シアワセの容相

あしたはこっちだ

足し算でさえ、奥は深い

ひとつ前のエントリが、久々にホッテントリ入りした。こんなマイナーなブログ書いていると、それだけで舞い上がってしまう。

mazmot.hatenablog.com

 

だが、この記事、思い入れも時間もないままに書きなぐったものだから、改めて振り返ってみると、いろいろと伝えきれなかったところが多い。伝えたかったポイントは、結局3つだろう。

  • たかが足し算なのに、実際にはひとりひとり、やってることがちがう。これは非常に興味深い。
  • 標準的な手法を理解させることそのものは難しくはない。それを理解させる意味も十分にある。
  • しかし、その標準的手法を子どもに押し付けることをあたかも正義であるかのようにドリル等の手法を用いる現状の学校のあり方はいかがなものか。

と、箇条書きにまとめてもいい。けれど、それはあの文章では伝わらなかったよなあ、と思う。

 

まず、私が家庭教師として過去何十人にも(100人をこえているかもしれない)飽きもせず算数の基礎を確認してきたのは、第一にそれが数学にとって重要だからではあるのだが、個人的には何よりもその反応が楽しみだったからだ。実際、ひとりひとり異なった説明を聞くのは毎回驚きだ。そして、そういった発想がどこから出てくるのかとか、あるいはどんなふうに学校の授業が受容されているのかとか、いろいろと思いを巡らすのは純粋に楽しい。そして、そういったバリエーションの存在は、何の問題でもないと思う。そういった多様性こそが、未来への希望であるとさえ思う。

それでも標準的な手法を教えるのは、それがそこから上への積み上げにとって重要だからだ。だが、それぞれがそれぞれなりの方法で身につけている足し算に、別な意味付けをあたえることはさほど困難ではない。実際、この説明が理解できなかった生徒はいない。だから、「ソロバンがあれば…」みたいなコメントを頂いたりしていたが、それはちょっと見当外れだ。なにもそんな道具を用いなくとも、ふつうに説明すればちゃんと理解してくれる。

そして、それで十分だ。なのに、なぜ、話の発端となったドリルのようなものが存在するのか、私にはちょっと理解できないのだ。仮に、「さくらんぼ計算」の概念が理解できているかどうか、教師が確かめる必要があるのなら、それをちゃんと口頭で生徒に確認すればいい。それを「テスト」でもって確認しようというのは、かえってひどい手間と非効率ではないか。

だいたいが、もしもドリルみたいなことで反復練習してしまったら、それは理解してなくてもその「型」に当てはめた行為ができてしまう。しかし、果たして「型」がきちんとできていることが、理解の度合いをあらわしているのだろうか。むしろそれは、理解の欠如をあらわしているようにさえ、私には見えてしまう。算数・数学の教育って、それでいいんだろうか? 私の問題意識は、むしろここにある。さくらんぼ計算がいいとか悪いとか、あるいはその理解が生徒によってまちまちだとか、そんなことは問題ではない。

 

こういうことを伝えようと思ったら、もうちょっと気合を入れて書かないといけないんだろうな。所要15分で書いたこんな補足記事だと、なおのこと誤解を大きくするだけなんだろうか。足し算ひとつでさえ、いくらでも奥が深いのに、表面だけなぞって理解した気になっているのはいい気なものだ。まして、教育を覆うこの状況ときたら…

小中学生は足し算を正しく理解しているか? - 正しさは人によってちがうのだけれど

たぶん他の家庭教師はやらないことなのだけれど、私は特殊な事例を除いてほぼ受け持ったすべての小学生、中学生、高校生に対して、小学1年生の算数の復習から数学(算数)の指導をスタートする。なにしろ、学校で教えられる教科のなかでも数学はことさらに積み上げが重要な学問だ。四則演算ができない生徒に方程式を教えようとしても無理だし、方程式がわからない生徒に一次関数を指導してもすぐに行き詰まる。ひとつひとつパズルのように組み立てていかなければならない教科だから、そのピースが欠けていないことを確認することは重要だ。そして、四則演算は算数のなかでももっとも基礎であり、それは小学校1年生の最初からはじまっている。だから私は、たとえ国立難関校を目指す高校生であっても最初にこう尋ねる。「小学校1年生の算数のいちばん最初に、何を習いましたか?」と。

 

中学生、高校生は、ほとんどが「1たす1」とか「足し算」と答える。これはまちがい。小学生でもけっこう多くはそう答えるが、なかには記憶力のいい子どももいて、「数をかぞえるやつ」みたいに割と正確な答えをする。十進法の位取り記法をマスターしておかないと、足し算の繰り上がりの概念がわからず、当然ながら引き算、掛け算、割り算と進むことができない。だから、このあたりの解説も、割としつこくやる。高校生なんかは、逆に新鮮に感じられるようだ。

その上での足し算だが、何十人も同じことをやってるうち、セリフはほぼワンパターンに落ち着いてきた。「1+1を教えるのに理屈はありません(と、指を1本立て、もう1本立てる)。2+3でも同じです(ただし、これを『かたっぽうに寄せる』という概念で説明することができると教えてくれた小学生がいた。これはなかなか有効なやり方だ)。教えないとどうしてもうまくいかないのが、これです(と、7+8を書く)。さて、7+8は、どうやって計算しますか?」と。

ここで「=15」みたいに書く生徒に対しては、「じゃあ、どうやってその15を出したの?」と尋ねる。さらにキョトンとしている生徒には、「小学校1年生で足し算を知らない生徒になんで15になるかを説明するとしたら、どうやってやる?」と尋ねる。そこまで言って、こちらの意図が飲み込めない生徒はほとんどいない。

小学校の算数の教科書には、(教科書によってちがうが)複数の方法が提示してある。もっとも推奨されるのが、

まず、「7といくつで10になりますか?」と考えます。7と3で10になるので、8を3と5に分けます。この3と7で10になるので、残りの5と合わせて10と5になります。これは15とあらわします。

という方法だ。この方法は私の知る限りでも半世紀以上前から採用されている足し算の説明で、繰り上がりの基礎概念になる。どうやら最近では、これを「さくらんぼ計算」というジャーゴンで表現しているらしい。それはそれで、視覚的な特徴をとらえているので、べつにかまわない。

だが、多くの小中高生に質問してきて、彼らがどう計算しているかということを確認すると、決してこの方法、そこまで支配的ではないということがわかる。だいたいは、「どうやって計算する?」という質問に対しては「ふつうに」という答えがいちばん多いのだが、「キミのふつうは、どういうの?」と尋ねると、かなりバラエティに富んだ答えが得られる。

