シアワセの容相

あしたはこっちだ

定義をするのはむずかしい - ネコは液体か?

イグ・ノーベル賞の季節である。Improbable Researchの発表によれば、トップに来るのが物理学賞「ネコのレオロジーについて」。この「レオロジー」、聞き慣れない言葉だが、連続体力学の中で粘性をもって流動するもの一般を扱うものらしい。そういえば学生の頃に「流れ学」みたいな講義があって、「それって流体力学とちがうんですか?」と、主に単位の関係で疑問に思ったものの、適当に過ごしてしまったような記憶が蘇ってきた。流体力学ニュートン流体と非ニュートン流体の力学を対象とするのに対し、レオロジーは非ニュートン流体の力学と塑性力学をまとめて扱う。といったあたりは俄仕込みの知識だ。

で、非ニュートン流体というのは、水や空気のような単純な挙動をする流体ではなく、塩ビやゴム、デンプンのような高分子がドロっと動くような場合の流体を指すらしい(ああ!いい加減だ)。飛行機の揚力みたいなのは割とニュートン流体的な解釈で計算できるのだけれど、マヨネーズとかケチャップみたいな食品工業で扱うものはだいたい非ニュートン流体らしいので、そっち方面の工学ではけっこう重要な基礎らしい(このあたりとか、参照)。

で、受賞論文を読んでみた。なかなかおもしろい。その紹介。

 

まず、この論文、半分はジョークである。末尾のAcknowledgementを読むとわかるのだが、これは非ニュートン流体力学の権威(らしい)Gareth H. McKinley教授の50歳の誕生日とビンガム賞受賞を記念して書かれたもので、所属も大学と学会(これもちょっと怪しめ)に加えて、「McKinley一家」と、明らかにジョークがかかっている。それでも一応は学会誌なので、決しておふざけには流れていない。ところどころにジョーク(たとえば株屋の慣用句である「死んだネコでも高いところから落とせば少しは反発する」みたいなのを引用するとか)を散りばめてはいるが、論旨はしっかりしている。

で、その論の要は、つまりは固体、液体の定義だ。すなわち、古くから物質の三態は、定性的に定義されてきた。しかし、レオロジーでは、より定量的に、数式を使って定義する。その定義に照らして、ネコを判定してみようというわけだ。ちなみに、いかにも学術論文らしくネコは学名で記載されているが、これもジョークのうちだろう。

さて、レオロジーでは、固体か液体かをデボラ数を用いて判定する(らしい)。デボラ数についてはこちらの解説がシロウトにはわかりやすかったのだけれど、

デボラ数ですが,これは材料の緩和時間と工程の滞留時間の比で定義され,緩和時間に対して通過する工程の滞留時間が短ければ材料は弾性体(固体)として振舞い,滞留時間が長ければ粘性体(液体)として振舞います.

とのこと。つまり、ネコについてデボラ数が算出できれば、それは現代的な科学らしく定量的に固体か液体かを判定できるだろう、ということらしい。

で、そこからの(おそらく玄人受けするジョークを含んだ:たとえばキャピラリー数をわざとcatpillaryと綴り間違えるとか)ディスカッションはすっ飛ばして読み進めると、さらにネコの乾湿、摩擦、降伏応力、接着性などを検討している。わけわからない。たぶんレオロジー関係者には馴染みの深いさまざまな流動体の性質や状態になぞらえているのだろう。そして後半、さらに踏み込んだ検討としてレイノルズ数Weissenberg数を持ち出し、さらには古代ギリシアヘラクレイトスまで持ち出す衒学ぶりで議論を進めるのだが、このあたりもシロウトには読みこなせない(仕事ならもうちょっと頑張るんだけどね)。ざっと見たところでは、万物流動ヘラクレイトスの思想は、「力」がなければすべてのものは止まると考えたアリストテレスによって影響力を失い、さらにガリレオ以降の合力がゼロであれば運動は変化しないという古典物理学の思想によって否定されたみたいな歴史が書いてあって、結局レオロジーヘラクレイトス的でもありアリストテレス的でもありガリレオ的でもある、みたいな感じの議論なのかなあと思う。

で、ネコなんだけど、結局それは慣性的であるのか弾性的であるのかなどの考察を経て、結論はネコはじっとしてないし、「さらなる研究が必要」みたいなことになっている。ま、このあたりはお約束の書き方なのかな。論文は以上。

 

で、ネコは固体なのか液体なのかということでいえば、もちろん、常識的に言ってこれは固体。まあ生物というのは大半が水でできていて、特に動物は革袋に入れた水みたいなもんだから、液体っぽい動きも多少はある。けれど、常識的には液体じゃあり得ない。

ただ、学問の世界での用語は、日常の世界とは微妙に異なる。例えば論文中でも出てくるpowerは日常的には「力」だけれど、物理学では仕事率のことであって、日常的な意味とは別な意味合いをもつ。ニュートン力学での「力」はforceだが、これは決してジェダイが操る「銀河の万物をあまねく包み込む」ものではない

学問に限らないのだけれど学問の世界では特に、言葉は定義された上で用いられる。だがその定義は、ときには日常の経験や常識と整合しない。この論文が(たとえ笑いの要素を評価の尺度としている賞とはいえ)イグ・ノーベル賞を受賞したのは、そういった定義による判定と日常的な経験による判定のズレをしっかりと把握していたからではないだろうか。(かなり強引なこじつけや飛躍があるといえ)、レオロジーの定義を杓子定規に当てはめていくと、ネコは固体であると同時に液体であるとも判定されるのかもしれない。だが、それでもって我々の日常経験が否定されるわけではない。学問の正当性も揺るがない。それがこの論文の鮮やかな結論ではないかと、私はシロウトなりに読んだ。

 

