海外からの投票はトランプに有利か? - ヤジ馬の予想として

投票日まで1週間を切って、いよいよ罰ゲームのようなアメリカ大統領選挙のわけがわからなくなってきている。世論調査の支持率でいえばほとんど常にトランプが負けているが、どっちかといえば誤差の範囲。民主党と共和党の地盤分析みたいなアメリカ大統領選挙固有の事情を勘案すればヒラリーの圧倒的有利と言われるが、選挙は水物。特に、アメリカ人ってのは民主党と共和党が交互に政権を担当するのを好むところがあるから、「次は共和党に」と、候補者抜きで考える人も多そうだ。まだまだ予断を許さない。

接戦になった選挙といえば、印象に残るのが2000年のゴア対ブッシュの大統領選挙。最後のフロリダをどっちがとるかで勝負が決まるところで、当初1784票差、再集計後に537票差と、まるで町会議員選挙並みの票差で決着している。これは当時フロリダ州が共和党支配であったためのチートだという声もあったのだが、まあそういうことなら民主党支配の州では民主候補が有利なので、あまり根拠のある話でもない。いろいろあったのは、あったんだろうな。私なんかは「なんで?」と思ったのを覚えている。ブッシュがその後に何をやったかは言わずもがな。

 

ともかくも、このときの選挙でブッシュ勝利となった要因のひとつは、海外からの投票だといわれている。合衆国は、選挙人登録さえしていれば海外在住者でも投票ができる。選挙は州単位で行われるため、海外在住者はそれぞれが登録する州での投票を海外から行うことになる。むかし私が東京でFENラジオを聞いていた頃は、よく「one million people overseas」というジングルで投票を呼びかけるメッセージが流れていた。実際には百万人どころか海外在住の有権者は260万人程度にも上るらしい。このあたりの情報は、こちら。

www.cbsnews.com

伝統的に、海外からの投票は共和党有利とされている。これは、海外在住者の多くが軍人であるから、と説明されている。かつてFENで投票を呼びかける放送が行われていたことからわかるように、軍隊内では投票に便宜を図る制度がある。そして、軍人の多くは共和党支持者。当然、海外在住者の投票率が上がれば、それだけ共和党候補に流れる票は多くなる。ちなみに、海外勤務の軍人は150万人ぐらいらしい。

さて、それが今回選挙にあてはまるだろうか。そうだともいえるし、そうでないとも言えるような気がする。私は後者に賭けておこう。賭けにのるひとがいれば、だけれど。

まず、トランプに有利という根拠は、なによりも共和党だからというのがあるが、それ以上に、トランプ支持層である没落しつつある白人たちが、軍人に多いだろうという推測だ。ローマのむかしから、没落していく階層の人々が軍隊に救いを求めるのは世のならわし。仕事がなければ、軍隊に入るのが手っ取り早く食っていく方法になる。ただ、これに対しては、軍隊にはアフリカ系、ヒスパニック系も多いという反論もあるだろう。彼らは概ねトランプに投票しない。事実はどうかといえば、「白人」の中にどれだけ没落系の白人が含まれるのかはわからないが、地理分布的には確かにそういう人々が多い地域が比率的に多く軍人を出している(こちらのグラフ)。民族的な比率は男性と女性ではっきりと分かれている。男性では約70%が白人であるのに、女性では約50%。女性は軍人の16%を占めるに過ぎないから、やはり全体としてはトランプ支持層が多そうだ。

www.statista.com

しかし、私はここで軍人はやはり軍人らしい判断をするのではないかという気がしてならない。軍人にとってのアメリカ大統領は、チーフ・コマンダーだ。最高司令官の方針は自分たちの生活に直結する。そういう目で見たとき、トランプの軍事政策は軍人ウケするだろうか? 支離滅裂に近いその政策は、一方でISIS撲滅みたいな景気のいいことをいいながら、結局はアメリカの海外での軍事展開を縮小する方向であると読み取ることができる。移民反対、国威発揚的な発言は軍人好みかもしれないが、中身は決してそうではない。それよりはむしろ、冷酷だと評されるヒラリーのほうが軍人としては司令官に望ましいのではなかろうか。

さらに、トランプの評価が海外では異常なほどに低いという事実がある。アメリカ人以外で、トランプがまともな候補者だと思っているひとはほとんどいないのではないだろうか。アメリカを離れるということは、そういった視点を獲得するということでもある。

そして、軍人以外に目を転ずれば、もうこれははっきりしている。もともと海外で働くアメリカ人の多くは、トランプ支持層ではないだろう。彼らは海外に出ることすらできない。もちろん海外在住者のなかには共和党支持者も少なくない。だが、外から見ればいくら共和党支持者でもトランプは無理、という気になるのではなかろうか。

そして、これら海外在住者は伝統的に投票率が低かった(というよりほとんど投票しなかった)のだが、インターネット経由でかんたんに投票できるようになって、事情が変わっている。自宅に居ながらにしてクリックで投票できる。となると、投票率は徐々に上がってくるのではないか。

www.nomadicmatt.com

ということで、最終的には海外からの投票はトランプ有利には働かない、と私は思う。まあ、こういう予想なんて、大統領選挙の結果の予想以上に不確かなものだ。競馬でも見るような気分で大統領選挙を見てしまう。娯楽じゃないんだけどね。

 

さて、どうなるんだろうか。

www.afpbb.com

砂糖玉の効用 - 私たちはプラセボについて十分にわかっているのだろうか?

海外のホメオパシー事情をチラ見した

別に自分自身が使っているわけでもないのでホメオパシーにまつわる議論に深くかかわるつもりはないのだが、ここにあんまり科学を持ち出すのは、ちょっとちがうんじゃないかと感じている。少なくとも、硬い科学だけではどうにもならない部分、強いて言うなら医療社会学的な部分が絡んでくる問題だと思うので、安易な議論は道を踏み外しかねないなあと思っている。

このホメオパシー論争、日本だけで起こっていることではない。というよりも、どうやらイギリスあたりでは日本以上にホメオパシー叩きとそれに対するリアクションが激しいようだ。具体的には、100年ほど前からホメオパシーはイギリスの保健制度の一部に組み込まれていたのだが、徐々に力をなくして21世紀に入る頃には4つの診療機関でのみ公的医療(日本でいえば保険適用にあたる無料の診察・施薬)の対象になっていた。そのうち2つがつい先日ホメオパシーの扱いを取りやめ、それでもロンドンとブリストルの2箇所では相変わらず対象になっている、というのが現状らしい。このあたりはこちらの記事に書いてあることなのだが、

www.businessinsider.com

それによると、イギリス総人口の10%は、ホメオパシーを使っているらしい。で、この記事ははっきりと「効果がないとわかっているものに対して公的な資金をつぎ込むのはおかしい」と、反ホメオパシー的な立場を明らかにしているのだが、ある意味、ホメオパシーがかなり深くイギリスの人々の医療観に食い込んでいることも示している。