もちろん、最大多数派は、上記の教科書的な繰り上がりだ(体感的に70%程度)。だが、そのバリエーションもある。8を分けるか7を分けるかというのはまだバリエーションというほどのものでもない。両方を、「5と2」「5と3」というふうに分けてしまい、「5と5で10、2と3で5、あわせて15」と説明した生徒もいた。これは一見奇妙だが、考えてみれば十進法というのはもともと人間の指の数にもとづいているものであり、人間の指の数は片手5本なのだから、5と端数に分割していくというのはけっこう合理的なのだ。

そういった理屈に則った方法だけが流通しているかというと、決してそうではない。この仕事を始めた頃に出会って衝撃を受けたのは(その後は中学生に関しては同じようなケースには出会ってないので割と特殊だったのかもしれない)、いわゆる「指折り算」で説明した生徒だった。つまり、7本の指を折っているところに8回指を折るのを追加していき、指を折りながら「8、9、10…」と数えていくわけだ。実はこの方法も、序数と基数の概念がないとうまくいかない方法らしく、世の中にはもっといろんなプリミティブな方法があるらしい。だが、こういった方法のままでいたのでは、さすがに数学へと積み上げをしていくのはむずかしい。だから、こういう場合には、繰り上がり概念がつかめるようにしっかりと指導をする。

そして、学力の高い低いに無関係に比較的広く分布しているのが、「覚えてしまっている」生徒だ。「7+8をどうやって計算してる?」「それは15と覚えています」というパターン。こういう生徒でも、しつこく質問すると、繰り上がりの操作をきちんと説明できる生徒もいる(できない生徒もいる)。根拠があろうがなかろうが、覚えてしまっている生徒はある意味無敵だ。そして、けっこう計算には不自由していない。だからなおのこと、足し算の論理なんか考えようともしてこなかったのだろう。

 

白状すると、私自身が繰り上がりの概念を理解しない小学生だった。で、まさにこの7+8=15というのを暗記し、そこから展開させてすべての足し算をやっていた。たとえば7+9というのがあれば、それは足す数が1大きいのだから、答えも1大きくなって16、みたいな理屈だ。1桁と1桁の数の足し算は最大でも18までなのだから、繰り上がりといっても覚えてしまえる組み合わせに還元できる。そして、実際にそうやって乗り切っている生徒は決して無視できるほどの割合ではない。(なかにはそういった「足し算の九九」の暗記を推奨する教師までいる!)

私としては、自分がそうやっていた手前でもないのだが、生徒のやり方を変えようとは思わない。ただし、それでも繰り上がりの概念は、ここで改めてしっかり教えておく。なぜならそれをやっておかないと、繰り下がりのときに困るからだ。ちなみに繰り下がりの方法は、教科書でも標準で2種類の方法が提示されていて、実際に細かなバリエーションまで入れると、足し算以上に多様になる。だが、いずれにせよ、基本となる十進法の位取り記法との関係性を意識させないと、上には積み上がらない。そこを理解した上で、実用的な方法として生徒がどういう手法を取ろうが、それは私の知ったことではない。

 

ここで重要なことがひとつある。まったく足し算のできない小学1年生やそこでつまづいて完全に算数を放棄してしまったそれより上の生徒を除けば、こういった足し算の理論を理解するのに「練習問題」とか「ドリル」は不要だということだ。既に足し算の技法を何らかの方法で身につけている生徒なら、理屈は一度聞けばわかる。2桁目に繰り上がる足し算ができない生徒には理屈を説明した上で練習させる必要はあるが、10分もやればたいていはわかってくれる。

そして、このあたりをしっかり押さえた上で桁の多い足し算に進むと、筆算の理屈とかも1分以内の説明で済む。確かに筆算を正確にやるためにはドリルとかも必要なのかもしれないが、ほとんどの生徒は学校で必要以上のドリルをねじ込まれてるんで、こっちはそこを整理してやるだけでたいていは事足りる。それでも、ともかくも、基礎を一つ一つ、誤解がないかチェックしていくことは重要。

 

どうしてこういうことを学校でやらないのだろうと思う。そういう私の思いに対しては、学校教師は「いいえ、ちゃんと理解度のテストをやって次の単元に進んでいます」と怪訝な顔で答えるだろう。しかし、テストで何がわかるというのか? テストで正解を取るためには、理解は不要だ。教師に言われたとおりにできるように練習を積めばそれでいい。それをもって「理解」とするのは、まるで絵に描いた餅を見て満足するようなものではないのか。

理解しているかどうかは、ストレートに聞くのがいちばんだ。たとえば中学生に「なぜ2x+3x=5xになるの?」と尋ねてみればいい。それがきちんと答えられる生徒と、その問題を解ける生徒と、必ずしも同じでないことがわかるはずだ。そして、どちらが指導要領の求める学習指導の成果を体現しているかは、考えなくてもわかる。

算数や数学は、いくら理屈がわかっても答えが出なければ意味はない。しかし、正確な答えが出ることだけをもって算数や数学の目標と思ってはならない。だって、正確な答えを出すだけなら、人間が手計算なんかするよりも電卓を叩いたほうがよっぽどマシなんだから。

 

こんな記事を読んで思った。もうちょっときっちり書きたかったけど、最近忙しくて…

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自然という言葉の使用に、もっと謙虚でありたい

ひとつ前のエントリで睡眠時間のことに関して書いたら、id:hungchang さんからお叱りを頂いた。

mazmot.hatenablog.com

chikada.hatenablog.com

ま、しょせんブログなんて便所の落書きの長いやつに過ぎないんだし、査読があるわけでもない場で厳密な議論なんてそぐわないのだろうけど、私も根拠となる論文をわざわざGoogleで探してまで引用した手前、たしかに論理的につながらないところがあったのは手落ちだったなあと思う。

論理がつながっていないのは、hungchang さんによれば

睡眠リズムが習慣よりも自然時間に縛られているというのは、これまでの論を覆す。自然時間がより重要なのであれば、彼らは日の出とともに目を覚まし、日が沈むと(あるいはそれから数時間が経過することで)起きていられなくなってしまうはずではないか。しかし前述の内容ではそうではない。若者の就寝時間が遅くなることが問題とされていた。これではサマータイム不登校増加につながるとする説明となり得ない。

というところだ。そしておそらく、話が噛み合わないことのポイントは「日の出とともに目を覚まし」の部分だ。そこのところの認識が、私と大きく異なっているから「自然時間」のところで別なイメージができてしまう。まずはそこのところを説明(言い訳?)したい。

 

