変わる英語、変わらない英語教育

日本の英語教育は、私が知っている過去数十年だけとっても大きく変わった。指導要領はコミュニケーション重視に大きく舵を切ったし、高校英語では科目構成そのものが大きく組み替えられた。各学校には英語を母語とするALTが配備され、小学校の間から英語に親しむこともできるようになった。けっこうなことだ。実際、私が中学生・高校生だった頃と比べたら、生徒の英語力は確実に上がっている。

けれど、日本の英語教育は変わっていない。理念や制度がどれほど時代に合わせてアップデートされようと、教室でやってることは同じだ。教師が言うのは相変わらず、「ここ。試験に出るからきっちり覚えとくように」という言葉。そして試験では、1箇所綴りを間違えただけ、単数形複数形を誤っただけ、動詞の格変化を間違えただけで、かんたんにペケがつく。部分点をくれるのは1年生の間だけ、中学2年生以降は、どんな細かなミスでもその小問の点数はゼロ。なぜなら入試で部分点評価などあり得ないからだ。高校入試、大学入試という関門を通過するためには完璧な英語がかけなければならず、あるいは文法的に完全に正しい解釈で和訳をしなければならない。そういうスタンスは、見事なほどに一貫している。

その結果として、相変わらず学校で習った英語は使えない。実用に供しようと思ったら、高校までに習ったことを基礎として、その上にもうひとつ、何らかの学びを積まなければならない。高校まで6年間勉強したことだけではほぼ無意味、というのが、偽らざる日本の英語教育の実情。それは、あくまで「正しい英語」にこだわった代償とも言えるだろう。

振り返ってみて、私たちは本当に正しい日本語を毎日使っているだろうか。けっこう適当に、いい加減に、「このぐらいでわかってくれるだろう」的に、感覚で使っている。考えてみたら文法的におかしい言い回しなんて、一日のうちに何十回でもやっている。それでも、そんなふうに使い続けていたら、日本語には堪能になる。正確な日本語、美しい日本語だって、書けるようになる。味わえるようになる。

英語でも同じことだ。通じればいいレベルで使い続けることが肝心。単数形複数形をまちがっても、冠詞を付け忘れても、動詞の語尾がおかしくても、コミュニケーションをとることはできる。もちろん、それは「てにをは」のおかしな日本語と同じように奇妙に聞こえるはずだ。だが、そういう日本語でも通じるし、ときには「あ、そこは『が』じゃなくて『は』を使うんですよ」と訂正してもらえることさえある。まちがって使うことには、何も言わないことに比べたらはるかに大きな価値がある。

だから、本当に使える英語を身につけさせたいのなら、少なくとも主語と動詞がきちんと配置されている英文については積極的に評価していくべきだ。その上で、「ここは三人称だから動詞の語尾にsをつけといてね」とか、細かいところが気になったらそれをアドバイスしておけばいい。そうすれば、比較的短時間で使える英語が身につく。実際、指導要領をよく読めばそういう方向でやったほうがいいんじゃないかという解釈だってできるはず。だが、そういうことはしない。伝統は、かくも強固。

 

いつも思っているこういうことをなんで改めて書こうと思ったかというと、あまりにも変わらない英語教育を続けていると、そのうち英語のほうでどんどん変わってしまうぞ、って思ったから。ちょうど、平安時代の外国語教育であった漢籍を読む技術が固定化してしまった結果、中国の古典を解釈することはできるが時代に合わせた中国語が使えなくなってしまった江戸時代の日本人のように、変な伝統は本質をかんたんに歪めてしまう。

英語がどんどん変わるというのは、英語商売をやっていると肌身で感じる。たとえば、調べものをしていたときにたまたま出会ったこんな記事を読んだとき。

www.merriam-webster.com

この記事によれば、otherという単語を動詞として使う用法が最近現れている、というものだ。嘘だろう、これは名詞か、それとも形容詞でしかないはず。そう思っても、実際に用例が紹介されている。

記事によればこれはもともと社会学的な文脈から発生した用法らしい。「その他の」から転じて、「文化が根本的にちがうものとして扱う」という意味に用いられる、というもの。「部外化する」とでも訳せばいいかもしれないが、実際に訳す必要が生じたときにこれはもっと深く検討する必要があるだろう。

さらにこの記事では、形容詞としてのotherに、「異様なほど異なっている」という用例が現れていることも指摘している。otherは、名詞を修飾する用例が通常で比較級、最上級はなじまないのだが、それをas ... asの構文で使っているらしい。この辺になると、何のことやらさっぱりの世界に近づいてきてしまう。

こんなふうに、英語はどんどん進化を続けている。日本語だって同じだ。数十年前に書かれた小説でさえ、「言い回しが古臭いなあ」と感じる。かつてふつうだった「さよなら」の表現も、特殊な場合しか使われなくなった。

www.sankei.com

英語でも同じだ。驚くのは、どっからどうみても複数形でしかないtheyという代名詞を単数形で使う用例が増えてきていること。

jp.wsj.com

数年前、優秀な翻訳者が契約書の翻訳で明らかに単数形なのにtheyを使ってきていて注意したら、逆に参考ページのリンクを送りつけられた(優秀なひとと仕事をすると、本当に勉強になる)。言葉の変化は口語から崩れていくみたいなイメージがあるが、この単数形のtheyの場合はそうではなく、もっと硬いところにニーズがあって変化が起こっている。言葉の変化は、思ったよりも多面的に進行している。

 

もしも、日本の学校の英語のテストで、この「単数形のthey」を使ったらどうだろう。あるいは、動詞としてのotherを使ったらどうだろう。まちがいなくペケがつく。それはおかしい。かといって正解にすればそれでいいのかといえば、じゃあ新しい動きをどこまで取り込めばいいんだという問題が出てくる。

結局は正解と不正解という境界線を引くことが、語学教育にはなじまないということなのだろうと思う。語学は、なにが正しい、なにがまちがっているというような次元ではなく、言葉をどう使うのが効果的なのかという観点から行われるべきだ。だが、それでは点数がつけられない。テストをして成績で切り分けることができない。

となると、結局は、人間を点数で評価してふるい分けすることを基本にした学校制度そのものに問題があるのだということがわかる。もしも学ぶ人々のスキルをあげることを目的にするのであれば、現在の制度と、それを支える方法は、いずれも効果的ではない。

 

つくづく、変わってほしいと思う。言葉は変わる。英語は変わる。だったら、英語教育も変わってほしい。英語教育だけが変われないのなら、日本の教育制度全体が変わってほしい。毎日のように、そう思っている。

言葉の定義と、詩と、気温と

もちろんノーベル賞はもらえない

高校生ぐらいの頃だったと思うが、「ボブ・ディランみたいな歌が書きたい」と思った。コンセプトは、「とにかく長い歌」。ディランの歌は、やたらと長い。長ければボブ・ディランというわけではないだろうし、ボブ・ディランの歌に普通程度の長さのがないかといえばそういうわけでもない。それでも、若い頃の私が惹かれたのは長い歌だった。Lily, Rosemary And The Jack Of Heartsのような物語(16番まである)、Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Againのようなイメージがどこまでも広がっていくような歌が好きだった。

