EVオーナーへの道は遠い - タイムリミットは近づいているのに

太陽光発電の買取制度で定められた固定価格での買い取り期間が、我が家でもあと半年で終了する。制度の開始から10年、ウチは開始年度の申込みは逃したが、まだまだ高値で売れた2010年には間に合った。ちなみに、当初買取価格の42円とか、次の年度の38円とか、それが高い、不公平だというような話はよく聞くが、当時は太陽光発電システム一式の価格が現在とは比べ物にならないぐらい高価だった。比較のしかたによって大きく変わるが、10倍ほどもちがったといっても大げさに過ぎないぐらいには高かった。それでは誰も買わないから、普及策としての買取価格保証だった。実際、38円の買取価格で儲かったのかと言われたら、10年でようやくかつかつ設置額の元がとれたかとれないか程度でしかない。それはウチのライフスタイルやその変化が大きく影響したので、一般には元さえとれなかった家庭も少なくないだろう。太陽光発電で儲けたのは設置価格が急落した割に買取価格が高止まりした2013年以降の数年間に設置した人々であって、当初は制度の運用はうまくいっていたと私は評価している。このあたりのことは別エントリに(メガソーラーの報道を家庭用のものと誤解して書いたちょっと恥ずかしい記事として)詳しく書いている

で、たまたま運良く設置金額ぐらいは回収できそうではあるのだが、太陽光発電、実は10年を過ぎてからが本番である。というのは、太陽光パネル(光電池)そのものは耐用期間が10年やそこらではないことが次第に明らかになってきている。20年くらいは余裕で発電しそうだし、うまくすれば30年、40年、それ以上にわたって電圧を発生し続けるだろう。可動部のないシリコンでしかないわけだから、いくら紫外線に晒され続けるといっても、そうそう急激に劣化するものではない。ただし、システム全体で見れば、そんな楽観はできない。太陽光パネルにはプラスチック部分もあり、それは素子や表面を覆うガラス、枠のアルミ合金よりは劣化が早いだろう。だいたいからして、配電周りの耐用年数は、それほど長いわけはない。いくら直射日光の当たらないところに配線されているとはいえ、古い電線は決して安全とは言えない。それよりなにより、直流として発生する電流を系統連結のために交流に変換するために不可欠であるパワーコンディショナ(通称パワコン)の寿命が早ければ7年ぐらい、長くても15年はもたないとされている(ウチは幸いにも10年の固定価格買取期間に壊れることはなかったが)。これが安くない。いまの相場は知らないのだが、たぶん取り替えるには工事費を入れて20万〜30万円ぐらいはする。修理も不可能ではないのだが、コンデンサの取替えになるらしく、基盤ごとごっそり替えることになるし、長期使用する関係で部品の在庫があるかどうかもわからないから、かえって高く付くことが十分に予想される。

そうなると、10年をとりあえず1区切りとして、そこから先、どうするのかという決断を再び求められることになる。やめてしまうというのもひとつの考えかただ。だが、その場合、発電しないパネルが屋根の上に乗っているのはあまり感心したことではない。取り外すとなると工事費で数十万円かかるだろう(現在では足場を組まねばならないと基準が上がっているので、もっとかかる可能性もある)。取り外したパネルには中古品としての価値はあるが、まだまだ中古市場が成熟していない現状では二束三文だろう。結局、経済的なことだけ考えたら、ここでやめるのはもったいない(経済的なこと以外でもやめる理由はあんまりない。たとえば「地球環境のために!」みたいな意気込みで導入した人は、途中でやめる理由はない)。

 

ということで、どう続けるかということなのだけれど、これまた、続けることでちょうど「儲かりはしないが元がとれる」状態にはなる。どういうことかというと、このあいだ関西電力からお知らせが来て、固定買取価格以降はkWあたり8円で買い取るという。現在のウチの売電状況から類推すると、これは年間でおそらく2万円程度の売上になる。一方、自家消費による電気料金節約分というのがあって、これが家庭によってちがうのだが(さらに季節によってもちがうのだが)、現状だとおそらく年間3〜4万円ぐらいになる。合計すると5〜6万円で、遠からずやってくるパワコンの交換などのメンテナンス費用が今後の10年間の積立でちょうど賄えることになる。よくできているといえばよくできている。

 

さて、このkWあたり8円という金額、実は予想していたよりもかなり高い。それにしたところで、二束三文感は否めない。それに比較すれば電気料金節約分のほうがずっと大きいのだが、それはkWあたりの電気料金が、買う側になればずっと高額になるからだ。ならば、自家消費分を全部自家発電分で賄えばもっと節約分は大きくなる(つまり儲かる)のではないかという発想が生まれる。発電量と消費量がどちらも大きい家庭ではこれは実に真実で、したがって、家庭で蓄電システムを備えることが経済的にもインセンティブとして高まる(蓄電システムには、その他にも災害対応などのメリットがあるので、実際のところオススメではある)。ただし、ウチの電気料金の請求書は実につつましいものだ。全部を自家発電分でゼロにしたところで、たいして儲からない。そして、蓄電システムは安くない。ウチのような小規模なシステムでは、とても蓄電システムを入れて割が合うようなことはない。

ただし、もしも電気だけではない全エネルギー消費までを含めて考えれば、自家消費を増やすことでメリットが生じる可能性がある。ということで業者は「オール電化」を売り込んだりするのだけれど、実際のところウチではガス料金も安いので、全然メリットがない。ただし、移動のためのエネルギー消費、つまり自家用車のガソリン代まで含めれば話は大きく異なる。ガソリン代はここ数年、ライフスタイルの変化とともに増えて、年間で20万円にもなる。これを半減できれば、それだけで8円で売るよりもずっと経済的なメリットは大きい。そしてちょうど、自家用で10年以上乗った軽自動車が買い替えどきだ。これは電気自動車(EV)を導入しない手はない。

 

ということで、3年ほど前からEVを探してきた。軽でEVとなると、選択肢は三菱のi-MiEVしかない(現在は軽から外れたのかもしれない)。それの商用車タイプのワゴンを購入しようと、業者を前にあと3秒で契約完了、という状況になったのが2年前だ。その瞬間、業者が「200ボルトの工事の方は説明しましたよね」と確認したところですべては止まった。

現在の状況は知らないのだけれど、その段階で、iMiEVは100ボルトの充電が可能だった。ということは、昼間、太陽の出ている時間帯に家庭用コンセントから充電すれば、EVはほぼ全て太陽光発電の電気で走ることになる。私が車を使うのはたいてい夕方以降なので、その運用でうまくいく計算だった。ところが、充電は基本的に専用コンセントからでないといけないと、このときになって初めて業者が説明してきた。専用コンセントは基本は200ボルトだが、100ボルトにすることもできなくはない。だが、その場合でも電力契約をした充電専用のものにする必要があるという。これでは私の目論見は完全に狂う。私は机の上に出した印鑑証明とハンコを引っ込めるしかなかった。

