なんでノートをとるのかわからない - 美風なんだろうけど

白状すると私はノートを1冊使い切ったことがない。いわゆる大学ノート、学習用のノートのことだ。その小型版の手帳でさえ使い切ったことがない。途中からそれははっきりとわかったので、大学の山岳部にいたときには必要な枚数だけ白紙を小さく切ってホチキスで中綴じにして、使い切れるだけの手帳をつくってリュックの雨蓋に入れていた。GPSのない時代、山行記録はとらないわけにいかないから。

記録のための小さなノートはともかくとして、問題は「勉強」のためのノートだ。小学校のときにはきらびやかな表紙の各教科専用のノートが市販されているのをどこかで数冊買い与えられたと思う。ただし、そのうちの1冊も使い切らない(どころか使い始めもしない)ので、追加で買うことはなかった。中学校になると学校で本格的に「ノートの使い方」みたいなのを教えられる。張り切って何冊かの大学ノートを買ってもらったのだが、結局、数枚のページを汚しただけでそれらは大学卒業の頃まで残ることになった。早々にノートをとるのを断念したからだ。

なぜノートをとらなかったのだろう。いくつかの理由が複合していると思う。まず、何を書けばいいかわからなかった。これはいまでも、多くの生徒が訴えることであり、まあ、普遍的な問題なのだろう。ただ、多くの生徒は教師の板書を丸写しすることでこの問題に対処する。あるいは、上手にノートをとる友だちのやり方を見本にして、解決していく。けれど、私はこの「わからない」に加えて、字が汚く書くのが遅いという問題を抱えていた。そのくせ、完璧なものをつくらなければ気がすまない発達障害的な性格も災いしたのだろう。汚い字で、それでもなんとかノートをとり始めると、それ以上のスピードで授業が進んでいく。ノートなんかとっていたのでは授業を聞き逃してしまう。

やむなくノートを断念して授業を聞き始めると、思いがけないことに気がついた。教師の説明していることはすべて教科書に書いてある。自分が汚い字でいっしょうけんめい書かなくても、もうそこには活字できれいに印刷されたものが与えられている。私は、ノートをとる代わりに教師の話に対応する教科書の箇所を確認するようになった。

もちろん、教師は教科書に書いていないこともたまにはしゃべる。それは教科書の不備だろうと、教科書の余白にメモをする。けれど、ほとんどの場合、そのメモは不要だということにあとから気がついた。というのは、たしかにその箇所には書いていないのだが、別の場所に書いてあったり、別の本(たとえば資料集)に書いてあったりする。既に印刷物として手に入るものがあるのに、自分の読みづらい字でそれを書く必要を私はまったく感じなかった。だから、ノートはとらないものと決めた。高校に入ったときも大学に入ったときも、「さすがにこれからはそういうわけにはいかないだろう」と身構えたが、結局同じことだった。メモすべき目新しいことなんか教師は喋らないし、仮にそういうことを喋る教師がいても、それは教科書の隅の余白に1行でまとめれば十分な程度でしかなかった。それもそうだろう。指導要領に定められたことを説明するだけでもたぶん時間いっぱいなのに、それに加えて入試対策みたいなことで時間を潰しているのだから、それ以上のことなんか喋る時間があるわけはない。まあ、大学になるとさすがにそればかりでもないが、印刷物の配布が膨大だったので、たいていはそっちで間に合った。出席していないとそういうプリント類はもらえないから、割とまじめに講義には出席していたと思う(そして半分は寝ていたような…)。

 

ノートをとらなかったことが良かったのか悪かったのか、私には未だに判断ができない。一流とはとてもいえないにせよともかくも大学に進学できたことを思えば、「ノートなんてとらなくても(ついでに宿題なんてしなくても)勉強に問題はない」と言えるかもしれない。あるいは、もっと強気に「ノートをとらなかったから(そして宿題なんかしなかったから)こんな私でも大学に進学できた」と強弁することも可能かもしれない。反対に、「もしもまじめにノートをとっていたら(そして宿題をやっていたら)、一流大学に入れたんじゃないの」と疑うこともできる。1回こっきりの人生に、「たら、れば」は無意味だ。

ただ、とりあえずノートなしでどうにか生き延びてきた人間として、正直なところ、人々がなんでノートをとるのか、未だにわからない。なぜなら、ほとんどのひとはノートを見返さない。特に私が家庭教師として教えている中学生や高校生は、次から次へと降ってくる課題をこなすのに忙しくて、ノートなどのんびりと読み返している時間はほとんどない。だからといって、彼らに「ノートなんかとるな」とアドバイスすることはできない。なぜなら多くの教科で、「ノート提出」が義務づけられ、それが成績に影響するからだ。生徒の不利益になることは決してしてはならない。だから、自分自身には根拠がないのに、「きちんとノートをとらないと」みたいなアドバイスをする。もっとも、そんなアドバイスをしなくてもほとんどの生徒はきちんとノートをとっている。いまの生徒たちはほんとにまじめだ。哀しくなるぐらい。

 

ノートに関してこんなことを思うのは私ぐらいなのかと思っていたら、ひょんなところから似たような感想が出てきた。ヘレン・ケラーの「わたしの生涯」を読んでいたら、

けれども私はこの点(掌に「指話」法で講義を伝えてもらうこと)では、筆記をするのに懸命になっている他の学生に比べて、非常に不利であったとは考えません。耳で聞くことと、それをめちゃくちゃな速さで筆記する機械的活動とに全心が奪われているならば、いま論じられている問題や、その説明の方法などについて、多くの注意を払うことは不可能であろうと思います。私の手は、講義中聞くことに忙しいので、筆記することはできませんでした。

という部分に行き当たった。ノートをとらなかった私は、教師の話に没入できた。教師の話を理解し、教科書で確認し、疑問を解消し、教師を批判することが思う存分にできた。もちろん、それは講義の上手な教師の場合だ。退屈な教師の場合は、何も考えることがないため、空想にふけるか、居眠りに落ち込むかのどちらかだった。それでも、そういった頭の余裕が、いまの私をつくっているように思う。

それでもなお、私はきれいなノートをとる人を、心の底ではうらやましいなと思っている。あれはたしかに美しい風習なのだろう。だが、美しい風習は、美しさだけで保たれるものではない。もしもそれが無意味なこと、有害なことだとわかる日が来るのなら、それは捨て去られなければならないのだろう。

まあ、ノートの効用についての実証的研究なんて無理だろうから、この美風がなくなることはないんだろうなあ。少なくとも、この教育制度が変わらない限りは。

言葉の力を信じること - 民主主義は道徳教育からはじまるのかもしれない

人間は、環境をより良い方向に変えていこうと工夫することで独自の進化を遂げてきた生物だ。たしかに一般に生物は周囲の環境を変化させ、そこにニッチを見出して進化してきた。しかし、ほとんどはそれを能動的に行ってきたわけではなく、その生物の存在が結果的に環境を変化させたに過ぎない。人間はそうではない。遺伝子に働く淘汰圧以上の速度で自分自身を変化させ、環境に働きかけてきた。その圧倒的なスピードは、大脳皮質の働きによる思考と言葉による情報の伝達によるところが大きい(関連:なぜ坊主は妻帯しないのか)。

だから、思考と議論は人間が人間であることのアイデンティティだ。人類をここまで連れてきたのは、考えることと言葉を使うことだ。言葉によって思想を組み立て、それを伝え、そして社会集団としてライフスタイルを変革することだ。そんなふうにして新たな環境に進出し、また、新たな環境を創出して、人類は世界中に広まった。ま、地球にとってはウィルスみたいなもんかもしれないけどね。けれど、それを人間である自分の口から批判はできない。そういった歴史の端っこにいる者としては、もしも不都合があるのなら、これまでの戦略の延長の上で解決していくしかない。大絶滅以外の選択肢はそれしかないはずだ。

