シアワセの容相

あしたはこっちだ

なぜ人工甘味料飲料をとるべきではないのか? - 「自然」とか「人工」とかいう言葉は疑うべき、なんだろう

「自然なものは良くて人工のものはダメだ」というのは、ある意味、初期的な防御反応としてはわるいものではないと思う。この急速に変化する時代にあって、「人工のもの」は、新規物質であることが多い。それまで経験のない新規物質に対してはどのような反応が現れるか予断を許さない。したがって、慎重になったほうがより安全側だし、つねに安全側を選択しろというのは工学部で学生が最初に教えられることのひとつだから、まずは疑ってかかるというのは決して非科学的な態度でもなんでもない。

ただ、極論でいえば、人間が日常に接するもので完全に人工を排除したものなど、現代ではほとんどない。たとえば野菜ひとつとっても、あれは長年の間に人類が育種育苗してきたものであって、人類の手が加わらない自然界に存在する植物とは似ても似つかないものに仕上がっている。トマトをかじって「自然な味」と思うひとは、「自然」という言葉をかなり限定付きで使っている。

これは有機農産物に関しても同じことで、有機農産物とそれ以外の農産物と、基本的には何のちがいもない。ちがいがあるとすれば、有機農産物のほうが精農家の手になる場合が多く、それが味の違いに反映する場合が多いからだ。怠惰につくったのでは、どれだけ無農薬無化学肥料でもたいした野菜はつくれない。もしも人工的な環境で育てられた野菜がまずいとしたら、それは栽培技術上の問題であって、「人工だから」ではない。

けれど、だからといって私は現代の農薬や化学肥料の大量使用を前提とした農業を無条件で肯定する気にはなれない。それは、それが「人工だから」ということとはまったく無関係な側面で多くの問題を引き起こすからだ。そのあたりのことは、別記事で書いた

つまり、「自然」(天然)や「人工」(化学合成)は、(予備的な警戒アラートとして有用であるというごく些細な部分を抜きにすれば)それだけでは何らの善悪の基準にはなり得ない一方で、だからといって全てのものが等しく「善」であるということにはならないわけだ。自然や人工ということはさておいて、すべてのものにはいい面と悪い面がある。そして、特に人工のものについては、その性質が詳細に判明しているわけではないのだから、やっぱり「あ、これはマズいな」となることが少なくない。

 

非常に興味深いなと思ったのは、この増田(アノニマスダイアリー記事)についたブコメ群だ。記事そのものもけっこう面白いのだが、私にはそれ以上にブコメが面白かった。

anond.hatelabo.jp

興味深いのは、多くのブコメが「うまい、まずい、気になる、気にならない」議論に終始していたことだ。健康にいいかどうかということは、ほとんど問題になっていない。それに関しては、「人工甘味料だからといって批判するのは非科学的だ。なぜなら、自然物も人工物も、同じように物質だからだ。毒性があるのならともかく毒性がないとして公に認められている食品添加物を『人工』だからといって批判するのは非科学的な自然崇拝に過ぎない」という共通認識がそこにあるように見受けられた。健康に関する懸念から食べないというごく少数の意見は、その空気のなかで、非常に場違いに見えた。

 

これは、典型的な「自然と人工」のミスリーディングだ。「自然だからいい!」というのがミスリーディングになるのとほとんど同じくらい、「自然だからいい!というのは非科学的だ」という信念もミスリーディングになる。なぜなら、人工甘味料入りの飲料(もしも「人工」という言葉に価値判断が入ると思うなら、英語の「人工甘味料添加飲料」の頭文字をとってASBと呼んでもいい)が健康増進にほとんど寄与しないばかりか、むしろ健康を悪化させるという科学的なエビデンスが長年にわたって蓄積され、そしてさらに増加中だからだ。これは、個別の化学物質の毒性とかいうレベルではない。そうではなく、カロリーゼロの甘味料全般が(それが人工だからということとは全く無関係に)、カロリーゼロで甘みがあるというその特性故に、内分泌を撹乱し、その結果として、体重、メタボリックシンドローム2型糖尿病・高血圧と心疾患のリスクを増加させる。その作用機序も解明されつつある。

というような医学的な話をシロウトの私が書くべきではない。そういうことを書こうと思ったらそれなりの専門知識のもとに複数の論文をしっかりよまなければならないだろう。私ができるのは、「そういう事実があるはずだ」と思って検索してたまたま出てきた論文を紹介することぐらいだ。この論文、2013年と最新ではないし、私が読んだのは著者原稿版らしいのでそういった部分でも保留はつく。ただ、多数の論文をレビューしたこの論文はそれなりによくまとまっていて、検索でトップに出てきたのもなるほどという感じだ。

Artificial sweeteners produce the counterintuitive effect of inducing metabolic derangements

www.ncbi.nlm.nih.gov

詳細は読んでもらったほうがいいわけだが、上記のように、ASBは体重、メタボリックシンドローム2型糖尿病・高血圧と心疾患のリスクを増加させる。その理由が(まだ推論レベルではあるようだが)けっこう興味深い。

通常、糖分を摂取すると血糖値が増加するが、これと呼応してインスリンやインクレチンが分泌される。一方、ASBでは、このような分泌は見られない。

インスリンは「血糖値を下げるホルモン」として広く認識されているが、その本質は決して「血糖値を下げる」 ことではなく、“糖の流れ”の様々な段階に作用することによりグルコースを末梢臓器および細胞へと取り込 ませる作用がその本質であり、あくまで結果として「血糖値が低下する」作用を発揮する。具体的には肝臓 では糖放出の抑制、脂肪組織での脂肪合成の促進、末梢臓器では糖取り込みの促進などを介して、食事 などにより体内に取り込まれた栄養素を効率よく全身で利用させるべく働く。

“糖の流れ”におけるインスリン・グルカゴンの重要性

とあるように、インスリンが分泌されることによって(インクレチンはインスリン分泌を促進する)、血液中に取り込まれた糖分は正常に代謝される。糖が血液中に吸収されないときにインスリンが分泌されないのはまったくの当然で(もしも分泌されたら低血糖になるだろう)、その段階ではASBの摂取に何らの問題もない。ところが、この状態が続くと、糖分の摂取時にもインスリンの分泌が低下していく。結果として高血糖が続きやすくなり、余分な血糖は脂肪細胞に蓄積されていき、体重増加やメタボリックシンドロームにつながっていくのではないか、というもののようだ。

もちろん、砂糖入りの飲料(SSB)は肥満の原因にならない、というわけではない。要は比較の問題だが、どうもASBのほうがSSBよりも肥満の原因になるという報告も1例あるようだ。

いずれにせよ、人工甘味料には、「人工」ということを一切抜きにして、また食品安全上の全ての基準をクリアしていることを前提として、なお、その本質的な「カロリーゼロで甘い」という性質から来る健康リスクがある。このことは、なにもこんな小むづかしい論文を引っ張り出さなくても、一般的なニュースでも報道されている(だから私も「そういう事実があったはずだ」と思って調べることができたわけだ)。けれど、上記の増田記事のブコメでそれを前提にしていると思われるものはほんの数えるほどだった。そして、ほとんどは「うまい、まずい」の味論争に終止した。もちろん、元記事がそういう論調だったということは大きいと思う。けれど、私なんか、人工甘味料と聞いたらなにはさておき内分泌の撹乱と思ってしまい、味なんか二の次、三の次だと思う。そういう感覚が共有されていないのは驚きでもあった。

 

そして思うのは、結局はひとは信じたいものを信じるのだなあということだ。ASBもSSBも、健康には決してよろしくない。だから、どちらかを好きな人(あるいはどっちも好きな人)は、健康に有害だという情報を、「自然崇拝だ」として退けた上で、味について議論する。そして、人工物に対して疑いの目を持っている私のような人間は、こういった情報に飛びつく。そしてこんなブログを書く。

言葉は信用できるものではない。特に、抽象的な「自然」みたいな言葉には十分注意すべきだ。不用意に使って誤解されたことは、以前このブログでも書いた。だが、その信用できない言葉を使ってでも、人間はコミュニケーションをとろうとする。それが人間にとって、自然なことなんだろうな、きっと。

タテマエはホンネを隠すための飾りではない、という話

どっちがホンネ?

