あるマラソンランナーのゴール

ラソン大会は何度か見に行った。父親が還暦を超えてからそういう趣味にハマってしまったからだ。12年間のランナーとしてのキャリアで26回フルマラソン大会に参加してすべて完走したのだから立派なものだ。私には真似できない。真似する気もなくて、それでも地元の大会のときにはゴールに出迎えに行ったりしたものだ。1万人から参加する大会ではランナーの群れは怒涛のようで、その振動を見ているだけで酔いそうになる。「ようやるわ」というのが正直な感想で、真っ赤な顔をしたり汗だらけになったりして苦しそうに走るランナーたちの姿には、あまり感心もしなかった。それでも父親がゴールしたときには、「よくがんばった」と讃えたいと思ったし、少しは誇らしくもあった。傍で見ていてもそういった感動があるのだから、本人にはこの上ないものがあったのだろう。途中で苦しいと思っても、棄権しようかと考えることがあっても、ペース配分を考え、規定タイム内でのゴールインを果たしたのだから、そこに達成感がなかったはずはない。

その父親が、88歳で他界した。先週のことだ。不思議と、悲しくはなかった。悲しみはなかったが、ある種の感動があった。それは、マラソン大会のゴールで感じたものとよく似ていた。私は父親を誇らしく思った。

 

父親が病に倒れたのは1年と2ヶ月ほど前のことだった。最初の入院は軽く済み、2度めの入院ではかなりダメージは受けたが、それでも自力で歩いて私の車の助手席に乗りこんで退院することができた。3度めの入院をしたのが10月の末で、そこからおよそ10ヶ月、ついに自宅に戻ることはなかった。

その10ヶ月は、決して平坦ではなかった。最初の数ヶ月は病状が安定せず、いつ死んでもおかしくないくらいの状態が繰り返された。あまりにつらい日々が続いたので、モルヒネ投与まで行った。私もそれなりの覚悟を決めた。思えば、悲しいのはこの時期がいちばん悲しかった。そのなかでも笑えることも嬉しいこともあった。人間、生きていれば生きているだけ、さまざまな感情におそわれる。それは病気に苦しんでいても同じことだ。

父親は、稀にではあるが感情を爆発させた。「金を払ってるのに、こんな苦しい思いをさせられるのはかなん。もうええ」みたいなことを言ったこともある。治るために病院に入っているのに(商売人である父親の感覚では「金を払ってるのに」)、一向に好転しないことに対するいらだちは強かった。だが、それは裏返していえば、再び健康になることを強く望んでいたことでもあった。生きようとする意思であったわけだ

そういう強い意志があったからこそ、父親は常にリスクをとった。高齢者の医療は撤退戦である。何かを失わなければ何かを得ることはできない。リハビリひとつとっても、それをすることは回復への道のりであると同時に、負担から病状を悪化させる危険性を伴ってしまう。徹底的にリスクを避けるならリハビリを控えて安静を保つことも選択肢のひとつだ。どうせリハビリをしても完全な原状回復は望むべくもない。頑張ってリハビリしてようやく車椅子に座れるようになるかどうか、立てるようになるかどうかというような状況で、リスクをとる価値がどれだけあるか。そう考えても決して非合理的とはいえない。それでも父親は、リスクをとる方を選んだ。ほんの少しでも回復への希望があるのなら、その代償として命の危険があっても必ず希望のある方を選んだ。

ようやく心臓のほうが落ち着こうとしはじめたころ、父親はインフルエンザに罹った。これが父親の体力を著しく奪った。そのせいで完全にベッドから起き上がれなくなり、経口の食事も不可能になった。それでも父親は希望を失わなかった。もちろん、弱音を吐くときも、挫けそうになるときもあった。何日も口をきくだけの体力もなく、ただ荒い息をして横たわっているだけということも繰り返された。それでもそういうひどい谷間を超えると、必死の思いでリハビリに取り組んだ。「まつもとさんがダメだというときは本当にそれ以上できませんね」と、理学療法士たちは口を揃えた。ふつうは患者が弱音を吐いても励ましてほんの少しの無理をさせるらしい。だが、父親の場合は限界までギブアップしなかった。弱っていく体力の中での限界はごくごく低いレベルで、ときには数分ももたなかったのだが、それでもリハビリを心待ちにするように取り組んだ。

相当に状態がわるいことを共通認識とした上で、それでもリハビリチームは車椅子に座っての自宅復帰への計画を立ててくれた。そうなった場合の自宅介護態勢を整えるための下準備にも手をつけた。いつの間にか心臓の状態はごく低レベルながらも安定するようになってきていた。極度に悪化した身体機能を気長にリハビリで回復していけば、ひょっとすれば退院が可能なのではないかと、そんな希望も見えはじめていた。かつてのスポーツマンらしい日常は戻らなくても、高齢者らしい穏やかな生活が取り戻せるかもしれないと、遠い日の奇跡を願えるようにもなってきていた。