実際、言葉はむずかしい。定義されて使う文脈であっても、往々にして日常的な文脈での用法が混入し、議論を混乱させる。正確な定義の重要性についてはこのブログでも書いてきたし、言葉の定義を辞書から引用した記事も数多い。そうはいいながら、私自身、定義されない言葉に頼って文を書くし、定義がはっきりしている言葉をわざわざひっくり返してみたりもする。かくもいい加減なことばかりしているのに、定義が重要だなんて、聞いて呆れるかもしれない。

それでも、ほんと、誰かが何かを言ったときに、その言葉がどういう意図で用いられているのかを正確に見極めることが、どんどんと重要になってきている。バベルの塔が崩壊したようなこの時代、その作業をおろそかにしたら、次に来るのは混沌しかない。

 

いや、もう混沌の中にいるのか。マヨネーズのような流動体の中でもがいているのが、案外と現代の人間かもしれないよな。レオロジーよ、救っておくれ!

イグ・ノーベル賞「ネコは固体にも液体にもなれることを流体力学で証明」に日本からの寄与があった!

イグ・ノーベル賞、今年も日本人の受賞で話題になっているが、もうひとつの話題は物理学賞。

nlab.itmedia.co.jp

この元論文、id:n-stylesさんの紹介で

http://www.rheology.org/sor/publications/rheology_b/RB2014Jul.pdf

とわかり、早速読んでいるのだけれど、なかなかの難物。なにせ、流体力学は大学時代、ぎりぎり単位はもらったものの、最後までお経でしかなかった。レイノルズ数って、なんだったっけ?

 

ただ、最後まで目を通すと、日本人にとって無視できない記述があっった。

Very recent experiments from Japan also suggest that we should not see cats as isolated fluid systems, but as able to transfer and absorb stresses from their environment. Indeed, in Japan, they have cat cafes, where stressed out customers can pet kitties and purr their worries away.

「最近の日本での実験によれば、ネコは周囲から断絶した流体系ではなく、周囲からの応力(ストレス)を転移・吸収することができる。実際日本には猫カフェというものが存在し、ここでは応力を受けて変形した(stressed out)顧客は子猫を愛玩し、その憂さを晴らすことができるのである」

 

日本の研究レベルが世界的に低下を続けていると報道される中、これはなんとも誇らしい成果ではなかろうか(そうなのか?)

 

時間があれば、研究の詳細を紹介しようと思うけど、あるのかな? 時間。

 

 

追記:書いてみた。しっかり読んでないのがバレて、恥ずかしいな。

mazmot.hatenablog.com

今年こそ、らんぷミュージアムへ行こう

去年、こんな記事を書いた。

mazmot.hatenablog.com

追記に書いたとおり、臨時開館日にすっかり忘れていていきそびれたのだけれど、今年も臨時開館があるという。

開館月日
平成29年 9月29日(金)、30日(土)
10月20日(金)、21日(土)
※各日11:00~12:30、14:00~15:30に専門スタッフによる展示品ガイドを実施します。(申込不要)
開館時間
10:00~17:00(入館は16:30まで)
場所
神戸市中央区京町80番 クリエイト神戸3階
入館料
無料

www.kepco.co.jp

今年こそ、忘れずに行こう。

人殺しは特殊なことではない - 内なる残虐性を見落とさないために

昔は列車内でよく本を読んだ。最近それほどでもない理由は、クルマを運転するようになって電車移動の時間が減ったことでもあるが、パソコンのバッテリの性能が上がって、座れる限りはラップトップで仕事してることの方が増えたからでもある。いいことなのかわるいことなのかわからない。

それでも、パソコンを持ち出すほどでもないような電車移動の場合は、いまでも本をポケット(もしくはカバン)に入れる。この本、たまたまそのときに読みかけのものがある場合を除けば、なるべく読みにくい本を選ぶ。電車内で読みきってしまうと後が手持ち無沙汰だから。かといって、読みづらすぎる本、退屈な本は、携行しても結局開かないことになるのでよろしくない。ある程度興味深く、また、尾を引かないことも大切だ。電車を降りるときにあとが気になりすぎるとそこからの用事に集中できないから。

読むのに時間がかかるという意味では、英語の本がいい。いくら英語が得意といっても、いまだに私は英語を読むのに日本語を読むのの2〜3倍以上の時間がかかる。1冊あれば相当な時間を潰せる。そして日本語なら、岩波文庫に収録されているような古くさいのがいい。古典までいかなくても、明治期の重要な著作なんかはけっこう面白く、同時に読みづらい。「旧時諮問録」とか「大君の都」とか、幕末期の事情を伝えてくれる資料をポケットに入れて持ち運べるのは、岩波文庫ならではだろう。

そんな中でも割と短距離の移動に向いているなと思うのが篠田鉱造の「幕末百話」だ。何がいいといって、独立した一記事が2〜3ページで終わる。パッと開いたところから読める。時代劇なんかの時代考証の元ネタになっていたりするから、それなりに興味深い。それでいて、口語とはいえ古臭い文体で書いてあるから流し読みはできない。時間つぶしには最適のタイプといえる。今年も、何度目かの読み返しだと思うが、よく持ち歩いた。

この本、幕末の混乱期の実体験を、さまざまな人がさまざまに語っている。「面白い話をしてくれ」という著者の要請に応える形で古老が話したものだから、誇張や記憶違い、時には少々の虚偽も入っているだろう。それでも、眉に唾をつけながら、当時の人々の生きた様子をつかまえることができる。そんな気がする。

 