子どもたちの教育はなんのため、と尋ねられれば、まずは「健全な発達と成長を促し、おとなになってからの充実した人生に備えるため」と答えるべきだろう。子どもは、周囲からどんどん新たな情報を吸収し、それを自分のなかで体系づけながら、自分自身の世界をつくっていく。そうやってつくられたアイデンティティが、その後の人生を支えていく。そういった自然な成長の過程をサポートする活動を教育という。多くの人に異論はないはずだ。

ただし、実際に教育現場で行われていることは、そうではない。子どもたちの内部にニーズがあろうがなかろうが出来合いのカリキュラムに設定されたことをあの手この手を使ってインストールすること、そして、その結果とされている知識や技能を点数化して競わせることが教育の実際になっている。さらにわるいことに、カリキュラムに設定された知識や技能の本当の意味は大半無視されて、その成果を測定するために開発されたはずの学力テストで得点をとる技能の訓練ばかり強調するという本末転倒なスタイルが幅をきかせている(なぜ学力テストが奇妙な結果に結びつくのかは、以前に書いた)。

こういうことをいうと、「いや、そりゃあこの世は競争社会。どうやって人の上に出るかが重要で、健全な成長とか、そんなのはタテマエだから」というようなホンネ論をいう人が必ず現れる。美しいタテマエは、単に表面を装うだけのもの。そうだろうか?

家庭教師みたいな商売をやっていると、まったく逆なホンネとタテマエに遭遇する。家庭教師への依頼は、その多くが成績への不安から発生している。テストの点数が下がった、というのが典型的なもので、さらには、「まったく勉強している姿を見ない。これでは下がるにちがいない」とか、「もっと上を目指してほしいのにちっとも勉強をしない」とか、ともかくも、「勉強をさせてほしい」という依頼であることがほとんどだ。成長も発達もクソもない。ともかくも勉強だ、暗記だ、ドリルだ、というのが生徒家庭のホンネだ。そうだろうか?

緊急の場合(たとえば中学3年生で受験が目前に迫っているとき)は別だが、そうでもなければ、私はまずは生徒とじっくり話す。そのうえで、長期的な解決策を考える。その多くは、たとえば毎日の音読であったり、日記をつけることであったり、作文であったり読書であったりする。発声練習からメニューを組んだ生徒さえいた。そういう課題を生徒のご両親に説明すると、最初は疑いの目でみられる。「え? ドリルはないんですか?」みたいな感じだ。そこで、課題の意図を説明する。たとえば、「現状、読解力が弱いためにどの教科のテストでも点数がとれていません。問題文の内容がしっかり理解できていないのです。これを解決するためには読解力を身につけてもらわねばならず、そのためには遠回りでも読書がもっとも効果的です」といったぐあいに、ていねいに説明する。すると、ほとんどの場合、こちらの意図を理解してくれる。それどころか、「この子の本当の成長を考えてくれる!」みたいに、感激してもらえる場合まである。多くの親は、本当は目先の点数の上下ではなく、子どもの人間的な成長を願っているのだということが会話の中から伝わってくる。

つまり、私が家庭教師として出会う人々のほとんどが、「テストの点数をあげなければいけない」と口では言っているのに、実はそれとはまったく対立することを願っている。「勉強しろ!」と子どもを脅迫する親は、実は子どもたちに机にかじりついてドリルばかり解くようなことばかりしてほしいと思っているわけではない。ただ、そこで子どもを叱咤激励するのが自分の役割だと思い込まされている。言葉をかえれば、「勉強しろ!」はタテマエであって、ホンネは「健全な発達と成長」である、といえるだろう。

弁証法クラウド

通常、子どもの発達のニーズに合わせた適切なインプットと学習ドリルの類とは、競合する。時間的にも子どものエネルギー的にも、互いのリソースを奪い合う。 子どもの心身の発達のためには、たとえば気候のいい時期には森でも歩かせればいい。天気が悪ければ読書という楽しみもある。日曜大工や料理といったおとなの世界に挑戦するのも、素晴らしい刺激になる。ぼんやりと空想にふけるのも、「非認知的コンピテンス」と呼ばれるものの発達には重要だ。そしてこういった活動をしていると、たとえば計算ドリル、漢字の書き取り、受験対策問題集なんかをやっている時間がなくなる。少なくとも、受験産業界が「最低でもこのくらいやっとかないと後悔しますよ」と脅迫する程度の分量をやるだけの時間は確保できない。つまり、子どもの教育には2種類があって、どちらかを選択しなければならない。そしてもちろん、さまざまな活動が子どもに重要なことは否定するわけにいかないから、仕方なくそちらをタテマエとして、ホンネの活動であるドリルや書き取りに力を注ぐ、というのが多くの家庭の選択であるように思う。

矛盾する2つの選択があるとき、一方を標榜して実際は他方を実行する。これをタテマエとホンネという。日本人はむかしから、このタテマエとホンネをうまく使い分けてきたそうだ。だが、それでは問題は解決しない。それを若い頃の私に教えてくれたのは宮本重吾という人物だった。参議院選挙の時期になると彼のことを思い出すのだが、まあそういう話をはじめると長くなるのでやめておこう。ともかく彼は、なにかというと「キミ、そういう対立で考えてはいかんのや。正反合、正反合と、つねにもうひとつ上のレベルで考えていかんといかん」と言っていたものだ。

この「正反合」は、もちろんヘーゲル弁証法であるわけだが、有機農業者にして天性の宣伝マンである宮本さんの正反合は、どうもヘーゲルっぽくなかった。私はむしろ、後年になって、ビジネス関係のセミナーで聞いた手法であるTOC(制約条件の理論)の「クラウド式の問題解決法」そのものだと思う。詳しくはゴールドラット博士の本でも読んでもらったほうがいいのだろうが、この手法、対立する要素が見えたときこそが技術革新のチャンスだ、という捉え方をする。両方を満足させる解がない場合には、実は答えは空の上、雲の中のまったく別なレベルに存在する。それを見い出せば、2つの問題は同時に解決するだけでなく、さらに大きな構図が明らかになる、というようなものだったように思う。まあウロ覚えだ。

それを弁証法と呼ぼうがクラウドと呼ぼうが、ともかくも、2つの対立要素を同時に満たす方法を見つけることでしか、現実の矛盾は解消できない。対立要素の一方を採用し、もう一方を捨て去るのならまだしも、捨て去ったはずの要素をタテマエとして飾り立てるのは何ら矛盾の解決にならない。むしろ矛盾を深刻化させる。「勉強」に関しては、その矛盾のシワ寄せは一方的に子どもたちに押し付けられる。それが現状ではなかろうか。

対立を越えて

矛盾が発生しているときには、現実を正確に理解することが重要だ。現実には、教育には、冒頭に書いた「子どもたちの健全な発達と成長を支えること」のほかに、これとまったく無関係な要請が担わされている。それは、子どもたちを選別することだ。その選別が実際にどのように機能しているのかは、ブルデューとかを読んだらそれなりに面白いのだが、形式上は能力による選別ということになっている。そしてその能力は学力テストで測定される。

ここで重要なことは、学力テストの結果は決して、教育の成果を表現していないということだ。そうではなく、学力テストの結果は、それに対してどれだけ「対策」を施したかどうかによって強い影響を受ける。矛盾の本質はここにある。つまりは子どもたちの本来のニーズとはまったく無関係な「対策」に時間を割かねばならなくなって、リソースの競合が発生する。そして、選別の勝負がシビアになればなるほど、リソースはそちらに割かねばならなくなり、他方は無視される。これが、タテマエとホンネ状態を生み出している。

しかし、これらは本当に競合するものなのだろうか。私は、自分自身の思想としては、子どもたちを選別することには反対だ。しかし、現実がそこにあるとき、それを無視すべきだろうか? それは、ホンネを無視してタテマエの美しい世界で遊ぶことにしかならない。多くの子どもたちの苦しみを救うことはできない。何よりも、まずは商売にならない。だれもそんな家庭教師など雇ってくれないはずだ。

そうではなく、どちらの要素も、同じ平面上で捉えるべきだ。価値観を捨てて、教育には子どもたちを発達・成長させる要請と、子どもたちを選別する要請があるのだということを虚心に眺める。そしてこの現実を当事者である子どもたちの目線から見れば、どちらも劣らず重要なのだということがわかる。そして、リソースは互いに競合する。そこに矛盾が生じている。

この矛盾を解決するためには、「時間配分をどうするか」みたいなレベルにとどまっていてはダメだ。そうではなく、解決のためのレベルを変えなければならない。そのためには、そもそも矛盾はなぜ発生したのかと考えねばならない。すると、すぐに見えてくるのは、テスト問題がつくられるに至った経緯と、それが現在のように訓練でもって解かれるようになった経緯だ。テスト問題は、もともとはテスト対象の子どもが正しい知識や思考能力を発達・成長の過程で身につけたかどうかを判定できるようにつくられたものだ。しかし、実際には発達・成長はすっとばしても、すべて正解や解法を暗記してしまえば点数をとることができるようになっている。そこで、裏技として受験勉強という方法が発生し、それが一定の効果をあげることから、いつの間にかあたかもそれが正しい唯一の学習方法であるかのように誤解されるようになった。しかし、それならなにも受験勉強などしなくったって、発達・成長のなかで正しい知識や思考能力を身につけさせれば、同様の点数がとれるはずだということに気がつく。ただし、それはやってみれば空理空論だということがわかる。勉強をしない生徒は点数がとれない。だが、もっとよく見てみよう。本当にそうなのか?

