シアワセの容相

あしたはこっちだ

自然という言葉の使用に、もっと謙虚でありたい

ひとつ前のエントリで睡眠時間のことに関して書いたら、id:hungchang さんからお叱りを頂いた。

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ま、しょせんブログなんて便所の落書きの長いやつに過ぎないんだし、査読があるわけでもない場で厳密な議論なんてそぐわないのだろうけど、私も根拠となる論文をわざわざGoogleで探してまで引用した手前、たしかに論理的につながらないところがあったのは手落ちだったなあと思う。

論理がつながっていないのは、hungchang さんによれば

睡眠リズムが習慣よりも自然時間に縛られているというのは、これまでの論を覆す。自然時間がより重要なのであれば、彼らは日の出とともに目を覚まし、日が沈むと(あるいはそれから数時間が経過することで)起きていられなくなってしまうはずではないか。しかし前述の内容ではそうではない。若者の就寝時間が遅くなることが問題とされていた。これではサマータイム不登校増加につながるとする説明となり得ない。

というところだ。そしておそらく、話が噛み合わないことのポイントは「日の出とともに目を覚まし」の部分だ。そこのところの認識が、私と大きく異なっているから「自然時間」のところで別なイメージができてしまう。まずはそこのところを説明(言い訳?)したい。

 

その前に、まず、睡眠は非常に複雑なプロセスであって、未解明な部分も多い上に、解明されている部分も膨大で、素人の理解を超える、ということを改めて確認しておきたい。だから素人である私の言葉は信用できない、ということは前提になる。それでももしも信用できることがあるとしたらそれは私が家庭教師として(あるいは親として、一人の人間として)観察してきたことだけであり、それも単なる事例報告程度の信頼性もないということだ。そしてそういった観察は、既に前の記事で書いている。だから、以下のことは、根拠も出典も曖昧な「そんなことをむかし、どっかで聞いたよなあ」程度のことでしかない。そこはおゆるし願いたい。

 

その上で、人間は「自然」な状態でどういう睡眠パターンをとるのだろうという疑問に答えるもっともよい観察は、自然の状態での人間をみることであるというあたりまえの出発点を置く。しかし、「自然」の人間など、いない。人間はすべて、人間社会のなかで暮らしている。人間社会はすなわち「人為」のもとにある。では、そこは無理と諦めるべきかといえば、実は人間と遺伝子的にほぼちがわない生物が熱帯雨林に生活している。チンパンジーであり、ボノボだ。彼らの睡眠パターンは、決して「日の出とともに起き、日の入りとともに寝る」ではない。日没後、数時間にわたって彼らは賑やかにおしゃべりをする。そして、朝は、日が高くなってからゆっくり起きてくる。そのような観察がなされている。だからおそらく、人間も、「自然」な状態では、同じような睡眠パターンをもっていたのではないだろうか。

しかし、私たちは、少し前まで、「日の出とともに起き、日の入りとともに寝る」生活を標準のものとして採用していたことを知っている。農村では、それがあたりまえだった。いや、「日の出とともに起きる」者は怠け者とさえみなされただろう。標準的な百姓は、日の出前に起きて、薄明のなかで仕事をはじめる。そうやって朝飯前の仕事をやって、家に帰ると、同じ頃におきた家族の誰かが台所で朝飯の支度をすませている(ちなみに多くの農村では1日分の飯を朝食時に炊くことが多かったらしい)。そして、日が暮れると(田植えや稲刈りの農繁期には)履物も脱がずに倒れるように眠ってしまう毎日だったと聞く。

私自身、そういう生活を若い頃に直接に目にし、また自分自身でも部分的に経験したことがある。ある有機農業の農家に居候の身分で過ごしたときには「研修生」たちが暗いうちから田んぼに出ていく物音を寝床のなかでぼんやりと聞いていたものだ。自分で身分不相応の畑を借りていた時期には、豆畑の管理に日の出前に起きて通った。畑で土寄せをしながら日の出を迎えるときには、「ああ、これこそ自然のリズムだ」と思ったものだし、太陽がのぼってきて暑さを感じるようになると「こうやって早朝に働いてこその晴耕雨読だ」ぐらいに誇らしい気持ちで朝からの仕事の跡を振り返ったものだ。

だが、そうやって早朝に起きるのは、よくよく考えてみたら、人間の内なる自然が要求するのではなく、外部環境としての自然条件のなかで人為としての経済活動をおこなう必然性から自分自身に強制したものでしかなかったのだろう。いくら早朝の畑が清々しく気持ちのよいものだとしても、そういう生活は昼寝なしには身体がもたないし、そして夏にそういう生活をやったら冬には思いっきり休まなければ次の年に畑に出ることができなくなってしまう。自給自足的な家庭菜園の延長でしかない畑であっても、それはやはりある種の経済活動だ。少々眠くても、自分自身を奮い立たせて立ち向かう。そこに「自然のリズム」を持ち込むのは、やはりちがうのではなかろうか。

 

そして、ここでじゃあ「自然」とは何かという奇妙な問いにぶつかってしまう。人間は、社会活動を営む生物だ。社会活動を営むのが自然だ。社会活動は生産と消費という経済活動としてとらえることもできる。だったら、人間にとって自然なのは経済活動を順調にまわすことであり、それはつまり、暑くなる前に畑に出るような農耕民の暮らしをも含むのではないか。

客観的にみれば、「自然」と「人為」のあいだに境界線を引くのはまちがっている。人間がそのように生きてきたという歴史は、人間の自然そのものだ。そして社会的な強制は、やがて遺伝子に刻印され、内在化される。私たちの内部にも、チンパンジーと共有している祖先型から受け継いだ朝寝坊の遺伝子とともに、農耕社会以降の勤勉な「日の出とともに起き、日の入りとともに寝る」を適応型とする遺伝子が存在するのではなかろうか。それが人間の「自然」なのではないだろうか。

だから、反省として、私は「自然時間」というような誤解を与えるような言葉を使うべきではなかった。私はこれを人為的に操作するサマータイムに対置される「標準時」のつもりで使ったのだが、ただ、「標準時」では太陽の南中時刻を基準にしたものとズレが生じると思ったので、あえて「自然時間」という表現を使った。それがすれ違いの根本原因だったのだろう。

 

そして、そう思うとき、サマータイムが実際に不登校を増やすのかどうかに関して、実証的な研究が可能であることに気がつく。すなわち、もしも中高生の睡眠パターンが太陽の南中時刻を基準にして決まっているのであれば、東経135度を基準として標準時を決められている日本においては、そこから東に遠くはなれた地域、たとえば北海道と西に遠くはなれた地域、たとえば福岡とで、標準時の中高生に与える影響に差異が発生しているはずだ。もしも福岡県のほうが北海道よりも(その他の考えられる因子を標準化した上で)起立性調節障害の発症率が中高生に高いという観測結果が得られれば、サマータイム不登校を増やす可能性が高いと結論付けられるはずだ。

そういうデータはあるのかもしれない。ないのかもしれない。いずれにせよ、さまざまな社会的コストを考えたら、オリンピックなんかやめたほうがいいし、百歩譲ってもサマータイムはやめといてほしいと思う。ここまできたら、感情論だな、これは。

 

人間、感情的に生きることが自然なことかもしれず…