この本によると、幕末期の日本は相当に血なまぐさい。江戸の市中、辻斬りや喧嘩は日常的に起こっている。戊辰戦争や、その少し前の「貧窮組」の騒動、安政地震、嵐のような自然災害、火事など、人々が死傷する事件には暇がないように見える。もちろん、非日常のそういう事件が記憶に残って後に語られているのだから、そういうことばっかりではなかったはずだ。平穏な日常もあっただろう。それにしても、この時代の血なまぐささは、現代人の感覚から遠いものがある。

そして重要なのは、そんな血なまぐささに違和感を感じるのは、現代人だけでなく、その時代からまだ数十年、実際に体験した人々が多く生きているこの体験談が採録された明治末期にあってさえ、隔世の感を持って語られていることだ。明治末期といえば国内的には平和だったとはいえ、日清・日露戦争もあって現代よりはかなり荒っぽい。それでも、人間はすぐに騒乱の時代を忘れてしまう。記憶には残っていても、その残虐さを遠いものに感じてしまう。

 

だが、この「幕末百話」を読むと、人間がずいぶんとあっさりと殺されていることがわかる。もちろん、殺人はそれなりの罰を受けるわけだけれど、身分のちがいや状況によってはほとんど罪に問われない場合もあったようだ。喧嘩での殺しは逃げるが勝ちみたいなところもあって、殺人者が逃げおおせて若い頃の思い出としてそれを語っているような記事もある。そういった話を読んでいると、人間はけっこう簡単に殺人者になれるのかもしれないと思う。穏やかな老人に見えても、若い頃には血気盛んで相当危険なことをしていたのかもしれない。平和な世界の隣人も、社会の空気が変わればたちまち凶器を振り回すのかもしれない。そんなことには無縁だと思っている自分自身でさえ、そんな可能性がないと言い切れないのかもしれない。

 

たとえば、第二次世界大戦がどれほど残虐だったのか、平穏な時代を過ごしている私たちにはもうわからなくなっているのかもしれない。だが、私が子どもの頃にはまだまだその時代を生きた人がいくらでもふつうにいた。たとえば私の家の隣には、フィリピン戦線で闘った元兵士が住んでいた。非常に穏やかな人で子どもにも優しかったが、ときどき変な言動をする。「ちょっとおかしいから」というのが親の説明だったが、いまでいうPTSDというやつだったのだろう。その彼が、夕暮れ時に厳しい顔をして、銃剣で人を串刺しにする話をしていたのを覚えている。

そういう世界は、波風立たない日常のすぐ隣りにある。そしていったんスイッチが入ったら、人間は想像できないほどのことをする。大量殺戮の記録を読むと、よくそんなところまでと思うようなところまで殺すために探している。「草の根分けてでも」という表現は、決して過剰なものではない。もちろんそれでも逃げる方も必死だから、完全な皆殺しはできないことが多い。九死に一生を得るという表現は、だからそういう場面ではけっこう適切だ。多くが死ぬけれど、中にぽつりぽつりと生き延びる人がいる。

「幕末百話」の中でも、賊軍に参加して官軍の追討を受け、仲間の多くが死罪になる中を生き延びた人の話も出てくる。辻斬りの追跡をすんでのところで逃げ延びた人の話も出てくる。そういうのを読むと、人間の命は実に危ういのだなあと思う。そして、その危うさを握る側に立った人間がどれほど冷酷無比に行動できるのかを知って、肝を冷やす。

 

関東大震災の際に虐殺された朝鮮人の数、6000人が多すぎる推計でないかと言われている。いろいろ読んでみたら、確かに2000人ぐらいが妥当なような気もする。ただ、「6000人が多過ぎる」という主張の中に、当時東京に住んでいた朝鮮人の人数と比較して多すぎるというものがある。統計はあまり信用できないのだが、震災時点で東京には8千人から1万人程度の朝鮮人が在住していたようだ。関東全域だともう少し多い。にしても、その数に比較すれば、6000人は確かに多く感じる。「80%も殺せるはずがない」というのが、現代人の感覚だ。

実際のところは知らない。だが、人間、いったんスイッチが入ったら、その程度の虐殺はやってのける。「皆殺し」が正義という感覚になったら、本気で草の根を分けて探しだす。そういう状態になったときに、生き延びるのは「九死に一生」ぐらいの確率だ。そのぐらい、人間は効率的に仕事をする。特に、緊急時には大量に分泌されるアドレナリンのせいで、信じられないほどのことをやってしまう。

歴史を詳しく調べたわけではないので、関東大震災時の虐殺について何かを言うことは私にはできない。ただ、そのぐらいのことが可能かどうかということであれば、可能だといえるぐらいには人間を見てきた自負がある。そのぐらいには過去の歴史を学んできたと思っている。8000人のうち6000人を殺すことは、武器を持った正義漢が百人もいて、そして群衆がそれを消極的にでも支持していれば、十分に可能だろう。実際にそれがあったかどうかは別にして。

 

だから、私は自分自身に安心ができない。自分の中にも残虐性は眠っている。それが暴発しないように、常に自分を見張っていなければならないと思う。できるだろうか? わからない。

多くの人が、そうやって長い歴史を生きてきたのだと思う。わからなくても、やってみなければならないのだろうな。

熱い人に出会わない

これまでの人生で、何度も熱い人に出会ってきた。その多くはただ熱いだけ、暑苦しいだけの人だったが、なかには「この人は確かに情熱に見合った行動力がある」と思わせてくれる人もいた。何人かのそんな人の下で働くことができたのはラッキーだったと思う。

