シアワセの容相

あしたはこっちだ

「正しい教育」を不可能にしているもの

なんか、増田ばっかり見てるようで「ヒマ人か」とバカにされそうでもあるのだけれど、ここのとこ体調がイマイチで、気合を入れて行動するだけのエネルギーがなかなかとれない。そのエネルギーを本来はそれほどエネルギーを要求されないはずの家庭教師の仕事のために温存しなければならないから、いきおい、ダラダラ過ごす時間が長くなる。まるで中学生がサボる言い訳のようではあるが、まあ、低調な時期がくればまたテンションの上がる時期も来るはずと、ここは開き直っている。

で、ここのところ気になった「はてな匿名ダイアリー」の投稿、通称「増田」2件:

anond.hatelabo.jp

anond.hatelabo.jp

前の方のエントリで、著者は

・時間内に長文から要点を抜き出してまとめる能力(理解力・まとめ力)

・読み上げた音声から概要を図にして説明する能力(理解力・整理力)

・3回読み上げられた文章をできる限り暗記して、書き出す能力(暗記力)

・問題と解答を見せて、それと同じ論理の問題をその場で応用して解く能力(論理理解力・応用力)

・見出しと小見出しだけ見せて、だいたいの内容を予想する能力

・3回画面に表示される難しい言葉をその場で覚える能力(語呂合わせを使えとか、頭文字を覚えろとかヒントを出す)(暗記力)

・読むのに15分くらいかかる文章(キーワードは太字)を読ませ、読み終えてからキーワードについての感想や知識を書き出させる(集中力・理解力)

について「テスト」をすれば「勉強する能力」が高まると主張する。これに対して、

それこそ普段の授業でやってることでは? ちゃんと聞いてる?

というコメント(私じゃないよ)が入ったのに対する反論として、あとの方のエントリがある。ただ、私から見れば、ここのところ、実は著者の「わかってない」ところが端的に現れているように見える。

この方法そのものを授業で教えようって言ってるんだ。

地頭のいい人たちが自然にできている学習の力を、意識的に学ばせてできなければできるまでやらせて、勉強の苦手な人を減らそうという意図だよ。

どういうことか? ひとことで言ってしまえば、「最初はテストって言ってるのに、あとの方では授業って言ってるじゃないの」ってことなのだけれど、それだけじゃ揚げ足を取ってるようにしか見えないだろうから、もうちょっと長く書くことにしよう。

 

まず、「普段の授業でやっていること」という反応そのものが正しいのかどうか、私は疑問をもっている。国語の教師なんて、国語が語学教育であることさえ認めないような輩がいくらでもいるようだし、漢文なんて業界の都合だけでカリキュラムが組み立てられている疑いがある。ただし、本来あるべき姿としては、あるいはタテマエとしては、実際、最初のエントリ(元増田)の主張している能力は、ほぼそのまま学習指導要領に記載されているものとして解釈することができる。つまり、本来は、「普段の授業でやる」ことが期待されているわけだ。

だが、これが実際にできていないのではないかというのが、著者の主張になる。「しかし、普段の国語の授業は余計な解説が入るし、一つの文章を何時間もかけて読むので短時間に長文から要点をまとめるという技能だけを何度も教え込むことはできない」とか「ノートの取り方や、理解の力は自己責任として突き放してるのが今の教育ではないかという話」とか「もっと重点的に暗記に絞った訓練をするべきだ」とかいった主張は、それらを授業で教えてもらえなかった著者の個人的な体験から来ている。そうしてもらえたらよかったのになあということからの提言なのだろうから、そこは確かなものとして受け止めるべきだろう。

だが、こういう「効果的な指導法」のようなものは、実は個別の生徒の個別の状態によって異なっている。いみじくも著者が「なぜかといえば、僕がIQが高いアスペだったからだ」と書いているように、この方法は著者のような人には有効かもしれないが、他の人には同じ教育目標のために別なアプローチが必要かもしれない。極端な話、おそらくこの著者よりももっとアスペな私には、国語の勉強なんてほぼゼロで十分だった。そんな太古の話を持ち出されてもこまるのだろうが、参考書や問題集を一冊ももっていないにもかかわらず、高校時代には進学校でトップ番付の常連だった。だが、そういう無手勝流は、他の生徒には通用しない。だから、私は家庭教師になって国語を教えるのにいちばん苦労した。自分がやったことがない勉強をどうやって教えたらいいかがわからなかったからだ。まあ、そこから先は余談だが、実際、生徒によって各種のテクニックがある。その中にはオリジナルの秘伝もあったりするので、どうしても知りたければ本を買って欲しい(ま、たいしたものじゃないけどね)。

そして、個別の生徒に対する特殊な指導法は、大人数に対して教えなければならない学校の教室では使えない場合が多い。最大公約数的な部分をとっていけば、どうしても国語の授業は退屈になる。学校の授業が(特にアタマの回転の早い生徒にとって)ピントのはっきりしないボヤケたものに感じられるのは、基本的にはそういう理由なのだと思う。だが、それよりももっと根の深い問題もある。

 

私が中学生、高校生だった1970年代には、まだまだ学校の教師には教育者としての矜持があった。ただし、「昔はよかった」的なことを言うつもりはない。その「矜持」の中身の大半は「教育者は聖職者であって生徒を導く模範でなければならない」みたいな大時代的なものであって、その裏返しとして「愛のムチ」である体罰はあたりまえみたいなアホな信念が生まれるようなものでもあった。さらに、玉石混交度合いはたぶん昔のほうがひどく、ただ威張るだけで中身のない教師なんてのものいくらでもいた。それでも一部の「玉」の方の教師には、子どもの本当の意味での成長を支えるのが自分の役割だと自覚している人々も多く、そして、それらの人々は、安直な「勉強」がもつ弊害をしっかりと意識していた。

だから、世間がどれほど受験熱に浮かされようが、「学校はそういうところではありません」と、きっぱりと「教えるべきことを教える」という姿勢を貫いていた。授業ではあくまで学習項目の理解を優先し、点取りのためのテクニックを教えるようなことは基本的にしなかった。

そういう姿勢に対して、世間の風当たりは強かった。ネットがない時代だったから情報があやふやだし、私自身の記憶もいい加減なのだけれど、確か1970年代の末か80年代の半ばまでのことだったと思う。「なぜ予備校や学習塾にできることが学校にできないのか」という学校叩き、「学校が機能していない」という声高な主張が行われるようになった。「学習塾で教えてもらったら生徒はこんなに点数が伸びる。学校はダメじゃないのか」という批判だ。そして、その結果として「塾に学べ」みたいな風潮が、確か関東を中心とした中学・高校に広がり、学習塾の講師が指導法を学校教師に教えるみたいな実践が行われるようになった。その結果として、多くの中学・高校が変質し始めた。具体的には受験を目標とした補習が広く行われるようになり、小テストの繰り返しとそれをマイルストーンにした対策が授業に盛り込まれるようになった。こうして、学校と塾のやっていることはだんだんと変わらなくなっていった。

重要なことは、このような変化が学習指導要領の変化と無関係に進行したことだ。学習指導要領そのものは、改訂のたびにより幅広く柔軟に思考する力を伸ばす方向や、よりコミュニケーション能力を重視する方向へと進化していった。ところが学校の方は、よりテスト対策を重視する方向へと進んでいった。そして、まるでその埋め合わせとでも言うかのように、技巧を敵視する古臭い作文教育のような、無意味なところばかりは温存した。

 

ここで重要なことは、「点数をとるための対策」は、基本的に学習指導要領に記載された学習の諸目的とは完全に別物であり、ときには対立さえするものだということだ。すなわち、

mazmot.hatenablog.com

に書いたように、本来テストとは「一定の能力が獲得できたらこれだけの問題は解けるはず」として作成されているのだが、それが「これだけの問題が解けることが一定の能力である」として運用されてしまっている。だから、伝統的に学習塾や予備校でやってきた「点取りゲームに勝つ方法」が「教育」であると誤解されて、それが誤解であることさえ意識されない現状ができあがってしまっている。あるいは、やたらと技巧ばかりを重視する数学教育のようなものができあがる。それは教育ではないということが、もはや寝言や譫言のようにしか聞こえない時代になってしまっている。

 

こういった現状認識があれば、なぜ「増田」が最初のエントリで「テスト」を提案しているのに後のエントリで「授業」を語っているのが「わかってない」と感じられるのか、理解してもらえるのではないだろうか。つまり、増田には「本来学校教育はこうあるべき」という理想がある。それが実現困難なことはさておこう。あるいは、「本来は学習指導要領でそういうのを教えることになっている」というタテマエと現実の乖離も、とりあえずは脇に置こう。そういうのをさておいても、もしもそういう教育によって得られるものを「テスト」にかけ、そしてそのテストで成績であるとか大学進学であるとか、あるいはその先につながる生涯年収であるとかが左右されるようなところを認めてしまうとしよう。そうすると、学習産業は、増田の主張する教育目的とは全く無関係に、「そのようなテストで点数をとる技法」を開発する。これはもう、そういう関係のプロとして保証する。これは増田が想像している以上のものを出してくる。最小限の努力で最大限の点数のアウトプットを出すことが受験産業に求められているわけだから、その手法が教育目標と合致していようがいまいが、そんなことはどうでもいい。仮に、入試がじゃんけんで決められるような日が来たとしたら、じゃんけん必勝法でも無理矢理に編み出してしまうのが受験産業というものだ。

そして、そうやって得られる高得点は、増田が望む能力を実現して得られるものとは全く別物になるはずだ。そんな未来を増田が望むわけはない。そういう未来が実現したとき、増田がどれほど地団駄踏むか、容易に想像できる。だから、「増田はわかってない」と、私は言う。

 