だから、古代中国の政治思想家たちのように学問によって政治を導こうという発想が生まれる。哲人政治プラトンのような理知主義が説得力をもつ。議論による最適の解決策の選択を前提にした民主主義が世界標準となっているのも、そういった考えかたの延長だろう。現行の代議制民主主義が最良の形式であるとはとても思えないが、とりあえずは「いままでに試されたなかで最もマシな方法」であるのかもしれない。

 

そんな民主主義に関して、なにか根本的な誤解が世の中を覆っているような気がしてしかたない。それは、「多数派を占めた者がその思うままの政策を実行できる。その多数派を決める人気投票が選挙であり、それが民主主義だ」という考えかたと言ってもいいかもしれない。こんな単純に要約できるものではないし、さまざまなバリエーションもあるが、つまりは政策決定のために知恵を絞るとか議論によってさらに上のレベルを目指すということを視野に入れず、ただ多数決原理だけに目を向ける考えかただ。ひどいのになると多数派が自分たちの利益のために政治を行うのが当然だというところまでいく。その延長にあるのが、「自分も多数派にならなければ落ちこぼれる」というバンドワゴンに乗り遅れるな式の発想だ。それはもう、完全に民主主義とは別物だから。

そういう誤解を生み出しているのは、「議論によって問題を明らかにする」というプロセスを多くのひとが理解していないからだ。そういう経験がない。多数決原理は、議論によって問題を明らかにすることによって、もっともよい解決策への賛同者が増えるはずだという前提にもとづいている。一人の判断は信頼できないが、多くの人の判断は信用できるという考えかただ。これが有効にはたらくためには、「議論によって明らかになったことからひとは考えを変えることがある」ということが前提になければならない。当初はAが正しいと考えていても、議論のなかで明らかになった事実から「やっぱりBだな」と判断を変えることは変節でもなんでもない。そして、実際にそういうことを経験すれば、「ああ、話し合いによって世の中は変わるんだ」と実感できるはずだ。そういう経験を積ませなければ、民主主義は党派の争いに堕ち、ヤクザのケンカとかわらないものと成り下がるだろう。そして、そういう経験を積む機会が、現代の学校教育を受ける若い人たちの中には少ない。だが、まったくないわけではないはずだ。

 

いま高校生の息子が小学校の低学年のころだから、もう10年近くも前の話だ。授業参観があって、その日は道徳の時間だった。そのころはまだ家庭教師の仕事もしていなかったので授業にはあまり興味もなかった。それでも参観日に親が来るのは子どもにとって少し嬉しいことであるのはわかるので都合をつけて出かけた。

授業の内容は、おとなにとってはつまらないものだった。チョウをクモが食べるというような教材を読んだあと、子どもたちに感想を発表させるというようなものだった。こういうのは、「ちょうちょはかわいそう」「でも、くもだって生きるためにしかたないんだよ」みたいな展開の中から、倫理観を養うという観点で設定されているのだろう。で、教師はうまい具合にそういう展開を導いていった。

ただ、おそらく予想外だったのは、意見の内容が一方に偏ってしまったことだ。教師は何人も指名したのだけれど、みんな似たりよったりの意見だった(低学年の授業参観なので、みんな競って挙手をするから指名に困ることはなかった)。小学校の教師もそれなりにプロだなあと思うのは、「じゃあ、いままでに出たのとぜんぜんちがう意見の人、いませんか?」みたいにして、どうにかして次の展開を引き出そうとしたことだ。そうするとまだ何人か手をあげたが、やっぱり似たような意見。「お前ら話、聞いてないだろ」と思ったが、まあ小学一年生だしね。しかし、最後に指名されたウチの息子はちがった。はっきりと、みんなと別の意見を出した。

教師もホッとしたと思う。そして、「いま、まつもとさんの意見が出ましたが、これに賛成するひとはいませんか?」と、教室中に尋ねた。だれもいない。圧倒的多数に負けている。けれど、まあようやくここにきて、授業の計画通りの「いろんな意見」が(まあ大きく分けたら2種類に過ぎないのだけれど)出揃った。

そこで、「じゃあ、なぜそう思うのか、説明してみましょう」と、教師はまた挙手を求めた。多数派の方は次々に新しい子どもが指名されて意見が述べられる。そして、少数派の方は息子一人しかいないのだから、しかたなく、「じゃあ、まつもとさん、なぜそう思うのか説明してみましょう」と2度めの指名となった。

ま、私も親バカなのだけれど、このとき息子は、臆せず、堂々と自分の意見の根拠を述べた。拙い理屈ではあったけれど、きちんと筋道を立てて、なぜ自分がそう考えるのかを説明した。

これを受け、教師はようやく次の段階へ進めることになった。「みんなの説明を聞きました。説明を聞いて、意見を変えてもいいんですよ。じゃあもう一回聞きます」。そして2つの意見への賛否を挙手で尋ねた。すると、驚いたことにクラスの半数まではいかないがかなりの割合の子どもが息子の意見に賛成だと挙手をしたのだった。

私はこの経験を、議論とは何かを息子が理解する上で大きな価値をもったものだと思っている。正しく話せば、世界は変わる。言葉には、他者の考えを変化させる力がある。息子はそれをこのときはっきり理解したと思う(念のため、もっともっと砕いた言葉で後日それを確認した)。

 

議論とは、声の大きさで相手を圧倒することではない。あらかじめ味方を集めておいて援護射撃によってその場を乗り切ることでもない。ただ、自分が正しいと信じることを理性でもって説明し、人々に判断を委ねることだ。そういった民主主義の基本を、息子は道徳の時間に学んだ。

奇妙なことに感じられるかもしれない。道徳は、古い価値観の押しつけではないのだろうか。そればかりではないというのは、学習指導要領を見ればわかる。中学校の学習指導要領では、「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」において:

生徒が多様な感じ方や考え方に接する中で,考えを深め,判断し,表現する力などを育むことができるよう,自分の考えを基に討論したり書いたりす るなどの言語活動を充実すること。その際,様々な価値観について多面的・ 多角的な視点から振り返って考える機会を設けるとともに,生徒が多様な見 方や考え方に接しながら,更に新しい見方や考え方を生み出していくことが できるよう留意すること。

と、こういった冷静な議論をすることの重要性がきちんと述べられているからだ。考えてみれば、道徳科は学習指導要領第1章第6の2に

 各学校においては,生徒の発達の段階や特性等を踏まえ,指導内容の重点化 を図ること。その際,小学校における道徳教育の指導内容を更に発展させ,自立心や自律性を高め,規律ある生活をすること,生命を尊重する心や自らの弱 さを克服して気高く生きようとする心を育てること,法やきまりの意義に関す る理解を深めること,自らの将来の生き方を考え主体的に社会の形成に参画す る意欲と態度を養うこと,伝統と文化を尊重し,それらを育んできた我が国と 郷土を愛するとともに,他国を尊重すること,国際社会に生きる日本人として の自覚を身に付けることに留意すること。

とあるように、法治主義や全員参加による民主主義の意義を伝えるものでもある。ある部分は価値観の押し付けになるのが道徳科だが、そもそも日本国憲法が民主主義を国是としている以上、押し付ける価値観が民主主義そのものであって何の不思議もないだろう。

