学校はその権力性をもう少し意識したほうがいいという話 - 権力分立が民主主義の基本なのに

睡眠時間は成長期の子どもにもっとも重要だというのに

九州(あるいは福岡県)の高校には、「0限目」あるいは「朝課外」というものがあるらしい。たまにネット上の記事で目にすることもあったし、このブログのコメントでもそういう話が出ていたことがある。

学校の始業時間を遅らせることは、少なくとも子どもたちにとっては益が大きい、らしい - シアワセの容相

福岡の高校には朝課外という奇習がある。やめて欲しい。

2019/01/27 19:05

b.hatena.ne.jp

こういうのを見て「勉強ばっかりさせられる高校なんてイヤだなあ」とは思っていたのだけど、いまひとつピンとこなかった。「まあそういう学校もあるんだろう」ぐらいにしか思っていなかった。ところが、日曜日の朝、何気なくはてなの匿名日記(通称:増田)を見ていたら、九州の高校生が悲痛な叫びを上げていた。日常の生活サイクルが書いてあり、「ショートスリーパーでもないのに3時間ぐらいしか睡眠時間が確保できない。5時間以上の睡眠を推奨するとか信じられない」みたいなことが書いてあった。ちなみに上記のカギカッコ内の文面は非常に不正確だ。というのは、おそらく身バレを防ぐため(なにせ通学に要する時間とか事細かに書いてあったので、見る人が見たらそりゃバレるだろう)1時間とたたないうちに削除されていたからだ。で、「5時間以上の睡眠を推奨」というのは、そこに貼ってあったこのTweetのことだろう。これはこれでけっこう悲惨。

 生徒だけでなく、保護者の睡眠時間まで削られていることがわかる。そんな学校なんてやめればいいじゃない、高校は義務教育じゃないんだし、みたいに思っても、どうやら福岡県ではこれが標準で、どこの高校へ逃げようと同じことがついてまわるのが実情らしい。なんとWikipediaにまで記事があった。

ja.wikipedia.org

Wikipediaの基準からいえば「独自研究」に偏っているようでもあるが、福岡県外の者にとってはわかりやすい記述になっている。そして、振り返ってみれば、たしかに近畿圏でも一部の学校(特に私学)では類似のことが行われていたりもする。 たとえば私の教えていたある私立高校の生徒は、ほぼ連日の「居残り」で帰宅が夜の9時ぐらいになるのがザラだった。おまけに夏休みは補習と称して実際には正規の授業を進めるので、休んだら授業が抜けてしまうため休めない。とにかく忙しい高校だった。

学校側の考えはわからなくはない。予備校とか家庭教師とか、そんなものに頼らなくても学校だけで十分な大学進学準備をしてやろうというわけだ。ある意味、生徒のためを思った献身的なサービスであるといえるかもしれない。なにしろ、生徒が休めないということは教師だって休めないわけだ。それを追加料金なしでやってくれるのだから、生徒や保護者としては感謝こそすれ批判するのはおかしい、ということでもあるのかもしれない。しかし、家庭教師として傍からこういう学校のやり方を見ていると、いくつかの点で非常に問題があるのに気づかざるを得ない。商売敵的な立場からいえば、「おまえらの下手くそな受験対策では志望校に通らないじゃないか」みたいなことでもあるのだけれど、それは言わないことにしよう。もっと根本的なところで、大きな問題がある。

宿題はサービス残業か?

最も明らかな問題点は、教師が生徒の生活時間を勝手に侵食することだ。上記のTweetでも書かれているとおり、学校の授業時間を延長することで睡眠時間を削らざるを得ない生徒が出現することになる。もちろん教師は言うだろう。通常の6時間授業など甘い。社会人は8時間労働が基本だ。それに見合っただけの授業を受けて睡眠不足になるようなら、実社会に出ても生活していけないだろう、ぐらいの屁理屈はこねるだろう。だが、ここで教師が見落としているのは、労働者とちがって生徒の一日は学校の授業だけでできているのではないという事実だ。高校生をはじめとして一般に子どもたちには、成長のために学校外でさまざまなことを学ぶ必要がある。読書や映像作品の鑑賞、趣味に没頭することも、社会人にそれらが必要である以上の意味をもつ。だが、そんな正論は多くの教師にとって世迷い言にしか聞こえるまい。だからそこは黙ることにしてもいい。黙って見過ごせないのは宿題だ。

