笑うのはたいへんだし、泣くのはもっとたいへんだ - 現代落語に寄せて

なんで「マックで女子高生が」が私にウケなかったのか?

中学2年生の息子、落語が趣味で、小学生の頃からあちこちでシロウトの一席を披露してきている。福祉施設の慰問とか、ローカルなイベントとかで。ただ、声変わりで思うようなパフォーマンスができないということで、この夏を最後にしばらくのお休みに入っている。大学に入ったら落研にでも入りそうなクチだが、だいたいが大学に行くつもりがあるのかどうかもわからない。何を考えているのだかさっぱり読めない男だ。

ともかくも、そんな落語好きの子どもに付き合ってきたせいで、私も少しは落語を聞いてきた。世間の落語ファンに比べたら、物の数ではない。知らない人よりは知っているが、知っている人には及びもつかないという、まあたいていのことにあてはまるような身分でしかない。それでも、少しは落語に興味がある。

だから、現代落語「マックで女子高生が言ってた」のオチがきれいで秀逸 という記事が話題になっていたようなので、これは要チェックと見に行った。正直なところ、期待した笑いは生まれなかった。いやまあ、笑いのツボが理解できないわけじゃない。けれど、あんまりおかしく思えなかった。

何も作者にケチをつけているのではない。むしろ、こういう才能は羨ましいなあとさえ思う。雑にかきなぐったように見える絵も、ちゃんと技術があってのことだとわかる。わざわざ「『マックで女子高生が言っていた話』というくだりは信用できず、ツイッターでよく見るテンプレートだ」と、きちんと伏線を敷いているところなんかも好ましい。けれど、どうもピンとこない。どうしてこれが話題になるほどなのかと思ってしまう。

まあ、感性が合わないのだろうと思ってそのことは忘れて皿洗いをしていたのだが、ふと、気がついた。いまひとつ、と感じたのは、どっちかといえば受け手側の問題なのだろうと。

単純なことだった。私は、何年か前にTwitterをやめた。時間がないからだ。読んでる時間もなければ、つぶやく時間もない。Twitterはおもしろかったし、いろいろ貴重な情報ももらえた。けれど、無理なものは無理だ。すっぱりと諦めた。だから、「マックで女子高生が言っていた話」を目にしたことはなかった。そりゃあ、その後にもはてなとか見てるから、全く見たことがないことはなかったかもしれない。けれど、「テンプレート」として認識してしまうほどにはそこに馴染んでいなかった。だから、「テンプレートだから偽であるという指摘に対して、テンプレートではないというのは真であるが情報の中身は偽であった」という笑いの展開がそこにあっても、「ああ、そうなの。確かにそれっておもしろいかもね」と理屈で反応するだけで、感情に訴えることが何もなかった。「ふうん、なるほどね」って。

けれどもしも、このテンプレートに引っかかったことがあったり、自分自身でこのテンプレートを使ったことがあったり、テンプレートの使用に批判的だったり、あるいはそういう批判をウザいと感じていたりというようなことがそれ以前にあったとしたら、反応は異なっていただろう。「やられた!」と思うかもしれないし、「そうそう」と頷くかもしれない。「ちがうよ!」とツッコミを入れたり「オチが読めてたよ」としたり顔でしゃべることもできたかもしれない。それは楽しいだろう。だから、そういう素地がある人々の間で話題になる。なるほど、そういうことか!

笑うのは、それなりにたいへんだ

落語で似たような話はないだろうか。この話と同じような構造をもったお題は、たぶんない。それは、「こういう定型的な言い方をすればそれは嘘である」というテンプレートが、たぶん古典落語の時代にはないからだろう。そういうテンプレートがあるとすればおそらくそれは遊郭の中でのことで、つまり落語としては郭話だろう。ただ、(子どもの落語につきあって聞いてきたという経緯からわかるように)私はそっちには詳しくない。そして、そういう話は、テンプレートの共有が失われるとともに笑いを失う。生き残っていたとしても、笑いのポイントは別のものに変質しているのではないだろうか。

