オールドメディアの勝利 - テレビをバカにしてはいけないという教訓

トランプ大統領を生んだ今回の大統領選挙、結果を正確に予測したのは結局はFacebookだけだったという分析記事がある。かなり詳細な考察。

medium.com

けっこう妥当な気がする。そして、こういう記事を見ると、「今回の選挙はやっぱりソーシャルメディアが勝敗を決したんだろうなあ」とも思えてくる。Twitterのフォロワー数ではトランプがヒラリーに1.2倍ほどの差をつけている。Facebookの「いいね!」の数も、トランプがヒラリーの2倍ある(このあたりの数字はTrump vs. Clinton: how the rivals rank on Twitter, Facebook, moreによる)。ソーシャルメディアの勝者が大統領選挙の勝者、という短絡的な見方をしてしまう。そうなのか?

ソーシャルメディアの影響力は、確かに大きい。しかし、本当にソーシャルメディアの力でトランプは勝利したのだろうか? 選挙後にああでもないこうでもないと考えてきて、私はどうもそういうことではないだろうと思いはじめた。というのも、そもそもトランプが大統領選挙に立候補する時点で既にTwitter上で400万人のフォロワーを抱えていた理由を考えれば、彼は基本的にテレビタレントだったという事実に行き着くからだ。

彼の持ち番組は、アプレンティスというリアリティ番組。なかなかの高視聴率を稼ぐ番組で、Wikipediaによればシーズン1は2000万人以上、最も低調に終わったシーズン10でも約500万人の視聴者がいたとのこと。やはりトランプが出演する類似番組のセレブリティ・アプレンティスもシーズン1では1100万人、その後もコンスタントに700〜900万人の視聴者数を稼いでいる。これらの番組の視聴者が400万人のTwitterフォロワーを構成していたわけだ。

トランプの役どころは、「取引の才能に長けた億万長者」。重要なことは、バラエティ番組ではその肩書が本当かどうかは重要視されないということ。事実であろうがなかろうが、番組の中でそういう役回りを果たせればいい。これは日本のバラエティ番組を見れば容易に想像がつく。知識人の肩書が正しいかどうかなんて、視聴者にとってはどうでもいい。おもしろければそれでいいのだし、作る側だって視聴者がそういうものだと心得ている。だが、不思議なことに、視聴者は出演者の役回りがその人の真の姿だといつの間にか思い込む。映画ファンが高倉健を無口で不器用な男にちがいないと思うようなものだ。だから、テレビ視聴者の多くにとっては、トランプはまさに「有能なビジネスマン」だ。

 

選挙中、不思議に思うことが多かった。トランプ批判の言説はどれも非常に具体的で、彼がどれほどのウソをつき、彼がどれほど不誠実であるのかをひとつひとつ証拠をあげて解き明かす。批判するのは当然反トランプ陣営だからそれが一方的であるのはともかくとして、それに対するトランプ支持者の対応が、まるで雲をつかむようなものだったということがどうにも解せなかった。具体性は一切なく、ただ、「アイツは本物だ」式の言説でしかない。「マスコミはそう言うかもしれないけど、トランプは才能があるんだから」とか。あれほど事細かに数多くの欠陥を指摘されていて、それでいて「本物だ」「才能がある」と思える心理がわからなかった。

けれど、それがテレビの力だと思えば、振り返って納得できる。高倉健が実はおしゃべりで、冗談好きな人だと言われたって、映画のなかの健さんだけを見てきたひとには理解できない。「それはそうなのかもしれないなあ」と思っても、「やっぱりあのひとは寡黙な男なんだろうなあ」って、ぜんぜん逆のことを考える。繰り返し映像で見てきた事実と活字で見た情報とでは、どうしても映像の情報のほうが上を行く。だから、「マスコミはウソばっかり言っている」「真実を知っているのは俺達だ」という根拠のない確信が強まっていく。

 

トランプの得票数は、現時点で60,265,858票だ。Twitterのフォロワー全員がトランプに投票したとしても、得票数の20%を占めるに過ぎない。実際にはTwitterのフォロワーはアメリカ国外にも広がっているから、もっと少ないだろう。1割もないかもしれない。ところが、テレビの視聴者はほぼ全員がアメリカ国民だ。2千万人の全員がトランプファンになったわけでもないだろうが、十年以上もテレビに出続けていれば相当な割合のアメリカ人がテレビを通じてトランプのイメージをつくりあげている。有能なビジネスマン、若くして成功した大富豪のイメージだ。その好意的なイメージは、続々と現れるスキャンダルを打ち消すだけの力をもっている。トランプに投票した人々の多くはテレビを通じてトランプを知ってきた人々のはずだ。

だから、マスコミが叩けば叩くほど、人々は「マスコミはウソをついている」と思う。もちろん、全員が騙されるわけではない。テレビを見ない人々は、先入観がないので騙されない。そして、奇妙なことにマスコミの中の人々、メディアの人々は、最近ではもうくだらないテレビなんかみないでソーシャルメディアばっかり注目している。言葉を替えれば、ソーシャルメディアにはそういう人々が満ち溢れている。テレビにどっぷり浸かっているような人々は、たとえTwitterでトランプをフォローしていたとしても、受動的にネットから情報を受け取る人々であって、発信者であることは少ない。だから、メディアの人々は、読み誤る。たとえば、トランプの最もリツイートされたTweetでも30万弱のリツイート数であり、しかもそれは批判のネタとしてヒラリー陣営がリツイートしたものを多く含んでいたと推測される(Clinton and Trump's Most Re-Tweeted Tweets of Election | Mediaite)。結局、ソーシャルメディアを活用していたのは、トランプではなくヒラリー陣営だったわけだ。

私たち日本人も、もともとトランプは知らない(あ、プロレスファンを除く、だね)。全くイメージのないところにあの赤ら顔と破廉恥な発言を見せられたら、「あ、こいつ、ダメじゃん」と思う。そっちの先入観が大きすぎて、テレビで培われたポジティブなイメージがあることを信じられない。そういうことを聞いても、「ふうん、そうなの。なんであんなのがテレビに出られたんだろうね」って思うだけ。

 

 その結果が、今回の大番狂わせだ。そう思えば、全て納得できる。トランプの当選は、日本で言えば古くは青島幸男参議院当選と同じことだ。タレント候補が大量の票を集めるのはごくふつうのこと。そのタレントの属性がお笑いとか時代劇とかなら人々はまだ見誤らなかったのかもしれないが、「有能なビジネスマン」だったから始末がわるかった。最初からタレント候補だと思っていればよかったのかもしれないが、どのニュースもトランプを「大富豪」と紹介していた。彼の属性で大切だったのは、そっちじゃなかったのだ。

結局、テレビが勝利した。それが私の結論だ。ソーシャルメディアなんてのは、オールドメディアであるテレビの前には無力だった。恐るべし、Idiot box!