海外のホメオパシー事情に関して、「外国では保険の適用にもなるのに!」という擁護派の言説と「そんなものを信じているのは日本人ぐらいなもの」みたいな批判派の言説の両方が存在するのだが、どうやら両方とも、無根拠ではない。実際、徐々に扱いが減ってきているとはいえ未だにイギリスの一部ではホメオパシーは公的医療で扱われている事実はあるのだし、ホメオパシーの利用者も多い。ネットを検索すると、ほとんどは販売業者の宣伝かそれに乗っかった情報でしかないのだが、「ホメオパシーが注目されている」「トレンドだ」という記事がいくらでも出てくる。その一方で、ホメオパシー批判が強烈なことも事実で、イギリスで公的保健機関の扱いが半減したのもそういうところからの抗議が実を結んだ結果だろう。大手メディアの記事は、概ね批判的。物事はどちらから見るかによって見え方が異なる。アメリカなんかはもともと保険加入まで含めて自己責任の国だから、ホメオパシーやりたいひとは勝手にやるだろうし、それに反対するひとも勝手にやるだろう。FDAが認可しないサプリなんていくらでも出回る国だ。検索するとインドあたりの記事もよく引っかかるが、これはイギリスの影響かもしれない。英語圏以外の情報はわからない。いずれにせよ、世界的にも批判が多いことは紛れもない事実。

「正直なプラセボ」とは?

ともかくも、この記事で言いたいのはホメオパシーのことではなく、ホメオパシーについての議論では必ず出てくる「プラセボ効果」について。プラセボは偽薬であり、つまりは何ら薬効成分を含まない基材だけでできた丸薬やカプセル剤のこと。ところが、こういうのを処方しても、治療効果が生まれる。これを「プラセボ効果」と呼ぶ。だから、たとえば新規物質の薬効を調べる場合なんか、「これを投与した場合に改善がみられた」だけでは誰も信じない。必ずプラセボ投与群をコントロールとして比較対象にしなければ、「それはプラセボ効果だろう」と批判されるわけだ。

この「プラセボ効果」、「心理的なものだろう」というのは、古くから言われてきたこと。というよりも、まずそれ以外に考えられない。つまり、「クスリを飲んだ」と思うだけで、「良くなるにちがいない」という信念が生まれる。病は気から、「治るはず」という信念が、実際に病気を治してしまう。それがプラセボ効果だと説明されてきたし、それを疑う根拠は何もない。

ところが、しばらく前、「プラセボ効果は患者がそれを偽薬だと知っていても発生する」という記事をどこかで読んだ。その元記事はどこに行ったのか探しても出てこないのだが、その代わり、最近の類似の研究を取り上げた記事を見つけた。こちら。

www.npr.org

これによれば、腰痛患者に対し、「これは薬効成分などまったくない偽薬ですけど、毎日2回飲んでください」と処方した場合、処方しなかった場合に比べて自覚症状の約30%の改善がみられたというもの。なお、どちらのグループに対しても、通常の痛み止めの処方その他の治療は継続して行っていたらしい。

つまりは、「患者はそれが偽薬だと知っていてもプラセボ効果はある」ということになる。ちなみに、この記事から古い同様の研究へのリンクもたどることができた。おそらくこちらが、私の記憶にあった日本語記事の元ネタの研究を紹介したものなのだろう。

www.npr.org

こちらは、慢性の過敏性腸症候群患者を対象にしたもの。やはり、偽薬だと知っていてもプラセボ効果が生じている。このようなプラセボを「正直なプラセボ」と呼ぶらしい。ちなみに、この過敏性腸症候群も上記の腰痛も、現代医学にとっては扱いにくいやっかいな症状。腰痛に関しては、アメリカの医師は「lower-back loser」と呼んで忌み嫌っている、というようなこともずいぶんむかし、どっかで読んだ記憶がある。

このような研究を見ると、「心理的」の一言で片付けてしまうにはあまりに複雑な作用機序がプラセボ効果にあるのではないかと考えざるを得ない。心理的ではあるが、一筋縄ではない。少なくとも、錯誤による心理効果だけでは説明ができない。

プラセボ効果は、医師への信頼が高いほど大きいというのはよく知られた話。たとえば、

Knowledge and Use of Placebos by House Officers and Nurses | Annals of Internal Medicine | American College of Physicians

これによれば、プラセボ効果が最も高いのは医師を信頼している患者なのに、プラセボを投与される確率が最も高いのは医師に対して文句ばかり言う患者であるというねじれ現象が起こっているそうだが、ともかくも、そういうことに効果が影響されるのはまさに「心理的」。けれど、単純に錯覚しているだけのものではないことは、上記の「効果がないと知っていても効果がある」実験によって確認される。

知らないことがあると知っていれば、もう少し謙虚になれるはず

何が言いたいのかというと、「それはプラセボ、非科学的」と断じる我々は、案外とプラセボについて正確な知識を持っていないのではないか、ということ。よく知らない人間が、それを棚に上げて「非科学的」と他人を罵るのは、あまり感心したことではないだろう。

ひとがひとを批判するとき、私たちはその批判の内容だけではなく、その社会的文脈にも注目すべきだと思う。なぜなら、多くのケンカは、ケンカしたい気持ちが先にあって、理由は後からくる。典型的にはヤクザのイチャモンだ。イチャモンに関しては、その主張の是非を論じるべきではない。イチャモンをつけてきた前後の文脈をこそ探るべきだ。なんだ、結局は、記事の内容は昨日の記事と同じになってしまった。

mazmot.hatenablog.com

繰り言はみっともないな。年をとったんだろうか。やれやれ。

 

 

 

参考:

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nofrills.seesaa.net

interdisciplinary.hateblo.jp

schutsengel.blog.so-net.ne.jp

 

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追記:このサイトも参考になるかも。

manualtherapy.blog91.fc2.com

 

科学でもって叩く人々に - 「迷信」は正しい罵詈雑言か?

