なぜ子どもに家事を手伝わせるべきなのか

つい数日前のことだ。中学1年生の親御さんに「夏休みに何をさせたらいいでしょうか?」と質問を受けた。小学校から中学校に上がるに際して成績が下がることが不安だからと4月から新たに教えることになった生徒だ。ご両親の不安は的中して、家庭教師を付けたにもかかわらず、定期テストの点数は下がり続けている。

「夏休みに何をさせたらいいか?」という質問は、こういう文脈で出てきたものだ。だから、当然それは、「成績をあげるためには、どんな勉強をさせたらいいのでしょうか?」という相談であり、期待されているのは、「この教材を毎日これだけの時間やりなさい」という「勉強」の具体的な指示だ。けれど私は、あえて言った。

「じゃあ、料理を手伝わせてください」と。

 

家庭教師は、成績をあげるのが仕事だ。特殊なニーズがあるケースがないわけではないが、ふつうは、それ以上でも以下でもない。だから、生徒に特定の思想やライフスタイルを植え付けることはしないし、すべきでもない。だから、「料理を手伝わせてください」というアドバイス、決して「子どもは親を助けるのが当然だ」という儒教的な価値観からのものではないし、あるいは「男性であっても自立のために料理ができるようになっているべきだ」といった男女平等の立場からの誘導でもない。調理の楽しみに誘って趣味を布教しようというのでもないし、苦行を分担させることで何らかの教訓を与えようというのでもない。

そうではなく、単純に、料理を手伝うことで成績が伸びることが明らかだからだ。ただし、受験期にさしかかる中学3年生にそれを求めるべきではない。あまりに幼い時期にはできることの限界もあるし、安全確保や段取りを考えることが必要になるために手伝わせる方の負担も小さくない。親の側の負担と学習効果の両方を勘案したら、小学校の高学年から中学2年生ぐらいまでの数年間が、子どもをキッチンに立たせるのにベストな時期だとわかる。だから、成績が下がり、両親に危機感が生まれたこのタイミングはそれをスタートするのにまたとないチャンスだ。私はそれをうまく捉えたつもりだ。

といっても、何のことだかわからない人のほうが多いだろう。料理を手伝えば確かに家庭科の成績は少し上がるかもしれない。いや、そういうことではないのだ。理解してもらうためには、冒頭の中学生の親御さんとの会話の続きを見てもらうのがいちばんだろう。

 

「そうですね。たとえば、これ、何グラムかわかりますか?」

私はたまたま机の上に出ていたスマホを生徒に手渡した。

「え?」

「持ってみて、何グラムだと思う?」

「500グラム、かな」しばらく躊躇して、彼は答えた。

「お母さん、どうです?」

「え? 私?」彼女はスマホを手のひらに乗せてから、答えた。「200グラム、ぐらいですか?」

正解は180グラムだ。スマホの持ち主である私は知っている。

「これなんですよ。ちょうどいま、理科で密度を習いはじめたところです。密度は質量、まあ重さですけど、それと体積から求める。計算は、公式を覚えたら簡単です。けれど、重さが体感的にわかってないのに、計算だけできて意味があると思いますか? じゃあ尋ねますけど、200立方センチメートルって、どのくらいですか?」

生徒は答えられないが、お母さんはすぐに「1カップ」と答える。要領を得ない生徒に、私は説明する。

「PETボトル。よく自動販売機に売ってるやつ。あれ、500ミリリットル入りのが多いんですよ。500ミリリットルはそのまま500立方センチメートルで、もしも水ならだいたい500グラムです」

そして、お母さんに向き直る。

「こういう感覚が、理科には大切なんですよ。高校の範囲になりますけど、1ニュートンって力の単位は1キログラムの物体に1秒間で毎秒1メートルの速さに達する加速度を与えるのに必要な力って定義されています。1キロがどのくらいの量か、秒速1メートルがどのくらいの速さなのか、それが体感的にわかっているのとわかっていないのとでは、この定義の意味が大きく変わってきます。ところで秒速1メートルって、どのくらいの速さですか?」

答えをまたずに私は続ける。

「歩くぐらいの速さですね。ともかくも、重さや体積は、料理を手伝っていると自然に体感的に捉えられるようになります。食塩の1グラムがどのくらいの量かとかね。そして、中学校理科の化学分野で出てくる物質の多くが、台所にあるものです。食塩、砂糖、かたくり粉、重曹。白い粉で出てくるのはこのあたりです。最近は漬物をつける人も少なくなったからキッチンにないことも多いですが、ミョウバンもそうですね。塩素系漂白剤、酸素系漂白剤も、教科書にはよく登場します。石鹸はアルカリ性で食酢は酸性です。そういうものを扱って、その性質を体感的に理解しておけば、多くの生徒が苦手にする理科の指導がずっと楽になります」

 

