シアワセの容相

あしたはこっちだ

なんで大砲の弾が神社で見つかる? - 複合する歴史と心理

神社に見つかる旧日本軍の砲弾

少し前、大分を中心に砲弾が神社で見つかって自衛隊が出動したとか、ニュースが流れていた。数ヶ月前から断続的に話題に上るらしい。「あそこの神社にあったんだって」「そういえばウチにもあったな」みたいな感じで、連鎖的に「発見」されているようだ。

「発見」でも何でもなく、もともとそこにあることは多くのひとが知っていたはずだ。それがそこに置かれるようになった経緯も、はじめのうちは明らかだったはず。それが年月を経ていったん忘れられ、そして存在も経緯も知らない世代に発見された。

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実際、砲弾が神社に奉納されているのは決して珍しいことではないようだ。というのも、どこだったか場所は全く覚えてないのだけれど、どこかの神社で実物の砲弾に触れた記憶が、確かに私の中にある。赤錆びて凹凸ができた表面に触れた感触が間違いなく残っている。そして私は大分県には一度しか行ったことがなく、その際に神社に立ち寄ったことはないのだから、これは大分県での話ではない。おそらく近畿圏のどこかにちがいない。

 

上記の記事にあるように、多くの砲弾は戦場から帰還した軍人が記念として持ち帰り、奉納したものだろう。だが、平和な時代を数十年過ごし、神信心とも縁遠くなってしまった私達の感覚では、それでも「なぜ?」という疑問は晴らせない。たとえば、いかに元軍人とはいえ、武器をそう簡単に持ち出せるものでないことは明らかだ。一発何億円もするミサイルほどではないにせよ、砲弾はそれなりの有価物だ。演習での使用済み品や不良品その他の理由で不要とされたものであったとしても、下げ渡しにはおそらく相当に面倒な手続きが必要だっただろう。そういう手間をかけてまで郷里に持ち帰り、そして神社に奉納する──そこには現代人の知り得ない何かがあったはずだ。 

私はそれを知りたいと思うが、ちょっといま、手掛りがない。私の母方の祖父は第二次世界大戦終戦時に海軍軍人であった。砲兵であったが開戦少し前に海軍省勤務となり、秘密火薬工廠の設立と運営に携わった。そのあたりの話はたぶん非常におもしろいのだけれど、私がきちんとしたことを聞けるようになる前に祖父は他界してしまった。だから、ごく断片的なことしか私は知らない。もちろん、旧海軍での砲弾の取り扱い規則のようなことも知らない。

それでも、ネットに見つかる少ない材料で多少の憶測をしてみようと思う。ずいぶん長いこと生きてきた私でさえ、どうもよくわからないところがある。まして、もっと若い人々にはさらによくわからないかもしれないのだから。

武器奉納の伝統

武器を神に捧げることは、古代からさまざまな民族でおこなわれてきた。それはもちろん、武器を神聖なものとして超自然的な力をそこに加えることを期待したものでもあっただろうが、一方では戦利品として奪った武器を神殿に納めることで勝利を永続する支配に変えようという願望があったのではないだろうか。たとえば、古代ギリシアアレクサンドロス大王は、小アジアでの戦利品である武器をアテネ神殿に奉納している(アレクサンドロス大王(合阪學))。

武器の奉納には、武器製造業を継続的に実施するためという側面もあったのではないかという興味深い分析もある。

垂仁天皇がなぜ武器を神祇に奉納する武器の神祇奉納体制をつくろうとしたかは明らかであった。一つはいうまでもなく、その軍事統帥者に率いられた新たな軍隊に死をも覚悟しうるだけの精神的支柱を与えるためであった。そして今一つは、その「新軍」を維持していくために必要な、恒常的な軍需物資の──しかも最先端の軍需物資の──供給体制を確立するためであった。

「古事記」「日本書記」の語る日本国家形成史 : 火と鉄の視点から(小路田泰直)2005

武器は、技術的な進歩が続いている間は、常に陳腐化する。したがって、常に最新の武器で装備をアップデートし続ける必要がある。そして古くなって時代遅れになった武器は神殿に納められ、超自然的な力でもって軍事力を補強する。そういった思想があったのかもしれない。

そして武器の進歩が止まって新旧の性能に大きな差がなくなると、神殿に納められた武器はそのまま軍事力になる。日本では平安時代から戦国時代末までの長期にわたって僧兵や神人が軍事的な勢力として大きな役割を果たしたが、これはそういった面からも理解できるのかもしれない。

弾丸型記念碑の流行

それでは、武器として刀剣や弓矢、槍などの伝統的なものから銃砲といった近代的なものへ、神殿奉納の歴史がそのまま継続していったのだろうか。どうやらそうでもないようだ。理由はわからない。憶測するなら、近代的な兵器は、近代的な思想と二人三脚でやってくる。即物的な銃火の破壊力は、超自然的な力を必要としないのかもしれない。

銃器の時代になってからでも、武器の鹵獲はおこなわれてきた。戦利品として獲得された武器の一部はそのまま装備品として再利用されたが、一部は利用不可と判断された。そういったものの多くは廃棄されたわけだが、なかには戦勝を記念するものとして保存されたものもあったようだ。そして、日本では、明治期には、鹵獲した武器を鋳潰して記念碑をつくることがおこなわれるようになったらしい。そして、その記念碑の形のひとつとして、砲弾型が生まれたようだ。

ということで、砲弾型の記念碑だが、そのアイデアがどこから来たのかはっきりわからないが、19世紀にはアメリカで花崗岩製の砲弾型記念碑がつくられている。南北戦争ゲティスバーグ会戦を記念する公園に建てられたひとつの碑がそれだ。

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7th New Jersey Infantry Monument - Gettysburg National Military Park Historic District - Gettysburg, PA - NRHP Historic Districts - Contributing Buildings on Waymarking.com

上記サイトによれば建立は1888年とのことだから、日本式にいえば明治21年ということになる。そして、その明治時代には、日本でも多くの砲弾型記念碑が作成されている。たとえば名古屋の「第一軍戦死者記念碑」である。

碑・玩具・版画に表現され、記録された日清戦争一新たな教材と資料を求めて一 西尾 林太郎

日清戦争記念碑考─愛知県を例として─ 羽賀祥二

上記の2つの論文に詳しいが、名古屋にはいまも日清戦争の戦利品を鋳潰してつくられた砲弾型の記念碑がある。砲弾だけでなく、大砲の銃身をそのまま利用した柵もあるらしい。かなり過激なデザインといってもいいだろう。

明治33年につくられたこの記念碑は決して最初のものではなく、たとえば明治29年には台湾に砲弾型の記念碑が建てられている(北白川宮能久親王の御遺跡と神社の造営(金子展也)2014)。実際、「戦利品を鋳潰して砲弾型の忠魂碑を作る方法は、明治期にしばし ば用いられていた方法である」と、旅順のような外地にも砲弾型の記念碑が建てられたようだ(聖地の記憶─旅順を事例に─ 高山 陽子)。

どうやら砲弾型の記念碑は、この時代の流行であったのだろう。そしてこのスタイルは、やがて戦死者の墓標へと受け継がれていく。こちらのブログには、日露戦争戦没者の墓が弾丸型に造形されている例が記載されている。

砲弾型の墓碑のルーツは「征清記念碑」(名古屋・廣島)なのか

おそらくこういった素地があって、第二次世界大戦後に多数の砲弾が神社に奉納され、そのうちの少なくないものが記念碑的に設置されるということになったのではないだろうか。