人間には2種類があり、迷信には3種類がある

どうにも「科学」の名前を借りた(あるいは「科学的」かどうかを論拠にした)批判的な言葉がしんどくてしかたない。いや、まあ私だって、そういうモノの言い方をすることはある。基本的に、ケンカというのは、ケンカしたい気持ちが先にあるものであって、理由なんかは後からつけるものだ。その理由として「科学」は使いやすい。だから、むかっ腹がたったときには、後先も考えずに「非科学的だ!」みたいな批判をする。そして、後味のわるい思いをする。

「非科学的」な相手を罵倒する文句として最も使いやすい言葉のひとつが「迷信」だ。この「迷信」、よく考えてみれば3種類あることがわかる。まあ、分類のしかたなんて恣意的に立てられるからこれで完璧とは言わないけれど。

  1. 未だ科学的に証明されていないが「効果がある」と一部で信じられている慣習
  2. かつては科学的(もしくはそれに近い)根拠があって効果があるとされていたが、その後の反証で効果がないことがわかったのに、未だに行われている慣習
  3. そもそも最初っから根拠がなく、かつ、根拠がないことが実施している人々の間でも概ね合意されている慣習。

「1.」に関しては、かえって科学的な研究の対象になっていることがけっこう多い。たとえば、私は昔、ある健康食品会社の仕事をしていたのだが、この会社はある健康茶の販売を主な事業にしていた。これが事業として成り立ったのは、もともと科学的な根拠も何もなかったその葉っぱを煎じて飲むというある地方の習慣を科学的に研究した学者の論文があったからだ。そういった論文が1本あれば、その後に研究が続いていく。いまではこの葉っぱの効用には、それなりの科学的エビデンスがある。ただし、そのエビデンスはそこまで強いものでもないいので、トクホなりなんなりの認定を受けることはできない。おそらく、その程度のエビデンスで「効果がある」といわれている食品は、山ほどある。それでも、「1.」に属するタイプの「迷信」は、科学的研究が積み重なっていくことで、実際に効果が確認される可能性をもっている。もちろん、科学的研究の果てに「効果がありませんでした」となる場合もある。だが、「科学的根拠がない」ことを「効果がない」こととイコールで結びつけることはできない。「科学的根拠がない」ことは、あくまで「効果があると断言してはならないし、効果がない可能性も十分にあると考えなければならない」ことを意味するだけ。

次に「2.」に関しては、既に「効果がない」あるいは「効果が低い」ことが証明されているわけで、これは「科学的根拠がない」というよりはむしろ「効かないという科学的根拠がある」といったほうがいい。ただし、これについてはあまり叩き過ぎると今度は自分の墓穴を掘ることになるということはわきまえておかなければならない。なにしろ、かつての科学が格下げされたこれら「迷信」の存在は、現在の科学がやがて「迷信」に格下げされる可能性を示す証拠でもあるわけだから(こちらの記事も参照)。

そして、「2.」に関して厄介なのは、いったんエビデンス付きで否定された効能が、またひっくりがえる可能性も含んでいること。数多くはないが、いったん捨て去られた古い治療法が技術の進歩とともに新たなエビデンスを伴って復活する例はないわけではない。さらに、相矛盾するエビデンスが同時に存在するような事例もあって、なかなかにややこしい。科学的なエビデンスをそれぞれがもっている二派が存在するような場合、どちらかに立って相手方を「迷信」と決めつけることは、ヤケドのもと。

完全に問題外なのは「3.」だ。これはやっている当人が迷信だと認めているのだから、どこまでいっても迷信であり、そこに議論の余地はない。たとえば節分の鰯の頭。あんなもので健康になるとは、誰も信じてはいない。けれど、「無病息災を願って鰯の頭をヒイラギに飾ります」みたいなことは、NHKでも言うだろう。「効果がない」という認識が共有されているものに関しては、あえて効果があるようなことを書いたって許される。「ゲン担ぎ」もそうで、そこに科学的なエビデンスを求めようという人なんてふつうはいない。それでも、勝負のときには「これでなければ」というこだわりを捨てない人々がいる。誰もそれを「迷信だ」と非難しないが、それは「まあ、勝手にやっといてくれ」の領域だからだろう。ヒットが続くように同じパンツを3日履き続けても、まあだれも迷惑しないわけだから。

迷信を科学する

ただ、この「3.」に関しても、それでは科学的な研究があり得ないのかといえば、実はそんなことはない。科学の世界には、ふつうじゃない人もいるものだ。たとえば:

あたりはスポーツにおける「迷信」(ゲン担ぎ)の効果を研究した論文だし、

は、一般大学生を対象にして、「迷信」がゲームの成績に寄与することを実験で明らかにしたものである。

は、要旨しか見えないのだが、どうやら中国人の学生に対して迷信を信ずる度合いと死への不安感の相関関係を調査したものらしい。 不安は、医学においてはQOLに大きな影響を与えるものとして特に終末期医療では重視されている。ここに寄与することが科学的に証明されるのであれば、それは医療分野において大きな貢献になるだろう。

フランスパンでも凶器になるんだし…

こういう研究を見ていると、果たして「迷信」というのが正しい罵倒の言葉であるのかどうか、はなはだ疑問に思えてくる。「1.」のケースだと(たいていの伝統的慣習には科学の手が伸びているので)何らかのエビデンスが出てくるだろう。そのときには、結局はグレーゾーンの泥沼に陥るだけだ。「2.」の場合は、そのときはいいが、未来にブーメランがやってこないと言い切れない。そして「3.」の場合、「迷信けっこう。迷信だって役に立つことが科学的に証明されている」という逆襲を受けかねない。その際には、迷信的な慣習とそうでない「科学的行為」との間のベネフィットを比較する研究が必要になるわけで、たいていは水掛け論に終わってしまう。

結局のところ、科学は、科学の絶対的真実性を担保しないのだと思う。科学的な態度というのは、しょせんツールに過ぎない。そして、ツールはたいていの場合、目的を持って使われるものだ。その目的が真実の探求であるのならそれはそれで尊重されるべきだろう。しかし、目的が単純に他人を貶めることであるのなら、あるいはそこまでいかなくとも、「私の正義」をふりかざすためのものであるのなら、その科学的態度は地に堕ちたものだ。場合によっては科学的な態度が凶器になる。人を傷つける道具になる。それは、本当に正しいことなのだろうか。

まあ、地に堕ちようが泥にまみれようが、正義に訴えたいときはある。だが、そのときは、それが決して客観的なものではないことを肝に銘ずべきだ。たとえそのときに使っている言葉が厳密に科学的なものであったとしても。たとえば、私がいまやっているのは、(あんまり科学的とはいえないかもしれないが)、科学の論文を引っ張り出してきて、科学で人を叩くことを批判すること。こういうやりかたって、絶対にフェアじゃないよね。

 

 

 

mazmot.hatenablog.com

笑うのはたいへんだし、泣くのはもっとたいへんだ - 現代落語に寄せて

なんで「マックで女子高生が」が私にウケなかったのか?