最終的に命を奪われたのは、伏兵のようにおそってきた肝臓系の障害だった。おそらく健康な人であればさほど深刻でもない治療可能なトラブルだったのだと思う。だが、弱った身体には致命的な打撃になった。医師が異変に気づいてから10日ほどのうちに様相は急転した。あっけないほど、最後は突然に訪れた。

 

人間の命は脆いものだ。山に登っていた私は、若い頃から痛切にそれを感じてきた。拳ほどの石ころが当たっただけでも、あっさりと人は死ぬ。打ちどころが悪ければ転んだだけでも命にかかわる。それぐらい、人間は脆い。風邪や熱中症でさえ、人の命を奪う。運が悪ければいつでも人は死ぬ。ただし、それを前提にして、それでも人間は、少しでも健康に、少しでも丈夫にと、日々努力をする。身体に良さそうなものを食べ、あまりむちゃをしないように節制する。矛盾するようではあるが、そういった小さな努力が実際に人間の日々の暮らしを支えている。そのうえで、それでもいつか、人間は命を失う。運がよくても悪くても、最後にはみんな死ぬ。それが人間のゴールだろう。

言葉をかえれば、人間は皆、死に至る長い道のりを歩いている。その道のりが生きるということである。つまり、生きるということはどう死ぬかということでもある。そして、奇妙なことに、生きようとする意思をもつことが、人を生かしている。つまり、人は死ぬために生きようとする。

そういう逆説的な現実を前にすると、死の直前まで復活への可能性にかけて前向きに進もうとしていた父親は、本質的に「よく生きた」のだと思う。そして、よく生きた人は、よく死んだ人だとも言える。父親は、生への意思によってその死を輝かしいゴールに変えた。そして、私はそれを誇らしく思う。

人生には、マラソン大会のように決まったゴールはない。終わったところがゴールだ。だからすべての人がゴールにたどり着く。しかし、なかには途中でバスに拾われてゴール地点にたどり着く人もいるだろう。棄権をしても、ゴールには帰ってこれる。完走したかどうかは、結局、最後まで走り抜く意思を捨てなかったかどうかによって決まるのだ。そういう屁理屈をこねあげると、まさに父親は、88年という人生のマラソンを完走したのだと思う。その姿を見て、私はただただ賛嘆するしかない。

 

結局、父親はそういう人生を選んだのだ。それは、彼がマラソンという遊びを選んだのと同じことだ。マラソンにはマラソンのルールがあるように、父親のような人生にはそういう選択に伴うルールがある。最後の入院生活では(特にインフルエンザ以降は)、水さえも飲めず、吸引やおむつ替えの苦痛に耐えなければならなかった。床ずれもできた(看護チームの努力でこれは克服した)。残酷だなと思うことも少なくなかったが、それをやり抜くことが生きることにつながると、がんばり続けた。ときに長年連れ添った妻にだけは感情を爆発させることがあっても、従順な患者であり続けた。ルールに従ったのは、押し付けられたルールを守ることに価値があるからではなく、ルールを守ることを自らの意思で選択したからだ。そうすれば生きることを全うできると自覚していたからだ。その勝利が遠くに見えてきたときに、他の部分にトラブルが発生した。もうそれは、運が悪かったとしかいいようがない。ちょっとした不運で人は死ぬものなのだ。そしてゴールがそこで決まった。その瞬間まで、父親は自分で選んだゲームのルールに従って戦い抜いた。私には到底真似ができない。

私は、マラソンをやらない。若い頃に登山で足を痛めたことを言い訳にして、父親の誘いもことわった。あんなことをやっても、私はたぶん楽しいとは思わないだろう。同様に、父親がマラソン引退後に情熱を傾けたゴルフにも近寄らない。あんな環境破壊的なスポーツ、だれがやるものかと思う。そして同様に、父親のような人生を私は選ばない。高齢者の医療、終末期の医療に関しては、私には私なりの理想もあれば批判もある。迷いもあればあきらめもある。私は父親のような生き方をしたいと思わないし、それは父親のような死に方をしたくないということでもある。

それでも私は、父親を誇らしく思う。最後の1年を通じて、初めて父親を尊敬する気持ちになった。1年かけて息子をそんなふうに変えたのだとしたら、彼も自分のがんばりがムダではなかったと思ってくれるのではないだろうか。そうだ。あなたの人生には、価値があった。私にとっては、価値があった。

安らかに眠れ!