情熱と行動力のマグニチュードが最も大きかったのは宮本重吾氏だった。といってもこの名前でピンとくる人はほとんどいないだろう。長くなるので書かないが、社会を農業から変えようという途方もないビジョンをもっていたけれど、それがあまりに大きすぎたためにそのカケラも実現できなかった人だ。実現できない夢を現実のものにしようとするわけだから、ホラ吹きとかドン・キホーテとか、ひどいときには詐欺師呼ばわりまでされたこともあった。が、その情熱で結局だれもが「宮本さんならしかたないか」みたいに納得してしまっていた。昨今も田舎にいて夢物語をかたるブロガーが顰蹙を集めているようだが、似たような感じで宮本さんに騙された若い人々もけっこういた。まあ傍迷惑な人でもあったが、行動力も抜群で、だからこそあり得ない国政選挙への挑戦なども、ちゃんとやってのけた。自分が播いた種が百年後に芽を出すことを信じていた人だった。いや、やっぱり長くなりそうだ。やめとこ。

あるいは、ちょっと名前は出さないのだが、某ベンチャーの社長だったMさんも、行動力と情熱を兼ね備えた人だった。最終的には出口戦略に失敗してやはり多くの人を失望させたのだけれど、あそこまでVCを引っ張りまわしたのは立派といえば立派だった。それだけの行動力は、やはり正体不明のあの情熱の裏打ちがなければ続かないはずだ。それだけのものをもっていた人だった。

こういった人々のもとで、私はずいぶん勉強させてもらった。彼らは情熱があるだけに注文もムチャであることが多い。そういうムチャな注文に何らかのカタチをつけていくのはずいぶんと面白かった。私はもともと、自分が考えたこと、自分が手を下したことで何かが生まれたり何かが変わっていくのをみるのが好きだ。基本的にそういう仕事を選んでやってきたようなところがある。熱い人々との仕事は、クリエイティブな衝動を十分に刺激してくれるものだった。

翻訳のような職人仕事が好きなのも、それまでそこになかった文書ができていくのをみるのが好きなのであって、決して作業そのものが好きなわけではない。生来のズボラであって、できるなら縦のものを横にしたくもない。それでも横書きの英文を縦書きの和文に変えていく作業は、そこに新たなものが生まれるから仕事としてたいせつにしてきた。Web時代以前に長く続けた編集屋も、同じ意味で自分の仕事だった。自分の頭の中だけにあった本が形になるのは快感だった。いま、収入の中に家庭教師の比率が大きくなってきているけれど、これも自分が働きかけることでひとが変わっていく、その過程をみることができる仕事だ。成長期の子どもたちは、数ヶ月単位で大きく変わる。そして、これらの仕事の間にいくつか挟まるさまざまな仕事も、やはり物事が生まれること、変わることを実感させてくれるものばかりだった。少なくとも、雑多な仕事たちの中のそういう側面に頼ることで、私はなんとか生きてくることができた。

 

ただ、そういった職人仕事を一人で続けていると、「そろそろ次のステップに」と感じる時期がやってくる。私はおそらく、本当の意味での職人ではない。職人であればひとつの分野を極めてくのだけれど、私の場合、ある分野で少しものが見え始めてくると、その周辺のことが気になり始める。職人仕事は自分の視野を広めてくれるから、どうしてもそこで終わらない。次の段階へと進みたくなってくる。

そんなとき、頼りになるのが熱い人だ。こちらの専門分野なんかはお構いなしに、能力のギリギリのところまで要求してくる。そこに応えようとすることで、自ずと新しい境地に進むことができる。学習参考書という狭い分野でしか編集の経験がなかった私をもっと広い本づくりの世界に進ませてくれたのは宮本重吾さんだったし、若い頃に中断していた文芸翻訳の仕事を実務翻訳の世界で再開させてくれたのはベンチャーのMさんだった。熱い人たちは、私にとっても必要な人たちだった。

 

そしてこのごろ、思う。ここしばらく、熱い人に出会わない。そろそろ次に進みたいような気がする。だけど、熱い人があらわれない。

他力本願はいけないのかもしれない。けれど、熱い人たちだって、ひとりではやっていけないのだ。熱い人たちは、明らかに私の能力を必要としていた。そして私はその能力を提供することで、成長の機会を得た。一種の共利的関係だ。だから私は望んでしまう。

 

そろそろ、熱い人に出会いたいな。

「平等」の残酷さ

日本では、身分制度憲法で明文的に否定されている。そのせいもあって、「生まれがいいから」というだけで特別な待遇を受けるような人生に対して、多くの人が否定的な感覚を覚える。ドラマや小説、アニメやファンタジーであっても、貴族、王族、富貴の生まれであることを鼻にかけるような登場人物はだいたいにおいて悪役か、よくて主人公の引き立て役ということになっている。たまに高貴な生まれの主人公がいたとして、彼は門地や身分によってヒーローになるのではなく、その努力や人知れぬ労苦を経て成長することによってその地位を手に入れる。「親が◯◯だから」ということで人を語ることは、現代的な感覚では正義ではない。

だからこそ、明示的に否定された身分制度が実質的に強固に残存している証拠を見せられると、私たちはたじろいでしまう。たとえば、教育機会が経済的に制限されることによる貧困の再生産。それを指摘したピエール・ブルデューの著作は、バブルの頃の日本でよく売れた。それだけインパクトが強かったわけだ。若かった私も何冊か読んで、なるほどと思った。身分制度そのものではないが、金持ちの子どもたちが金持ちになり、貧乏人の子どもたちが貧乏になるという固定化は、身分制度と何らかわるところはないのではないか。私の記憶ではブルデューは著作の中ではそれを問題だとも問題ではないとも積極的な価値判断は示さず、ただ坦々と事実関係を解き明かしていた。価値判断的な考察は不要だったのだろう。それは読者が勝手にやればいい。問題か? もちろん問題だろう。誰だってそう思う。それが現代だ。

www.hamaren.com

だからこそ、教育機会を均等にという議論が出てくる。大学無償化なんて人気取り政策だって、そういう文脈がなければ単なるバラマキにしか見えないだろう(いや、そうなのかもしれないけど)。それも、外見上の公平だけでなく、踏み込んだ公平性が求められている。たとえば無償である義務教育に通わせるコスト(教材費や文具費など)に対する公的な補助なんかは既に制度化されているし(ウチだってもらってる)、給食費に関してもよく取り上げられる。実質的に全入に近い実態になっている高校に進学するための学習塾にかかる費用が問題になる場合もある。「無料塾」みたいなのはそのような文脈で出てきたもので、それが思いもかけないようなところで言及されていたりするとなんとも不思議な気持ちになる。

toyokeizai.net

〈志望動機=改善例1〉
学生時代、無料塾で小学生を教えていた。親が十分な収入を得られていないため、子どもたちは塾に通って補習する余裕がない。そうした子どもたちのために、寄付や補助金を利用して無料の塾を開いているのだ。私はそこでボランティアとして、算数と理科を教えていた。
(中略)