けれど、問題なのは、そういった観点からの道徳教育が実際には(おそらく)ほとんど行われていないのだろうということだ。教材としては、結論が出ないような事項を題材にして議論によって考えを深めるようなものが用意されている。しかし、素養のない教師によって、「こういった題材ならこういう価値観からの結論が期待されているだろう」みたいな誘導が行われているのではないだろうか。だからこそ、若い人たちの間で、よりよいものを議論するのではなく、単に政策相性診断みたいなことをやって投票先を決める、みたいなことが標準化しているのではないだろうか。迷信とポエムより数歩も出ないような意見でもって政治を語ったことになるような風潮になってしまっているのではないだろうか。

 

そうではない、という証拠を見たいと思う。なあに、私はすぐに意見を変えるからね。

しょせん政治は呉越同舟

どうやら私は自由主義者らしいのだが、なかなかこういう主張にぴったりくる政党はない。政治とは正義を実現するためのものであって、私利私欲のぶんどりあいではない。ただ、正義はひとの数だけ存在するわけで、その正義を折り合わせるために多数の人々が議論する制度ができている。それが代議制というものだ。だから、議員に選ばれたひとは必ずその信じる正義にもとづいて行動すべきであって、特定の個人や集団の利益のために行動すべきではない。これはきれいごとでもなんでもなく、そうでなければどんな支持も得られないからだ。支持の得られない為政者は失脚するしかないだろう。

ただし、正義があまりにも異なり、それが正面から衝突するような場合には、多数をとって多数派以外の正義を押しつぶしてしまえというような乱暴な戦略もあり得る。選挙をそういった利害関係の衝突の究極の形である闘争だと位置づける政治集団は過去にもあったし、そういった考えかたを受け継いでいる人々もいる。しかし、そういった考えかたもまた、多数の支持を継続して得られないだろう。民主主義は、あくまで「私の正義とあなたの正義とどっちを実現するのか」を理性でもって決定していくプロセスでなければならない。だから退屈で、時間がかかるのが本来の民主主義。

しかし、実際の選挙は、そういった理性的な判断では決まらない。私の思想はいまの日本の政党のどれにも当てはまるものがないが、それでも一票を行使しなければ政治への参加はできない。前回の選挙では、私は立憲民主党を支持したが、それは政策への期待というよりは理性を信じる枝野さんの姿勢に対するファン投票のようなものだった。非常に残念なのは、党首が理性的である割には、そのメンバーに「?」をつけたくなるようなひとが少なくないことだ。ちゃんと人材を揃えておかないと、万が一にも政権とったときには悲惨なことになるぞと思うのだが、まあよけいなお節介であるのかもしれない。

そして、今回の選挙では、私は「れいわ」と書いた(「新選組」なんて、こっ恥ずかしくって書けない)。「山本太郎」と書かなかったのは、私が彼のことをよく知らないし、どっちかというと興味がないからだ。たぶん、政治的な考えかたもちがう。彼が主張していることの半分もピンとこない。

それでも私がそこに投票したのは、単純に、そこから当選者が生まれたら、国会に重度障害者の議員が行くことになるからだ。それも、うまくいけば2人。これに乗らない手はないと思った。

国会に重度障害者が議員として登院する意味、みたいなことを私は深く考えたことがない。障害者のこともよく知らない。ただ、自分が教えている生徒に障害者がいる。

mazmot.hatenablog.com

楽天的な性格、なにごともポジティブに考える能力、それが彼女を支えている。けれど、もう中学生だ。小学生のころのように「がんばる!」だけでは済まない現実も見えてくる。将来のことも悩み始めるころだ。

そんな彼女に、「こんど、重度障害者が国会議員になったんだって。障害があってもそんな未来だってあるんだよ」と、話してやりたい。未来への希望をもってもらいたい。選挙公報を見ていて、私はそんなふうに思った。

もちろん、彼女に「将来は国政選挙を目指せ」みたいなことをいうつもりではない。彼女はもっと「ふつうの」生活を望んでいるだろう。多くの中学生がそうなのだ。みんな「ふつう」を望んでいる。「ふつう」に生きたいと思っている。

彼らは知らないのだ。「ふつう」なんてものはないってことを。ひとりひとりの人生は、どこまでいっても個別であり、特殊なものだ。彼らにはそれが見えない。私だって、こんなへんてこな人生を歩みながら、30代なかばぐらいまでは「何の変哲もない、そこらに転がってる石ころ程度の人生だ」ぐらいに思っていた。だからこそ「ふつう」にあこがれた。そして、それは最後まで得られなかった。

「自分はこれだ」と見つけ出すこと、いやちがう、「自分はここから逃れられない」と諦めること、そこからしか人生は始まらない。そして、その諦めをつくるまでには、いろんな人生が世の中にあって、そのなかで自分がいる場所が特殊なのだということを知らなければならない。そのためにも、ある意味、めったに出ない重度障害者の国会議員というのは、彼女にとっていい刺激になるはずだ。

 

そんな私の一票がどれほど効いたのか知らないが、「れいわ」からは2人の当選者が出た。そして、一夜明けたら、こんな増田の記事が出ていた。

anond.hatelabo.jp

山本太郎アンチだった私が山本太郎に投票した理由」というのが、そのタイトルだが、タイトルだけならまさに私そのものだ。「アンチ」というほどには知らないところがちがうかもしれないが、そこに票を入れたい政党ではない。けれど、理由があってそこに投票した。そこまではまったく同じ。ただし、理由がちがう。大きくちがう。

ということで、私は複雑な思いを抱えることになる。政治家が「皆さんの思いを受け止めて」みたいなことを言うとき、受け止められる思いはその政治家にとって都合のいいものでしかない。有権者はそれぞれの思いを抱えて投票するがその思いは既に投票行動で完結しているともいえる。私としては、下手に増田のような支持者の思いを受け止めてもらって妙な経済政策に走るよりもおとなしくしておいてもらいたいという気もするのだが、彼らが彼らの公約なりマニュフェストなりを掲げて当選している以上、そうもいかないだろう。そして、私が評価しない部分を評価しているひとの中には、戦闘力として物理的に弱い障害者議員を他の議員に替えたかったひともいるにちがいない。

今回集まった多くの票のひとつひとつを見たら、それぞれが投じられた理由はそれぞれにちがう。代議制とはそういうものなのだろう。しょせん、政治は呉越同舟なんだなあと、まあそんな青臭いことを改めて思った。

なぜ人工甘味料飲料をとるべきではないのか? - 「自然」とか「人工」とかいう言葉は疑うべき、なんだろう

「自然なものは良くて人工のものはダメだ」というのは、ある意味、初期的な防御反応としてはわるいものではないと思う。この急速に変化する時代にあって、「人工のもの」は、新規物質であることが多い。それまで経験のない新規物質に対してはどのような反応が現れるか予断を許さない。したがって、慎重になったほうがより安全側だし、つねに安全側を選択しろというのは工学部で学生が最初に教えられることのひとつだから、まずは疑ってかかるというのは決して非科学的な態度でもなんでもない。

ただ、極論でいえば、人間が日常に接するもので完全に人工を排除したものなど、現代ではほとんどない。たとえば野菜ひとつとっても、あれは長年の間に人類が育種育苗してきたものであって、人類の手が加わらない自然界に存在する植物とは似ても似つかないものに仕上がっている。トマトをかじって「自然な味」と思うひとは、「自然」という言葉をかなり限定付きで使っている。

