好む好まざるにかかわらず、現代社会は科学と切りはなせないものとなっている。科学という言葉が適当でなければ、合理主義といってもいい。理屈にあったことを正しいとしてそれに従いましょうというのが、現代社会の基調にある。民主主義とはそういう政治体制であるといってもいい。何が合理的かということは徹底した議論の果てに明らかになる。そういう議論をつくしてもっとも合理的な方法を採用しましょうというのが民主主義だと、これは中学校の公民の教科書にさえ書いてある(合理主義とは書かずに「効率」と「公正」と書いてあるのはなんだかなあと思うが、それは表現の問題で、結局は合理主義を示しているのは明らかだ)。
私自身は、合理主義で埋め尽くされた世界を息苦しいと感じる方で、どっちかというと非合理的な世界の方に惹かれる。しかし、それは現代ではせいぜい趣味の範囲でやってくれということになっていて、公の場では合理主義者として振る舞うことが求められている。実際、非合理的な判断は往々にして他者と衝突することが多いので、世渡りの処方としてはそういうのは表に出さないほうがいい。
とはいいながら、合理主義は何もガチガチの硬直したものではない。「理」は常に進歩するからだ。その進歩のためには、試行錯誤も必要になる。試行には、一見すると非合理的に見える行動も必要になるだろう。逸脱がなければ正常は見分けられない。逆説的に見えるかもしれないが、合理主義がうまく機能するためには、その参照項目として常に非合理的なものが必要となる。合理主義の世の中にあって非合理的な態度、迷信やら似非科学やら感性やら芸術やらが生き延びているのは、合理性では割り切れないものが人間社会には必要だからにちがいない。
感情は、一般に非合理的なものとされる。ある意味では古代の合理主義をとことんまで突き詰めた体系である仏教は、一切の恩愛を空虚なものであるとして切って捨てる。ところがその奥義を極めたはずの高僧ダライ・ラマ14世でさえ、母親の死に際してはひどい悲しみにおそわれたと述懐している。感情というものは先験的に存在しているものであり、合理主義の立場に立ったとしてもその存在を否定できるものではないらしい。
そして、この感情というものが、「無意味な延命治療」の原因ではないかという考え方がある。死期に近い高齢者は、合理的に考えれば医療の対象とすべきではない。なぜなら、既に社会に対する貢献度が下がってしまっている人をその先に延命させることで得られるものは何もないからだ。であるのに延命治療をおこなうのは、単に「死ぬのが悲しいから」とか、「自分が殺したと思われるのが嫌だから」とか、「がんばることが美しい」とかいった非合理的な感情のなせる業でしかないのではないか、というわけである。
確かに、終末期にはさまざまな感情が絡み合う。それは、「かわいそう」とか「かなしい」とか「しんどい」とか「くるしい」といったネガティブなものばかりではない。喜怒哀楽ひととおりの感情はやってくるし、さらにその上に感情だけでは割り切れない悩みがおそってくる。家族には、「これが本当にこの人のためになるのだろうか?」「これが本当にこの人の望むことなのだろうか?」という答えの出ない疑問、「これ以上のことはできないのだろうか?」「もっと別な道はないのだろうか?」という判断のつかない問いかけ、「暑くはないか、寒くはないか、床ずれはできていないか」といった正解の出ない気遣い、こういったさまざまな悩みがのしかかる。そしておそらくは、病床にあるその人自身が、同様の悩みをまったく異なった立場から抱え込んでいる。「いっそ殺してくれ」と思う瞬間があれば、「生きていてよかった」と思える瞬間も訪れる。平癒を確信できるときもあれば、もう戻れないと絶望するときもある。現在の治療を続けることが唯一の道だと思えるときもあれば、医療なんてもうたくさんだと思うときもある。自分自身の感覚さえ、信じられなくなってくるだろう。暑いのか寒いのか、痛いのか痒いのか、そういった基本的な感覚も怪しくなってくる。味覚も変わってしまう。それが悩みとならないはずはない。
しかし、そういった複合化した悩み、どうしようもなくなった感情の塊、非合理的な人間の性が、高額にのぼるともいわれる終末期の治療を長引かせているのだろうか。父親が体調の不良を訴えてから半年、最後の入院から3ヶ月を経てだんだんと出口の見えない長期戦の様相が見えてきたその病床の脇に座って、案外とそうではない、という気がしてきた。個人の感情とはまったく別個の巨大な歯車が、医療という世界では回っている。そして、その歯車を回している原理は、現代社会を形成している合理主義にほかならないのではないか、という疑いだ。
医療のシステムを含め、資本主義の世の中を回しているのは、「どうやったら儲かるか」という経済合理性だ。医療の世界で儲けるには単純に病人を増やせばよく、薬をできるだけたくさん使えばいい。製薬業界の動きを見ていると彼らはいったい病気を治したいのかそれとも人を病気にしたいのかどっちなんだと思ってしまうこともある。ただ、そういうことばかりやっていたのでは社会が破綻してしまう。医薬関係が儲けることによる経済効果とそのための社会的損失を天秤にかけるところにおそらく現状の医療があるのだろうし、医療費問題として「透析患者は殺せ」式の議論もおそらくそのあたりの微調整なのだろうと、巨視的にはそんなふうにも見える。