その前に、まず、睡眠は非常に複雑なプロセスであって、未解明な部分も多い上に、解明されている部分も膨大で、素人の理解を超える、ということを改めて確認しておきたい。だから素人である私の言葉は信用できない、ということは前提になる。それでももしも信用できることがあるとしたらそれは私が家庭教師として(あるいは親として、一人の人間として)観察してきたことだけであり、それも単なる事例報告程度の信頼性もないということだ。そしてそういった観察は、既に前の記事で書いている。だから、以下のことは、根拠も出典も曖昧な「そんなことをむかし、どっかで聞いたよなあ」程度のことでしかない。そこはおゆるし願いたい。

 

その上で、人間は「自然」な状態でどういう睡眠パターンをとるのだろうという疑問に答えるもっともよい観察は、自然の状態での人間をみることであるというあたりまえの出発点を置く。しかし、「自然」の人間など、いない。人間はすべて、人間社会のなかで暮らしている。人間社会はすなわち「人為」のもとにある。では、そこは無理と諦めるべきかといえば、実は人間と遺伝子的にほぼちがわない生物が熱帯雨林に生活している。チンパンジーであり、ボノボだ。彼らの睡眠パターンは、決して「日の出とともに起き、日の入りとともに寝る」ではない。日没後、数時間にわたって彼らは賑やかにおしゃべりをする。そして、朝は、日が高くなってからゆっくり起きてくる。そのような観察がなされている。だからおそらく、人間も、「自然」な状態では、同じような睡眠パターンをもっていたのではないだろうか。

しかし、私たちは、少し前まで、「日の出とともに起き、日の入りとともに寝る」生活を標準のものとして採用していたことを知っている。農村では、それがあたりまえだった。いや、「日の出とともに起きる」者は怠け者とさえみなされただろう。標準的な百姓は、日の出前に起きて、薄明のなかで仕事をはじめる。そうやって朝飯前の仕事をやって、家に帰ると、同じ頃におきた家族の誰かが台所で朝飯の支度をすませている(ちなみに多くの農村では1日分の飯を朝食時に炊くことが多かったらしい)。そして、日が暮れると(田植えや稲刈りの農繁期には)履物も脱がずに倒れるように眠ってしまう毎日だったと聞く。

私自身、そういう生活を若い頃に直接に目にし、また自分自身でも部分的に経験したことがある。ある有機農業の農家に居候の身分で過ごしたときには「研修生」たちが暗いうちから田んぼに出ていく物音を寝床のなかでぼんやりと聞いていたものだ。自分で身分不相応の畑を借りていた時期には、豆畑の管理に日の出前に起きて通った。畑で土寄せをしながら日の出を迎えるときには、「ああ、これこそ自然のリズムだ」と思ったものだし、太陽がのぼってきて暑さを感じるようになると「こうやって早朝に働いてこその晴耕雨読だ」ぐらいに誇らしい気持ちで朝からの仕事の跡を振り返ったものだ。

だが、そうやって早朝に起きるのは、よくよく考えてみたら、人間の内なる自然が要求するのではなく、外部環境としての自然条件のなかで人為としての経済活動をおこなう必然性から自分自身に強制したものでしかなかったのだろう。いくら早朝の畑が清々しく気持ちのよいものだとしても、そういう生活は昼寝なしには身体がもたないし、そして夏にそういう生活をやったら冬には思いっきり休まなければ次の年に畑に出ることができなくなってしまう。自給自足的な家庭菜園の延長でしかない畑であっても、それはやはりある種の経済活動だ。少々眠くても、自分自身を奮い立たせて立ち向かう。そこに「自然のリズム」を持ち込むのは、やはりちがうのではなかろうか。

 

そして、ここでじゃあ「自然」とは何かという奇妙な問いにぶつかってしまう。人間は、社会活動を営む生物だ。社会活動を営むのが自然だ。社会活動は生産と消費という経済活動としてとらえることもできる。だったら、人間にとって自然なのは経済活動を順調にまわすことであり、それはつまり、暑くなる前に畑に出るような農耕民の暮らしをも含むのではないか。

客観的にみれば、「自然」と「人為」のあいだに境界線を引くのはまちがっている。人間がそのように生きてきたという歴史は、人間の自然そのものだ。そして社会的な強制は、やがて遺伝子に刻印され、内在化される。私たちの内部にも、チンパンジーと共有している祖先型から受け継いだ朝寝坊の遺伝子とともに、農耕社会以降の勤勉な「日の出とともに起き、日の入りとともに寝る」を適応型とする遺伝子が存在するのではなかろうか。それが人間の「自然」なのではないだろうか。

だから、反省として、私は「自然時間」というような誤解を与えるような言葉を使うべきではなかった。私はこれを人為的に操作するサマータイムに対置される「標準時」のつもりで使ったのだが、ただ、「標準時」では太陽の南中時刻を基準にしたものとズレが生じると思ったので、あえて「自然時間」という表現を使った。それがすれ違いの根本原因だったのだろう。

 

そして、そう思うとき、サマータイムが実際に不登校を増やすのかどうかに関して、実証的な研究が可能であることに気がつく。すなわち、もしも中高生の睡眠パターンが太陽の南中時刻を基準にして決まっているのであれば、東経135度を基準として標準時を決められている日本においては、そこから東に遠くはなれた地域、たとえば北海道と西に遠くはなれた地域、たとえば福岡とで、標準時の中高生に与える影響に差異が発生しているはずだ。もしも福岡県のほうが北海道よりも(その他の考えられる因子を標準化した上で)起立性調節障害の発症率が中高生に高いという観測結果が得られれば、サマータイム不登校を増やす可能性が高いと結論付けられるはずだ。

そういうデータはあるのかもしれない。ないのかもしれない。いずれにせよ、さまざまな社会的コストを考えたら、オリンピックなんかやめたほうがいいし、百歩譲ってもサマータイムはやめといてほしいと思う。ここまできたら、感情論だな、これは。

 

人間、感情的に生きることが自然なことかもしれず…

学校の始業時間はもっと遅くてもいい

オリンピック(やめときゃいいのに)とかに関連してサマータイム導入が提案されていること(余計なことだ)について、

anond.hatelabo.jp

サマータイムは教育にこそ大きな影響を及ぼす

という話が増田(通称:アノニマスダイアリー、あ、逆だわ)にあった。私から見ればあまりにもあたりまえのことなのでスルーしていたのだが、どうもその因果関係があんまりピンとこない人もいるみたいなので、ここは不登校とも因縁が浅くない人間としてちょっと触れておかねばならないかなと思った。

 