中学2年生の息子、落語が趣味で、小学生の頃からあちこちでシロウトの一席を披露してきている。福祉施設の慰問とか、ローカルなイベントとかで。ただ、声変わりで思うようなパフォーマンスができないということで、この夏を最後にしばらくのお休みに入っている。大学に入ったら落研にでも入りそうなクチだが、だいたいが大学に行くつもりがあるのかどうかもわからない。何を考えているのだかさっぱり読めない男だ。

ともかくも、そんな落語好きの子どもに付き合ってきたせいで、私も少しは落語を聞いてきた。世間の落語ファンに比べたら、物の数ではない。知らない人よりは知っているが、知っている人には及びもつかないという、まあたいていのことにあてはまるような身分でしかない。それでも、少しは落語に興味がある。

だから、現代落語「マックで女子高生が言ってた」のオチがきれいで秀逸 という記事が話題になっていたようなので、これは要チェックと見に行った。正直なところ、期待した笑いは生まれなかった。いやまあ、笑いのツボが理解できないわけじゃない。けれど、あんまりおかしく思えなかった。

何も作者にケチをつけているのではない。むしろ、こういう才能は羨ましいなあとさえ思う。雑にかきなぐったように見える絵も、ちゃんと技術があってのことだとわかる。わざわざ「『マックで女子高生が言っていた話』というくだりは信用できず、ツイッターでよく見るテンプレートだ」と、きちんと伏線を敷いているところなんかも好ましい。けれど、どうもピンとこない。どうしてこれが話題になるほどなのかと思ってしまう。

まあ、感性が合わないのだろうと思ってそのことは忘れて皿洗いをしていたのだが、ふと、気がついた。いまひとつ、と感じたのは、どっちかといえば受け手側の問題なのだろうと。

単純なことだった。私は、何年か前にTwitterをやめた。時間がないからだ。読んでる時間もなければ、つぶやく時間もない。Twitterはおもしろかったし、いろいろ貴重な情報ももらえた。けれど、無理なものは無理だ。すっぱりと諦めた。だから、「マックで女子高生が言っていた話」を目にしたことはなかった。そりゃあ、その後にもはてなとか見てるから、全く見たことがないことはなかったかもしれない。けれど、「テンプレート」として認識してしまうほどにはそこに馴染んでいなかった。だから、「テンプレートだから偽であるという指摘に対して、テンプレートではないというのは真であるが情報の中身は偽であった」という笑いの展開がそこにあっても、「ああ、そうなの。確かにそれっておもしろいかもね」と理屈で反応するだけで、感情に訴えることが何もなかった。「ふうん、なるほどね」って。

けれどもしも、このテンプレートに引っかかったことがあったり、自分自身でこのテンプレートを使ったことがあったり、テンプレートの使用に批判的だったり、あるいはそういう批判をウザいと感じていたりというようなことがそれ以前にあったとしたら、反応は異なっていただろう。「やられた!」と思うかもしれないし、「そうそう」と頷くかもしれない。「ちがうよ!」とツッコミを入れたり「オチが読めてたよ」としたり顔でしゃべることもできたかもしれない。それは楽しいだろう。だから、そういう素地がある人々の間で話題になる。なるほど、そういうことか!

笑うのは、それなりにたいへんだ

落語で似たような話はないだろうか。この話と同じような構造をもったお題は、たぶんない。それは、「こういう定型的な言い方をすればそれは嘘である」というテンプレートが、たぶん古典落語の時代にはないからだろう。そういうテンプレートがあるとすればおそらくそれは遊郭の中でのことで、つまり落語としては郭話だろう。ただ、(子どもの落語につきあって聞いてきたという経緯からわかるように)私はそっちには詳しくない。そして、そういう話は、テンプレートの共有が失われるとともに笑いを失う。生き残っていたとしても、笑いのポイントは別のものに変質しているのではないだろうか。

ただし、テンプレートが笑いの重要な要素であるというだけの類似なら、これは現代まで生き残っている落語の中にも多数見られる。たとえば、「子ほめ」という落語がある。これは、「子どもを褒めるときにはこういう褒め方をすればいい」というテンプレートを聞いた男が、さんざんしくじるお話。似たようなものに「牛ほめ」があるし、「本膳」にいたっては言葉だけでなく礼式作法までをテンプレートとして、そこからの逸脱を笑っている。

あるいは、情報の真偽を笑いの要素にする落語もある。「阿弥陀池」という上方落語は、これは明治時代の創作であるわけだが、新聞を読まない長屋の男を、それなりに教養があると思われるご隠居が偽情報でいたぶる、という出だしになっている。この冒頭部分はそれこそ「マックで女子高生が言っていた話」と重なる。嘘だか本当だかわからないような話に男がすっかりのめり込んでしまったところを見計らって、「というニワカやけど、ようできてるやろ」と、それが嘘であったことをバラして、そして、「そういうふうに騙されたなかったら新聞を読め」と、当時のニューメディアであった新聞の価値を説く、という展開になっている。なお、ここではご隠居は「男を騙す」ということよりは、「自分が考えたちょっと笑える話を自慢したい」ということに意識があるように思う。そういう意味でも、非常にTwitter的だ。ついでに言うならこの噺を東京に移植した「新聞記事」では、もっと無教養な男を小馬鹿にするような雰囲気で語られることが多いような気がしていて、ちょっと嫌だ。ま、好みかもしれないけれど。

この「阿弥陀池」、戦争未亡人のようないかにも当時の新聞ネタにありそうな話題を扱っていて、おそらく初演時にはもっと笑えたのではないかと思う。新聞に対するイメージもだいぶと変化した現代では、「新聞を読め」はもちろん、「新聞いうたら菜っ葉を包むもんでっしゃろ」みたいなセリフも、ちがった響きをもつ。このように、背景になる情報をどれだけ日常的に共有しているのかということによって、どれだけ笑えるかが異なってくる。なあんだ、やっぱり「マックで女子高生が…」と基本的には同じ。笑える人には笑えるし、笑えない人には笑えない。

話が通じないのはさみしいけれど

なんだかさみしいような気がするのは、やっぱり笑うときには一緒に笑いたいって思うからだろう。そういうのは、ベタベタな集団意識であり、狎れ合いであり、排他的で危険なものなのかもしれない。けれど、自分が大笑いしたときにはやっぱり同じように笑ってくれる人がいて欲しいし、みんなが大笑いしているときに笑えないのは輪から閉めだされたような気分になる。それが錯覚だってことは理屈ではわかるけれど、人間は理屈だけで生きているわけじゃない。さみしいものは、さみしい。

 