実のところ、家庭教師という仕事は、宿題を出す立場でもある。なぜなら、家庭教師は週に1回かせいぜい2回しか生徒宅を訪問しない。わずかな指導時間で十分な効果をあげるのは困難だから、指導後に宿題を出しておいて、訪問がない日にも着実に力をつけるようにするべきだ、というのがその論拠となっている。

ところが現実に、私はほとんど宿題を出さない家庭教師である。なぜ出さないか、理由はいろいろあるのだけれど、最大の理由は生徒に宿題をやる時間などないことだ。どういうことか。

私は、指導前に必ず生徒の1日の生活サイクルをインタビューする。どれだけ「勉強」に時間を割けるかを知らなければ指導計画は立てられない。そして愕然とする。多くの生徒には、ほとんど余分な時間などない。そりゃ、塾や予備校の教師が言うように、隙間の時間を有効に活用したり、「ダラダラしている」時間を切り詰めれば、いくらかの「勉強時間」は確保できるだろう。だが、自分自身を振り返ってみてほしい。そんなふうにコマネズミのように回転数をあげて効率的に生活することが何ヶ月も続けられるだろうか。なかにはそういう人もいるのは知っている。けれど、多数派にとっては、それは地獄だ。どこかでスローダウンし、どこかで緩む時間をつくらないと、人間はもたない。「1日は24時間! 7時間睡眠し、学校に行っている8時間を引いても9時間残る。食事や風呂に1時間使っても、まだ8時間も勉強する時間があるじゃないか!」みたいな言説が現実には完全に無効であることは、冷静に考えることのできる人なら自明のことだろう。

そういう常識的な判断のもとに生徒の生活時間を調べてみると、家庭教師が宿題を出す以前にほぼ目いっぱいにスケジュールが埋まっていることがわかる。小学生や中学生の場合には、それでもテレビやネットの時間を削ることでいくらかの時間を確保できる場合もあるのだけれど、高校生の場合はほぼ無理だ。それはほとんどの高校生には既に学校から容赦のない宿題が課されているからだ。

一般に、宿題を出す側は気楽なものだ。仮にそれが2時間、3時間と時間を消費するのがわかっている宿題であっても、「次の授業まで2日あるから余裕をもってできるだろう。そのぐらいはやってもらわないと困る」ぐらいの感覚で宿題を出す。問題なのは、そんな感覚で出される宿題が1教科だけではないということだ。たとえば英語2科目、数学2科目、国語2科目、理科2科目、社会2科目の授業を受けていたら、10科目の授業から課題が出る。それぞれひとつひとつは1日に平均すれば1時間以下のものかもしれないが、全部マジメにつきあったら(仮にすべての科目が30分で片付くものとしても)、毎日5時間を宿題消化に充てねばならない。仮に帰宅時刻が夕方の5時として、食事や入浴に1時間充てるとすれば、全力で宿題をやっても夜11時まで一切の休憩もとれないことがわかる。ましてクラブやバイト(進学校の場合バイトはないかもしれないが)に数時間を取られたら、たとえSNSなんかに一切手を出さなくても、それだけで「睡眠時間が5時間」を下回ってしまうのは何の不思議でもない。

そんなところに朝課外だの補習だので拘束時間を増やせば、もう壊滅的だろう。「社会人は8時間働いているんだから生徒だって8時間ぐらいは学校で勉強すべきだ」といいながら宿題を平気で出す教師は、サービス残業は就業時間に含まれないと本気で思っているブラック企業幹部となんら変わりはない。

すべての生徒がそれを必要とするわけではないのに

より重要なことは、生徒のニーズは多様である、ということだ。受験勉強を生徒ともに闘う(そう、これはほぼ無益なスポーツのような闘いだ)仕事を数年も続けていたらだれでも気づくことだけれど、あらゆる生徒に共通する必勝法とか、どんな生徒にも当てはまる魔法の薬、銀の銃弾なんてこの世には存在しない。ここは詳しく書き出すと長いので端折るのだが、そもそも生徒は一人ひとり思考回路がちがうし、そこまでの蓄積もちがう。さらに、目標もちがえば、その目標を置いた意識も状況もちがう。そんなときに、一律の勉強法を強制することはほぼ無意味になる。

