正確な定義の重要性 ─ 不毛な論議を避けるために

「教師の仕事」はいったい何?

中学校教師の「保健室に通うやっかいな子」という相談に対しての回答が素晴らしいと話題に」という記事に対して多くのブコメがついているので気になってみてみたら、ずいぶんと否定的な反応が多いのにびっくりした。それを読んでから改めて記事を見てみたら、問題の本質がわかった。これって、完全なすれ違い。

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元記事の相談者の書き方は、ちょっとひどいとは思う。「やっかいな」という表現は、それがどんな現場であってもプロとしてどうなんだと思う。もちろん、「やっかいな案件」はどんな仕事であっても発生するし、同僚やクライアントとの打ち合わせでそういう表現を使うこともなくはない。ただ、対外的には「やっかいごとがオレの仕事」(your trouble is my business)と見栄を切るのがプロ。ま、そのあたりは好みの問題で、本質ではない。ついでに本質ではない問題をもうひとつ言っておくなら(元記事の画像になっている記事がどこに掲載されたものかは知らないが)、プロフェッショナルな悩みをこんなところに投稿するっていうのも、プロ意識が低いんじゃないかと思わざるを得ない。ま、無関係な人の意見って、思いがけず参考になる場合もあるから全否定はできないけれど。

問題の本質は、元記事の相談者の教師、回答者の上野千鶴子氏、そしてブコメを寄せているひとりひとり、それぞれが教師の仕事に対して異なったイメージを持っていることだ。イメージがちがうから、話がかみ合わない。建設的な議論にならない。たまたまイメージが共有できた人の間でだけ盛り上がる。それはなんか寂しい。

相談者である教師自身の仕事のイメージは、まさに彼自身が業務として行っていることそのものだ。生徒を統率し、学級を正常に運営し、生徒に教科内容を理解させ、生徒の成績を向上させることだろう。付帯的にその他さまざまな業務が発生するが、教師が学校で行っている業務は集団の管理と個別の学力にまとめることができるはず。

一方の回答者が教師の仕事として期待しているのは、成長期の子どものガーディアン。成長する子どもの身体と心をケアし、必要に応じて成長に必要な情報を学習指導の形で伝えていく指導者である。そういった存在が子どもたちに必要なのは言うまでもないことで、その役割を果たせるのは学校制度のもとでは教師だろう。

ブコメのなかには多様な意見がある。その背景となっているイメージは、やはりそれぞれ異なっている。たとえば、「教師の仕事は教科指導である」と考えているのではないかと思われるコメントがある。教師の職務の中に生徒に対するカウンセリングが当然入ると考えている人もいるようだ。短いコメントから正確に窺い知ることはできないが、「教師は全ての生徒に対して平等なサービスをすべきである」という考え方のものもあるように思う。

はじめに要件定義ありき、じゃないの?

いったいなにが教師の職務なのだろうか。理念的な話を抜きにすれば、それは教師を雇用する際に職務内容説明書Job descriptionとして提示されているものでなければならない。そうでなければ、労働契約上おかしい。 

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ただし、以前に書いたように、日本の労働契約でJob descriptionが提示されることは、ほぼあり得ない。そういう慣習がないからだが、突き詰めていえば、雇用側も被雇用側も、そういう契約に縛られて身動きがとれなくなるのを嫌うからだ。業務命令に対して「それは雇用契約書に書かれていません」と突っぱねられるのは困るし、よかれと思ってやったことを「雇用契約にないことを職務として行ったのは問題だ」と処分されても困る。 双方にとってメリットのないことは、たとえそれが建前上は必要だとわかっていても実行されない。

だが、Job descriptionのような明文化された契約でもって職務を定義することは、実は職務遂行を非常にスムーズなものにしてくれる。さらに、その改善も可能にしてくれる。たとえば、教師の職務を教科指導に限定するものと定義するとする。教師は、教科指導以外の業務は期待されてないし、行ってはならない。しかし、学校制度には、子どもたちの心身の成長に対するケアが期待されている。そうであるのならば、「じゃあ、教師とは別にカウンセラーを配置しましょうか」とか「課外活動の指導のために地域ボランティアを活用しましょうか」という話が出てくる。あるいは、職務内容に教科指導とカウンセリングと課外活動の指導とが明記されていれば、「それをひとりでこなすのは無理でしょう、副担任を2人制にしなきゃ業務量がオーバーフローするんじゃないですか」みたいな話になる。あるいは、「そんなスーパーマンみたいな活躍が期待されているのなら、当然それに伴った人材育成と給与体系が用意されてるんだよね」っていう話につながる。

つまり、定義をはっきりさせることによってのみ、現状の問題点がはっきりとし、議論は生産的になる。そこを曖昧にしたまま話を進めると、「じゃあ教師は勉強だけ教えてたらいいんですか!」とか「教育現場の実際を知らないで何を言う!」とか「まずは労働問題をどうにかしてくれ!」とか「仕事がきついなんていってもデスマーチ中のうちの会社に比べたらマシだろう!」みたいな、およそスレ違いにしかならない議論が続く。たとえそこに生産的な要素がはいってきても、それは常に非生産的な反論に潰される。