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(参考)

www.theguardian.com

wedge.ismedia.jp

 

↓この分析よりは、自分の考えのほうが当たってるような気がする。ま、根拠はないが。

www.buzzfeed.com

 

(追記)

↓似たような意見が出てきた。そう、あれはタレント候補だったんだ。

agora-web.jp

 

マイケル・ムーアはさすが。「4年もたない」というのは、私も前に書いたが、全く同感。法律違反で弾劾される以前に、飽きてしまって自分で投げ出すんじゃないかな。

bylines.news.yahoo.co.jp

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(さらに追記)

この記事によると、勝負を決めたのは50歳以上の世代。つまり、テレビとともに生きてきた連中。テレビは衰退しつつあるのかもしれないが、その影響力はまだまだ侮れない。これはきっと、日本でも同じにちがいない。

miyearnzzlabo.com

 

刑務所に入るのはヒラリーか、トランプか? - どっちもありそうにないが

トランプの公約(?)のひとつは「ヒラリーを刑務所に」だが、おそらくこれは実現しない。トランプが指揮権を発動してさらなる捜査が進んでも、メール問題に関しては現在わかっている以上の問題は出てこない。既に徹底的に調べつくされているわけだから。仮にさらなる問題が出てくるとしたら、それはメール問題とは関係のないことで、おそらくは言いがかりに過ぎない微罪だろう。そして、捜査に関しては指揮権を発動できても、アメリカは三権分立の本家。司法まで動かすことはたとえ大統領でもできない。裁判になれば、弁護士業界出身のヒラリーにはいくらでも勝ち目がある。なによりも、いったん戦いに勝った以上、トランプもトランプファンも、もうヒラリーに興味はないだろう。「ヒラリーを刑務所に」は、しょせん罵り言葉に過ぎない。

その一方で訴訟リスクということでいえば、トランプのほうが大きい。彼がかかわっている訴訟は4,000件以上あるそうだが、そのうちの75件が裁判中で、選挙運動中もトランプ本人が出廷しなければならないことも何度もあったらしい。詳しくはこちら。

www.usatoday.com

この記事は投票日2週間ほど前のものらしく、いまとなってみれば相当にヒラリー有利のバイアスがかかってはいるものだが、それでも「もしもトランプが大統領になったら」という仮定のもとに書かれているので、その「もしも」が現実になったいま、読み返してみる価値があるだろう。

最も大きな訴訟は、近日中にも公判がある「トランプ大学」を巡るもの。お世辞にもトランプ有利とはいえない事件だ。だが、これでトランプが刑務所行きになるかといえば、それはおそらくない。民事訴訟だから、負けても賠償金。正確なところは記事からはわからないが、その他にも刑事訴訟は抱えていないらしいので、負け続けても金で解決できる。「金ならある」んでしょう? トランプの最大のウソは実はそこかもしれないのだけれど(実際の資産は本人が公言しているよりも遥かに少ないらしい)、ここからは大統領の給料だって入ってくるし、なんなら4年後の回顧録の印税をカタに借金だってできるだろう。そこに困ることはない。

アメリカは訴訟社会だから、実際、企業経営なんてやってれば、民事訴訟を大量に抱えるのはありそうなこと。そういう意味ではとやかく言うことでもない。ただ、訴訟の内容が、従業員に金を払わなかったとか不当解雇だとか、どっからどこまでいってもブラック企業の親玉だということを示しているのがなんともはや。トランプは雇用を回復するかもしれないが、その内容は相当にブラックになることを覚悟しなければいけないのかもしれないね、アメリカ人は。

トランプは選挙期間中に暴言を吐きまくりだったから、訴訟はこれからもっと増えるだろう。政治的な言論は罪に問われないのがふつうだが、彼の暴言は政治的発言の範疇におさまるものばかりではない。訴訟好きのアメリカ人だから、おおいに法の力を使ってほしいものだ。もっとも、トランプの側も、彼に暴行されたと主張する女性たちを名誉毀損で訴える構えらしい。最も雇用が増えるのは司法関係業界かもしれないな。

 

いずれにせよ、ここから先、アメリカがどれだけ法治国家であるのか、明らかにならざるを得ないだろう。トランプは公約通りに不法移民を規制するつもりらしいが、既にアメリカ永住の地位を得た合法的な移民まで差別することは法が許さない。そして、彼が展開すると公約している公共事業で生まれる雇用はどうせ賃金の安いバラマキ型事業だから、それで潤うのは没落意識だけが高い彼の支持者ではなく、むしろ本当に社会の底辺で苦しんでいる移民たちだろう。皮肉なことに、トランプの政策は彼の支持者ではなく、支持者たちが敵視しているアフリカ系やヒスパニック系の人々を助けることになりそうだ。アメリカが法治国家である限り、その流れを止めることはできない。

そして、それでも白人優先の差別的政策がまかり通るようなら、アメリカの正義なんて口先だけのものだということが明るみに出るだろう。それはそれで、悪いことではない。真実を覆い隠すこと、ウソほど始末におえないものはないのだから。嘘つきは泥棒の始まり。ファクトチェッカーと仲のわるい新大統領をいただくアメリカには、用心したほうがいいな。

 

 

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(余談)

全く関係ないのだけれど、フランス革命から第二帝制までの年表とケネディ当選からトランプ当選までの年表を並べてみるとなかなかに興味深い。民主主義の発展が決して一直線状ではなく、揺り戻しを繰り返しながら発展してきたことがわかる。そう思えば、トランプ以後の未来にも希望がもてるというもの。

