トランプ経済は破綻する。けれど ─ ポピュリストがポピュリストである所以

(追記:アップデート記事もどうぞ)

トランプ経済は破綻する - もういっぺんだけ言っておこう - シアワセの容相

(本文ここから)

政治シロウトの予想として

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ドナルド・トランプの経済政策を評価する人々がいる。予言しておこう。彼の経済政策は、まちがいなく失敗する。あらゆる人々の目から見て失敗する。まあ、それはトランプ大統領が誕生することが前提だが、どうも雲行きを見ているとそれがあり得ない話ではないような気がしてくる。

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そうなったら日本も土砂降りだろう。くわばらくわばら。

なぜ失敗するのかといえば、それは互いに矛盾する政策を同時に採用するのが目に見えているからだ。アクセルとブレーキが同時に踏まれる。もちろん、正常な運転にはアクセルもブレーキも両方が必要だ。ときには同時に踏まねばならないことだって(普通の自動車の運転ではないけれど)あり得ない話ではない。生物体が交感神経と副交感神経の拮抗でバランスをとっているように、正と負、陰と陽はバランスのために必須の要因。だが、ここではそういう微妙なコントロールの話をしているのではない。トランプ政権の経済政策は、なんでもありのごった混ぜになる。政策は、互いに矛盾する。矛盾する政策を同時に打てば、どちらの策も期待した効果をあげられない。そして、そうなることがほぼ確実に予見できるのは、ドナルド・トランプという人が本質的にポピュリストだからだ。

政治家の役割 ─ 古典的には、ね

役所、それも市役所の末端職員レベルとかじゃなくて、たとえば県庁勤務だとか、国の省庁勤務だとかの役人とかかわりあいをもった経験がある人ならわかると思うのだが、概ね役人は優秀だ。役人の無能さを嘆く人々は、直接彼らに会ったことがないのかもしれない。あるいは、それだけ有能な人々が集まっていながらギャグにしかならないような事態が発生することに苛立っているのかも。

実際のところ、個別の優秀を集めても、システムとしての優秀さには直結しない。本質的な問題はそこにあるのだけれど、全体の無能さでもって個別の優秀さが否定されるということにはならない。役人の多くはよく勉強している。とんでもない提言にまで耳を傾けようとする根気強さを持っている。その是非を判断して政策に組み込む合理的な判断力もある。けれど、たったひとつないのは、その政策の方向性を決めるビジョンだ。いや、たぶんビジョンは持っている。個人としてはそれぞれビジョンを持っているが、それを出すことが中立を損ない、職務を裏切ることになることを心得ている。全ての民に公平無私で対応するのが官僚の務めだ。いきおい政策は総花的になり、相反する意見がいいとこ取りの両論併記で盛り込まれる。結果としてアクセルとブレーキを同時に踏むような施策が行われ、無能だと叩かれることになる。

そこに方向性を与えるのが政治家だ。少なくともかつては、政治家はそういう役割を期待されていた。社会全体がどうあるべきかの理念をもって、それに合致しない政策はどれほど合理的であっても採用しない。そのぐらい強引でなければ、政治は回らない。問題が多発しようと、こうと決めた道を行く。歴史上評判のいい政治家の多くは功罪半ばする。功が多いほど罪も大きい。ビジョンをもつとはそういうことだ。社会の意見が二分されている時代には、どっちかの方向を示すことが求められる。それが「偉大な」リーダーを生み出す。

社会の意見が二分割どころか無数に分割されてしまった現代がそういった大物政治家を生み出さないのは、ある意味では当然だし、ある意味ではつまらないし、ある意味では幸運なことだ。意見が多数に割れているときひとつの意見だけが多数派になることはあり得ないし、単なる「比較的多数」の意見は周囲から総叩きにあう。ひとつのビジョンを打ち出せばそれはイデオロギー的だと批判され、既得権の代表だとか一部の利益だと叩かれる。だから政治は官僚システムを引っ張ることができない。ビジョンを提示できない政治家は、逆に官僚から進むべき方向をレクチャーされる始末。いきおい政治家の評価は低くなる。