そして、教師の仕事の定義をはっきりさせることは、学校の定義を定めることにもつながる。たとえば、生徒のケアを十分にしようと思ったら現状の学校はリソース不足だ。だが、そこを充実させようとすれば、たちまち予算不足に陥る。そのときに、「未来を担う子どもたちのためなんだからケチケチするとこじゃないでしょ!」とか、「もっと効率的な仕事をすれば金はかからないはず!」とか、「学校の問題よりも重要なのは高齢化問題でしょう!」とか、およそ噛み合わない議論が噴出する。けれど、社会が学校に何を求めているのか、学校が出すべきアウトプットは何で、それはどの程度のものとして求められているのかなど、明確な定義をしていけば、議論は噛み合いはじめる。何を優先し、どこの優先順位を下げるのかを話し合うことができる。定義がなければそれ以前の段階で紛糾する。およそ、要件定義のない議論は不毛。

言葉は道具。道具は常に磨かなければ

現代社会に求められているのは、なによりも正確な定義だと思う。もちろん、文言を絶対的なものとして定義の側に社会を押し込めていくのは誤っている。たとえば教師の職務にしても、現場の実態と合わなければ契約条件そのものを更新していけばいい。 ただし、どの時点でも常に実態と言葉を一致させようとする努力が重要。そうでなければ、本来そこにない機能を期待されてしまう。それは、混乱を生み出すだけ。あるいは、もしも既存の教師という職業に定義以上のものを求めたいのであれば、まずは定義を変えることを提案するのが先。それもまた、言葉と実態を一致させようという努力であるにちがいない。

互いに別々の言葉をしゃべっていたのでは、議論は進まない。これは、教育の話にとどまらない。何度もここで書いてきているが、たとえば「貧困」という用語。

www.buzzfeed.com

上記記事の筆者は、相対的貧困について、

「相対的貧困」は、病院に行けない、進学ができない、満足な学習を受けられない、友達と遊びに行けないなど、貧困状態にない人にとっては当たり前の生活を送ることが難しい人たちのことを指す。

と定義している。しかし、「相対的貧困」はデジタル大辞泉によれば「ある国や地域社会の平均的な生活水準と比較して、所得が著しく低い状態」であって、その中に「病院に行けない、進学ができない、満足な学習を受けられない、友達と遊びに行けないなど」といった具体的な困窮の内容は含まれていない。そりゃあ常識的に「所得が著しく低」ければそういった困窮が容易に発生することは想像できるが、少なくともそれは定義ではない。

どうでもいい重箱の隅のように思えるかもしれないが、これは思いのほか重要だ。なぜなら、貧困に対する議論のほとんどは、「困っている」「いやその程度じゃ困っていない」という水掛け論に終始しているからだ。「困ってるかもしれないけど、それは大きな問題じゃない」「困ってるなら頑張れよ」みたいな議論も、何の足しにもならない。つまらないことを言うなら黙ってろよとも思うが、それは貧困をこのBuzzfeedの記事のように定義してしまえばけっしてつまらないことではなく本質問題になってしまう。しかし、もしもこれを本来の「所得が著しく低い状態」であると正しく定義すれば、そこで困っていようが困っていなかろうが、それはピントを外れた議論だということがだれの目にも明らかになる。不毛な議論は停止する、はず。

貧困の議論は、まず、「所得が低い層が存在する」ことと、「所得が低い層に生活上の困窮が発生する頻度が高い」ということの二段階に分けて行わねばならない。どちらも否定する人はいないはずだ。そして、政策はそれぞれに対して別個に働きかけることができる。最も有効なのは前者だろう。そして、低所得層の存在は、統計的に把握できる。決して隠れているわけではない。隠されている、というよりも目に見えにくいのは、「所得が低いと困窮が発生する」という具体的なプロセスだ。そういう意味で、朝日新聞でさえ、言葉の定義には非常に鈍感だなあと思う。

www.asahi.com

「2千万人」の推計が出ている時点で、これは「隠れ貧困層」ではあり得ない。記事が明らかにしようとしているのは、経済的な格差によって困窮が発生している状況だ。そこを報道するのは重要だと思うが、それを「隠れ貧困層」と呼ぶことで、言葉の定義を破壊している。そこに続く議論を台無しにしている。

多くの人が議論に参加できるプラットフォームがWebによって実現してしまった現代、その議論を実りあるものにするためには、正確な言葉の定義が必要だ。それがなければ、議論はそもそも始まらない。議論に見えるものは、単なる怒声の投げ合いであり、自己満足の放言に過ぎない。それはあまりにも虚しい。

といいながら、言葉の定義もせずに自己満足の放言をブログに綴っている私もちょっとアレなんだけどな。

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