〈志望動機=改善例2〉
しっかり教えると子どもたちは理解できる。それは親の収入とは関係ない。学習の機会を得られるかどうかの問題だと思った。昨年初めて無料塾から、国立大学の付属中に合格した子どもがでた。初めは落ち着きがなく勉強への興味も持てなかった。しかし、分数の計算がわかるようになってから学習態度が変わった。最後までやり通す根気も出てきた。

貧困が原因で学習の機会を得られないために、勉強の意欲を失わせてはならないと思った。これを切っ掛けに、私は学習機会を増やすための教育事業を生涯の仕事としたいと思い、御社を希望しました。

このような 「志望動機」の「改善例」が説得力をもつのは、それを見て「立派な志だ」と思う人が多いからだろう。「親の収入」という身分によって将来を左右する「学習機会」が左右されてはならない。それはそうなんだろうと思う。

けれど、それではいったい、学習機会が確保されれば、それで公平なのだろうか。親の収入と無関係に教育を受けられるようになったとして、それでも学歴によって平均的な生涯賃金が左右される現実は変わらない。学習機会が公平になり、教育へのアクセスが個人の経済状況に左右されなくなったとき、学歴は最終的には個人のアタマの良さを反映するだろう。となると、格差は親の収入によらなくなるかもしれないが、アタマの良さによって発生するようになる。

アタマがよければ高収入になり、アタマがわるければ低収入。それはいったい公平なのだろうか? 公正なのだろうか? たまたまアタマがよく生まれついただけで楽な人生を送れるというのは、たまたま金持ちの家に生まれたから上流階級というのとどれほどちがうのだろうか?

アタマの良さだけでは学歴差にはつながらないのかもしれない。学問は努力だ。やる気だ。頑張りだ。天才は99%の努力だ。それは生まれもったものだけではなく、本人の心がけだ。心がけひとつで運がつかめるのなら、それは公平だろう。だが、努力はだれだってできるのだろうか? だれだって、同じように頑張れるのだろうか? 努力家、頑張り屋というのは、けっこう性格として決まっていないか? そういう性格に生まれなかったら、もう底辺にあえぐしかないのだろうか?

 

平等は残酷だ。現代社会では必ず格差は発生するし、どっちにしてもダメなものはダメと判定される。それでも、家柄・資産によって発生する格差よりもアタマの良さや性格によって発生する格差のほうが社会に受け入れらるのは、そのほうが社会にとって有益であると考えられているからにちがいない。生まれがよくて能力のない人材、努力しない人材よりは、出自によらずアタマが良かったり勤勉であったりする人材のほうが社会にとって役に立つ。役に立つ人々を優遇するのは当然だろう。そんなふうに考えられているのではないだろうか。

 

単純に平等を実現するのであれば、労働と所得を切り離せばいい。人は働くから生存できるのではなく、人間であるから生きていける。そして、人は生きるために働くのではなく、生きることがそのまま労働になる。そんな社会が実現すれば、おそらく平等は達成される。貧困もなくなる。ただ、現代の経済システムは、それをやってしまったら崩壊してしまう。競合と競争の上に常に優秀さを確保することがなければ、経済は動かない。そのエンジンを外して経済を動かす方法を、まだ人類は実現していない。

であるならば、そのために格差を利用するのもまた、現状ではやむを得ないのかもしれない。やむを得ないと断言するつもりはない。それ以外の道はどこかにあると思う。けれど、それが見えない段階でそっちの話をするのはだいぶとアレだ。だから、「社会にとって役立つ人材を優遇する」ということを公平であることの上位において考えるとする。そうすると、なぜ教育機会の不平等がこれほどまで問題視されているのかが別な側面から見えてくる。再生産を通じた格差の固定化が社会問題とされるのか、角度を変えて理解できる。それは、そういった固定化が、優秀な才能を埋もれさせるからだ。親が金持ちだというだけで能力のない人間がトップに立てば、経済が落ち込む。出自がどうであろうと優秀な人間を必要なポジションにつけるべきだ。そのための機会均等。なんとも身も蓋もない。

 

そして、そういうふうに見ると、貧困の再生産について書かれたこんな記事の末尾に書かれてある一文も、「ああ、そういうことなんだね」と思えてくる。

www.newsweekjapan.jp

そして何よりも、企業や社会がどういった目線で人材を評価し、人材にどんな能力を求めていくのか、あるいはどういった形で彼らの能力育成を行っていくのかということとセットで考え行動して初めて、この大きくて硬い「負の構造」を崩すきっかけが見つかるのではないだろうか。

つまり、「人材の評価」や「人材に求める能力」「能力育成」など、産業社会にとってプラスになる人材を求めていく中で自ずと格差の固定化は解消せざるを得ないということだろう。そしてそこで重要になるのは、

今日本社会のなかで注目されている「21世紀型スキル」や「キー・コンピテンシー」といった新たな能力観の形成が、家庭の環境に大きく影響を受けることが明らかになっているのだ。