曲をつくるのは、簡単だった。循環コードさえ用意すればいい。だが、歌詞はそうはいかなかった。いろいろやってみたが、結局ロクなものはできなかった。あきらめて、それ以後はもっとふつうの、甘ったるいラブソングしか書かなくなった。そこからの私と音楽の話は長くなるので、別の物語。

ディランの歌詞で感心するのは、全く関係のないものが突然出現することだ。たとえば代表曲のひとつとされるLike A Rolling Stoneでは、前後の脈絡もなく、「浮浪者」とか「外交官」とか「ナポレオン」が登場する。聞いている方はびっくりするが、しかし、そこを切り口に世界が広がる。曲の中で一貫して皮肉っぽく批判されている「You」のイメージがより具体的になっていく。うまいなあと思う。

こういうのをシロウトが真似したって、「関係ないじゃない」「頭おかしいの?」「話が通じてないよ」と思われるのが関の山。脈絡のない単語を出せばそれでいいってもんじゃない。それなりの緻密な計算がある。少なくともそう見える。単純にクスリやって脳の回路がぶった切れていたというだけのことではないのだろう。

詩人は圧縮された暗号を使う

優秀な詩人は、聴き手の頭の中にあるイメージを利用する。たとえばIt's All Over Now, Baby Blueの中の「聖者」、「ギャンブラー」は、その単語だけでディキシーランド・ジャズ(「聖者の行進」)やカントリー・ブルーズ(たとえばロバート・ジョンソンなど)を連想させる。一言だけで、聴いている人の中にさまざまなイメージを投影することができる。ただし、それは使い古されたお定まりのイメージに陥ってしまう危険性にもつながる。そこに、「あれ?」と思うような組み合わせの「船酔いをした水夫」や「絵筆を持っていない画家」を登場させる。あるいは、「トナカイの軍団」みたいなどうみても場違いな言葉が出てくる。それがありきたりの絵に堕してしまうことから救ってくれる。

こんなふうに、言葉は、それが既に受け手の中に備えられた回路を動作させるトリガーとしてのはたらきをもっている。短い言葉で豊かなイメージを喚起するためには、そういった技術が必要だ。それを上手に使う人が、コミュニケーションの達人。詩人に限らず、名文を書く人はだいたいそういうことをやる。(ただし、それは時代が経って発信者と受け手との間に同じイメージが共有されなくなると理解されなくなる。失われたイメージを学習によって身に着けている人は教養人ということになるし、そうではない一般の我々は注釈に頼らなければ文脈を読めなくなる)。

暗号化は誤解のもと 

そんなふうに言葉を使うときには、ひとつひとつの単語の解釈は基本的に受け手に任されている。だから解釈をめぐってさまざまな論争が起こる。Blowin' In The Windの「風」は何を象徴しているのか、それはIdiot Windの「風」と関係があるのか、ないのかなどといったことを、作者の意図とはほぼ無関係にファンが語り合うことができる。何が正しくて何が誤っているのかということに結論はない。結論が重要なのではなく、「私はこう思う」という考えを交換することだけが意味をもつ。文学とはそういうもの。

けれど、日常に文学を持ち込まれた日にはたまらない。「私はこう思う」ということだけではコミュニケーションは成り立たないからだ。イメージは、ひとによってちがう。異なったイメージがあるひと同士が話しているときには、往々にして食いちがいが生まれる。別々のことを話しているのだから当然だ。たとえば、「ごはん」という言葉は、「食事」という意味でも「米飯」という意味でも用いられる。糖質制限をしているひとが「ごはんは食べないんです」と言った言葉を、相手は「このひとは断食しているんだろう」と受け取るかもしれない。「起業するんです」っていう話にベンチャーキャピタルとか資本比率とかのことを想像するひとと個人営業の脱サラ事業をイメージするひととでは、まるで話がかみ合わない。糖尿病患者が身近にいるひととそうでないひとでは、おのずと病院に通うひとのイメージが異なってきて、結果として罵り合いにさえなる。

そういうときに、「私が使っている意味」「私のイメージ」「私の知っている事実」が正しいのだと主張することには、なんの意味もない。正しいかどうかでいえば、すべてのひとがそのひとの内部では正しいのだ。そうではなく、「私はこういう意味で使っている」と相手に伝え、「ここからの議論はこういう範囲内だけでこの言葉を使うことにしましょう」という合意を得ておかなければならない。そうでなければ、互いに自分の正しさを主張する不毛な争いになる。それはゴメンだ。

そういう作業を、「定義」という。ただ、定義づけをするのは面倒くさい。英文の契約書なんかだと、最初に延々と「定義」が続く。場合によっては数ページも続く。そういうことを日常的にやるわけにはいかない。だから、私たちは「そのぐらい常識だろ」的に、すべての定義をすっ飛ばして議論を進める。日常的なことなら、それでたいてい間に合う。

それでもやっぱり、「どうにも議論がかみ合わないな」というとき、じっくり考えてみると、たいていは定義の問題なのだということがわかる。異なった定義にもとづいて議論をしていると、かなりの確率で紛糾する。別々のことを話しているのだから、当然だ。そして、もしもその段階でその原因を指摘したら、たちまち「だってこの言葉がこういう意味だってことぐらい常識でしょう」みたいな正統性をめぐる罵り合いに転化してしまう。いや、どっちが正しいかじゃなくて、その議論においてはどういうふうな定義にするのがいいのかという問題なんだとわかってほしくても、最初に定義をすっ飛ばした段階でそういう観点は抜けているから、いまさらどうにもならない。

日常的なことなら、たいていは問題ない。意見がちがったって、「まあ、いろんなひとがいるよね」程度のこと。それですまないのは、正確な議論が必要なケース。たとえば、科学。たとえば、政治。両方がかかわってくる場合はなおさらのこと。

 定義はなんなのか?