私たちは、まだ本当の意味で人間を評価する手法を知らない。そういう手法の代替として長く運用されている学力試験というシステムは、巨大な弊害を生み出し続けている。ここを変えるためには、単純に試験方法を工夫するだけでは無理だ。なぜなら、新しい方法には、必ず新しい対策が生まれるからだ。「傾向と対策」を繰り返すだけでは本質はなにも変化しない。

そうではなく、人間の評価をどのように社会に当てはめるべきかという思想、あるいは、そもそも人間の評価を必要とする社会の仕組み、そういったものから再構築していかなければならないのではないか。あーあ、たいへんだ。そんなことするよりも、点取りゲームを楽しんだほうがよっぽどラクだ。かくして、世の中は、今日も変わることなし。

 

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追記:こういう返事を頂いた。

anond.hatelabo.jp

 

ま、どんな道を通っても真理に至る人はいるので、そこは否定はしない。ただ、「指導法」ってのは多くの人が多くの試行をしてきて、「これがベスト」ってのがないってことはほぼ明らかになってる。要は、個別の事例、個別の状況によって、さまざまな手法が必要ってことなんだけどなあ。

 

まあ、学習塾に三代続けて通うような時代だから、いまさらそういうのがおかしいってのは、アホみたいに見えるんだろうなとは思うよ。けど、こっちからみたら、そういうのがアホみたいに見えるんだけどなあ。ま、立場のちがいということで。

規格外を認めない学校システム

家庭教師をやっていると、けっこうな確率で学習障害発達障害など、ハンディを抱えた生徒に遭遇する。理由はかんたんで、そういうハンディを抱えた子どもは、サポートを必要とする。必要なサポートが得られなければ、高額な負担をしてでも家庭教師を雇わなければならなくなる、というわけだ。それが一概にいいことなのかどうかはわからない。まあ、いろいろやってみることそのものは、わるいことではないのだろう。

ただ、どういうわけだか、私はまだ典型的な学習障害、典型的な発達障害の生徒を受け持ったことがない。家庭教師の仲間内の話では、かなり壮絶な事例を聞く。別段誇張があるとは思わないし、自分ならうまく対処できる自信もない。まあ、ここまでラッキーだったのだろう。私の運の良さは親譲りだ。

だから、発達障害についてのこんな話題に、何か具体的な事例で反応するわけにはいかない。

gendai.ismedia.jp

この記事、まずは「発達障害」という枠組みがもつ二面性について整理している。この部分、よく整理されてはいるが、特に目新しい視点でもない。発達障害という枠組みは、こまっている当事者を保護する役割を果たすと同時に、社会的に疎外することにもつながる。「障害者だから守らなければならない」と虐待から保護すると同時に、「発達障害というラベル」によって、社会から一方的に非を押しつけられることにもなる。障害の概念には、必ずこういう二面性がつきまとう。

このような現状に対して、この記事の著者は「発達障害」の概念に環境の要素を盛り込もうと提案する。ここのところがこの記事の肝。それは、端的にこの部分に現れていると思う。

たとえば、学校固有の「こうでなければならない・ああでなければならない」を基準点として「こまり」がつくりあげられ、それが「発達障害」流行により精神科受診につなげられ、診断がなされることによって診断数が急増したところの――従来の「学校都合の発達障害」にあたるものは、

診断名: 〈発達-環境〉調整障害スペクトラム・環境帰責型(学校タイプ)

に置き換える。

すなわち、何らかの障害が発生していることを認めた上で、その発生メカニズムまで診断名に組み込むことで、こまっている当事者が一方的に責められることを防ぐことができるのではないか、ということだと、私は理解した。単純に命名だけのことではあるようだが、どのように名付けるかということは、その後の人間の行動に反映される。小さくとも重要なステップというべきだろう。

 

さて、上述のように私は発達障害の生徒に出会ったことはないのだけれど、いわゆる「スペクトラム」な生徒はけっこういる。というよりも、100%定型の人なんてふつうはいないわけで、たいていはどっかがズレている。そのズレが困難にまで至って、ようやく「障害」という枠組みに組み入れられる。だから、一応どうにかして対処できている彼らは、定義上の学習障害発達障害ではない。

それでも、たとえばある生徒、宿題の提出ができずに学校で叱責ばかりされている生徒を見ていると、「別に放っといてくれればいいじゃないの」と思ったりもする。その生徒にとって学校生活を困難なところまで追い詰めているものではないが、それがなければもっと多くのことを学べるだろうと思う。頭のいい生徒だから、たぶん、反復練習なんてしなくてもだいたいの理解はできている。完璧まではいかないだろうが、完璧を求めてどうするよとも思う。それよりも、もっと新しい知識にどんどんと触れさせたほうが知性は伸びていくだろう。

あるいは、忘れ物が多いことを毎日のように注意され、常に黒板に名前を書かれている生徒。忘れ物をしてこまるのは本人なのだから、ある程度は自己責任、放っておけばいいだろうと思うのだけれど、その上にトドメを刺すようにさらし者にする。それは状況をより悪化させるだけだと、傍目には思うが、学校というところはそうではないらしい。

そうでなくとも、教師は生徒を自分の枠にはめようとする。たとえば代数のエックスの書き方なんて、実際には区別がつけばそれでいい。けれど、自分が信じている「正しい方法」でなければ激怒する数学教師にはしょっちゅう出会う。自分の授業を聞いていたかどうかだけを確認するための問題を出す国語教師、英語教師にもときどき遭遇する。既に時代遅れになった問題を、自分の好みだけで出題する社会科教師、理科教師も珍しくない。

そして思い出すのは、まだ駆け出しの頃にしばらく教えた中学2年生だ。彼女は実に、四則演算からして怪しかった。もちろん足し算、引き算の概念はある。掛け算、割り算が何かも理解している。ただ、繰り下がり、繰り上がりの操作が複雑になるとギブアップしてしまう。まして中学校の方程式だとか関数だとか、そういったものには手もつけられない。私の出会った生徒の中では最も学習障害に近い生徒だった。

それでも私が彼女を学習障害ではないと判断しているのは、 そういった試験問題に出そうな問題を解く能力はたしかに著しく低いものの、理性的な判断力や理解力は一般の生徒と何ら変わらないのを観察したからだった。ではなぜそれほどまでに問題が解けないのかと言えば、これは単純にその方法を学んでこなかったからでしかないようだった。あまりに長く学んでこなかったので、いまさらどうすればいいのかわからない、というのが彼女の置かれた状況だった。

私は最初、なぜそういうことが起こったのか、理解に苦しんだ。なぜなら、彼女はずっと学校に行ってきたのであり、どこかで躓いたとしても、それをとりかえす時間は十分にあったはずだ。教師だってどうにかしようと思うだろう。ていねいにひとつひとつ教えていけば、それなりにわかっていくはずだ。なぜそれをしないのだろうと。

その謎が解けたのは、ある日、彼女が学校の宿題をしているのを見たときだった。私が行ったとき、「宿題が間に合わないからやってもいいですか」と、彼女は学校の宿題をこなしていた。「しかたないね」と私はそれを傍観しはじめたのだが、すぐに「おいおい」と思った。なぜなら、彼女は解答集の答えを一生懸命書き写していたからだ。

「どうしても間に合わないときは仕方ないですけど、それって本当は意味がないんですよ」と、私はちょっとお説教をした。解答を書き写すことには、時間潰し以上の意味はない。ただ、どうしても提出物のかたちを整えなければいけない場合にはそうでもしなければやっていられないし、ある程度は学校でも黙認していたりもする。生徒の方でもそれはわかっている、はずだ。

けれど、このときの彼女の答えは私を驚かせるのに十分なことだった。「でも、先生がそうしろって言ったんです」。え?「学校の先生が、答えを書き写してきなさいって言いました。それでちゃんとマルがもらえます」

私は面食らって、そして、根掘り葉掘り問いただした。その結果、わかったことは、彼女は小学校のある段階からずっと、学校の教師から「学習障害」として、特別枠に入れられてきたらしい。これはカギカッコ付きの「学習障害」だ。どういうことかといえば、学習障害を克服するための特別プログラムなどは用意しない。ただ、学習障害なのだから、通常の学習は無理だ。ではどうするかというと、形だけ、通常の学習に参加しているようにする。そのためには、他の子どもと同じようにプリントをこなし、他の子どもと同じように提出物を揃えればよろしい。ただし、他の子どもと同じように考えることができないのだから、答えの丸写しを特例として認める。答えを丸写しして見かけ上は他の子どもと同じ学習進度を保っていれば、それで成績をつけましょう。そういう扱いを受けてきたのだ。

そうであれば、理解できる。いったん理解に遅れを取ってしまえば二度と浮かばれなくなるわけだ。学校の教師にとって、「勉強させる」というのは、「学習内容を理解させる」ということではなく、「みんなと同じことを同じ時間にやっている」ということでしかない。わからないことをいくらやってもわかるはずはないのだから、彼女にとって勉強とはみんなと同じことをする儀式に過ぎなくなる。何年学校にいたって点数がとれるようになるわけはない。

 

結局私は、9ヶ月ほど教えて、他の講師に交代した。それはもう単純に事務上の都合でしかなかったのだけれど、その9ヶ月で彼女の学習理解をいくらかでも改善できたと言い切る自信はない。それでも、彼女は立派な知性をもった人だった。なぜなら、その後のことが気になって出した年賀状に、こんな返事をくれたからだ。

先生はいつも、わからなかったらひとつ戻って考えなさいと言います。けれど、私は戻るのではなく、前を向いて進んでいきたいと思っています。

 

これだけしっかりと、批判的に考え、きちんと自分の意見を表明できる人なのだ。その長所を伸ばしていけば、学習指導要領に記載された目的を彼女の中に達成していくことは容易なはずだ。けれど、学校の教師は不毛な写経を彼女に強制する。なぜなら、規格を外れた生徒に対処する術を学校はもたいないからだ。

生徒の直面する困難は、部分的には内在的なものであるかもしれないが、多くは外部との相互作用の中で発生する。そして特に、堅くて融通の効かない学校システムは、そういった困難を引き起こし、増悪させる要因となる。それを意識させてくれるだけで、「診断名: 〈発達-環境〉調整障害スペクトラム・環境帰責型(学校タイプ)」みたいな書き方は歓迎すべきなんじゃないかと思う。

人は、人の能力を正しく測定できるのだろうか?