画像でいいのがあればと思ったけど、見つからなかった。だれか見やすいものを作ったら、Twitterなんかでリツイートが稼げるかもよ。

トランプ経済は破綻する - もういっぺんだけ言っておこう

私は言霊という非科学的なものをなんとなく信じている。迷信を信じる自由がなくなったらこの世は終わりだと思うから、そのことでとやかく言われたくはない。だから私は、1回も「トランプが当選する」みたいなことは言わなかった。ただ、そうなったらヤバイなあとは思ってきた。いや、ヒラリーが通ったってロクなことではないとは思っていた。あくまでどっちがマシかっていう話で、「こいつだけはやめて欲しい」と思っていた。そう思って言忌をしてきたのに、結局はこれかよ。

決まったものは決まったもの。どんな大統領になるのかと、勝利演説を聞いてみた。たいして期待もせず。そしたら、予想通りというか、やっぱり「オレはえらい」以上の内容はなかった。オバマ初当選の勝利スピーチと比べると、そのあたりは歴然。

www.youtube.com

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選挙戦勝利直後の常として、スタッフをはじめとする身内の論功行賞がかなりの部分を占めるのはどちらも同じだ。だからそこは飛ばして見てかまわない。それ以外の部分を聞いてみるとよくわかる。同じ「私たち」という表現をとっていても、オバマは具体的な国家のイメージがあって、それを支持する人々が「私たち」であるのに対し、トランプは「オレ」を支持した人々が「私たち」である。「みんながえらいから、その結果として自分が選ばれた」というオバマに対して、「オレがえらいから、オレを支持したお前たちもえらい」というトランプと括ったら、乱暴すぎるだろうか。私の印象としては、そんな感じ。

それでも、政策的な話がまったくなかったのかといえば、そこはやはり大統領、少しは触れた。外交に関しては、「うまく取引をやる」と言っただけで、中身は空っぽ。そして経済。「この国を再建する」といい、「都心部を再開発し、道路や橋、トンネル、空港、学校、病院、インフラを再建する」と具体策を述べている。なるほど。

「そこまでアメリカのインフラはガタガタなのか?」というツッコミはさておこう。たぶん、そうではない。けれど、それでもそういった公共事業にどっと公的資金を投入する政策はあり得る。日本でも「失われた十年」には、そういうことが盛んに行われたと記憶している。もっと以前には、日本列島改造論やら、さらには三全総なんてのもあった。ルーツをたどるとアメリカが本家のニューディール政策に行き着く(トランプの好きな「ディール」だな)。中学生でも知っている事実。

なんとも古典的な政策を持ち出してきたものだ。だが、ビジネスマンのセンスなんてそんなものだろう。投資を行って、利益を得る。つまり、政府が積極的に事業に投資する。その過程で仕事をつくっていく。土建事業はその最も手っ取り早いものだ。そしてそれは、確かに雇用を生み出していく。だから、失業や不安定な雇用、低賃金の雇用に悩むアメリカ大衆のニーズと一致する。そういう意味では、トランプは人々の期待を裏切らない。「ぜったいに、がっかりさせないからな」と演説で強調したのは、たぶんウソではない。

ただ、それによって本当に「偉大なアメリカ」が戻ってくるのだろうか。答えは否だろう。もしそうなら、とっくのむかしにアメリカ経済は回復している。これまでもアメリカ政府は、公共事業系の投資を大量に行ってきた。民主党は、もともと「大きな政府」だ。それを「もっと大きな政府」にするというのだが、そうすると、当然財政はもたない。ない金はあるところからもってこなければいけないので、借金か、それとも富裕層に対する増税しかない。トランプは借金で何度もピンチを乗り切ってきたそうだから、借金に走るのかもしれない。今度は兄妹から借りるわけにいかないだろう。まさかロシアから借金するとは思えないが、いずれにせよ財政は破綻に向かって一直線。もちろん議会がウンと言わないだろうが、それでも最初の一年や二年は、トランプの主張する国土再開発に「やらせてみたら」となるのは想像に難くない。

ということで、おそらく、トランプの最初の2年間は、経済は多少なりとも回復する。雇用が改善し、失業率は下がるだろう。だが、それによる税収の回復なんて、どうせたいしたことはない。となると、上がりかけたものが一気に下がる。経済なんてそういうものだ。無理やりバズーカを撃ったって、タマが切れたら終わり。三年後には、元の木阿弥どころか、ひどい急落が待ち構えているのではなかろうか。

あくまで無責任な外野としての予想だけれど、トランプの言葉を額面通りに受け取ると、そういうふうな未来が見えてくる。まあ、未来の予想が当たることなんて、そうそうはない。そう思えば、バックトゥーザフューチャーはすごいな。

www.youtube.com

もういっぺん言っておこう。トランプ経済は破綻する。だが、破綻までのわずかな期間でひと儲けは、できるかもしれない。ヤケドに備えがあるなら、だけれど。あ、火傷は温めちゃダメだよ。

 

mazmot.hatenablog.com

mazmot.hatenablog.com

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トランプ経済に関しては、このあたりの観測も面白かったな。プロレス、か。

blog.mshimfujin.net

 

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追記:

こういう政策綱領見ても、なるほどっていう感じ。やっぱり「なんでもやる」派だ。

gigazine.net

アメリカ大統領選挙への野次馬的感想

(11月9日12時30分)
大統領が今日決まらない可能性 - 投票日から2週間後までもつれた16年前が再びか?

正直、ここまでトランプが引っ張るとは思わなかった。日本時間11月9日12時半の時点で、トランプがリード。そして、勝敗を分けるフロリダ州は49%対48%と報じられている。

またフロリダか!