しばらく前、こんな記事を見た。

qiita.com

話題になった部分は、この記事がさらに気象庁のサイトから引用しているこんな記述。

政府機関または地方公共団体が気象観測を行う場合(研究や教育のための観測を除く)、又はそれ以外の方が観測の成果を発表するため、 あるいは災害の防止に利用することを目的として気象観測を行う場合には、技術上の基準に従って行い、気象観測施設設置の届出を気象庁長官に行うことが義務付けられています。(気象業務法第6条)

これで、「外気温を測ってホームページで公開すると気象庁から怒られる」と記事の筆者氏は結論づけたわけだけれど、これって典型的に定義の問題だと思う。

法律の条文は、特に定義を要する文言ばかりだ。たとえば、「業」という言葉ひとつとっても、これは「営利目的で同種の行為を反復・継続して行うこと」と定義されるわけで「気象業務法」という法律がまずは「業」を対象としていることを前提として読まねばならない。そのように法律特有の用語は、定義がはっきりしている。問題は、法律用語ではない用語だ。たとえば「気象観測」。一般的な法律用語でないものは、法律内に定義して用いられる。ここでは気象業務法に定義されている。

(定義)
第二条  この法律において「気象」とは、大気(電離層を除く。)の諸現象をいう。
2  この法律において「地象」とは、地震及び火山現象並びに気象に密接に関連する地面及び地中の諸現象をいう。
3  この法律において「水象」とは、気象又は地震に密接に関連する陸水及び海洋の諸現象をいう。
4  この法律において「気象業務」とは、次に掲げる業務をいう。
一  気象、地象、地動及び水象の観測並びにその成果の収集及び発表
二  気象、地象(地震にあつては、発生した断層運動による地震動(以下単に「地震動」という。)に限る。)及び水象の予報及び警報
三  気象、地象及び水象に関する情報の収集及び発表
四  地球磁気及び地球電気の常時観測並びにその成果の収集及び発表
五  前各号の事項に関する統計の作成及び調査並びに統計及び調査の成果の発表
六  前各号の業務を行うに必要な研究
七  前各号の業務を行うに必要な附帯業務
5  この法律において「観測」とは、自然科学的方法による現象の観察及び測定をいう。
6  この法律において「予報」とは、観測の成果に基く現象の予想の発表をいう。
7  この法律において「警報」とは、重大な災害の起るおそれのある旨を警告して行う予報をいう。
8  この法律において「気象測器」とは、気象、地象及び水象の観測に用いる器具、器械及び装置をいう。

とまあ、けっこうしっかり定義づけられている。そして、重要なことはこの法律中に「気温」の言葉が用いられていないこと。測定器具として「温度計」は登場するが、「気温」は定義どころかそもそも用いられていない。常識的にいえば「気象」の観測結果に気温は当然含まれるわけだが、なにをもって「気温」とするのかの定義はない。この法律が参照している計量法にも「温度」は定義されているが、「気温」ではない。では定義はどこにもないのかといえば、気象庁は次のように定義している。

通常は地上1.25~2.0mの大気の温度を摂氏(℃)単位で表す。度の単位に丸めるときは十分位を四捨五入するが、0度未満は五捨六入する。

気象庁|予報用語 気温、湿度

つまり、百葉箱のような適切な観測環境を用意して測定した温度のみが「気温」と定義されるわけである。一方、気象業界以外の普通の人々の「気温」のイメージはどうなのか? それは、単純に温度計が示す値のことである。つまり、気象庁が言う「気温」と一般人が言う「気温」は、同じではない。

では、一般人が常識的な意味で「気温」という言葉を使ってはいけないのかといえば、そんなことはあり得ない。言葉は誰のものでもない。たとえば「住所」という言葉は立派な法律用語であって民法に「各人の生活の本拠をその者の住所とする」と定義されているが、日常的には必ずしもそんな定義にとらわれずに使っているし、それでなんの問題もない。「物」という単語さえ、民法には「この法律において「物」とは、有体物をいう」と定義されているが、この定義にあるとおり、民法以外の文脈では「物」は実体のないものにまで拡張して使っている。言葉は、コミュニケーションのツールとしては、どのような使い方をしてもかまわない。定義どおりに使う必要はない。

これは科学の場合にはさらにふつうに起こることだ。たとえば「力」(force)は、力学では非常に重要な概念であるが、これはニュートンによって質量1kgの物体に対して1秒あたり1m/sの速度を加速するのに要するものとして定義されている。ところが、日常的にはだれもそんな意味で使っていない。ときには顔が汚れて出なくなるものであるかもしれない。なかには「あらゆる生命を繋ぐエネルギー場」という意味で使うひとだっている。けれど、だれもそれに文句は言わない。なぜならそれは科学の定義を離れて使われているのが明らかであり、いったん科学の文脈を離れれば科学には言葉を縛る権力などないことをだれもが知っているからだ。科学を語るのでなければ、フォースで奇跡を起こしてくれたっていい。その代わり、科学的な話をするのならまずは定義を確かめようよというのが、正しいあり方。

気温を発表しても、いいじゃない

さて、ふつうのひとが日常的な意味での「気温」を測り、日常的な活動としてそれを発表する。これを法律が規制することができるだろうか。できるのかもしれない。しかし、言葉と定義という観点からだけ見れば、それはバカげている。そもそも定義がちがう。だれも「地上1.25~2.0mの大気の温度」だなんて主張していない。あくまで「ウチの温度計の表示した値」という意味で「気温」を使っている。それが明らかな場に、明確な定義のある「気温」の規制を持ち込むのは文脈を外している。

もちろん、そうやって発表された統計を何らかの根拠にしようとするときには、話がちがってくる。だがその場合は、まずその議論の論拠として、その数字がどのようにして求められたのかを明確にする必要があるだろう。そうでなければ議論の対象としては相手にされない。結局、科学の土俵では科学の言葉として定義して語らねばならなくなる。そのようなときには、改めて正確に「ここでいう気温とは、校正を経ていない誤差の大きな値であり、また観測地点も一般の気象観測の要件を備えていない」ということを明確にすることだ。そうすれば、少なくともイメージの食いちがいによる混乱は避けられる。

結局は、ひとを誤りに導くようなやり方さえしなければ、何を言ってもいいのだろう。裏返せば、たとえルールに則ったように聞こえる発言でも、ひとを誤りに導くようなものは非難されるべきだ。あ、気をつけなくちゃ。

 

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定義については、こんなことも書いた。

mazmot.hatenablog.com

学問の世界で使われる「貧困」と日常事しての「貧困」はちがう。それを混同するから話が紛糾するという考察。これは、マスコミや政治家が意図的に(でなければ全くの不勉強で)混同して使っていることにも原因があると思う。それはまた別の機会に書くとしよう。少しばかりは、以下の記事にも書いている。

mazmot.hatenablog.com

定義をはっきりさせない習慣は、特に教育現場で奇妙なことを引き起こす。たとえば教師の仕事を明確に定義した学習指導要領があるときに、なぜかそこから逸脱したことが行われてしまう。あるいは、過去に引きずられた時代遅れの教育をしてしまう。

mazmot.hatenablog.com

mazmot.hatenablog.com

結局は、日常であっても、ときどきは言葉の定義を意識したほうがいいのかもしれない。たとえば、定義さえきちんとすれば、サンタクロースだって実在するのだしね。

mazmot.hatenablog.com

 

サンタクロースは存在するか - 息子との想い出

サンタ問題が存在することを、ひとの親になるまで知らなかった。つまり、「サンタクロースは存在するのかどうか」という大命題。いや、どうでもいいことだ。少なくとも、十代以降結婚するまでの数十年間の私にとってはどうでもいいことだった。鼻でフンと笑えばそれで終わる問題。ところが、子どもができるとそういうわけにはいかない。