まず、不登校と呼ばれるものの原因はいろいろあるのだけれど、特に中高生の場合、その少なくない部分を「朝起きられない」「無理に起きると気分が悪くなる」「頭痛がひどい」「吐き気がする」といった身体症状が占めている。このことは案外と当事者以外には見落とされているようだ。不登校の原因としてよく注目されるのはいじめや教師からのハラスメントで、決してそちらも放置していいことではない。しかし、たまたま私が出会ってきた不登校生の中には、そういった人間関係が主な原因で不登校になった人はいなかった。私の息子のように「宿題を出すのが嫌だから」と不登校になったやつはあんまりいないだろうが、その彼とて、やはり朝に起きられないタイプで、放っておいたらそのうちに「起立性調節障害」という診断つきの不登校になっていた可能性は低くない。

そう、この「起立性調節障害」というのはこういう「朝起きられないから学校に行けない」タイプの不登校につけられる医学的な診断名になっているようだ。私が教えていた生徒は、中2の冬にそういう状態になった。頭痛がひどくて保健室に行くしかなく、そのうちに登校できなくなってしまった。夜になるとマシになることも多く、だからこそ、「ズル休みなんじゃないの」という誤解を受けやすくなる。そういう無理解から人間関係にヒビが入り、いじめやハラスメント系の不登校へと発展することもあるようだ。私の生徒の場合はそうはならなかったらしいのだけれど、ずいぶんと気を使った。

 

そんな生徒を何人か担当するなかで調べたところ、実は中学生から高校生にかけて、「朝、起きられない」という現象が一定の率で発生するのは普遍的なことらしいとわかった。そういえば私も、高校時代はほぼすべての授業時間を眠り通したものだった。小学生で居眠りをする子どもはよっぽど生活リズムが乱れているか、それとも何らかのトラブルをかかえているものだけれど、中学生や高校生が日中眠いのは、特殊な事情とか関係なく、ほぼすべてに当てはまる。たとえば家庭教師として教えに行くと、ほぼすべての生徒がどこかで昼寝をしている。夕方6時とか7時からの生徒の場合はその前、学校から帰ってきて1時間とか30分の昼寝をしているし、もっと早い時刻の生徒は私が帰るなりベッドに倒れ込む。あるいは、朝起きられずに不登校になる。その仕組みは、どうも生理的なもののようだ。たとえば、

子 供 と青 年 にお け る睡 眠 パ タ ー ン と睡 眠 問題1) 早稲 田大学スポーツ科学学術 院2) 浅 岡 章 一 福島大学共生システム理工学類 福 田 一 彦 早稲 田大学スポー ツ科学学術院 山 崎 勝 男(生理心理学と精神生理学 25(1):35-43,2007

によれば、

思春期における就床時刻は年齢を重ねるごとに後退していくが, 就床時刻と比較して起床時刻の後退は緩やかであるため, その結果として年齢が進むにつれて睡眠時間は短縮する傾向にある(Fukuda&Ishihara, 2001;Thorleifsdottir, Bjomsson, Benediktsdottir, Gislason, &Kristbjarnarson, 2002, Figure3)。しかし, 必要とする睡眠時間は成長に伴って減少せず, むしろ同じ睡眠時間であっても, 日中の眠気は思春期前期よりも後期で強くなることが報告されている(Carskad0n, 1990)。したがって, 本人が求める理想的な睡眠時間と実際の睡眠時間とのギャップは小学生, 中学生, 高校生と発達段階があがるにつれて大きくなり, 十分に眠れていないと回答する学生の割合は, 中学生で40.4%, 高校生で52.5%にも達している(Takemura, Funaki, Kanbayashi, Kawamoto, Tsutsui, Saito, Aizawa, Inomata, &Shimizu, 2002)。日中の眠気も強く, 週一回以上居眠りをする割合は中学生で42%, 高校生で66%にのぼり(Fukuda&Ishihara, 2002), 学生の日中の眠気は, 成人よりも強い傾向にある(Fukuda&Ishihara, 2001;Liu, Uchiyama, Kim, Okawa, Shibui, Kudo, Doi, Minowa, &Ogihara, 2000)。成長期にある学生の眠気が身体の成長に伴う生理学的変化に起因している可能性も否定はできない。しかし, 睡眠時間が短い学生ほど日中の眠気が強いという調査結果(e.9., W01fson&Carskadonl998)や, 普段より一時間多く眠ることで眠気が大幅に改善されること(Ishihara, 1999), さらに, 睡眠不足の日が続くほど日中の眠気が強まるという実験室内で行われた実験の結果(Carskadon, 1990)を考えあわせれば, 児童・学生における日中の眠気の主たる原因が慢性的な睡眠不足にあると考えるのが妥当であろう。

とあるように、眠くなる時刻は年齢があがるにつれて後退するのに、必要睡眠時間はそこまで短くならないので、結果として睡眠不足になり、中高生は常に眠たいという結果になる。それを防ぐには、朝、ゆっくり寝かせるのがいちばんなのだろう。

実際、(文献を見つけられなかったのでちょっと怪しいのだけれど)アメリカでは登校時刻を通常よりも1〜2時間遅らせることで全体の成績が向上したという研究結果もあるらしい。不登校を防ぎ、生徒に学業に専念させることだけを考えるのなら、現在の学校始業時刻は、少なくとも中高生に関しては早すぎる。

ではなぜ、そんな早い時刻から学校を開けるのかといえば、それはもう、親の都合に過ぎない。親にとってみれば、子どもがさっさと学校に行ってくれないことには何も片付かない。仕事にも行けないし、家事にも差し障る。だから、学校の始業時間は変わらない。

 

重要なことは、子どもたちが眠くなる時間帯は、部分的には習慣であるかもしれないが、より強く、自然時間に縛られているということだ。人間が猿の時代から受け継いだリズムとして、夜、暗くなってすぐには眠くならない。だから、自然の既日リズムを無視して、1時間とか2時間前倒しすることはできない。もしも自然時間に逆らってサマータイムを導入しても、それは就寝時刻が後ろにズレるだけという結果になり、眠い中高生たちをさらに眠くするだけだろう。もちろん睡眠パターンには多くの個人差がある。一部の生徒はそれほどの影響も受けないかもしれないが、逆に一部の生徒は「いままでならなんとか起きられたのに、もうこれはダメ」となるだろう。結果として、「朝起きられない」タイプの不登校、すなわち「起立性調節障害」の診断が増えることはまちがいない。

さらに重要なのは、上記で触れたように、こういった医学的な症状による不登校が、結果的に人間関係や、あるいは「休んでいるあいだに授業が進んでしまってわけがわからなくなった」という学業不振をきっかけとする不登校を発生させやすくなるということだ。だから、もしも「不登校」を問題にするのであれば、まずはサマータイムに反対すべきだということになる。