ここで、生徒たちを観察していると、ある事実に気がつく。生徒は自分の日常体験の上に「勉強」の点数を積み重ねている。日常的な体験のなかでしっかりと思考する習慣ができている生徒に対しては、それに応じたごく短時間のトレーニングをするだけで点数が伸びる。一方、ふだんから自分の生活に関して考える必要も習慣もない生徒は、膨大なトレーニングをしても少ししか点数は伸びない。最終的な収量は、前者のほうが圧倒的に高い。

ということは、実は本来の意味での生徒の発達・成長とテスト対策は、ひとつレベルを上げれば何ら対立的ではないということがわかる。まずは生徒に多くのことに興味関心をもたせ、そして実行させる。キッチンに放り込むのもそのひとつだし、部活動も過重にならない程度なら役に立つ。読書もある意味では身体的な経験になり得る。登下校の道程、友人との会話、家庭内での身のこなし、すべてが重要な体験になる。そして、それらについてつねに考えさせる。そのためのツールとして、日記や作文は有効だ。家庭教師との対話でさえ、考えを深めていく緒にはなる。そういった刺激を与え、素地をつくりあげる。その上で、受験産業の常套句からいえば雀の涙程度の学習指導とトレーニングをする。もしも指導者がしっかりとポイントを外さなければ、それだけで必要なだけの点数は確保できるだろう。

つまり、どっちをとるかとか、どの程度の配分で組み合わせるかとか、対立的に見ていたのでは矛盾は決して解決しない。そうではなく、一方を行うことで他方にどのような影響が出て、それによって双方をどのように変化させることが可能になるのかという統合的なレベルで戦略を考えなければならない。最終的な受験勉強の分量は大幅に減らすが、その下地を「対策」とはまったく別個の学習活動でつくっておく。そうすれば、外見上は理想を追いかけているように見えて、実は地に足のついた「得点力アップ」を実現することができる。

そして、最後のホンネ

というようなことをここ何年もやってきて、それなりに実績もあげてきたとは思う。けれど、とことんで言ってしまえば、ここまで書いてきたこと、単なるタテマエなんだよなあ。ホンネは、勉強なんてやめてしまえ! なんだよな。勉強とかテストとか、心の底から大嫌いだ。それを世の中から少しでも減らせると思えるから、こんな家庭教師をやっている。なんともミもフタもない話になってしまったなあ。

なぜ子どもに家事を手伝わせるべきなのか

つい数日前のことだ。中学1年生の親御さんに「夏休みに何をさせたらいいでしょうか?」と質問を受けた。小学校から中学校に上がるに際して成績が下がることが不安だからと4月から新たに教えることになった生徒だ。ご両親の不安は的中して、家庭教師を付けたにもかかわらず、定期テストの点数は下がり続けている。

「夏休みに何をさせたらいいか?」という質問は、こういう文脈で出てきたものだ。だから、当然それは、「成績をあげるためには、どんな勉強をさせたらいいのでしょうか?」という相談であり、期待されているのは、「この教材を毎日これだけの時間やりなさい」という「勉強」の具体的な指示だ。けれど私は、あえて言った。

「じゃあ、料理を手伝わせてください」と。

 

家庭教師は、成績をあげるのが仕事だ。特殊なニーズがあるケースがないわけではないが、ふつうは、それ以上でも以下でもない。だから、生徒に特定の思想やライフスタイルを植え付けることはしないし、すべきでもない。だから、「料理を手伝わせてください」というアドバイス、決して「子どもは親を助けるのが当然だ」という儒教的な価値観からのものではないし、あるいは「男性であっても自立のために料理ができるようになっているべきだ」といった男女平等の立場からの誘導でもない。調理の楽しみに誘って趣味を布教しようというのでもないし、苦行を分担させることで何らかの教訓を与えようというのでもない。

そうではなく、単純に、料理を手伝うことで成績が伸びることが明らかだからだ。ただし、受験期にさしかかる中学3年生にそれを求めるべきではない。あまりに幼い時期にはできることの限界もあるし、安全確保や段取りを考えることが必要になるために手伝わせる方の負担も小さくない。親の側の負担と学習効果の両方を勘案したら、小学校の高学年から中学2年生ぐらいまでの数年間が、子どもをキッチンに立たせるのにベストな時期だとわかる。だから、成績が下がり、両親に危機感が生まれたこのタイミングはそれをスタートするのにまたとないチャンスだ。私はそれをうまく捉えたつもりだ。

といっても、何のことだかわからない人のほうが多いだろう。料理を手伝えば確かに家庭科の成績は少し上がるかもしれない。いや、そういうことではないのだ。理解してもらうためには、冒頭の中学生の親御さんとの会話の続きを見てもらうのがいちばんだろう。

 

「そうですね。たとえば、これ、何グラムかわかりますか?」

私はたまたま机の上に出ていたスマホを生徒に手渡した。

「え?」

「持ってみて、何グラムだと思う?」

「500グラム、かな」しばらく躊躇して、彼は答えた。

「お母さん、どうです?」

「え? 私?」彼女はスマホを手のひらに乗せてから、答えた。「200グラム、ぐらいですか?」

正解は180グラムだ。スマホの持ち主である私は知っている。

「これなんですよ。ちょうどいま、理科で密度を習いはじめたところです。密度は質量、まあ重さですけど、それと体積から求める。計算は、公式を覚えたら簡単です。けれど、重さが体感的にわかってないのに、計算だけできて意味があると思いますか? じゃあ尋ねますけど、200立方センチメートルって、どのくらいですか?」

生徒は答えられないが、お母さんはすぐに「1カップ」と答える。要領を得ない生徒に、私は説明する。

「PETボトル。よく自動販売機に売ってるやつ。あれ、500ミリリットル入りのが多いんですよ。500ミリリットルはそのまま500立方センチメートルで、もしも水ならだいたい500グラムです」

そして、お母さんに向き直る。

「こういう感覚が、理科には大切なんですよ。高校の範囲になりますけど、1ニュートンって力の単位は1キログラムの物体に1秒間で毎秒1メートルの速さに達する加速度を与えるのに必要な力って定義されています。1キロがどのくらいの量か、秒速1メートルがどのくらいの速さなのか、それが体感的にわかっているのとわかっていないのとでは、この定義の意味が大きく変わってきます。ところで秒速1メートルって、どのくらいの速さですか?」

答えをまたずに私は続ける。

「歩くぐらいの速さですね。ともかくも、重さや体積は、料理を手伝っていると自然に体感的に捉えられるようになります。食塩の1グラムがどのくらいの量かとかね。そして、中学校理科の化学分野で出てくる物質の多くが、台所にあるものです。食塩、砂糖、かたくり粉、重曹。白い粉で出てくるのはこのあたりです。最近は漬物をつける人も少なくなったからキッチンにないことも多いですが、ミョウバンもそうですね。塩素系漂白剤、酸素系漂白剤も、教科書にはよく登場します。石鹸はアルカリ性で食酢は酸性です。そういうものを扱って、その性質を体感的に理解しておけば、多くの生徒が苦手にする理科の指導がずっと楽になります」

 

事実、これはもう何十年も前から伝統的に、学習指導要領の理科の項目には、「身近な」とか「身の回りの」という限定が数多く登場する。理科は抽象的な自然法則としていきなり教えられるのではなく、身の回りの自然現象を理解するための思考方法として導入される。そのためには、なによりも日常の体験が豊富にあることが前提になっている。

しかし、現代の子どもは、学習指導要領が想定する以上に、日常体験に乏しい。極端な例であるが、最近の子どものかなりの部分は、日常的に炎を見ない。これは数万年の人類の歴史のなかで異常な事態だ。人類はその生活のために常に火を活用してきた。私が子どもの頃には、ガスコンロだけでなく、七輪や火鉢、落ち葉を集めての焚き火や灰皿の煙草など、実にさまざまな火に触れる機会が日常的にあった。ところがオール電化の現代の家庭生活においては、炎を目にすることがない。炎を見るのはキャンプファイヤーのような非日常のイベントでのことに限定される。決してむかしがよかったと回顧するのではない。そうではなく、意識して「日常体験」を増やすようにしておかなければ、学習指導要領の想定している出発点にも立てないということなのだ。