偉大なるアメリカに偉大なるトランプ ─ 少なくとも自己イメージでは

トランプ大統領はちがう。彼は官僚システムにハナもひっかけない。議会さえ無視するかもしれない。それがシステム上不可能であっても、そこを強引に押し切ろうとするだろう。なぜなら彼にはビジョンがある。「オレはエライんだ」というビジョン。社会なんかはどうでもいい。「オレが成功することがアメリカの成功だ」と断言してはばからないのだから。「オレがアメリカを再び偉大にする」。常に自分に主語を置いたビジョンがそこにある。

ビジョンのある政治家は、けっこうだ。だが、問題はそのビジョンの中身だ。トランプ大統領の視界に見えている「成功」は、個人の成功だ。それは社会的なものではない。そして、その成功の尺度は人気だ。「人が喜ぶことなら何でもする」というサービス精神だ。それはそれで多くの人を幸せにするのかもしれないが、結局のところは人気取りということになる。大いに嫌われるその言動も、人気のためのサービスだ。つまり、本質的にはポピュリスト。

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ポピュリストの特徴は、わかりやすいスローガンだ。仮想敵をつくってそれを徹底的に叩くことだ。多くの人は、わかりやすいだけにそれに賛同する。だが、単純化したスローガンが解決できる問題など、ほんのわずかだ。敵を潰すことも難しくはない。超法規的な手段をとればさらにそれは容易になる。たとえばフィリピンのドゥテルテ大統領は瞬時に麻薬組織を壊滅させた。だが、それがフィリピン社会の抱える多くの問題を解決したのかといえば、それはまったく別問題だ。おそらく、むしろ悪化させているだろう。わかりやすいスローガンを実現したその後には、スローガンになかった難題が一気に押し寄せてくる。仮想敵を壊滅に追い込んだら、新たな敵が現れる。そこに対処するだけの民意の委託は、もう手もとにはない。これがポピュリストの没落への道筋。

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もちろん、主語を大きくすれば、スローガンの実現で解決できる問題は増える。風呂敷を大きくすれば、包めるものが大きくなる原理だ。「アメリカを再び偉大にする」ことは、多くのアメリカ人を幸せにするだろう。だが、それは麻薬組織を銃殺するような単純なことでは実行できない。だいたいからして、「偉大なアメリカ」の具体像なんて、百人が百様だろう。どういう政策をどう実行すればそれが実現できるのか、意見の一致はあり得ない。

「なんでもやる」が支持される理由

しかし、ポピュリストにとって、そんな煩雑なことはどうでもいい。いいことはすべて実行する。それもすぐに実行する。即断即決、実行力だけが成果に結びつく。「なに、それは景気を回復させるのか。ならやれ」「それは失業率を下げるのか。何をグズグズしている」。部下の尻を叩くのが優秀な経営者。尻を叩いたら、責任をもって予算その他をフォローする。それだけでいい。
そして、スローガン以外の政策に関してはもともとアイデアがないのだから、さらに「やれることは全部やれ」式の司令が出る。きっと、トランプ政権下の政府は、大忙しになるはずだ。働くこと、働かせることが大好きなボスがやってくる。止まっていた案件はどんどん進みだすはず。優秀な官僚は、互いに矛盾する政策を同時に命令されたって、なんとかそれに辻褄を合わせるだろう。木に竹を継ぐことに関しては、彼らほど能力の高い人々はいないのだから。

だが、ビジョンなしに政策がどんどん実行に移されるとどういう結果が生まれるか。それは、アクセルとブレーキを同時に踏むことだ。一方で景気を刺激しながら、他方で金融を引き締める、みたいなことが起こる。木に竹を継いだ政策は、中途半端な結果に終わるか、大惨事を引き起こす。あるいは猫の目の方向転換だ。ひとつの政策を実行して結果が出ないと見れば、方向性のちがう別な政策がすぐに代案として実行される。そこに一貫性など必要ない。

そしてここからが最も奇妙なことなのだが、そういったポピュリスト政権は、批判と同時に多くの支持を受ける。特に、政策提言者からは評価される。ここに人間の心理の妙がある。
もともと政治は、互いに異なった政策要求をすり合わせる場だ。そこで百パーセント自分の意見が通ることはあり得ないが、相手の意見が百パーセントということもふつうはない。「そこは譲るからここだけは通して欲しい」という交渉は常に起こる。