小さいうちはいい。言葉の通じない幼児にサンタクロースがどうこうという問題は発生しない。クリスマスには親が勝手に喜んでいるだけ。3歳ぐらいだと、「サンタさんからだよ」といっても「あ、そう」みたいな感じ。それが年中さん、年長さんぐらいになると、「サンタさんって、だれ?」という疑問が発生する。そして、その疑問を手近な存在である親にぶつける。これがサンタ問題だ。

これに対しては、さまざまな対処方法があると思う。そんなことを思い出したのは、ハロウィンが終わっていよいよクリスマス商戦が近い、ということとは関係なく、こちらの記事を拝見したから。

www.catlani.com

いや、ここまで極端な現実主義者は私の知ってる範囲にはいなかった。それでも「いや、実在しないものをウソをついて『いる』とは言わないよ」というのはいた。「夢をこわさないために」あえて「サンタさんはいるよ」とする人々もいた。ともかくも、親をやっている限り、これに関しては立場をはっきりさせねばならない。踏み絵のような問題。

 

結局はどうでもいいことではあるのだけれど、ウチの場合はどうだったのか、一例報告をしておきたいと思う。まず、ウチの子育ての方針として、「ウソは絶対にダメ」というのが大前提。(ウソに関しては、たとえば聖アウグスティヌスの「嘘について」というエッセイがおもしろいのでいつかそれをネタに書こうと思ってはいるのだけれど、そういう高尚な話を抜きにすれば)、経験則的に、ウソは問題を悪化させる元凶だ。いろいろとめんどくさいことは、小さなウソから発生する。だから、せめて家庭内だけでもウソは厳禁としておこうと思った。道徳的にどうとかそういう話じゃなくて、技術的にトラブルの原因は除去しておきたい。だからウソはダメ。

そして、ルールは扁務的であってはならない。子どもだけがウソがダメというのは理屈に合わないので、大人もウソはつけない。そうすると、自動的に「サンタクロースなど存在しない」となる。そうだろうか?

そもそも、「サンタクロース」とは何なのか? 語源的にいえばこれは聖ニコラウスであり、そういう聖人は確かに存在した。ただし、そのひとがプレゼントをくれるわけではない。じゃあ、プレゼントをくれるのは、赤い服を着た白ひげのおじいさんなのか? ちがう。しかし、じゃあサンタクロースとは「赤い服を着た白ひげのおじいさん」として定義されるのだろうか? いや、そのようなイメージが定着したのは百年ほど前のアメリカであり、実際にはさまざまな「サンタクロース」のイメージが存在するし、存在してきた。現代では水着を着たいろっぽいサンタクロースまでいるではないか。服装や外見は、サンタクロースの必要条件でも十分条件でもない。

では、「サンタクロース」とは何か? それは、「クリスマスにプレゼントをくれるひと」である。それ以外の属性は、すべてあとづけのイメージである。そして、実際に、「クリスマスにプレゼントをくれるひと」は存在する。サンタクロースの名前でクリスマスにプレゼントをくれるひとは、各家庭に存在するわけだ。

であるならば、すなわち「サンタクロースは実在する」と断言することは何のウソにもならない。そこで、息子には、小さいときから「サンタさんがくれたんだよ」と、実在を前提に話をしてきた。そして、ある日、確かもう小学校の3年か4年になってからだったと思うが、「サンタってほんとにいるの?」という質問がやってきた。そこで、私は息子と考えてみることにした。

まず、「サンタの名義でプレゼントがやってくる」ということは、事実として認めなければならない。すると、そのプレゼントはどこでつくられ、どのように運ばれてくるのかという問題がある。プレゼントの中身が中国製のおもちゃだったりすることを息子はとうに見破っているから、決してサンタクロースがおもちゃ工場を運営しているのではないことはわかる。ということは、まずおもちゃは仕入れなければならない。その資金はどこから出ているのか?

ここで私は秘密を教えることになる。世の中には「サンタ税」というものがある、という秘密だ。独身時代には、そんな税金はかからない。結婚しても課税対象ではない。けれど、子どもが生まれると、親は一定の負担をしなければならない。この資金が、つまりはプレゼントを購入する原資となる。仮にこれを「サンタ税」と呼ぼう。ほとんどの親は、それを負担している。

では、そうやって購入されたプレゼントは、いったいどのようにして世界中の子どもたちのもとに運ばれるのだろうか? これがたったひとりの人間にできるだろうか? 無理だということは、小学生の常識でもわかる。ということは、サンタクロースは一個人ではあり得ない。多くの実行部隊を備えた組織でなければならない。その組織の末端に所属するだれかが、ひっそりとプレゼントを子どもたちの枕元に運んでくる。それは、ひょっとしたら○○くんのお父さんかもしれない。××くんのお母さんかもしれない。ひょっとしたらこの家の……。

 

サンタクロースの仕組みというのは、結局はそんなふうになっているのだと思う。サンタクロースの名前で自分の子どもにプレゼントを贈る親は、架空の「サンタクロース」という存在に対して出資し、その名前で購入したプレゼントを、「サンタクロース」の代理として届けている。なんの指揮系統があるわけでもないけれど、これは秘密の「サンタクロース団」がそこに存在しているのと結局は同じことだ。そして重要なのは、そこに「サンタクロース」の意思がはたらいているということだ。

「サンタクロース」の意思とはなにか。それは「与えること」である。これはもうはっきりしている。クリスマスは贈り物のシーズンであり、サンタクロースはその象徴だ。何の見返りを求めるわけでもなく、必要なひとに必要な贈り物をする。それがサンタクロースだ。

その価値を信じるから、私はサンタクロースが実在すると、一切のウソをさしはさまずに言い切ることができた。だからこそ、たとえその実体が彼の親であることがわかっても、そこにはきちんとつながる理屈がある。「やっぱりあれはウソでした」みたいなしらけきったタネ明かしはせずに済む。

「親がサンタクロースだ」というのは、サンタクロースの存在を否定する命題ではない。むしろ、実在を証明する事実だと思う。サンタクロースは、赤い服を着た白ひげのおじいさんではない。それは歴史的に見ても正しい。そのことを早い時期から正しく教えておけば、夢はこわれない。そして、その夢は、次の時代のサンタクロース団の構成員のもとで受け継がれるだろう。彼にサンタ税を払う気があれば、だけれど。

 

いまや「サンタなんてどうでもいいことだ」と感じる時代に入った息子は、当分の間、こんなことを思い出すことはないだろう。けれど、いつかそういう時代になったら思い出して欲しい。サンタクロースは実在するのだということを。