各地に見られる砲弾

実際、神社等に残っている砲弾は少なくない。さすがWebの時代、検索すると全国を丁寧に調べた研究結果を発表されている方がいる。

神社や忠魂碑にある砲弾

このページには、300以上の砲弾が神社等に保管、展示、設置されているとされている。国外のものもあるようだが、今回大分で見つかっているものの多くは記載されていないようなので、実際には全国にはさらに大量の砲弾が残っているのだろう。

注目すべきなのは、これらが鹵獲品ではなく、旧日本軍のものだということだ。そして、軍の装備品は、軍隊が機能しているときにはちょっとやそっとでは持ち出せない。これらの砲弾は、敗戦のドサクサの中であまり適法的にではなく持ち出されたものではないだろうか。

そして、それは戦勝記念でもなく(なにせ負けている)、生還の記念品としても気が利いているとは言いがたい。どのような心理で敗戦の兵士が、決して持ち出しやすいものでもない砲弾を持ちだしたのか、いくら考えても想像ができない。

 

海軍軍人だった私の祖父は清廉潔白な人柄だったが、それでも私の生家には大量のネルの布がかつてあった。なんでも元は火薬を包むために使われていたものだそうで、生理用品、もしくはオムツとして使えるからというような理由で母が譲り受けて持ってきたらしい。そして、それが実家にあったということは、つまり、敗戦時に公有物資の管理が一時的にずさんになっていたことをあらわしているのだろう。負けて、日本がなくなると感じられるときに、お上のものは無所有物のように感じられるのだろう。そして、だれもそれを持ち出すことを咎めはしない。

ただ、ネルであれば利用のしようもあるだろうが(母はこれで一時コーヒーを濾していた)、大砲の弾にどんな利用法が想像できたのだろう? 持て余して、そして神社に行き着いて、記念碑となる。そのあたりの経緯を、いまならまだ語れるひとが生きているかもしれない。歴史が埋もれてしまわないうちに、年寄りに話は聞いておくものなのだろうな。

 

 

なぜ有機農産物を選ぶべきなのか、あるいは選ぶべきではないのか?

野菜に罪はない

私はいわゆる「有機農業」をやっている人、そういうのを志した人、その周辺の人々を数多く知っている。なかにはずいぶんと親しい友人もいる。恩人といっていい人だっている。そういうコミュニティに属していたことがあると、こんな記事を読んで「何を今頃こんなことを言ってるんだ」と情けなくなる。

www.sankeibiz.jp

こういうことを言うと身も蓋もないが、有機農産物と通常栽培の農産物と、モノそのものにほとんどちがいはない。ここでいう「有機農産物」は、JAS規格で認証されたものという意味じゃなくて、認証制度ができた20年ほど前よりもさらに昔に使われていた意味で使っている。つまり、農薬や化学肥料を極力排除しようとする姿勢の農家がつくった農産物という意味だ。そういう農家がつくった野菜をごちそうになると、確かにうまい。ときには信じられないぐらいうまい。けれど、じゃあ農薬や化学肥料を使った野菜がまずいかというと、たいていの場合、同じようにおいしい。たまには「あ、これはまずいな」という味の野菜もできるが、それは失敗作であって、きちんとつくる気になれば農薬と化学肥料を使ってもおいしい野菜はつくることができる。「野菜に罪はない」。私はよくそんなふうに言う。

有機農家の野菜がうまいことが多いのは、そういう農家の人々が多くの場合精農家だからだ。研究熱心で、だから上手に作物を育てる。味や出来栄えのちがいは農薬や化学肥料という物質によるものではなく、それらを含めた農業資材や農場の運用技術によるものだ。だから、そういうことに疎い私が無農薬無化学肥料で野菜をつくったって、たいしたものはできない。これはもう、何十年にもわたって実験済み。

味だけではない。健康への寄与だって、農薬や化学肥料を使ったかどうかに一義的に依存するものではない。ほとんどの農薬は、洗えば落ちる。だいたいが、収穫直前に使うクスリはあまり多くない。農薬は有償の資材だし、散布には一定の手間もかかる。だから、無用な時期に大量に使うようなバカは多くはない。たまにそういう人がいても、経営上は成り立たないから、最終的には離農するか、家庭菜園的な趣味に落ち着く。結局、消費者レベルで気にするほどの農薬が残留しているケースは、通常はない(もちろん事故によってそういうことが発生する場合はあるので、油断すべきとは思わないが)。

社会の歪は、弱いところに現れる。たとえば農業 

では、なぜ有機農産物を買うのか? 日本の有機農業は、概ね1970年頃の公害問題に対応する形で再発見された。定説によればね。そのとき都会の消費者を運動にかりたてのは、健康被害に対する恐怖心だった。歴史書にはそう書いてある。ところがそこから10年ほどの間に、「学習」が行われ、実は都会に流通する農産物の残留農薬なんかとは比べ物にならない大きな問題が存在することがわかっていった。有機農業は、その問題に対処する運動へと形を変えていった。

いや、それは希望的な色付けをした過去だ。「そうなればよかったのにね」という願望だ。実際には、そういう意識を抱いたのはごく一部の人々でしかなかった。その一部を除いて一般には、「有機農産物=安全・安心」という神話が広がっていった。それに「おいしい」を加えて、つまりは質の高さを有機農産物の価値としてプロモーションする流れが強まった。その結果としてブランド価値が生まれ、ブランド価値を守るために有機農産物の認証制度が始まった。

だが、それは本当の問題を解決しなかった。有機農業が解決すべきだった問題は、根本的には現代の産業構造の問題だ。かつて豊かだった地方、地域、農村が、1960年代以降、急激に衰退し、過疎化、高齢化に悩むようになった。経済が回らない。その中でかろうじて生き残るためには、劣悪な条件を飲まざるを得ない。たとえば強化された労働であり、危険物の取り扱いであり、環境負荷の高い事業である。すなわちそれは、効率化のための分業と広域化、選択と集中の戦略、そしてそれらがもたらす国土と人心の荒廃の問題だ。それは産業革命以降、全世界を覆っている。

有機農業は、そういった問題に対して、人間生存の基本である自給的循環的な農業を出発点とするという指針を与えていた。そこに突破口があるのではないかと思わせてくれる何かが、そこにはあった。いまでもあると、私は信じている。信じてはいるが、見えなくなっている。

現代を覆う格差の問題、労働の問題、人権侵害の問題、グローバル化ナショナリズムをめぐる問題、そして環境問題。これらと有機農業の問題は、一見異質のものに見えるかもしれない。けれど、それは同じものだ。そして、そういった諸問題を前に、私はオロオロするしかない。

「買い支え」の理論 

1970年代から80年代にかけての先端的な有機農業関係者が考えだした概念が、「買い支え」だ。もしも有機農業的世界に近代以降の社会問題を解決する突破口があるのなら、そこを潰してはならない。潰されてはならない。生き残らねばならない。そして現代の経済社会では、生き残る唯一の方法は経営を安定させることだ。農家の経営を安定させるためには、消費者はその農産物を安定して購入しなければならない。これが「買い支え」の理論だ。有機農家は、買い支えてくれる消費者に対して、安全・安心、そして何よりもおいしさという約束をする。そこに至ってはじめて、「安全・安心でおいしい」という有機農産物のブランド的な価値づけが意味をもつ。