ある人に何かの能力があるかどうかを知るには、実際にそのタスクをやってもらうのがいちばんだ。たとえば、ある人がお茶を点てることができるかどうかを知りたければ、お点前をお願いすればいい。よどみない動作で美味しいお茶をいれてくれたら、素人目にも、「ああ、この人はお茶ができるのだな」とわかる。茶道の目的がWikipediaにあるように)「人をもてなす際に現れる心の美しさ」にあるのであれば、実際にもてなしてもらって、その動きを観察すればいい。美しい心は自ずとかたちになってあらわれるものだから。

けれど、茶道の達人であれば、そこまでの必要もないらしい。茶室を横切るその歩き方を見るだけで、しっかりとした茶の心得があるかどうかがわかるそうだ。きちんと茶道を学んだ人は、畳の上の歩き方からしてはっきりとちがう。そういう細部をゆるがせにしない気配りが、自然に身についているものらしい。

さて、ここで、多くの人々を対象に、茶道の心得があるかどうかを検査しなければならない事情が発生したとする。たとえば茶道の能力によって国家から一定の年金が支給されるようになったとでもしようか。こういう制度がもしも実現したら、人々はこぞって茶道を学ぼうとするだろう。受験者も殺到するにちがいない。

けれど、残念なことにお茶の道は時間のかかるものだ。師匠について何年も、細かなことをひとつひとつ身につけていかなければならない。その一方で、試験を実施する側もたいへんだ。お茶の実力の判定のためにいちいち茶席を設けなければいけないとなると、けっこうなコストがかかる。どちらの側にも、いろいろと問題が発生する。

ただ、お茶の能力は歩き方だけで判定できる。だとしたら、能力判定のためにお点前させる必要はない。受験者を師範の前で歩かせればいいということになる。試験が歩き方だけでいいとなったら、「じゃあ歩き方だけ練習すればいいじゃない」と考える不届き者が出るのはあたりまえだろう。そして、お茶を極めた結果として美しい歩き方ができる人と、歩き方だけを集中的に練習してそれを身につけた人と、おそらく判別はできない。もしも判別できるとしたら、その細かなちがいを分析して、さらにそこを訓練することで対応ができる。茶道の実力が歩き方だけで判定されるようになったら、ほとんどの人が「お茶の練習とは歩き方の練習である」と受け止めるようになるだろう。そこに何の不都合もない。

けれど、もしも本当に茶道の能力を評価したいのなら、それはちょっとおかしい。では、どうするか。たとえば歩き方の練習だけ積んだ人には、袱紗がさばけない。ならば袱紗のさばき方も試験項目にい入れればいい。いや、茶道はやっぱりお茶をいれてこそだろう。茶筅の使い方もチェックしなければならない。こうやって項目が追加されれば、それぞれの項目について受験者は一生懸命練習するようになるだろう。全てのチェック項目にパスすれば、その人は茶道を極めているといえるはず。そうだろうか?

一般に、「AならばB」であることは、必ずしも「BならばA」であることを意味しない。「茶道の心得がある人はきちんと歩ける」が正しいとしても、「きちんと歩ける人は茶道の心得がある」とはいえない。ただし、普通なら、後者も実用的に正しいといって問題ないのだろう。つまり、他人に茶道の心得があると錯覚させることを目的として歩き方を練習するやつなんて、ふつうであればいないからだ。これは、「歩き方」を「歩き方と袱紗の扱いと茶筅の扱いと…」と項目を増やしても同じこと。むしろ、項目を増やせば、常識的には逆はほぼ正しいといえるはず。

ただし、ここにそうやって人を欺くことが何らかの利益につながるような事情が発生すると、一気に話は変わる。これらのチェック項目さえクリアすればお金がもらえるのだとなれば、人はその項目の一つ一つについて最低限のコストで最大の効果を出すような投資をしてくるものだ。「茶道の心得があるからできるはずのこと」が、「茶道の心得があることを示すためにできなければならないこと」として習得されるようになる。たとえそのようにして習得される技術が基本的にチートであって、茶道そのものではないとしても。

むしろ、そういったことをする人々にとっては「茶道を学ぶこと」と「茶道の試験に合格するための練習をすること」の区別がそもそもつかないだろう。なぜなら、「歩き方ができ、袱紗が捌け、茶筅が正しく扱え…」といった項目ができれば公に「茶道の心得がある」と認定されるときに、それらの個別の練習をすることが茶道を学ぶことでないわけはないではないか。そうではない、というのは、お茶の師範であれば誰だって思うことだろう。けれど、「いや、歩き方さえ見ればお茶をやってるかどうかはすぐにわかります」と主張したのは師範自身であり、その言葉に間違いはないはずだ。さすがにそれではまずいと思っても、「じゃあ、歩き方も袱紗のさばき方も何もかも全部完璧だったらいいじゃないですか」と言われたら、言葉の返しようもない。たとえそれが「BならばA」でもって「AならばB」を担保しようとする無茶ぶりであることが明らかであっても、反論はできなくなってしまう。

これがいま、学校教育で起こっていることだ。学校教育の目的は、ごく大雑把に言ってしまえば批判的思考力やコミュニケーション能力、情報収集・処理能力を身につけることである。これは私が言ってるんじゃなくて、文部科学省が出している学習指導要領に書いてある(要約のしかたが大雑把すぎるのは私のせいだけれど)。そして、随所で行われる学力試験(考査、テスト、その他いろいろな名前で呼ばれる)は、「そういった能力が身についていたらこのぐらいは解けるはず」という観点から、問題を作成し、出題するものだ。つまり、授業を中心とする日常の学習活動の中での目標の達成度を把握するために実施されるのが試験である。そして、日常の学習活動は、常に教育の目的である現代社会に必須の能力の獲得のために行われるはずのものだ。ところが、いったん試験によって評価するという風習が定着してしまうと、「試験で高得点をとる」ことが「学習活動の達成」とイコールであるという誤解が生まれる。つまり、「AならばB」であるはずのものが、「BならばA」として解釈される。結果、「学習活動」はすなわち「試験対策」と同義になり、試験に出そうな問題を繰り返し練習することが「勉強」であると受け止められるようになる。こうやって、最終的には入試をゴールにおいた現代の教育システムができあがる。

私は何も、「試験のための勉強は誤っている」と、一義的に断罪するものではない。なぜなら、もしも何かをすることで明らかに利益が得られることがわかっているときに「それはちがう」とダメを出す権利など、誰にもないからだ。ゴミのような練習問題を繰り返し解くことで試験で高得点が得られ、高得点が得られることで難関校に合格が決まり、それによって最終的に生涯年収が数千万円から数億円ちがってくるようなときに、「それは本末転倒だから」とストップをかける権利は、少なくとも教師には、ない。たとえチートであっても、そこをくぐり抜けていくことで人生を築き上げていくことを私たちは何ら非難できない。

もちろん、個人的には基礎的な能力を上げていくことでほとんどの試験問題は解けるようになるものだと信じているし、最終的にはそちらのほうが早道で、より高いところまで到達できる方法だと思っている。だから自分の生徒にはなるべくそういう教え方をしているのだけれど、その一方で目の前にテストがぶら下がったときには、やっぱり(特に進学のための受験を前にした時期には)チートである点取りゲームを率先して指導する。だいいちが、「試験対策こそ勉強」というわけのわからない信念のもとに長年培われた教育体系の中では、ある程度それに合わせたこともやっておかないと、生徒が著しい不利益を被ってしまう。だから、私だって付き合い程度に試験対策はやるし、その程度なら大きな害悪もないのかとさえ思う。ときには、そういった圧倒的な誤解の中で本来の目的である批判的思考力やコミュニケーション能力をどうやってつけさせるかという課題こそが、プロとしての自分のセールスポイントであるとさえ思ったりもする。

つまり、現状は原則論からいえば問題だが、現実論からいえばしかたないといえる。あるいは、教育の内側だけの議論では変えられない問題だから、内側の議論をしても始まらないと思う。これは、試験によって人間を評価する社会システムのもつ問題であり、学校を序列化のための道具として利用してきた産業社会全体の問題だから、そこを含めた議論をしなければ解決への糸口は見えない。そこを無視して教育の中身だけで話をしても、「学力評価にはどんな方法が適切なのか」みたいなところにしか落ち着かない。ところが、「試験対策」が効かないタイプの試験にさえ対策しようとするのが業界のならいだ。序列化が前提になっているとき、その方法を変えても結局行き着くところは同じ。

私が問題にしたいのは、そういった現実があることは重々承知の上で、なお、「学力=試験の成績」つまり、「AならばB」として設計されたものを「BならばA」の研究に使って何の疑問ももたない教育研究の世界のことだ。「学力試験」の成績を「学力」として扱って平気な研究のことだ。そういうものが存在する、というよりも、学力に関する研究にはほとんどそういうものしか存在しないことを最近知って愕然とした。それって、科学的じゃないから。

科学的な研究では、実験が重んじられる。実験結果は、統計処理されて議論の根幹となる。なるほど、特に近年の教育関係の研究は、そのあたり、きっちりできているように見える。けれど、その実験結果としての学力試験の得点は、どのような意味をもった数字なのだろうか。