縺れにもつれた2000年のゴア対ブッシュの大統領選挙で、最後まで紛糾したのがフロリダ州。再集計が行われ、さらに異議申し立てとかもあって、最終的に数百票の差で決着するまでおよそ2週間がかかった。

フロリダ州の法律では、開票結果が0.5%未満の票差の場合、自動的に再集計プロセスが始まるとのこと。

Chapter 102 Section 141 - 2012 Florida Statutes - The Florida Senate

今回の選挙も、また再集計にもつれこむ可能性が高い。もちろんそれ以外の州でトランプがこのまま圧勝を続ければ影響はないのだけれど、西部の諸州でヒラリーが勝てば、またフロリダの再集計待ちにもつれ込む可能性がある。

なんとも異様な風景が続いている。

 

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(13時)
フロリダ再集計はなし

結局、票差は1%以上開いたようなので(1.4%差)、再集計はなさそう。焦点は他の州に移っている。

www.nytimes.com

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(13時30分)
例の元CIA職員

ユタ州で「ひょっとしたらトランプを食うんじゃないか」と言われていたEvan McMullin候補泡沫候補とはいえない善戦をしたけれど、やはりトランプにははるか及ばず。概略の数字で、およそ半分強の票をトランプが獲得し、残りをMcMullinとヒラリーが折半した格好。McMullinの強い地域ではトランプがもっと強い、という結果だから、選挙結果への影響は結局はなかったようだ。

www.npr.org

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(14時)
未だに南北戦争

今回の選挙ではトランプが中西部から南部にかけての諸州で圧倒的な票差で勝ちを得た。ヒラリーが強かったのは、東部と西海岸だけ。で、これって、南北戦争のときの色分けとよく似ている。

https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024010554.jpg

準州とかは除けば、南北戦争で北部側についた諸州のうち、今回ヒラリーはカンサス、インディアナオハイオあたりを落としたことになる。そういう観点から見れば、トランプがとったものの、テキサスでのヒラリーの善戦は意外かもしれない。

南北戦争は、工業化の進んだ北部と、農業中心の南部の経済的なちがいが原因だったという話もある。そういう意味では、アメリカはいまも南北戦争をやっているのかもしれない。

(参考)

www.dailykos.com

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(14時30分)
結局はウィスコンシン

どうやら、ウィスコンシンをとった候補が勝つようだ。現時点でトランプが圧倒的優勢だが、未開票の都市部がヒラリーの票田なので、まだひっくり返る可能性はある。さて、どうなんだ?

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(15時30分)
都市部と田舎と

ほぼ形勢は決まったようだ。

今回、ネットで詳しい分析が見えて、改めてアメリカという国の分断を見た気がした。それは、都市部と田舎の完全な意識の分離だ。田舎はトランプ、都市部はヒラリーというのがはっきりした。人口でいえば都市部が圧倒的に多いので勝負はほぼ拮抗したが、国土全体で見たらトランプ派が圧倒している。

日本でも都会と田舎では世間の常識がちがうが、ここまでではない。それは、都市人口を生み出した母体が田舎であることがはっきりしているからだ。都市と田舎は、分断されつつもつながっている。アメリカではそうではない。

都市を支える田舎の人々が、「なんでオレらがあいつらのために働かなあかんねん」と反乱を起こしたと考えれば、少しは理解できるのかな? このよく理解できない選挙が。

 

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あ、ペンシルベニアがひっくり返った。これで決まりやな。

 

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(11月11日追記)

まだこんなこと言ってるメディアがある。

www.newsweekjapan.jp

そりゃそうかもしれないし、私だってトランプ当選の悪夢が本当に夢ならいいとは思う。けれど、もしもここでひっくりがえるようなことがあったら、混乱どころじゃないだろう。陰謀論とかが噴出して、まともな政治はできなくなる。さすがにそれは、ないと思う。

変わる英語、変わらない英語教育

日本の英語教育は、私が知っている過去数十年だけとっても大きく変わった。指導要領はコミュニケーション重視に大きく舵を切ったし、高校英語では科目構成そのものが大きく組み替えられた。各学校には英語を母語とするALTが配備され、小学校の間から英語に親しむこともできるようになった。けっこうなことだ。実際、私が中学生・高校生だった頃と比べたら、生徒の英語力は確実に上がっている。

けれど、日本の英語教育は変わっていない。理念や制度がどれほど時代に合わせてアップデートされようと、教室でやってることは同じだ。教師が言うのは相変わらず、「ここ。試験に出るからきっちり覚えとくように」という言葉。そして試験では、1箇所綴りを間違えただけ、単数形複数形を誤っただけ、動詞の格変化を間違えただけで、かんたんにペケがつく。部分点をくれるのは1年生の間だけ、中学2年生以降は、どんな細かなミスでもその小問の点数はゼロ。なぜなら入試で部分点評価などあり得ないからだ。高校入試、大学入試という関門を通過するためには完璧な英語がかけなければならず、あるいは文法的に完全に正しい解釈で和訳をしなければならない。そういうスタンスは、見事なほどに一貫している。

その結果として、相変わらず学校で習った英語は使えない。実用に供しようと思ったら、高校までに習ったことを基礎として、その上にもうひとつ、何らかの学びを積まなければならない。高校まで6年間勉強したことだけではほぼ無意味、というのが、偽らざる日本の英語教育の実情。それは、あくまで「正しい英語」にこだわった代償とも言えるだろう。

振り返ってみて、私たちは本当に正しい日本語を毎日使っているだろうか。けっこう適当に、いい加減に、「このぐらいでわかってくれるだろう」的に、感覚で使っている。考えてみたら文法的におかしい言い回しなんて、一日のうちに何十回でもやっている。それでも、そんなふうに使い続けていたら、日本語には堪能になる。正確な日本語、美しい日本語だって、書けるようになる。味わえるようになる。

英語でも同じことだ。通じればいいレベルで使い続けることが肝心。単数形複数形をまちがっても、冠詞を付け忘れても、動詞の語尾がおかしくても、コミュニケーションをとることはできる。もちろん、それは「てにをは」のおかしな日本語と同じように奇妙に聞こえるはずだ。だが、そういう日本語でも通じるし、ときには「あ、そこは『が』じゃなくて『は』を使うんですよ」と訂正してもらえることさえある。まちがって使うことには、何も言わないことに比べたらはるかに大きな価値がある。