たとえば既に数学の成績は十分合格圏にあるのに、英語が苦手で危ない生徒に、数学の過去問をそれ以上反復させるのはおよそ効率的ではない。受験は点取りゲームだ。点がとれないところを集中して鍛えるのが(ああ、嫌な言葉だ)最も効率的な勝ち方だ。そういうときに、一律の問題演習に特化した朝課外とか補習だとかで時間を潰されるのはおよそ生徒の利益にはならない。たとえばほぼ推薦で合格ができそうだと読めている生徒にとって、点取りゲームに勤しまねばならない一般入試受験生と同じ訓練を受けねば成績が維持できないというのは、無意味を通り越して害悪だ。他にすべきことが山ほどあるのに、既に不要になった点取りゲーム対策を磨いてどうなるよ。受験技術的な瑣末なことだけとっても、まだまだ学校の授業時間を必要以上に延長することの弊害は大きい。

まして、高校生は受験のためだけに生きているのではない。多くの生徒がそうであることは高校によっては事実なのかもしれないが、別なことを求めて高校にやってくる生徒を排除することは現行の法制度の中ではあってはならない。指導要領で定められた時間数の出席で取得できる単位を、教師の裁量でもって勝手に所要時間を増やすのは、それを求めない生徒に著しい不利益を与えることになる。

価値観の押しつけはもっとも悪質な権力者の横暴

こういうことを指摘すると、現実を見ないだの屁理屈だのと現場の教師は思うことだろう。自分たちのやっていることは成果をあげていると主張するだろう(たとえば上記Wikipediaの記事によれば「福岡県では塾・予備校にかける費用が全国平均より少ない」。これはたしかに家庭の教育費を下げ、公平性の面からは評価すべきことに見えるだろう)。けれど、彼らが気づかないのは、学校の権力性なのだ。学校の権力を背負って立つ教師が、中立性を欠いてしまうことの危険性なのだ。

教師は、その権力によって、生徒にさまざまなことを押し付ける。たとえば建前上は強制ではない朝課外や補習であっても、その時間内に講義を組み込んでしまえば、そこに出席しない生徒には「教えてもらえないこと」が発生するために、著しい不利益が生じる。そういう不利益を与える権力を手中にしているからこそ、建前が強制ではなくても実質的に生徒に強制できるのが教師のもつ権力性だ。

私のような外部の者から見れば、朝課外や補習を強制することは、生徒に一定の価値観を押し付けることにほかならない。つまり、教師はその権力によって恣意的に価値観を生徒に押しつけている。その価値観は、たとえば「進学は善である」みたいなわかりやすいものから、「勉強の成果とは練習問題に正解することである」みたいな多くの人が既に内面化してしまっているために私が問題だと言っても「はあ?」と不思議がられるようなものまで、実に多岐にわたる。さらに、そういった実質的な授業時間の延長と宿題の合せ技によって生徒が睡眠時間を削らざるを得ないような状況に追い込まれても、「それこそが頑張りだ」と称揚するような価値観もそこに含まれる。無意味なこと(私から言わせれば受験勉強には入試に合格すること以上の価値は何もないし、入試に合格するためには点取りゲームに勝つ工夫以外のことはほぼ効果をあげないので、それらを一切無視した「頑張り」はほぼ無意味なこと)でも頑張れば認められ、成果はどうであってもそれだけでよしとされる価値観は、いったい未来の役に立つのだろうか。そういう価値観を生徒に押し付けているという自覚は、教師にあるのだろうか?

たとえば宿題だってそうだ。宿題をするもしないも、本来は生徒の自由だろう。だが、教師は宿題をしない生徒の成績を下げることで宿題をしない生徒に不利益を与えることができる。すなわち、生徒を従わせる権力をもっている。さらにわるいことに、単純に成績を下げるだけのことならそのトレードオフを判断して生徒が自主的に宿題をやらないという選択も可能になる。「ここで無理して宿題をして体を壊すよりは、少し成績が下がっても休んだほうがいいな」というような判断ができる可能性がある。ところが多くの教師は、宿題をしないことはサボりであり、倫理的に問題があり、将来社会人になったときに困るのだというようなおよそ根拠のない価値観で生徒に接する。そして、中立な立場から成績を下げておけばいいものを、指導と称して生徒につきまとい、生徒を非難し、人格を貶め、教室内で恥をかかせることまでする。自らのもつ権力によって特定の価値観を押し付けているという自覚はそこにまったく見られない。