これは有機農産物に関しても同じことで、有機農産物とそれ以外の農産物と、基本的には何のちがいもない。ちがいがあるとすれば、有機農産物のほうが精農家の手になる場合が多く、それが味の違いに反映する場合が多いからだ。怠惰につくったのでは、どれだけ無農薬無化学肥料でもたいした野菜はつくれない。もしも人工的な環境で育てられた野菜がまずいとしたら、それは栽培技術上の問題であって、「人工だから」ではない。

けれど、だからといって私は現代の農薬や化学肥料の大量使用を前提とした農業を無条件で肯定する気にはなれない。それは、それが「人工だから」ということとはまったく無関係な側面で多くの問題を引き起こすからだ。そのあたりのことは、別記事で書いた

つまり、「自然」(天然)や「人工」(化学合成)は、(予備的な警戒アラートとして有用であるというごく些細な部分を抜きにすれば)それだけでは何らの善悪の基準にはなり得ない一方で、だからといって全てのものが等しく「善」であるということにはならないわけだ。自然や人工ということはさておいて、すべてのものにはいい面と悪い面がある。そして、特に人工のものについては、その性質が詳細に判明しているわけではないのだから、やっぱり「あ、これはマズいな」となることが少なくない。

 

非常に興味深いなと思ったのは、この増田(アノニマスダイアリー記事)についたブコメ群だ。記事そのものもけっこう面白いのだが、私にはそれ以上にブコメが面白かった。

anond.hatelabo.jp

興味深いのは、多くのブコメが「うまい、まずい、気になる、気にならない」議論に終始していたことだ。健康にいいかどうかということは、ほとんど問題になっていない。それに関しては、「人工甘味料だからといって批判するのは非科学的だ。なぜなら、自然物も人工物も、同じように物質だからだ。毒性があるのならともかく毒性がないとして公に認められている食品添加物を『人工』だからといって批判するのは非科学的な自然崇拝に過ぎない」という共通認識がそこにあるように見受けられた。健康に関する懸念から食べないというごく少数の意見は、その空気のなかで、非常に場違いに見えた。

 

これは、典型的な「自然と人工」のミスリーディングだ。「自然だからいい!」というのがミスリーディングになるのとほとんど同じくらい、「自然だからいい!というのは非科学的だ」という信念もミスリーディングになる。なぜなら、人工甘味料入りの飲料(もしも「人工」という言葉に価値判断が入ると思うなら、英語の「人工甘味料添加飲料」の頭文字をとってASBと呼んでもいい)が健康増進にほとんど寄与しないばかりか、むしろ健康を悪化させるという科学的なエビデンスが長年にわたって蓄積され、そしてさらに増加中だからだ。これは、個別の化学物質の毒性とかいうレベルではない。そうではなく、カロリーゼロの甘味料全般が(それが人工だからということとは全く無関係に)、カロリーゼロで甘みがあるというその特性故に、内分泌を撹乱し、その結果として、体重、メタボリックシンドローム2型糖尿病・高血圧と心疾患のリスクを増加させる。その作用機序も解明されつつある。

というような医学的な話をシロウトの私が書くべきではない。そういうことを書こうと思ったらそれなりの専門知識のもとに複数の論文をしっかりよまなければならないだろう。私ができるのは、「そういう事実があるはずだ」と思って検索してたまたま出てきた論文を紹介することぐらいだ。この論文、2013年と最新ではないし、私が読んだのは著者原稿版らしいのでそういった部分でも保留はつく。ただ、多数の論文をレビューしたこの論文はそれなりによくまとまっていて、検索でトップに出てきたのもなるほどという感じだ。

Artificial sweeteners produce the counterintuitive effect of inducing metabolic derangements

www.ncbi.nlm.nih.gov

詳細は読んでもらったほうがいいわけだが、上記のように、ASBは体重、メタボリックシンドローム2型糖尿病・高血圧と心疾患のリスクを増加させる。その理由が(まだ推論レベルではあるようだが)けっこう興味深い。

通常、糖分を摂取すると血糖値が増加するが、これと呼応してインスリンやインクレチンが分泌される。一方、ASBでは、このような分泌は見られない。

インスリンは「血糖値を下げるホルモン」として広く認識されているが、その本質は決して「血糖値を下げる」 ことではなく、“糖の流れ”の様々な段階に作用することによりグルコースを末梢臓器および細胞へと取り込 ませる作用がその本質であり、あくまで結果として「血糖値が低下する」作用を発揮する。具体的には肝臓 では糖放出の抑制、脂肪組織での脂肪合成の促進、末梢臓器では糖取り込みの促進などを介して、食事 などにより体内に取り込まれた栄養素を効率よく全身で利用させるべく働く。

“糖の流れ”におけるインスリン・グルカゴンの重要性

とあるように、インスリンが分泌されることによって(インクレチンはインスリン分泌を促進する)、血液中に取り込まれた糖分は正常に代謝される。糖が血液中に吸収されないときにインスリンが分泌されないのはまったくの当然で(もしも分泌されたら低血糖になるだろう)、その段階ではASBの摂取に何らの問題もない。ところが、この状態が続くと、糖分の摂取時にもインスリンの分泌が低下していく。結果として高血糖が続きやすくなり、余分な血糖は脂肪細胞に蓄積されていき、体重増加やメタボリックシンドロームにつながっていくのではないか、というもののようだ。

もちろん、砂糖入りの飲料(SSB)は肥満の原因にならない、というわけではない。要は比較の問題だが、どうもASBのほうがSSBよりも肥満の原因になるという報告も1例あるようだ。

いずれにせよ、人工甘味料には、「人工」ということを一切抜きにして、また食品安全上の全ての基準をクリアしていることを前提として、なお、その本質的な「カロリーゼロで甘い」という性質から来る健康リスクがある。このことは、なにもこんな小むづかしい論文を引っ張り出さなくても、一般的なニュースでも報道されている(だから私も「そういう事実があったはずだ」と思って調べることができたわけだ)。けれど、上記の増田記事のブコメでそれを前提にしていると思われるものはほんの数えるほどだった。そして、ほとんどは「うまい、まずい」の味論争に終止した。もちろん、元記事がそういう論調だったということは大きいと思う。けれど、私なんか、人工甘味料と聞いたらなにはさておき内分泌の撹乱と思ってしまい、味なんか二の次、三の次だと思う。そういう感覚が共有されていないのは驚きでもあった。

 

そして思うのは、結局はひとは信じたいものを信じるのだなあということだ。ASBもSSBも、健康には決してよろしくない。だから、どちらかを好きな人(あるいはどっちも好きな人)は、健康に有害だという情報を、「自然崇拝だ」として退けた上で、味について議論する。そして、人工物に対して疑いの目を持っている私のような人間は、こういった情報に飛びつく。そしてこんなブログを書く。

言葉は信用できるものではない。特に、抽象的な「自然」みたいな言葉には十分注意すべきだ。不用意に使って誤解されたことは、以前このブログでも書いた。だが、その信用できない言葉を使ってでも、人間はコミュニケーションをとろうとする。それが人間にとって、自然なことなんだろうな、きっと。

タテマエはホンネを隠すための飾りではない、という話

どっちがホンネ?