ただ、そんなさみしさには、無理に対処しようとしないほうがいいのかもしれない。押し殺してしまったり、ごまかしてしまったり、しないほうがいいのかもしれない。そうじゃなくて、ただ、「さみしいなあ」って思いながら、それを抱え込んでおくことも、ひょっとしたらだいじなのかもしれない。いっしょに笑えなくても、いつか理解できる日がくるかもしれない。

天下国家を論じて、「これが正義だ」みたいな言い方をする人に対して、「そうじゃなくって、私はしんどいんですよ」と訴えたいのに全く話がかみ合わない。事実に反していることや論理が破綻していることを説いても、そういう文化を共有していない人には理解できない。そんなとき、怒りを通り越すとさみしくなる。自分とは全く話の通じない世界が存在するのだということに、とてつもない孤独を覚える。

だが、そこで投げ出すべきではないのだろう。そのさみしさを忘れずに、ときどき考える。ああでもない、こうでもないと考える。そしたらいつか、なにかがわかるかもしれない。

この歌の題名も、私には長いこと意味がわからなかった。理屈で説明されても、いまひとつ理解できなかった。lotは「たくさん」であると同時に「貨車」でもあり、貨車がたくさんつながったものが「列車」であり、その列車に無賃乗車しているのが主人公のホーボーであるという構造がわかっても、「だから?」でしかなかった。ずいぶん長いことかかった。やっぱり泣くのはもっとたいへんだ。

www.youtube.com

なんで「記録タイマー」をアップグレードする?

「記録タイマー」と聞いて、「ああ、あれだな」とピンとくる人は、おそらく理科教員だろう。塾講師、家庭教師、学参編集者、私のような教育寄生業界の人間かもしれない。ほとんどの人は「記録タイマー」と聞いても、「えっと、ストップウォッチのこと?」ぐらいにしか思わないのではないだろうか。ただし、この半世紀の間に義務教育を終了した人(つまりほとんどの人)は、必ず1回はこの装置に触れたか、あるいは少なくとも教科書上でそれが扱われているのを目にしたはず。紙テープを並べたグラフ問題を解いて高校に合格した人だって少なくないはずだ。だが、たいていは忘れている。

   ●記録タイマーはこういうもの → ケニス株式会社 - 理科なび - 教材の紹介

忘れたっていいようなことだ。もちろん、物理学を学ぶ上で、速度と加速度について実地に調べる体験は重要だ。それをじっくり考察し、ガリレオ・ガリレイニュートンが何に悩んだのかを追体験してみることは、自分自身の経験があってこそ活きてくる。そういう意味では、実験は大切だろう。だけど、いまどき記録タイマー? 私は、しばらくのブランクがあってこの業界に復帰したとき、いまだに記録タイマーが堂々と使われているのに驚いた。「ま、保守的な教育業界なんてそんなもんだろう」とようやく悪慣れしてきた頃に、今度は驚きを通り越して呆れるようなことに気がついた。なんと、今年度から部分改訂された理科教科書に登場する記録タイマーがアップグレードされている!

記録タイマーを使った実験は、もともと非常に評判がわるい。たとえば、

記録タイマーのような機器を使った授業では、カードの切り貼りというような煩雑な作業によって授業の本質を見失いがちであり、最も大切な「力学概念の形成・理解」が妨げられかねないのである。

力と運動の素朴概念を転換するIT活用法の有効性: 新潟大学学術リポジトリ Nuar

のように、まずは「一定の打点数で切り取った紙テープの長さが速さを表す」という理屈をわかってもらうだけでも大変で、それ以前に、東日本と西日本で交流の周波数がちがう話とか電磁石が交流によって振動する理屈とか、それは確かに中学理科の範囲ではあるのだけれど当面の力学とは全く無関係なところをいちいち確認しなければならず、肝心の速度と加速度の概念までたどり着く前に生徒が疲弊してしまう(もっというなら中学校では加速度概念は直接には触れてはならず、その割にそこを抜きにしては無意味な力と速度変化の関係を学ばせるというアクロバットをやらねばならず、教師の側が疲弊する)。

それでももちろん、ここは物理学で最も重要なところだから、どんな困難があろうと取り組まねばならない。とはいえ、もっとマシな方法がないのかなあ、と思っていた。そしたら、なんとこんな使いにくい器具をいまどき使っているのは日本ぐらいなんじゃない?と気づかせてくれる機会があった。それはインターナショナル・スクールの生徒を教えたときのことで、なんとその学校では、同じ物理の内容を教えるのに、iPhoneのアプリを使っていた! もう3年ぐらい前のことだ。

だから私は、「ああ、やっぱりなあ。みんな記録タイマーなんて使いにくいと思ってたんだ。そりゃ、カメラ付きのコンピュータであるiPhoneなら、もっと直観的な理解ができるよなあ。時代は進むよ」と納得していた。そしたら、教科書から消えないどころか、なんと、この使いにくい記録タイマーを、使いにくい本質はそのままに、どうでもいいデジタル表示とか、あり得ない方向に進化させている。

 

いったいこの記録タイマー、どこからきたものか。調べてみると、これは1960年代に「スプートニク・ショック」の余波で生まれたものらしい。詳細は、このあたりの論文に書いてある。私は生徒には根拠もなく、「戦後のモノのないときに学校の理科の先生が苦労して手作りしたんだよ」と教えていたのだが、まあちょっとニュアンスはちがっていたようだ。

ci.nii.ac.jp

ci.nii.ac.jp

アメリカの理科教育プロジェクト - 加藤貞夫

おおまかにまとめると、日本では戦後、理科教育をどのように進めていくべきか、いろいろな議論があった。戦後すぐの教育改革ではまず枠組みはできたが、学習指導要領はおおまかな方向だけを示すもので、現在のもののような基準ではない。各地でさまざまな取り組みが行われ、その中から効果のあったものが広く取り入れられるという試行錯誤の時代があった。学習指導要領が現在のように教育現場の指導内容を細かく規定するようになったのは1970年代に入ってからである。そんな中で、理科教育のひとつの模範とされたのはアメリカのPhysical Science Study Committee(PSSC)の理科教育であった。記録タイマーの原型はそこにあった。けれど、これは高価であり、すぐに現場に導入できない。そこで、1960年代なかばに北海道の教育関係者(北海道理科教育センター指導員)が工夫して交流ブザーの原理を応用し、安価でしかも場合によっては自作可能な記録タイマーを開発した。これが広く用いられるようになった、ということらしい。