ほとんどの学力試験において、生徒はそれぞれ高得点を目指す。これは、小学校の高学年から中学生ぐらいにかけては特に顕著になる。なぜなら、高得点をとることが彼らの利益につながるからだ。この「利益」とは、、たいていの場合、保護者からの承認が得られるであるとか、クラス内での地位が確保できるとか、何らかの方向付けをされた価値観が満たされることによる快感であるとか、およそ学習活動の目的とは無関係なものであることが多いのだが、それはそれでかまわない。ともかくも、多くの生徒が「よい点を取ろう」と努力をすることが、現実の学力試験においてはふつうに発生する。

ところで、たとえば糖尿病に関連して何らかの薬品の効果を実証しようとしている研究があるとしよう。当然、ランダムに被験者を選び、無作為抽出によって投与群と対照群を分け、一方に薬品を与え、他方には偽薬を与える。さて、この被験者に対して、「これから糖尿病の実験をしますから、頑張って糖尿病を治しましょう」と告げることは、実験をよりよいものにするだろうか。実験結果の数値、たとえば血糖値の数値目標を設定し、そこに近づけるために患者に頑張らせることは正しいだろうか。7日おきに血糖値を測定すると決めたとき、「水曜日は測定日だから、火曜日には腹八分でお願いします」みたいに患者にお願いすることは正しいことだろうか。

もちろん、そういうことをやってもきちんと比較ができるように、対照群を用意してあるわけだけれど、それでもやっぱり、「よい結果を出すために普段とちがうことをする」というのはタンパリングであって、実験結果の信頼性を落とすことになる。仮に一部の被験者が試験薬以外の薬品を使用したとしたら、その人々は統計から外すべきだろう。科学的な試験の基本は、調べたい条件以外の部分にはできるだけ触らないようにすることである。

ところが、「学力」を測定する試験では、あらかじめよい点数が取れるような「対策」を実施することが常識になっている。その時点で既にこれは科学的なデータとしてはかなり有効性が下がっていると言わざるを得ないだろう。それも、その「対策」が、目先の点数を上げるため以上の意味をもたないようなものでしかなく、かつ、それを実施することで実際に点数が大きく変化してしまうとき、何らかの働きかけ(たとえばある教材を使用した理科実験の手法)が生徒の理解(理解度が高まればテストの点数が上がるものとしてテストが設計されている)を高めたかどうかなど、どうして試験の点数から判別できようか。そういった効果は、「テスト勉強」の前に埋没してしまうのが明らかだというのに。

正しい測定というのは、案外とむずかしい。特に、測定の対象が人間である場合には、かなりむずかしい。それでも、その困難を超える方法を科学は編み出してきた。

だが、測定の結果が人間の利害に直結するとき、すなわち社会的な力関係を規定してしまうとき、測定される人間はありとあらゆる方法を使ってその測定の裏をかこうとする。試験があれば、必ず対策をしようとする。その対策をすることが正しいことであるとさえ信じ込んでしまう。結果として、測定結果は全く信用できないものとなる。

だから、世にあふれた「○○学習法」みたいなのは、およそ科学的な根拠をもたないものとなる。それでも私は、やっぱり何らかの方法で、人間の批判的思考力やコミュニケーション力、情報処理の力を高めることができるのではないかと思っている。だって、それが仕事なのだから。そして、科学的な根拠があればなあと思う。思うのだけれど、それを正しく測定する方法は見つからない。だって、テストやったら、みんながんばってしまうんだもんなあ。

60年前のスパゲティレシピについて

なんか、しょうもない増田につけたコメントにやたらと星がついてるみたいなので、補足しておく。いや、補足するほどの情報もないのだけれど、ちょっと誤解を招いてはいけないなあとも思ったので。

30年前のスパゲッティ

一方、60年前に出された料理本には、「スパゲッティの麺は手に入りにくいので、細めのうどんを使います」と書いてあった。

2018/06/05 18:23

b.hatena.ne.jp

 

元増田

anond.hatelabo.jp

に関しては、「ちょっと時代がズレてないか」みたいな指摘もブコメに多い。私もそう思わないでもないが、まあ、地域差、コミュニティの差というようなものもあるのだろう。私自身の経験ではたしかに子どもの頃はいわゆるナポリタンが標準で、それが70年代にミートソースが出始め、80年代にはもう一通り揃ってたような気がするのだが、個人的には自分自身の成長の中で新しいものを知っていったという感覚なので、それが時代と関係していたとまで断言する気にはなれない。

 

さて、60年前の方だが、60年前には私は生きていない。じゃあなぜ、「60年前の料理本」なんて書けるのかというと、これはウチの母親が嫁入り修行中に買ったと思われる料理本で、長らく母親のネタ本になっていたのを中学生か高校生ぐらいのときに面白半分で読んだのを覚えているからだ。だから、ひょっとしたら70年ぐらい前のものかもしれない。奥付もちゃんと見たのだけれど、はっきりと覚えていない。ただ、1945年よりは後のものであったことはまちがいない。だから、70年以上前ということはないだろう。

 

「スパゲッティの麺は手に入りにくいので、細めのうどんを使います」というのは、そこに書いてあった。もうちょっと正確には、「細めの乾麺をゆでて使います」だったと思うが、正確な表現は思い出せない。なぜそんなことを覚えているかといえば、なんだかあまりにもあんまりだったので、とてつもなく奇妙に思ったから。私が子どもの頃にはもうスパゲッティは日常食だったから、「これはあり得ないよな」と思ったのも無理はない。

 

さて、ではこの料理本が書かれた1950年代には、それほどスパゲッティが珍しいものだったのだろうか。私はそうは思わない。いまのようにイタリアンの店がそこらにあるような状況ではなかったとはいえ、戦前から洋食を食わせる店はあり、スパゲッティもそれなりに供されていたらしい。では、なぜ「うどん」なのか。それは単純に戦後の物資不足のせいなのだろう。

第二次世界大戦後、日本は食糧難に陥った。何もかも放り出して総力戦を戦ったツケが回ってきたわけだ。戦争中は、案外と食い物はあったらしい。これは、自国内での生産が十分でなくとも、植民地から食料を移入できたから、というのが大きいようだ。だから、植民地の方の食糧事情は悪化したのだろうと思うのだけど、今回、そこまでは調べていない。ともかくも、植民地は失う、国内の農業は働き手を失って生産力が低下している(ちなみにこの頃にいまでいう中学生ぐらいだったウチの親父は、ムラに残った数少ない労働力としてこき使われ、百姓が厭になってしまったらしい)。そんな日本人を餓死させるわけにいかないから、アメリカは多くの物資を日本に支援した。その主力は小麦だったわけだが、大部分は薄力粉だったようだ。

スパゲッティは、グルテン含量の高い強力粉でつくられる。一方のうどんはふつうは中力粉でつくるが、いよいよなければ薄力粉でつくれなくもない。ということで、おそらく日本の製麺業界は、うどんの乾麺はつくれても、とてもスパゲッティまでは手が回らない状態だったのではないだろうか。

 

そういう状態は長くは続かなかったようで、この料理本の奇妙な記事を発見した私が母親に「むかしはスパゲッティの代わりにうどんを使ったの?」と尋ねたときには、母親は馬鹿にしたような顔で「そんなん、聞いたことない」と言い放った。だから、実際にうどんの乾麺をスパゲッティの代用にしなければならない時代はほんの短期間で終わったのだろう。おそらく花嫁修業中の母親がスパゲッティの項目まで進むまでに、スパゲッティは入手可能になったのではなかろうか。

 

もっとも、私の記憶にある家庭のスパゲッティは、ふにゃふにゃのゆで麺であり、決しておいしいものではなかった。あれだったら、うどんで代用というのも、あり得なくはなかったかもなあと思う。

 

資料が1冊の料理本に過ぎないので(しかもそれが記憶の中の断片に過ぎないので)、これ以上書くことはない。ただ、こういう食にまつわる歴史は、古本屋とかに行けばそれなりに資料も手に入るはずなので、いつか時間ができたらもうちょっと漁ってみたいなあとは思う。時間、あるのかなあ…

「文化の格差」という捉え方をやめよう - ちがっているのがあたりまえ

地方都市は住みやすい

若い頃、田舎まわりをしていた。それについて書き始めたら長編小説並みの自分語りになるのでやらないが(いつか書き残しておきたいとは思うけど)、沖縄を除いてほとんどの都道府県に足を踏み入れた。風来坊を泊めてくれる奇特な農家の厄介になって、いろんな田舎を見ることができた。もちろん、日本の隅々まで見たというつもりはない。田舎は実に多様で、山ひとつ越えれば風土も暮らし向きもちがう。人間だから、隣同士の人でも考え方がちがう。数十箇所の個別の事例だけからは、容易に全体像は見えてこない。そういう意味では、私は農村部の暮らしやそこでの生活感覚について、たいして知っているわけではない。

一方で、近畿地方北部の地方都市とその周囲の農村については、少なくとも都会を離れたことがない人たちよりは知っている。あわせて十年あまりの歳月をそこで過ごしたからだ。人口10万人レベル以上の地方都市に住んでみると(これも場所によって一律ではないとは思うが)、その便利さに驚く。なにしろ、必要なものがほとんどワンストップで揃っているからだ。たしかにいま、地方ではクルマが必須となっている。けれど、コアな部分は徒歩でぐるっとひと回りできる範囲に揃っている。東京だったら神保町で打ち合わせをしたあと渋谷で買い物をして、都庁に寄ってから池袋に呑みに帰ったら、その移動だけでずいぶんと時間がつぶれてしまう。地方都市だと喫茶店は駅前だし、買い物をするのは駅前の商店街(もっとも最近は郊外のショッピングセンターに移ってちょっと不便にはなったが)、役所はたいてい駅から歩い10分以内だし、飲み屋も駅と役所の周辺が多い。都会のようにあちこち移動しなくても、だいたいの用事が身の回りで片付く。そんな場所に事務所を構えたら、必要なものはすべて近所で手に入るから、仕事が捗ること。