子どもたちの教育はなんのため、と尋ねられれば、まずは「健全な発達と成長を促し、おとなになってからの充実した人生に備えるため」と答えるべきだろう。子どもは、周囲からどんどん新たな情報を吸収し、それを自分のなかで体系づけながら、自分自身の世界をつくっていく。そうやってつくられたアイデンティティが、その後の人生を支えていく。そういった自然な成長の過程をサポートする活動を教育という。多くの人に異論はないはずだ。

ただし、実際に教育現場で行われていることは、そうではない。子どもたちの内部にニーズがあろうがなかろうが出来合いのカリキュラムに設定されたことをあの手この手を使ってインストールすること、そして、その結果とされている知識や技能を点数化して競わせることが教育の実際になっている。さらにわるいことに、カリキュラムに設定された知識や技能の本当の意味は大半無視されて、その成果を測定するために開発されたはずの学力テストで得点をとる技能の訓練ばかり強調するという本末転倒なスタイルが幅をきかせている(なぜ学力テストが奇妙な結果に結びつくのかは、以前に書いた)。

こういうことをいうと、「いや、そりゃあこの世は競争社会。どうやって人の上に出るかが重要で、健全な成長とか、そんなのはタテマエだから」というようなホンネ論をいう人が必ず現れる。美しいタテマエは、単に表面を装うだけのもの。そうだろうか?

家庭教師みたいな商売をやっていると、まったく逆なホンネとタテマエに遭遇する。家庭教師への依頼は、その多くが成績への不安から発生している。テストの点数が下がった、というのが典型的なもので、さらには、「まったく勉強している姿を見ない。これでは下がるにちがいない」とか、「もっと上を目指してほしいのにちっとも勉強をしない」とか、ともかくも、「勉強をさせてほしい」という依頼であることがほとんどだ。成長も発達もクソもない。ともかくも勉強だ、暗記だ、ドリルだ、というのが生徒家庭のホンネだ。そうだろうか?

緊急の場合(たとえば中学3年生で受験が目前に迫っているとき)は別だが、そうでもなければ、私はまずは生徒とじっくり話す。そのうえで、長期的な解決策を考える。その多くは、たとえば毎日の音読であったり、日記をつけることであったり、作文であったり読書であったりする。発声練習からメニューを組んだ生徒さえいた。そういう課題を生徒のご両親に説明すると、最初は疑いの目でみられる。「え? ドリルはないんですか?」みたいな感じだ。そこで、課題の意図を説明する。たとえば、「現状、読解力が弱いためにどの教科のテストでも点数がとれていません。問題文の内容がしっかり理解できていないのです。これを解決するためには読解力を身につけてもらわねばならず、そのためには遠回りでも読書がもっとも効果的です」といったぐあいに、ていねいに説明する。すると、ほとんどの場合、こちらの意図を理解してくれる。それどころか、「この子の本当の成長を考えてくれる!」みたいに、感激してもらえる場合まである。多くの親は、本当は目先の点数の上下ではなく、子どもの人間的な成長を願っているのだということが会話の中から伝わってくる。

つまり、私が家庭教師として出会う人々のほとんどが、「テストの点数をあげなければいけない」と口では言っているのに、実はそれとはまったく対立することを願っている。「勉強しろ!」と子どもを脅迫する親は、実は子どもたちに机にかじりついてドリルばかり解くようなことばかりしてほしいと思っているわけではない。ただ、そこで子どもを叱咤激励するのが自分の役割だと思い込まされている。言葉をかえれば、「勉強しろ!」はタテマエであって、ホンネは「健全な発達と成長」である、といえるだろう。

弁証法クラウド

通常、子どもの発達のニーズに合わせた適切なインプットと学習ドリルの類とは、競合する。時間的にも子どものエネルギー的にも、互いのリソースを奪い合う。 子どもの心身の発達のためには、たとえば気候のいい時期には森でも歩かせればいい。天気が悪ければ読書という楽しみもある。日曜大工や料理といったおとなの世界に挑戦するのも、素晴らしい刺激になる。ぼんやりと空想にふけるのも、「非認知的コンピテンス」と呼ばれるものの発達には重要だ。そしてこういった活動をしていると、たとえば計算ドリル、漢字の書き取り、受験対策問題集なんかをやっている時間がなくなる。少なくとも、受験産業界が「最低でもこのくらいやっとかないと後悔しますよ」と脅迫する程度の分量をやるだけの時間は確保できない。つまり、子どもの教育には2種類があって、どちらかを選択しなければならない。そしてもちろん、さまざまな活動が子どもに重要なことは否定するわけにいかないから、仕方なくそちらをタテマエとして、ホンネの活動であるドリルや書き取りに力を注ぐ、というのが多くの家庭の選択であるように思う。

矛盾する2つの選択があるとき、一方を標榜して実際は他方を実行する。これをタテマエとホンネという。日本人はむかしから、このタテマエとホンネをうまく使い分けてきたそうだ。だが、それでは問題は解決しない。それを若い頃の私に教えてくれたのは宮本重吾という人物だった。参議院選挙の時期になると彼のことを思い出すのだが、まあそういう話をはじめると長くなるのでやめておこう。ともかく彼は、なにかというと「キミ、そういう対立で考えてはいかんのや。正反合、正反合と、つねにもうひとつ上のレベルで考えていかんといかん」と言っていたものだ。

この「正反合」は、もちろんヘーゲル弁証法であるわけだが、有機農業者にして天性の宣伝マンである宮本さんの正反合は、どうもヘーゲルっぽくなかった。私はむしろ、後年になって、ビジネス関係のセミナーで聞いた手法であるTOC(制約条件の理論)の「クラウド式の問題解決法」そのものだと思う。詳しくはゴールドラット博士の本でも読んでもらったほうがいいのだろうが、この手法、対立する要素が見えたときこそが技術革新のチャンスだ、という捉え方をする。両方を満足させる解がない場合には、実は答えは空の上、雲の中のまったく別なレベルに存在する。それを見い出せば、2つの問題は同時に解決するだけでなく、さらに大きな構図が明らかになる、というようなものだったように思う。まあウロ覚えだ。

それを弁証法と呼ぼうがクラウドと呼ぼうが、ともかくも、2つの対立要素を同時に満たす方法を見つけることでしか、現実の矛盾は解消できない。対立要素の一方を採用し、もう一方を捨て去るのならまだしも、捨て去ったはずの要素をタテマエとして飾り立てるのは何ら矛盾の解決にならない。むしろ矛盾を深刻化させる。「勉強」に関しては、その矛盾のシワ寄せは一方的に子どもたちに押し付けられる。それが現状ではなかろうか。

対立を越えて

矛盾が発生しているときには、現実を正確に理解することが重要だ。現実には、教育には、冒頭に書いた「子どもたちの健全な発達と成長を支えること」のほかに、これとまったく無関係な要請が担わされている。それは、子どもたちを選別することだ。その選別が実際にどのように機能しているのかは、ブルデューとかを読んだらそれなりに面白いのだが、形式上は能力による選別ということになっている。そしてその能力は学力テストで測定される。

ここで重要なことは、学力テストの結果は決して、教育の成果を表現していないということだ。そうではなく、学力テストの結果は、それに対してどれだけ「対策」を施したかどうかによって強い影響を受ける。矛盾の本質はここにある。つまりは子どもたちの本来のニーズとはまったく無関係な「対策」に時間を割かねばならなくなって、リソースの競合が発生する。そして、選別の勝負がシビアになればなるほど、リソースはそちらに割かねばならなくなり、他方は無視される。これが、タテマエとホンネ状態を生み出している。

しかし、これらは本当に競合するものなのだろうか。私は、自分自身の思想としては、子どもたちを選別することには反対だ。しかし、現実がそこにあるとき、それを無視すべきだろうか? それは、ホンネを無視してタテマエの美しい世界で遊ぶことにしかならない。多くの子どもたちの苦しみを救うことはできない。何よりも、まずは商売にならない。だれもそんな家庭教師など雇ってくれないはずだ。

