変わる英語、変わらない英語教育

日本の英語教育は、私が知っている過去数十年だけとっても大きく変わった。指導要領はコミュニケーション重視に大きく舵を切ったし、高校英語では科目構成そのものが大きく組み替えられた。各学校には英語を母語とするALTが配備され、小学校の間から英語に親しむこともできるようになった。けっこうなことだ。実際、私が中学生・高校生だった頃と比べたら、生徒の英語力は確実に上がっている。

けれど、日本の英語教育は変わっていない。理念や制度がどれほど時代に合わせてアップデートされようと、教室でやってることは同じだ。教師が言うのは相変わらず、「ここ。試験に出るからきっちり覚えとくように」という言葉。そして試験では、1箇所綴りを間違えただけ、単数形複数形を誤っただけ、動詞の格変化を間違えただけで、かんたんにペケがつく。部分点をくれるのは1年生の間だけ、中学2年生以降は、どんな細かなミスでもその小問の点数はゼロ。なぜなら入試で部分点評価などあり得ないからだ。高校入試、大学入試という関門を通過するためには完璧な英語がかけなければならず、あるいは文法的に完全に正しい解釈で和訳をしなければならない。そういうスタンスは、見事なほどに一貫している。

その結果として、相変わらず学校で習った英語は使えない。実用に供しようと思ったら、高校までに習ったことを基礎として、その上にもうひとつ、何らかの学びを積まなければならない。高校まで6年間勉強したことだけではほぼ無意味、というのが、偽らざる日本の英語教育の実情。それは、あくまで「正しい英語」にこだわった代償とも言えるだろう。

振り返ってみて、私たちは本当に正しい日本語を毎日使っているだろうか。けっこう適当に、いい加減に、「このぐらいでわかってくれるだろう」的に、感覚で使っている。考えてみたら文法的におかしい言い回しなんて、一日のうちに何十回でもやっている。それでも、そんなふうに使い続けていたら、日本語には堪能になる。正確な日本語、美しい日本語だって、書けるようになる。味わえるようになる。

英語でも同じことだ。通じればいいレベルで使い続けることが肝心。単数形複数形をまちがっても、冠詞を付け忘れても、動詞の語尾がおかしくても、コミュニケーションをとることはできる。もちろん、それは「てにをは」のおかしな日本語と同じように奇妙に聞こえるはずだ。だが、そういう日本語でも通じるし、ときには「あ、そこは『が』じゃなくて『は』を使うんですよ」と訂正してもらえることさえある。まちがって使うことには、何も言わないことに比べたらはるかに大きな価値がある。

だから、本当に使える英語を身につけさせたいのなら、少なくとも主語と動詞がきちんと配置されている英文については積極的に評価していくべきだ。その上で、「ここは三人称だから動詞の語尾にsをつけといてね」とか、細かいところが気になったらそれをアドバイスしておけばいい。そうすれば、比較的短時間で使える英語が身につく。実際、指導要領をよく読めばそういう方向でやったほうがいいんじゃないかという解釈だってできるはず。だが、そういうことはしない。伝統は、かくも強固。

 

いつも思っているこういうことをなんで改めて書こうと思ったかというと、あまりにも変わらない英語教育を続けていると、そのうち英語のほうでどんどん変わってしまうぞ、って思ったから。ちょうど、平安時代の外国語教育であった漢籍を読む技術が固定化してしまった結果、中国の古典を解釈することはできるが時代に合わせた中国語が使えなくなってしまった江戸時代の日本人のように、変な伝統は本質をかんたんに歪めてしまう。

英語がどんどん変わるというのは、英語商売をやっていると肌身で感じる。たとえば、調べものをしていたときにたまたま出会ったこんな記事を読んだとき。

www.merriam-webster.com

この記事によれば、otherという単語を動詞として使う用法が最近現れている、というものだ。嘘だろう、これは名詞か、それとも形容詞でしかないはず。そう思っても、実際に用例が紹介されている。

記事によればこれはもともと社会学的な文脈から発生した用法らしい。「その他の」から転じて、「文化が根本的にちがうものとして扱う」という意味に用いられる、というもの。「部外化する」とでも訳せばいいかもしれないが、実際に訳す必要が生じたときにこれはもっと深く検討する必要があるだろう。

さらにこの記事では、形容詞としてのotherに、「異様なほど異なっている」という用例が現れていることも指摘している。otherは、名詞を修飾する用例が通常で比較級、最上級はなじまないのだが、それをas ... asの構文で使っているらしい。この辺になると、何のことやらさっぱりの世界に近づいてきてしまう。

こんなふうに、英語はどんどん進化を続けている。日本語だって同じだ。数十年前に書かれた小説でさえ、「言い回しが古臭いなあ」と感じる。かつてふつうだった「さよなら」の表現も、特殊な場合しか使われなくなった。

www.sankei.com

英語でも同じだ。驚くのは、どっからどうみても複数形でしかないtheyという代名詞を単数形で使う用例が増えてきていること。

jp.wsj.com

数年前、優秀な翻訳者が契約書の翻訳で明らかに単数形なのにtheyを使ってきていて注意したら、逆に参考ページのリンクを送りつけられた(優秀なひとと仕事をすると、本当に勉強になる)。言葉の変化は口語から崩れていくみたいなイメージがあるが、この単数形のtheyの場合はそうではなく、もっと硬いところにニーズがあって変化が起こっている。言葉の変化は、思ったよりも多面的に進行している。

 

もしも、日本の学校の英語のテストで、この「単数形のthey」を使ったらどうだろう。あるいは、動詞としてのotherを使ったらどうだろう。まちがいなくペケがつく。それはおかしい。かといって正解にすればそれでいいのかといえば、じゃあ新しい動きをどこまで取り込めばいいんだという問題が出てくる。

結局は正解と不正解という境界線を引くことが、語学教育にはなじまないということなのだろうと思う。語学は、なにが正しい、なにがまちがっているというような次元ではなく、言葉をどう使うのが効果的なのかという観点から行われるべきだ。だが、それでは点数がつけられない。テストをして成績で切り分けることができない。

となると、結局は、人間を点数で評価してふるい分けすることを基本にした学校制度そのものに問題があるのだということがわかる。もしも学ぶ人々のスキルをあげることを目的にするのであれば、現在の制度と、それを支える方法は、いずれも効果的ではない。

 

つくづく、変わってほしいと思う。言葉は変わる。英語は変わる。だったら、英語教育も変わってほしい。英語教育だけが変われないのなら、日本の教育制度全体が変わってほしい。毎日のように、そう思っている。