言い分はわかる。まず、電気料金を考えたら通常の家庭用の契約ではなく、電力契約にすべきだ。さらに、電圧が高いほど充電は短時間でできるので、電圧は高いほうがいいに決まっている。そして、安全性を考えたら大電流が流れる回路は家庭用のものと別にしたほうがいい。一般的にはいちいちもっともなのだけれど、太陽光発電の電気を有効に使いたいという私の希望とは相容れない。

こっちには、kWあたり8円という超格安の電気がある。金銭的に新たに電力契約にするメリットはない。さらに、1日の走行距離はたかが知れていて、おまけに充電には十分の時間がかけられる。低電圧でゆっくり充電することに何の問題もない。ゆっくり充電するなら大電流による危険性もなかろう。だから、100ボルトでそのまま使いたいのに、それでは売れないと業者はいう。EV計画は頓挫した。

その後、父親の入院などもあって結局この計画は放置されたままなのだが、そうこうするうちに、以前から注目していた「超小型モビリティ」がいよいよ販売になるのではないかという噂が聞こえてきた。そういう型式になるかどうかはわからないが、来年にはトヨタがそれっぽいのを出す。当然、他のメーカーも追随するだろう。いまも類似のものは中華製で手に入るが、それらは概ね100ボルト充電だ。さあ、どう出るか、注目している。

なぜ秋の高山に登ることが危険なのか - 後悔をこめて

以下に書くのは、いまとなっては素人同然の都会の人間が自分の感覚で書くことであり、統計などの根拠が何らない単なる「個人的な意見」である。けれど、かつてを思えば登山者が減り、そして樹林限界を超えるような高山に関して知る人が減少しているように見えるなかで、若い頃の自分の経験も多少は書き残しておいたほうがいいのかなという気もする。ま、もしもこれから山登りをしようという人がいるならもっとエキスパートの意見を聞いたほうがいいだろうが。

 

私はかつて、大学山岳部が「アルピニズム」を標榜した時代の最後ぐらいに山岳部に所属して、1年の3分の1を山に登って過ごした者だ。大学を中退してもなぜか山岳部だけは卒業認定をしてくれて、OBとして10年余り、若手に迷惑がられながら山行に参加した。その私が、いちばん避けたいなと思っていたのが秋の高山だ。

秋山というと紅葉やススキの穂といったイメージがあるかもしれないが、それは都市近郊の低山でのことだ。標高2000メートルを超えるような高山では、年によってけっこうちがうのだが、10月にはもう積雪がある。そして、そういう時期の山に登るのはかなり骨が折れる。何度かそれを体験してからは、何かと口実をつくってその時期にはそういった山に登らないようになった。たとえば、「沢登りには最後のシーズンだから」とかなんとかいって、雪のない南の低山の渓谷に行く。そうこうするうちに秋が深まり、やがて年末年始の休みの時期が近づいてようやく冬山の準備をする、というのがパターンだった。ちなみに、本当は年末年始の時期でさえ、雪山は安定しない。できれば2月ぐらいまでは近づきたくないのが高山だった。

 

積雪期に入ったばかりの山が危険で厄介なのには、いくつかの理由がある。それは大別すると、山そのものの問題と、それを登る人間の問題になるだろう。まずは、山そのものが危険だということだ。

どういうことかというと、この時期の雪は安定しない。本格的な冬がくると特に日本海側では人里まで満遍なく(あるいは人里のほうが多い里雪型さえあって)降雪がある。ところが秋には標高の高いところから雪が積もる。紅葉ののんびりした風景から新雪の厄介なブッシュから思わぬラッセルを経て山頂付近ではすっかり厳冬期と変わらない氷雪をこなさねばならない、というような場合だってある。技術的な難易度もかなり高い。厳冬期から春山にかけては堅く締まって直登できるような雪面も、場合によっては迂回しなければならない。

雪崩の危険性も既にあるが、これに関してはあえて触れるまい。雪崩はあまりに多様な因子が絡んでくるので、一概にいつが危ないとも言えない。雪さえあればいつだって崩れる可能性はあるのだぐらいに思ってかかったほうがまちがいはない。もちろん、そのなかで安全側を選択しながら行動するのが雪山で、雪を味方につければ大勝利ということでもあるのだけれど、それはほんとに一概には括れないので、ここでは触れない。

そして自然条件で無視できないのは、日照時間の問題だ。秋の日は釣瓶落とし、10月、11月と、12月の冬至に向けて日はどんどん短くなる。うっかり夏山のつもりで行動時間を計算すると、たちまち時間不足になる。特に天候によっては、「さっきまで暑いぐらいだったのに急に冷え込んできて足元が氷結してきた」ということにもなりかねない。これは、思わぬ滑落の可能性にもつながるだろう。

 

そして、なによりも秋山が厄介なのは、人間の体の特性なのだ。同じ気温でも、夏から冬にかけて気温が下がっていく時期と、冬から夏にかけて気温が上がっていく時期とでは、前者のほうがずっと寒く感じる。これは錯覚であるだけではなく、実際に身体が寒さに適応できていないのだ。だから、同じ装備をしていても、実際にはより寒い厳冬期よりも秋山のほうが寒く感じることがある。特に、実際の気温がそれほど下がっていないためにアプローチで雨が降って、そして濡れた身体で吹雪かれたりすれば、もうその寒さは尋常ではなくなる。実際、大学山岳部時代、10月末の山行でパーティー全員が風邪をひいて敗退した悔しい思い出もある。秋の気温の急変は、本当に身体にこたえる。

そして、その年の気候によっては樹林限界より上では完全に冬山の技術を要求される。ところが、氷雪の扱いにも身体はまだ慣れていない。万一の滑落時にはピッケルを打ち込んで滑落停止を行うのだけれど(だから雪山にストックで登るなんて信じられない)、まだ十分な雪上トレーニングが積めていない上に、新雪ではピッケルの停止動作も効きにくい。その分、深い吹き溜まりで勝手に止まることも期待できたりはするのだけれど、独立峰なんかだと頂上付近はこの時期でもピカピカに磨き上げられてたりするので、そうそう注文通りにはいかないだろう。

 

とにもかくにも、高山に登るときには季節をひとつ寒い側に落として考えたほうがいい。春も秋も冬の心構えで行くべきだし、夏なら秋冬に対応したぐらいの寒さ対策は必要だ。まして厳冬期には、極地に行くぐらいの大げさな準備をしておいたほうがいい。もちろん、当日の天気によってはそんな準備が不要なぐらいあっさりと登れたりするラッキーもあるのだけれど、人間、ラッキーだけをアテにして生きていくわけにはいかないからね。実際、平地では初夏の雪山で遭難しかかってる登山者を収容したことがあるが、完全に季節を勘違いしてた。彼は助かってラッキーだったのだと思う。

それにしても、この頃は山が怖くてしかたない。若い頃には、なぜ山岳部のOBがあれほど山を怖れるのかわからなかったものだ。奇妙なものだと苦笑するしかない。

菜っ葉の炊いたんについて

昭和のおかずの代表的なものは「菜っ葉の炊いたん」だと思うのだが、この呼び方、既に若い人には通じないのかもしれない。

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京都人だが炊いたんが通じない

京都に限らない。私は大阪の河内地方の出身だが、子どもの頃には「菜っ葉の炊いたん」は定期的に必ず食卓にのぼった。菜っ葉と厚揚げを炊き合わせたものである。ただ、この「炊き合わせる」という感覚が、どうも上方以外には通じないようだ。そして、だんだんと若い人にも通じにくくなっているのかもしれない。