そうではなく、どちらの要素も、同じ平面上で捉えるべきだ。価値観を捨てて、教育には子どもたちを発達・成長させる要請と、子どもたちを選別する要請があるのだということを虚心に眺める。そしてこの現実を当事者である子どもたちの目線から見れば、どちらも劣らず重要なのだということがわかる。そして、リソースは互いに競合する。そこに矛盾が生じている。

この矛盾を解決するためには、「時間配分をどうするか」みたいなレベルにとどまっていてはダメだ。そうではなく、解決のためのレベルを変えなければならない。そのためには、そもそも矛盾はなぜ発生したのかと考えねばならない。すると、すぐに見えてくるのは、テスト問題がつくられるに至った経緯と、それが現在のように訓練でもって解かれるようになった経緯だ。テスト問題は、もともとはテスト対象の子どもが正しい知識や思考能力を発達・成長の過程で身につけたかどうかを判定できるようにつくられたものだ。しかし、実際には発達・成長はすっとばしても、すべて正解や解法を暗記してしまえば点数をとることができるようになっている。そこで、裏技として受験勉強という方法が発生し、それが一定の効果をあげることから、いつの間にかあたかもそれが正しい唯一の学習方法であるかのように誤解されるようになった。しかし、それならなにも受験勉強などしなくったって、発達・成長のなかで正しい知識や思考能力を身につけさせれば、同様の点数がとれるはずだということに気がつく。ただし、それはやってみれば空理空論だということがわかる。勉強をしない生徒は点数がとれない。だが、もっとよく見てみよう。本当にそうなのか?

ここで、生徒たちを観察していると、ある事実に気がつく。生徒は自分の日常体験の上に「勉強」の点数を積み重ねている。日常的な体験のなかでしっかりと思考する習慣ができている生徒に対しては、それに応じたごく短時間のトレーニングをするだけで点数が伸びる。一方、ふだんから自分の生活に関して考える必要も習慣もない生徒は、膨大なトレーニングをしても少ししか点数は伸びない。最終的な収量は、前者のほうが圧倒的に高い。

ということは、実は本来の意味での生徒の発達・成長とテスト対策は、ひとつレベルを上げれば何ら対立的ではないということがわかる。まずは生徒に多くのことに興味関心をもたせ、そして実行させる。キッチンに放り込むのもそのひとつだし、部活動も過重にならない程度なら役に立つ。読書もある意味では身体的な経験になり得る。登下校の道程、友人との会話、家庭内での身のこなし、すべてが重要な体験になる。そして、それらについてつねに考えさせる。そのためのツールとして、日記や作文は有効だ。家庭教師との対話でさえ、考えを深めていく緒にはなる。そういった刺激を与え、素地をつくりあげる。その上で、受験産業の常套句からいえば雀の涙程度の学習指導とトレーニングをする。もしも指導者がしっかりとポイントを外さなければ、それだけで必要なだけの点数は確保できるだろう。

つまり、どっちをとるかとか、どの程度の配分で組み合わせるかとか、対立的に見ていたのでは矛盾は決して解決しない。そうではなく、一方を行うことで他方にどのような影響が出て、それによって双方をどのように変化させることが可能になるのかという統合的なレベルで戦略を考えなければならない。最終的な受験勉強の分量は大幅に減らすが、その下地を「対策」とはまったく別個の学習活動でつくっておく。そうすれば、外見上は理想を追いかけているように見えて、実は地に足のついた「得点力アップ」を実現することができる。

そして、最後のホンネ

というようなことをここ何年もやってきて、それなりに実績もあげてきたとは思う。けれど、とことんで言ってしまえば、ここまで書いてきたこと、単なるタテマエなんだよなあ。ホンネは、勉強なんてやめてしまえ! なんだよな。勉強とかテストとか、心の底から大嫌いだ。それを世の中から少しでも減らせると思えるから、こんな家庭教師をやっている。なんともミもフタもない話になってしまったなあ。

なぜ子どもに家事を手伝わせるべきなのか

つい数日前のことだ。中学1年生の親御さんに「夏休みに何をさせたらいいでしょうか?」と質問を受けた。小学校から中学校に上がるに際して成績が下がることが不安だからと4月から新たに教えることになった生徒だ。ご両親の不安は的中して、家庭教師を付けたにもかかわらず、定期テストの点数は下がり続けている。

「夏休みに何をさせたらいいか?」という質問は、こういう文脈で出てきたものだ。だから、当然それは、「成績をあげるためには、どんな勉強をさせたらいいのでしょうか?」という相談であり、期待されているのは、「この教材を毎日これだけの時間やりなさい」という「勉強」の具体的な指示だ。けれど私は、あえて言った。

「じゃあ、料理を手伝わせてください」と。

 

家庭教師は、成績をあげるのが仕事だ。特殊なニーズがあるケースがないわけではないが、ふつうは、それ以上でも以下でもない。だから、生徒に特定の思想やライフスタイルを植え付けることはしないし、すべきでもない。だから、「料理を手伝わせてください」というアドバイス、決して「子どもは親を助けるのが当然だ」という儒教的な価値観からのものではないし、あるいは「男性であっても自立のために料理ができるようになっているべきだ」といった男女平等の立場からの誘導でもない。調理の楽しみに誘って趣味を布教しようというのでもないし、苦行を分担させることで何らかの教訓を与えようというのでもない。

そうではなく、単純に、料理を手伝うことで成績が伸びることが明らかだからだ。ただし、受験期にさしかかる中学3年生にそれを求めるべきではない。あまりに幼い時期にはできることの限界もあるし、安全確保や段取りを考えることが必要になるために手伝わせる方の負担も小さくない。親の側の負担と学習効果の両方を勘案したら、小学校の高学年から中学2年生ぐらいまでの数年間が、子どもをキッチンに立たせるのにベストな時期だとわかる。だから、成績が下がり、両親に危機感が生まれたこのタイミングはそれをスタートするのにまたとないチャンスだ。私はそれをうまく捉えたつもりだ。

といっても、何のことだかわからない人のほうが多いだろう。料理を手伝えば確かに家庭科の成績は少し上がるかもしれない。いや、そういうことではないのだ。理解してもらうためには、冒頭の中学生の親御さんとの会話の続きを見てもらうのがいちばんだろう。

 

「そうですね。たとえば、これ、何グラムかわかりますか?」

私はたまたま机の上に出ていたスマホを生徒に手渡した。

「え?」

「持ってみて、何グラムだと思う?」

「500グラム、かな」しばらく躊躇して、彼は答えた。

「お母さん、どうです?」

「え? 私?」彼女はスマホを手のひらに乗せてから、答えた。「200グラム、ぐらいですか?」

正解は180グラムだ。スマホの持ち主である私は知っている。

「これなんですよ。ちょうどいま、理科で密度を習いはじめたところです。密度は質量、まあ重さですけど、それと体積から求める。計算は、公式を覚えたら簡単です。けれど、重さが体感的にわかってないのに、計算だけできて意味があると思いますか? じゃあ尋ねますけど、200立方センチメートルって、どのくらいですか?」

生徒は答えられないが、お母さんはすぐに「1カップ」と答える。要領を得ない生徒に、私は説明する。

「PETボトル。よく自動販売機に売ってるやつ。あれ、500ミリリットル入りのが多いんですよ。500ミリリットルはそのまま500立方センチメートルで、もしも水ならだいたい500グラムです」