権力の暴走を食い止めるシステム

決して好ましいことではないが、ある程度は学校のような組織が特定の権力をもつことはやむを得ないのかもしれない。学校に入学する生徒は、自らのもつ権利の一部を学校に差し出すことを条件に入学を認められるのだと考えてもいいかもしれない。社会集団には、それぞれの社会集団に特有の契約関係がある。学校は、学習指導を行い、生徒を成長させ、最終的に卒業単位を認める機能と引き換えに、ある程度の生徒の権利を制限する。それはあり得ることだろう。これは、国家に対して個人が自然権の一部を移譲するという考えかたと同じことだ。

しかし、権力は必ず誤る。たとえば、教育基本法以下の諸法令に定められたこと以外の価値観からは中立であるべき学校教育は、容易に特定の価値観によって運営されがちになる。私立学校であればそれはそれで校風として容認されるべきなのかもしれないが、公教育においてそれはまずいだろう。

一般に、権力は必ず誤る。これは民主主義の根本的な認識だといってもいい。だからこそ、民主主義は権力が誤ったときにそれを是正するシステムを内部に組み込んでいる。たとえばロックが主張した革命権であり、モンテスキューの提唱した権力分立であり、ルソーの主権在民(すなわち選挙による権力の交代)である(以上は教科書に書いてあることだからね、念のため)。これらを学校に敷衍してみると、革命権は、「学校をやめる」という選択が保証されている限りにおいては特に必要がないと考えていいだろう。人民は国家から逃げ出せないが、生徒は嫌ならやめればいい(ただ、現状の制度では、小学校・中学校に関しては逃げ出したら「不登校」扱いになってしまうので、この権利が十分に保証されているとはいい難い。まあ、それは別の話だ)。そして主権在民に関しては(もしもネオリベが主張するような資本主義的な仕組みが十分に機能しているのなら)、学校が誤れば消費者である生徒保護者がそっぽを向くはずなので、やはり現状でもどうにかなると考えられなくもない。しかし、日常的な運用で最も頼りになるはずの権力分立が、学校にはない。これは問題だ。

教師は、教室の中で独裁者として振る舞う。その暴走を止めるシステムを、基本的に学校はもっていない。たしかに、主任やら教頭やら校長やらという管理体系のもとで指導やら業務命令はできるのだろうが、密室的な教室内の教師の振る舞いに関してそういった管理システムが機能しているとは思えない。さらに、上記のような価値観の押しつけに関しては、そもそも学校が無意識に特定の価値観をもって運営されているわけで、いくら管理がうまくいってもそこから逃れることはできないだろう(ここで「特定の価値観」というのは法令に根拠のない価値観のことである。現行の教育法体系には一定の価値観が根本にあるのだが、それは法である以上、現場で問題にすべきことではないのだと思う)

価値観の押しつけで被害を被るのは、生徒だ。だから、学校が一定の価値観を押しつけてきたときに、「それはおかしい」と声を上げるのは生徒でなければならない。しかし、そういった生徒の声は、教師の権力性に対抗できない。「当然だ、教師は教える側で生徒は学ぶ側ではないか」と教師は思うのだろうが、じゃあ、それは権力分立の考え方からいえばどうなの、という疑問は抱かないものなのだろうか。民主主義的な権力分立の思想からいえば、当事者である生徒の考えは、指導者である教師の権力と拮抗するだけの権力性をもたなければならないはずだ。そして、そういったシステムは、学校という制度のなかには存在しない。

 

学校は変わらなければならないと思う。制度を一から見直して、本当に必要とされているものをひとつひとつ洗い出して、不要なものを削り、目的をもっともよく果たせるようにシステムをつくりなおさなければならないと思う。そのときに、学校が不可避的に帯びる権力性をどのようにして中和するのか、そこをしっかり考えておかなければならないと思う。なにしろ、民主主義的な価値観は教育基本法にさえ明記されていることであり、実際に社会科で教えられることなんだから。それを無視するなんて、矛盾もいいところだと思うよ。

教育基本法

第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。