 

ま、私は不登校そのものは問題だともなんとも思っていない。現状の学校なら、ときにはいかないほうがマシだってこともあるもんな。もちろんそれは、別問題ではあるのだけれど。

錯覚資産を息子に与えた話 - ブルデューを想いながら

「勘違いさせる力」を「錯覚資産」と位置づけるブログ記事(というよりも書籍の一部らしい)が話題になっているようだ。たしかに、錯覚を起こさせることでそれを経済的な力(具体的には例えばお金)に替えることができるのならそれは資産として扱うこともできるのだろう。なんだか抵抗はあるが、ま、そういう見方も可能かもしれない。

www.furomuda.com

 

いろいろと思うところもあるのだが、それはさておき、資産であれば当然、その継承が問題になる。というのは、やっかいなことに、資産を継承することによって階級が固定化されてきた歴史を人間はもっているからだ。

たとえば農地が生産手段として重要な資産であった時代、すべての農民が平等に毎年同じだけの農地を与えられるのであれば、階級差は(それらの農民の間では)発生しない。貧富の差はあっても、それは偶発的なものであって、固定的なものではない。ところがこの農地が資産として継承されるようになると、貧富の差は固定化していき、やがて階級となる。とまあ、左派の学問は教えてくれるわけだ。そして、資産は、農地のような直接的な生産手段から、金銭や証券のような間接的な「資本」へとうつっていく。さらには、そういったモノをはなれ、無形の「文化資本」として継承されるようになる。こうなると、外見上は平等に見えるところに階級ができてしまうので相当にやっかいだ。同じ学校に行き、同じように就職活動をしているのに、なぜか年収に差がついてしまう。親の七光でも何でもないのに、金持ちの息子にはその階級にふさわしいキャリアが用意される。これが「文化資本」による貧富の差の固定化の巧妙なからくりだ。そのあたりをていねいに解き明かしていったブルデューの著作の一端に若い頃に触れたことは幸いなことだったと思う。

ただし、人間とは奇妙なものだ。階級の存在を問題だとらえる立場、すべての人々が出自にかかわらず平等であるべきだとする立場にあったとしても、やはり自分がその階級社会の中に存在することは否定できない。そして、階級社会にあっては、人は自分が階級のなかで得た資産を次代に引き継ごうとする。それはもう本能的なものであり、そこを否定しようとしてもはじまらない。否定するのではなく、そういうものであることを前提に、「それならばじゃあ、そこで発生する不公正をどう是正するのか」というところに頭を使うのが、正しいあり方なのかもしれない。

 

「錯覚資産」は、おそらくその性質上、「文化資本」の一種なのだろう。そして、資産である以上、これは継承可能であるはずだ。たとえば私自身、おそらく、このような資産を継承してきている。いままでそういうふうに考えたことはなかったが、以前から、「運の良さ」だけは自覚している。そして、私の父親はとてつもなく「運の良い」人だし、私の息子も呆れるほど「運が良い」。この運の良さが他者に対して実力以上の何かを錯覚させることによってもたらされているのだとしたら、なんとなくいろんな辻褄が合うような気がする。私は意識しないままにもそういった資産を継承し、そして次世代へと継承させているのかもしれない。

自分がどんなふうにそれを親から継承したのかは、よくわからない。ただ、息子の運の良さがどんなふうに形成されてきたのかは、だいたいわかる。そして、そこに自分がどんな役割を果たしたのかも、よく知っている。だから、そんなことを少し書いてみよう。

 

あらかじめ誤解のないように書いておくと、息子はまだ高校1年生であり、有形無形にかかわらず、世間的な意味で何らかの資産をもっているわけではない。ただ、「舞台の上でのパフォーマンス」では相当に高い評価を受けていて、これは「創造芸術」を校名に組み込んだ表現活動を重視する高校にあっては既に一定の価値をもつものといえるだろう。そこに至るまでの道すじが、実にうまく錯覚を利用してきたなあと思うのだ。以下はそういう話。

 

彼が最大限に利用してきたのが、「小さい頃からやってきた」「長いことやっている」という実績の重みだ。これはほんの小さなことを誇大に見せることである。具体的にいうと、まずそれは落語だった。

息子が小さい頃、私は主に車のなかで彼を黙らせるために、運転中に落語をかけることが多かった。もちろん音楽もそれなりにかけてはいたのだけれど、やはり子どもというのは人の話し声に注意を奪われるものだ。そういう実利的な親の行動から「自分は落語ができる」という奇妙な錯覚を、どうやら息子は得た。だから、最初の錯覚は自分自身によるものであったのかもしれない。その錯覚のもと、息子は保育園の片隅で、「落語ごっこ」みたいなのをやっていたらしい。そして小学校に入ると、その延長で学校のイベントで落語を披露した。しょせん小学1年生のやることだ。たいした芸ではない。それでも、「人前で落語を披露した」という実績は残った。

そして、その話を伝え聞いたクラスメートのお母さんから連絡がくる。福祉施設につとめる彼女は、落語の実力なんか知らないから、「落語ができるんならお年寄りに聞かせてあげてよ」と、思ったのだろう。このあたりも多少の錯覚が入っている。まあ、小さな子どもは何をやっても可愛いから、別に落語はどうでもよかったのかもしれない。そんな縁から息子は年に何度か、福祉施設の慰問やローカルのイベントで落語を披露するようになった。そして、けっこうウケた。

なぜウケたのかといえば、それは「こんな小さいのによく頑張っている」と観客が思ってくれたからだ。決して芸の力ではない。ただ、息子が「うまく立ち回ったな」と思うのは、そんなふうに「かわいい」で通っているあいだに徐々にでも実力をつけていったことだ。ただ「かわいい」だけで過ごしていったのでは、いつか壁にぶち当たる。それを予見していたかのように、少しずつ、少しずつ、技術を身につけていった。

ここで、初めて私は小さな働きかけをした。ネットを検索して、子どもが出場できる落語のイベントを探したのだ。そして、恒例で行われているこども落語全国大会というものを見つけ、出場を促した。それがきっと財産になると思ったからだ。

息子が錯覚資産を活用しはじめたのはこのあたりからだ。プロフィールに「6歳の頃から人前で落語を演じています」と書きこむ。「福祉施設への慰問を毎年何回もこなしています」といえば、それだけでずいぶんと実績があるように人は思いこむ。それかあらぬか、彼は大賞こそ逃したものの、予選を軽々と通過して優秀賞をもらった。