そして、お母さんに向き直る。

「こういう感覚が、理科には大切なんですよ。高校の範囲になりますけど、1ニュートンって力の単位は1キログラムの物体に1秒間で毎秒1メートルの速さに達する加速度を与えるのに必要な力って定義されています。1キロがどのくらいの量か、秒速1メートルがどのくらいの速さなのか、それが体感的にわかっているのとわかっていないのとでは、この定義の意味が大きく変わってきます。ところで秒速1メートルって、どのくらいの速さですか?」

答えをまたずに私は続ける。

「歩くぐらいの速さですね。ともかくも、重さや体積は、料理を手伝っていると自然に体感的に捉えられるようになります。食塩の1グラムがどのくらいの量かとかね。そして、中学校理科の化学分野で出てくる物質の多くが、台所にあるものです。食塩、砂糖、かたくり粉、重曹。白い粉で出てくるのはこのあたりです。最近は漬物をつける人も少なくなったからキッチンにないことも多いですが、ミョウバンもそうですね。塩素系漂白剤、酸素系漂白剤も、教科書にはよく登場します。石鹸はアルカリ性で食酢は酸性です。そういうものを扱って、その性質を体感的に理解しておけば、多くの生徒が苦手にする理科の指導がずっと楽になります」

 

事実、これはもう何十年も前から伝統的に、学習指導要領の理科の項目には、「身近な」とか「身の回りの」という限定が数多く登場する。理科は抽象的な自然法則としていきなり教えられるのではなく、身の回りの自然現象を理解するための思考方法として導入される。そのためには、なによりも日常の体験が豊富にあることが前提になっている。

しかし、現代の子どもは、学習指導要領が想定する以上に、日常体験に乏しい。極端な例であるが、最近の子どものかなりの部分は、日常的に炎を見ない。これは数万年の人類の歴史のなかで異常な事態だ。人類はその生活のために常に火を活用してきた。私が子どもの頃には、ガスコンロだけでなく、七輪や火鉢、落ち葉を集めての焚き火や灰皿の煙草など、実にさまざまな火に触れる機会が日常的にあった。ところがオール電化の現代の家庭生活においては、炎を目にすることがない。炎を見るのはキャンプファイヤーのような非日常のイベントでのことに限定される。決してむかしがよかったと回顧するのではない。そうではなく、意識して「日常体験」を増やすようにしておかなければ、学習指導要領の想定している出発点にも立てないということなのだ。

そしてこれは理科だけのことではない。中学2年生が苦手とする数学の問題に連立方程式の文章題がある。素っ気ない文で書かれた前提を数式で表現することがハードルになる。ある要請の手順化、論理的な理解は、実は料理によって鍛えることができる。手順を間違えたら卵焼きひとつつくれないのが料理の世界だ(その代わりべつのものができるけれど)。いま実行していることが全体のなかでどういうところに位置づけられるのかを意識することは、実は数学の問題を解いていく上で貴重な戦力になる。

家庭のキッチンでは、多くの場合、素材に値段がついている。何が安くて何が高いのかを感覚的につかむことは公民分野に必要な日常体験だ。ホウレンソウの産地、ナスやトマトの産地、ジャガイモやタマネギの産地を意識すれば、もうそれは立派な地理の勉強だ。コメを炊いたことがなければ日本史の理解に齟齬が生じるし、もしも小麦の性質のちがいにまでのめり込めば世界地理だけでなく世界史の準備にもなる。台所を手伝うときには無言であってはならず、親とのコミュニケーションが重要になる。これは国語力を思いの外に伸ばす。外来語の多い食品に触れておけば、いくらかは英単語を覚えるときのヒントにもなるだろう。

 

もちろん、そういった日常体験がなくとも、「勉強」はできる。なぜなら、ほとんどの「勉強」が「テスト」を想定したトレーニングと化してしまっているのが現代だからだ。日常的な感覚がなくても密度は正しく計算できるのだし、重曹を見たことがなくてもその熱分解は暗記してしまえる。だが、そういった知識は、本当の知識になりうるだろうか?

受験産業界でよく用いられる理論に、「忘却曲線」がある。これは、学習したものは時間とともに記憶から薄れてしまうとする実験が元になっており、最適な時間間隔で学習を反復することで記憶を「定着」させることができるとするものだ。業界では、この理論に準拠して、反復教材を提供し、その実行環境に子どもたちを囲い込む。この理論は実証的な実験が元になっているので、そのこと自体にケチをつけるつもりはない。ただ、よく読んでみると、実験の設定がそもそも非現実的だということがわかる。

どういうことかといえば、これは実験を正確にするために、被験者に対してirrelevantな情報を与え、その記憶を測定する。irrelevantとは、たとえばランダムな文字列であったり数値であったりする。ここには、まっさらな紙に書き込まれる情報はすべて等しい処理を受けるというタブララサ的な前提がある。そういう前提を置かなければ、こういう実験はそもそも成立しないわけだ。

けれど、学習指導要領が求めている(あるいは人間がそもそも必要とする)情報は、基本的にrelevantなものだ。relevantとは、実際の生活に、実際の社会に、現実の問題解決に関連性のあるものだ。そして、そういったrelevantな知識は、既に実際の日常生活がそこにあることを前提に、関連性のなかで与えられる。

したがって、実際には、受験産業界がどう主張しようと、忘却曲線理論を前提にした反復学習は、空理空論に過ぎない。実際、何回もの反復学習で手に入る受験技能は、日常体験がしっかりしている生徒にはものの5分で理解できることであったりする。そしてなによりも、体感的に掴んでいった知識は、その後の実用にどんどん応用していける。このちがいは大きい。それは、高校、大学と、学びが深まれば深まるほど大きな差になる。最終的には社会に出たときに、とてつもない差として現れる。

 

だから、本当に成績をあげたければ、まずはキッチンに子どもを入れるべきなのだ。そんな基本もわからずに「反復すれば点数は上がるはず」みたいな思い込みを捨てないのは、単純に受験産業を喜ばせるだけなんだということに、そろそろ気がついてほしいんだけどなあ。

多くの親が、反復ドリル的な勉強しかさせられてこなかった現代にあって、こういうことを主張しても、ほんと、理解されるのはむずかしい。耳を傾けてもらうためには、実際にそれで成績があがった実例を増やしていくしかないんだよなあ。先は長いよ。

「やるべきこと」はわかってるんだって - 多くの英語教育論は的外れ

理念は耳にタコ

どちらかといえば発達障害気味だった私は子どもの頃、よく叱られた。特に宿題では、しょっちゅう担任教師に説教をされた。小学校高学年以降の宿題提出率はほぼゼロだったから(小学校4年生までは宿題そのものがなかったように思うのだが、そんな訳はないので、たぶんあっても気がつかなかっただけなのだろう)、そりゃあ、担任にとっては問題児だっただろう。ただ、当時は子どもの人数が爆発的に増えていた時期で、1クラスの人数も45人が標準だった。だから担任教師もひとりの問題児にかけられる手間は限られていて、おかげさまで私はうつにもならず、不登校にもならなかった。人生、何が幸いするかわからないものだ。

その説教の多くは、なぜ宿題が重要なのか、それをやらないとどういう悪い結果になるか、宿題をやる意義はどういうことなのか、などなどをこんこんと説明するものだった。正しいことだろう。もしも私が同じ立場だったら、やっぱり同じことをやってしまうかもしれない。けれど、聞いている方にとっては、それはほとんど無意味だった。なぜなら、そんなことは言われなくても十分にわかっているからだ(後になって私は宿題の必要性に関して疑義を唱えるようになるのだが、子どもの頃は純粋に宿題の必要性を信じていた)。宿題はやったほうがいいにきまっている。けれど、できない。いくら大切だ、義務だとわかっていても、でいないものはできない。わかっていることを百回、千回繰り返されたってそのレベルでは十分すぎるぐらいにわかっているのだ。だから無駄。無意味。