そしてこれは理科だけのことではない。中学2年生が苦手とする数学の問題に連立方程式の文章題がある。素っ気ない文で書かれた前提を数式で表現することがハードルになる。ある要請の手順化、論理的な理解は、実は料理によって鍛えることができる。手順を間違えたら卵焼きひとつつくれないのが料理の世界だ(その代わりべつのものができるけれど)。いま実行していることが全体のなかでどういうところに位置づけられるのかを意識することは、実は数学の問題を解いていく上で貴重な戦力になる。

家庭のキッチンでは、多くの場合、素材に値段がついている。何が安くて何が高いのかを感覚的につかむことは公民分野に必要な日常体験だ。ホウレンソウの産地、ナスやトマトの産地、ジャガイモやタマネギの産地を意識すれば、もうそれは立派な地理の勉強だ。コメを炊いたことがなければ日本史の理解に齟齬が生じるし、もしも小麦の性質のちがいにまでのめり込めば世界地理だけでなく世界史の準備にもなる。台所を手伝うときには無言であってはならず、親とのコミュニケーションが重要になる。これは国語力を思いの外に伸ばす。外来語の多い食品に触れておけば、いくらかは英単語を覚えるときのヒントにもなるだろう。

 

もちろん、そういった日常体験がなくとも、「勉強」はできる。なぜなら、ほとんどの「勉強」が「テスト」を想定したトレーニングと化してしまっているのが現代だからだ。日常的な感覚がなくても密度は正しく計算できるのだし、重曹を見たことがなくてもその熱分解は暗記してしまえる。だが、そういった知識は、本当の知識になりうるだろうか?

受験産業界でよく用いられる理論に、「忘却曲線」がある。これは、学習したものは時間とともに記憶から薄れてしまうとする実験が元になっており、最適な時間間隔で学習を反復することで記憶を「定着」させることができるとするものだ。業界では、この理論に準拠して、反復教材を提供し、その実行環境に子どもたちを囲い込む。この理論は実証的な実験が元になっているので、そのこと自体にケチをつけるつもりはない。ただ、よく読んでみると、実験の設定がそもそも非現実的だということがわかる。

どういうことかといえば、これは実験を正確にするために、被験者に対してirrelevantな情報を与え、その記憶を測定する。irrelevantとは、たとえばランダムな文字列であったり数値であったりする。ここには、まっさらな紙に書き込まれる情報はすべて等しい処理を受けるというタブララサ的な前提がある。そういう前提を置かなければ、こういう実験はそもそも成立しないわけだ。

けれど、学習指導要領が求めている(あるいは人間がそもそも必要とする)情報は、基本的にrelevantなものだ。relevantとは、実際の生活に、実際の社会に、現実の問題解決に関連性のあるものだ。そして、そういったrelevantな知識は、既に実際の日常生活がそこにあることを前提に、関連性のなかで与えられる。

したがって、実際には、受験産業界がどう主張しようと、忘却曲線理論を前提にした反復学習は、空理空論に過ぎない。実際、何回もの反復学習で手に入る受験技能は、日常体験がしっかりしている生徒にはものの5分で理解できることであったりする。そしてなによりも、体感的に掴んでいった知識は、その後の実用にどんどん応用していける。このちがいは大きい。それは、高校、大学と、学びが深まれば深まるほど大きな差になる。最終的には社会に出たときに、とてつもない差として現れる。

 

だから、本当に成績をあげたければ、まずはキッチンに子どもを入れるべきなのだ。そんな基本もわからずに「反復すれば点数は上がるはず」みたいな思い込みを捨てないのは、単純に受験産業を喜ばせるだけなんだということに、そろそろ気がついてほしいんだけどなあ。

多くの親が、反復ドリル的な勉強しかさせられてこなかった現代にあって、こういうことを主張しても、ほんと、理解されるのはむずかしい。耳を傾けてもらうためには、実際にそれで成績があがった実例を増やしていくしかないんだよなあ。先は長いよ。

「やるべきこと」はわかってるんだって - 多くの英語教育論は的外れ

理念は耳にタコ

どちらかといえば発達障害気味だった私は子どもの頃、よく叱られた。特に宿題では、しょっちゅう担任教師に説教をされた。小学校高学年以降の宿題提出率はほぼゼロだったから(小学校4年生までは宿題そのものがなかったように思うのだが、そんな訳はないので、たぶんあっても気がつかなかっただけなのだろう)、そりゃあ、担任にとっては問題児だっただろう。ただ、当時は子どもの人数が爆発的に増えていた時期で、1クラスの人数も45人が標準だった。だから担任教師もひとりの問題児にかけられる手間は限られていて、おかげさまで私はうつにもならず、不登校にもならなかった。人生、何が幸いするかわからないものだ。

その説教の多くは、なぜ宿題が重要なのか、それをやらないとどういう悪い結果になるか、宿題をやる意義はどういうことなのか、などなどをこんこんと説明するものだった。正しいことだろう。もしも私が同じ立場だったら、やっぱり同じことをやってしまうかもしれない。けれど、聞いている方にとっては、それはほとんど無意味だった。なぜなら、そんなことは言われなくても十分にわかっているからだ(後になって私は宿題の必要性に関して疑義を唱えるようになるのだが、子どもの頃は純粋に宿題の必要性を信じていた)。宿題はやったほうがいいにきまっている。けれど、できない。いくら大切だ、義務だとわかっていても、でいないものはできない。わかっていることを百回、千回繰り返されたってそのレベルでは十分すぎるぐらいにわかっているのだ。だから無駄。無意味。

そういう子どもはいるのだと、いま、教える立場になってみればわかる。宿題の遂行を阻むものは百人百様だろう。私の場合は、そもそも机の前に座っていられなかった。同じ作業を繰り返すことも苦手だった。がんばってノートをひろげてすわったとしても、書き取りとか、数文字書いただけで、空想が始まる。あらぬことをぼんやり考えてしまい、手が止まる。そのうちに、寝転んで宿題のことは忘れてしまう。これでは宿題なんてできるわけはない。

もしもそういう生徒に出会ったら、宿題の意義を説いてもダメだ。もちろん「なんのためにやるのか」は、出発点として重要だ。そこがわかっていない状態では、仮に宿題を形の上だけ実行しても、実は効果が薄い。作業は常に目的を明確にして行わねばならない。だが、そこが理解できない生徒なんてほとんどいない。ものの30秒も説明すればわかってもらえる。問題はそこからだ。わかっていても宿題をしない生徒には、それぞれなりの理由がある。実行を阻む事情がある。

たとえば、忙しくて宿題をやる時間がない生徒がいる。クラブ活動で肉体的に疲労困憊して、宿題どころではない生徒もいる。宿題の実行手順そのものを誤解している生徒もいる。私のように発達障害的に特定の作業を苦手とする生徒もいる。そういう生徒に対しては、それぞれの実行を阻んでいる要因に対して何らかの働きかけをしなければ効果は上がらない。「やらねばならないからやるんだ」という精神論では、何ひとつ解決しない(ま、いまの私だったらあっさりと「あ、じゃあ宿題はやめとこう」というのだけれど)。

なんで学習指導要領を読まないの? 

英語教育をめぐる議論に関しても、実は同じような苛立ちを私は覚えている。英語教育を批判する(あるいは肯定する)人々は、英語教育の現状に対して、「もっとこうあるべきだ」という意識で議論をする。「英語教育かくあるべき」というのは、それはそれで重要な議論だ。そして、そういう議論は、まずは英語教育の方針を決めているポリシー、具体的には学習指導要領の改訂に向けて行われるべきだ。なぜなら、「何のために、何を、どのように」という指針は、日本の初等教育中等教育においては基本的に文部科学省がさだめる学習指導要領に規定されていて、その範囲を大きく逸脱できないことになっている。だから、「英語教育はこうした方がいい」というアイデアがあるのなら、なにはさておいても「学習指導要領をこう変えよう」という提案をすべきだということになる。

ところが奇妙なことに、英語教育に関する議論で、学習指導要領を参照したものはほとんど見ない。そうではなく、彼らが参照するのは、「学校ではこんなふうになっている」「大学生の語学スキルがこうなっている」「日本人の英語力はこの程度だ」「こんな英語は使えない」と、理念のレベルではなく、現実のレベルにとどまっている。

もちろん、現実は理念が誤っているから問題になっているのかもしれない。だから、現実を出発点とするのはそれだけでは誤りとは言えない。しかし、もしもそうなら、「であるから、学習指導要領のここを変更したほうがいいだろう」と指摘するものになるはずだ。けれど、そのような議論は見ない。おそらく、教育関係者以外、学習指導要領の原文なんて見たこともないのだろう。なに、検索すれば一瞬で出てくる。数十年前からの変更履歴もごく簡単に知ることができる。けれど、だれもそこに興味を持とうとしない。