海外からの投票はトランプに有利か? - ヤジ馬の予想として

投票日まで1週間を切って、いよいよ罰ゲームのようなアメリカ大統領選挙のわけがわからなくなってきている。世論調査の支持率でいえばほとんど常にトランプが負けているが、どっちかといえば誤差の範囲。民主党と共和党の地盤分析みたいなアメリカ大統領選挙固有の事情を勘案すればヒラリーの圧倒的有利と言われるが、選挙は水物。特に、アメリカ人ってのは民主党と共和党が交互に政権を担当するのを好むところがあるから、「次は共和党に」と、候補者抜きで考える人も多そうだ。まだまだ予断を許さない。

接戦になった選挙といえば、印象に残るのが2000年のゴア対ブッシュの大統領選挙。最後のフロリダをどっちがとるかで勝負が決まるところで、当初1784票差、再集計後に537票差と、まるで町会議員選挙並みの票差で決着している。これは当時フロリダ州が共和党支配であったためのチートだという声もあったのだが、まあそういうことなら民主党支配の州では民主候補が有利なので、あまり根拠のある話でもない。いろいろあったのは、あったんだろうな。私なんかは「なんで?」と思ったのを覚えている。ブッシュがその後に何をやったかは言わずもがな。

 

ともかくも、このときの選挙でブッシュ勝利となった要因のひとつは、海外からの投票だといわれている。合衆国は、選挙人登録さえしていれば海外在住者でも投票ができる。選挙は州単位で行われるため、海外在住者はそれぞれが登録する州での投票を海外から行うことになる。むかし私が東京でFENラジオを聞いていた頃は、よく「one million people overseas」というジングルで投票を呼びかけるメッセージが流れていた。実際には百万人どころか海外在住の有権者は260万人程度にも上るらしい。このあたりの情報は、こちら。

www.cbsnews.com

伝統的に、海外からの投票は共和党有利とされている。これは、海外在住者の多くが軍人であるから、と説明されている。かつてFENで投票を呼びかける放送が行われていたことからわかるように、軍隊内では投票に便宜を図る制度がある。そして、軍人の多くは共和党支持者。当然、海外在住者の投票率が上がれば、それだけ共和党候補に流れる票は多くなる。ちなみに、海外勤務の軍人は150万人ぐらいらしい。

さて、それが今回選挙にあてはまるだろうか。そうだともいえるし、そうでないとも言えるような気がする。私は後者に賭けておこう。賭けにのるひとがいれば、だけれど。

まず、トランプに有利という根拠は、なによりも共和党だからというのがあるが、それ以上に、トランプ支持層である没落しつつある白人たちが、軍人に多いだろうという推測だ。ローマのむかしから、没落していく階層の人々が軍隊に救いを求めるのは世のならわし。仕事がなければ、軍隊に入るのが手っ取り早く食っていく方法になる。ただ、これに対しては、軍隊にはアフリカ系、ヒスパニック系も多いという反論もあるだろう。彼らは概ねトランプに投票しない。事実はどうかといえば、「白人」の中にどれだけ没落系の白人が含まれるのかはわからないが、地理分布的には確かにそういう人々が多い地域が比率的に多く軍人を出している(こちらのグラフ)。民族的な比率は男性と女性ではっきりと分かれている。男性では約70%が白人であるのに、女性では約50%。女性は軍人の16%を占めるに過ぎないから、やはり全体としてはトランプ支持層が多そうだ。

www.statista.com

しかし、私はここで軍人はやはり軍人らしい判断をするのではないかという気がしてならない。軍人にとってのアメリカ大統領は、チーフ・コマンダーだ。最高司令官の方針は自分たちの生活に直結する。そういう目で見たとき、トランプの軍事政策は軍人ウケするだろうか? 支離滅裂に近いその政策は、一方でISIS撲滅みたいな景気のいいことをいいながら、結局はアメリカの海外での軍事展開を縮小する方向であると読み取ることができる。移民反対、国威発揚的な発言は軍人好みかもしれないが、中身は決してそうではない。それよりはむしろ、冷酷だと評されるヒラリーのほうが軍人としては司令官に望ましいのではなかろうか。

さらに、トランプの評価が海外では異常なほどに低いという事実がある。アメリカ人以外で、トランプがまともな候補者だと思っているひとはほとんどいないのではないだろうか。アメリカを離れるということは、そういった視点を獲得するということでもある。

そして、軍人以外に目を転ずれば、もうこれははっきりしている。もともと海外で働くアメリカ人の多くは、トランプ支持層ではないだろう。彼らは海外に出ることすらできない。もちろん海外在住者のなかには共和党支持者も少なくない。だが、外から見ればいくら共和党支持者でもトランプは無理、という気になるのではなかろうか。

そして、これら海外在住者は伝統的に投票率が低かった(というよりほとんど投票しなかった)のだが、インターネット経由でかんたんに投票できるようになって、事情が変わっている。自宅に居ながらにしてクリックで投票できる。となると、投票率は徐々に上がってくるのではないか。

www.nomadicmatt.com

ということで、最終的には海外からの投票はトランプ有利には働かない、と私は思う。まあ、こういう予想なんて、大統領選挙の結果の予想以上に不確かなものだ。競馬でも見るような気分で大統領選挙を見てしまう。娯楽じゃないんだけどね。

 

さて、どうなるんだろうか。

www.afpbb.com

砂糖玉の効用 - 私たちはプラセボについて十分にわかっているのだろうか?

海外のホメオパシー事情をチラ見した

別に自分自身が使っているわけでもないのでホメオパシーにまつわる議論に深くかかわるつもりはないのだが、ここにあんまり科学を持ち出すのは、ちょっとちがうんじゃないかと感じている。少なくとも、硬い科学だけではどうにもならない部分、強いて言うなら医療社会学的な部分が絡んでくる問題だと思うので、安易な議論は道を踏み外しかねないなあと思っている。

このホメオパシー論争、日本だけで起こっていることではない。というよりも、どうやらイギリスあたりでは日本以上にホメオパシー叩きとそれに対するリアクションが激しいようだ。具体的には、100年ほど前からホメオパシーはイギリスの保健制度の一部に組み込まれていたのだが、徐々に力をなくして21世紀に入る頃には4つの診療機関でのみ公的医療(日本でいえば保険適用にあたる無料の診察・施薬)の対象になっていた。そのうち2つがつい先日ホメオパシーの扱いを取りやめ、それでもロンドンとブリストルの2箇所では相変わらず対象になっている、というのが現状らしい。このあたりはこちらの記事に書いてあることなのだが、

www.businessinsider.com

それによると、イギリス総人口の10%は、ホメオパシーを使っているらしい。で、この記事ははっきりと「効果がないとわかっているものに対して公的な資金をつぎ込むのはおかしい」と、反ホメオパシー的な立場を明らかにしているのだが、ある意味、ホメオパシーがかなり深くイギリスの人々の医療観に食い込んでいることも示している。