もちろん、提供されるサービスの量は小さいし、質も必ずしも高くない。たとえば裁判所は支部でしかないし、国の出先機関が少ないのでたとえば産業局への書類申請は中核都市まで出向かなければならなかったりする。いまでこそマニアックな品物はWeb経由で発注できるようになったが、私が地方都市にいた頃にはちょっと変わった品物は大阪や東京に出張した折に仕入れてくるしかなかった。ライブハウスや市民会館に大物がやってくることもふつうはなかった。図書館の蔵書は少なく、見るからに市役所から左遷されてきた職員のレベルも最低だった。美術館に常設されているのは、全国的にはほぼ無名の地元芸術家の作品でしかなかった。

しかし、それをもって「文化程度が低い」と断じる気には、私はなれない。なぜなら、その私にとって故郷ともいうべき地方都市にいたときのほうが、それ以前に住んでいた大阪、東京、京都といった大都市に住んでいたときよりも、あるいはその後に移ってきて現在住んでいる神戸市の近郊での暮らしよりも、生活はずっと優雅だったからだ。暮らしが優雅なことを文化的と表現するなら、あの頃が私の人生の中で最も文化的だった。

なぜなら、それは質と量の不足を補う利便性があったからだ。図書館ひとつとっても市立図書館のレベルは情けないものだったが、大学(これもいわゆるFランなのだろうが)の図書館はそれなりにしっかりしていて、そしてそれが市民利用を認めていることも広くアピールされていた。車社会だから、隣の自治体の図書館に足を伸ばすことも気軽にできた。やってくるアーティストの格は低かったかもしれないが、その分だけ低価格で気軽に覗きに行けた。地元に定着している田舎暮らし系のアーティストたちは都会にもっていけば吹けば飛ぶようなレベルなのかもしれないが、十人前後の集まりで目の前で演奏してもらう機会、作品の解説をお茶なんか飲みながら作者自身がしてくれるような機会は、それなり以上のインパクトがあった。田舎の資料館には、全国的な著名人の資料が収蔵されていて驚かされた。田舎の強みはそこに流れる時間の蓄積であり、長い歴史の中ではどんな草深い田舎でも一人や二人の偉人を生み出しているものだ。数は多くなくとも、一点突破式に歴史の複雑さを学ぶことができる。そして、そういった公共施設の多くは無料だ。こんなふうに、田舎は案外と、かんたんに文化的な生活ができてしまう。

多様性こそ文化の源

都会の多様性は、人口の多さによって担保されている。たくさんの人がいれば、それだけいろんな人がいるという理屈だ。数がいれば、その中に優秀な人が含まれる確率も上がる。枠からはみ出る人、変人や奇人、おもしろい人、魅力的な人が含まれる確率も上がる。いろんな人がいるから、都会は輝く。

しかし、都会というシステムが多様性を産み出すものかといえば、むしろそうではないだろう。都会が人を惹きつけるのはそこに仕事があるからだが、都会で行われる仕事は基本的に規格化、統一化されていて、業務内容の多様性にもかかわらず、生活に与える影響は似たりよったりになる。結果として、都会は多様性に富むのだけれど、人口の割には変異の幅は小さくなる。

一方の田舎は、人口が少ない分、どうしても極端な変異は見つけにくくなる。超一流の人は、田舎よりも都会に見つかる確率が高い。しかしその一方で、田舎は多様な生き方を許容する。そういうとちょっと都会人の常識とはちがって聞こえるのかもしれないが、かつて画一的な農作業を基準に統制されていた農村経済はとうに崩壊し、個別の状況や工夫で生き延びることができる人が田舎の主力になっている。資産を食いつぶしている人、役所や農協のような安定した職場を見つけた人といった保守的な生存戦略をとっている人々から、起業(第二起業)で起死回生を図る人や新しいライフスタイルを試みる人のようにアグレッシブな生存戦略を選ぶ人まで、およそ都会のような「会社に勤めてりゃなんとかなる」が通用しない世界では、それぞれがそれぞれの事情に応じて生き方を探るしかない。結果として、地方都市や農村には、都会とは別なかたちでの多様性が生まれる。

そして、世界が狭い分だけ、その多様な人々が互いにかかわり合う場面が多くなる。若いころ、東京の都心部に住んでいて「山の中でだれにも会わずに暮らしたい」と思ったりしたものだが、現実には世捨て人の生活は、都会でこそ可能になる。生きていくためには必ずだれかとかかわるわけで、そのかかわりを無名性の中で実行できる都会とは異なり、田舎では多くの場合そこに特定個人が紐付いてくる。結果として、やたらといろんなところにつながりが生まれていく。好きでもないところに引っ張り出されたりもするが、それが新たな発見につながることもある。身の回りには、思いもかけず多様な世界が広がっていく。そういった地方都市やその周辺部での暮らしは、私にとって十分に文化的だった。それは、いろんな人に出会えたことが大きいのだと思う。人間の多様性こそが、文化を支えている。

「文化と教育の格差」論

文化というものを意識しない多くの人にとっても、やっぱりそういった地方での暮らしは十分に文化的なのだと思う。草深い田舎に住んで俳句の投稿を欠かさない高齢者、伝統の織物や染め物を受け継ぎ、ときにはローカルな講座で講師をつとめる農村の婦人部の人々など、文化という視点から見て評価に価する人々はいくらでもいる。田舎の文化程度が都市に比べて低いなどというのは、寝言でしかない。

それでは、最近はてブで賑やかなこういう一連の議論の中での「文化と教育の格差」は、どう受け止めればいいのだろうか?

gendai.ismedia.jp

gendai.ismedia.jp

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ここで問題になっているのは、一義的には教育の格差である。そして、教育の格差の要因としての文化の格差が問題になっている。それが存在しない、などと真正面から否定してしまうことはできない。なぜなら、上記記事の2名の著者、そしてそこにコメントを付している多くのブクマカたちの議論を見れば、何らかの格差が存在することはほぼ否定できない事実だからだ。議論は、それが存在するかどうかについてではなく、どちらかといえばその表現や受け止め方が妥当かどうかというところを巡って行われている。あるいは、それがどう作用しているのか、どう変わっていくべきなのかという次元に向かっている。

では、ここで問題になっている格差とは何だろうか? それは、最終的には経済格差の話である。つまり、現代社会では階層化された学校システムの上位に進んだ者ほど経済的に上位に到達する。学校システムの中での順位差は教育によって発生し、教育を支えるのは文化である。経済格差が厳として観測される以上、そのもとをたどれば文化格差が存在しないはずはない。当然だろう。そして、水野氏のブログの結論:

阿部幸大氏は東大を経て現在はアメリカで学究に励まれているようであるが、「文化と教養の格差」克服のために、ぜひとも将来は釧路に戻られ、地域の若者に薫陶を授けていただきたいと思う。

は、つまり学校システムの上位に上り詰めた人に対して地方に戻ることを奨めているわけだが、結局のところこれは経済社会の中での上位者に地方に戻れと言っているわけで、それはつまり経済の還流をせよと提案していると捉えていいのだろう。それはそれでまちがっていないとは思う。

原理主義者の違和感

そういう話の流れをわかった上で、それでもなお、私は「文化と教育の格差」という捉え方に違和感を覚える。「文化」だけでなく「教育」に関してもそうだ。なぜなら、教育とは人間の成長そのものであり、個別の人間に即してみれば、それぞれの成長が異なっているのは当り前であり、また、その成長の様式もちがう。そこに格差のような集団的な分析をあてはめるのは穏当ではない。穏当ではないが、そういう考え方は成立する。それは、その成長に一定の方向の順位づけをあてはめる場合であり、そして、現に現在の経済社会ではそういった順位づけが行われている。むしろ、学校システムの中のそういった順位競争を順当に上り詰めていくことこそが教育であるというような錯覚さえ与えてしまう。そういう枠組みに立ったときには、そういった一方向への進行を促進するものと阻害するものという観点から、格差という捉え方が可能になる。それに密接に関連する要因として文化があるのなら、そこをひとつにひっくるめて「文化と教育の格差」という括り方が可能になる。そういう括り方をしてしまえば、それは確かに存在するし、それはどうにかしなければならない問題というふうになる。

だから、ここで私は2つに分裂してしまう。現状のそういった教育システム、あるいはそれを前提として成り立っている経済システムが実際に存在しているということから出発すれば、これらの記事にあるような議論に参加できる。しかし、その一方で、「教育なんてそんなもんじゃない」「文化ってそういうもんじゃない」という立場からいえば、こういう議論はトンチンカンなものにしか見えない。東大行くことがエライんじゃなくて、その人がその人生を豊かにできるだけの知恵をつけることが重要なんだ。それが教育の意味だ。文化は競争のためにあるのではなく、人間の暮らしそのものが文化なんだ。そういった原理主義に立てば、寝言は寝て言えという気分にもなる。

そして、私自身が地方都市やその周辺で体験したことを照らし合わせ、さらに自分自身が受けた教育が階層社会の中で上位に進むことには何の役にも立たなかったにもかかわらず自分の人生を豊かにしてくれたことを思うにつけ、やっぱり大都市と地方の「文化と教育の格差」なんて、幻に過ぎないのだと改めて思う。確かにちがいは存在する。それはときには経済格差にも結びつき、場合によっては地域の消滅にもつながりかねない深刻な問題にもなる。それに対処することは十分に重要だ。けれど、それは、そういった格差を生み出してる競争社会、学歴社会、金儲け優先社会の枠組みの中に参加することで解決できるものではない。そこから抜け出したときに、大都会と地方の間に存在するのは単なるちがいであり、ちがいはあってあたりまえであり、そのことが上下方向の差、つまり「格差」であると意識されないものになるはずだ。

そういう世の中になって欲しいと思うんだが、さて、それはこの世界線ではなかったかもしれないなあ。私はやっぱり、異世界から転生してしまった人間なんだろうか? そんなわけ、ないか。

「やる気」という神様

(以下、「家庭教師のための講座」のための原稿下書き)

生徒に教えていると、「やる気」がなくて困ることって、たくさんありますよね。生徒の「やる気」がなくて困ったこと──そうですよね、皆さん、大きく頷いてらっしゃいます。皆さんの経験でけっこうです。生徒の「やる気」がなくて困ったこと、どんなことがありますか?