ただし、テンプレートが笑いの重要な要素であるというだけの類似なら、これは現代まで生き残っている落語の中にも多数見られる。たとえば、「子ほめ」という落語がある。これは、「子どもを褒めるときにはこういう褒め方をすればいい」というテンプレートを聞いた男が、さんざんしくじるお話。似たようなものに「牛ほめ」があるし、「本膳」にいたっては言葉だけでなく礼式作法までをテンプレートとして、そこからの逸脱を笑っている。

あるいは、情報の真偽を笑いの要素にする落語もある。「阿弥陀池」という上方落語は、これは明治時代の創作であるわけだが、新聞を読まない長屋の男を、それなりに教養があると思われるご隠居が偽情報でいたぶる、という出だしになっている。この冒頭部分はそれこそ「マックで女子高生が言っていた話」と重なる。嘘だか本当だかわからないような話に男がすっかりのめり込んでしまったところを見計らって、「というニワカやけど、ようできてるやろ」と、それが嘘であったことをバラして、そして、「そういうふうに騙されたなかったら新聞を読め」と、当時のニューメディアであった新聞の価値を説く、という展開になっている。なお、ここではご隠居は「男を騙す」ということよりは、「自分が考えたちょっと笑える話を自慢したい」ということに意識があるように思う。そういう意味でも、非常にTwitter的だ。ついでに言うならこの噺を東京に移植した「新聞記事」では、もっと無教養な男を小馬鹿にするような雰囲気で語られることが多いような気がしていて、ちょっと嫌だ。ま、好みかもしれないけれど。

この「阿弥陀池」、戦争未亡人のようないかにも当時の新聞ネタにありそうな話題を扱っていて、おそらく初演時にはもっと笑えたのではないかと思う。新聞に対するイメージもだいぶと変化した現代では、「新聞を読め」はもちろん、「新聞いうたら菜っ葉を包むもんでっしゃろ」みたいなセリフも、ちがった響きをもつ。このように、背景になる情報をどれだけ日常的に共有しているのかということによって、どれだけ笑えるかが異なってくる。なあんだ、やっぱり「マックで女子高生が…」と基本的には同じ。笑える人には笑えるし、笑えない人には笑えない。

話が通じないのはさみしいけれど

なんだかさみしいような気がするのは、やっぱり笑うときには一緒に笑いたいって思うからだろう。そういうのは、ベタベタな集団意識であり、狎れ合いであり、排他的で危険なものなのかもしれない。けれど、自分が大笑いしたときにはやっぱり同じように笑ってくれる人がいて欲しいし、みんなが大笑いしているときに笑えないのは輪から閉めだされたような気分になる。それが錯覚だってことは理屈ではわかるけれど、人間は理屈だけで生きているわけじゃない。さみしいものは、さみしい。

 

ただ、そんなさみしさには、無理に対処しようとしないほうがいいのかもしれない。押し殺してしまったり、ごまかしてしまったり、しないほうがいいのかもしれない。そうじゃなくて、ただ、「さみしいなあ」って思いながら、それを抱え込んでおくことも、ひょっとしたらだいじなのかもしれない。いっしょに笑えなくても、いつか理解できる日がくるかもしれない。

天下国家を論じて、「これが正義だ」みたいな言い方をする人に対して、「そうじゃなくって、私はしんどいんですよ」と訴えたいのに全く話がかみ合わない。事実に反していることや論理が破綻していることを説いても、そういう文化を共有していない人には理解できない。そんなとき、怒りを通り越すとさみしくなる。自分とは全く話の通じない世界が存在するのだということに、とてつもない孤独を覚える。

だが、そこで投げ出すべきではないのだろう。そのさみしさを忘れずに、ときどき考える。ああでもない、こうでもないと考える。そしたらいつか、なにかがわかるかもしれない。

この歌の題名も、私には長いこと意味がわからなかった。理屈で説明されても、いまひとつ理解できなかった。lotは「たくさん」であると同時に「貨車」でもあり、貨車がたくさんつながったものが「列車」であり、その列車に無賃乗車しているのが主人公のホーボーであるという構造がわかっても、「だから?」でしかなかった。ずいぶん長いことかかった。やっぱり泣くのはもっとたいへんだ。

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