その結果、全体の政策にどの程度自分の意見が反映されるのかということが重視されるようになる。肉を切らせて骨を断つ、自分の思想と矛盾する政策が組み込まれても、自分の提言が一部でもとり入れられれば成功。「政府はオレのいうことを聞いた」と満足する。

結果は問わない。全部やればスコアは高くなる

ビジョンとかイデオロギーとか、ともかくもなにか方向性がはっきりしているとき、すべての政策は整合的になる。そのビジョンに対立がある場合には、基本的にすべての政策が対立する。まあ、たまたま一致する場合もあるだろうが、そういう場合は政策議論にはならないので、議論になるような部分ではたいてい対立する。そして、その場合、どっちつかずの政策を採用するのは致命的な愚策。どちらからも不満の声が噴出する。「AでなければB、BでなければA」という対立があるとき、どっちつかずは両方の否定になるからだ。

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その一方で、そういった対立する2大ビジョンが存在しない世界ではどうなるか。多様なビジョンが混在するとき、政策は整合性のあるセットとして議論されるのではなく、個別に議論される。そして、ひとつの政策が採用されることは、必ずしも他の政策の全面否定とはならない。特に、対立して共存できない政策が複数ある場合、そのうちのひとつを採用することは他を否定することになるが、一部を採用することでは他を否定することにならない。そういうケースを想定して、スコアをつけてみると次の表のようになる。

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この表から明らかなように、複数提出された政策案のすべてを実行しないことが最も評価を下げるわけだが、そのうちのひとつだけをとって全面的に実行するよりも、その案の一部分だけをとって実行するほうが評価が高くなる。その一部の実行を全ての案に対して行うことが最も評価を上げる。つまり、よく考えたら矛盾していても、全てをとりこんだ総花的な政策が、世間の評価を最も上げることになる。そして、そういう木に竹を継ぐ政策を立案することにかけては、官僚ほど優秀な人はいない。政治家は、それを活用できる立場にある。

みんなが喜ぶのは、結果が出るまでの間だけ

政策に一定のビジョンがある政権下では、多様な政策提言の中から特定の方向性をもったものだけが選別される。したがって、たまたまその方向性と思想が一致する人はいいが、そうでなければ、政策提言はほとんど採用されない。聞く耳もたない政権だ。ところがビジョンのないポピュリスト政権では、どんな方向性の意見でも採用される可能性がある。ものわかりのいい政権が生まれる。

これは一見、民主的な政治のように思われる。特定のイデオロギーでひとつの方向に人々を引っ張っていくのではなく、あらゆる人の意思を公平に反映させた政治。しかし、そこに欠けているのは本当の意味での利害の調整だ。議論を通じて「何がベストなのか」を探り、合意点を見出す過程だ。政策は、実効性を伴わなければ意味がない。実効性というからには、何が目指すべきゴールであるのかがはっきりしていなければならない。つまり、最初の時点でイメージのすり合わせが行われていなければならない。それが民主主義で最も重要な議論のプロセスだ。そこを抜かした政治は、外見上はものわかりがいいが、なにひとつ成果をあげない。

このものわかりのよさが、おそらくトランプ政権の致命傷になるだろう。現実には、「なんでもやる」ことは「なにもしない」のとほぼ同じ。それでも、政策提言者、つまりは経済人や取り巻き学者たちはそれを評価するだろう。1ドルを与えて2ドルを奪うような政策のなかで、自分に都合のいい部分だけを見て、「それは自分が主張したことだ」と喜ぶことだろう。
だが、人間は、恩よりも恨みをよく覚えているものだ。1ドルもらって2ドルをとられるような政策、いや、1ドルもらって1ドルをとられるだけでも、もらうことよりも奪われることの方が心に深い印象を残す。だから、トランプ劇場はあっという間に終演を迎える。人気は急落し、4年後の2期目はない。

それ以前に、ドナルド・トランプという道化は、大統領という役職に自分自身が飽きて辞任するかもしれない。そうなれば、ニクソン以来の稀な事例として歴史に名前を残すことができる。いかにもトランプ好みではないだろうか。

ま、一期目があれば、という仮定の話に過ぎないのだけれど。