料理の教科書的にいえば、これは「煮物」なのだろう。ただ、大阪で育った感覚では、「煮る」のと「炊く」のは別物だ。「煮る」のは、文字通り「煮沸」するイメージがある。したがって、火力は中火以上になる。水分が多ければグラグラと沸き立つ感じだし、水分が少なければ調理は比較的短時間で終わるだろう。たとえば「菜っ葉のおひたし」は、教科書的には「煮浸し」であって、大量のお湯のなかに菜っ葉をさっと入れるから、まさに「煮る」プロセスだ。魚の煮物は、落し蓋で数分、比較的強めの火力(中火くらいかな)で仕上げる。だから、こういうのは「炊く」とは言わない。

典型的に「炊く」のは、米飯だ。米を炊くのは、「はじめチョロチョロ、中パッパ、じゅうじゅう吹いたら火を引いて、赤子泣いても蓋とるな」と言われる。ただ、これは「おくどさん」で炊く方法で、薪に火をつけようと思ったらどうしたって「はじめチョロチョロ」にならざるを得ない。重要なのは「中パッパ」であり、さらに火を引いてから余熱で(おくどさんの熱容量は非常に大きいのでガスコンロなら弱火に相当する)時間をかけて仕上げることである。

つまり、「炊く」プロセスは、沸騰させるまでは中火〜強火で手早くやるのだけれど、そこからはゆっくりと長時間かけて調理することに力点がある。だから、「おまめさん」は煮るのではなく炊かなければならない。グラグラ煮立たせる必要はない(そんなことをしたらアメが吹きこぼれて、鍋底が焦げ付いてしまう)。コトコトと、2、3時間もかければふっくらと柔らかくなる。

同様に、菜っ葉も、さっと茹でればシャキシャキとするが、コトコトと炊けば柔らかくなる。とろっと柔らかく仕上げた「菜っ葉の炊いたん」は、年寄りのいる家では喜ばれ、そして、子どもたちにとっては最も冴えないおかずであった。それでも、若夫婦と子ども二人の核家族のはしりであった私の生家でも、必ず定期的に出てきたものである。いまでこそ都市化したが当時はまだ農村的な雰囲気も残していた地域だったことも関係しているかもしれない。だが、そんな「ムラ」に他所から嫁いできた私の母は非常にハイカラな人で、ことあるごとに伝統とぶつかり、上の世代からは非難を一身に浴び、そして下の世代からはロールモデルとして憧れの目で見られるというようなタイプの人だった。料理だって斬新なメニューを次々に取り入れていた人である。それでもなお、菜っ葉の炊いたんは捨てがたかったらしい。

 

この「菜っ葉」、アブラナ科の野菜なら基本的になんでもいいのだけれど、大阪では特に「しろ菜」が好まれた。ハクサイではない。しろ菜という。これはアブラナ科の野菜の中では四季を通じてつくりやすいということで、1960年代までは大阪近郊で広くつくられていた野菜である。1970年代に入って関東からやってきた小松菜に一時駆逐される。小松菜のほうが硬く、輸送性がいいので、大規模化した流通に好まれたことが大きいらしい。また、料理番組のほとんどが関東地方で制作されていた関係上、材料として「小松菜」が取り上げられるとそっちのほうが売れたとうこともあるようだ。しろ菜は急速に市場から姿を消したが、年寄りは「あんな硬いもん、嫌や」と小松菜に拒否反応を示したらしい。菜っ葉の炊いたんが廃れていったのには、そういったことも関係しているかもしれない。

そのしろ菜、十数年前ぐらいからぼつぼつとスーパーでも見かけるようになり、少なくともこの近所では割とふつうに手に入るようになった。私の生家では厚揚げだったのだけれど、妻の実家では薄揚げだったらしい。いい記憶がないのでそんなにしょっちゅうつくるわけではないが、たまにしろ菜を買ったときには苦笑いしながらつくることもある。いまだにたいしてうまいものとは思わないのだけれど。

学校はその権力性をもう少し意識したほうがいいという話 - 権力分立が民主主義の基本なのに

睡眠時間は成長期の子どもにもっとも重要だというのに

九州(あるいは福岡県)の高校には、「0限目」あるいは「朝課外」というものがあるらしい。たまにネット上の記事で目にすることもあったし、このブログのコメントでもそういう話が出ていたことがある。

学校の始業時間を遅らせることは、少なくとも子どもたちにとっては益が大きい、らしい - シアワセの容相

福岡の高校には朝課外という奇習がある。やめて欲しい。

2019/01/27 19:05

b.hatena.ne.jp

こういうのを見て「勉強ばっかりさせられる高校なんてイヤだなあ」とは思っていたのだけど、いまひとつピンとこなかった。「まあそういう学校もあるんだろう」ぐらいにしか思っていなかった。ところが、日曜日の朝、何気なくはてなの匿名日記(通称:増田)を見ていたら、九州の高校生が悲痛な叫びを上げていた。日常の生活サイクルが書いてあり、「ショートスリーパーでもないのに3時間ぐらいしか睡眠時間が確保できない。5時間以上の睡眠を推奨するとか信じられない」みたいなことが書いてあった。ちなみに上記のカギカッコ内の文面は非常に不正確だ。というのは、おそらく身バレを防ぐため(なにせ通学に要する時間とか事細かに書いてあったので、見る人が見たらそりゃバレるだろう)1時間とたたないうちに削除されていたからだ。で、「5時間以上の睡眠を推奨」というのは、そこに貼ってあったこのTweetのことだろう。これはこれでけっこう悲惨。

 生徒だけでなく、保護者の睡眠時間まで削られていることがわかる。そんな学校なんてやめればいいじゃない、高校は義務教育じゃないんだし、みたいに思っても、どうやら福岡県ではこれが標準で、どこの高校へ逃げようと同じことがついてまわるのが実情らしい。なんとWikipediaにまで記事があった。

ja.wikipedia.org

Wikipediaの基準からいえば「独自研究」に偏っているようでもあるが、福岡県外の者にとってはわかりやすい記述になっている。そして、振り返ってみれば、たしかに近畿圏でも一部の学校(特に私学)では類似のことが行われていたりもする。 たとえば私の教えていたある私立高校の生徒は、ほぼ連日の「居残り」で帰宅が夜の9時ぐらいになるのがザラだった。おまけに夏休みは補習と称して実際には正規の授業を進めるので、休んだら授業が抜けてしまうため休めない。とにかく忙しい高校だった。

学校側の考えはわからなくはない。予備校とか家庭教師とか、そんなものに頼らなくても学校だけで十分な大学進学準備をしてやろうというわけだ。ある意味、生徒のためを思った献身的なサービスであるといえるかもしれない。なにしろ、生徒が休めないということは教師だって休めないわけだ。それを追加料金なしでやってくれるのだから、生徒や保護者としては感謝こそすれ批判するのはおかしい、ということでもあるのかもしれない。しかし、家庭教師として傍からこういう学校のやり方を見ていると、いくつかの点で非常に問題があるのに気づかざるを得ない。商売敵的な立場からいえば、「おまえらの下手くそな受験対策では志望校に通らないじゃないか」みたいなことでもあるのだけれど、それは言わないことにしよう。もっと根本的なところで、大きな問題がある。

宿題はサービス残業か?

