サンタクロースは存在するか - 息子との想い出

サンタ問題が存在することを、ひとの親になるまで知らなかった。つまり、「サンタクロースは存在するのかどうか」という大命題。いや、どうでもいいことだ。少なくとも、十代以降結婚するまでの数十年間の私にとってはどうでもいいことだった。鼻でフンと笑えばそれで終わる問題。ところが、子どもができるとそういうわけにはいかない。

小さいうちはいい。言葉の通じない幼児にサンタクロースがどうこうという問題は発生しない。クリスマスには親が勝手に喜んでいるだけ。3歳ぐらいだと、「サンタさんからだよ」といっても「あ、そう」みたいな感じ。それが年中さん、年長さんぐらいになると、「サンタさんって、だれ?」という疑問が発生する。そして、その疑問を手近な存在である親にぶつける。これがサンタ問題だ。

これに対しては、さまざまな対処方法があると思う。そんなことを思い出したのは、ハロウィンが終わっていよいよクリスマス商戦が近い、ということとは関係なく、こちらの記事を拝見したから。

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いや、ここまで極端な現実主義者は私の知ってる範囲にはいなかった。それでも「いや、実在しないものをウソをついて『いる』とは言わないよ」というのはいた。「夢をこわさないために」あえて「サンタさんはいるよ」とする人々もいた。ともかくも、親をやっている限り、これに関しては立場をはっきりさせねばならない。踏み絵のような問題。

 

結局はどうでもいいことではあるのだけれど、ウチの場合はどうだったのか、一例報告をしておきたいと思う。まず、ウチの子育ての方針として、「ウソは絶対にダメ」というのが大前提。(ウソに関しては、たとえば聖アウグスティヌスの「嘘について」というエッセイがおもしろいのでいつかそれをネタに書こうと思ってはいるのだけれど、そういう高尚な話を抜きにすれば)、経験則的に、ウソは問題を悪化させる元凶だ。いろいろとめんどくさいことは、小さなウソから発生する。だから、せめて家庭内だけでもウソは厳禁としておこうと思った。道徳的にどうとかそういう話じゃなくて、技術的にトラブルの原因は除去しておきたい。だからウソはダメ。

そして、ルールは扁務的であってはならない。子どもだけがウソがダメというのは理屈に合わないので、大人もウソはつけない。そうすると、自動的に「サンタクロースなど存在しない」となる。そうだろうか?

そもそも、「サンタクロース」とは何なのか? 語源的にいえばこれは聖ニコラウスであり、そういう聖人は確かに存在した。ただし、そのひとがプレゼントをくれるわけではない。じゃあ、プレゼントをくれるのは、赤い服を着た白ひげのおじいさんなのか? ちがう。しかし、じゃあサンタクロースとは「赤い服を着た白ひげのおじいさん」として定義されるのだろうか? いや、そのようなイメージが定着したのは百年ほど前のアメリカであり、実際にはさまざまな「サンタクロース」のイメージが存在するし、存在してきた。現代では水着を着たいろっぽいサンタクロースまでいるではないか。服装や外見は、サンタクロースの必要条件でも十分条件でもない。

では、「サンタクロース」とは何か? それは、「クリスマスにプレゼントをくれるひと」である。それ以外の属性は、すべてあとづけのイメージである。そして、実際に、「クリスマスにプレゼントをくれるひと」は存在する。サンタクロースの名前でクリスマスにプレゼントをくれるひとは、各家庭に存在するわけだ。

であるならば、すなわち「サンタクロースは実在する」と断言することは何のウソにもならない。そこで、息子には、小さいときから「サンタさんがくれたんだよ」と、実在を前提に話をしてきた。そして、ある日、確かもう小学校の3年か4年になってからだったと思うが、「サンタってほんとにいるの?」という質問がやってきた。そこで、私は息子と考えてみることにした。

まず、「サンタの名義でプレゼントがやってくる」ということは、事実として認めなければならない。すると、そのプレゼントはどこでつくられ、どのように運ばれてくるのかという問題がある。プレゼントの中身が中国製のおもちゃだったりすることを息子はとうに見破っているから、決してサンタクロースがおもちゃ工場を運営しているのではないことはわかる。ということは、まずおもちゃは仕入れなければならない。その資金はどこから出ているのか?

ここで私は秘密を教えることになる。世の中には「サンタ税」というものがある、という秘密だ。独身時代には、そんな税金はかからない。結婚しても課税対象ではない。けれど、子どもが生まれると、親は一定の負担をしなければならない。この資金が、つまりはプレゼントを購入する原資となる。仮にこれを「サンタ税」と呼ぼう。ほとんどの親は、それを負担している。

では、そうやって購入されたプレゼントは、いったいどのようにして世界中の子どもたちのもとに運ばれるのだろうか? これがたったひとりの人間にできるだろうか? 無理だということは、小学生の常識でもわかる。ということは、サンタクロースは一個人ではあり得ない。多くの実行部隊を備えた組織でなければならない。その組織の末端に所属するだれかが、ひっそりとプレゼントを子どもたちの枕元に運んでくる。それは、ひょっとしたら○○くんのお父さんかもしれない。××くんのお母さんかもしれない。ひょっとしたらこの家の……。

 

サンタクロースの仕組みというのは、結局はそんなふうになっているのだと思う。サンタクロースの名前で自分の子どもにプレゼントを贈る親は、架空の「サンタクロース」という存在に対して出資し、その名前で購入したプレゼントを、「サンタクロース」の代理として届けている。なんの指揮系統があるわけでもないけれど、これは秘密の「サンタクロース団」がそこに存在しているのと結局は同じことだ。そして重要なのは、そこに「サンタクロース」の意思がはたらいているということだ。

「サンタクロース」の意思とはなにか。それは「与えること」である。これはもうはっきりしている。クリスマスは贈り物のシーズンであり、サンタクロースはその象徴だ。何の見返りを求めるわけでもなく、必要なひとに必要な贈り物をする。それがサンタクロースだ。

その価値を信じるから、私はサンタクロースが実在すると、一切のウソをさしはさまずに言い切ることができた。だからこそ、たとえその実体が彼の親であることがわかっても、そこにはきちんとつながる理屈がある。「やっぱりあれはウソでした」みたいなしらけきったタネ明かしはせずに済む。

「親がサンタクロースだ」というのは、サンタクロースの存在を否定する命題ではない。むしろ、実在を証明する事実だと思う。サンタクロースは、赤い服を着た白ひげのおじいさんではない。それは歴史的に見ても正しい。そのことを早い時期から正しく教えておけば、夢はこわれない。そして、その夢は、次の時代のサンタクロース団の構成員のもとで受け継がれるだろう。彼にサンタ税を払う気があれば、だけれど。

 

いまや「サンタなんてどうでもいいことだ」と感じる時代に入った息子は、当分の間、こんなことを思い出すことはないだろう。けれど、いつかそういう時代になったら思い出して欲しい。サンタクロースは実在するのだということを。