完璧を求めることで失うもの

500年ほど時代遅れな「百発百中」

興味深いブログ記事を見た。

d.hatena.ne.jp

実はこの「百発百中」理論、私は若い頃、けっこう取り憑かれていたことがある。私はまともな就職はせずに社長と2人の小さな編集プロダクションのアルバイトから仕事人生を始めたのだが、この社長、なかなかおもしろい人だった。ダンディな人で、よく飲みに連れて行ってももらった。調子に乗ってくると「キミのような人はまさに一騎当千、心強いよ」と、駆け出しのヘマばっかりやってる私を持ち上げてくれたものだ。私の方も調子に乗って、「一騎当千が10人いたら一個師団ですね」みたいな妙な計算をしたものだった。

そういうむちゃな感覚だったから、自分で会社をつくったときも、過剰に個人の力量に期待してしまった。経営者失格だ。国政選挙を手伝ったときも、人員が足りない明らかな負け戦なのにスーパーマン並みの働きをごくわずかのボランティアに割り振ることで形を整えようとした。ブラック企業の発想と何ら変わることはない(その反省からその3年後の選挙では立候補に強硬に反対したのだが、それは別の長い話だ)。この「一騎当千」感覚が抜けるまで、ずいぶん長くかかったものだなあと思う。

上記のブログ記事でシミュレーション検証されているように、「百発百中」とか「一騎当千」というのは、現代の消耗戦においては無意味な概念だ。それが意味をもつのは、一対一の逐次戦が前提であった中世以前の戦闘においてのみだろう。一対一の戦いなら命中率が百倍なら百回戦って百回勝利することも可能だろうし(ただしその勝率は0.99の100乗だから36.6%に過ぎない)、一騎で千人の雑兵にあたることも可能であるのかもしれない(千人規模の集団は統率力を欠くと戦力にならないという特性もあることだし)。消耗戦ではそうは運ばない。流れ弾でも当たれば死ぬのが現実の戦争であり、そこでは映画のように一人のスーパーヒーローが不死身の戦いを続けることはほとんどあり得ない。

そして、現代の社会を回している数多くの業務は、一騎討ち的であるよりはむしろ消耗戦的である。個別の優秀よりは、システムとしてのパフォーマンスのほうが最終的な成果に結びつく。そしてシステムのパフォーマンスは、一点のミスも許さない完璧な部品を組み合わせるよりも、ミスの発生を前提にしながらそれをカバーする機能を組み込んだ設計にするほうが向上する。日常的に使っているパソコンの記憶領域でさえ、エラーの発生を前提にしたエラー補正機構を組み込んでいると聞く。完璧のためにコストをかけるよりも、信頼性を少々下げても、それで問題が出ないように工夫するほうがいい。

一騎当千とか百発百中といった中二病的な考えに毒されていた若い頃の私でさえ、本当に真剣になったときにはそのことをしっかり理解していたようだ。編集作業には校正が欠かせないのだが、この校正を下請けに出すときに、私は必ずマニュアルをつけるようにしていた。そのマニュアルには、1回で完璧な作業をしようとしてはならず、少しの見落としがあってもいいから同じ校正紙で3度作業をするようにという指示を、具体的な方法とともに記載していた。これは自分の経験上、そのほうが絶対にクォリティが上がることがわかっていたからだ。100%を目指せば非常に労力がかかるところ、90%でもかまわないとなったら一気に負担が減る。その代わり、90%の仕事を3回繰り返せば99.9%の精度に達することができて、実質的に100%と変わらない、という理屈だ。まあ実際には一人の人間はたいてい同じところでミスをするので、そうはならない。そこは、校正ごとに担当者を替えることで対処する。なんにせよ、完璧を目指すことのコストの高さは、たいていの仕事で痛感する現実だ。そこを回避するのは、「エラーは必ず発生する」と現実を直視するところから出発するしかない。

何でそんな細部にこだわるかね 

そういった現実世界の仕組みを、残念ながら教育関係者は理解していないのではないかと思う。全員とは言わない。なかにはそういう現実世界の公理を織り込んで実践をしている人もいるだろう。だが、私が家庭教師として接する機会の多い中学生たちを教えている教師たちに関しては、「なんでそんなことまでするかね」という人々が多いのも事実。