だから、本当に使える英語を身につけさせたいのなら、少なくとも主語と動詞がきちんと配置されている英文については積極的に評価していくべきだ。その上で、「ここは三人称だから動詞の語尾にsをつけといてね」とか、細かいところが気になったらそれをアドバイスしておけばいい。そうすれば、比較的短時間で使える英語が身につく。実際、指導要領をよく読めばそういう方向でやったほうがいいんじゃないかという解釈だってできるはず。だが、そういうことはしない。伝統は、かくも強固。

 

いつも思っているこういうことをなんで改めて書こうと思ったかというと、あまりにも変わらない英語教育を続けていると、そのうち英語のほうでどんどん変わってしまうぞ、って思ったから。ちょうど、平安時代の外国語教育であった漢籍を読む技術が固定化してしまった結果、中国の古典を解釈することはできるが時代に合わせた中国語が使えなくなってしまった江戸時代の日本人のように、変な伝統は本質をかんたんに歪めてしまう。

英語がどんどん変わるというのは、英語商売をやっていると肌身で感じる。たとえば、調べものをしていたときにたまたま出会ったこんな記事を読んだとき。

www.merriam-webster.com

この記事によれば、otherという単語を動詞として使う用法が最近現れている、というものだ。嘘だろう、これは名詞か、それとも形容詞でしかないはず。そう思っても、実際に用例が紹介されている。

記事によればこれはもともと社会学的な文脈から発生した用法らしい。「その他の」から転じて、「文化が根本的にちがうものとして扱う」という意味に用いられる、というもの。「部外化する」とでも訳せばいいかもしれないが、実際に訳す必要が生じたときにこれはもっと深く検討する必要があるだろう。

さらにこの記事では、形容詞としてのotherに、「異様なほど異なっている」という用例が現れていることも指摘している。otherは、名詞を修飾する用例が通常で比較級、最上級はなじまないのだが、それをas ... asの構文で使っているらしい。この辺になると、何のことやらさっぱりの世界に近づいてきてしまう。

こんなふうに、英語はどんどん進化を続けている。日本語だって同じだ。数十年前に書かれた小説でさえ、「言い回しが古臭いなあ」と感じる。かつてふつうだった「さよなら」の表現も、特殊な場合しか使われなくなった。

www.sankei.com

英語でも同じだ。驚くのは、どっからどうみても複数形でしかないtheyという代名詞を単数形で使う用例が増えてきていること。

jp.wsj.com

数年前、優秀な翻訳者が契約書の翻訳で明らかに単数形なのにtheyを使ってきていて注意したら、逆に参考ページのリンクを送りつけられた(優秀なひとと仕事をすると、本当に勉強になる)。言葉の変化は口語から崩れていくみたいなイメージがあるが、この単数形のtheyの場合はそうではなく、もっと硬いところにニーズがあって変化が起こっている。言葉の変化は、思ったよりも多面的に進行している。

 

もしも、日本の学校の英語のテストで、この「単数形のthey」を使ったらどうだろう。あるいは、動詞としてのotherを使ったらどうだろう。まちがいなくペケがつく。それはおかしい。かといって正解にすればそれでいいのかといえば、じゃあ新しい動きをどこまで取り込めばいいんだという問題が出てくる。

結局は正解と不正解という境界線を引くことが、語学教育にはなじまないということなのだろうと思う。語学は、なにが正しい、なにがまちがっているというような次元ではなく、言葉をどう使うのが効果的なのかという観点から行われるべきだ。だが、それでは点数がつけられない。テストをして成績で切り分けることができない。

となると、結局は、人間を点数で評価してふるい分けすることを基本にした学校制度そのものに問題があるのだということがわかる。もしも学ぶ人々のスキルをあげることを目的にするのであれば、現在の制度と、それを支える方法は、いずれも効果的ではない。

 

つくづく、変わってほしいと思う。言葉は変わる。英語は変わる。だったら、英語教育も変わってほしい。英語教育だけが変われないのなら、日本の教育制度全体が変わってほしい。毎日のように、そう思っている。

言葉の定義と、詩と、気温と

もちろんノーベル賞はもらえない

高校生ぐらいの頃だったと思うが、「ボブ・ディランみたいな歌が書きたい」と思った。コンセプトは、「とにかく長い歌」。ディランの歌は、やたらと長い。長ければボブ・ディランというわけではないだろうし、ボブ・ディランの歌に普通程度の長さのがないかといえばそういうわけでもない。それでも、若い頃の私が惹かれたのは長い歌だった。Lily, Rosemary And The Jack Of Heartsのような物語(16番まである)、Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Againのようなイメージがどこまでも広がっていくような歌が好きだった。

曲をつくるのは、簡単だった。循環コードさえ用意すればいい。だが、歌詞はそうはいかなかった。いろいろやってみたが、結局ロクなものはできなかった。あきらめて、それ以後はもっとふつうの、甘ったるいラブソングしか書かなくなった。そこからの私と音楽の話は長くなるので、別の物語。

ディランの歌詞で感心するのは、全く関係のないものが突然出現することだ。たとえば代表曲のひとつとされるLike A Rolling Stoneでは、前後の脈絡もなく、「浮浪者」とか「外交官」とか「ナポレオン」が登場する。聞いている方はびっくりするが、しかし、そこを切り口に世界が広がる。曲の中で一貫して皮肉っぽく批判されている「You」のイメージがより具体的になっていく。うまいなあと思う。

こういうのをシロウトが真似したって、「関係ないじゃない」「頭おかしいの?」「話が通じてないよ」と思われるのが関の山。脈絡のない単語を出せばそれでいいってもんじゃない。それなりの緻密な計算がある。少なくともそう見える。単純にクスリやって脳の回路がぶった切れていたというだけのことではないのだろう。

詩人は圧縮された暗号を使う

優秀な詩人は、聴き手の頭の中にあるイメージを利用する。たとえばIt's All Over Now, Baby Blueの中の「聖者」、「ギャンブラー」は、その単語だけでディキシーランド・ジャズ(「聖者の行進」)やカントリー・ブルーズ(たとえばロバート・ジョンソンなど)を連想させる。一言だけで、聴いている人の中にさまざまなイメージを投影することができる。ただし、それは使い古されたお定まりのイメージに陥ってしまう危険性にもつながる。そこに、「あれ?」と思うような組み合わせの「船酔いをした水夫」や「絵筆を持っていない画家」を登場させる。あるいは、「トナカイの軍団」みたいなどうみても場違いな言葉が出てくる。それがありきたりの絵に堕してしまうことから救ってくれる。