順序がちがうのだ。「安全・安心でおいしい」から、有機農産物を買うのではない。有機農家を買い支えなければならないから、有機農産物を買う。その買い支えに応えるために、有機農家は「安全・安心でおいしい」価値を提供する。だから、「安全・安心でおいしい」だけを商品価値として他の一般的な農産物と比較したら、有機農産物は常に割高に感じられるはずだ。そもそも「安全・安心でおいしい」というのはあらゆる農産物にとって基本的な商品価値なのであって、むしろそれを満たせないものを食品として売ってはいけないだろうというぐらいの最低線なのだから。

基本的人権の問題として

では、何のために有機農産物を買い支えるのか。それを書いたら一冊の本になるだろうから、ごく簡単な例題だけをあげておこう。農薬は洗えば落ちる。市場に流通する段階で残留農薬が問題になるようなことは、ごく稀にしか起こらない。しかし、農薬による環境破壊は、日常的に起こっている。

私は半年余の期間、田んぼの真ん中の納屋に住んでいたことがある。その年の田植え時期のことだ。カエルの大合唱で夜は眠れないほどの毎日だった。だがある日、仕事から納屋に帰ると、その大合唱が気味のわるいほどピタッと止まっていた。気がつくと、確かに異様な臭いがしていた。その日、除草剤が散布されていた。

農村では、そういうことが日常的におこなわれている。そして、それが望ましいことだとは誰も思っていない。

カエルを殺し、鮒や泥鰌を殺し、水鳥を殺し、子どもたちが田畑で遊べないようにする。そんな危険物を日常的に取り扱わねばならないようなことを、誰だってしたくない。けれど、そうしなければ農業で収益をあげることはできない。農家はボランティアではない。つくればつくるほど赤字になるようなことは、自家消費分くらいなら平気でやるが、経営としては絶対にできない。この日本で農家として生きていくことを選択するのなら、そこから逃れられない。

しかし、もしも農薬を使わないことで販売価格が1割でも2割でも上がるのなら、有機農家として経営を成り立たせる選択肢ができる。そうすることで、意にそわない苦役から逃れることができるかもしれない。そして、意に反した苦役に服する必要がないことは憲法にだって書いてあるのだから、そういう選択ができるように消費者が「買い支える」というのは、決して悪いアイデアではないはずだ。

買わない理由、そして買う理由

かつて有機農産物を買うことには、そういう意味があった。だが、その意味を正しく伝えようという努力は、「消費者の健康のために有機農産物」という商業主義に押しつぶされた。一夜にしてカエルが消えてしまう恐怖を私は社会構造の歪として語りたいのに、それは「農薬は怖い、農薬のかかった野菜は食べたくない」という迷信的な防衛意識として受け取られてしまう。そして有機農産物の認証制度以後は、それが唯一の有機農業の意味であるかのように誤解されるようになった。その結果として、有機農産物の残留農薬料が慣行栽培のものと比べて有意なちがいではないというような研究結果がしたり顔で出される。あたりまえじゃないか。いまさら何を言ってるんだと呆れてしまう。

さらにわるいのは、認証を受けた「有機農産物」のなかには、現代の産業化の果てとして生み出された作物が少なからず入っていることだ。特に輸入有機農産物のなかには、伝統的な生産方法を破壊することによって大規模に生産されたものが少なくない。あるいは、労働力を搾取することによって生産された有機農産物も、堂々と認証されている。JASは労働環境までを監視しないからね。そして、国土や人心を守ることに心を砕く人々の農産物の多くは、認証を受けられない。認証制度は厳しいので、そこにコストをかけてられない。結局のところ、有機JAS認証制度で最も利益を得たのはグローバル企業であるという笑えない現実があったりする。

 

だから、ブランドとして有機農産物を選ぶ意味は、基本的にはほとんどない。しかし、もしもあなたがマジメに地域のこと、環境のことを考えている農家を知っていたら、少しぐらい高くついても、できる限りはその人々から買うようにしてほしい。わずかの差額で地球が救えるかもしれないのだから。

ま、まずは野菜350グラムから、かもな。

教師の仕事は「教える」ことではない - 情報提供者としての自覚

ひょんなことから始めた家庭教師の仕事も、けっこう長くなった。やってて面白いなあと思うのは、これが全力投球を要求されるからだ。子どもだましの古臭い知識を適当に教えとけばいいとか、あるいは生徒が問題を解く監督だけしときゃいいとか、いや、たしかにそういうレベルの家庭教師だって世の中にはいるだろう。だが、それでは生計を立てていくことはできない。小遣い稼ぎぐらいなら何とかなるかもしれないが、一人前の仕事にはならない。

たとえばそういうやり方が、保育園児に通用するだろうか? 保育園児にはその発達段階に応じた読み聞かせや概念把握のトレーニングなどのスキルが必要になる。そのやり方が小学校低学年児に通用するかといえばそうではない。5年生には5年生の、6年生には6年生の方法があるし、中学生でも学年によってやることは全部ちがう。英語なら最初のうちは音読ばっかりで喉が枯れるほどだし、入試前になったらそれはそれで別種の反復練習がある。高校生ぐらいになると、生徒ごとにやることが大幅にちがう。

そして、家庭教師は原則としてどんな教科でも扱う。数学でも英語でも理科でも社会でも国語でも、必要と要請があればさらにそこからはみ出してでも教える。だから、実に多様な知識と、それを組み合わせていくスキルが必要になる。そして、それがうまく働けば、単一の教科を専門とする学校教師を超えていくことができる。そのあたりは以前、別の場所でも書いた。

suzurandai.weebly.com

そんなふうに常に自分の知識・技量のギリギリのところで勝負してると、ほんとに自分はモノを知らないのだなあと痛感する。だから、いまのWebの時代はありがたい。英語の発音の微妙な違いは非ネイティブである私が発音してみせるよりWeb上の辞書にあたればいい。知らないことをその場で調べることは滅多にないが、帰ってから勉強し直すことは珍しいことではない。あやふやだった知識を補強しておけば、似たような状況に陥ったときにもっときちんとしゃべることができる。

 

そういうふうに常に自分自身が知識のアップデートを続けていると、伝統的な「教える」というスタイルがとれなくなってくる。「ここはこうなっていますよ」みたいな言い方をしたら、それがちがっていることに気づいたときに格好がつかないからだ。たとえば、最近よく目にするようになったsingular theyのような用例が現れたら、「単数はheかshe、ここはtheyは使えませんよ」みたいなことがウソを教えたことになってしまう。

mazmot.hatenablog.com

自分の知識が完全ではないことを前提に生徒に接すると、「教える」という態度が消える。その代わり、自分の知っている情報を提供し、そしてそれをきっかけに一緒に考えるという姿勢に変わってくる。「一緒に考える」というとキレイ事のように聞こえるだろうが(私だって自分がこういう立場になる前は教師がそんなこと言ったら「ウソつけ」と思った)、けっこうほんとに考える。自分自身の理解を無条件で信じるつもりはないから、それもいったん保留して、自分が提供した情報と生徒の知識からどんな結論が導かれるのかと考える。その上で、もしも自分の理解と別な結論が出るようなら、それは考察の道筋がおかしいか、考察するための前提となる情報が不足しているわけだ。たいていは後者だから、そこから自分が何を伝え漏らしたのかがわかる。そうやって学習を進めていく。

だから、教師の仕事は「教える」ことではないのだと思う。学問は基本的には合理的な思考の積み重ねで成り立っている。思考の出発点になる情報を提供し、思考の過程を助ければ、それで十分だ。理屈の上では、そういうことになる。

 

だが、理屈通りにはいかないことが実際には数多くある。それは、慣習だ。合理性だけで成り立っているような学問の世界だが、実際には「昔からそうやっているから」という慣習で決まっていることが少なくない。

たとえば、座標軸を描くとき、なぜ右側を正、左側を負とするのか。なぜ縦軸をy軸、横軸をx軸とするのか。それについての合理的な説明はない。強いていうなら、統一しておいたほうがわかりやすいからだ。それだけのことでしかない。昔からそうやってるから、それに倣っておけば混乱が生じない。だからこれは、「こうしなさい」と「教える」のが適当なことになってしまう。

だが、慣習というのはえてしていい加減なものだ。それをこのブログ記事を読んで改めて感じた。

www.chishikiyoku.com

この記事の話題の中心は、数学で用いられるエックスとカイの書き方をめぐるものだ。そして、どのような場面でエックスを使い、どのような場面でカイを使うかとか、エックスとカイをどのように描き分けるかとかいうようなことは、慣習でしかない。慣習でしかないからこそ、教師は偉そうに教えてしまう。けれど、それって本当に「教える」ことが正しいのだろうか?