そういう子どもはいるのだと、いま、教える立場になってみればわかる。宿題の遂行を阻むものは百人百様だろう。私の場合は、そもそも机の前に座っていられなかった。同じ作業を繰り返すことも苦手だった。がんばってノートをひろげてすわったとしても、書き取りとか、数文字書いただけで、空想が始まる。あらぬことをぼんやり考えてしまい、手が止まる。そのうちに、寝転んで宿題のことは忘れてしまう。これでは宿題なんてできるわけはない。

もしもそういう生徒に出会ったら、宿題の意義を説いてもダメだ。もちろん「なんのためにやるのか」は、出発点として重要だ。そこがわかっていない状態では、仮に宿題を形の上だけ実行しても、実は効果が薄い。作業は常に目的を明確にして行わねばならない。だが、そこが理解できない生徒なんてほとんどいない。ものの30秒も説明すればわかってもらえる。問題はそこからだ。わかっていても宿題をしない生徒には、それぞれなりの理由がある。実行を阻む事情がある。

たとえば、忙しくて宿題をやる時間がない生徒がいる。クラブ活動で肉体的に疲労困憊して、宿題どころではない生徒もいる。宿題の実行手順そのものを誤解している生徒もいる。私のように発達障害的に特定の作業を苦手とする生徒もいる。そういう生徒に対しては、それぞれの実行を阻んでいる要因に対して何らかの働きかけをしなければ効果は上がらない。「やらねばならないからやるんだ」という精神論では、何ひとつ解決しない(ま、いまの私だったらあっさりと「あ、じゃあ宿題はやめとこう」というのだけれど)。

なんで学習指導要領を読まないの? 

英語教育をめぐる議論に関しても、実は同じような苛立ちを私は覚えている。英語教育を批判する(あるいは肯定する)人々は、英語教育の現状に対して、「もっとこうあるべきだ」という意識で議論をする。「英語教育かくあるべき」というのは、それはそれで重要な議論だ。そして、そういう議論は、まずは英語教育の方針を決めているポリシー、具体的には学習指導要領の改訂に向けて行われるべきだ。なぜなら、「何のために、何を、どのように」という指針は、日本の初等教育中等教育においては基本的に文部科学省がさだめる学習指導要領に規定されていて、その範囲を大きく逸脱できないことになっている。だから、「英語教育はこうした方がいい」というアイデアがあるのなら、なにはさておいても「学習指導要領をこう変えよう」という提案をすべきだということになる。

ところが奇妙なことに、英語教育に関する議論で、学習指導要領を参照したものはほとんど見ない。そうではなく、彼らが参照するのは、「学校ではこんなふうになっている」「大学生の語学スキルがこうなっている」「日本人の英語力はこの程度だ」「こんな英語は使えない」と、理念のレベルではなく、現実のレベルにとどまっている。

もちろん、現実は理念が誤っているから問題になっているのかもしれない。だから、現実を出発点とするのはそれだけでは誤りとは言えない。しかし、もしもそうなら、「であるから、学習指導要領のここを変更したほうがいいだろう」と指摘するものになるはずだ。けれど、そのような議論は見ない。おそらく、教育関係者以外、学習指導要領の原文なんて見たこともないのだろう。なに、検索すれば一瞬で出てくる。数十年前からの変更履歴もごく簡単に知ることができる。けれど、だれもそこに興味を持とうとしない。

理念を語っても現実が変わらないときに  

では、学習指導要領はどうなっているのか。以下に引用してもいいのだけれど、以前、他の教科で同じことをやったらえらい冗長な記事になってしまった。同じ轍を踏みたくないので、適宜、文科省のサイトに行って確認してほしい。そして、じっくり読んでもらったらわかるのだけれど、実は政策としては、かなりまともなことが書いてある。実際、ふつうに読んだら、半分くらいの英語教育批判は、この段階で「ごめんなさい」と逃げ帰らなければいけないはずだ。特別に文法重視をうたっているわけでもないし、会話を軽視しているわけでもない。その一方で理論的な積み上げは無視していないし、実用的なスキルへの接続もよく考えられている。学習指導要領を読む限り、根本的なところで日本の英語教育に大きな問題はないように見える。

もちろん、私は個人的に、「学習指導要領バンザイ!」を叫ぶつもりなどない。礼賛するようなものでもないし、なんだかなあと思うところも多い。「もっとこうした方がいいんじゃない?」という意見も、少なからずある。けれど、もしもこれが理念通り実行されるなら、まあそれはそれで上等かなとも思う。ローマに通じる道は一筋ではないし、最終的に子どもたちの成長に役立つのであれば、あんまりいろいろツッコまなくてもいいのかなとも思っている。

その一方で、じゃあ本当に英語教育は問題ないのかといえば、実は問題だらけだ。私はいっつも批判するし、なんならその批判は生徒の前でも堂々と言う。「そんなやり方じゃダメだ」と思うし、実際、学校がやってくれないことを家庭教師として実行することで成果をあげている。

つまり、私がはるか昔に宿題ができなかったのと同様、理念でどうこう言っても始まらないのだ。多くの批判者が言うようなことは、みんなわかっている。政策立案者も、そこはきちんと政策に盛り込んでいる。ところが実際に子どもたちはその恩恵を受けていない。だから批判は、、「こうすべき」であってはならないのだ。なぜ「すべき」とされていることが実行できていないのか、そこを探し出して批判しなければならない。

 

たとえば、発音の問題がある。学習指導要領では、音声としての英語をことさらに重視している。当然だ。音声としての英語の基本は発音練習だ。聞き取る能力は、まず正しい発音ができてこそ、短期間で身についていく。指導要領上も、発音練習には相応の時間を割くように設定されている。ところが、実際に生徒を教えると、学校で正しく発音指導されている成果が出ている生徒は、3分の1にも満たない(これでもここ数年、比率はずいぶんあがってきているように思うのだが)。半分くらいの生徒は、平気でカタカナ読みをする。そういう生徒の教科書には、カタカナで読みがなが振ってあったりもする。そういうことを推奨する教師がいるというのも、生徒から直接聞いている。

では、なぜそういった政策の方向とはまったく乖離した指導が現場で堂々と行われているのだろうか。そういったことを分析し、批判してこそ、はじめて英語教育に対する議論は実りあるものとなる。けれど、そういった議論は地味で目立たないせいか、あまり行われない。そして、派手に目立つ「英語教育はダメだ、もっとこんなふうにしろ!」的な話題ばかりがコメントを集めたりする。

正常な教育を阻む「入試」の存在

まあ、とことんなところでいえば、そういった奇妙な理念と現実の乖離は、科挙のような入試システムによってできている。本当はこの記事、そこのところを詳しく書きたかったのだけれど、もういい加減長くなったし、他にしなければならないこともたくさんあるし、またの機会にしよう。大学入試改革でTOEICが一抜けたをやらかして、いろんなことが明らかになったように思う。大学教育は、どうやって入学するかが問題ではなく、入学後に何をどのように学ぶかが問題なのだ。だから根本では入試なんてどうでもいいのに、それが経済と密接に結びついてしまったがために、そこに厳格さを要求するのが常識化してしまっている。そのあたりを解きほぐす作業を、機会があればやってみたいなあと思う。ま、とりあえずは稼がなきゃ。