こんなふうに、言葉は、それが既に受け手の中に備えられた回路を動作させるトリガーとしてのはたらきをもっている。短い言葉で豊かなイメージを喚起するためには、そういった技術が必要だ。それを上手に使う人が、コミュニケーションの達人。詩人に限らず、名文を書く人はだいたいそういうことをやる。(ただし、それは時代が経って発信者と受け手との間に同じイメージが共有されなくなると理解されなくなる。失われたイメージを学習によって身に着けている人は教養人ということになるし、そうではない一般の我々は注釈に頼らなければ文脈を読めなくなる)。

暗号化は誤解のもと 

そんなふうに言葉を使うときには、ひとつひとつの単語の解釈は基本的に受け手に任されている。だから解釈をめぐってさまざまな論争が起こる。Blowin' In The Windの「風」は何を象徴しているのか、それはIdiot Windの「風」と関係があるのか、ないのかなどといったことを、作者の意図とはほぼ無関係にファンが語り合うことができる。何が正しくて何が誤っているのかということに結論はない。結論が重要なのではなく、「私はこう思う」という考えを交換することだけが意味をもつ。文学とはそういうもの。

けれど、日常に文学を持ち込まれた日にはたまらない。「私はこう思う」ということだけではコミュニケーションは成り立たないからだ。イメージは、ひとによってちがう。異なったイメージがあるひと同士が話しているときには、往々にして食いちがいが生まれる。別々のことを話しているのだから当然だ。たとえば、「ごはん」という言葉は、「食事」という意味でも「米飯」という意味でも用いられる。糖質制限をしているひとが「ごはんは食べないんです」と言った言葉を、相手は「このひとは断食しているんだろう」と受け取るかもしれない。「起業するんです」っていう話にベンチャーキャピタルとか資本比率とかのことを想像するひとと個人営業の脱サラ事業をイメージするひととでは、まるで話がかみ合わない。糖尿病患者が身近にいるひととそうでないひとでは、おのずと病院に通うひとのイメージが異なってきて、結果として罵り合いにさえなる。

そういうときに、「私が使っている意味」「私のイメージ」「私の知っている事実」が正しいのだと主張することには、なんの意味もない。正しいかどうかでいえば、すべてのひとがそのひとの内部では正しいのだ。そうではなく、「私はこういう意味で使っている」と相手に伝え、「ここからの議論はこういう範囲内だけでこの言葉を使うことにしましょう」という合意を得ておかなければならない。そうでなければ、互いに自分の正しさを主張する不毛な争いになる。それはゴメンだ。

そういう作業を、「定義」という。ただ、定義づけをするのは面倒くさい。英文の契約書なんかだと、最初に延々と「定義」が続く。場合によっては数ページも続く。そういうことを日常的にやるわけにはいかない。だから、私たちは「そのぐらい常識だろ」的に、すべての定義をすっ飛ばして議論を進める。日常的なことなら、それでたいてい間に合う。

それでもやっぱり、「どうにも議論がかみ合わないな」というとき、じっくり考えてみると、たいていは定義の問題なのだということがわかる。異なった定義にもとづいて議論をしていると、かなりの確率で紛糾する。別々のことを話しているのだから、当然だ。そして、もしもその段階でその原因を指摘したら、たちまち「だってこの言葉がこういう意味だってことぐらい常識でしょう」みたいな正統性をめぐる罵り合いに転化してしまう。いや、どっちが正しいかじゃなくて、その議論においてはどういうふうな定義にするのがいいのかという問題なんだとわかってほしくても、最初に定義をすっ飛ばした段階でそういう観点は抜けているから、いまさらどうにもならない。

日常的なことなら、たいていは問題ない。意見がちがったって、「まあ、いろんなひとがいるよね」程度のこと。それですまないのは、正確な議論が必要なケース。たとえば、科学。たとえば、政治。両方がかかわってくる場合はなおさらのこと。

 定義はなんなのか?

しばらく前、こんな記事を見た。

qiita.com

話題になった部分は、この記事がさらに気象庁のサイトから引用しているこんな記述。

政府機関または地方公共団体が気象観測を行う場合(研究や教育のための観測を除く)、又はそれ以外の方が観測の成果を発表するため、 あるいは災害の防止に利用することを目的として気象観測を行う場合には、技術上の基準に従って行い、気象観測施設設置の届出を気象庁長官に行うことが義務付けられています。(気象業務法第6条)

これで、「外気温を測ってホームページで公開すると気象庁から怒られる」と記事の筆者氏は結論づけたわけだけれど、これって典型的に定義の問題だと思う。

法律の条文は、特に定義を要する文言ばかりだ。たとえば、「業」という言葉ひとつとっても、これは「営利目的で同種の行為を反復・継続して行うこと」と定義されるわけで「気象業務法」という法律がまずは「業」を対象としていることを前提として読まねばならない。そのように法律特有の用語は、定義がはっきりしている。問題は、法律用語ではない用語だ。たとえば「気象観測」。一般的な法律用語でないものは、法律内に定義して用いられる。ここでは気象業務法に定義されている。

(定義)
第二条  この法律において「気象」とは、大気(電離層を除く。)の諸現象をいう。
2  この法律において「地象」とは、地震及び火山現象並びに気象に密接に関連する地面及び地中の諸現象をいう。
3  この法律において「水象」とは、気象又は地震に密接に関連する陸水及び海洋の諸現象をいう。
4  この法律において「気象業務」とは、次に掲げる業務をいう。
一  気象、地象、地動及び水象の観測並びにその成果の収集及び発表
二  気象、地象(地震にあつては、発生した断層運動による地震動(以下単に「地震動」という。)に限る。)及び水象の予報及び警報
三  気象、地象及び水象に関する情報の収集及び発表
四  地球磁気及び地球電気の常時観測並びにその成果の収集及び発表
五  前各号の事項に関する統計の作成及び調査並びに統計及び調査の成果の発表
六  前各号の業務を行うに必要な研究
七  前各号の業務を行うに必要な附帯業務
5  この法律において「観測」とは、自然科学的方法による現象の観察及び測定をいう。
6  この法律において「予報」とは、観測の成果に基く現象の予想の発表をいう。
7  この法律において「警報」とは、重大な災害の起るおそれのある旨を警告して行う予報をいう。
8  この法律において「気象測器」とは、気象、地象及び水象の観測に用いる器具、器械及び装置をいう。