こういった歴史的経緯を目にすると、学校教師の悪口ばっかり行ってる自分が恥ずかしくなる。戦後から1960年代ぐらいまでの時期には物資も資金も足りないのがあたりまえであり、理科教師が実験器具を自作して補うのは珍しくなかったようだ。実際、私は若いころ理科教師向けの手引書の編集を手伝ったことがあるのだが、1980年代のその頃でさえ、いろいろな自作ノウハウが満載されていた。子どもの頃に読んだ1960年代の面影を残した「理科工作図鑑」のような本にも、いまにして思えば理科教師の工夫のあとが大量に記載されていた。記録タイマーが導入されたのは、その教育効果以上に、それが安価で手軽に導入可能であることが大きかった。それはアルコールランプやガスバーナーといった多くの理科器具の学校への導入と同じことだ。限られた資源と目的の間でできる限りの努力をしたこの時代の教育関係者は、賞賛されるべきだろう。

だがしかし、そうやって、「低予算でもできる」記録タイマー、交流電源を利用する裏ワザで実現した記録タイマーを、いつまでも使い続ける必要はあるのだろうか? 使いにくいことははっきりしている。速度と加速度を把握する上でベストの方法でないことは明らかだ。代替案がなければしかたない。しかし、現代では、同様に低価格で実現できる代替案はいくらでもある。だというのに、なぜ記録タイマーそのものをアップグレードする?

 

理由は、もう呆れるぐらいにはっきりしている。もしも新しい時代にふさわしいIT化された実験器具を持ち込んだとしたら、これまでに積み上げてきた紙テープを使った数多くの試験問題が全て使えなくなる。いったいどうやってテストしたらいい? 教材屋は儲からなくなる。せっかく半世紀にわたって積み上げてきた蓄積が、すべて失われる。そういうことができるわけがない、ということなのだろう。

アホなことやなあと思う。本当に物理をわからせたかったら、使える手段は何でも使うべきだ。だが、記録タイマーと紙テープのタイプの受験問題が定着してしまったら、だれもそこに手をつけたがらない。そして、この手のテスト問題は、実につまらない。およそ力学の本質とは関係がなかったり関係が低い実験器具の使い方みたいな小問をいくつか並べ、本質的な部分は理解しなくても暗記で解けてしまう程度のつまらない設問に終始することが多い。たまに「おっ、これは本質をついてる」みたいなテスト問題があったら、実につまらない解説がついていたりする。そういう観点でしか学問を見ることができなくなっているのが、この国の理科教育だ、と嘆かざるを得ない。

記録タイマーのアップグレードは、私にはなんだか電車があたりまえの時代に蒸気機関車の改良をやっているような気がしてしかたない。あるいは、Bluetooth接続の時代にSCSI機器をメンテするようなものか。そりゃあ、無価値だとは言わない。けれど、実用性からいったら、他に資源を向けるほうがよっぽどいいんじゃないだろうか。

理科の教科書の改訂版が出るたびに思う。もうちょっと、時代の変化にくっついた仕事をしろよと。念のために言うと、これは編集者の責任ではない。編集者は、現場の声をできるだけ教科書に反映させようとする。なにせ、そこがお客様なのだから。だから、教育現場がもっと変わらなきゃ。いや、変化をもっと、政策に反映させなければ。最終的に教科書は文部科学省がチェックしてるんだからね。

禁書がある国にロクなことはない

バナナはおやつに入りますか?

この文明化された日本という国に、禁書が存在する。驚いた、と言いたいところだが、驚くことでもないかもしれない。

togetter.com

学校というところは、実に奇妙なことをやってくれる。以前から、そういう話はあった。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

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私が教えている生徒には、「ラノベを禁止された」という話は聞いたことがない。だが、そういう話があっても不思議ではない雰囲気がある。実に細かいことにうるさい。それはもう、学校(特に中学校)というところの独特の文化。それはそれでかなり問題だと思っている。中学生の親として、ことあるごとに矛盾を指摘してやろうと思っていたら、当の中学生が学校の縛りに嫌気が差してやめてしまった。そのぐらいに、奇妙な規則を平気でつくるのが中学校。今回の話は小学校だけれど、似たようなものか。

だが、このラノベ禁止問題は、その学校の奇妙さを超えて、別問題と呼べるぐらいに深刻なことだと感じた。なぜなら、それは当の学校の社会科、やがて入る中学校で教える公民に出てくる「精神の自由」にかかわってくる問題だからだ。

ラノベがしょうもないとか、そういう話は実は本質ではない。しょうもないかどうかということでいえば、ラノベの中にはしょうもないものもある。実にくだらん話はザラにあるし、語り口の稚拙さが鼻についてとても読めないものもいくらでもある。けれど、けっこうおもしろく読めるもの、これは傑作だなと感心してしまうものもある。なんだ、それはラノベに限らない。一般の小説だって、古典と言われる作品だって、ひどいものもあれば、優れたものもある(これに関しては別途書こうと思ってるのだが、たとえば芭蕉の散文は悪文の見本みたいなものだったりする)。そういう玉石混交な世界のなかでいいものを見分けていく力が重要であって、質が悪いからといって一律な排除をすればいいというものではない。そんなことをしたら読むものがなくなる。

だから、問題の本質はラノベの品質ではない。そうではなく、大人が勝手に「これは読んではいけません」と決めることだ。「大人が」と、学校の問題に矮小化することもない。誰かが誰かの読むべきものを決めるような世界に、ロクなことは起こらない。

たしかにこれは、学校内だけのことであるのかもしれない。子どもたちは、読みたければ家に帰って読む自由まで制限はされていない。しかし、禁止はすなわち「ダメな本」というレッテルを貼ることであり、しかもそれが学校という公的な権威によって貼られるわけである。それを「学校以外では自由だから」みたいにいうのはおかしなことだ。校外でかまわないものがなぜ学校内ではダメなのか、その矛盾を合理的に説明できるとは思えない。

 歴史に学ぶ禁書の意味

この時代、自由な世界に禁書は存在するのだろうか。存在する。たとえば、ドイツではヒトラー著作が実質的に禁書扱いになってきた。これは著作権をコントロールすることで発刊ができないようにしてきたわけであり、法律による明示的な禁止ではない。そして、この禁書扱いに関しては、様々な議論が存在する。それはそうだろう。その制約も、最近には解かれてしまった。

www.huffingtonpost.jp

だが、「中身がしょうもないから」ということで禁書目録をつくるような国は、いったいあるのだろうか。日本では、伝統的にそういうことをやってきた。江戸時代、幕府は何度も風紀を乱すからという理由で出版物を規制してきた。そうやって規制された草子もののなかには、確かにくだらないものもあっただろう。だが、そうすることで言論がおさえられてきたのも事実だ。そのおかげで、幕府は350年もの間、安泰を貪った。実にけっこうなことだ。くだらないものを規制することは、そうでないものをも抑えこむ絶好の口実になる。これは高校社会科の授業で教えるところ。

出版物に制限を加えることは検閲にあたり、これは憲法で明示的に禁止されている。学校内でラノベを読むことを禁止するのは何も出版そのものを禁止するのではないから、どっからどうみても検閲には全くあたらない。けれど、「何を読むべきか、読むべきでないか」を権威のある側が規定しようという発想は、めぐりめぐって検閲につながるものだ。これを「基本的人権」の一部として「自由権」のうちの「精神の自由」を教える(そしてこれはテストによく出る!)学校がやるというのは、どういう神経なのだろうか?