まず、そもそも論で言えば、エックスとカイは同じ文字だ。ルーツが同じで別々の国で用いられるようになったものだから、中国の簡体と繁体のような違いと思っても、当たらずとも遠からずだろう。同じ文字だけど、外見がちがう。判別がつく程度に外見が違うから、それぞれ別の場面で使われる。

ただし、この「判別がつく」というのは、活字の上での話だ。実際に人々が日常的に使うレベルでは、基本的にこの2つの文字は判別がつかないだろう。どっちもペケでしかないのだから。

こういう「活字でしか区別がつかない」ような記号の使い分けを、実は数学は伝統的に利用してきている。もっとも幅広く使われている伝統は、「変数はイタリック体で表しますよ」というものだ。これは基本的に万国共通の慣習。

ただ、ここで注意して欲しいのは、「イタリック体」は活字(フォント)の分類であって、「筆記体cursive)」ではないということだ(正確に言うと、イタリック体は筆記体の一部の流派の文字を元にデザインされているので、無関係ではない)。だから、手書き原稿の段階では、実はイタリック体と正体(日本の印刷業界ではローマンと呼んでいるが、これが実は正確ではないことは編集業者の豆として昔から知られている)の区別は本来はつかない。しかし、印刷したときに変数をイタリック体にしたほうがわかりやすいから、印刷ではイタリックを使うように指定する。指定は簡単で、伝統的には青鉛筆(日本だと赤ペン)で下線を引く。すると植字工はイタリックの活字を拾う、というのがかつての印刷工程の約束だった。

印刷物でそのように表現するということが先にあって、じゃあ手書きの数式でもそれがわかったほうがいいじゃないかという発想が生まれる。少なくとも日本人にはそのほうが自然だった。なぜって、日本人は、似たような形の文字を無数に扱ってきた民族だからね。「人」と「入」なんて、図形的にはほとんど同じなのに、微妙な書き方で区別して何の不自由もない。カタカナの「ロ」とか「ニ」を漢字の「口」「二」と書き分ける。そういう人々だから、当然のようにイタリックとローマンも書き分けようとする。

そして、その伝統の上に、英語のアルファベットとギリシア文字も書き分けようとする。しかし、エックスとカイなんて、本来は無理なものだ。印刷工程できちんと指定しておけば、本来はそれでいい。

 

ではあるけれど、確かに書き分けができれば、それはそれで便利だ。日本人でなくてもそう思う。ということで、英語圏でもやっぱりよく似たアルファベットとギリシア文字は数式を書く際には書き分けるべきだという考え方もあるようだ。ただ、そのやり方は日本式のものとずいぶんちがう。たとえば、こんなサイトが検索に引っかかる。

Tips for mathematical handwriting

これを見ると、まずエックスとカケルを区別するには、エックスの左の入るところを曲線にするというコツがあるとする。ちなみに、エックスはふつうに二本の線をクロスさせるのであって、決して日本の数学教師が好んで教えるような)(式ではない。そして、カイの方は、右下がりの線よりも右上がりの線を長く書くことで区別しろと言っている。

 

つまり、日本の数学の教師が偉そうに「教え」ていることなど、しょせんはローカルルールでしかない。もちろん、ローカルルールは否定されるべきだなどというつもりはない。英語圏には英語圏のローカルルールがあるわけだし、それ以外の国にもそれぞれのローカルルールがあるだろう。それで誰も困らないのは、国境を超えて流通する論文は基本的に印刷されたものであり(もちろん現代ではPDFだろうが)、そこではローカルルールから生成された正しいフォントが使用されているからだ。正しいフォントの使用で表現されたものは、万国共通だ。

だから、最終的には「わかればいい」レベルの話でしかない。「わかればいい」レベルの話なら、絶対的な正しさはなくて、いくつかの解が並立することが可能だ。印刷業界でも、同じ作業を表現するのに複数の流派があったものだ。それで別に困りはしない。

結局のところ、教師に許されるのは、あるローカルルールが存在しているという情報と、場合によってはそれが発生した根拠を伝えることでしかないのだと思う。その情報にもとづいてどう行動するのかは生徒の合理的な判断によるべきだ。実際、エックスとカイの両方を使うようになったら生徒は嫌でも書き分けをするようになるのだし、その際に、ローカルルールはいい参照項目になる。そういった情報を提供することには価値がある。そういった価値のある情報伝達者を教師は目指すべきだ。

 

しかしまあ、「先生」なんて呼ばれて持ち上げられると、つい「正しいこと」を「教え」たくなってしまうのが人情なのだろう。それがどれほど危険なことか、どれほど恥ずかしいことなのかを、教師と呼ばれる人々はきちんと自覚しておいたほうがいいよ、うん。

 

自戒を込めて。

「大丈夫です」は、大丈夫なの?

ミルクを入れるべきか否か?

紅茶が2つ運ばれてくる。ミルクを入れたポットがひとつ。私はポットをとり、「ミルクは?」と聞く。向かいに座った若い人は、「大丈夫です」と答える。私はちょっと考えてから、自分のカップにだけミルクを入れる。

たぶん、若い人だったら考えもしない。やんわりと拒否する場面で「大丈夫です」という言い方は、たぶんここ5年ぐらいのスパンで言えばふつうに使われている。だが、その10倍も生きていると、そういう使い方には未だに戸惑いを覚える。ちょっと考えてから、「ああ、それは『私はミルクを入れなくても大丈夫です』という意味なんだな」と解釈する。

「大丈夫です」は、状況によってまったく別の意味にもなる。たとえば同じシーンで、私がミルクポットを手に「ミルク、入れてもいい?」と尋ねたのだったら、「大丈夫です」という返答の意味は「私はミルクを入れても大丈夫です」となる。許可を与える用法だ。どちらかといえば、この使い方のほうが馴染みがある。ここ5年とは言わない、もっと前から使われているように思う。それでも、私が若い頃は言わなかったような気がする。

ミルクを入れていいのか、ダメなのか、それは状況によって変化する。つまり、「大丈夫です」という表現は、コンテクストに依存している。どうも日本人はそういうコンテクスト依存型の表現を好むようだ。

 

なぜそんなもって回った言い方をするのかといえば、それが直截的なイエス、ノーよりも軋轢を生みにくいからだろう。明快なイエス、ノーは、それだけに失礼な表現につながりかねない。だから、わざわざ回りくどく言う。回りくどく言うと丁寧な表現になるというのは日本語だけのことではない。英語でも、ストレートな命令形よりは余分にpleaseをつけたほうが丁寧だし、Will you...と相手の意思の確認にしたり、あるいはWould youとわざわざ仮定法を使ったり、果てはWould you mind to...のように相手の感情まで慮った表現にしてストレートな意思表示を避ける。回りくどさが丁寧さになるということで言えば洋の東西を問わないようだ。