だが、マクロなそんな話は、個人のレベルまで下りてくるとどうでもいいことだ。個人のレベルで感じる医療の合理性は、そういうことではない。それは、医療には人を治すという実践の側面と、そのための技術を研究するという科学の側面があるということだ。そしてこの2つは切りはなせない。たとえありふれた風邪やら下痢やらの治療をしているときでさえ、医師は疫学的なデータを(たとえ統計にかかるような数値としてではない感覚的なものとしてだとしても)蓄積している。「あれが効いた、これが効かなかった」というのは、論文で読むだけでなく、自分自身の実践からも学んでいく。そして、ときにはそうやって学んだことを論文化することだってある。医学の知見というのは、そういうふうにして蓄積されてきたものだ。
父親の病気に付き合って、そういうことを何度も感じた。たとえば、最初の3ヶ月ほどは、いったい何がどうわるさしてこの病態が発生しているのか、実のところ担当医師もよくわからなかった。担当医が非常に率直な人だったから、このあたりは掛け値のない話ができたのだと思う。ひとつひとつの症状、たとえば血中のカリウム値が高いこととか電解質バランスが崩れているなんかは、腎臓の機能の低下で説明がつく。だが、他の数値はそこまでひどくもない。そして、腎臓が悪いだけでここまでひどい倦怠感・脱力感が発生するだろうか。心臓がよくないのはもともとだが、数値がそれほど急激に悪化したわけでもない。肺に癌があって摘出しているが、そっちの方は完治していると専門医が言っている。最初の異常が急激な体重減少(1ヶ月で10kg以上の低下)だったので消化器系のトラブルも疑えるが、検査の結果に異常はない。そして患者は起き上がるのにさえ苦痛を訴える。そして、何を処置したわけでもないのに、最初の入院は入院して検査をしているだけでいったん回復した。「あれは夏バテか?」というのが、ホッとしながらの感想だった。それにしても緊急の入院と安静措置がなければ、死んでいたとしても不思議ではない危機だった。それが、その後アップダウンを繰り返して3ヶ月前に3度めの入院をしたときに、はっきりと循環器系に不具合があることがわかった。そして、そこまでの経過を振り返って、はじめてすべてのピースがピタリと嵌った。循環器系の機能低下が腎臓の機能低下を引き起こし、腎臓の機能低下が胸水の過剰につながり、それが呼吸機能の低下を引き起こし、そのためにもともと循環器系の不調で低下気味だった酸素供給量が不足して身体が動かなくなったと、そういう筋書きだ。そして、それだけのことは、治療を続けることでわかったわけだ。わかってしまえば決して珍しい症例でもないのだろうが、実際にそういう患者を経験することで医師は次に似たような患者が出たときに適切な初動ができるようになる。なるほど、医学はそういうふうにして進歩してきたのかと、苦しむ父親をよそに私は妙に納得した。
あるいは、父親が心臓の血管の手術をした後、状態が回復せず、「心筋の再起動には失敗しました」という結論が出た後で、少しではあるが急に全身の状態が改善したことがあった。最終的にはこれは単なるアップダウンの波が上向いただけだったのだろうということにはなったが、もしも手術からそれだけ時間が経過して心筋が動き始めたのだとしたら、それはそれで一例報告ものだろうと思った。もしもそういう知見が蓄積すれば、新たな心臓治療の方法へとつながっていくかもしれない。
こういうことは夢想でも何でもない。実際、ある看護師は、「家族看護について論文を書いているので、そのケースのひとつとして使わせてもらってもかまいませんか」と承諾を求めてきた(らしい。というのは私にではなく兄に話が行ったので)。だから来年あたり、ひょっとしたら私の父親の話が「Aさんのケース」としてどこかの論文に載るのかもしれない。そして、それは看護学をすこしだけでも進歩させてくれるだろう。
つまり、シロウト目には意味があるのかどうかわからない治療でも、結果的にそれは医学の進歩にごく微量だけの貢献をしている可能性がある。そして、無意味に見える「延命治療」にしても、それが単なる死期の先延ばしではなく、何らかの科学的知見をもたらすものとして取り組まれている可能性はある。というよりも、ひとりひとりの医療担当者の思いとはまったく無関係に、医療というシステムそのものに「とことんまでやってそれに見合った知見を蓄積する」という姿勢が組み込まれているのではないだろうか。医療というものは、そういうふうにして発展してきたのではないだろうか。
そして重要なことは、終末期の患者に対して勝ち目のない治療を続けることによって得られる知見が、もっと「若い」患者、「助かる見込みのある」患者、「社会への貢献が期待できる」患者に対する治療にやがて反映されていくということだ。すなわち、医療は、最も弱いところに向き合うことで、人間の身体、病気というものに対する臨界点での知識を見出すことができる。そういった蓄積は、やがてすべての人の健康を改善する知恵となっていく。医学のなかには、そういった仕組みが本源的に備わっている。
だから、医者はそうそう簡単には患者を手放してくれない。「もうええんちゃいます? さっさと終わりにしてくださいよ」と本人が思う瞬間、家族が願う瞬間があったとしても、そういうものとは無関係に、粛々と医療は進んでいく。それがいいのかわるいのか、私にはわからない。ただ、個別の家族や患者の感情、非合理的なあれやこれやとはまったく無関係に、合理主義としての医療は患者が最後の息を引き取るまで止まることはない。医療とは、どうやらそういうものらしい。
だからといって、終末期の患者・家族の悩みが解決するわけじゃないんだけどなあ。ま、悩みばかりではない。一日のうちに何度も笑うこともある。笑えるうちは、人間、捨てたものでもないと思うわ。