海外のホメオパシー事情に関して、「外国では保険の適用にもなるのに!」という擁護派の言説と「そんなものを信じているのは日本人ぐらいなもの」みたいな批判派の言説の両方が存在するのだが、どうやら両方とも、無根拠ではない。実際、徐々に扱いが減ってきているとはいえ未だにイギリスの一部ではホメオパシーは公的医療で扱われている事実はあるのだし、ホメオパシーの利用者も多い。ネットを検索すると、ほとんどは販売業者の宣伝かそれに乗っかった情報でしかないのだが、「ホメオパシーが注目されている」「トレンドだ」という記事がいくらでも出てくる。その一方で、ホメオパシー批判が強烈なことも事実で、イギリスで公的保健機関の扱いが半減したのもそういうところからの抗議が実を結んだ結果だろう。大手メディアの記事は、概ね批判的。物事はどちらから見るかによって見え方が異なる。アメリカなんかはもともと保険加入まで含めて自己責任の国だから、ホメオパシーやりたいひとは勝手にやるだろうし、それに反対するひとも勝手にやるだろう。FDAが認可しないサプリなんていくらでも出回る国だ。検索するとインドあたりの記事もよく引っかかるが、これはイギリスの影響かもしれない。英語圏以外の情報はわからない。いずれにせよ、世界的にも批判が多いことは紛れもない事実。

「正直なプラセボ」とは?

ともかくも、この記事で言いたいのはホメオパシーのことではなく、ホメオパシーについての議論では必ず出てくる「プラセボ効果」について。プラセボは偽薬であり、つまりは何ら薬効成分を含まない基材だけでできた丸薬やカプセル剤のこと。ところが、こういうのを処方しても、治療効果が生まれる。これを「プラセボ効果」と呼ぶ。だから、たとえば新規物質の薬効を調べる場合なんか、「これを投与した場合に改善がみられた」だけでは誰も信じない。必ずプラセボ投与群をコントロールとして比較対象にしなければ、「それはプラセボ効果だろう」と批判されるわけだ。

この「プラセボ効果」、「心理的なものだろう」というのは、古くから言われてきたこと。というよりも、まずそれ以外に考えられない。つまり、「クスリを飲んだ」と思うだけで、「良くなるにちがいない」という信念が生まれる。病は気から、「治るはず」という信念が、実際に病気を治してしまう。それがプラセボ効果だと説明されてきたし、それを疑う根拠は何もない。

ところが、しばらく前、「プラセボ効果は患者がそれを偽薬だと知っていても発生する」という記事をどこかで読んだ。その元記事はどこに行ったのか探しても出てこないのだが、その代わり、最近の類似の研究を取り上げた記事を見つけた。こちら。

www.npr.org

これによれば、腰痛患者に対し、「これは薬効成分などまったくない偽薬ですけど、毎日2回飲んでください」と処方した場合、処方しなかった場合に比べて自覚症状の約30%の改善がみられたというもの。なお、どちらのグループに対しても、通常の痛み止めの処方その他の治療は継続して行っていたらしい。

つまりは、「患者はそれが偽薬だと知っていてもプラセボ効果はある」ということになる。ちなみに、この記事から古い同様の研究へのリンクもたどることができた。おそらくこちらが、私の記憶にあった日本語記事の元ネタの研究を紹介したものなのだろう。

www.npr.org

こちらは、慢性の過敏性腸症候群患者を対象にしたもの。やはり、偽薬だと知っていてもプラセボ効果が生じている。このようなプラセボを「正直なプラセボ」と呼ぶらしい。ちなみに、この過敏性腸症候群も上記の腰痛も、現代医学にとっては扱いにくいやっかいな症状。腰痛に関しては、アメリカの医師は「lower-back loser」と呼んで忌み嫌っている、というようなこともずいぶんむかし、どっかで読んだ記憶がある。

このような研究を見ると、「心理的」の一言で片付けてしまうにはあまりに複雑な作用機序がプラセボ効果にあるのではないかと考えざるを得ない。心理的ではあるが、一筋縄ではない。少なくとも、錯誤による心理効果だけでは説明ができない。

プラセボ効果は、医師への信頼が高いほど大きいというのはよく知られた話。たとえば、

Knowledge and Use of Placebos by House Officers and Nurses | Annals of Internal Medicine | American College of Physicians

これによれば、プラセボ効果が最も高いのは医師を信頼している患者なのに、プラセボを投与される確率が最も高いのは医師に対して文句ばかり言う患者であるというねじれ現象が起こっているそうだが、ともかくも、そういうことに効果が影響されるのはまさに「心理的」。けれど、単純に錯覚しているだけのものではないことは、上記の「効果がないと知っていても効果がある」実験によって確認される。

知らないことがあると知っていれば、もう少し謙虚になれるはず

何が言いたいのかというと、「それはプラセボ、非科学的」と断じる我々は、案外とプラセボについて正確な知識を持っていないのではないか、ということ。よく知らない人間が、それを棚に上げて「非科学的」と他人を罵るのは、あまり感心したことではないだろう。

ひとがひとを批判するとき、私たちはその批判の内容だけではなく、その社会的文脈にも注目すべきだと思う。なぜなら、多くのケンカは、ケンカしたい気持ちが先にあって、理由は後からくる。典型的にはヤクザのイチャモンだ。イチャモンに関しては、その主張の是非を論じるべきではない。イチャモンをつけてきた前後の文脈をこそ探るべきだ。なんだ、結局は、記事の内容は昨日の記事と同じになってしまった。

mazmot.hatenablog.com

繰り言はみっともないな。年をとったんだろうか。やれやれ。

 

 

 

参考:

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nofrills.seesaa.net

interdisciplinary.hateblo.jp

schutsengel.blog.so-net.ne.jp

 

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追記:このサイトも参考になるかも。

manualtherapy.blog91.fc2.com

 

科学でもって叩く人々に - 「迷信」は正しい罵詈雑言か?

人間には2種類があり、迷信には3種類がある

どうにも「科学」の名前を借りた(あるいは「科学的」かどうかを論拠にした)批判的な言葉がしんどくてしかたない。いや、まあ私だって、そういうモノの言い方をすることはある。基本的に、ケンカというのは、ケンカしたい気持ちが先にあるものであって、理由なんかは後からつけるものだ。その理由として「科学」は使いやすい。だから、むかっ腹がたったときには、後先も考えずに「非科学的だ!」みたいな批判をする。そして、後味のわるい思いをする。

「非科学的」な相手を罵倒する文句として最も使いやすい言葉のひとつが「迷信」だ。この「迷信」、よく考えてみれば3種類あることがわかる。まあ、分類のしかたなんて恣意的に立てられるからこれで完璧とは言わないけれど。

  1. 未だ科学的に証明されていないが「効果がある」と一部で信じられている慣習
  2. かつては科学的(もしくはそれに近い)根拠があって効果があるとされていたが、その後の反証で効果がないことがわかったのに、未だに行われている慣習
  3. そもそも最初っから根拠がなく、かつ、根拠がないことが実施している人々の間でも概ね合意されている慣習。