「宿題をやらない」。そうですね。やる気がない生徒は宿題を出してもなかなかやってくれません。「居眠りをする」。ありますね。中学生とか、特に夕方の時間帯に居眠りをされることがよくあります。「学校の授業を聞いてこない」。そうなんですよ。家庭教師がいくら頑張ろうと思っても、授業聞いてなかったら、最初っから説明し直さなきゃいけません。時間のロスですよね。「すぐに関係のない話をする」。「集中力がない」。「気が散る」。こういうのは授業にならないです。もうちょっとやる気を出せって言いたくなります。「おぼえてくれない」。「すぐに忘れる」。やる気あんのかって、腹が立ちます。「テストでひどい点をとっても平気な顔してる」。「他人事みたいで当事者意識がない」。こういうのも、「やる気」の問題でしょうか。

「やる気」がないと、こういうことが起こります。つまり、「やる気」があれば、これらの問題が解決するわけです。「やる気」があれば、学校の宿題も家庭教師の宿題もちゃっちゃっとこなすし、自主的にどんどん勉強するし、集中力が高まって、学校でも家庭教師の授業でも、しっかりと聞いて、覚えるべきことは忘れない。常に自分の成績をモニタして、進んで弱点の補強をするし、わからないところはどんどん質問してくれる。成績が伸びないはずはありません。

「やる気」はすべてを叶えてくれます。素晴らしい。まるで、全能の神様のようです。だから、皆さん、「やる気」を高めるための工夫をいろいろなさってますよね。「褒める」とか、「危機感をもたせる」とか、他に何がありますか? モノで釣るっていうのは、ちょっと微妙ですが効果はあります。お家の方にお願いして、生徒のほしいものを目標達成の報酬に設定してもらうとか、ですね。「やる気スイッチ」さえ押せれば、問題はすべて解決する、と。

さて、ちょっと話が変わりますが、皆さん、お米をつくったこと、ありますか? 自分で田んぼをやったことがなくても、日本人ならだいたいのことは知ってますよね。小学校5年生の社会科でも習いますし。この米づくり、基本は弥生時代から変わっていません。苗代で苗を育て、荒起こしから代掻きまで入念に準備した田んぼに移植、水管理と草取りをして育て、中干しやら追肥を必要に応じて行って、稲刈り、天日干し、脱穀、もみすり、最後は精米ですね。まあ、弥生時代は最後の3工程は一緒だったようですけど。

そして、その全ての段階で、トラブルが発生します。むかし、まだ農業技術が発達しなかった頃なら特にそうでしょう。寒のうちから水につけておいた籾が発芽しないとか、苗代の苗が一晩で枯れてしまうとか、荒起こししようと思ったら牛が病気になるとか、代掻きしようと思っても雨がふらず水が足りないとか、田植えに人手が足りないとか、植えた苗がうまく活着しないとか、雑草の勢いが強すぎて稲が育たないとか、虫が大発生してしまうとか、病気になるとか、台風で稲刈り前に全部倒伏してしまうとか、鳥が大襲来してせっかく実ったお米を食べてしまうとか、刈り取った稲がなかなか乾かないとか、収穫が全部ネズミにやられてしまうとか、挙げはじめたらきりがありません。古代の日本人は、こういう苦難を乗り越えて、連綿と米づくりを続けてきたのですね。頭が下がります。

そういったトラブルが連続したとき、古代の人々の中には、「これは神の祟りだ!」と叫ぶ人がきっと現れたことでしょう。たしかに、神様なら(特に日本の八百万の神々なら)、気に入らないことがあっただけでこういった災厄の全てを引き起こすことができたかもしれません。苗代がうまくできないのは神の祟り、肝心なときに水不足になるのは神の祟り、一晩で全ての田んぼに病気が広まるのは神の祟り。自分たちがコントロールできない災厄がやってきたとき、それでも人間はそれに対処しようとします。だから何か合理的に見える原因を探し、そして神様を見つけます。神の怒りを宥めるために祀りをし、供物を捧げ、祈ります。そして、どうにかこうにか災厄から逃れることができたら、神に感謝を捧げることでしょう。そういった古代人の心を私たちは嘲笑うことはできません。

けれど、もしもあなたが現代からタイムマシンで古代に派遣された農業技術者だったらどうでしょう? 同じように神に祈りますか? 苗代の苗に元気がないのは神様がわるいのですか? 水の入ってこない田んぼを前にして、それを神様のせいにしますか? いもち病が大発生したとき、それを神の怒りと感じるのは正しいでしょうか? そうではありませんね。

現代人の常識からいえば、苗代の生育がわるいのは水温が低すぎるのです。太陽の光の当たるところに水路を迂回させたり、あるいは寒冷紗をかけたりして低温を防ぐことで、苗の成長は促進されるでしょう。毎年のように水不足になるのは水利がわるいのですから、用水路を整備したり溜池を造成して長期的な対策をするべきでしょう。稲が雑草に負けるのは水管理がうまくいっていない可能性がありますから、田んぼの均平を徹底したり、深水管理をやってみたりします。病気が発生するのは密植のせいであったり害虫のせいであったりしますから、栽培方法に工夫を加えてみてもいいかもしれません。台風は防ぎようがありませんが、収穫の季節といつもぶつかるようであれば、早生や晩生の品種に変えて栽培時期を少しずらしてみる工夫もあり得るでしょう。

そして、こういった農業技術は、ただ盲信的に神の祟りのせいにする姿勢からは生まれません。そういった言説が説得力をもった時代にあってさえ、やはり「本当の原因は何なのだろう? その原因にどうにかして対処する方法はないのだろうか?」と冷静に分析する人々がいたからこそ、進歩してきたものです。こういった姿勢を、現代的には「科学的」と表現することができるかもしれませんね。

さて、現代の学校教育は、「科学的」であることをひとつの柱としています。これは個人的な信念とは無関係に、否応なく、そういう縛りが入っているのです。学習指導要領でそう決められている以上、公教育では逃れられません。そして、それを補完する形で雇われている家庭教師にとっても、そこを無視することはほぼ不可能です。論理的に考える力を生徒につけていくことが、家庭教師には求められています。論理的であるためには、その前提として、事実を客観的に捉える力が必要です。それを合理的に解釈し、きちんと伝えていく能力が、すべての教科指導の前提としてあるわけです。

そういう前提があるときに、さて、私たちは、「やる気」という神様を持ち出すべきなのでしょうか? 「宿題をやってこないのはやる気がないせいだ」という判断は、いかに説得力があったとしても、「水不足になるのは神様の祟りだ」という判断と同じレベルではないでしょうか? 確かに「やる気があれば集中力が高まる」のは事実かもしれませんが、それは「神様のおかげで豊作だった」というのと同じ程度でしか事実ではないのかもしれません。生徒の「やる気」を賛えるのも神様に感謝するのも正しい姿勢でしょう。けれど、そこで「やる気スイッチ」を探したり神様の喜ぶ供物を考えたりするのは、ひどく浅はかなことではないでしょうか。

もしも「宿題をやらない」という問題が発生したとき、私たちはそれを「やる気」という曖昧なものに転嫁してはなりません。それは、「自分にはそれをコントロールできません」と白状しているのと同じことです。なぜなら、「やる気を高める」と呼ばれている方法のほとんどは、まじない程度の根拠しかないからです。「やる気スイッチ」なんて、人間にはついていません。そういうものがあるなら、見せてほしいと思います。見たことがないものをあたかも存在するかのように触れて回るのは、神様を担いで金儲けをする詐欺師とほとんど変わりません。

「宿題をやらない」という問題が発生したら、その原因を客観的に分析することです。ひょっとしたら、物理的に時間がないのかもしれません。クラブ活動で疲労がたまりすぎていて、とても机に向かえる状態ではないのかもしれません。あるいは、宿題をやらねばならないということに納得できていないのかもしれません。現実に、その生徒にとってその時点で不要な宿題を出してしまっているときに、そういう事態は発生します。家庭教師が「いま、ここで、この課題をこなすことによって、こういう技能が向上する。そしてその技能の向上がいまこの時点で必要になるのだ」ということを確信をもって語れなければ、生徒が納得できるはずはありません。納得がなければ行動はありえません。そういう理由が存在するときに、「いや、宿題は必ずやるべきものだから」とか「学習習慣が大事だから」とか、およそ迷信に近い思い込みで説得しようとしたって、問題が解決するわけはありません。あるいは、家庭教師の説明のしかたが悪く、どのようにして宿題をすればいいのか、具体的なところでわからなくなっているのかもしれません。シャーペンの芯がなくなっていて買いに行けないとか、消しゴムをなくしてしまったとか、「言い訳だ!」と怒鳴る前に、その具体的な理由にひとつひとつ対処していけば、案外と問題は解決するものです。