だが、こういった回りくどさは、同時にわかりにくさにもつながる。ときには誤解を生む。「大丈夫です」と言われてうっかりミルクを入れてしまうようなことにつながりかねない。

「立派な男子」(古語)ではないけれど

「大丈夫」という表現は、決して最近のものではない。たとえば、1960年代のテレビドラマ「仮面の忍者赤影」では、登場人物の青影が「だいじょ〜ぶ!」という決め台詞を使っている。これは当時の子どもたちの間でけっこう流行った。なにせ、いまとちがってネタの少なかった時代だからね。

ただ、この頃の「大丈夫」は、文字通り「 あぶなげのないようす」(三省堂Web Dictionary)であって、怪我をしていないとか、うまくいっているとか、そういう意味で使われた。だからある程度より上の年齢層の人々は、「大丈夫」を基本的にそういう意味で使う。たとえば、

「あ、すみません」(人にぶつかった)

「大丈夫です」(怪我はありません)

というような使い方だ。そして、そういう意味で「大丈夫です」を理解していると、次のような使い方をされるとひどく戸惑う。

「すみません」(2、3分の遅刻をした)

「大丈夫です」(かまいませんよ) 

え?と思うのは、「そんな数分の遅刻で大丈夫じゃなくなるような事態ってあり得るの?」と思うからだ。ぶつかったのであれば、当たりどころが悪ければ怪我をするし、所持品が壊れるかもしれないし、だいいち痛いのは間違いない。大丈夫じゃない事態はいくらでも想像できる。そんな状況で「大丈夫です」と言ってもらったら、それは非常にありがたい。ところが、数分遅れて、そりゃあ相手に対しては失礼だし、数分だけの時間の無駄という損害は与えてるし、気分を害したかもしれないけれど、少なくとも大丈夫じゃない事態、怪我であるとか破損であるとか、そういったことはそれが原因でふつうは起こらない。よっぽど体力のない人なら数分立ちっぱなしに放置されて足が痛いとか、あるかもしれないが、それはまた別の話。もちろん、待たされて「大丈夫です」と言った側は、そんなたいそうなことを言ってるつもりはなくて、「気にしないでください」ぐらいの軽い意味で言ってくれている。それを理解するまでに、こっちはワンクッションかかる。同じことなら、何も言わないで笑ってくれたほうがまだ話は通じやすいのだけれど、そういうことを若い人たちに求めるのが既に老人っぽいのかもしれないと思って黙るしかない。

けっこうvs大丈夫

では、昭和の時代にはそういうコンテクスト依存型の表現がなかったのかといえば、むしろいま以上にあった。そして、「大丈夫です」と同じ文脈で用いられる言葉に、やっかいな「けっこうです」という言葉があった。

「けっこう」というのは、「よい、すぐれている」というような意味だ。だから、「けっこうです」というのは、「いいですね」ぐらいの意味だ。たとえば、訪問して「けっこうなお宅ですね」といえば、「素晴らしい家ですね」と賞賛していることになる。「このアイデアはいかがでしょう」と尋ねられて「けっこうですね」と答えれば、「それは素晴らしい」ということになる。会議の提案に対して上司が「けっこう」と答えたら、それはゴーサインだ。

ところが、「お茶をお持ちしましょうか」「けっこうです」というような問答では、「けっこうです」は拒否の表現だ。これは、「お茶なんかなくても私はこのままでいいんだ」という意味での「けっこう」なわけで、お茶そのもの、あるいはお茶をもってくるという行為がけっこうなわけではない。ややこしい話だが、「要らない」とぶっきらぼうに言うよりは、「けっこう」と言ったほうが婉曲的で、失礼にあたらない。だから、昭和の時代からついこないだまでは、この「けっこう」が盛んに用いられた。

いま、「大丈夫」が「けっこう」に取って代わられている。それにはたぶん、理由がある。おそらく、「けっこう」は、長く使われている間にもともとの肯定的な意味よりも否定的な意味のほうが強まってしまったのだろう。つまり、Noを「よい」という婉曲的な言葉で表現していたはずが、いつのまにかストレートなNoに受け取られるようになってきた。そうなると、失礼を避けるためには新たな別の婉曲的な表現が必要になる。そこで選ばれたのが「大丈夫」ではないか。

そして、「けっこう」が客観的な「よい」であるのに対して、「大丈夫」は主観的な「問題はありません」という意味を帯びている。「自分はそれを拒否したいと思っている」という主観的な思いを伝える上では、「けっこう」よりも「大丈夫」のほうがしっくりくるのかもしれない。

 

とはいいながら、やっぱり私は、「大丈夫です」という表現に違和感を覚える。若い人の間には「何にでも使える便利な言葉」的な感覚があるようだが、忠告しておくと、そういう言葉ほど危険なものはない。コンテクスト依存型の表現は、往々にしてコンテクストの読み間違いを招く。そして、読み違えた人間を「空気の読めないやつ」として排除していく社会をつくりかねない。

だから、そこは失礼とかあんまり考えず、「はい」「いいえ」をメインで会話を進めていこうよ。文脈を読まなければ何事も進められないような過去の悪習は、もうそろそろやめにしよう。「大丈夫、大丈夫」と言っているうちに気がついたら大丈夫じゃなくなっている日が来てしまうかもしれない。空気を読めない人間を排除する社会ほど大丈夫じゃない未来はないのだからね。

蔵書は散逸してこそ - 古本はたいせつにしよう

桑原武夫蔵書破棄のニュースを聞いたときには、なんとも残念な気持ちになった。けれど同時に、「ああ、そうだよなあ」とも思った。

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敬意を込めて「桑原武夫」と敬称抜きで書くのだけれど、恥ずかしながらたぶん私は桑原武夫の著述を読んでいない。ただ、京大人文研という括りで見たら、今西錦司を筆頭とするその一派の人々の著作にはいろいろと学ばせてもらったし、何よりも私が若い頃所属した山岳部のトップにはその一派のさる碩学の教授がいた。話が長くなるのが嫌なのであえて名前は出さないが、この教授の没後、その書斎に入ることを一度だけ許されたのは、私の数少ない自慢話のひとつになっている。大学に寄贈されてコレクションとして管理されることが決まったその蔵書が移動される前に、山岳部関係の資料を持ちだしてよいと遺族の方が許可してくれたからだ。私は下っ端の荷物持ちとして先輩について行っただけなのだけれど、それでも静謐なその書斎の雰囲気は忘れられない。

そんなこともあったから、同じ京大人文研の桑原武夫の蔵書の一部が破棄されたというニュースは、ショックだった。だが、古びたものを無限においておくことはできない。それはこの世の定めだ。いつまでも残すわけにもいかないだろう。散逸してもやむを得ない。今回は散逸ではなく廃棄なので、失われたものは二度と戻らない。せめて古書店が引き取るものだけでも形が残ったらよかったのだろうけど、まあ、完全に同じものでないとはいえ別のコピーもあるだろうから、情報がこの世から失われたわけではない。

 