とまあ、けっこうしっかり定義づけられている。そして、重要なことはこの法律中に「気温」の言葉が用いられていないこと。測定器具として「温度計」は登場するが、「気温」は定義どころかそもそも用いられていない。常識的にいえば「気象」の観測結果に気温は当然含まれるわけだが、なにをもって「気温」とするのかの定義はない。この法律が参照している計量法にも「温度」は定義されているが、「気温」ではない。では定義はどこにもないのかといえば、気象庁は次のように定義している。

通常は地上1.25~2.0mの大気の温度を摂氏(℃)単位で表す。度の単位に丸めるときは十分位を四捨五入するが、0度未満は五捨六入する。

気象庁|予報用語 気温、湿度

つまり、百葉箱のような適切な観測環境を用意して測定した温度のみが「気温」と定義されるわけである。一方、気象業界以外の普通の人々の「気温」のイメージはどうなのか? それは、単純に温度計が示す値のことである。つまり、気象庁が言う「気温」と一般人が言う「気温」は、同じではない。

では、一般人が常識的な意味で「気温」という言葉を使ってはいけないのかといえば、そんなことはあり得ない。言葉は誰のものでもない。たとえば「住所」という言葉は立派な法律用語であって民法に「各人の生活の本拠をその者の住所とする」と定義されているが、日常的には必ずしもそんな定義にとらわれずに使っているし、それでなんの問題もない。「物」という単語さえ、民法には「この法律において「物」とは、有体物をいう」と定義されているが、この定義にあるとおり、民法以外の文脈では「物」は実体のないものにまで拡張して使っている。言葉は、コミュニケーションのツールとしては、どのような使い方をしてもかまわない。定義どおりに使う必要はない。

これは科学の場合にはさらにふつうに起こることだ。たとえば「力」(force)は、力学では非常に重要な概念であるが、これはニュートンによって質量1kgの物体に対して1秒あたり1m/sの速度を加速するのに要するものとして定義されている。ところが、日常的にはだれもそんな意味で使っていない。ときには顔が汚れて出なくなるものであるかもしれない。なかには「あらゆる生命を繋ぐエネルギー場」という意味で使うひとだっている。けれど、だれもそれに文句は言わない。なぜならそれは科学の定義を離れて使われているのが明らかであり、いったん科学の文脈を離れれば科学には言葉を縛る権力などないことをだれもが知っているからだ。科学を語るのでなければ、フォースで奇跡を起こしてくれたっていい。その代わり、科学的な話をするのならまずは定義を確かめようよというのが、正しいあり方。

気温を発表しても、いいじゃない

さて、ふつうのひとが日常的な意味での「気温」を測り、日常的な活動としてそれを発表する。これを法律が規制することができるだろうか。できるのかもしれない。しかし、言葉と定義という観点からだけ見れば、それはバカげている。そもそも定義がちがう。だれも「地上1.25~2.0mの大気の温度」だなんて主張していない。あくまで「ウチの温度計の表示した値」という意味で「気温」を使っている。それが明らかな場に、明確な定義のある「気温」の規制を持ち込むのは文脈を外している。

もちろん、そうやって発表された統計を何らかの根拠にしようとするときには、話がちがってくる。だがその場合は、まずその議論の論拠として、その数字がどのようにして求められたのかを明確にする必要があるだろう。そうでなければ議論の対象としては相手にされない。結局、科学の土俵では科学の言葉として定義して語らねばならなくなる。そのようなときには、改めて正確に「ここでいう気温とは、校正を経ていない誤差の大きな値であり、また観測地点も一般の気象観測の要件を備えていない」ということを明確にすることだ。そうすれば、少なくともイメージの食いちがいによる混乱は避けられる。

結局は、ひとを誤りに導くようなやり方さえしなければ、何を言ってもいいのだろう。裏返せば、たとえルールに則ったように聞こえる発言でも、ひとを誤りに導くようなものは非難されるべきだ。あ、気をつけなくちゃ。

 

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定義については、こんなことも書いた。

mazmot.hatenablog.com

学問の世界で使われる「貧困」と日常事しての「貧困」はちがう。それを混同するから話が紛糾するという考察。これは、マスコミや政治家が意図的に(でなければ全くの不勉強で)混同して使っていることにも原因があると思う。それはまた別の機会に書くとしよう。少しばかりは、以下の記事にも書いている。

mazmot.hatenablog.com

定義をはっきりさせない習慣は、特に教育現場で奇妙なことを引き起こす。たとえば教師の仕事を明確に定義した学習指導要領があるときに、なぜかそこから逸脱したことが行われてしまう。あるいは、過去に引きずられた時代遅れの教育をしてしまう。

mazmot.hatenablog.com

mazmot.hatenablog.com

結局は、日常であっても、ときどきは言葉の定義を意識したほうがいいのかもしれない。たとえば、定義さえきちんとすれば、サンタクロースだって実在するのだしね。

mazmot.hatenablog.com

 

サンタクロースは存在するか - 息子との想い出

サンタ問題が存在することを、ひとの親になるまで知らなかった。つまり、「サンタクロースは存在するのかどうか」という大命題。いや、どうでもいいことだ。少なくとも、十代以降結婚するまでの数十年間の私にとってはどうでもいいことだった。鼻でフンと笑えばそれで終わる問題。ところが、子どもができるとそういうわけにはいかない。

小さいうちはいい。言葉の通じない幼児にサンタクロースがどうこうという問題は発生しない。クリスマスには親が勝手に喜んでいるだけ。3歳ぐらいだと、「サンタさんからだよ」といっても「あ、そう」みたいな感じ。それが年中さん、年長さんぐらいになると、「サンタさんって、だれ?」という疑問が発生する。そして、その疑問を手近な存在である親にぶつける。これがサンタ問題だ。

