なぜ坊主は妻帯しないのか - ある試論

人類がアフリカの片隅から世界中に居住範囲を広げていった速度は、大型哺乳類としては相当に速い。その後も、急速に生活様式や食性を変化させ、環境に適応していった。そうやってニッチごとに環境に適応していったのに、種としての同一性は保たれている。

このような人類の進化史は、人類が頭脳を発達させ、それを適応へのツールとして利用したことによって説明されるらしい。寒さに対応するのに身体の特徴を変化させるのではなく、火を使い、着衣で防寒する。大型獣を食料とするために牙を発達させるのではなく槍や鏃を使う。穀物を消化するために消化管を発達させるのではなく、調理法を考案する。海洋に進出するために鰭を生やすのではなく船をつくる。身体を変化させないから変化に要する時間は圧倒的に短くなる。遺伝子レベルの変化なら数十世代以上かかるようなことを一世代のあいだにやってしまう。そして、遺伝子が変化しないから、変化の後でも人類としての同一性は保持される。もちろん、マイナーな部分では遺伝子レベルの変化も起こる。しかしそれは、種としての同一性を脅かすほどのものではない。

どこで読んだのかも記憶にないが、こんな知識を仕入れた若い頃の私は、目の前が開けてくるような感覚を覚えた。遺伝子は、いってみれば情報を世代から世代へと伝えるメディアだ。その情報は、生物のライフスタイルを規定する。しかし人類は、ライフスタイルに関する情報を遺伝子から切り離し、大脳レベルで処理できる「知恵」に変えた。文化情報として伝達されるように処理系を変えた。遺伝情報と頭の中にある情報は形の上でも意味の上でもまったく別物だけれど、そこには同じ働きがある。それはわくわくするようなアイデアだった。

 

ネオ・ダーウィニズム的な生物学には、「利己的な遺伝子」という考え方がある。リチャード・ドーキンスが提唱したこの考え方は、私の学生時代にずいぶんと流行していた。私はその話を、高校時代に同級生だった生物系の大学生から聞いた。彼女と私はずいぶんと親密だったのだけれど、それはまた、まったく別の物語だ。

この考え方によれば、遺伝子の最大利益(すなわち最大限の増殖)は、必ずしもその遺伝子を保持している生物の個体の利益とは一致しない。「10人のいとこの命を救うためなら自分の命を投げ出す」ほうが、遺伝子にとっては都合がいい、というような議論だ。自分の遺伝子と同じ遺伝子は、血縁関係によって同族に共有されている。自分を犠牲にしても同族が繁栄すれば、結果として自分の遺伝子は広まっていくことになる。人間の社会行動をそういった考え方で説明することに、私は違和感を覚えていた。いまだにそれが正しいと言い切る気にはなれない。ただ、そういう考え方もあっていいのかなと思えるぐらいには、私も寛容になってきた。そして、ドーキンスの考え方も広く社会に受け入れられるようになってきた。

なぜ多くの宗教において聖職者の妻帯が禁じられるのか。それを考えはじめたとき、ドーキンスの考え方がしっくりきた。聖職者は、遺伝情報として自らの遺伝子の複製を残せない。しかし、文化情報として自らが受け継いできた思想を残すことができる。人間という存在を形作るのが遺伝情報だけではなく文化情報でもあるという事実を当てはめれば、聖職者は文化情報の伝達に特化することによって情報にとっての最大利益を達成する存在であると言えるのかもしれない。

人間という存在を形作る不可欠の要素として遺伝情報と文化情報を一元的に考えれば、この発想には無理はない。ただし、この2種類の情報は決して同じ性格のものではない。そこに多くの葛藤が発生する。ではあっても、多くの社会に遺伝子を残すことを禁じられた人々が存在することには何らかの合理的な説明が必要になる。この考え方は、そこによくフィットする。聖職者、宦官など、ふつうに考えたら絶対になりたいと思えないような職業が存在することを、この考え方はよく説明する。

実際、自分のライフスタイルを広めることは、人間にとってある種の快感をもたらす。それは、そういった文化情報そのもののもつ利己的な自己増殖性の反映であるのかもしれない。多くのひとのブログを書く情熱は、そんなところからきているのかもしれない。労働条件からいえば決してよろしくない教師の仕事が人を惹きつけるのは、情報を伝えることそのものに人間の根源に訴える何かがあるからなのかもしれない。そして、聖職者は特定の文化情報である教義を広めていくうえで、最もパワフルな存在だ。だからこそ、引き換えに遺伝情報の拡散を諦めてもらっても割が合う。

多くの宗教で聖職者に妻帯を禁じるのは、そのほうが文化情報の拡散と保存に都合がいいからだろう。独身を前提とすることで、聖職者は男女の禁忌を超えて多くの人々に接することができる。血縁関係の利害を超えて、情報の保存と伝達に専心することができる。そういった有利な立場に立てるから、遺伝子に関する不利を受け入れることができる。そういうことなのだろう。

 

だから私は、妻帯を禁じることを教義とする宗教にはそれなりの合理的根拠があると思う。自分自身はそういう宗教に関わりたいとは思わないが、もしもそういう宗教を信じるのであれば、その戒律は尊重すべきだと思う。

だから、現代仏教は糞だと思う。僧侶は、その役割として文化情報の伝達者であり、妻帯することによって遺伝情報も伝達できる立場に立っている。それって、ズルいじゃない。ひとつを諦めることによって得られるはずの立場を、諦めもせずにゲットしてるのは、どう考えてもズルい。

坊主なら、独身を貫けと思う。そして、もしもそれが無理だというのなら、それはもう、その教義そのものが時代に合わなくなったのだろう。つまり、もしも坊主が妻帯しなければ仏教がもたなくなっているのなら、そんな仏教など滅びたほうがいい。

仏教の教団は滅びても、二千年以上前にインドで修行者がたどり着いた境地は消えないし、幸いなことにその教えは多くの経典として残っている。現代は、二千年前とは情報の保存も伝達も、まったくちがった様式で行われる。 Wikipedia見たらわかるようなことを、坊主の説教から聞く必要はない。だから、宗教関係者は考えを改めたほうがいいんじゃないかな。