廃棄されることでこの世から消えてしまうような儚い情報もある。だが、それらは、消えてしまっても仕方ないものであるかもしれない。私はこれまでに何度か本を処分している。特に大量に本を処分したのは結婚前後の数年間の時期だった。その少し前まで私はある非常にマイナーな分野の微小な雑誌を編集していて、そのおかげで大量の資料を収集していた。その中には、小部数しか発行されていない自費出版本や手作りのミニコミ紙などのコレクションがあった。それらの資料はけっこういろんなネタのソースとして役立った。おそらくほかにはどこを探してもそれだけのコレクションはなかっただろう。なにせ、マニアックな分野だから。そしてそれらは、編集が私の手から離れるときに一緒についていき、そして散逸した。おそらく二度と復元できないだろう。情報としても、あのコレクションは失われてしまった。

結婚してからは何度か引っ越したが、そのたびに本を処分した。比較的まとまったシリーズは友人が新たにできるコミュニティ施設のような場所に本棚ごと引き取ってくれたが、数年たってその施設が閉鎖されるときに恐らく廃棄された。むしろ生き残ったのは、友人たちが借りて行ってそのままになっていた本たちだろう。私が基本的に「借りパチ」(借りっぱなしで失敬してしまうこと)を歓迎しているのは、実はそういう事情もある。自分の手元からは失われるけれど、それほど遠くないどこかで生き延びてくれるから。そして比較的どうでもいい本は、ブックオフ行きとなった。その中でもさらにどうでもいい本は、ブックオフ経由で廃棄されたはず。私にとっては貴重であっても世間的にそうでないようなものは、容赦なく破棄されるだろう。

 

そんなふうに本や資料を散逸させてきて、残念だなと思う一方で、それでよかったのかなとも思う。というのは、あの大量の資料を自由自在に使えたのは、私だけだったからだ。

どういうことか。編集者時代、資料はオフィスの本棚にぎっしりと詰めてあった。訪れる友人たちは勝手に手に取ることができたし、実際、そこから本を引っ張りだして読んでいく奴もいた。けれど、いろんな話をしていて、「そういえばこんなことが書いてあったよ」と本や雑誌、ミニコミなんかを引っ張り出してくるのは私だった。それをネタに話題が広がると、またそれに関連した資料を引っ張り出してくる。私にはそういうことができた。他の誰にもできなかった。

資料と私はワンセットだった。資料を失ってからは、「うん、たしかそういうのは『現代農業』のどっかに書いてあったはずだよ」みたいなことは言えても、不確かな記憶以上の情報は出せなくなった。けれど、どっちみち私自身の活動分野が他にシフトしていったので、そういう情報を必要とする機会も減っていった。私が資料を必要としなくなり、資料が私を必要としなくなって、散逸した。これは避けられないことだ。

 

そんな昔のことを思い出すと、結局のところ、大学者のコレクションにしたところで、それを隅々まで知っていてどう活用したらいいかをきちんと押さえている本人が生きて活動していてこそのものだと思えてくる。大先生の思想とコレクションは不可分のものだ。そして一方がいなくなってしまえば、コレクションだけ残っても意味はない。

もちろん、大学者の場合には思想を受け継ぐ人々がいる。そういう人にとっては、コレクションが散逸せずに一箇所に残っていることはありがたい。だが、一人の人間の思想をそのままの形で完全に継承することができるだろうか。私が死後に書斎を訪れたあの碩学者のコレクションでさえ、山岳部関係の部分は余分なものだと判断されたわけだ。一人の人間の興味関心の幅は広い。そして、その一見無関係な関心が総合されてひとつの思想をつくる。その思想は、別の人間の興味関心の対象となって継承されるが、そのときにはまた別な個人の別な興味関心のセットの中に組み込まれ、元の思想を形作った要素のかなりの部分は不要になってしまう。

だから、大学者の思想を受け継いだ人も、そのコレクションの全部は必要としない。そして、必要な部分は、継承者によって異なってくる。複数の継承者が共通して必要とする部分もあれば、一人の継承者がやっと必要とする部分、誰にも必要とされない部分さえあるだろう。そして、それらを全てセットとして残すことは、すでに大学者がこの世にいない以上、記念碑的な意味以上の意味はない。

つまり、蔵書のような研究資料は、本来散逸すべきものなのだ。散逸し、その行った先々で新たなコレクションの一部となって、はじめて役に立つ。そうならない部分については、いくら残念でも消えてしまうのが順当な運命だ。

 

ちょうど有機体のようなものだ。生物の身体をつくるタンパク質は、その生物が死ぬと他の生物に取り込まれ、別の生物を形作る一部となる。分解されてこの世から消えてしまうものもあるが、輪廻の中で生き続けるものもある。書物も同じようなもので、散逸することによって新たな別のコレクションの一部となって生き延びる。そうなるものもある。

もちろん、コレクションがコレクションとしてそのまま存在することにも、それはそれで意義はある。思いもかけない情報の間のつながりが、同じ空間に複数の書物が存在することによって見えてくることもある。だが、それを発見する能力をもった次世代の学習者は、おそらくそのコレクションがなくても、いつの日かそれを発見する。保存のためのコストは、循環させるために使ったほうがおそらく効率的だろう。

散逸の過程で消失し、取り返しがつかなくなる情報も少なくない。ただ、幸いなことに、これから先の未来に生まれていく情報は、基本的に電子データを伴っている。電子データは、物理的な書籍類に比べて保存も複製も容易だ。それらの情報に完全に失われるリスクは大きくあるまい。

 

そう思えば、なお一層、古い印刷物は情報のカケラとして大切だ。実際、50年前、百年前といった程度の古書からさえ、いろいろと学べることは多い。ああ、早稲田界隈の古本屋にまた行きたくなってしまった。もう長いことあのあたりには行っていないのだけれど、まだあるんだろうか?

ただ、それを集めはじめると、また本が増えてしまうのがなあ…

米はどこへ行った - 若い頃の疑問にここらで決着をつけておこう

学生の頃だったかあるいはその少し後だったかは忘れたけど、とにかく若い頃、「米はどこへ行った」という大きな疑問が私の中に生まれたた。現代の話ではない。江戸時代のことだ。

私が子どもの頃、教科書には「江戸時代には士農工商身分制度があり、農民が90%以上を占めていた」というようなことが書かれてあった。そして、「農民は五公五民とか六公四民とかいわれる重税にあえいでいた」というようなことも書かれていた。この2つを合わせると、論理的には非常に奇妙なことになる。米が余るのだ。

仮に90%が農民だとして、その農民が生産物の50%を収奪される。残りは農民の生存のために必要だ。では、収奪された50%はどうなる? 農民以外の10%の人々が食うのか? だとしたら、それらの人々は農民の9倍の米を常食しなければならなくなる。そんなに米ばっかり食ったら糖尿病になるぞ!