乱読こそ、最高の読書体験

私は、子どもたちの成長にとって最も重要なことのひとつは、読書だと思っている(あとは野菜とか運動とか……)。そして、読書習慣をつけようと思うときにいちばん重要なのは、乱読をさせることだ。あえて選別を加えず、本の山の中に放り込む。最初は「ちょっとそれはどうなの?」というようなものを手にとっていたような子どもが、やがて力をつけてきて本当に価値のある一冊を選び出せるようになる。

だから、私はたとえば小学生、中学生に本を読ませようと思ったら、かばんの中に20冊ぐらい、手当たりしだいに選んだ本を放り込んで持っていく。そして、たいていそのなかには、何冊かのラノベも入っている。それをきっかけに、だんだんと読書の世界にはまっていってもらえればいい。「気に入ったのがあったら貸してあげるから、学校の読書の時間にでも読んだらいい」とアドバイスする。それを禁止されたら、私の商売はあがったりだ。

なんか、まとまらない文になった。こんなひどい文を書いてしまうのは、やっぱりラノベなんか読んでるからだろうか。いや、たぶん奥の細道の講釈をやり過ぎたからにちがいない。あっ、それはまた別の話だった。

AIによる投資は未来をつくるのか? - あるいは、資本主義の言い訳を聞きたい

AIで株って?

株式投資の現場に実際に人工知能が導入されているらしいという報道をしばらく前に聞いて、いろいろ考えていた。これは機関投資家がやっていることだと思っていたのだが、一般投資家にもその利用が広がるようだ。

www.nikkei.com

そしてさらに、そういった取引に何らかの規制が導入されるらしいというニュースもあった。そういうことだから、先日来の考えはまだ生煮えだけど、書いておこうか。

b.hatena.ne.jp

株の取引にAIはぴったりだと思う、私は。世間には「こうやったら株で儲かる!」みたいな話が馬券必勝法と同じくらいたくさん転がっているわけだが、なにも必勝法なんて使わなくても、投資による成長率のほうが平均的には労働による成長率よりも大きいことは既に歴史的に証明されている。ただ、それでも局面ごとの勝ち負けはあるので、そこには「勝ち方」みたいなのがあってもかまわない。

そうはいいながら、煮詰めてしまえば話は単純で、「安いときに買って高いときに売る」だけが、株取引の基本。そこにいろいろ金融工学的ななんやかやが入ってきて見かけはややこしいのだけど(だから私のようなシロウトはヤケドするのだけど)、安いときに買って高いときに売りさえすれば、株は儲かる。どこまでもシンプルな原則。

その原則を実地に応用する際に、なにを根拠に「いまこれは安い」「これは高い」を判断するのかで、いろいろな流儀が生まれる。ある人は企業の業績を分析するし、ある人は市場内での変動だけを見る。無数のバリエーションがある。だが、いずれにせよ何らかのデータを元に未来予測をしている。その予測式は、過去の履歴から学習したものだ。だとすれば、これは自己学習機能を備えた近年のAIにとってうってつけの場ではないか。なにも人間の力で不完全な分析をする必要もない。そして重要なことは、機械は休まない、ということ。24時間市場に張り付いてデータを分析し続けることが可能だし、ちょっとコーヒーを飲みに行っていた間に重要な取引を逃してしまうということもない。ここが買いだ、いまが売りだと判断すれば、コンマ以下の秒数で発注できる。当然取引は高速化する。「超高速取引」は、機械による投資判断から必然的に生まれる。

何のために株やるの? 

時代の必然の流れだと思う。そのこと自体に関しては、批判もなにもない。ただ、そうなると人間の判断による投資っていうのは、機械に対しては勝ち目がなくなる。もちろん、人間の判断が重要になる局面は残るだろう。たとえばIPO時の値付けに関しては、おそらく人間のセンチメントがどこまでも重要だ。一品モノの投資に関しては、過去の学習はあんまり役に立たない。しかし、通常の「上がった、下がった」に一喜一憂する株式相場を勝ち抜けるのは、やはり人間ではなく機械だろう。上記記事で「東京証券取引所の注文のおよそ7割を占めるまで増加しています。」と書かれているのもムベなるかな、である。そのほうが有利だと踏むから多くの機関投資家は機械を採用する。機械化されないのは個人ベースの資産運用的な長期投資か、政策的に行われる空気を無視した投資ぐらいなんじゃないだろうか。

つまり、株式市況は、これからどんどん機械同士の対戦によってつくられていくことになる。そして、何故かそれは成立してしまう。というのも、機械は、相手が人間であろうが機械であろうが、それが市場というルールに則って行われるゲームであれば、相手を選ばない。これは、将棋ソフト同士の対戦が成立するのとよく似ている。将棋ソフトはもともと人間が遊ぶためにつくられたものだが、将棋ソフト同士を対戦させてもそこに勝負が生まれていく。やってるマシンはおもしろいと思っているのかどうかは知らないが、それを見ている人間からすれば、名人同士の対戦に思えてくる。

だから、株式市場が基本的にそういった機械同士の取引によって成立する場になっていく、というのは、ごく当然のことだろう。となると、必然的に浮上する疑問は、「いったいそれは何のためにやってるの?」ということだ。将棋ソフトの対戦は、見ていておもしろいかもしれない。株式ゲームはそうではない。大規模なシステムを動かして、金儲けゲームをやって、でも、それは何のため?