たとえば、中学英語といえば、まずやかましく言わねばならないのが「三単現のエス」だ。ヨーロッパ系の言語には格変化というものがあり、英語にもその名残があって、それが動詞の末尾に付け加える「s」の文字だ。中学英語の定期テストでは、これを落とすと容赦なくペケがつく。あるいは単数形と複数形のちがいで不定冠詞の「a」をつけるかどうかをしくじると、やはり非情にもペケがつく。たしかにどちらも文法的には重要で、美しい英文、正しい英文を書くためには蔑ろにしてはならない。

しかし、通じる英語というレベルでいえば、そんな細かいこと、だれが気にするだろうか。そういうミスをして喋っても、あるいはレターを書いても、ほぼ100%、誤解されることはない。なぜなら言語には冗長性がもともと備えられているのであって、一部にエラーがあっても前後関係からきっちりと補正ができるようになっている。言語に冗長性を組み込むことは、長い歴史の中で人類が無意識に「エラーは必ず発生する」という現実に対応するために進化させてきた本質だ。だから、もちろんエラーはないに越したことはないのだし、エラーのない正しい構文を学ぶことも重要ではあるのだけれど、それを実践的に使用する際にいちいちエラーに目くじらを立てるべきではない。英語学習の目的が学習指導要領に「外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,聞くこと,話すこと,読むこと,書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う。」と定められている以上、まずは通じるレベルの英語に集中すべきであり、その際に、細部に目くじらを立てるのは無意味だ。

もちろん、格変化のおかしいところは指摘すればいいし、抜けている冠詞は赤ペンを入れておけばいい。しかしそれで減点し、あたかもその英語の理解がゼロであるかのような評価は、「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」を潰していく。やたらと完璧を求めることは、コストを上昇させ、結果として成果を著しく低下させることになる。

英語ばかりではない。たとえば数学。なぜこの時代、試験に電卓を持ち込んではならないのだろうか。数学に関して学習指導要領は、「数学的活動を通して,数量や図形などに関する基礎的な概念や原理・法則についての理解を深め,数学的な表現や処理の仕方を習得し,事象を数理的に考察し表現する能力を高めるとともに,数学的活動の楽しさや数学のよさを実感し,それらを活用して考えたり判断したりしようとする態度を育てる。」と定めている。筆算に代表される数値計算は、その原理を理解することは重要だし、実際にそれを使えるようになることも大切だ。だが、それは既に小学校で完結している。中学校ではもっと「概念や原理・法則」「数学的な表現や処理」「数理的考察」に力を注ぐべきだし、その過程で計算処理に対する負荷は減らしてやってかまわない。ところが現実には、1箇所の計算を間違えただけで0点というような手計算の正確さを競うような問題が平気で出題される。結果、小学校の算数で筆算が苦手だった生徒は、中学数学で浮かばれることがない。それどころか、中学になっても計算の完璧さを追求するためだけのドリル問題が多用され、「勉強」とはそういうものであるという困ったイメージを生徒に植え付けてしまう。

いったい、オームの法則の理解に合成抵抗の計算がどれだけ寄与するのだろうか。イチョウ被子植物だろうが裸子植物だろうが、勘違いしているぐらい、大きな理解の妨げになるだろうか。歴史の大きな流れを把握するために正確な年号を覚える必要があるだろうか。地域と社会の関連をつかむ上で日本の南限・北限の島の名前を少々間違えて何の不都合があるか。連体詞と副詞の微妙なちがいを判断できなくて、日本語の使用に難があるだろうか。漢文の返点がつけられないことは意味の把握にそこまで障害だろうか。

もちろん、学問を進めていけばそういった細部にこそ神が宿ると思える瞬間もある。英語なら、冠詞ひとつの有無で意味が変わる場面に「ホウ!」と頷くことだってある。正確な手順をひとつ間違えるだけで結果が変わってくる数学の精妙さに感動することもある。しかし、それはそこまでのコストをかけられる場合だけで十分だ。具体的には、専門の研究職とか、プロとしての仕事の中でこだわればいい。たとえば私は翻訳者としては相当に粘着質だと思うが、それはその時間コストに見合っただけの報酬が得られるからであって、そうでなければGoogle翻訳でも十分だろうとさえ思う。