理念を語っても現実が変わらないときに  

では、学習指導要領はどうなっているのか。以下に引用してもいいのだけれど、以前、他の教科で同じことをやったらえらい冗長な記事になってしまった。同じ轍を踏みたくないので、適宜、文科省のサイトに行って確認してほしい。そして、じっくり読んでもらったらわかるのだけれど、実は政策としては、かなりまともなことが書いてある。実際、ふつうに読んだら、半分くらいの英語教育批判は、この段階で「ごめんなさい」と逃げ帰らなければいけないはずだ。特別に文法重視をうたっているわけでもないし、会話を軽視しているわけでもない。その一方で理論的な積み上げは無視していないし、実用的なスキルへの接続もよく考えられている。学習指導要領を読む限り、根本的なところで日本の英語教育に大きな問題はないように見える。

もちろん、私は個人的に、「学習指導要領バンザイ!」を叫ぶつもりなどない。礼賛するようなものでもないし、なんだかなあと思うところも多い。「もっとこうした方がいいんじゃない?」という意見も、少なからずある。けれど、もしもこれが理念通り実行されるなら、まあそれはそれで上等かなとも思う。ローマに通じる道は一筋ではないし、最終的に子どもたちの成長に役立つのであれば、あんまりいろいろツッコまなくてもいいのかなとも思っている。

その一方で、じゃあ本当に英語教育は問題ないのかといえば、実は問題だらけだ。私はいっつも批判するし、なんならその批判は生徒の前でも堂々と言う。「そんなやり方じゃダメだ」と思うし、実際、学校がやってくれないことを家庭教師として実行することで成果をあげている。

つまり、私がはるか昔に宿題ができなかったのと同様、理念でどうこう言っても始まらないのだ。多くの批判者が言うようなことは、みんなわかっている。政策立案者も、そこはきちんと政策に盛り込んでいる。ところが実際に子どもたちはその恩恵を受けていない。だから批判は、、「こうすべき」であってはならないのだ。なぜ「すべき」とされていることが実行できていないのか、そこを探し出して批判しなければならない。

 

たとえば、発音の問題がある。学習指導要領では、音声としての英語をことさらに重視している。当然だ。音声としての英語の基本は発音練習だ。聞き取る能力は、まず正しい発音ができてこそ、短期間で身についていく。指導要領上も、発音練習には相応の時間を割くように設定されている。ところが、実際に生徒を教えると、学校で正しく発音指導されている成果が出ている生徒は、3分の1にも満たない(これでもここ数年、比率はずいぶんあがってきているように思うのだが)。半分くらいの生徒は、平気でカタカナ読みをする。そういう生徒の教科書には、カタカナで読みがなが振ってあったりもする。そういうことを推奨する教師がいるというのも、生徒から直接聞いている。

では、なぜそういった政策の方向とはまったく乖離した指導が現場で堂々と行われているのだろうか。そういったことを分析し、批判してこそ、はじめて英語教育に対する議論は実りあるものとなる。けれど、そういった議論は地味で目立たないせいか、あまり行われない。そして、派手に目立つ「英語教育はダメだ、もっとこんなふうにしろ!」的な話題ばかりがコメントを集めたりする。

正常な教育を阻む「入試」の存在

まあ、とことんなところでいえば、そういった奇妙な理念と現実の乖離は、科挙のような入試システムによってできている。本当はこの記事、そこのところを詳しく書きたかったのだけれど、もういい加減長くなったし、他にしなければならないこともたくさんあるし、またの機会にしよう。大学入試改革でTOEICが一抜けたをやらかして、いろんなことが明らかになったように思う。大学教育は、どうやって入学するかが問題ではなく、入学後に何をどのように学ぶかが問題なのだ。だから根本では入試なんてどうでもいいのに、それが経済と密接に結びついてしまったがために、そこに厳格さを要求するのが常識化してしまっている。そのあたりを解きほぐす作業を、機会があればやってみたいなあと思う。ま、とりあえずは稼がなきゃ。

保育園の仕事と経営者の仕事と

What business are you in?

私は「ガープの世界」以来のジョン・アーヴィングのファンなのだが、彼の作品群のなかで特に印象に残っているシーンがある。季節労働者の作業場でもあり宿所でもあるサイダーハウスでリンゴ酒の醸造中に、労働者のひとりであるジャックが吸い殻を果汁の中に投げ込む。それに気づいた労働者のボスのミスター・ローズが激怒する場面だ。いま手元に原書をもってきたが、探し出すのが面倒なので、映画版の方から引用しておく。

www.youtube.com

意味深いのは「What business are you in?」というミスター・ローズのセリフだ。この文句で検索すると、「お仕事は何でしょうか?」という穏やかな翻訳が出てくるのだけれど、場面はもっと緊迫している。食品を扱っているという自覚がないジャックに対して、「自分の仕事がわかってんのか?」と問い詰めているわけだ。これに対してジャックはナイフを持ち出すが、あっさりとミスター・ローズの早業に服を切り裂かれてしまう。そしてミスター・ローズは捨て台詞を吐く。「オレの仕事はナイフ使いなんだぜ」と。

最初に読んだときには、この「I'm in the knife business!」の意味がよくわからなかった。単純に「ナイフのプロのオレに勝てるわけないだろ」程度の捨てゼリフだと思っていた。だが、いまになるとわかる。ミスター・ローズは、季節労働者のまとめ役として農場から期待されている(だから彼だけの特典も受けている)。つまり彼は他の季節労働者たちと同様にリンゴの収穫と加工という仕事を請け負っているわけだが、配下の労働者に対してはそれを管理するという業務を請け負っているわけでもある。そしてその管理の根本にある原理は暴力だ。荒っぽい季節労働者たちをまとめ上げるのは、ギャングも恐れをなすジャックナイフの神業だ。だからこそ、彼は「オレの仕事はナイフだぜ!」と啖呵を切ることができるわけだ。

作者は暴力を肯定しているわけではない。中絶問題や家庭内性暴力や障害者の問題や、その他さまざまな社会問題を盛り込みながらもエンターテイメントであるこの作品は、そんな安易なものではない。にしても、ここでは農場主の力の及ばない独立した権力構造がサイダーハウスに存在することとそれを尊重しなければ成り立たない農場経営とがはっきりと浮かび上がる。だが、それが効率的だからといって、社会はその内部に独立王国の存在を許すべきなのだろうか。サイダーハウスの掟に対してその外側の社会は干渉できないものなのだろうか。すべきではないのだろうか。それがこの作品のテーマであるように思える。

保育園の仕事と経営者の仕事 

保育園の仕事は子どもを健全に育てることだ。なんなら保育所保育指針という公文書を見てもらえればいい。そこには

保育を必要とする 子どもの保育を行い、その健全な心身の発達を図ることを目的とする

と明記されている。だから、もしもミスター・ローズのような強面が保育所の職員に「What business are you in?」と尋ねたら、上記のように答えるのがいい。ナイフを持ち出されたくなければ。

けれど、保育園の経営者が同じ質問をされたら、もちろん場合によっては同じことを答えることになるのだが、場合によっては「職員の管理です」と答えるべきなのだろう。経営が経営者の仕事であり、経営の目的は事業を健全に継続させることだ。そこで重視されるのは収支の決算表であり、財務諸表だ。保育園のような公益的な法人の場合には、利益を出せばいいというものではない(過剰な利益は法律によって社会還元が義務付けられるので、どっちみち利益は出ない)。利益を出すのではなく、事業が持続可能であるようにお金を回すことだ。そのためには赤字であってはならないし、赤字を避けるためであっても各種引当金などの積金を怠ってはならない。保育園経営には、経営に対するそれなりのプロ意識がなければならない。

anond.hatelabo.jp

保育士の待遇がひどいことが話題になっている。私は、基本的にはブラックな職場はさっさとやめるべきだと思う。だが、保育士のなり手がなくなって保育園が存在できないのも困る。保育士の待遇は改善されるべきだろう。ここで、これに関する議論は2つのレベルがあって、互いに相交わらないのだということに気づく。

まず、保育士の給与水準が絶対的に低いことだ。給与水準は公的に定められているので、それを上げなければ底上げはできない。これは政治的な議論になる。さまざまな立場からさまざまな意見があるだろう。そういう議論は大いにやってもらいたい。

それとはまったく別なレベルの問題がある。それは、個別の園の経営に関わるものだ。これに関しては、いくら政策的な議論をやっても解決しない。なぜなら個別の園の経営は個別の園に任されている。そこで経営者がどのような方針を取ろうが、法令の範囲内であればそこに触れることはできない。そして、そのなかで、上記に引用した増田記事のような過酷な労働問題が発生する。具体的には賃金を支払われない時間外労働だ。

もちろんこれは、「法令の範囲内」を越えているので、法令違反の労働をさせられた保育士はすぐにでも訴えるべきだし、それが面倒で逃げ出すというのもひとつの選択肢だと思う。タイムカードがあってもそれを有名無実化するような運用は、言い逃れのできない法令違反だ。そうやって実質賃金を切り下げるのは(もしも記事のとおりなら時給換算で賃金は半額にもなるだろう)あってはならないことだ。

保育園経営者の言い訳はほとんど想像できる。残業代を払おうと思っても規定の保育収入からでは払える原資がない。だから残業代は払えない。けれど、子どもたちの「健全な心身の発達」のためには、規定の時間内の労働だけでは絶対的に不足する。だからそこはお願いして自主的に子どもたちのために頑張ってもらうしかなかった、とかいうものだろう。

だが、そういった余分な時間の献身的な労働がなければ保育園は正常に運営できないものなのだろうか。ある部分はそうだ。だが、ほとんどの部分はそうではない。なぜなら、たったの一例でしかないけれど、そういった過剰な労働もなしに運営できている保育園をたまたま私は知っているからだ。そしておそらく、世の中にはその一例だけではないはずだ。一つの例は、一つの特殊事情の上にしか成り立たないと思う。だからそれを全てに当てはめろというつもりはない。けれど、なぜ他の園ではそれが当てはまらないのかの推測もできる。

その仕事は本当に必要? 