最も明らかな問題点は、教師が生徒の生活時間を勝手に侵食することだ。上記のTweetでも書かれているとおり、学校の授業時間を延長することで睡眠時間を削らざるを得ない生徒が出現することになる。もちろん教師は言うだろう。通常の6時間授業など甘い。社会人は8時間労働が基本だ。それに見合っただけの授業を受けて睡眠不足になるようなら、実社会に出ても生活していけないだろう、ぐらいの屁理屈はこねるだろう。だが、ここで教師が見落としているのは、労働者とちがって生徒の一日は学校の授業だけでできているのではないという事実だ。高校生をはじめとして一般に子どもたちには、成長のために学校外でさまざまなことを学ぶ必要がある。読書や映像作品の鑑賞、趣味に没頭することも、社会人にそれらが必要である以上の意味をもつ。だが、そんな正論は多くの教師にとって世迷い言にしか聞こえるまい。だからそこは黙ることにしてもいい。黙って見過ごせないのは宿題だ。

実のところ、家庭教師という仕事は、宿題を出す立場でもある。なぜなら、家庭教師は週に1回かせいぜい2回しか生徒宅を訪問しない。わずかな指導時間で十分な効果をあげるのは困難だから、指導後に宿題を出しておいて、訪問がない日にも着実に力をつけるようにするべきだ、というのがその論拠となっている。

ところが現実に、私はほとんど宿題を出さない家庭教師である。なぜ出さないか、理由はいろいろあるのだけれど、最大の理由は生徒に宿題をやる時間などないことだ。どういうことか。

私は、指導前に必ず生徒の1日の生活サイクルをインタビューする。どれだけ「勉強」に時間を割けるかを知らなければ指導計画は立てられない。そして愕然とする。多くの生徒には、ほとんど余分な時間などない。そりゃ、塾や予備校の教師が言うように、隙間の時間を有効に活用したり、「ダラダラしている」時間を切り詰めれば、いくらかの「勉強時間」は確保できるだろう。だが、自分自身を振り返ってみてほしい。そんなふうにコマネズミのように回転数をあげて効率的に生活することが何ヶ月も続けられるだろうか。なかにはそういう人もいるのは知っている。けれど、多数派にとっては、それは地獄だ。どこかでスローダウンし、どこかで緩む時間をつくらないと、人間はもたない。「1日は24時間! 7時間睡眠し、学校に行っている8時間を引いても9時間残る。食事や風呂に1時間使っても、まだ8時間も勉強する時間があるじゃないか!」みたいな言説が現実には完全に無効であることは、冷静に考えることのできる人なら自明のことだろう。

そういう常識的な判断のもとに生徒の生活時間を調べてみると、家庭教師が宿題を出す以前にほぼ目いっぱいにスケジュールが埋まっていることがわかる。小学生や中学生の場合には、それでもテレビやネットの時間を削ることでいくらかの時間を確保できる場合もあるのだけれど、高校生の場合はほぼ無理だ。それはほとんどの高校生には既に学校から容赦のない宿題が課されているからだ。

一般に、宿題を出す側は気楽なものだ。仮にそれが2時間、3時間と時間を消費するのがわかっている宿題であっても、「次の授業まで2日あるから余裕をもってできるだろう。そのぐらいはやってもらわないと困る」ぐらいの感覚で宿題を出す。問題なのは、そんな感覚で出される宿題が1教科だけではないということだ。たとえば英語2科目、数学2科目、国語2科目、理科2科目、社会2科目の授業を受けていたら、10科目の授業から課題が出る。それぞれひとつひとつは1日に平均すれば1時間以下のものかもしれないが、全部マジメにつきあったら(仮にすべての科目が30分で片付くものとしても)、毎日5時間を宿題消化に充てねばならない。仮に帰宅時刻が夕方の5時として、食事や入浴に1時間充てるとすれば、全力で宿題をやっても夜11時まで一切の休憩もとれないことがわかる。ましてクラブやバイト(進学校の場合バイトはないかもしれないが)に数時間を取られたら、たとえSNSなんかに一切手を出さなくても、それだけで「睡眠時間が5時間」を下回ってしまうのは何の不思議でもない。

そんなところに朝課外だの補習だので拘束時間を増やせば、もう壊滅的だろう。「社会人は8時間働いているんだから生徒だって8時間ぐらいは学校で勉強すべきだ」といいながら宿題を平気で出す教師は、サービス残業は就業時間に含まれないと本気で思っているブラック企業幹部となんら変わりはない。

すべての生徒がそれを必要とするわけではないのに

より重要なことは、生徒のニーズは多様である、ということだ。受験勉強を生徒ともに闘う(そう、これはほぼ無益なスポーツのような闘いだ)仕事を数年も続けていたらだれでも気づくことだけれど、あらゆる生徒に共通する必勝法とか、どんな生徒にも当てはまる魔法の薬、銀の銃弾なんてこの世には存在しない。ここは詳しく書き出すと長いので端折るのだが、そもそも生徒は一人ひとり思考回路がちがうし、そこまでの蓄積もちがう。さらに、目標もちがえば、その目標を置いた意識も状況もちがう。そんなときに、一律の勉強法を強制することはほぼ無意味になる。

たとえば既に数学の成績は十分合格圏にあるのに、英語が苦手で危ない生徒に、数学の過去問をそれ以上反復させるのはおよそ効率的ではない。受験は点取りゲームだ。点がとれないところを集中して鍛えるのが(ああ、嫌な言葉だ)最も効率的な勝ち方だ。そういうときに、一律の問題演習に特化した朝課外とか補習だとかで時間を潰されるのはおよそ生徒の利益にはならない。たとえばほぼ推薦で合格ができそうだと読めている生徒にとって、点取りゲームに勤しまねばならない一般入試受験生と同じ訓練を受けねば成績が維持できないというのは、無意味を通り越して害悪だ。他にすべきことが山ほどあるのに、既に不要になった点取りゲーム対策を磨いてどうなるよ。受験技術的な瑣末なことだけとっても、まだまだ学校の授業時間を必要以上に延長することの弊害は大きい。

まして、高校生は受験のためだけに生きているのではない。多くの生徒がそうであることは高校によっては事実なのかもしれないが、別なことを求めて高校にやってくる生徒を排除することは現行の法制度の中ではあってはならない。指導要領で定められた時間数の出席で取得できる単位を、教師の裁量でもって勝手に所要時間を増やすのは、それを求めない生徒に著しい不利益を与えることになる。

価値観の押しつけはもっとも悪質な権力者の横暴

こういうことを指摘すると、現実を見ないだの屁理屈だのと現場の教師は思うことだろう。自分たちのやっていることは成果をあげていると主張するだろう(たとえば上記Wikipediaの記事によれば「福岡県では塾・予備校にかける費用が全国平均より少ない」。これはたしかに家庭の教育費を下げ、公平性の面からは評価すべきことに見えるだろう)。けれど、彼らが気づかないのは、学校の権力性なのだ。学校の権力を背負って立つ教師が、中立性を欠いてしまうことの危険性なのだ。