失われるものは健全な成長に必要な時間 

冷静に考えれば、教育カリキュラムは完璧を求めていない。なぜ同じ日本史を小学校、中学校、高校と繰り返すのだろうか。なぜ小学校で学ぶ比例を中学1年で学び直すのだろうか。電気回路だって人体図だって繰り返し出てくる。それは、レベルが上がるごとに切り口がちがっていたり深度がちがうということもあるのだけれど、基本的には1回の学習で完璧など期待していないことのあらわれではないのかと思う。小学校で納得できなかった百分率を中学2年の方程式のときに身につけてもいいし、高校の簿記ではじめてその意味に気づいたっていい。体積計算が小学校で身につかなくても、中学校で同じことをやってくれる。小学校のときにどうしても横浜しか出てこなかった県名が中学でようやく神奈川と出てくるようになってもいい。小学生のときにぼんやりとしかわからなかった太陽の動きが中学生でわかってもかまわない。1回で完璧を求めるよりも、7割、8割のところでやめておいて、その程度のことを何度か繰り返すほうが低コストで高い効果を期待できる。

そして重要なのは、この「コスト」は、子どもたちの命を削って支払われているということだ。「いのち」までいったら大げさかもしれないが、ほとんどの子どもにとって「勉強」は、できれば避けたい負担でしかない。やりたくないことを、それでもがんばってやるのは、それなりの見返りが期待できるからだ。学習の見返りはもちろん成長だろう。だが、そこで得られる成長がいびつなものでしかないとしたらどうなのだろう。同じだけの成長をもっと負担を軽くしてできるときに、あえて苦しませるのは道義的にどうなのだろう。

子どもたちの健全な成長という視点にたったとき、しっかりとした学習をさせることは重要なのだろう。だが、そこに完璧を求めはじめると、どんどんおかしな方向に曲がっていく。百発百中の命中率を求めたって、そんなものは実戦では役に立たない。それよりは百発に一発しか当たらないようなものでもシステム的にきちんと運用できるような柔軟さを培っていくべきだ。そしてそれは、完璧を求める学習態度とは対極にある。

諸悪の根源は言わずもがな

いったいなんで、教育現場に完璧を求める姿勢が染み付いてしまっているのだろうか。「だいたいあってる」で十分なところにカチッとした正答を求めるのだろうか。生身の人間ならたまに間違えることもあるような計算問題を何百回も繰り返して訓練するようなドリルが愛用されるのだろうか。その理由は至って簡単で、それによってテストの点数が上がるからだ。テストの点数によってその後の人生が左右されるからだ。

入試によって中学や高校が決まり、その学校によって大学が決まり、大学によって就職先が決まり、それによって生涯年収が決まるような世界が存在するとき、一点でも余分に取れば勝ち、という姿勢を批判することはできない。それが現実である以上、一点を笑うものは一点に泣くしかない。

しかしまた、現実とは、意識が創りだす幻影である。人間の最終目標は生涯年収の実績なのだろうか。否。人生の最終スコアを判定する数字は、この世には存在しない。最終的には当人の主観だけが人間の生涯の正当性を決定する。

もちろん、物質的に窮乏する生活は、人を苦しめる。精神的に追い詰められる毎日も、その人の人生を破壊する。だが、そこから逃れる道筋は一通りではない。多様な逃げ道のひとつひとつを教育は伝えることはできない。

しかし、無限に多様な現実にぶつかったときに、それぞれの局面でどんなふうに判断すればいいのか、どんな展開を想定し、どんな準備をして、どう乗り切ればいいのか、それを合理的に思考していく態度と素養を培うことはできる。それが義務教育に求められているものであり、現に(十分とは言わないが)文部科学省が定めた学習指導要領に明記されていることでもある。

それをなぜ、現場の教師は曲解するのか。答えは明らかだ。受験だ。テストの成績だ。この点数主義、権威主義を変えない限り、百発百中をモットーとするような精神主義は消えないだろう。

あーあ、テスト、なくなれ!