事実、これはもう何十年も前から伝統的に、学習指導要領の理科の項目には、「身近な」とか「身の回りの」という限定が数多く登場する。理科は抽象的な自然法則としていきなり教えられるのではなく、身の回りの自然現象を理解するための思考方法として導入される。そのためには、なによりも日常の体験が豊富にあることが前提になっている。

しかし、現代の子どもは、学習指導要領が想定する以上に、日常体験に乏しい。極端な例であるが、最近の子どものかなりの部分は、日常的に炎を見ない。これは数万年の人類の歴史のなかで異常な事態だ。人類はその生活のために常に火を活用してきた。私が子どもの頃には、ガスコンロだけでなく、七輪や火鉢、落ち葉を集めての焚き火や灰皿の煙草など、実にさまざまな火に触れる機会が日常的にあった。ところがオール電化の現代の家庭生活においては、炎を目にすることがない。炎を見るのはキャンプファイヤーのような非日常のイベントでのことに限定される。決してむかしがよかったと回顧するのではない。そうではなく、意識して「日常体験」を増やすようにしておかなければ、学習指導要領の想定している出発点にも立てないということなのだ。

そしてこれは理科だけのことではない。中学2年生が苦手とする数学の問題に連立方程式の文章題がある。素っ気ない文で書かれた前提を数式で表現することがハードルになる。ある要請の手順化、論理的な理解は、実は料理によって鍛えることができる。手順を間違えたら卵焼きひとつつくれないのが料理の世界だ(その代わりべつのものができるけれど)。いま実行していることが全体のなかでどういうところに位置づけられるのかを意識することは、実は数学の問題を解いていく上で貴重な戦力になる。

家庭のキッチンでは、多くの場合、素材に値段がついている。何が安くて何が高いのかを感覚的につかむことは公民分野に必要な日常体験だ。ホウレンソウの産地、ナスやトマトの産地、ジャガイモやタマネギの産地を意識すれば、もうそれは立派な地理の勉強だ。コメを炊いたことがなければ日本史の理解に齟齬が生じるし、もしも小麦の性質のちがいにまでのめり込めば世界地理だけでなく世界史の準備にもなる。台所を手伝うときには無言であってはならず、親とのコミュニケーションが重要になる。これは国語力を思いの外に伸ばす。外来語の多い食品に触れておけば、いくらかは英単語を覚えるときのヒントにもなるだろう。

 

もちろん、そういった日常体験がなくとも、「勉強」はできる。なぜなら、ほとんどの「勉強」が「テスト」を想定したトレーニングと化してしまっているのが現代だからだ。日常的な感覚がなくても密度は正しく計算できるのだし、重曹を見たことがなくてもその熱分解は暗記してしまえる。だが、そういった知識は、本当の知識になりうるだろうか?

受験産業界でよく用いられる理論に、「忘却曲線」がある。これは、学習したものは時間とともに記憶から薄れてしまうとする実験が元になっており、最適な時間間隔で学習を反復することで記憶を「定着」させることができるとするものだ。業界では、この理論に準拠して、反復教材を提供し、その実行環境に子どもたちを囲い込む。この理論は実証的な実験が元になっているので、そのこと自体にケチをつけるつもりはない。ただ、よく読んでみると、実験の設定がそもそも非現実的だということがわかる。

どういうことかといえば、これは実験を正確にするために、被験者に対してirrelevantな情報を与え、その記憶を測定する。irrelevantとは、たとえばランダムな文字列であったり数値であったりする。ここには、まっさらな紙に書き込まれる情報はすべて等しい処理を受けるというタブララサ的な前提がある。そういう前提を置かなければ、こういう実験はそもそも成立しないわけだ。

けれど、学習指導要領が求めている(あるいは人間がそもそも必要とする)情報は、基本的にrelevantなものだ。relevantとは、実際の生活に、実際の社会に、現実の問題解決に関連性のあるものだ。そして、そういったrelevantな知識は、既に実際の日常生活がそこにあることを前提に、関連性のなかで与えられる。

したがって、実際には、受験産業界がどう主張しようと、忘却曲線理論を前提にした反復学習は、空理空論に過ぎない。実際、何回もの反復学習で手に入る受験技能は、日常体験がしっかりしている生徒にはものの5分で理解できることであったりする。そしてなによりも、体感的に掴んでいった知識は、その後の実用にどんどん応用していける。このちがいは大きい。それは、高校、大学と、学びが深まれば深まるほど大きな差になる。最終的には社会に出たときに、とてつもない差として現れる。

 

だから、本当に成績をあげたければ、まずはキッチンに子どもを入れるべきなのだ。そんな基本もわからずに「反復すれば点数は上がるはず」みたいな思い込みを捨てないのは、単純に受験産業を喜ばせるだけなんだということに、そろそろ気がついてほしいんだけどなあ。

多くの親が、反復ドリル的な勉強しかさせられてこなかった現代にあって、こういうことを主張しても、ほんと、理解されるのはむずかしい。耳を傾けてもらうためには、実際にそれで成績があがった実例を増やしていくしかないんだよなあ。先は長いよ。