という部分で触れられている「21世紀型スキル」や「キー・コンピテンシー」なのだろう。どういうことか。

 

現在の教育機関の価値体系は、1960年代、1970年代の企業の価値体系から一歩も踏み出していない。それはすなわち、勤勉であり、正確性であり、指揮系統の順守である。少なくとも中学校、高校においては、指導要領がいくら変わろうと、実際の指導は勤勉性、正確性、忠誠を高く評価する価値観でもって行われてきた。ところが1980年代以降、企業が求める人材は大きく変化した。それも当初は一部成長性の高い企業のみでの変化であったものが、やがて普遍化していき、逆にそれ以外の旧態依然とした価値観のもとに運営される企業がブラック企業として悪目立ちするようになっていった。そういった1980年代以降の価値体系を「21世紀型」みたいに呼ぶのはちょっとどうかとも思うのだが、現在多くの企業で重視されている基本的な技能は、

  • コミュニケーション能力
  • 批判的思考力
  • 情報収集能力
  • 自己管理能力
  • 公正な判断力

などである。定義は曖昧でケースバイケースでいろいろと異なっているが、こういった重要な能力を「キー・コンピテンシー」と呼んでいる。過去数十年にわたって多くの企業はこのような能力を備えた人材を必要としてきているのに、実際の教育機関では20世紀型(というよりも19世紀型)の勤勉・正確・忠誠といった能力を強調するものだから、ここにミスマッチが生じてきている。

そして、そのミスマッチに乗じて「再生産」の中で重要な役割を果たしてきたのが、おそらくは上記引用にある「新たな能力観の形成が、家庭の環境に大きく影響を受ける」という部分なのだろう。すなわち、経済的に余裕のある家庭では、学校の教育にかかわらず、コミュニケーション能力や批判的思考力を高めるような文化的資産が大きく、それにともなって情報収集能力や自己管理能力も高められていく、というような流れなのだろう。

そして、上記記事の文脈では、そういった「教育以外の環境」にアプローチすることによって、格差の固定化を解消できる、ということになる。そしてそれは、固定化されることによって埋もれる才能の発掘であり、よりよい「優秀さ」を社会にもたらすことである、という言外の価値観を表現しているようにも思える。その際、「じゃ、能力に恵まれなかったオレたちゃどうすりゃいいんだよ」という声は、雑音でしかないのだろう。

 

社会というものを高いところから見下ろして論を張ると、どうしてもそういうことになってしまう。現代はその経済システムを抜きにしては回らない社会であり、経済をまわすためには優れた人材の労働が必要であり、そのためにはインセンティブとしての待遇の格差は欠かせないことだという立場から社会を見れば、「じゃあいかにして優れた人材を確保するのか」が重要で、それを阻害する格差の固定化は解消されねばならない課題となる。その際に、教育現場では重視されていないが実際のキャリア形成では非常に重要なキー・コンピテンシーを得る機会を広く与えていくことが重要になる。私は上記記事をそんなふうに読んだ。だが、低いところ、個人のレベルから見れば、全く別な構図ができあがる。

苦しい生活をする個人は、そこから抜け出すための手段を必要とする。その手段が教育であるのなら、そこにすがりたい。だが、現実の教育は、抜け出す手段を与えてくれない。そこで得られる勤勉・正確・忠誠といった価値は、実際にはブラック企業へ直結する価値観であり、貧困へと至る道だ。そこに陥らないためには、コミュニケーション能力・批判的思考力・情報収集能力などの、学校ではなぜか重要視されていない能力を磨かねばならない。そうやって、はじめて人生ゲームを逆転することができる。

そしてそう思ったとき、現代の学校システムの欺瞞性が見えてくる。なぜ学校ではコミュニケーション能力を潰すような授業しかしないのか。なぜドリルばっかりやらせて批判的なディベートをさせないのか。なぜ授業中にネットへの接続を禁じるのか。それは、そういった多くの企業が求める人材育成をあえてやらないことで、勝者にさらにポイントを与え、敗者からさらに奪うためではないのか。

そして、そこに目をつぶって、学校の勉強の補完をする学習支援なんて、何の意味があるのだろうか? 「無料塾」が学校の勉強よりもさらに質の低い「勉強」を教えたって、貧困の再生産のサイクルは断ち切れない。なぜだれもそこを指摘しないのだろう? もしも本当にそのサイクルを切りたいのなら、学校が教えないキー・コンピテンシーを伸ばしていく教育こそ、そこで行わなければならないのではないだろうか。

そして、それをやろうとしないでボランティアやって自己満足した挙句に「教育事業を生涯の仕事としたい」なんていったって、あの質の低い受験産業をなにひとつ変えることができないだろう。ま、これはジャーナリストが書いた模範解答に過ぎないから、そんなふうに目くじらを立てることではないのだけれど。

完璧を求めることで失うもの

500年ほど時代遅れな「百発百中」

興味深いブログ記事を見た。

d.hatena.ne.jp

実はこの「百発百中」理論、私は若い頃、けっこう取り憑かれていたことがある。私はまともな就職はせずに社長と2人の小さな編集プロダクションのアルバイトから仕事人生を始めたのだが、この社長、なかなかおもしろい人だった。ダンディな人で、よく飲みに連れて行ってももらった。調子に乗ってくると「キミのような人はまさに一騎当千、心強いよ」と、駆け出しのヘマばっかりやってる私を持ち上げてくれたものだ。私の方も調子に乗って、「一騎当千が10人いたら一個師団ですね」みたいな妙な計算をしたものだった。