「1.」に関しては、かえって科学的な研究の対象になっていることがけっこう多い。たとえば、私は昔、ある健康食品会社の仕事をしていたのだが、この会社はある健康茶の販売を主な事業にしていた。これが事業として成り立ったのは、もともと科学的な根拠も何もなかったその葉っぱを煎じて飲むというある地方の習慣を科学的に研究した学者の論文があったからだ。そういった論文が1本あれば、その後に研究が続いていく。いまではこの葉っぱの効用には、それなりの科学的エビデンスがある。ただし、そのエビデンスはそこまで強いものでもないいので、トクホなりなんなりの認定を受けることはできない。おそらく、その程度のエビデンスで「効果がある」といわれている食品は、山ほどある。それでも、「1.」に属するタイプの「迷信」は、科学的研究が積み重なっていくことで、実際に効果が確認される可能性をもっている。もちろん、科学的研究の果てに「効果がありませんでした」となる場合もある。だが、「科学的根拠がない」ことを「効果がない」こととイコールで結びつけることはできない。「科学的根拠がない」ことは、あくまで「効果があると断言してはならないし、効果がない可能性も十分にあると考えなければならない」ことを意味するだけ。

次に「2.」に関しては、既に「効果がない」あるいは「効果が低い」ことが証明されているわけで、これは「科学的根拠がない」というよりはむしろ「効かないという科学的根拠がある」といったほうがいい。ただし、これについてはあまり叩き過ぎると今度は自分の墓穴を掘ることになるということはわきまえておかなければならない。なにしろ、かつての科学が格下げされたこれら「迷信」の存在は、現在の科学がやがて「迷信」に格下げされる可能性を示す証拠でもあるわけだから(こちらの記事も参照)。

そして、「2.」に関して厄介なのは、いったんエビデンス付きで否定された効能が、またひっくりがえる可能性も含んでいること。数多くはないが、いったん捨て去られた古い治療法が技術の進歩とともに新たなエビデンスを伴って復活する例はないわけではない。さらに、相矛盾するエビデンスが同時に存在するような事例もあって、なかなかにややこしい。科学的なエビデンスをそれぞれがもっている二派が存在するような場合、どちらかに立って相手方を「迷信」と決めつけることは、ヤケドのもと。

完全に問題外なのは「3.」だ。これはやっている当人が迷信だと認めているのだから、どこまでいっても迷信であり、そこに議論の余地はない。たとえば節分の鰯の頭。あんなもので健康になるとは、誰も信じてはいない。けれど、「無病息災を願って鰯の頭をヒイラギに飾ります」みたいなことは、NHKでも言うだろう。「効果がない」という認識が共有されているものに関しては、あえて効果があるようなことを書いたって許される。「ゲン担ぎ」もそうで、そこに科学的なエビデンスを求めようという人なんてふつうはいない。それでも、勝負のときには「これでなければ」というこだわりを捨てない人々がいる。誰もそれを「迷信だ」と非難しないが、それは「まあ、勝手にやっといてくれ」の領域だからだろう。ヒットが続くように同じパンツを3日履き続けても、まあだれも迷惑しないわけだから。

迷信を科学する

ただ、この「3.」に関しても、それでは科学的な研究があり得ないのかといえば、実はそんなことはない。科学の世界には、ふつうじゃない人もいるものだ。たとえば:

あたりはスポーツにおける「迷信」(ゲン担ぎ)の効果を研究した論文だし、

は、一般大学生を対象にして、「迷信」がゲームの成績に寄与することを実験で明らかにしたものである。

は、要旨しか見えないのだが、どうやら中国人の学生に対して迷信を信ずる度合いと死への不安感の相関関係を調査したものらしい。 不安は、医学においてはQOLに大きな影響を与えるものとして特に終末期医療では重視されている。ここに寄与することが科学的に証明されるのであれば、それは医療分野において大きな貢献になるだろう。

フランスパンでも凶器になるんだし…

こういう研究を見ていると、果たして「迷信」というのが正しい罵倒の言葉であるのかどうか、はなはだ疑問に思えてくる。「1.」のケースだと(たいていの伝統的慣習には科学の手が伸びているので)何らかのエビデンスが出てくるだろう。そのときには、結局はグレーゾーンの泥沼に陥るだけだ。「2.」の場合は、そのときはいいが、未来にブーメランがやってこないと言い切れない。そして「3.」の場合、「迷信けっこう。迷信だって役に立つことが科学的に証明されている」という逆襲を受けかねない。その際には、迷信的な慣習とそうでない「科学的行為」との間のベネフィットを比較する研究が必要になるわけで、たいていは水掛け論に終わってしまう。

結局のところ、科学は、科学の絶対的真実性を担保しないのだと思う。科学的な態度というのは、しょせんツールに過ぎない。そして、ツールはたいていの場合、目的を持って使われるものだ。その目的が真実の探求であるのならそれはそれで尊重されるべきだろう。しかし、目的が単純に他人を貶めることであるのなら、あるいはそこまでいかなくとも、「私の正義」をふりかざすためのものであるのなら、その科学的態度は地に堕ちたものだ。場合によっては科学的な態度が凶器になる。人を傷つける道具になる。それは、本当に正しいことなのだろうか。

まあ、地に堕ちようが泥にまみれようが、正義に訴えたいときはある。だが、そのときは、それが決して客観的なものではないことを肝に銘ずべきだ。たとえそのときに使っている言葉が厳密に科学的なものであったとしても。たとえば、私がいまやっているのは、(あんまり科学的とはいえないかもしれないが)、科学の論文を引っ張り出してきて、科学で人を叩くことを批判すること。こういうやりかたって、絶対にフェアじゃないよね。

 

 

 

mazmot.hatenablog.com

笑うのはたいへんだし、泣くのはもっとたいへんだ - 現代落語に寄せて

なんで「マックで女子高生が」が私にウケなかったのか?

中学2年生の息子、落語が趣味で、小学生の頃からあちこちでシロウトの一席を披露してきている。福祉施設の慰問とか、ローカルなイベントとかで。ただ、声変わりで思うようなパフォーマンスができないということで、この夏を最後にしばらくのお休みに入っている。大学に入ったら落研にでも入りそうなクチだが、だいたいが大学に行くつもりがあるのかどうかもわからない。何を考えているのだかさっぱり読めない男だ。

ともかくも、そんな落語好きの子どもに付き合ってきたせいで、私も少しは落語を聞いてきた。世間の落語ファンに比べたら、物の数ではない。知らない人よりは知っているが、知っている人には及びもつかないという、まあたいていのことにあてはまるような身分でしかない。それでも、少しは落語に興味がある。

だから、現代落語「マックで女子高生が言ってた」のオチがきれいで秀逸 という記事が話題になっていたようなので、これは要チェックと見に行った。正直なところ、期待した笑いは生まれなかった。いやまあ、笑いのツボが理解できないわけじゃない。けれど、あんまりおかしく思えなかった。