教師は、その権力によって、生徒にさまざまなことを押し付ける。たとえば建前上は強制ではない朝課外や補習であっても、その時間内に講義を組み込んでしまえば、そこに出席しない生徒には「教えてもらえないこと」が発生するために、著しい不利益が生じる。そういう不利益を与える権力を手中にしているからこそ、建前が強制ではなくても実質的に生徒に強制できるのが教師のもつ権力性だ。

私のような外部の者から見れば、朝課外や補習を強制することは、生徒に一定の価値観を押し付けることにほかならない。つまり、教師はその権力によって恣意的に価値観を生徒に押しつけている。その価値観は、たとえば「進学は善である」みたいなわかりやすいものから、「勉強の成果とは練習問題に正解することである」みたいな多くの人が既に内面化してしまっているために私が問題だと言っても「はあ?」と不思議がられるようなものまで、実に多岐にわたる。さらに、そういった実質的な授業時間の延長と宿題の合せ技によって生徒が睡眠時間を削らざるを得ないような状況に追い込まれても、「それこそが頑張りだ」と称揚するような価値観もそこに含まれる。無意味なこと(私から言わせれば受験勉強には入試に合格すること以上の価値は何もないし、入試に合格するためには点取りゲームに勝つ工夫以外のことはほぼ効果をあげないので、それらを一切無視した「頑張り」はほぼ無意味なこと)でも頑張れば認められ、成果はどうであってもそれだけでよしとされる価値観は、いったい未来の役に立つのだろうか。そういう価値観を生徒に押し付けているという自覚は、教師にあるのだろうか?

たとえば宿題だってそうだ。宿題をするもしないも、本来は生徒の自由だろう。だが、教師は宿題をしない生徒の成績を下げることで宿題をしない生徒に不利益を与えることができる。すなわち、生徒を従わせる権力をもっている。さらにわるいことに、単純に成績を下げるだけのことならそのトレードオフを判断して生徒が自主的に宿題をやらないという選択も可能になる。「ここで無理して宿題をして体を壊すよりは、少し成績が下がっても休んだほうがいいな」というような判断ができる可能性がある。ところが多くの教師は、宿題をしないことはサボりであり、倫理的に問題があり、将来社会人になったときに困るのだというようなおよそ根拠のない価値観で生徒に接する。そして、中立な立場から成績を下げておけばいいものを、指導と称して生徒につきまとい、生徒を非難し、人格を貶め、教室内で恥をかかせることまでする。自らのもつ権力によって特定の価値観を押し付けているという自覚はそこにまったく見られない。

権力の暴走を食い止めるシステム

決して好ましいことではないが、ある程度は学校のような組織が特定の権力をもつことはやむを得ないのかもしれない。学校に入学する生徒は、自らのもつ権利の一部を学校に差し出すことを条件に入学を認められるのだと考えてもいいかもしれない。社会集団には、それぞれの社会集団に特有の契約関係がある。学校は、学習指導を行い、生徒を成長させ、最終的に卒業単位を認める機能と引き換えに、ある程度の生徒の権利を制限する。それはあり得ることだろう。これは、国家に対して個人が自然権の一部を移譲するという考えかたと同じことだ。

しかし、権力は必ず誤る。たとえば、教育基本法以下の諸法令に定められたこと以外の価値観からは中立であるべき学校教育は、容易に特定の価値観によって運営されがちになる。私立学校であればそれはそれで校風として容認されるべきなのかもしれないが、公教育においてそれはまずいだろう。

一般に、権力は必ず誤る。これは民主主義の根本的な認識だといってもいい。だからこそ、民主主義は権力が誤ったときにそれを是正するシステムを内部に組み込んでいる。たとえばロックが主張した革命権であり、モンテスキューの提唱した権力分立であり、ルソーの主権在民(すなわち選挙による権力の交代)である(以上は教科書に書いてあることだからね、念のため)。これらを学校に敷衍してみると、革命権は、「学校をやめる」という選択が保証されている限りにおいては特に必要がないと考えていいだろう。人民は国家から逃げ出せないが、生徒は嫌ならやめればいい(ただ、現状の制度では、小学校・中学校に関しては逃げ出したら「不登校」扱いになってしまうので、この権利が十分に保証されているとはいい難い。まあ、それは別の話だ)。そして主権在民に関しては(もしもネオリベが主張するような資本主義的な仕組みが十分に機能しているのなら)、学校が誤れば消費者である生徒保護者がそっぽを向くはずなので、やはり現状でもどうにかなると考えられなくもない。しかし、日常的な運用で最も頼りになるはずの権力分立が、学校にはない。これは問題だ。

教師は、教室の中で独裁者として振る舞う。その暴走を止めるシステムを、基本的に学校はもっていない。たしかに、主任やら教頭やら校長やらという管理体系のもとで指導やら業務命令はできるのだろうが、密室的な教室内の教師の振る舞いに関してそういった管理システムが機能しているとは思えない。さらに、上記のような価値観の押しつけに関しては、そもそも学校が無意識に特定の価値観をもって運営されているわけで、いくら管理がうまくいってもそこから逃れることはできないだろう(ここで「特定の価値観」というのは法令に根拠のない価値観のことである。現行の教育法体系には一定の価値観が根本にあるのだが、それは法である以上、現場で問題にすべきことではないのだと思う)

価値観の押しつけで被害を被るのは、生徒だ。だから、学校が一定の価値観を押しつけてきたときに、「それはおかしい」と声を上げるのは生徒でなければならない。しかし、そういった生徒の声は、教師の権力性に対抗できない。「当然だ、教師は教える側で生徒は学ぶ側ではないか」と教師は思うのだろうが、じゃあ、それは権力分立の考え方からいえばどうなの、という疑問は抱かないものなのだろうか。民主主義的な権力分立の思想からいえば、当事者である生徒の考えは、指導者である教師の権力と拮抗するだけの権力性をもたなければならないはずだ。そして、そういったシステムは、学校という制度のなかには存在しない。

 

学校は変わらなければならないと思う。制度を一から見直して、本当に必要とされているものをひとつひとつ洗い出して、不要なものを削り、目的をもっともよく果たせるようにシステムをつくりなおさなければならないと思う。そのときに、学校が不可避的に帯びる権力性をどのようにして中和するのか、そこをしっかり考えておかなければならないと思う。なにしろ、民主主義的な価値観は教育基本法にさえ明記されていることであり、実際に社会科で教えられることなんだから。それを無視するなんて、矛盾もいいところだと思うよ。

教育基本法

第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

なぜ若者に説教してしまうのか - 老害は避けられない運命

17歳の若い子を友人の家に連れて行った。この春まで家庭教師として教えていた生徒である。推薦枠を利用しての大学進学という方向性がほぼ確定したので、これ以上の受験準備も必要なかろうということで指導を終了した生徒だ。私の中では片付いた生徒だった。そのお母さんからメールがあったのが半月ほど前。進路のことで悩み始めたという。大学に行く意味が見出だせない。いや、そりゃそうだよ、と、大学中退者である私は思った。ただ、だからといって放置するわけにもいかない。