株式市場が何のためにあるのかを投資家に尋ねたら、もっともらしい回答をくれる。株式市場は、資金調達の場である。投資を広く公開することにより、個人から企業まで、一株から数百万株まで、広範囲に出資を求めることができる。そうやって集まった資本によって、企業は資金を調達する。その資金によって事業がまわり、新たな事業が生まれ、そして社会が豊かになっていく。株式市場は、あなたの資産を運用する場である。それは、出資するあなたにとってもメリットがあるし、社会全体に対する貢献にもなる。これが、資本主義の模範解答だろう。少なくとも高校の社会科だったら、この程度の解答をしておけばマルはもらえるはず。

これに対して、「いや、資金調達っていったって、それは株式公開時とか増資時とか、あんまりしょっちゅうあるわけではない場面だけのことでしょう?」みたいなツッコミを入れても、そこにはちゃんと回答が用意されている。まずなによりも、市場が活性化していないとそういった局面でも資金は集まらない。既存の株が常に市場で評価されているからこそ企業価値が定まり、例えば増資時の株価がつく。株式市場内だけでなく、例えば社債の発行、例えば銀行からの借り入れに際しても、株価を参照した企業価値が信用のもとになる。このような価値を生み出しているのは株式市場の活動であり、そこに参加することは経済システムを動かす立派な行為であると。

で、それが正しいかどうか(おそらく正しいのだろう)はさておいて、そのようなタテマエを受け入れるとする。「市場が全て正しい」という前提に立てば、なるほど、資本主義はそんなふうにできている。ある意味、うまくまわっている。そして、その上で考えれば、AIが投資ゲームをやることには十分な意味がある。投資によって資金を回すことで企業が資金を調達し、信用価値を定めることが株式市場の役割なのだとしたら、その仕組みが人間によってまわろうが機械によってまわろうが、別にとやかくいう必要はない。

富が富を呼ぶ仕組みこそ、資本主義

ここで、奇妙なことに気がつく。だったら、投資家の得ている利益は、どういう名目で正当化されるのだろうかと? 投資という行動が不労所得であり、単純に「持てる者」の特権に過ぎないのではないかというのは、相当に古くからの言説だ。かつて王侯貴族や組織宗教が特権を貪っていたように、資本家も単なる特権階級ではないのか? これに対する投資家の言い分は、いや、自分たちも重要な社会的役割を担っている、というものだった。株式市場(に限らないが、あらゆる投資行動)は、経済活動に必須の資金を潤滑に回す活動だ。そこに、自らリスクを引き受けて資金を投じることは、外見上は働いていないように見えても実は高度な精神活動を必要とする労働である。たまたま自分は資金を持っているという立場にあるかもしれないが、その資金をきちんと社会に提供することで、人々の豊かさの増進に貢献している。それは、労働者が働いて賃金をもらう活動と、本質的には変わらない。立場がちがうだけで同じひとつの社会を創りあげている同士ではないか、というのが、「持てる者」の言い分だろう。

だが、その投資家の労働は、実は機械のほうがうまくできる。AIのほうが、たぶん株式市場では正確な判断ができる。そうじゃなきゃ、「証券取引所の注文のおよそ7割を占める」なんてことを、優秀な人々がやるわけはない。そして、リスクは複雑な金融工学のなかでヘッジされる。それに失敗した典型的な例はリーマンショックだが、優秀なコンピュータを導入することで、いつかリスクフリーな投資が生まれることも夢ではない。そこに至るまでには何度かの悲劇が繰り返されるかもしれないが、AI投資の行き着く先は、クラッシュを回避する理想的な株式市場ということになるはず。

そしてそうなったら、投資家が主張する「リスクを引き受けた精神活動」という側面は、消失する。リスクも精神活動も、全部マシンが引き受けてくれる。そのとき、投資家には確かに「資本を提供する」という社会的役割は残るのかもしれないが、「それって単に金を持ってるからじゃないの?」という批判を防ぐ盾は残っていない。単純に、「持てる者が、富を持っているという理由だけで、さらに富を受け取る」という、身も蓋もない資本主義の現実がそこに現れる。

革命!なのか?

「だから資本家を倒せ!」みたいなことを叫ぶつもりは毛頭ない。ただ、それに対して資本主義はどういう答えを出すのだろうかと、そこには非常に興味がある。そして、ついでにいうなら社会主義者がこれに対してどういうことを言い出すのかにも、興味がある。

ソビエト社会主義に無理があったのは(無数の理由があるだろうが)、ひとつには計画経済というものの硬直性だ。そこには一直線上の生産力増加はあり得るかもしれないが、イノベーションは困難だ。社会を発展させていく弁証法的な仕掛けがない。資本主義は、自由な創業と自由な事業展開を許すことによって、思いもよらなかった製品、思いがけないサービス、想像できなかった事業の発展を促す。

もしもそういった資本主義的経済を支えるものが株式市場に代表される投資マーケットであるというのであれば、ここを健全に保つことは非常に重要だろう。だが、そこから生み出される富をどうするのかということは、完全に別問題になってくる。

社会主義といえば計画経済みたいな連想を、実際にソビエトが実在した時代を知っている私みたいな古い人間はすぐにしてしまうのだが、実は社会主義が問題にしたのは(ま、いろんな社会主義があるが)、経済運営の方法ではない。そうではなく、「資本家と労働者の階級闘争」である(らしい。すみません、マルクスエンゲルス全集読んでません)。つまり、最近の言い方でいえば格差と貧困の問題。その本質は、「富める者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなる」経済の在り方。それを一気に解決してしまうため、「生産手段を全て国有化してしまえ!」と乱暴なことをやったのがソビエト社会主義。だが、それだけが方法ではあるまい。

たとえば、株式市場に流れる資金を全て公共のものにしてしまったらどうだろう。もしも現在の市場でそんなことをやったら、たちまち市場はガタガタになる。市場というものは、多くのプレーヤーが参加することによって、「見えざる手」が働き、正常に機能する。それが信用を担保する。政策的な市場介入は百害あって一利なしというのは、ほぼだれもが認めるところ。

だが、プレーヤーが複数のAIだったらどうだろう。そうなる流れはもうできているのだ。AIに対して資金を渡すだけで人間が余分な判断をしないのなら、株式市場の公平性は保たれる。そして、出資者はその利益だけを受け取れる。それが一部の「資本家」なら批判もされようが、公的な資金で、その果実を全体が共有できるのであれば、それは一種の理想的な社会主義にならないか?

バーニー・サンダース候補ウォール街の解体を叫んだそうだが、解体する必要はなくて、単に接収すればそれで済むのかもしれない。そのときに、「持てる人々」は、どう抵抗するのだろう。どういう大義を持ち出すのだろう。ものすごく、興味がある。

ま、日和見主義者の私としては、あんまり過激な革命なんてのは願い下げにしたい。ただ、どっちにしても革命は起こる。というよりも、いま、今日のこの日が、革命の真っ最中だということからは逃れられない。急激な技術の進歩によって何もかも変わっていく。IT革命という名で始まったひとつの革命は、まだまだ序章が終わったばかりだ。ここからどれほどの激変が続くのか、興味とブクマの尽きるところはない。

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参考(になるかどうかわからないけど):

hbol.jp

hbol.jp

 

毎日新聞 AI革命
/4 株価を予測、投資指示 銀行では顧客対応

 

www.excite.co.jp

diamond.jp

www.atpress.ne.jp 

iotnews.jp