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シアワセの容相

あしたはこっちだ

科学でもって叩く人々に - 「迷信」は正しい罵詈雑言か?

人間には2種類があり、迷信には3種類がある

どうにも「科学」の名前を借りた(あるいは「科学的」かどうかを論拠にした)批判的な言葉がしんどくてしかたない。いや、まあ私だって、そういうモノの言い方をすることはある。基本的に、ケンカというのは、ケンカしたい気持ちが先にあるものであって、理由なんかは後からつけるものだ。その理由として「科学」は使いやすい。だから、むかっ腹がたったときには、後先も考えずに「非科学的だ!」みたいな批判をする。そして、後味のわるい思いをする。

「非科学的」な相手を罵倒する文句として最も使いやすい言葉のひとつが「迷信」だ。この「迷信」、よく考えてみれば3種類あることがわかる。まあ、分類のしかたなんて恣意的に立てられるからこれで完璧とは言わないけれど。

  1. 未だ科学的に証明されていないが「効果がある」と一部で信じられている慣習
  2. かつては科学的(もしくはそれに近い)根拠があって効果があるとされていたが、その後の反証で効果がないことがわかったのに、未だに行われている慣習
  3. そもそも最初っから根拠がなく、かつ、根拠がないことが実施している人々の間でも概ね合意されている慣習。

「1.」に関しては、かえって科学的な研究の対象になっていることがけっこう多い。たとえば、私は昔、ある健康食品会社の仕事をしていたのだが、この会社はある健康茶の販売を主な事業にしていた。これが事業として成り立ったのは、もともと科学的な根拠も何もなかったその葉っぱを煎じて飲むというある地方の習慣を科学的に研究した学者の論文があったからだ。そういった論文が1本あれば、その後に研究が続いていく。いまではこの葉っぱの効用には、それなりの科学的エビデンスがある。ただし、そのエビデンスはそこまで強いものでもないいので、トクホなりなんなりの認定を受けることはできない。おそらく、その程度のエビデンスで「効果がある」といわれている食品は、山ほどある。それでも、「1.」に属するタイプの「迷信」は、科学的研究が積み重なっていくことで、実際に効果が確認される可能性をもっている。もちろん、科学的研究の果てに「効果がありませんでした」となる場合もある。だが、「科学的根拠がない」ことを「効果がない」こととイコールで結びつけることはできない。「科学的根拠がない」ことは、あくまで「効果があると断言してはならないし、効果がない可能性も十分にあると考えなければならない」ことを意味するだけ。

次に「2.」に関しては、既に「効果がない」あるいは「効果が低い」ことが証明されているわけで、これは「科学的根拠がない」というよりはむしろ「効かないという科学的根拠がある」といったほうがいい。ただし、これについてはあまり叩き過ぎると今度は自分の墓穴を掘ることになるということはわきまえておかなければならない。なにしろ、かつての科学が格下げされたこれら「迷信」の存在は、現在の科学がやがて「迷信」に格下げされる可能性を示す証拠でもあるわけだから(こちらの記事も参照)。

そして、「2.」に関して厄介なのは、いったんエビデンス付きで否定された効能が、またひっくりがえる可能性も含んでいること。数多くはないが、いったん捨て去られた古い治療法が技術の進歩とともに新たなエビデンスを伴って復活する例はないわけではない。さらに、相矛盾するエビデンスが同時に存在するような事例もあって、なかなかにややこしい。科学的なエビデンスをそれぞれがもっている二派が存在するような場合、どちらかに立って相手方を「迷信」と決めつけることは、ヤケドのもと。

完全に問題外なのは「3.」だ。これはやっている当人が迷信だと認めているのだから、どこまでいっても迷信であり、そこに議論の余地はない。たとえば節分の鰯の頭。あんなもので健康になるとは、誰も信じてはいない。けれど、「無病息災を願って鰯の頭をヒイラギに飾ります」みたいなことは、NHKでも言うだろう。「効果がない」という認識が共有されているものに関しては、あえて効果があるようなことを書いたって許される。「ゲン担ぎ」もそうで、そこに科学的なエビデンスを求めようという人なんてふつうはいない。それでも、勝負のときには「これでなければ」というこだわりを捨てない人々がいる。誰もそれを「迷信だ」と非難しないが、それは「まあ、勝手にやっといてくれ」の領域だからだろう。ヒットが続くように同じパンツを3日履き続けても、まあだれも迷惑しないわけだから。

迷信を科学する

ただ、この「3.」に関しても、それでは科学的な研究があり得ないのかといえば、実はそんなことはない。科学の世界には、ふつうじゃない人もいるものだ。たとえば:

あたりはスポーツにおける「迷信」(ゲン担ぎ)の効果を研究した論文だし、

は、一般大学生を対象にして、「迷信」がゲームの成績に寄与することを実験で明らかにしたものである。

は、要旨しか見えないのだが、どうやら中国人の学生に対して迷信を信ずる度合いと死への不安感の相関関係を調査したものらしい。 不安は、医学においてはQOLに大きな影響を与えるものとして特に終末期医療では重視されている。ここに寄与することが科学的に証明されるのであれば、それは医療分野において大きな貢献になるだろう。

フランスパンでも凶器になるんだし…

こういう研究を見ていると、果たして「迷信」というのが正しい罵倒の言葉であるのかどうか、はなはだ疑問に思えてくる。「1.」のケースだと(たいていの伝統的慣習には科学の手が伸びているので)何らかのエビデンスが出てくるだろう。そのときには、結局はグレーゾーンの泥沼に陥るだけだ。「2.」の場合は、そのときはいいが、未来にブーメランがやってこないと言い切れない。そして「3.」の場合、「迷信けっこう。迷信だって役に立つことが科学的に証明されている」という逆襲を受けかねない。その際には、迷信的な慣習とそうでない「科学的行為」との間のベネフィットを比較する研究が必要になるわけで、たいていは水掛け論に終わってしまう。

結局のところ、科学は、科学の絶対的真実性を担保しないのだと思う。科学的な態度というのは、しょせんツールに過ぎない。そして、ツールはたいていの場合、目的を持って使われるものだ。その目的が真実の探求であるのならそれはそれで尊重されるべきだろう。しかし、目的が単純に他人を貶めることであるのなら、あるいはそこまでいかなくとも、「私の正義」をふりかざすためのものであるのなら、その科学的態度は地に堕ちたものだ。場合によっては科学的な態度が凶器になる。人を傷つける道具になる。それは、本当に正しいことなのだろうか。

まあ、地に堕ちようが泥にまみれようが、正義に訴えたいときはある。だが、そのときは、それが決して客観的なものではないことを肝に銘ずべきだ。たとえそのときに使っている言葉が厳密に科学的なものであったとしても。たとえば、私がいまやっているのは、(あんまり科学的とはいえないかもしれないが)、科学の論文を引っ張り出してきて、科学で人を叩くことを批判すること。こういうやりかたって、絶対にフェアじゃないよね。

 

 

 

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