その疑問は、さらに年を経て、食のことに関心をもつようになって深まった。日本人全員が白米を常食にできるようになったのはようやく戦後十数年を経てからのことだというではないか。それ以前は粟や稗といった雑穀類、あるいは大麦や芋類を米に混ぜ込んだ糧飯が農村部で広く食べられていたという。ということは、さらに米は余るはずだ。

そして、農業のことを少しなりとも勉強するようになって、米が余るというのは確信に変わった。稲作は、投下労働力に対する生産効率が非常に高い。現代の機械化・化学化された農業であれば、1人の1年間の労働で数百人が1年間に消費する米をつくることは容易だ。そして、機械化される以前の農作業であっても、1人で3反程度の田んぼを耕作することは可能であり、そして3反の田んぼからは当時の標準でも5〜10人が食べられるほどの米が穫れるのがふつうだった。ちなみに、三反百姓は最小限自活できる零細農民の呼び名である。吹けば飛ぶような細農でも、一家が食べる分量よりも遥かに多くの米を生産する。そういう農民が国の大半を占めるのであれば、当然のように米は余らなければおかしい。

 

では、米はどこに行ったのか? 税として集められた米は、領内での消費分を除けば大坂の米問屋に送られ、換金されたという。では、大坂で売られた米はどうなるのか。上方や江戸の都市部で消費されるのだが、もしもこれが上記の計算通りなら、消費量を遥かに上回る米が取引されることになる。江戸時代の米は通貨単位としての性質をもつ。米本位制ともいえる経済物質でもあるから、すぐに消費される必要はないのかもしれない。けれど、米はミヒャエル・エンデ式にいうなら「腐る通貨」だ。保存性がいいとはいえ、数年で劣化する。どんどん増えたらそれでいいというものでもない。

食うものは、どうにかして消費しなければならない。米を消費する方法といえばもう食うしかない。そうだろうか。いや、それ以外の消費方法は、ある。それは酒だ。

上方には、灘、伏見という巨大な酒造産業集積地があった。灘と伏見に酒造業が立地した要因としてまずあげられるのは水だ。灘は六甲の花崗岩に磨かれた宮水、伏見は桃山丘陵をくぐった伏水という銘水の産地だ。そして、どちらも丹波・但馬・丹後(いわゆる三丹)という日本海側の後背地に近く、冬季の出稼ぎ労働力が確保できた。そこに原料供給地としての大坂がもうひとつの要因としてあったことはまちがいない。

若い頃の私は、このアイデアに飛びついた。過剰に生産された米は酒となって消費されたにちがいない。そして、一揆や打毀しが起これば必ず標的になるのは造酒屋だ。なぜならそこには米がある。酒造業はそのようにして、生産と消費の調整弁となった。なかなかよくできた理論だ。そして、それはすぐに実証できると思っていた。江戸時代の米の生産量と酒の生産量は、必ずどこかに統計があるはずだ。

ただ、当時はまだインターネット以前の時代である。インターネットそのものはこの世のどこかに存在したのだろうけれど、私は存在すら知らなかった。当然、いまのように検索すれば論文がゾロゾロ出てくるようなこともない。実証的な資料は、大学にでも行かなければ手に入らない。だからこれはあくまで仮説の域を出なかった。それでも私は、会う人ごとにこの仮説を披露して、そして「これで論文かけるはずだからぜひ実証的な研究してくれ」みたいなことを吹聴していた。

 

シロウトの考えなんて、ずいぶんと浅はかなものだ。だが、その浅はかな考えであっても、きちんと言うことは大切だ。なぜなら、それを批判し、訂正してくれる人が現れるからだ。人伝ではあったが、私のそういう言説を聞いてある郷土史家の方が「網野善彦を読みなさい」と教えてくれた。彼によれば、そもそも農民が90%以上というのがまちがっているのだそうだ。私にはそれが信じられなかったが、やがて網野善彦の本を読んで、納得した。「百姓」は、農民とイコールではない。年貢によって管理される武士以外の人々が全て百姓であって、その中には商工業者も含まれる。商工業者の中には農村にあって兼業的に事業を営む人々も地方都市で専業的に経営している人々もいる。それらの人々は年貢米を購入して納税するか、もしくは金銭でもって代替する。したがって、税収としての米は必ずしも生産量としての米の正確な反映ではない。領内での米の流通には食料としての流通だけでなく通貨としての流通もあったことになるし、それは全国でも同じこと。そして、その量は決して当時の日本人の人口で食べきれないほどではなく、むしろ不足するほどであった。

 

もっといい資料もあるのだろうが、軽くWeb検索をして出てくる論文を見るだけでも、どの程度の米の生産量があったのかはすぐにわかる。たとえば

社会経済的背景との関連からみた天明の飢饉と疫病(秋山房雄ら)

の表1によれば、天保年間の米の名目生産量(税収の基礎となる数値)は3000万石であるのに対し、実際の米生産量は2003万石と、2/3でしかない。石高は百姓が負担する税を反映しているわけだから、おおまかにはざっと1/3が農民ではないわけだ。つまり、人口の半分強が自分たちの生活に必要な米のおよそ2倍を生産し、余剰分を残りの半分が食べていたとすれば、食料としての米の収支はほぼ辻褄が合う。

ただ、そんな説明を受けても、私の中には釈然としないものが残った。たとえ非農業人口がかつての教科書の説明とは異なってずいぶんと多かったのだとしても、それでも日本はやはり農業国だ。それは、昭和になってからの農村の人口だけを見てもわかる。農水省の統計によれば、昭和35年時点でも農家人口は3千4百万人を数え、総人口の1/3を超えている。日本の耕作地の多くが明治維新までに開墾されていることを思えば、江戸時代にもやはり相当数の農民がいなければ話が合わない。そして、稲作の生産性が高いことは上述のとおりだ。さらに、山間部では雑穀飯、平野部では麦飯が伝統的に多く食されていたことは、やはり昭和初期の食生活を聞き書きした農文協日本の食生活全集を読めば明らかだ。

だから、「大坂に集積された米の大部分は酒に消えた」という持論は半分は撤回したけれど、それでも「米はどこへ行った」の命題は残るし、それを解決するのはやはり酒造業だろうと考えていた。江戸時代の酒造業は、灘・伏見だけではない。地方の蔵元から農家の台所でつくられるどぶろくまで入れたら、やはり日本人は米の相当部分を飲んでいたのではないだろうか。

 

しかし、こういった空想は、やはり実証的な数字によって訂正される。まず、上記の論文の表を見れば、米の生産量と人口から、1人1日あたりの米の量が計算されている。これによれば、先ほどの天保年間で2.0合である。1合は約150グラムだから、およそ300グラムの米になる。現代では日本人は1日平均200グラムも米を食べていない。その感覚からいけば300グラムの米は十分すぎるほどだが、米の300グラムはおよそ1200kcalであり、これは成人1日の所要熱量の半分にも満たない。毎日の食事の主要部分を穀物に頼っていた日本人の食生活を考えれば、少なくともこの2〜3倍の米を食わなければやっていられない。実際、こちらの論文によると

CiNii Articles - 移行期の長州における穀物消費と人民の常食 -  Grain Consumption and People's Staple Food in the Tokugawa-Meiji Transition Period(Special Issue 4 Commemorating the Twenty-Fifth Anniversary)

 幕末期の長州藩で1人1日あたり2.2合の米と、上記資料とほぼ一致する。そして、麦・雑穀などを加えて農村部で3〜5合の主穀類を1人1日あたり消費している。都市部では米が中心だっただろうから、農村部では米が半分以下の糧飯が主流だったというのはほぼ間違いなかろう。

ちなみに、同じ論文で、軍隊での米の消費量が1人1日あたり米643.39グラム、つまり約4.5合と報告されている。肉体労働をする当時の日本人では、このぐらいの米の消費はふつうだった。実際、宮沢賢治の有名な詩でも、「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」となっている。重労働をする大工や木こりなどでは「一升飯」という表現もふつうだったようだ。大量の米が必要とされる中で、限られた生産量の米はやはり貴重なものだったようだ。

 

とはいえ(しつこい!)、大坂には大量の米が集積される。それが本当に全て食料として消費されたのだろうか。もちろん、灘、伏見での消費は決して少なくあるまい。たぶん、探せば実際の米の消費量もどこかに数値はあると思うのだが、Webの検索から出てきたこの論文からでもおよその推察はできる。

近畿における近代酒造業の変遷 - 灘五郷を中心に(塩見侑吾)

