀な人が含まれる確率も上がる。枠からはみ出る人、変人や奇人、おもしろい人、魅力的な人が含まれる確率も上がる。いろんな人がいるから、都会は輝く。

しかし、都会というシステムが多様性を産み出すものかといえば、むしろそうではないだろう。都会が人を惹きつけるのはそこに仕事があるからだが、都会で行われる仕事は基本的に規格化、統一化されていて、業務内容の多様性にもかかわらず、生活に与える影響は似たりよったりになる。結果として、都会は多様性に富むのだけれど、人口の割には変異の幅は小さくなる。

一方の田舎は、人口が少ない分、どうしても極端な変異は見つけにくくなる。超一流の人は、田舎よりも都会に見つかる確率が高い。しかしその一方で、田舎は多様な生き方を許容する。そういうとちょっと都会人の常識とはちがって聞こえるのかもしれないが、かつて画一的な農作業を基準に統制されていた農村経済はとうに崩壊し、個別の状況や工夫で生き延びることができる人が田舎の主力になっている。資産を食いつぶしている人、役所や農協のような安定した職場を見つけた人といった保守的な生存戦略をとっている人々から、起業(第二起業)で起死回生を図る人や新しいライフスタイルを試みる人のようにアグレッシブな生存戦略を選ぶ人まで、およそ都会のような「会社に勤めてりゃなんとかなる」が通用しない世界では、それぞれがそれぞれの事情に応じて生き方を探るしかない。結果として、地方都市や農村には、都会とは別なかたちでの多様性が生まれる。

そして、世界が狭い分だけ、その多様な人々が互いにかかわり合う場面が多くなる。若いころ、東京の都心部に住んでいて「山の中でだれにも会わずに暮らしたい」と思ったりしたものだが、現実には世捨て人の生活は、都会でこそ可能になる。生きていくためには必ずだれかとかかわるわけで、そのかかわりを無名性の中で実行できる都会とは異なり、田舎では多くの場合そこに特定個人が紐付いてくる。結果として、やたらといろんなところにつながりが生まれていく。好きでもないところに引っ張り出されたりもするが、それが新たな発見につながることもある。身の回りには、思いもかけず多様な世界が広がっていく。そういった地方都市やその周辺部での暮らしは、私にとって十分に文化的だった。それは、いろんな人に出会えたことが大きいのだと思う。人間の多様性こそが、文化を支えている。

「文化と教育の格差」論

文化というものを意識しない多くの人にとっても、やっぱりそういった地方での暮らしは十分に文化的なのだと思う。草深い田舎に住んで俳句の投稿を欠かさない高齢者、伝統の織物や染め物を受け継ぎ、ときにはローカルな講座で講師をつとめる農村の婦人部の人々など、文化という視点から見て評価に価する人々はいくらでもいる。田舎の文化程度が都市に比べて低いなどというのは、寝言でしかない。

それでは、最近はてブで賑やかなこういう一連の議論の中での「文化と教育の格差」は、どう受け止めればいいのだろうか?

gendai.ismedia.jp

gendai.ismedia.jp

gendai.ismedia.jp

ここで問題になっているのは、一義的には教育の格差である。そして、教育の格差の要因としての文化の格差が問題になっている。それが存在しない、などと真正面から否定してしまうことはできない。なぜなら、上記記事の2名の著者、そしてそこにコメントを付している多くのブクマカたちの議論を見れば、何らかの格差が存在することはほぼ否定できない事実だからだ。議論は、それが存在するかどうかについてではなく、どちらかといえばその表現や受け止め方が妥当かどうかというところを巡って行われている。あるいは、それがどう作用しているのか、どう変わっていくべきなのかという次元に向かっている。

では、ここで問題になっている格差とは何だろうか? それは、最終的には経済格差の話である。つまり、現代社会では階層化された学校システムの上位に進んだ者ほど経済的に上位に到達する。学校システムの中での順位差は教育によって発生し、教育を支えるのは文化である。経済格差が厳として観測される以上、そのもとをたどれば文化格差が存在しないはずはない。当然だろう。そして、水野氏のブログの結論:

阿部幸大氏は東大を経て現在はアメリカで学究に励まれているようであるが、「文化と教養の格差」克服のために、ぜひとも将来は釧路に戻られ、地域の若者に薫陶を授けていただきたいと思う。

は、つまり学校システムの上位に上り詰めた人に対して地方に戻ることを奨めているわけだが、結局のところこれは経済社会の中での上位者に地方に戻れと言っているわけで、それはつまり経済の還流をせよと提案していると捉えていいのだろう。それはそれでまちがっていないとは思う。

原理主義者の違和感

そういう話の流れをわかった上で、それでもなお、私は「文化と教育の格差」という捉え方に違和感を覚える。「文化」だけでなく「教育」に関してもそうだ。なぜなら、教育とは人間の成長そのものであり、個別の人間に即してみれば、それぞれの成長が異なっているのは当り前であり、また、その成長の様式もちがう。そこに格差のような集団的な分析をあてはめるのは穏当ではない。穏当ではないが、そういう考え方は成立する。それは、その成長に一定の方向の順位づけをあてはめる場合であり、そして、現に現在の経済社会ではそういった順位づけが行われている。むしろ、学校システムの中のそういった順位競争を順当に上り詰めていくことこそが教育であるというような錯覚さえ与えてしまう。そういう枠組みに立ったときには、そういった一方向への進行を促進するものと阻害するものという観点から、格差という捉え方が可能になる。それに密接に関連する要因として文化があるのなら、そこをひとつにひっくるめて「文化と教育の格差」という括り方が可能になる。そういう括り方をしてしまえば、それは確かに存在するし、それはどうにかしなければならない問題というふうになる。

だから、ここで私は2つに分裂してしまう。現状のそういった教育システム、あるいはそれを前提として成り立っている経済システムが実際に存在しているということから出発すれば、これらの記事にあるような議論に参加できる。しかし、その一方で、「教育なんてそんなもんじゃない」「文化ってそういうもんじゃない」という立場からいえば、こういう議論はトンチンカンなものにしか見えない。東大行くことがエライんじゃなくて、その人がその人生を豊かにできるだけの知恵をつけることが重要なんだ。それが教育の意味だ。文化は競争のためにあるのではなく、人間の暮らしそのものが文化なんだ。そういった原理主義に立てば、寝言は寝て言えという気分にもなる。

そして、私自身が地方都市やその周辺で体験したことを照らし合わせ、さらに自分自身が受けた教育が階層社会の中で上位に進むことには何の役にも立たなかったにもかかわらず自分の人生を豊かにしてくれたことを思うにつけ、やっぱり大都市と地方の「文化と教育の格差」なんて、幻に過ぎないのだと改めて思う。確かにちがいは存在する。それはときには経済格差にも結びつき、場合によっては地域の消滅にもつながりかねない深刻な問題にもなる。それに対処することは十分に重要だ。けれど、それは、そういった格差を生み出してる競争社会、学歴社会、金儲け優先社会の枠組みの中に参加することで解決できるものではない。そこから抜け出したときに、大都会と地方の間に存在するのは単なるちがいであり、ちがいはあってあたりまえであり、そのことが上下方向の差、つまり「格差」であると意識されないものになるはずだ。

そういう世の中になって欲しいと思うんだが、さて、それはこの世界線ではなかったかもしれないなあ。私はやっぱり、異世界から転生してしまった人間なんだろうか? そんなわけ、ないか。