そういうむちゃな感覚だったから、自分で会社をつくったときも、過剰に個人の力量に期待してしまった。経営者失格だ。国政選挙を手伝ったときも、人員が足りない明らかな負け戦なのにスーパーマン並みの働きをごくわずかのボランティアに割り振ることで形を整えようとした。ブラック企業の発想と何ら変わることはない(その反省からその3年後の選挙では立候補に強硬に反対したのだが、それは別の長い話だ)。この「一騎当千」感覚が抜けるまで、ずいぶん長くかかったものだなあと思う。

上記のブログ記事でシミュレーション検証されているように、「百発百中」とか「一騎当千」というのは、現代の消耗戦においては無意味な概念だ。それが意味をもつのは、一対一の逐次戦が前提であった中世以前の戦闘においてのみだろう。一対一の戦いなら命中率が百倍なら百回戦って百回勝利することも可能だろうし(ただしその勝率は0.99の100乗だから36.6%に過ぎない)、一騎で千人の雑兵にあたることも可能であるのかもしれない(千人規模の集団は統率力を欠くと戦力にならないという特性もあることだし)。消耗戦ではそうは運ばない。流れ弾でも当たれば死ぬのが現実の戦争であり、そこでは映画のように一人のスーパーヒーローが不死身の戦いを続けることはほとんどあり得ない。

そして、現代の社会を回している数多くの業務は、一騎討ち的であるよりはむしろ消耗戦的である。個別の優秀よりは、システムとしてのパフォーマンスのほうが最終的な成果に結びつく。そしてシステムのパフォーマンスは、一点のミスも許さない完璧な部品を組み合わせるよりも、ミスの発生を前提にしながらそれをカバーする機能を組み込んだ設計にするほうが向上する。日常的に使っているパソコンの記憶領域でさえ、エラーの発生を前提にしたエラー補正機構を組み込んでいると聞く。完璧のためにコストをかけるよりも、信頼性を少々下げても、それで問題が出ないように工夫するほうがいい。

一騎当千とか百発百中といった中二病的な考えに毒されていた若い頃の私でさえ、本当に真剣になったときにはそのことをしっかり理解していたようだ。編集作業には校正が欠かせないのだが、この校正を下請けに出すときに、私は必ずマニュアルをつけるようにしていた。そのマニュアルには、1回で完璧な作業をしようとしてはならず、少しの見落としがあってもいいから同じ校正紙で3度作業をするようにという指示を、具体的な方法とともに記載していた。これは自分の経験上、そのほうが絶対にクォリティが上がることがわかっていたからだ。100%を目指せば非常に労力がかかるところ、90%でもかまわないとなったら一気に負担が減る。その代わり、90%の仕事を3回繰り返せば99.9%の精度に達することができて、実質的に100%と変わらない、という理屈だ。まあ実際には一人の人間はたいてい同じところでミスをするので、そうはならない。そこは、校正ごとに担当者を替えることで対処する。なんにせよ、完璧を目指すことのコストの高さは、たいていの仕事で痛感する現実だ。そこを回避するのは、「エラーは必ず発生する」と現実を直視するところから出発するしかない。

何でそんな細部にこだわるかね 

そういった現実世界の仕組みを、残念ながら教育関係者は理解していないのではないかと思う。全員とは言わない。なかにはそういう現実世界の公理を織り込んで実践をしている人もいるだろう。だが、私が家庭教師として接する機会の多い中学生たちを教えている教師たちに関しては、「なんでそんなことまでするかね」という人々が多いのも事実。

たとえば、中学英語といえば、まずやかましく言わねばならないのが「三単現のエス」だ。ヨーロッパ系の言語には格変化というものがあり、英語にもその名残があって、それが動詞の末尾に付け加える「s」の文字だ。中学英語の定期テストでは、これを落とすと容赦なくペケがつく。あるいは単数形と複数形のちがいで不定冠詞の「a」をつけるかどうかをしくじると、やはり非情にもペケがつく。たしかにどちらも文法的には重要で、美しい英文、正しい英文を書くためには蔑ろにしてはならない。

しかし、通じる英語というレベルでいえば、そんな細かいこと、だれが気にするだろうか。そういうミスをして喋っても、あるいはレターを書いても、ほぼ100%、誤解されることはない。なぜなら言語には冗長性がもともと備えられているのであって、一部にエラーがあっても前後関係からきっちりと補正ができるようになっている。言語に冗長性を組み込むことは、長い歴史の中で人類が無意識に「エラーは必ず発生する」という現実に対応するために進化させてきた本質だ。だから、もちろんエラーはないに越したことはないのだし、エラーのない正しい構文を学ぶことも重要ではあるのだけれど、それを実践的に使用する際にいちいちエラーに目くじらを立てるべきではない。英語学習の目的が学習指導要領に「外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,聞くこと,話すこと,読むこと,書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う。」と定められている以上、まずは通じるレベルの英語に集中すべきであり、その際に、細部に目くじらを立てるのは無意味だ。

もちろん、格変化のおかしいところは指摘すればいいし、抜けている冠詞は赤ペンを入れておけばいい。しかしそれで減点し、あたかもその英語の理解がゼロであるかのような評価は、「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」を潰していく。やたらと完璧を求めることは、コストを上昇させ、結果として成果を著しく低下させることになる。

英語ばかりではない。たとえば数学。なぜこの時代、試験に電卓を持ち込んではならないのだろうか。数学に関して学習指導要領は、「数学的活動を通して,数量や図形などに関する基礎的な概念や原理・法則についての理解を深め,数学的な表現や処理の仕方を習得し,事象を数理的に考察し表現する能力を高めるとともに,数学的活動の楽しさや数学のよさを実感し,それらを活用して考えたり判断したりしようとする態度を育てる。」と定めている。筆算に代表される数値計算は、その原理を理解することは重要だし、実際にそれを使えるようになることも大切だ。だが、それは既に小学校で完結している。中学校ではもっと「概念や原理・法則」「数学的な表現や処理」「数理的考察」に力を注ぐべきだし、その過程で計算処理に対する負荷は減らしてやってかまわない。ところが現実には、1箇所の計算を間違えただけで0点というような手計算の正確さを競うような問題が平気で出題される。結果、小学校の算数で筆算が苦手だった生徒は、中学数学で浮かばれることがない。それどころか、中学になっても計算の完璧さを追求するためだけのドリル問題が多用され、「勉強」とはそういうものであるという困ったイメージを生徒に植え付けてしまう。