思いとどまって進学するように説得してほしいというお母さんの気持ちはわかる。進路相談という名前で面談をして、いろいろ聞いてみた。大学に何があるかわからないのに、流されるようにそこに行くことがいいのかどうかわからない。知りたいことがあれば自分自身で勉強もできる。それよりは、いろんなことを実際に体験してみたい。具体的には海外に行ってみたい、というような内容だった。

この生徒、なかなか優秀な人で、特に数学的な推論の力がずば抜けている。通常のセンター試験対策は3ヶ月もやらなかったが、学校でろくに数学をやっていないのにそのままもう半年も鍛えたらどんな偏差値のところでも勝負になるだろうと思っていた。なぜ学校でろくに数学をやっていないかといえばその学校は進学校でもなんでもない商業系の高校だからで、なぜそんな高校に彼が行っているかといえばそれは中学3年間のうちまる2年を不登校で過ごしたからであり、また、彼が特に受験勉強に興味を示さなかったからでもある。受験勉強に興味がないから勉強が嫌いかといえば、いきなり「不確定性原理について知りたい」みたいなことを言い始める。かまわないけどそのためには高校レベルの物理学はやっとかないとわからないよと答えると、素直に高校物理の講義は受けてくれる(商業高校では物理はやらない)。その上で不確定性原理になると、いまとなっては古典的な部分でさえ高校物理の教科書では不足するから、大学教養程度の教材を用意する。そんなふうにして、西洋哲学史やら経済学やらと、高校と大学の中間ぐらいの勉強をずっとやってきた。特に哲学ぐらいになるとそういう学習にちょうどいいテキストがないので、Google Scholarから文献を探し出して教材にした。そういう体験がたっぷりあるから、「知りたいことは自分で勉強できる」というのは、それなりに根拠のある自信なのだ。文献の批判的な読み方もできる。そして、そういう学び方を身につけた人にとって、むしろ不足するのは身体的な感覚だ。だから、広い世界に旅立ちたいという彼の思いは、それなりに説得力がある。おそらく、冷静に自分自身と取り巻く環境を分析して得た結論なのだろう。頭のいい人にはかなわない。

だが、私はそれでも、「とりあえず大学行っとけや」と思ってしまう。彼はその頭脳で商業高校では遊びながら成績は無双なので(ほとんどチートに近い)、推薦枠は選び放題。そのなかから面接と小論文だけでOKな、地方大学ではあるけれどそこそこに権威のあるいい大学を志望校にした。簿記とか、ふつうの高校生が持っていない資格や検定を大量にとってるので、合格は確実だろう。つまり、とてつもない優待カードを手にしているわけだ。これを使わない手はない。

だが、もしも自分が高校生で同じように進路に迷っていて、家庭教師から「大学に行け」と言われたとしたらどうだろう。そんな月なみなことを言われたら、ひどくがっかりするだろう。だから私は、彼を友人のところに連れていくことにした。何人か候補は考えたが、とりあえず地理的な条件なども考慮して、夫婦で有機農業をやっている古い友だちを選んだ。畑仕事でも手伝いながら、いろいろ経験を語ってもらおう、そうすれば頭のいい若者は、自分で何かのヒントを見つけるだろう、という考えだった。

この友人夫婦、この時代に有機農業を20年以上も続けていることだけでも相当変わっているのだが、そこに至るまでの経歴が相当にハチャメチャだ。詳しいことはあえて避けるが(私もよく知らない)、大学を休学して海外を放浪していたとか、民族衣装を着て都会をうろついていたとか、武勇伝には事欠かない。そういう先達の姿を見れば、あるいは、はっと現実に返って自分がやろうとしていることのバカバカしさに気がつくかもしれない。すくなくとも、海外放浪の実際ぐらいは聞いといて損はないだろう。

 

私は連れて行っただけなので、彼らの間でどんな話があったのかは知らない。最初のしばらくの時間、アイスブレイキングのために一緒にいたのだが、そのときのことだ。まず、嫁さんの方と話したのだけれど、彼女は一通り話を聞いたあと「大学、行ったらええやん。海外行きたいんやったら、大学入ってから休学して行ったらええし」と、実にあたりまえなアドバイスをした。そして旦那の方も、「大学行ったらええんちゃうん?」と、実に常識的な意見。おいおい、自分のことを棚に上げるのは私だけじゃなかったのかと、ちょっと驚いた。

若者に、説教まではいかないにしても、ごくごく当たり障りのないことをさもわかったような顔をして言ってしまう。いつの頃からか、私も友人も、そういう年齢に達してしまっていたようだ。若い頃だったらどうだっただろう。そういう決断をする人に対して、「すごいなあ」とか、「ようやるわ」といいう感想は出ても、「とりあえず大学に入っといたほうがいいのに」みたいな意見は自分の中からは出てこなかっただろうと思う。

そういう凡庸な意見を支えているのは、「せっかくのチャンスを見逃すのはどうかしている」という感覚だ。ちょうどそれは、野球中継を見ながら「なんでいまのタマ、打てへんねん!」とボヤく野球ファンとよく似ている。「ストレート待ってるつもりかもしれへんけど、ど真ん中やないか。あんなん見逃してたら追い込まれるだけや。ストライクは3つまでやねんで。カウント悪くしたら、結局は自分の好きでもないタマを振らないかんやろ。それやったら、狙いダマと少々ちごうても、あんな甘いカーブ、がつんといかんかいな」と、自分自身ではバットを振ったこともないようなおっさんが、ビール片手にテレビ画面を見つめながらひとり力説している、あれだ。

たぶん、おっさんの言うことは正しい。選択肢が豊富にあるうちに、自分に最も有利なものを選ぶのが、勝負に勝つ常道だろう。追い込まれ、選択肢を完全に絶たれた状態でやむなくバットを振るのは苦しいだけだ。もしも推薦枠でAO入試という願ってもないチャンスがあるのならそれを使うべきだ。もちろんそのチャンスを見逃しても、いくらでも人生には選択肢がある。その先に大学に行きたくなったとしても、改めて受験勉強をして正面突破でどこの大学でも入ることができる。彼ほどの頭があれば夢物語でもなんでもない。けれど、その選択は、そのためにムダに1年なり2年なりの受験準備に時間を潰すこと、試験運わるく不合格になるリスクなど、ネガティブなポイントがいくらでもある。選択肢を狭め、その方法しかなくなってそれを選ぶのは、多くの不利を引き受けることになる。だから、もしも塁に出たいのならバッターは積極的にバットを振っていくべきだろうし、大学に入りたいなら推薦枠とAOが活用できる現役生のメリットを捨てるべきではない、と、おっさんはあまりにあたりまえの結論を出す。そしてそれを実行しない若者を、コップを片手に批判する。

まあ、野球の話ならまだわかる。バッターが塁に出たいのはまずまちがいないわけだ。けれど、あの高校三年生の場合はどうだろうか。彼は本当に大学に行きたいのだろうか。そこに迷いが生じている。そのときに、「チャンスを逃すな」と外野から言うことが正しいのだろうか?