科学的に学問を教えようというのであれば(そしてそれは明らかに要請されています)、まず、教師自身が科学的でなければなりません。科学的に教えるというのであれば、まず、目的・目標を設定し、手法を考え、環境を整え、その上で発生する問題を客観的に把握し、分析し、論理的に解決策を提案していかなければなりません。そういうことをすべて省略して、迷信に逃げ込むことは楽なことです。古代人が神をもちだしたように、存在するかどうかさえわからない「やる気」のせいにすれば、みんな表面上は納得してくれます。けれど、それではなにひとつ変わらないということを、はっきりと意識すべきだと思います。

それさえできない家庭教師には、本当に「やる気」がないんだと思いますよ。

 

(そのうち、家庭教師相手に講座を開きたいと、ときどき考える。半分本気で。だって、ほんと、何も考えずにただ自分が教えられたようにしか教えられない教師が多すぎるんだもんなあ)

 

 

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追記: こういうのを読むと、やっぱり「やる気がないから」みたいな理由づけは迷信でしかないと思う。単純に二酸化炭素濃度の問題という可能性もある。あらゆる可能性を排除すべきではないよなあ。

togetter.com

数学教育の意味と、残念なその現状について

学校で数学を学ぶのは、何のためなのだろうか。家庭教師として生徒と数学を始めるとき、だいたいは最初のうちにここを生徒に確認する。「何のために数学やるの?」。多くの生徒が「将来困るから」みたいなことを答えるので、「学校で習う数学を使うことなんてほとんどないよ。足し算、掛け算、引き算は、別ね。割り算は微妙かな。あとはふつう、使わない。連立方程式使って買い物する人は見たことないし、速さのグラフを書かなくても電車やバスに乗れる。確率の計算ができなくても天気予報はわかるし、図形の証明ができなくても日曜大工ぐらいできる。数学やらなくても、大人になって困ることなんか、ふつうはないよ。もちろん、数学が役に立つ仕事もある。家庭教師なんて仕事は、数学をわかってないとできない。君は将来、家庭教師になるの?」ぐらいのことは言って、その曖昧さをぶち壊しておく。

もちろん、数学を学んだことは役に立つ。だが、その役に立ち方は、見えないところに現れてくる。その見えない部分が重要なのだけれど、生徒にはそれがイメージできていない。イメージできていないから、なにをがんばればいいのか、どういうことがわかれば「数学がわかった」ことになるのかがわからない。だから、苦しむ。いや、テストの点数は、決して数学の理解を示しているんじゃないから。

数学を学ぶ理由は、私がつらつらと考察してもいいのだけれど、どちらかといえば数学が苦手なしがない家庭教師があれこれと考えなくったって、ちゃんと公の文書に記されている。学習指導要領だ。去年改訂になったばかりの最新版によると、それはこういうこと。

第1款 目 標
数学的な見方・考え方を働かせ,数学的活動を通して,数学的に考える資質・能力を次のとおり育成することを目指す。

という部分は、中学、高校とも同じ。そして、「次のとおりの」の部分もほとんど同じなのだけれど、微妙なちがいがあるから、両方とも引用する。

(中学)

(1) 数量や図形などについての基礎的な概念や原理・法則などを理解するとともに,事象を数学化したり,数学的に解釈したり,数学的に表現・処理したりする技能を身に付けるようにする。
(2) 数学を活用して事象を論理的に考察する力,数量や図形などの性質を見いだし統合的・発展的に考察する力,数学的な表現を用いて事象を簡潔・明瞭・的確に表現する力を養う。
(3) 数学的活動の楽しさや数学のよさを実感して粘り強く考え,数学を生活や学習に生かそうとする態度,問題解決の過程を振り返って評価・改善しようとする態度を養う。

(高校)

(1) 数学における基本的な概念や原理・法則を体系的に理解するとともに,事象を数学化したり,数学的に解釈したり,数学的に表現・処理したりする技能を身に付けるようにする。
(2) 数学を活用して事象を論理的に考察する力,事象の本質や他の事象との関係を認識し統合的・発展的に考察する力,数学的な表現を用いて事象を簡潔・明瞭・的確に表現する力を養う。
(3) 数学のよさを認識し積極的に数学を活用しようとする態度,粘り強く考え数学的論拠に基づいて判断しようとする態度,問題解決の過程を振り返って考察を深めたり,評価・改善したりしようとする態度や創造性の基礎を養う。

読めばそのままなのだけれど、大雑把にまとめれば、(1)として数量で表現・処理する技能、(2)として論理的な考察力とその表現、(3)として数学的表現を活用する思考力を求めていると解釈できるだろう。つまり、「技能」的な部分は3つの目的のうちの1つに過ぎず、しかもその(1)の中身を見れば「原理・法則の理解」が半分を占めるので、「技能」は全体の6分の1程度しか占めていないことがわかる。つまり、数学を学ぶ目的は、本質的には「技能」ではない。

数学的な「技能」とはなにかと言えば、それはたとえば四則演算であったり、方程式を解く技術であったり、関数を座標や変化率で操作する技術であったりする。こういった技能は、残念ながら、ごく一部の専門職を除き、学校以降の人生で役立つことはほとんどない(かんたんな加減乗算は別として)。もしも数学の目的が技能の取得であるのなら、それは袋小路に過ぎない。無意味といってもいい。

技能を身につけることはたしかに目的のごく一部を占めはするが、実際にはより大きな目的は別にある。それは、「論理的に考えること」「数学的に表現すること」「数学的な思考方法を活用すること」である。そして、これら、技能ではない部分の素養を身につけることは、学校以降に役に立つ。ほとんどの仕事は論理的に考えて進めないと失敗する。仕事だけではない。日常生活でも、論理的に考えることによって破綻から逃れられるケースは少なくない。数字で表現したり、数字で表現されたものから情報を読み取ることも、多くの現場で必要になる。そして、これらに比べれば出番は少ないけれど、数学的な思考方法で問題が解決できる場面は、業務によってはけっこうあったりする。特にPCでかんたんなプログラミングでもしようかという場合には、こういった素養がものをいうだろう。

だから、数学の目的は、さらにギュッと要約してしまえば「論理的な思考力を身につけること」になる。論理的な思考力は数学でしか身につかないのかといえば、そうではない。国語教師に言わせれば、国語の問題は論理的思考で解くものだそうだ。社会科の入試問題なんかを見ていても、良問は暗記ではなく思考力を要求するようにできている。しかし、そういった人文系の学問は、どうしても曖昧な部分が多くなり、論理の積み上げにしても恣意的なところが入り込みがちになる。それに対して数学は、厳密なところまで論理の構成できちんと処理できる。文句のつけようがなく論理の正否が明らかになる。だからこそ、論理的思考力を身につけるための科目として、数学が教育課程に組み込まれている。このぐらいまでのところは、たとえ相手が中学生であっても、噛み砕いて授業の最初にわからせておく。

じゃあ、技能は無視していいのかというと、実はそうではない。なぜなら、論理の展開は数値計算をはじめとする演算処理を伴うのが通常で、その演算処理にエラーが出たら論理が破綻してしまうからだ。だから、たとえば四則演算の技能は「論理的思考力」を数学で展開する上では必須になる。指導要領に定められた数学の目標の中に「技能」が含まれるのは、このような理由からであろう。

 

では、実際に数学が教えられている中学、高校の現場では、指導要領に記載されたそのような目標に即した指導が行われているだろうか? 数学教師に尋ねれば、ほぼまちがいなく「そうだ」と答えるだろう。なぜなら、中学生活の最後にやってくる高校入試、高校生活の最後にやってくる大学入試では、指導要領の範囲を逸脱して出題しないという不文律がある。そういった入試で合格点をとるためには、指導要領に即した指導をしなければならない。教師であれば、それは強く意識しているはずだ。

しかし、実際にやっていることはどうなのだろう? それら教師の指導を受けている生徒たちを見る限り、学校の授業では「論理的思考力」など、ほとんど身につかないのが明らかだ。もちろん、中学・高校を通じて論理的思考力を発達させる生徒は多い。だが、それは、言っちゃわるいが、あんな授業にもかかわらず、自力で発達しているのだ。本来は発達を支援するための授業が、むしろ阻害要因になっていることのほうが多い。

それは、極端な技能偏重主義にある。どういうことかというと、本来は、論理的思考力を鍛えることによって解決すべき演習問題を、基本的に教師は考えさせない。考える時間を与えない。そりゃ、ほんの数分の余裕を与えることはあるかもしれないが、数学の問題なんて、本格的に悩み始めたら1時間、2時間といった単位で考え込むものだ。そのぐらい悩んだら、以後、すべての問題は解決する。それが数学的・論理的な思考力を鍛えるただひとつの方法だ。ただ、悩み続けるのは相当にしんどいので、教師はそれを支えてやらなければならない。個人によってプロセスの異なるそういった学習を、学校のような空間でやるのは無理だ。結果として、学校では演習問題の解法を覚えさせる。すなわち、思考力問題を技能として扱う。

このようにして、数学はさまざまな問題パターンの解法を集積したものに成り下がる。解法は、それをたどれば正解にたどり着くことができる。ただし、解法を忘れてしまえばそれまでだ。もしも正しい思考力が身についていさえすれば、解法なんて忘れてもすぐに復元できる。ちょうど、正しく学んだプログラマのようなもので、問題を与えられたら自力で解決することができる。私のような見様見真似のパソコンユーザーはといえば、マクロひとつ書くのにもウェブを検索し、当てはまりそうなスクリプトを見つけ、それを切り貼りして、野暮ったいものを仕上げるしかない。それはそれでひとつの技術であるのかもしれないが、そこに創造的な未来はない。数学を正しく学ぶことも同じだ。参考書の解法をコピペで書き写して暗記するだけでは、ほぼ意味はない。目の前の入学試験に必要な点数を確保するという以上の意味は。

 

