貧困か、貧乏か?

人の噂もなんとやら

下火にはなったが、いっとき、「NHKの貧困報道問題」みたいなのがあっちこっちで賑やかだった。ほぼ終息したようなので、あえて元ネタみたいなのをさがすよりも自分自身の感覚としてざっとまとめると、

  • NHKが、貧困に関するローカルなフォーラムだかなんだかを取材した。
  • そこに貧困当事者の高校生が登場した。
  • 彼女が貧困の事例としてあげた生活の内容が「貧困じゃないだろ」とネット上でツッコミを受けた。
  • それに対して「貧困というものをわかってない連中がぁ」という逆批判が起こった。

というような流れではなかったかと思う。

で、私としては貧困というものを「貧困線以下の収入で生活すること」と定義する限りはどんなライフスタイルであろうと貧困は貧困なので非難はお門違い、と当初から思っていたわけではあるのだけれど、かといってなにか違和感を感じなかったかといえばウソになる。そして、あるとき気がついた。これは、言葉の問題なのだと。

よくよく考えてみたら、「貧困」という言葉には、「貧しい」という文字と「困っている」という文字が入っている。「貧しい」は、物質的に不足が生じている状態だ。「困っている」は、問題が発生して解決できていない状態だ。つまり、「貧しくて困っている」のは、物質的(金銭的)に不足が生じていてそれが問題を発生させており、その問題が解決できていない状態、とでも解釈できる。

ところが、「貧困」とイコールで結ぶべき学術上の用語はpovertyである。そしてこのpovertyは、Websterによれば

Full Definition of poverty

  1. a : the state of one who lacks a usual or socially acceptable amount of money or material possessions
    b : renunciation as a member of a religious order of the right as an individual to own property
  2. scarcity, dearth
  3. a : debility due to malnutrition
    b : lack of fertility

となっており、実は「通常もしくは社会的に受容できる量の金銭もしくは物質的所有物を欠いた人の状態」である。つまり、「貧」の意味はあっても、ここに「困」の意味はない。ここが決定的に重要なところ。

なぜなら、今回の騒動のほとんどの部分が、「ぜんぜん困ってないじゃないか!」という個人攻撃をめぐるものだったからだ。もちろん、この個人攻撃そのものに問題があったことは言うまでもないことなのだが、しかしそれでも、もしも最初の前提がpovetyであって「貧困」でなかったのだとしたら、話が全く異なっていたことは十分に想定できる。物質的金銭的に一定水準を下回っているかどうかは客観的な事実であり、議論の余地はない。「困っている」かどうかは主観的な感覚であり、個人によって基準も大きな幅をもつ。したがって、議論はいつでも発生するし、その主張は時に感情的になるし、水掛け論になって解決は生まれない。不毛だ。

なぜ「貧困」が使われるようになったのか?

「貧困」に相当する言葉で、「困」のニュアンスを含まないものはないのだろうか。ある。「貧乏」だ。「貧」は「量が少ないこと」であり、「乏」もほぼ同じ意味だ。2つを合わせればほぼpovertyに相当する。考えてみれば、povertyの翻訳語として学術上で使用するのなら、「貧困」よりも「貧乏」のほうがよっぽど優れている。

実際、初期の貧困研究では「貧乏」の言葉が使われた。日本の貧困研究の草分けである河上肇貧乏物語」は、タイトルからして「貧乏」だし、重要な概念である「貧困線」は「貧乏線」として表記されている。「貧乏」の文字は268回も登場するのに、「貧困」の文字はたったの5回である(青空文庫ページのページ内検索による)。彼が現代の「貧困」の概念で「貧乏」を使っていたのはほぼ確実だ。このように、実際に過去にはpovertyの訳語として「貧乏」が使われていた時代があったのである。

貧困も貧乏も、中国の古典に出てくる古い熟語である。中国ではさらに「貧窮」の熟語もよく使われており、これは日本でも万葉集所収の「貧窮問答歌」などに用例を見出すことができる。漢籍リポジトリを検索すれば貧窮6650件、貧乏3109件、貧困1470件と、中国古典におけるおよその使用傾向を推定することができる。

これらのうち、「貧乏」は、日本では少なくとも江戸時代には庶民の間でも使用されていたようである。 山東京伝の「鬼殺心角樽」には、平仮名で「びんぼう」の文字が見える。漢字ではなくひらがな表記であるのは、そのほうが読者によく通用するからであろうし、だとしたら、かなり日常語に近いところで「貧乏」が用いられていたのではないか。