もしもバッターが「一塁に行くべきかどうかで悩んでいる」みたいなことを言ったら、「ちょっと顔を洗って出直してこい」と叱りつけるのがいいのだろう。あるいは、ルールブックを持ち出して、まず一塁を踏まなければ二塁に行けず、そこから三塁を経過しなければ本塁には戻れず、本塁を踏まなければ一点が入らないという野球の本質から復習をしてもいい。野球というゲームをはじめた以上、塁に出るのはまず第一の目標だ。そこで悩まれたらどうしようもない。しかし、高校三年生が「大学に行くべきかどうか」と悩んでいるのは、ちょっとちがう。たしかに彼は、人生というゲームをプレーしている。ただ、そのゲームにはルールブックはない。バットを振らずに直接二塁に歩いても、場合によってはOKなのかもしれない。フィンランドの野球はヒットを打ったら三塁に走るのがルールなのだそうだ。ひょっとしたらルールはそうなっているのかもしれない。

人生というゲームは、実は一人ひとりにカスタマイズされている。その全貌は、人生の半ばを過ぎないと見えてこない。場合によっては最後までわからない。だから、若い人には、自分がどういうゲームをやっているのかさえわからない。ルールもわからないままに、とにかくプレイを迫られる。歳を重ねてくると自分の人生がわかってくるし、そのなかで、やるべきことや避けるべきこと、必勝パターンや自滅への道筋も読めてくる。そういう人にとっては、若い人がみすみすチャンスを逃すのが歯がゆくてしかたない。だが、冷静に考えてみよう。その若い人は、自分とはまったくちがうゲームを戦っているかもしれないのだ。どっちかといえばルールが異なっていることがありそうなことなのだ。そんなときに、自分自身の経験からアドバイスすることが果たして正しいのだろうか。

正しかろうと正しくなかろうと、相手への感情移入が大きければ大きいほど、ひとは「こうやったほうがいい」と主張してしまう。特に教育の分野ではそうだ。自分自身が猛勉強していい学校に進み、そのおかげでいまがあると思うようなひとは、やっぱり猛勉強こそが必勝パターンだと思いこむだろう。それを伝えるのが自分の義務だと思うだろう。そして、人生が二度ない以上、たとえ遊んでばかりいてそしていま幸福な人であっても、あるいは「もう少し勉強していたらもっと幸福だったかもしれない」と思うかもしれない。そんなふうに人生を振り返る人は、やっぱり子どもに「勉強しろ」と言うだろう。大学が少しでも役に立った経験があれば、「とりあえず大学、行っとき」と言うだろう。

教育に限らない。自分が生きてきた軌跡は、自分自身の人生においては強力な説得力をもつ。だからどうしても、そこにこだわってしまう。そして、他人の人生、特に若い人の人生がまったく別の原理で動いているかもしれないということには想像が至らない。そうやって、私のような年代の年寄りは、若い人に説教をしてしまう。老害は避けられない。

 

ただ、若い人は思いの外に柔軟でもある。年寄りの言うことを割り引いて聞くこともできるし、反面教師にすることもできる。反発できるだけの気骨もあれば、老骨をいたわるだけの憐れみももちあわせている。そして、迷ったときにはさまざまな情報に触れることが、きっかけをつくってくれるだろう。

とかなんとか書いていたら、こんな匿名日記記事(増田)に行き当たった。

anond.hatelabo.jp

過去の知恵に学ぶことは重要だ。つまりは、老害だの説教だのといわずともかく先達の言うことを情報として取り入れることは有用だ。しかし、それを個別に当てはめようとするとき、すなわち自分自身の人生の戦い方を判断する材料にするとき、そういった情報は決して鵜呑みにしてはならない。頭を使って考えなければならない。なぜなら、人生のルールはまだ目の前に明かされておらず、そして、ルールのわからない戦いを切り抜けるには、よほど慎重でなければならないからだ。

 

やれやれ、また説教をしてしまったよ。

あるマラソンランナーのゴール

ラソン大会は何度か見に行った。父親が還暦を超えてからそういう趣味にハマってしまったからだ。12年間のランナーとしてのキャリアで26回フルマラソン大会に参加してすべて完走したのだから立派なものだ。私には真似できない。真似する気もなくて、それでも地元の大会のときにはゴールに出迎えに行ったりしたものだ。1万人から参加する大会ではランナーの群れは怒涛のようで、その振動を見ているだけで酔いそうになる。「ようやるわ」というのが正直な感想で、真っ赤な顔をしたり汗だらけになったりして苦しそうに走るランナーたちの姿には、あまり感心もしなかった。それでも父親がゴールしたときには、「よくがんばった」と讃えたいと思ったし、少しは誇らしくもあった。傍で見ていてもそういった感動があるのだから、本人にはこの上ないものがあったのだろう。途中で苦しいと思っても、棄権しようかと考えることがあっても、ペース配分を考え、規定タイム内でのゴールインを果たしたのだから、そこに達成感がなかったはずはない。

その父親が、88歳で他界した。先週のことだ。不思議と、悲しくはなかった。悲しみはなかったが、ある種の感動があった。それは、マラソン大会のゴールで感じたものとよく似ていた。私は父親を誇らしく思った。

 

父親が病に倒れたのは1年と2ヶ月ほど前のことだった。最初の入院は軽く済み、2度めの入院ではかなりダメージは受けたが、それでも自力で歩いて私の車の助手席に乗りこんで退院することができた。3度めの入院をしたのが10月の末で、そこからおよそ10ヶ月、ついに自宅に戻ることはなかった。

その10ヶ月は、決して平坦ではなかった。最初の数ヶ月は病状が安定せず、いつ死んでもおかしくないくらいの状態が繰り返された。あまりにつらい日々が続いたので、モルヒネ投与まで行った。私もそれなりの覚悟を決めた。思えば、悲しいのはこの時期がいちばん悲しかった。そのなかでも笑えることも嬉しいこともあった。人間、生きていれば生きているだけ、さまざまな感情におそわれる。それは病気に苦しんでいても同じことだ。

父親は、稀にではあるが感情を爆発させた。「金を払ってるのに、こんな苦しい思いをさせられるのはかなん。もうええ」みたいなことを言ったこともある。治るために病院に入っているのに(商売人である父親の感覚では「金を払ってるのに」)、一向に好転しないことに対するいらだちは強かった。だが、それは裏返していえば、再び健康になることを強く望んでいたことでもあった。生きようとする意思であったわけだ

そういう強い意志があったからこそ、父親は常にリスクをとった。高齢者の医療は撤退戦である。何かを失わなければ何かを得ることはできない。リハビリひとつとっても、それをすることは回復への道のりであると同時に、負担から病状を悪化させる危険性を伴ってしまう。徹底的にリスクを避けるならリハビリを控えて安静を保つことも選択肢のひとつだ。どうせリハビリをしても完全な原状回復は望むべくもない。頑張ってリハビリしてようやく車椅子に座れるようになるかどうか、立てるようになるかどうかというような状況で、リスクをとる価値がどれだけあるか。そう考えても決して非合理的とはいえない。それでも父親は、リスクをとる方を選んだ。ほんの少しでも回復への希望があるのなら、その代償として命の危険があっても必ず希望のある方を選んだ。