こういった本質を離れてしまった数学教育の見本として、中学数学の証明問題を例にあげておこう。図形の証明問題は、典型的な論理学の学習だ。多くの人々にとって実用的な意味の小さい図形の性質ではあるが、それを利用することで、論理をどのように組み立てれば説得力をもつのかを生徒に学ばせるのがこの単元の目的である。仮定を出発点に、公理や定理を論拠にして結論に至る強固な道筋をつけていく。その道筋は、決して一通りではない。けれど、いくつもある正解の中に一定の規範を見つけることで、古代から広く認められてきた論理の展開方法を理解するわけである。

したがって、この単元では、何より重要なのはとにかく自力で書いてみることと、そこで書いた証明の仮定を批判することである。「ここが論理的につながっていないよ」とか、「ここの根拠が弱い」とか、そういった批判がなければ、どのような手続きが批判に耐え得るのかを身をもって体験することができない。たとえば、中学2年の三角形の合同で、合同条件を「1組の辺とその両端の角がそれぞれ等しい」と根拠を書く場面があるのだけれど、これを初心者はよく「1つの角とその両端の角が等しい」と書く。学校ではこれを自動的にペケにする。あるいは、「『1』つではなく、『1組』と書きなさい。『それぞれ』は決して忘れないようにしましょう」と指導する。その理由をもしも質問されたら、「等しいというのだから2つのものが等しいはずで、それは『1つ』では表せません。『1組』になるはずです。『それぞれ』がなければ、1つの三角形の2つの角が等しい(つまり二等辺三角形)と誤解されます」と、詳細に説明してくれる場合もあるだろう。けれど、そういう手順では、正しい論理感覚は身につかない。まして、ほとんどの学校では、採点が大変だからとか、公平性を欠くからとか、生徒の負担が大きすぎるからとか、あるいは県によっては「入試に出るのがその形式だから」というもっともらしい理由をつけて証明をスクラッチから書かせない。証明問題は、基本的に穴埋め形式となる。その穴埋めの根拠として「1組の辺とその両端の角がそれぞれ等しい」と書くときに、論理はそこに必要ない。必要なのは暗記であり、いかに正確に条文を再現できるかということでしかない。

クラッチから証明を書かせ、それを正当な根拠で批判するという面倒くさい手続きを踏んだとしても、それでとれる点数は変わらない。だから証明問題は丸暗記問題として生徒に受け取られ、その最も肝心な論理性はほとんど無視される。そしてその傾向は、高校数学になっても変わらない。なにしろ、多くの生徒の通過儀礼となっているセンター試験は、穴埋め問題の極北であるのだから。

 

ひどい例をあげ始めたらきりがない。だが、極端にひどい例は、教師の資質であるかもしれない。たとえば、どこからどこまで理にかなった解法をしているのに、「オレが教えた解き方じゃない!」と激怒してペケをつけた高校教師なんかは、おそらく多数派ではないのだろうと信じたい。それにしても、ローカルルーに過ぎない代数のエックスの書き方にこだわる教師とかには普通にお目にかかるし、独自の教材プリントをつくる熱心なのはいいのだけれどその中身が暗記項目リストみたいになっている教師とかもしょっちゅう遭遇する。そういう人々が生徒に送っているメッセージは、「数学とは形式を重んじることだ、正解に至る道筋を覚えることだ」というものだ。学習指導要領が「数学とは論理的に考えることである」と定義しているのはそれを読めばほぼ明らかなのに、そこで必要最小限に触れてある「技能」を最大限に押し戴く。これが数学教育の現状だ。

 

そして、そんな数学教育が続くのであれば、それは「本当に必要なの?」と疑問を呈されても不思議ではないだろう。もちろん、「数学教育の本質はそうではない。数学は論理的思考だ!」と擁護することはできる(私だって擁護したい)。けれど、現状の学校教育制度の中では、ほぼそれが不可能だ。それは、現場の教師がよく知っているはず。

なぜなら、まず、論理的思考の発達という個人の内面に付き合うためには、数十人を一度に相手にする講義形式に限界がある。それを補うために「宿題」の形で演習を課しても、生徒にとって宿題とは、「さっさと済ませてしまいたいもの」のトップでしかない。さっさと済ませるためには、考えていてはいけない。授業のノートを参照して、形を真似る、模範解答をなぞる、最後の手段は答えを丸写しする、それが効率的・効果的な宿題のやり方として、実際に推奨されさえする。量をこなすには、そのほうがいいからだ。なにしろ実際に出題される問題の予想があらかじめつくのだから、そういう問題に対処できるだけの思考力をつけるよりはむしろ、そういう問題の解法パターンを覚えさせるほうが短時間で得点力を上げるには効果的。

現実を考えたら、数学教育はいまのような形にならざるを得ない。それが現場の教師の本音ではないだろうか。たとえまちがっていることがわかっていても、そうせざるを得ない。まちがっていることは、家庭教師みたいな仕事をやっていればすぐわかる。時間と手数はかかるけれど、しっかり理解させ、しっかり考えさせるようにすれば、だいたい数学の成績は上がっていく。数学の教師が覚えさせようとしている公式や解法パターンをすべて無視しても、それを自分で見つけていけるようになる。もちろん、そういうやり方が通用しない生徒もいる。そこは、適性だろう。数学的な思考方法がどうしても性に合わない生徒もいる。家庭教師は、さすがに頭の構造までは変えられない。それでも、多くの生徒は、論理的に考える方法を受け入れることができる。それで成長していくことができる。

だから、数学教育は重要だ。学習指導要領で必須の扱いを受けているのも当然だ。けれど、現状の数学教育、学校教師がやむを得ず取り組んでいる数学のあり方がほぼ無意味だということも、明らかだ。無意味なことを生徒に強制するのは、無意味に無意味を重ねて害悪のレベルに達する。だから、現状の技能偏重主義の数学教育であるのなら、私は教育課程から外したってかまわないと思う。

人間は、教育によって成長する。ただし、ある程度は放っておいても成長する。これは、不登校でまったく学校に行っていなかった生徒を教えてみればよくわかる。学校に行っていない部分は、教科指導は一切受けていない。だから、その部分がわからない、知らないのは当然だ。ただ、たとえば中学1年生に教えるのと、中学1年生で学校に行くのをやめた中学3年生に教えるのとでは、同じことを教えても、理解力に格段の差がある。15歳の生徒は、なにも教えてもらわなくても、13歳の生徒よりもはっきりと成長していて、短時間で追いつくことができる。これは、学校に行っていない生徒だけではなく、授業についていくことができずに「落ちこぼれた」生徒、つまり、出席はしているけれども授業に参加していなかった生徒に関しても同じことがいえる。13歳のときに理解できなかった同じことを15歳なら理解できる。「ちゃんと授業を聞いてればよかったよ」と後悔する場合もあるが、13歳に戻ったらやっぱりわからないのかもしれない。年齢による成長というものは、確実に存在する。

だから、たとえ中学校の数学の成績が5段階評価の1や2だったような生徒でも、高校数学は改めて理解できる可能性がある。そこで大きく伸びるかもしれない。「論理的な思考力」は、どこからでも鍛えることができる。

しかし、高校ではこういった「落ちこぼれ」生徒にどういう「数学」を教えるか? あるいは「Fラン」といいわれるような大学ではどう扱うか? 小学校の算数や中学数学の技能を教えるのである。その言い分は、「基礎ができていなければ、高校の数学なんてわかるはずはない」なのだけれど、高校数学の基礎ぐらい、どんなできのわるい生徒でも、その年齢に達していればたいていのところは3時間もやれば理解できる。そこから始めて何の問題もないのに、なぜかそれでは不十分だと思う。なぜなら、技能の伴わない理解は理解ではないという固定観念があり、そして、技能は反復練習でしか身につかないという思い込みがあるからだ。そこに、小学校の算数を高校生にさせるのは失礼だとか、そんな練習をさせられる高校生が数学をどういうものと捉えるだろうかとか、そういった発想はまったくない。

筆算ができなければ電卓を使えばいいのだ。技能として関数の操作ができなければ、WYSIWYGで操作できるアプリケーションを導入すればいいのだ。高校数学の要は、「数学を活用して事象を論理的に考察する力,事象の本質や他の事象との関係を認識し統合的・発展的に考察する力,数学的な表現を用いて事象を簡潔・明瞭・的確に表現する力」だと学習指導要領に書いてある。だったら、物理運動のような「事象」が数学的に表現でき、そして解析できるということを教えればいいのであって、そこにその操作や解析をするための技能が欠けていることを問題にすべきではない。数学的に表現するというのはなにも数式を書くことだけではなく、実際にプログラミングのブロックを組み合わせて入力と出力がきっちり対応することを示すのでもかまわない。工夫はいくらでもできるし、それを指導要領内から逸脱しないようにすることだってできる。

じゃあなぜそうしないのかといえば、中学数学は高校入試、高校数学は大学入試に縛られているからだ。そういった入試とは無関係な非進学校でさえ、入試を規範とする体系から抜け出すことはできない。高校数学がそういう世界になってしまっているときに、一人だけ別のことをやる勇気をもった教師はいないだろう。そして、「基礎が大事ですから」と、ほぼ無意味なドリルを繰り返し、生徒のモチベーションは底の底まで低下する。

 

だから、入試制度に縛られている現状の教育システム全体を変えない限り、教育課程に数学を必修にする意味はない。論理的な思考力は、技能に特化した数学よりはむしろ読書によって発達するだろう。本来は論理的な思考力を鍛えるために最も適している数学をそのように扱うことをしない、できないのだから、ここはもう言い訳はできない。「数学ぐらいはやっとけよ」と私だって思うが、延々とドリルを反復するような無意味なことは、百害あって一利なしだ。それが数学ならやめちまえ。

 

と、こんな記事を読んで思った。あんなひどい受験数学の中でも論理的な思考力を養うことができる人はいる。そういう特別な秀才には、そうでない人々の気持ちなんかわからいんだろうなと思いながら。

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