これをさらなる資産に変えたのは、彼の母親だ。妻はテレビ局に電話をかけて、出演させてくれと直談判した。彼の長い活動歴(その実態は単に「小さい子どもが頑張っている」でしかなかったのだが)と大会での入賞は、説得力十分だったのだろう。マイナーな番組ではあるが、彼はこうして全国放送にも登場した。

彼が不登校にもかかわらず、「創造芸術」を看板に掲げる高校に合格できたのは、そういったオーラを身にまとって面接に臨んだからではないかと思う。もちろん、面接では大会での入賞やテレビ出演の話をことさらに取りあげることはしなかった。そういうものは、願書の隅に書いてあれば十分なのだ。むしろ、そういう実績にあえて触れないことが、なおいっそうの「勘違い」を誘発したのではないかと思う。

高校に合格が決まって、私は二度目の働きかけをした。実は高校受験の1年前ほどから、息子は何を思い立ったのかギターの練習をはじめていた。その腕前が少し上達してきたのを感じた私は、高校への入学直前の隙間にできた空き時間を利用して、息子に「飛び入りライブ」に参加するよう促したのだった。

「飛び入り」をやっている店はそれほど多くはないが、ライブハウスの客寄せイベントのひとつで、ワンドリンクで10分とか3曲とか、客に順番に演奏させる。中学生だから保護者付きでいかねばならないのだけれど、舞台芸術を重視する学校に進むのなら、こういうところで少しでも場数を踏ませておいたほうがいいと思った。わずか2回ばかりに過ぎないが(それに加えて彼が楽器屋で見つけてきたイベントにも1回出場したが、それを合わせっても3回でしかないが)、これは確かに彼の「錯覚資産」になった。

というのも、もう笑うしかないのだけれど、入学して2ヶ月あまりの初舞台で、息子は「入学以前からライブハウスで活動していた○○くんです!」と、内情を知っている私から見ればまるで不釣り合いな誇大広告的紹介とともに登場したからだ。だが、そのステージは最高だった。まさに、「錯覚資産」が実力以上のものを彼に与えてくれたのだ。

そして彼は、「舞台には小さい頃から立ってきました(いや、座ってきました)」と、落語時代の経歴まで引き合いに出して、巧妙なMCをやる。そういった子どもの頃の舞台は福祉施設のロビーに運び込まれた会議用テーブルの上に敷かれた座布団に過ぎなかったりするのだけれど、聞いている方はそんなふうには思わない。小さな頃からスポットライトを浴びてきたのかなと思う。そういう錯覚が、彼のステージをきらびやかに彩っていく。こうして彼は、小さな学校の中、その舞台パフォーマンスで着実な地位を築いていっている。

 

まだまだ高校生でしかないし、そういう学校に通っているからといって、別に息子は芸能人を目指しているわけではない。これからどんな方向に伸びていくのかさっぱりわからないけれど、上記のようなこれまでの経緯をたどるだけで、彼が「錯覚資産」を有効に活用しているのがわかるだろう。そして、たぶん私は、2度の働きかけ、落語大会への出場を勧めたこととライブハウスの飛び入りイベントへの参加を勧めたことで、彼の「錯覚資産」を著しく増加させた。これを「資産の継承」といったら、ブルデューは失笑するだろうか?

ともかくも、この先、どんな道に進もうと、息子は過去に経験した小さな出来事をさり気なく織り交ぜていくことで、周囲の人にある種の錯覚を引き起こしながら生きていくだろう。人々の錯覚は、実力以上の成果を彼に与える。それは彼の「運の良さ」として解釈されるようになるかもしれない。

しかし、それを視点を変えて見るならば、「彼には自信がある」と表現することも可能なのではないだろうか。過去に経験した一つ一つの小さなことを大切にすることが、自信につながる。そして、自信があるからこそ、周囲の人は敏感になる。自信は、周囲からの信頼を引き寄せる。その信頼が、実力以上の成果を招き寄せる。そういうことなのかもしれない。

だとしたら、「錯覚資産」の最大のソースは、自信であるのかもしれない。そして自信の原点にあるのは、ごく幼少期から核になっている根拠のない自信だ。根拠のある自信は根拠を失ったときに崩壊するが、根拠のない自信は何があっても突き崩されない。そういった自信を形成することは、子どもに生涯を通じて有効な資産を与えることになるのだろう。そしてそれは、私のように有形のモノとしての資産や、お上品な「文化資本」を持ち合わせない庶民にとって、もっとも確実で安上がりな資産継承の戦略であるのかもしれない。

 

ま、それが証明されるのは、この先数十年、息子が幸せな人生を送ってくれたときなんだろうな。数十年後のある夕方、彼がホッと一息をついて「ああ、幸せだなあ」と思ってくれたら、私が正しかったことになるだろう。そのとき私はこの世にもういないのかもしれないけれど。

医師は男性で看護師は女性 - 文化としての医療

先月、父親が入院した。どこがわるいわけでもない、というよりも、(検査の数値的には)わるいところだらけで、そういった数値からだけではいったいなにが原因なのか特定は非常にしにくい。ともかくも、ふらふらになってぶったおれそうだったので、とりあえず病院に行って、首をひねるばかりの医者に「朝から水も飲めない状態ですよ。明らかに脱水症状ですよ」とねじこんで、入院させた。実際、放っておけばおそらく血管系かどこかに命とりのイベントが発生したように思う。ただ、たまたま食欲がなくなって脱水症状になってくれたからよかったようなものの、そうでなかったらいくら本人が苦痛を訴えていても、「数値ではどこにも特に急変はみられませんねえ」で放置された可能性が高い。まあ、入院させてもらえてその後は順調に回復をみせて退院も近いのであまり悪口を言ってもいけないのだけれど、医療の現場なんてそんなもんだろうと思う。

今日も退院前の診察があるというので病院に行ってこようと思っているのだけれど、この病棟、ご多分にもれず女性の職場である。いくら「婦長」が「師長」に変わったとはいえ(それでも古手の看護師は昔ながらの呼び方をうっかり使っていたりしたが)、目につく看護師は全員女性である。もちろん院内には男性看護師もいるのだろうが、そこは適材適所で何らかの役割分担があるのだろう。ナースステーションに見かけることはない。一方の医師の方だが、担当医や当直医は男性だし、入院時の外来の医師も(なにせわるいところだらけなので順番に4人の医師の診察を受けたのだが)、全員が男性だった。当番医の表をみると女性医師もいるのだけれど、あたらなかったのはたまたま以上のものがあるように思う。

 