何も作者にケチをつけているのではない。むしろ、こういう才能は羨ましいなあとさえ思う。雑にかきなぐったように見える絵も、ちゃんと技術があってのことだとわかる。わざわざ「『マックで女子高生が言っていた話』というくだりは信用できず、ツイッターでよく見るテンプレートだ」と、きちんと伏線を敷いているところなんかも好ましい。けれど、どうもピンとこない。どうしてこれが話題になるほどなのかと思ってしまう。

まあ、感性が合わないのだろうと思ってそのことは忘れて皿洗いをしていたのだが、ふと、気がついた。いまひとつ、と感じたのは、どっちかといえば受け手側の問題なのだろうと。

単純なことだった。私は、何年か前にTwitterをやめた。時間がないからだ。読んでる時間もなければ、つぶやく時間もない。Twitterはおもしろかったし、いろいろ貴重な情報ももらえた。けれど、無理なものは無理だ。すっぱりと諦めた。だから、「マックで女子高生が言っていた話」を目にしたことはなかった。そりゃあ、その後にもはてなとか見てるから、全く見たことがないことはなかったかもしれない。けれど、「テンプレート」として認識してしまうほどにはそこに馴染んでいなかった。だから、「テンプレートだから偽であるという指摘に対して、テンプレートではないというのは真であるが情報の中身は偽であった」という笑いの展開がそこにあっても、「ああ、そうなの。確かにそれっておもしろいかもね」と理屈で反応するだけで、感情に訴えることが何もなかった。「ふうん、なるほどね」って。

けれどもしも、このテンプレートに引っかかったことがあったり、自分自身でこのテンプレートを使ったことがあったり、テンプレートの使用に批判的だったり、あるいはそういう批判をウザいと感じていたりというようなことがそれ以前にあったとしたら、反応は異なっていただろう。「やられた!」と思うかもしれないし、「そうそう」と頷くかもしれない。「ちがうよ!」とツッコミを入れたり「オチが読めてたよ」としたり顔でしゃべることもできたかもしれない。それは楽しいだろう。だから、そういう素地がある人々の間で話題になる。なるほど、そういうことか!

笑うのは、それなりにたいへんだ

落語で似たような話はないだろうか。この話と同じような構造をもったお題は、たぶんない。それは、「こういう定型的な言い方をすればそれは嘘である」というテンプレートが、たぶん古典落語の時代にはないからだろう。そういうテンプレートがあるとすればおそらくそれは遊郭の中でのことで、つまり落語としては郭話だろう。ただ、(子どもの落語につきあって聞いてきたという経緯からわかるように)私はそっちには詳しくない。そして、そういう話は、テンプレートの共有が失われるとともに笑いを失う。生き残っていたとしても、笑いのポイントは別のものに変質しているのではないだろうか。

ただし、テンプレートが笑いの重要な要素であるというだけの類似なら、これは現代まで生き残っている落語の中にも多数見られる。たとえば、「子ほめ」という落語がある。これは、「子どもを褒めるときにはこういう褒め方をすればいい」というテンプレートを聞いた男が、さんざんしくじるお話。似たようなものに「牛ほめ」があるし、「本膳」にいたっては言葉だけでなく礼式作法までをテンプレートとして、そこからの逸脱を笑っている。

あるいは、情報の真偽を笑いの要素にする落語もある。「阿弥陀池」という上方落語は、これは明治時代の創作であるわけだが、新聞を読まない長屋の男を、それなりに教養があると思われるご隠居が偽情報でいたぶる、という出だしになっている。この冒頭部分はそれこそ「マックで女子高生が言っていた話」と重なる。嘘だか本当だかわからないような話に男がすっかりのめり込んでしまったところを見計らって、「というニワカやけど、ようできてるやろ」と、それが嘘であったことをバラして、そして、「そういうふうに騙されたなかったら新聞を読め」と、当時のニューメディアであった新聞の価値を説く、という展開になっている。なお、ここではご隠居は「男を騙す」ということよりは、「自分が考えたちょっと笑える話を自慢したい」ということに意識があるように思う。そういう意味でも、非常にTwitter的だ。ついでに言うならこの噺を東京に移植した「新聞記事」では、もっと無教養な男を小馬鹿にするような雰囲気で語られることが多いような気がしていて、ちょっと嫌だ。ま、好みかもしれないけれど。

この「阿弥陀池」、戦争未亡人のようないかにも当時の新聞ネタにありそうな話題を扱っていて、おそらく初演時にはもっと笑えたのではないかと思う。新聞に対するイメージもだいぶと変化した現代では、「新聞を読め」はもちろん、「新聞いうたら菜っ葉を包むもんでっしゃろ」みたいなセリフも、ちがった響きをもつ。このように、背景になる情報をどれだけ日常的に共有しているのかということによって、どれだけ笑えるかが異なってくる。なあんだ、やっぱり「マックで女子高生が…」と基本的には同じ。笑える人には笑えるし、笑えない人には笑えない。

話が通じないのはさみしいけれど

なんだかさみしいような気がするのは、やっぱり笑うときには一緒に笑いたいって思うからだろう。そういうのは、ベタベタな集団意識であり、狎れ合いであり、排他的で危険なものなのかもしれない。けれど、自分が大笑いしたときにはやっぱり同じように笑ってくれる人がいて欲しいし、みんなが大笑いしているときに笑えないのは輪から閉めだされたような気分になる。それが錯覚だってことは理屈ではわかるけれど、人間は理屈だけで生きているわけじゃない。さみしいものは、さみしい。

 

ただ、そんなさみしさには、無理に対処しようとしないほうがいいのかもしれない。押し殺してしまったり、ごまかしてしまったり、しないほうがいいのかもしれない。そうじゃなくて、ただ、「さみしいなあ」って思いながら、それを抱え込んでおくことも、ひょっとしたらだいじなのかもしれない。いっしょに笑えなくても、いつか理解できる日がくるかもしれない。

天下国家を論じて、「これが正義だ」みたいな言い方をする人に対して、「そうじゃなくって、私はしんどいんですよ」と訴えたいのに全く話がかみ合わない。事実に反していることや論理が破綻していることを説いても、そういう文化を共有していない人には理解できない。そんなとき、怒りを通り越すとさみしくなる。自分とは全く話の通じない世界が存在するのだということに、とてつもない孤独を覚える。

だが、そこで投げ出すべきではないのだろう。そのさみしさを忘れずに、ときどき考える。ああでもない、こうでもないと考える。そしたらいつか、なにかがわかるかもしれない。

この歌の題名も、私には長いこと意味がわからなかった。理屈で説明されても、いまひとつ理解できなかった。lotは「たくさん」であると同時に「貨車」でもあり、貨車がたくさんつながったものが「列車」であり、その列車に無賃乗車しているのが主人公のホーボーであるという構造がわかっても、「だから?」でしかなかった。ずいぶん長いことかかった。やっぱり泣くのはもっとたいへんだ。

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