ということで推測、憶測となるのだが、「貧乏」という単語がpovertyの訳語として定義上はぴったりであるのに、やがてそれが置き換えられることになったのは、「貧乏」が日常語としての地位を占めていたからではないだろうか。日常語は常に劣化する。特に、否定的な感情を呼び覚ます言葉は劣化の危険にさらされやすい。「厠」という言葉が「手水」のような婉曲語を生んだり「便所」のような別の呼称を必要とし、さらにはこれも忌避されて「トイレ」や「WC」などの表記をされるようになったことなどが、そのわかりやすい事例だ。「便所」という言葉には何ら不衛生な示唆もないのに、それが日常語として数十年使われると、そこに排泄にまつわる忌避感覚が生まれる。言い換えへのニーズが生まれる。洋の東西を問わず、この場所に対する別名は数知れない。

Googleの学術文献検索をかけてみると、 「貧困」の語が使用されるようになってきた傾向が推測できる。もちろん、この検索はWeb上に公開されたか引用された文献のみを対象としているわけで、したがって古い時代の文献は実際の文献の数量に比べて著しく少なくなっている。また、文献そのものの量も、近年の論文実績主義のなかで後代のものほど多くなっている傾向があるのは否めない。そういった制限を割り引いてみても、戦前には貧困研究においてさえ「貧困」の用語よりも「貧乏」の用語がもっぱら用いられていることがわかる。文献に「貧困」の語が目立つようになるのが1960年代以降で、たとえば「兵庫県における低消費水準世帯推計─昭和38年4月15日現在─」という文献は1964年のものであるが、「貧困」という語が10回登場する。そして、これは社会保障制度審議会で用いられた用語であることが推測できるような記述もある。すなわち、「貧困」の語は、日常語として余分なニュアンスがまとわりつかざるを得ない「貧乏」という語を忌避した政府系機関によって使われるようになったのではないかと憶測できる。

「貧困」に代わる新たな用語を

そう、これは憶測である。この憶測が正しいか、それとももっとよい説明があるのかは、貧困を扱う学者が証明する必要があるだろう。なぜなら、用語を正しく定義し、誤解のないように保つのは学者の基本的なマナーだ。「貧困」に対して定義上不要な「困」の字が混入していることで社会的に大きな誤解と、それにもとづいた見逃せない問題が発生しているのなら、まずそこを訂正することが学者のできる最も単純で手間のかからない対応だ。

最もよいのは、「貧困」という言葉を、より誤解の少ない別の用語に置き換えることだこの際、学者のよくやる逃げ手として英語をカタカナ表記して「日本語にはない概念だから」とか言い訳するのがあるが、貧困の場合にはそうはいかない。なにしろ、日本人にもpovertyに相当する概念はある。いまさらポバティなんてよそ行きの言葉は使えない。

そして、「貧乏」に戻すのも、おそらく不可能。1960年代に使用が増加した「貧困」は、当初は「貧乏」と併用する形で使用された。たとえば「"貧困"についての断章的考察 : 「開発」との関連における試論として」という1974年の文献には、「貧困」と「貧乏」の両方の用語が出てくる。ところが、ここでは「「貧困」の相対的な概念と しての「貧乏」が現われてくる」と、「貧困」と「貧乏」を別概念として扱っている。実際、私自身、数年前に書いたエッセイで、「私は貧乏であるが、貧困ではない」と、両者を別概念として扱う文を書いている。よく考えれば不明を恥じるべきではあるのだろうが、もともとの漢語としては別のものであって、これをpovertyの翻訳語として扱うべしという学者の間のお約束がおかしいのである。つまり、povertyの訳語としては、「貧困」が不適切なのと同じくらいに、既に多くの付帯的な意味を身にまとってしまった「貧乏」も不適切だ。

もちろん、「貧窮」だって、「困」が似たような意味の「窮」に置き換わっただけなので、ダメ。本当のところ「貧」の一字だけでもいいのだが、それでは学者は論文が書けない。まったく困ったものだ。

「貧」は「困」を生み出すのだから

だからといって、「貧困」という言葉を言葉狩りすべきだというつもりはない。やはり、貧困というもの、つまりは物質的な欠乏による不幸がこの世に存在するからこそ、povertyが問題になるのである。とりあえず定義としては客観的事実にもとづいて測定可能な「貧」のほうだけにしか着目できないが、そこを定める本当の目的は、それによって発生する社会問題、すなわち「困」を解決することである。そういう意味では、「貧困」という言葉はこれからなお重要だ。ただ、それが招く誤解をどうにかしてほしいと思うだけだ。

「貧」が「困」の原因になるといっても、そこに直接的な因果関係があるとは限らない。貧しくとも困っていない人のほうが、おそらく世の中には多い。貧しくなくても困っている人はいくらでもいる。しかし、貧しい人々に困っている人々の比率が特に多いのであれば、そこを研究し、その問題を解決するために知恵を絞るのは当然だ。それが「貧困問題」を捉えるときの正しい立場だろう。

たとえば、私だったら、金がなくてパソコンが買えないのなら、数千円のOSなしのジャンクPCを買ってきて、オープンソースUbuntuを突っ込む。それでたぶん、十分だ。ただ、そういった個別の事情、個別の解決策で語ってはならないのが、社会というものだ。

だから社会はおもしろい。