少し前、はてな匿名ダイアリー(通称:増田)を中心に、女性医師が現場で「使えない」というような話があった。医療関係者でもない外野の素人から見れば、それなら単純に人員を増やせばいいじゃないかと思うのだが、まあ、そうもいかない現場のいろいろもあるのかもしれない。だが、実際に医療現場には男性も女性もいて、それぞれが相当にタフな仕事に従事しているのだから、「医者は男で女は看護師」という分布の不均衡に何らかの合理性があるようには思えない。医師1人を養成するのにかかる費用は1億円ともいわれるので、1人あたりの稼働率をあげたいというのはわからないことではないが、おそらくそれは別の問題だろう。

とはいいながら、現実がそうなっている以上、「まあ、やっぱり女性は医者になりたがらないのかなあ」ぐらいには思っていた。ところが、医科系の大学で、女性受験者の点数を意図的に操作して女性の入学者比率を調整していたという報道があった。なりたがらない、のではなく、させたがらない、だった。

www.nikkei.com

mainichi.jp

news.livedoor.com

高校生を教えていると、いわゆる学力に性差はあんまり関係ないということがわかる。アホな男子もいれば、突き抜けた男子、優秀非の打ち所のない女子、どうにかしてくれよという女子、そしてそういったカテゴリー分けに当てはまらない多様な生徒がいる。女性の方が比較的「真面目」な場合が多いように見えるのは、なにか文化的な分析ができるかもしれない。頭の構造はちがうのかもしれないが、たかが学校の勉強程度のことではっきりとあらわれるような差異ではない。

だから、大学入学者の男女比の差が発生するのは、能力のせいではなく、志望者比率のちがいでしかないはずで、それはつまり大学卒業後のキャリアパスをどう描くか、どう描けるかという社会学的な問題でしかないと思っていた。まさか、大学が男女のちがいで入学者を選別していたとは、ちょっと思いもよらなかった。

実際、かつて医者を志望する女性が男性よりも少なかったのは日本だけではない。アメリカでもヨーロッパでも、はるかむかしには医師は男性、看護師は女性という偏向があったようだ。しかし、イギリスでは2011年の予想で2017年には医師の男女比率では女性の方が多くなるとされており(おそらくもうそうなっているのだろう)、さらにアメリカ合衆国では2017年の医学部の入学者の男女比率は女性の方が多かった。そもそも日本の内閣府男女共同参画局の文書にさえ、「医療分野への女性参画促進について」として、この問題に関して言及がある。

わが国における総医師数に占める女性の比率は、近年、一貫して上昇しており、図表 6-1のように 2008 年末で 18.1%となり確実に増えている。医学部学生に占める女性の割合は、さらに増加傾向にあり、医師国家試験の合格者における女性の割合は 1998 年以降、30%を越えている(図表 6-2,6-3)。そして、過去 18 年間を通して、医師国家試験の男女別合格者はすべて女性の方が高い合格率を示している。

と現状を認識した上で、

日本の科学技術の進展や国際競争力の強化を生み出し、支える人材の確保のために、女性医師・女性研究者の能力を最大限発揮し、活躍するための環境を整えていくことが重要であることが指摘されている。

との問題意識を明らかにしている。そして、タテマエとしては、大学側もそれに賛同し、なんと補助金までもらっている。

医師・医学生支援センター 文部科学省「平成25年度女性研究者研究活動支援事業」に採択されました | 東京医科大学

 

であるというのに、その入り口である大学入学において男女比率を意識的に調整しているというのは、ちょっと解せない。さあ、社会学者は商売のしどころだ。どういう社会的な圧力に寄ってこんな奇妙な現象が生じているのか、ぜひ明らかにしてほしいものだと思う。

実際、アメリカでも、「医者は男の仕事」的な意識が、いまだに強いようだ。たとえば、

www.theguardian.com

によれば、医療の現場では男性主導のセクハラ・パワハラなんてあたりまえというどこかで聞いたような話が、海の向こうでも存在するらしい。非常に古めかしい世界である。

歴史を遡ると、医療は決して男性に専有されていたのではないようだ。ヨーロッパ中世の魔女が民間医療を担っていたのは有名な話だし、女性の保健は多くの文化で助産師によって担われてきた。この話はぜひもっと詳しく調べたいと思ってネタを温めているのだけれど、どうも19世紀に一気に医療の科学化と男性化が起こっている。どうやら、男性が、科学の権威を借りてそれまでの民間療法を駆逐するキャンペーンを行ったようなのだけれど、確かにその結果として医療が進歩した面もあるので、あまりネガティブな面ばかりに注目するのも公平じゃない。

科学というのは、方法論としては厳正中立であるかもしれないが、その用いられ方にはつねに社会的な圧力がはたらいてきた。また、その発展が、新たな社会的圧力を生み出すこともすくなくなかった。医療の文化史は、そういう面で非常に興味深い。もうちょっときちんと調べてからこのあたりのことは書ければいいと思うけれど、それだけの力があるかなあ。ま、なんにしても、もしも書けたら、近代医療文化の男性性は、絶対におもしろい話になると思うよ。

 

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追記:フランスでも、医学部は女子のほうが多いらしい。ただ、医師全体が同数になるのはまだ数年先とか。ということは、やっぱりフランスでも、もともとは「医師は男性」文化があったんだろうな。

 

アメリカの方の現状はこちら。

cakes.mu

 

追々記:各国別の男女比は、こちらにあった。詳しい。

labcoat.jp

「結果」は解釈抜きに成り立たない、という話 - 成果主義のマヤカシについて

私の生業の半分を占める家庭教師では、結果がすべてだ。それがいちばんシビアに出てくるのが入試結果で、合格すれば「ありがとうございます! 家庭教師をお願いしてよかった」となるし、不合格なら「高いお金を払ったのになんだよ」と、たとえ面と向かって言われなくとも文句をこらえているのがわかってしまう。結果を前にしては、どんな言い訳も成り立たない。

合否がはっきり出る入試までいかなくても、テストの点数はひとつの結果になる。点数が上がった、下がったに敏感な家庭もあって、テストのたびにヒヤヒヤする。ただ、こちらには多少は逃げ道がある。「素点は下がってますけど、平均も下がってますから」「順位は少しあがりましたね」と言えればむしろこちらの勝利だし、「今回の範囲は苦手なところだったので…」みたいに中身に逃げ込むことも場合によっては不可能ではない。それでもやっぱり、あらゆる逃げ道をふさがれて「スミマセン」と頭を下げるしかない場合も少なくない。結果はかくもシビアである。

 