いったい、オームの法則の理解に合成抵抗の計算がどれだけ寄与するのだろうか。イチョウ被子植物だろうが裸子植物だろうが、勘違いしているぐらい、大きな理解の妨げになるだろうか。歴史の大きな流れを把握するために正確な年号を覚える必要があるだろうか。地域と社会の関連をつかむ上で日本の南限・北限の島の名前を少々間違えて何の不都合があるか。連体詞と副詞の微妙なちがいを判断できなくて、日本語の使用に難があるだろうか。漢文の返点がつけられないことは意味の把握にそこまで障害だろうか。

もちろん、学問を進めていけばそういった細部にこそ神が宿ると思える瞬間もある。英語なら、冠詞ひとつの有無で意味が変わる場面に「ホウ!」と頷くことだってある。正確な手順をひとつ間違えるだけで結果が変わってくる数学の精妙さに感動することもある。しかし、それはそこまでのコストをかけられる場合だけで十分だ。具体的には、専門の研究職とか、プロとしての仕事の中でこだわればいい。たとえば私は翻訳者としては相当に粘着質だと思うが、それはその時間コストに見合っただけの報酬が得られるからであって、そうでなければGoogle翻訳でも十分だろうとさえ思う。

失われるものは健全な成長に必要な時間 

冷静に考えれば、教育カリキュラムは完璧を求めていない。なぜ同じ日本史を小学校、中学校、高校と繰り返すのだろうか。なぜ小学校で学ぶ比例を中学1年で学び直すのだろうか。電気回路だって人体図だって繰り返し出てくる。それは、レベルが上がるごとに切り口がちがっていたり深度がちがうということもあるのだけれど、基本的には1回の学習で完璧など期待していないことのあらわれではないのかと思う。小学校で納得できなかった百分率を中学2年の方程式のときに身につけてもいいし、高校の簿記ではじめてその意味に気づいたっていい。体積計算が小学校で身につかなくても、中学校で同じことをやってくれる。小学校のときにどうしても横浜しか出てこなかった県名が中学でようやく神奈川と出てくるようになってもいい。小学生のときにぼんやりとしかわからなかった太陽の動きが中学生でわかってもかまわない。1回で完璧を求めるよりも、7割、8割のところでやめておいて、その程度のことを何度か繰り返すほうが低コストで高い効果を期待できる。

そして重要なのは、この「コスト」は、子どもたちの命を削って支払われているということだ。「いのち」までいったら大げさかもしれないが、ほとんどの子どもにとって「勉強」は、できれば避けたい負担でしかない。やりたくないことを、それでもがんばってやるのは、それなりの見返りが期待できるからだ。学習の見返りはもちろん成長だろう。だが、そこで得られる成長がいびつなものでしかないとしたらどうなのだろう。同じだけの成長をもっと負担を軽くしてできるときに、あえて苦しませるのは道義的にどうなのだろう。

子どもたちの健全な成長という視点にたったとき、しっかりとした学習をさせることは重要なのだろう。だが、そこに完璧を求めはじめると、どんどんおかしな方向に曲がっていく。百発百中の命中率を求めたって、そんなものは実戦では役に立たない。それよりは百発に一発しか当たらないようなものでもシステム的にきちんと運用できるような柔軟さを培っていくべきだ。そしてそれは、完璧を求める学習態度とは対極にある。

諸悪の根源は言わずもがな

いったいなんで、教育現場に完璧を求める姿勢が染み付いてしまっているのだろうか。「だいたいあってる」で十分なところにカチッとした正答を求めるのだろうか。生身の人間ならたまに間違えることもあるような計算問題を何百回も繰り返して訓練するようなドリルが愛用されるのだろうか。その理由は至って簡単で、それによってテストの点数が上がるからだ。テストの点数によってその後の人生が左右されるからだ。

入試によって中学や高校が決まり、その学校によって大学が決まり、大学によって就職先が決まり、それによって生涯年収が決まるような世界が存在するとき、一点でも余分に取れば勝ち、という姿勢を批判することはできない。それが現実である以上、一点を笑うものは一点に泣くしかない。

しかしまた、現実とは、意識が創りだす幻影である。人間の最終目標は生涯年収の実績なのだろうか。否。人生の最終スコアを判定する数字は、この世には存在しない。最終的には当人の主観だけが人間の生涯の正当性を決定する。

もちろん、物質的に窮乏する生活は、人を苦しめる。精神的に追い詰められる毎日も、その人の人生を破壊する。だが、そこから逃れる道筋は一通りではない。多様な逃げ道のひとつひとつを教育は伝えることはできない。

しかし、無限に多様な現実にぶつかったときに、それぞれの局面でどんなふうに判断すればいいのか、どんな展開を想定し、どんな準備をして、どう乗り切ればいいのか、それを合理的に思考していく態度と素養を培うことはできる。それが義務教育に求められているものであり、現に(十分とは言わないが)文部科学省が定めた学習指導要領に明記されていることでもある。

それをなぜ、現場の教師は曲解するのか。答えは明らかだ。受験だ。テストの成績だ。この点数主義、権威主義を変えない限り、百発百中をモットーとするような精神主義は消えないだろう。

あーあ、テスト、なくなれ!