ここにあるのは明治年間の数字であるが、およそ年間30万石の酒が灘で生産されている。私自身のどぶろくづくりの経験からいえば清酒1升には2合程度の白米が必要なので(搗精度合を上げると原料米はさらに多く必要になる)、30万石の清酒の製造には6万石ぐらいの原料米は必要になったことだろう。江戸時代の米の流通量は生産量の1/4程度に当たる500万石程度らしい。そのうちの200万石ぐらいが大坂で流通したようだから、その3%程度は酒造にまわったと考えていいようだ。

3%というのは、微妙な数字だ。物資の供給不足・過剰は、数%のちがいによって引き起こされることが多い。3%は余剰を吸収したり不足分を放出するバッファとして十分だろうか。だが、酒飲み連中は、飢饉だからといって飲むのをやめるわけではない。地方の蔵元であれば一揆や打毀しの対象にもなるかもしれないが、灘五郷の大店が襲われるようなこともなかなかないだろう。結局、若い頃に私が空想した「余剰米はみんな呑んでしまったに違いない」という理論は、どうやらどこにもその根拠を見出だせない誤りであったようだ。

 

それでも、私はなお、しつこく、日本の経済に与えた日本酒の影響というものをもっと考えていきたいと思っている。というのは、主食である穀物がそのまま酒造原料であるというのは、非常におもしろい構造だからだ。たぶんここには、なにかがあると思う。暇なときにはまた、Googleの論文検索でもあたってみて、いろいろな研究を見てみたいと思っている。暇さえあればねえ…。

 

なぜ坊主は妻帯しないのか - ある試論

人類がアフリカの片隅から世界中に居住範囲を広げていった速度は、大型哺乳類としては相当に速い。その後も、急速に生活様式や食性を変化させ、環境に適応していった。そうやってニッチごとに環境に適応していったのに、種としての同一性は保たれている。

このような人類の進化史は、人類が頭脳を発達させ、それを適応へのツールとして利用したことによって説明されるらしい。寒さに対応するのに身体の特徴を変化させるのではなく、火を使い、着衣で防寒する。大型獣を食料とするために牙を発達させるのではなく槍や鏃を使う。穀物を消化するために消化管を発達させるのではなく、調理法を考案する。海洋に進出するために鰭を生やすのではなく船をつくる。身体を変化させないから変化に要する時間は圧倒的に短くなる。遺伝子レベルの変化なら数十世代以上かかるようなことを一世代のあいだにやってしまう。そして、遺伝子が変化しないから、変化の後でも人類としての同一性は保持される。もちろん、マイナーな部分では遺伝子レベルの変化も起こる。しかしそれは、種としての同一性を脅かすほどのものではない。

どこで読んだのかも記憶にないが、こんな知識を仕入れた若い頃の私は、目の前が開けてくるような感覚を覚えた。遺伝子は、いってみれば情報を世代から世代へと伝えるメディアだ。その情報は、生物のライフスタイルを規定する。しかし人類は、ライフスタイルに関する情報を遺伝子から切り離し、大脳レベルで処理できる「知恵」に変えた。文化情報として伝達されるように処理系を変えた。遺伝情報と頭の中にある情報は形の上でも意味の上でもまったく別物だけれど、そこには同じ働きがある。それはわくわくするようなアイデアだった。

 

ネオ・ダーウィニズム的な生物学には、「利己的な遺伝子」という考え方がある。リチャード・ドーキンスが提唱したこの考え方は、私の学生時代にずいぶんと流行していた。私はその話を、高校時代に同級生だった生物系の大学生から聞いた。彼女と私はずいぶんと親密だったのだけれど、それはまた、まったく別の物語だ。

この考え方によれば、遺伝子の最大利益(すなわち最大限の増殖)は、必ずしもその遺伝子を保持している生物の個体の利益とは一致しない。「10人のいとこの命を救うためなら自分の命を投げ出す」ほうが、遺伝子にとっては都合がいい、というような議論だ。自分の遺伝子と同じ遺伝子は、血縁関係によって同族に共有されている。自分を犠牲にしても同族が繁栄すれば、結果として自分の遺伝子は広まっていくことになる。人間の社会行動をそういった考え方で説明することに、私は違和感を覚えていた。いまだにそれが正しいと言い切る気にはなれない。ただ、そういう考え方もあっていいのかなと思えるぐらいには、私も寛容になってきた。そして、ドーキンスの考え方も広く社会に受け入れられるようになってきた。

なぜ多くの宗教において聖職者の妻帯が禁じられるのか。それを考えはじめたとき、ドーキンスの考え方がしっくりきた。聖職者は、遺伝情報として自らの遺伝子の複製を残せない。しかし、文化情報として自らが受け継いできた思想を残すことができる。人間という存在を形作るのが遺伝情報だけではなく文化情報でもあるという事実を当てはめれば、聖職者は文化情報の伝達に特化することによって情報にとっての最大利益を達成する存在であると言えるのかもしれない。

人間という存在を形作る不可欠の要素として遺伝情報と文化情報を一元的に考えれば、この発想には無理はない。ただし、この2種類の情報は決して同じ性格のものではない。そこに多くの葛藤が発生する。ではあっても、多くの社会に遺伝子を残すことを禁じられた人々が存在することには何らかの合理的な説明が必要になる。この考え方は、そこによくフィットする。聖職者、宦官など、ふつうに考えたら絶対になりたいと思えないような職業が存在することを、この考え方はよく説明する。

実際、自分のライフスタイルを広めることは、人間にとってある種の快感をもたらす。それは、そういった文化情報そのもののもつ利己的な自己増殖性の反映であるのかもしれない。多くのひとのブログを書く情熱は、そんなところからきているのかもしれない。労働条件からいえば決してよろしくない教師の仕事が人を惹きつけるのは、情報を伝えることそのものに人間の根源に訴える何かがあるからなのかもしれない。そして、聖職者は特定の文化情報である教義を広めていくうえで、最もパワフルな存在だ。だからこそ、引き換えに遺伝情報の拡散を諦めてもらっても割が合う。

多くの宗教で聖職者に妻帯を禁じるのは、そのほうが文化情報の拡散と保存に都合がいいからだろう。独身を前提とすることで、聖職者は男女の禁忌を超えて多くの人々に接することができる。血縁関係の利害を超えて、情報の保存と伝達に専心することができる。そういった有利な立場に立てるから、遺伝子に関する不利を受け入れることができる。そういうことなのだろう。

 

だから私は、妻帯を禁じることを教義とする宗教にはそれなりの合理的根拠があると思う。自分自身はそういう宗教に関わりたいとは思わないが、もしもそういう宗教を信じるのであれば、その戒律は尊重すべきだと思う。

だから、現代仏教は糞だと思う。僧侶は、その役割として文化情報の伝達者であり、妻帯することによって遺伝情報も伝達できる立場に立っている。それって、ズルいじゃない。ひとつを諦めることによって得られるはずの立場を、諦めもせずにゲットしてるのは、どう考えてもズルい。

坊主なら、独身を貫けと思う。そして、もしもそれが無理だというのなら、それはもう、その教義そのものが時代に合わなくなったのだろう。つまり、もしも坊主が妻帯しなければ仏教がもたなくなっているのなら、そんな仏教など滅びたほうがいい。

仏教の教団は滅びても、二千年以上前にインドで修行者がたどり着いた境地は消えないし、幸いなことにその教えは多くの経典として残っている。現代は、二千年前とは情報の保存も伝達も、まったくちがった様式で行われる。 Wikipedia見たらわかるようなことを、坊主の説教から聞く必要はない。だから、宗教関係者は考えを改めたほうがいいんじゃないかな。