なぜその一つの例を知っているかといえば、それはたまたま私がその保育園の近所に住んでいて、息子もそこにお世話になって、そういう関係で地元代表としてちょっとした役を引き受けているからだ。守秘義務もあるのであんまり細かなことはいえないが、たまたま去年の財務諸表を見たらここ数十年、ずっと健全経営できていることがわかった。そして、近所にいるから保育士たちが何時に出勤して何時に帰っているのかはほぼ把握できる。遅番はちゃんと遅くに出てくるし(10時)、早番は早くに帰る(16時)。そして何よりも、保育内容が素晴らしい。子どもたちは実に元気に走り回っている。

もちろん、すべてが完璧というわけではない。子どもには子どもなりの悩みがあるだろうし、親から見ても「もうちょっとここはこうしてくれたらなあ」というのがあるのは知っている。他の園と比較して「あそこはやってくれるのに……」という文句もあるだろう。だが、それは本質ではない。子どもたちは健全に発育しているし、親の保育ニーズもある程度満たされている。それ以上を求めるなら、それは園の経営にではなく、法制度の変革に求めるしかないのだろう。そのぐらいに、この園は制度のなかで目一杯のことはしている。

なぜそれができるのか、書こうと思ったら、よく考えたら以前にこのブログで書いている。同じことを書くのも面倒なので、以下にリンクを貼り付ける。

mazmot.hatenablog.com

結論部分だけ抜いておくと、

ここにきてようやく、なぜあの幼稚園で、あれほど勉強熱心、仕事熱心な先生たちが毎日残業をして子どもたちのために尽くしながら、なぜあれほど子どもたちがしんどそうだったのか、理解できた。つまり、過去にやって「よかった」と評価されたこと、さらに他の園の実践の中から「これはよかった」と評価の高いことをできる限り導入し、そして、いったん導入して「よかった」と評価したものに関しては基本的に次年度以降もやる。「よかった」ことをやらない理由がない。去年よかったことなら今年もいいはずで、そうやっていいことがどんどん蓄積していけば子どもたちにとっても素晴らしい幼稚園生活になるはずと、無条件に考える。だから仕事はどんどん増える。そうであっても、子どもたちのことを思えば、がんばれる。そうやって実際に若い先生たちは頑張っていたのだろう。だが、それは結果として子どもたちの負担を増やしていた。

一方のこちらの方の保育園では、過去の成果は、知識・経験としては蓄積されているが、それを自動的にスケジュールに組み込むことはしない。やってもいいし、やらなくてもいい。ただ、「ここで必要だな」と思ったら、すばやく実施に移す。その機動力、瞬発力は感心する。それよりなにより、子どもたちのニーズを的確に把握する能力は、ほんと、プロだなあと思う。そして、子どもたちはその保育士たちの手助けに敏感に反応する。心の底から笑い、そして成長する。

肝心なことは、全ての職員が、自分たちの仕事を心得ていることなのだろう。自分たちの仕事は、「子どもの心身の健全な発達」であり、そのために必要なことはする。言葉をかえれば、必要でないことはしない。過去に「よかった」と言われていることでも、必要でなければしない。なぜならそれは過剰な労働を要求し、結果として子どもたちの心身の健全な発達に対してマイナス要因になるからだ。そのぐらいのことを一人ひとりが自覚し、なによりも経営者がわかっている。

残業代を払えないのは、どこも同じだ。だから払わずに働かせていいというものではない。払えないから定時で帰ってくれと依頼するのが、目的をきちんと理解した経営者だ(それでもその園ではやむを得ない残業の場合はきちんと残業代を支払っていたことが財務諸表から読みとれた)。「もっといい給料を払ってあげたいんですけどねえ」と愚痴る園長は、精一杯のことをやっているから愚痴る資格ができる。これ以上の報酬を払いたければ政治に動いてもらうしかない限界までやっているから、そういうことが言える。まずは経営のレベルでルールを守ってこそ、ルールに対して文句が言える。

サイダーハウス・ルールは燃やしても

個別の経営の中に、個別の内部だけで通用するルールをつくりだしてはいけない。サイダーハウスのルールは燃やされるべきだ。そうではなく、社会全体が合意したルールでもって、組織の内部も運営されねばならない。もしも賃金を支払わない残業が違法であるというのが社会全体の合意であるのなら、それに反するルールを組織内でつくってはいけない。そのためには、いったい自分の仕事はなんであるのかをしっかり理解しなければならない。

とはいいながら、そんなふうに小さな組織の独自性を縛っていくことは、硬直化にもつながっていく。近所の保育園で何がいちばんの負担になっているかというと、それは書類仕事だ。なぜ書類仕事が増えるのかというと、公的な法人に求められる透明性を確保するためだ。つまり、ルールに則っていることを確認するには、文書で残さねばならない。それはそれでわかるのだけれど、「こんな小さな組織にそれを求めてどうするよ」と思わなくもない。このあたり、ほんとうにむずかしいなあと思う。

 

とにもかくにも、どこもここもたいへんだとは思う。実際、じゃあその保育園が本当に全て理想通りにまわっているのかといえば、そうでないことを私は知っている。早朝に目覚めて暗いうちに庭に出たときに、「おはようございます」と園長に挨拶されたことが何度もある。彼はひとり、始発電車で通ってきているのだ。職員に過酷な労働をさせない代わり、自分自身が早朝の時間外労働をやっている(そして、園長が残っていたのでは帰りにくかろうと、いつも早番の時刻で帰るのだが、実際にはその半分ぐらいはそこから会議への出席であったりもする)。結局誰かが身を挺して犠牲にならなければ回らない世の中であったりする。

人間は、もう少し進歩する必要があるのだろうなあ。

 

 

 

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(どうでもいい追記)

ようやく、Cider House Rulesの問題の箇所を探し当てた。映画とはかなりちがう。ミスター・ローズは自分では手をくださず、例のセリフも自分では言っていない(彼の手下が言っている。ちなみにこのセリフは別の場面でミスター・ローズ自身も言う)。ミスター・ローズ自身は、主人公でこのシーンの傍観者であるホーマー・ウェルズをその場からそっと連れ出す。これはこれで迫力がある。登場人物の名前も違っていて、吸い殻を落としたのはジャックではなく、ジャックはそれを咎める役割。ま、ほんと、どうでもいいことだが。

障害を個性と言い切れる時代まで、まだまだ遠い

障害者について何かを書けるほど、私は障害者のことを知らない。もちろん身近にも障害者はいて、たとえば老齢の父親は近頃、障害者手帳を交付された。役所に行って手続きをしたのは私だから、これはまちがいない。ただ、だからといって障害者のことが以前よりもわかるようになったかといえば、やっぱりわからない。父親は父親だし、他の障害者はまったく別な困難を抱えているのだろう。百人百様、単純に括ってしまえないのが人間であり、障害者は特にそうなのではなかろうか。個性的という言葉の文字通りの意味に立ち返れば、まさに個性的なのが障害者だともいえるのだろう。

ただ、そんななかで、「障害者として生きることは生易しいことじゃないんだろうなあ」と想像させてくれる経験は、少しだけある。家庭教師としての私の生徒の中にひとり、生まれついての身体障害を抱えた中学生がいるからだ。職業上知り得た事柄には守秘義務もあるしプライバシーも大切だからかなりフェイクを混ぜて書いていくつもりなのだけれど、彼女からは多くを学ばせてもらっている。その一端をここにシェアしておきたい。

 

