そんじゃ、「正義」の話でもするか ─ または、言葉は難しいという話

「普遍的な正義」はあるのか?

サンデル教授の本は読んでいない。「正義」とかあんまり興味はないので。けれど、言葉には興味、というより、商売上、やむにやまれぬ関心がある。そういう意味で、こんなブログ記事を読んで、「そういえば、そんな言葉もあったよなあ」と改めて思い返した。

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まあ、元記事そのものがそういうテーマではなのでお門違いといえばお門違いなのだが、まず、「正義」が存在するのかどうかということでは、当然、これは存在する。記事の中にも正義を振りかざす人が登場するわけで、これは間違いない。次に問題になるのは「普遍的な正義」。これについては、はっきりと著者は「普遍的な正義は存在しない」と言っているわけだが、私はここは事実誤認だと思う。「正義」が存在するのと同じくらいに、「普遍的な正義」も存在する。なぜなら、それは概念として存在するからだ。それは、この記事の中にもはっきりと読み取れてしまう。つまり、否定が自家撞着している。

どういうことか。元記事の筆者は、

正義でも悪でも道具に過ぎず、目的ではない。人々が生活の中で正義を考えた場面は少ないはず。豊かな生活をすることが最も重要な目的だろう。(中略)

目的は正義ではなく、豊かさに置いたほうがわかりやすい。

と、書いている。さて、ここの文脈の解釈で迷うのだけれど、まずは、ストレートな解釈からいく。元記事の筆者は、「正義は目的ではない」として、その上で、「目的は豊かな生活だ」と言っている。ということは、話題が「普遍的な正義の存在」から「目的」にすり替えられているので(それはそれでかまわないのだが)、いくら「目的」の話を追求してもそれで「普遍的な正義の存在」を否定することにはならない。これは著者の主張内容とは無関係に論理上、そうなってしまう。AとBを比較して「Bのほうが優れている」と論じることは、必ずしも「Aが存在しない」ということを必要としない。餃子とラーメンだったら絶対にラーメンだよ、っていう話でもって、「だから餃子はこの世から消えてなくなれ!」って言えないのと同じ。

もうひとつの解釈は、元記事の筆者が「正義とは目的である」という命題を前提にして話を進めているというもの。そうだとしたら、筆者の主張は、「正義ではなく豊かさ」なのだから、結局は、「普遍的な正義とは人々がそれぞれ豊かさを追求することだ」と主張していることになる。表面的な論理構造からはそうは読めないのだけれど、主張の内容を検討すると、どうもそういうことに落ち着くような気がする。となると、元記事の筆者は、「正義」という呼び方はひどく気に入らないのだが、やはり人類には普遍的な価値観があり、それが「豊かさの追求」だと主張しているように見える。つまり、「あなたの正義じゃなく、私の正義が正しい」と主張しているようにしか見えない。

人類社会は価値観のデパート

「正義」というのは、価値観の一種だ。そしてそれは、個人の価値観ではなく、何らかの社会で共有された価値観だ。社会のくくり方は任意にできるから、たとえばイスラム社会みたいなくくり方も、日本社会みたいなくくり方も、商人社会みたいなくくり方もできる。ネット上の「私のコミュニティ」だって社会だ。それぞれの社会にはそれぞれ共有された価値観があり、その一部としての正義がある。正義に違反すれば、社会から制裁を受けるだろう。

となると、「普遍的な正義」が存在するかどうかというのは、「普遍的な価値観が存在するかどうか」ということにかかってくる。そしてこれがなかなか難物だ。たいていの社会的価値観には、それと矛盾する価値観をもつ社会が存在する。社会的な規範にしたがうことはあらゆる社会にとって基本であるはずなのだが、それに対してさえ、「社会的規範に反抗すること」を高く評価するアメリカ社会の価値観が存在する。かつて、「子どもをたいせつにする」ということこそ普遍的な価値観ではないかと考えられたこともあった、という話を聞いたことがある。これは生物学的にいって、子孫が繁栄しない種は絶滅するという単純な理論から「ああ、そうなんだろうね」と同意を得やすい考え方だ。ところが、地球は広いもので、子殺しを是とする社会が存在することが明らかになった。必要に応じては、子孫よりもとりあえずは現在の成人を優先すべきだという価値観が特定の社会においては適応型だったわけで、こうなると、あらゆる「普遍」はあり得ないのではないか、というような話を、ずいぶんと昔に聞きかじった。