これに対しては、さまざまな対処方法があると思う。そんなことを思い出したのは、ハロウィンが終わっていよいよクリスマス商戦が近い、ということとは関係なく、こちらの記事を拝見したから。

www.catlani.com

いや、ここまで極端な現実主義者は私の知ってる範囲にはいなかった。それでも「いや、実在しないものをウソをついて『いる』とは言わないよ」というのはいた。「夢をこわさないために」あえて「サンタさんはいるよ」とする人々もいた。ともかくも、親をやっている限り、これに関しては立場をはっきりさせねばならない。踏み絵のような問題。

 

結局はどうでもいいことではあるのだけれど、ウチの場合はどうだったのか、一例報告をしておきたいと思う。まず、ウチの子育ての方針として、「ウソは絶対にダメ」というのが大前提。(ウソに関しては、たとえば聖アウグスティヌスの「嘘について」というエッセイがおもしろいのでいつかそれをネタに書こうと思ってはいるのだけれど、そういう高尚な話を抜きにすれば)、経験則的に、ウソは問題を悪化させる元凶だ。いろいろとめんどくさいことは、小さなウソから発生する。だから、せめて家庭内だけでもウソは厳禁としておこうと思った。道徳的にどうとかそういう話じゃなくて、技術的にトラブルの原因は除去しておきたい。だからウソはダメ。

そして、ルールは扁務的であってはならない。子どもだけがウソがダメというのは理屈に合わないので、大人もウソはつけない。そうすると、自動的に「サンタクロースなど存在しない」となる。そうだろうか?

そもそも、「サンタクロース」とは何なのか? 語源的にいえばこれは聖ニコラウスであり、そういう聖人は確かに存在した。ただし、そのひとがプレゼントをくれるわけではない。じゃあ、プレゼントをくれるのは、赤い服を着た白ひげのおじいさんなのか? ちがう。しかし、じゃあサンタクロースとは「赤い服を着た白ひげのおじいさん」として定義されるのだろうか? いや、そのようなイメージが定着したのは百年ほど前のアメリカであり、実際にはさまざまな「サンタクロース」のイメージが存在するし、存在してきた。現代では水着を着たいろっぽいサンタクロースまでいるではないか。服装や外見は、サンタクロースの必要条件でも十分条件でもない。

では、「サンタクロース」とは何か? それは、「クリスマスにプレゼントをくれるひと」である。それ以外の属性は、すべてあとづけのイメージである。そして、実際に、「クリスマスにプレゼントをくれるひと」は存在する。サンタクロースの名前でクリスマスにプレゼントをくれるひとは、各家庭に存在するわけだ。

であるならば、すなわち「サンタクロースは実在する」と断言することは何のウソにもならない。そこで、息子には、小さいときから「サンタさんがくれたんだよ」と、実在を前提に話をしてきた。そして、ある日、確かもう小学校の3年か4年になってからだったと思うが、「サンタってほんとにいるの?」という質問がやってきた。そこで、私は息子と考えてみることにした。

まず、「サンタの名義でプレゼントがやってくる」ということは、事実として認めなければならない。すると、そのプレゼントはどこでつくられ、どのように運ばれてくるのかという問題がある。プレゼントの中身が中国製のおもちゃだったりすることを息子はとうに見破っているから、決してサンタクロースがおもちゃ工場を運営しているのではないことはわかる。ということは、まずおもちゃは仕入れなければならない。その資金はどこから出ているのか?

ここで私は秘密を教えることになる。世の中には「サンタ税」というものがある、という秘密だ。独身時代には、そんな税金はかからない。結婚しても課税対象ではない。けれど、子どもが生まれると、親は一定の負担をしなければならない。この資金が、つまりはプレゼントを購入する原資となる。仮にこれを「サンタ税」と呼ぼう。ほとんどの親は、それを負担している。

では、そうやって購入されたプレゼントは、いったいどのようにして世界中の子どもたちのもとに運ばれるのだろうか? これがたったひとりの人間にできるだろうか? 無理だということは、小学生の常識でもわかる。ということは、サンタクロースは一個人ではあり得ない。多くの実行部隊を備えた組織でなければならない。その組織の末端に所属するだれかが、ひっそりとプレゼントを子どもたちの枕元に運んでくる。それは、ひょっとしたら○○くんのお父さんかもしれない。××くんのお母さんかもしれない。ひょっとしたらこの家の……。

 

サンタクロースの仕組みというのは、結局はそんなふうになっているのだと思う。サンタクロースの名前で自分の子どもにプレゼントを贈る親は、架空の「サンタクロース」という存在に対して出資し、その名前で購入したプレゼントを、「サンタクロース」の代理として届けている。なんの指揮系統があるわけでもないけれど、これは秘密の「サンタクロース団」がそこに存在しているのと結局は同じことだ。そして重要なのは、そこに「サンタクロース」の意思がはたらいているということだ。

「サンタクロース」の意思とはなにか。それは「与えること」である。これはもうはっきりしている。クリスマスは贈り物のシーズンであり、サンタクロースはその象徴だ。何の見返りを求めるわけでもなく、必要なひとに必要な贈り物をする。それがサンタクロースだ。

その価値を信じるから、私はサンタクロースが実在すると、一切のウソをさしはさまずに言い切ることができた。だからこそ、たとえその実体が彼の親であることがわかっても、そこにはきちんとつながる理屈がある。「やっぱりあれはウソでした」みたいなしらけきったタネ明かしはせずに済む。

「親がサンタクロースだ」というのは、サンタクロースの存在を否定する命題ではない。むしろ、実在を証明する事実だと思う。サンタクロースは、赤い服を着た白ひげのおじいさんではない。それは歴史的に見ても正しい。そのことを早い時期から正しく教えておけば、夢はこわれない。そして、その夢は、次の時代のサンタクロース団の構成員のもとで受け継がれるだろう。彼にサンタ税を払う気があれば、だけれど。

 

いまや「サンタなんてどうでもいいことだ」と感じる時代に入った息子は、当分の間、こんなことを思い出すことはないだろう。けれど、いつかそういう時代になったら思い出して欲しい。サンタクロースは実在するのだということを。