しかし、結果がすべてなら、それをコントロールすることも実は可能である。たとえば、入試の結果として「合格」が欲しければ、合格が確実な学校を受験させればいい。実際、たとえば公立中学校の高校進学に向けての進路指導なんかはそういうスタンスで実施されていて、決して冒険をさせない。合格確実なところに輪切りで落とし込んでいくようにする。そういう学校の進路指導をうまく利用すれば、家庭教師も必ず結果を出せる安全側にいることが可能になる。ふだんのテストでも、最初から「次のテストは点数がとれませんが、長期的な計画の中では織り込み済みです」と説明しておけば、「予告通りの結果です。順調です」と胸を張ることができる。

そういうごまかしをやらなくても、結果での評価にはちょっと落ち着かないところがある。なぜなら、ひとつの方法を実施してある結果が出たとして、もしもその方法をとらなかったらどういう結果になったのか、そこを判定する方法がないからだ。

たとえば、私はだいたいは「D判定からが勝負」と思ってるクチで、模試の結果がわるくても気にしない。最後の3ヶ月で一気に仕上げる戦略で、割とうまく乗り切ってきた。そんな自信がある。その細かいノウハウは書くつもりはないけれど、綿密な計画を生徒とともに練り上げ、着実に実行していく。言葉を替えれば、そこに至るまでの長い時期は、その最後の作戦を実行できるようにするための下準備である。特に高校入試に関しては、こういうやり方にはそれなりの実績も根拠もある。

けれど、自分自身の中にさえ、疑念はある。それは、「もしも別のやり方でやったら、もっといい成果が出たんじゃないか?」というものだ。この疑い、決して消すことができない。

 

もしも科学的にその疑いに取り組むなら、やるべきことはかんたんだ。2グループの同じような生徒を用意し、一方に対してはある手法、別のグループに対しては別の手法で受験準備を実施して、その結果を比較する。しかし、これは一人の家庭教師ができることではない。なぜなら、まず「同じような生徒」が2人といないということがある。一人ひとりの生徒は個性や能力がちがう。それ以上に、人生に対して求めているものがちがう。ある生徒に対してベストなことは、別な生徒に対してはマイナスであったりもする。そして、統計的にそれを薄められるほどの人数を一人の家庭教師は受け持つことができない。では複数の家庭教師が協力してデータをとればいいのかというと、家庭教師にもまた一人ひとり個性があり、同じことをやっているつもりでも生徒にあたえる影響はすべてちがう。結局のところ、客観的なデータなんて、実験の設定からして無理になる。

まして、生徒を実験対象にするなんて、倫理上、問題だ。家庭教師は職業上、生徒のベストになる指導を実施する。自分がベストだと信じている方法があるときに、そうではない方法と比較するため、ベストではないことを生徒に対しておこなうのは、正義ではないだろう。結局、実験はできない。実験はできないから、疑いは解消できない。

極端なことをいうと、自分がやっていること、あるいは自分の存在そのもの(つまり家庭教師を雇うこと)が、プラスに働いていると断言するだけの客観的根拠はどこにもない。それでもプロである以上、「いや、それでもこれは役に立っている」と主張しなければならない。主張できるだけの(たとえ客観的ではないにせよ)根拠がなければならない。それは、「経験」というきわめてあやふやな中から導き出されたものということになる。

 

経験から生まれた確実な方法で、家庭教師は仕事をする。そして、テストの点数が上がらない。そんなとき、家庭教師の心の中に去来するのは、「点数が下げ止まったのは自分が頑張ったからだ」という思いだったりする。実際、放っておけばもっと底なし沼のようなところに落ちていくはずの生徒を、なんとか現状維持にとどめることができたのなら、それはひとつの「成果」だと誇れるだろう。

しかし、それが本当に正しいのか、疑いを晴らすことはできない。なぜなら、実際、放置しておいたら成績が本当に下がったのかどうか、確認することはできないからだ。あるいは、もっと別の方法をとったら現状維持どころか点数が上がったかもしれないという疑問を否定することができないからだ。歴史は繰り返さない。たったひとつの経過をたどるたったひとつの事象に関して、「こうしていたらどうだったか?」「こうしなかったらどうだったか?」という問いかけを実証することはできない。

だから、家庭教師が「対策をしたからようやく下げ止まりました」と胸を張って「結果」が出たと主張しても、「点数が上がってないじゃないか」と「結果」を否定する家庭側の主張を打ち消すことはできない。あるいは、打ち消すためには口八丁手八丁のあまり本筋ではない技術が必要になったりする。うまく言いくるめられるかどうかが家庭教師の実績につながるというのも、なんともやりきれない実情。

 

「結果」というのは、観測される事象として確実に存在するようにだれもが思う。けれど、それは「れば、たら」の集積の上に成り立つ単なる解釈に過ぎない。

たとえば、一方に「医者に殺された!」と医療の結果を恨む人がいるとき、同じ事実を前に「医者のおかげであそこまで生き延びた」と評価する人がいる。「景気がこれだけ上向いたじゃないか」と数値を並べる人に対して、「それは自然循環であって、余分なことをしてなければもっと景気は上がったはずだ」と主張する人も出てくる。そういった解釈を、実証的に裏付けることはできない。

もちろん、多くの事象を学べば、そこに共通する変化の中で、ある程度のことはいえる。「この治療にはこの程度の延命効果がある」「この景気対策にはこのような効果が見込める」などの知見は蓄積されている。けれど、それでもなお、歴史的な一回こっきりの事象に対しては説得力が十分ではない。「先生、そういいますけど、糖尿病だけじゃなくて肺も悪かったんですよ」とか、「産業構造がちがう時代の景気対策と現代では本質的に同じじゃないでしょう」とかいう言説に、完全に理詰めで反論することはむずかしい。

 

「結果」というのは、しょせんはそれをどう解釈するかということを抜きにしては成り立たないのだ。だから、結果にもとづいて人を評価するというのは、厳密な数値や事実をもとに評価しているようで、実は恣意的に評価を行っているに過ぎない。「成果主義」がむなしいのは、そういうところなんだろう。

とはいいながら、家庭教師としては、ほかの部分で評価してくださいとはクチが腐ってもいえない。いや、言いたいことはある。たとえば生徒がどれだけ指導時間を楽しんだかとか、どれだけ考える習慣が身についたかとか、どれだけ批判的な態度を身につけたかとか。けれど、そういうものは目に見えないし、もしも目に見えるようになったとしても、やっぱりそれは「結果」として解釈の対象になるだけなんだ。だから、最後にはやっぱり、「でも、○○くん、よくがんばったじゃないですか!」みたいな精神主義でごまかすんだろうな。やれやれ。