しかし! 普遍的な正義は想定できる、はず。

だがそれでも、私は人類普遍的な価値観が存在するのだろうと思っている。だから当然、その価値観の一部である「普遍的な正義」も存在する。そうでなければおかしい。なぜなら、「最大公約数」的な概念は必ず考えることができるのだし、そういった概念を拡大していけば、最後には普遍に落ち着かざるを得ないからだ。

たとえば、「人間は豊かさを追求すべきだ」というのは、異なる価値観のいくつかを包摂する公約数になり得る。「それでもあなたは、結局は人々がみんな豊かになって幸せになったらいいと思っているんでしょう?」と尋ねれば、多くの異なった価値観をもった人々が「そうだね」と答えるだろう。ただ、ではそれが普遍的なものとまで言えるかといえば、私はそうは思わない。そこまで人類の多様性をナメてはいけない。あくまで物質的な豊かさを拒む社会も存在するわけだし、そういう人々に対して、「タテマエではそういっても本当はコレが欲しいんでしょう」みたいに迫るのは価値観の押し付けでしかない。これは、「正義」を振りかざすのと何ら変わりない。失礼なだけでなく、危険。

しかし、それでもなお、「物質的な豊かさはさておいて、最終的には幸せこそがたいせつですよね」といえば、さらに多くの社会が賛同するだろう。じゃあ、「幸せ」が「普遍的」かといえば、やっぱりそれでも不足だ。それでは括りきれないところに価値観を見出す社会も必ずある。

しかしなお、それでも共通する部分を探っていけば、かならずどこかに「すべての社会」、すなわち人類全体の価値観を包摂する落とし所は見つかる。人間社会の多様性も相当なものではあるが、人間の頭の中の理屈屋のほうがきっと勝利する。論理的に証明はできないけれど、そのぐらいの小理屈は、ちょっとした学生にだって思いつくはず。

「正義」は武器だ。戦うのは嫌だ。けれど…

ただ、そうやって獲得した普遍的な価値観、その一部としての普遍的な正義は、いったい何の役に立つのだろうかということだ。すべての社会において合意されるものであれば、それを取り出して、あらためて「この正義のためにがんばりましょう!」なんて掛け声をかける必要はない。なぜならそれは、すべてのひとにとって、「あたりまえじゃないの、そんなこと」と思われるようなレベルの概念でしかなくなっているからだ。

そんなふうに考えてくると、「正義」というのは、他人を攻撃するための武器でしかないことがわかる。同じ「正義」を共有している関係では、なにも「正義」を持ち出す必要はない。「正義」とは、正義が共有できていないときに相手を変えようとして持ち出すものだ。「普遍的な正義」は存在するかもしれないが、「普遍的な正義」として意識されるものは既に普遍性をかなりの程度失っていると言わざるを得ない。そして、改めてそれを持ち出すのは、戦うためだ。その「正義」を共有しない連中を論破し、追い詰め、降参させるためだ。

なんとも露骨な話である。そして、そういうふうに考えたとき、なんで人が「これから正義の話をしよう」と改まったり、あるいは「普遍的な正義なんかない」と全力で否定に走ったりするのかがわかる。 それは戦いだ。「正義の話をする」ことで、自分の属する社会とは価値観の異なる社会に対して戦いを挑み、あるいはその「普遍性」を否定することで自分の社会を守ろうとする。正義をめぐる言説は、そういうふうに見るとわかりやすい。

では、そういう戦いをすべきではない、と私が言っているのかと思われると、それは困る。人は戦う必要があるところでは戦うのだし、ケンカが好きではない私でさえ、時には人と争う。それが「正義」ってもんじゃないのかな? ほら、自家撞着が始まった。