彼女は、身体が思うように動かない。完全に動かないわけではなくある程度の動作はできるのだが、可動域に制限があるのと細かい動作のコントロールが効かないのとで、車椅子生活を余儀なくされている。手指の動作がうまくいかないので通常の筆記はできないし、発声もぎこちなくなる。しかし、そういった不自由さを除けば、どこにでもいるふつうの中学生だ。実際、コンピュータのキーボード操作を教えて作文を書かせてみると、ごくふつうに文章を書く。できあがった作文だけ読んだのでは、彼女が障害者であることに誰も気づかないだろう。国語、数学、理科、社会、英語と、どれを教えても特別に大きな困難はない。家庭教師として教えにくい生徒ではない。

だが、彼女に対して完全に他の生徒と同様に家庭教師の仕事ができるかというと、そういうわけにはいかない。決して同じではあり得ない困難を抱えているからだ。

たとえば、私は通常、どの生徒に対しても、大雑把なゴールを決める。これは将来の目標でもいいし、興味の対象でもいい。方向性と見通しを決めておくことが、多くの場合、よい結果につながるのだ。そのために指導の開始時に実施する問答も、ほぼ定型的なものができている。貿易の仕事とか弁護士、美容師、トリマー、教師などなど、生徒に夢を語らせたりもする。

ところが彼女の場合、将来の夢は「歩けるようになりたい」なのだ。そういった夢に対して、家庭教師ができることは何もない。医療関係者であれば何かができるのかもしれないが、家庭教師はお呼びではない。彼女の夢を叶えるために、私は何の力にもなれない。そういう状況は初めてだ。職業に夢があるのならばそれに相応した学校に進学できるように助けることができるし、学歴がほとんど不要の夢(たとえば「パティシエ」というようなのもあった)の場合でも、「一流になったら英語は絶対役に立つよ」とゴールを設定することもできる。「幸せな結婚がしたい」というような夢であったとしても、そのために学問が果たせる役割を見つけることはできる。特別に夢がない生徒には、夢がないことを前提にそれに対応したゴール設定ができる。ところが、彼女には夢がある。そしてその夢である「歩ける」を実現するためには、何を勉強したかはまったく関係がない。どうやってもこじつけられない。これには困った。

そんなふうに、生徒としては出発点からふつうにはいかない。それでも、教科に対する理解力はふつうだ。ぎこちない発音を聞き取れるようになったら、コミュニケーションをとるのも困難ではない。なにより助かるのは、そのポジティブな性格だ。少々のことではめげないし、失敗があってもすぐに立ち直る。これは、そうでなければ障害とともに生きてこれなかったという経歴が影響しているのかもしれないが、他の生徒の見本にしたいほど前向きだ。だから、身体の困難は相当に大きいはずなのだけれど、外見的にはその困難を困難と感じさせない。なるほど、ひとは強いものだなあと、感動さえ覚える。

その楽天的な明るさに感銘を受けるのは私だけではないのだろう。しばらく前、彼女が治療のために訪れたある病院で、医療関係者(なのかカウンセラーなのか支援団体なのか、私にはよくわからなかったのだけれど)から、「あなたは障害者のリーダーとしてこれから世の中を良くしていく仕事ができるはずだ」と、激励の言葉を受けたそうだ。

けれど、ここで私は障害者の抱えるもう一つの困難を目の当たりにした気がした。いや、障害を抱えて生きるって、物理的にもしんどいのに、それだけじゃないんだなあと、ちょっと呆然とした。

どういうことかというと、たしかに彼女は障害にもかかわらずふつうに学業をこなす能力がある。けれど、言葉をかえればそれはあくまで「ふつう」レベルでしかない。特別に優れているわけではないのだ。もしも彼女が身体障害をもっていなかったとしたら、おそらく彼女は定期テストで平均点前後をウロウロするような生徒だろう。そういう生徒に対して、家庭教師である私は適切なゴールを設定することである程度の点数を伸ばしていくことはできるのだけれど、無理なレベルにゴールを設定することはしないし、実際、そうしてもゴールには到達できない。人には向き、不向きがあるのだ。論理的な思考を積み上げる学問に向いているひとは、そういう方向に進めばいい。それよりも感性が美しい人は、それを伸ばす方向に進むべきだ。そして障害者の彼女は、どちらかといえば感性のひとだ。日常に美しさを紡いでいくようなタイプのひとだ。理性でもって全体を見渡し、人を導いていくリーダーにはまったく向いていないひとだ。

だが、彼女は障害者であるという理由で、そして、その障害が身体だけにとどまっているからという理由だけで、勝手に「リーダー」として成長することを期待されている。そして、彼女の幸福を考えたときに、ふつうの中学生が夢見るようなネイリストとか客室乗務員とかスポーツ選手とかの未来が困難である以上、実は頑張って勉強してもらってそういう「障害者だからできる障害者のリーダー」みたいな方面に進んでもらったほうが、実現性が高かったりするのは否めない。彼女の本当の適性とか志望とか、そういうこととは無関係に、彼女が置かれた位置によって、彼女の人生にいろいろな期待や重荷がかぶさっていく。ただでさえしんどいのに、さらに高みを目指さねばならなくなる。

 

そういうことは、障害者に限らないのかもしれない。人間は、ひとりひとり、その社会的な位置によってあらぬことを期待される。それも個性なのかもしれない。けれど、障害者に負わされたものは、ことさらに強烈であるような気がする。物理的な制限が、その社会的なあり方にも制限を加えてしまう。障害者として生きることは、何重にもしんどいように見える。

そういうしんどさを軽くして、できないことよりもできることにフォーカスして、そしてそれが個性だねと笑える時代が来れば、どんなに楽なことだろうと思う。少なくとも、家庭教師商売にとっては、そのほうがラクなんだ。が、まだまだそこには遠い。それでも未来を信じることはできる。私もあの楽天的な彼女の笑顔に少しは見習おうと思う。

子どもはどこまでわかれば大人になれるのだろうか

How many roads must a man walk down before you call him a man.

ボブ・ディラン出世作、風に吹かれての歌い出しだ。いろいろ解釈はあるだろうが、人間は生物学的な存在だけでは人間ではなく、社会的に一人前と認められることが必要だ、というふうに読み取るのが普通なのだろう。「男」と呼ばれて初めて人は社会の一員となる。もちろんこの「男」はかつてはそのままに男性であった。だが、男性だけが社会をつくるのではない。だから、現代ではこれを「一人前の人間」つまり「おとな」と読むわけだ。言葉を変えれば、子どもは社会の構成者としての権利を制限される──もしもそうでなければ、だれも苦労して旅を重ね、一人前と呼ばれるように務める必要などない、という一般常識がこの歌の背景になければならない。では、いったい子どもはどれほどのことを積み重ねればおとなになれるのだろうか。

ボブ・ディランの歌では「その答えは風に吹かれている」。現代日本の法制度ではそれは学習指導要領に定められているのだろう。歌にもならないが、義務教育として等しく人々に与えられる教育(そしてほとんど全入に近くなっている高校の教育)の基準を定めた学習指導要領は、それを修めなければ一人前とは認められない学習の基準を定めている。本当にそうだろうか?

必ずしもそうではないというのは、小学校や中学校には、形式的な出席日数をはじめとする要件を除いて、卒業のための基準がないとうことからわかる。テストがすべて0点で成績表がオール1でも、小学校・中学校は卒業できる(というよりも、卒業させられる)。学校にはさまざまな役割が押し付けられているが、少なくとも初等・中等教育に関しては、一定の年齢層の託児所(あるいは収容所)としての役割が大きいことをこれは反映しているのだろう。日本の法体系においては(そして人権の考え方からいえばこれは現代のあらゆる法体系でそうあるべきなのだが)、成人としての権利は何らかの資格として付与されるものではない。後見制度など一定の権利を制限するルールはあっても、それは決して学業の成績をもって行われるものではない。

つまり、学習指導要領は、あくまで「これを教えます」という範囲を定めたものであって、「それを理解していなければなりません」という結果を求めるものではない。少なくとも小学校・中学校では理解度は要件ではない。これは「履修」が卒業要件になる高校でも実質同じで、何もわかっていなくても出席と提出物だけで成績とすることが可能だ。そして、提出物は単なる作業だけで認定基準を満たしてしまう。

では、理解度はどうでもいいのかというと、そうではあるまい。やはり、教える側は「わかってほしい」と願って教えているのだ。唯我独尊、「ついてこれるやつだけついてこい」式の古の大学教授ならともかくも、初等教育中等教育の教師が生徒の理解を目標に置かないわけがない。だが、ここで重要なことが抜け落ちている。「どこまでの理解」をゴールにするのかだ。これは、明確なようでいて、実はそれほど明確ではない。

 

たとえば、私たちは足し算を正確に理解しているだろうか? 「足し算わかります?」みたいなことを言われたら、ほとんどの人が「失礼な!」と思うだろう。実際、足し算の計算ができない人はめったにいない。そりゃあ得意な人も苦手な人もいるし、ちょっとこみいった数字になれば計算間違いだって普通にする。けれど、苦手だとかミスが多いってことで「わかっていない」ということにはならない。ほぼすべてのおとなは、足し算をわかっている。ただし、その理解のしかたは、実は人によって異なっている

それがいいとかわるいとかいうことではない。ある抽象的な概念に対する理解は個人ごとに異なるのが普通だし、なんならひとりの人間の中でも成長によって変化していくのが普通だ。たとえば、私は当然ながら義務教育を終えた時点で(あるいはそのはるか以前に)「足し算」を理解したつもりでいた。にもかかわらず、いま、生徒に教えている足し算の概念のかなりの部分は二十代に学習参考書編集の仕事を始めてから改めて身につけたものだし、さらにかなりの部分は最近になって家庭教師として子どもたちに算数を教えるなかで身につけたものだ。つまり、現在の私の足し算の理解を基準にして考えると、義務教育終了時点では私は半分も足し算について理解していなかった。そして、理解が変化したことを踏まえてこの先の変化を外挿すると、実は現在でもまだまだ足し算は完全に理解していないのではないかとさえおもえてくる。もちろん、自分以上に頭のいい人々、たとえば数学を専門に研究している人々を基準にしたら、私は足し算の概念のごく初歩の部分しか理解していないのだろうと想像できる。

しかし、だれも初等教育で数学者並みの足し算の理解をゴールに置いたりはしない。「どこまでの理解」をゴールにするのかが重要なのは、そういうことだ。どの程度わかれば、初等教育の理解として、あるいは中等教育の理解として妥当なのだろうか。そしてもちろんそれは、学習指導要領にかなりの程度記載されている。明記されていなくとも、しっかりと読み込めばおよそわかる程度には書いてある。それでも私が「それほど明確ではない」と思うのは、その学習指導要領の想定する理解の程度が、どの程度の達成度を想定しているのか、それが学問というものの本質上、明確になり得ないからだ。どういうことか?

たとえば中学校1年生の理科では、力学の基礎として「力」の概念を「力が働いたときには運動の様子が変化する、物体が変形する、物体が支えられる」として理解することになっている。これは古典力学の力の定義である「物体に加速度を生じさせるもの」に「フックの法則」と「力の釣り合い」の概念を統合したものだが、そういうことは中学1年生ではわからない。わからないから、この段階の理解は「力ってそういう感じ」という漠然としたものにとどまらざるを得ない。 漠然としたものである以上、生徒にはこの3つに限定されるという納得感は生じないはずだ。「そういう場合もあるけれど、他の場合もあるんじゃない?」程度に考えるのが思考力のある生徒であるはずで、教師はそれに対して、現行の指導計画の中では反論する余地がない(反論しようとすれば高校物理の範囲まで指導を拡張しなければならなくなる)。である以上、学習指導要領はこの学年の生徒に対しては正確な理解など求めていないのだと判断するのが妥当だということになる。

それは、中学3年生で再び力学が取り上げられるときになってより明らかになる。こちらでは、「力が働かないときは等速直線運動をする」と、反語的に「力が働けば運動の様子(速度)が変化する」を学習する。つまり、言葉を変えれば中1では力と速度変化の関係について大雑把な理解しか求めていないのだということがわかる。より正確な理解はここまで持ち越されている。しかしさらにいえば、ここでは加速度の概念は学ばないことになっているので、ニュートン力学としては極めて大雑把であり、さらに精緻化するのは高校の物理基礎ということになる(ここでは数学との関係で微分を使わずに処理するのが前提なので、やはり大雑把であることは否めない)。つまり、理解度は少しずつ高めていくことになっているのだが、その境界部分はかなりあいまいであり、また、大雑把である以上、「このように理解しておかねばならない」という厳密なモデルを設定できないようになっている。

だから、中学1年の段階で「自動車が一定速度で走るにはエンジンの力が必要だから力には一定速度に保つ働きがある」みたいな解釈をしていてもそれを「誤っている」と力の釣り合いの概念を持ち出して否定することはできないし(まあ摩擦力とか持ち出して誤魔化して説明はするんだけど)、物体の剛性に関する知識もないから「力が働けば物体が変形する」というフックの法則をばね以外の物体に拡張することも困難だ。このように、中学1年の力の理解は穴だらけであり、中学3年も同様に穴だらけだ。

ところが、理解度を測定するという名目で行われるテストでは、模範解答は厳密に決められている。「力が働いていることはどのようなことからわかるか」という問題で「バットで打たれたボール」の項目では「運動の様子が変化した」を答えねばマルはつかない。実際にはボールは変形しているし、近年の映像技術を使えばその変形の様子を観察することも容易だというのに「物体が変形した」を答えるとペケになる。物体を机の上に置いたときには物体は変形するのに(たとえば豆腐をまな板の上に置いた場合にこれは容易に観察できる)、そういう場合には「物体が支えられる」だけが正解になる。屁理屈を言い出したらいくらでも穴がつけるのが小学校・中学校(ときには高校)のテスト問題だ。もしもそういう穴を塞ごうとしたらたちまちより高次の概念を持ち出さねばならなくなり、学習すべき範囲を越えてしまう。

つまり、学習指導要領が「このあたりまで」と定めても、それを厳密に適用することは論理の組み立て上できないし、またすべきでもないということだ。大雑把な理解は個人によって異なっていることを許容するものでなければならない。だからその達成度を筆記テストのようなもので測定しようというのは原理的に無理だし、場合によっては弊害が大きい。

 

そして、ある段階での理解が完璧である必要もないのだ。理解は発達段階とともに徐々に変化する。変化することを見越して、学校では同じテーマを繰り返し、視点を少しずつ変えながら学習することになっている。何らかの完成があるのなら、そういったカリキュラム編成はおかしなものだ。そうやって少しずつ理解を深めながら、人は成長していく。その成長に終わりはない。少なくとも、どこかで区切ることのできる終わりはない。

だから、人はどこまでいっても未完成だ。完成した姿をおとなだというのなら、人はいつまでたってもおとなにはなれない。ディランが答えを風の中に投げかけてしまわねばならなかったように、どこまで旅をすれば人は一人前と呼ばれるのかわからない。それが人生というものだ。

ところが、現代の社会制度はそういった哲学的な解釈を許容しない。一人前とみなされるため、つまりは大学進学であるとか資格の取得であるとかのためには、テストで一定以上の点数をとらねばならない。そして、テストで点数をとるためには、「どこまで深く理解したか」ではなく、「どれだけ覚えたか」「どれだけ定められた手順を実行できるか」「どれだけ苦痛に耐えられるか」といったようなおよそ本質的ではないスキルが必要とされる。

そんなことは本当は誰も求めていないのだ。少なくとも社会的な合意のもとに作成されたと(ある程度までは)いえる学習指導要領はそんなことは求めていない。子どもたちの幸せを願って学習塾に子どもたちを送り出し、受験へと駆り立てる親たちも、そんなことは願っていない。ただ、なぜだか「それが必要だ」と錯覚している。それが錯覚だと指摘すると、現実を見ない夢物語だ、理想論だというふうに拒否される。なぜなら、自分たちもそういう錯覚のもとで育てられ、そういう錯覚を内面化して育ってきた世代だからだ。だから、自分たちの正直な感覚を、「現実はそうではない」と必死に打ち消して、そして子どもたちに誰も望まないプレッシャーを与えていく。

 

家庭教師をやっていると、それが見えてくる。子どもたちを幸せにしたいのならその成長に沿った理解を与えていくべきだし、その理解の程度には「これでよし」という満点もなければ「それではダメだ」という合格ラインもない。ひとりひとりは限りのない成長の途中であり、そしてその途中のどこかでおとなとしての行動を求められ、不安に苦しみながらなんとかそれをやりすごし、そして次代に希望を残して死んでいく。人間とはそういう存在だ。

よく考えたら、ディランの歌でさえ、「a man」は「before you call him a man」すなわち「男と呼ばれる前」に既に「男」と呼ばれている。人間は、一人前になる前に既に一人前だ。つまり、生まれ落ちたその瞬間からひとは一人の人間であり、半分の人間とか四分の一の人間とかではない。そして人間を人間足らしめているのはその不断の成長であって、成長の結果ではない。

 

というようなことを、いつまでたっても成長しないカネのないオッサンが力んでみても、説得力、皆無なんだよなあ。こういうの(↓)を読んでかなしくなって書いたけれど、あんまり関係もなさそうだし。

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