ようやく心臓のほうが落ち着こうとしはじめたころ、父親はインフルエンザに罹った。これが父親の体力を著しく奪った。そのせいで完全にベッドから起き上がれなくなり、経口の食事も不可能になった。それでも父親は希望を失わなかった。もちろん、弱音を吐くときも、挫けそうになるときもあった。何日も口をきくだけの体力もなく、ただ荒い息をして横たわっているだけということも繰り返された。それでもそういうひどい谷間を超えると、必死の思いでリハビリに取り組んだ。「まつもとさんがダメだというときは本当にそれ以上できませんね」と、理学療法士たちは口を揃えた。ふつうは患者が弱音を吐いても励ましてほんの少しの無理をさせるらしい。だが、父親の場合は限界までギブアップしなかった。弱っていく体力の中での限界はごくごく低いレベルで、ときには数分ももたなかったのだが、それでもリハビリを心待ちにするように取り組んだ。

相当に状態がわるいことを共通認識とした上で、それでもリハビリチームは車椅子に座っての自宅復帰への計画を立ててくれた。そうなった場合の自宅介護態勢を整えるための下準備にも手をつけた。いつの間にか心臓の状態はごく低レベルながらも安定するようになってきていた。極度に悪化した身体機能を気長にリハビリで回復していけば、ひょっとすれば退院が可能なのではないかと、そんな希望も見えはじめていた。かつてのスポーツマンらしい日常は戻らなくても、高齢者らしい穏やかな生活が取り戻せるかもしれないと、遠い日の奇跡を願えるようにもなってきていた。

最終的に命を奪われたのは、伏兵のようにおそってきた肝臓系の障害だった。おそらく健康な人であればさほど深刻でもない治療可能なトラブルだったのだと思う。だが、弱った身体には致命的な打撃になった。医師が異変に気づいてから10日ほどのうちに様相は急転した。あっけないほど、最後は突然に訪れた。

 

人間の命は脆いものだ。山に登っていた私は、若い頃から痛切にそれを感じてきた。拳ほどの石ころが当たっただけでも、あっさりと人は死ぬ。打ちどころが悪ければ転んだだけでも命にかかわる。それぐらい、人間は脆い。風邪や熱中症でさえ、人の命を奪う。運が悪ければいつでも人は死ぬ。ただし、それを前提にして、それでも人間は、少しでも健康に、少しでも丈夫にと、日々努力をする。身体に良さそうなものを食べ、あまりむちゃをしないように節制する。矛盾するようではあるが、そういった小さな努力が実際に人間の日々の暮らしを支えている。そのうえで、それでもいつか、人間は命を失う。運がよくても悪くても、最後にはみんな死ぬ。それが人間のゴールだろう。

言葉をかえれば、人間は皆、死に至る長い道のりを歩いている。その道のりが生きるということである。つまり、生きるということはどう死ぬかということでもある。そして、奇妙なことに、生きようとする意思をもつことが、人を生かしている。つまり、人は死ぬために生きようとする。

そういう逆説的な現実を前にすると、死の直前まで復活への可能性にかけて前向きに進もうとしていた父親は、本質的に「よく生きた」のだと思う。そして、よく生きた人は、よく死んだ人だとも言える。父親は、生への意思によってその死を輝かしいゴールに変えた。そして、私はそれを誇らしく思う。

人生には、マラソン大会のように決まったゴールはない。終わったところがゴールだ。だからすべての人がゴールにたどり着く。しかし、なかには途中でバスに拾われてゴール地点にたどり着く人もいるだろう。棄権をしても、ゴールには帰ってこれる。完走したかどうかは、結局、最後まで走り抜く意思を捨てなかったかどうかによって決まるのだ。そういう屁理屈をこねあげると、まさに父親は、88年という人生のマラソンを完走したのだと思う。その姿を見て、私はただただ賛嘆するしかない。

 

結局、父親はそういう人生を選んだのだ。それは、彼がマラソンという遊びを選んだのと同じことだ。マラソンにはマラソンのルールがあるように、父親のような人生にはそういう選択に伴うルールがある。最後の入院生活では(特にインフルエンザ以降は)、水さえも飲めず、吸引やおむつ替えの苦痛に耐えなければならなかった。床ずれもできた(看護チームの努力でこれは克服した)。残酷だなと思うことも少なくなかったが、それをやり抜くことが生きることにつながると、がんばり続けた。ときに長年連れ添った妻にだけは感情を爆発させることがあっても、従順な患者であり続けた。ルールに従ったのは、押し付けられたルールを守ることに価値があるからではなく、ルールを守ることを自らの意思で選択したからだ。そうすれば生きることを全うできると自覚していたからだ。その勝利が遠くに見えてきたときに、他の部分にトラブルが発生した。もうそれは、運が悪かったとしかいいようがない。ちょっとした不運で人は死ぬものなのだ。そしてゴールがそこで決まった。その瞬間まで、父親は自分で選んだゲームのルールに従って戦い抜いた。私には到底真似ができない。

私は、マラソンをやらない。若い頃に登山で足を痛めたことを言い訳にして、父親の誘いもことわった。あんなことをやっても、私はたぶん楽しいとは思わないだろう。同様に、父親がマラソン引退後に情熱を傾けたゴルフにも近寄らない。あんな環境破壊的なスポーツ、だれがやるものかと思う。そして同様に、父親のような人生を私は選ばない。高齢者の医療、終末期の医療に関しては、私には私なりの理想もあれば批判もある。迷いもあればあきらめもある。私は父親のような生き方をしたいと思わないし、それは父親のような死に方をしたくないということでもある。

それでも私は、父親を誇らしく思う。最後の1年を通じて、初めて父親を尊敬する気持ちになった。1年かけて息子をそんなふうに変えたのだとしたら、彼も自分のがんばりがムダではなかったと思ってくれるのではないだろうか。そうだ。あなたの人生には、価値があった。私にとっては、価値があった。

安らかに眠れ!

社会の原理と個人の原理が異なることについて - 歴史と個人と

在日韓国・朝鮮人のことについて少し書くつもりなのだが、私は決してその方面に明るくはない。むしろ、私より上の世代の常識を基準にしていえば無知な部類に入るのだと思う。それでもその私の理解を書こうというのは、そういった不正確で誤りの多い理解でさえ、それ以後の時代に急速に失われているのではないかと危惧するからだ。実際にはそうでないのかもしれない。それは比較しなければわからないし、比較するためにはとりあえず標本をひとつ、ここに置いておくのがいいのではないか、と思うからだ。

私の理解している在日朝鮮人の歴史

在日朝鮮人のルーツが戦前の日本の朝鮮半島統治にあることは言うまでもないだろう。戦争以前は、戸籍は朝鮮籍でありながら国籍は日本であるという奇妙な地位を朝鮮半島の人々は占めていた。同化政策皇民化政策がとられていたのとは裏腹に、彼らは大日本帝国を構成する二級国民として位置づけられていた。だから日本(内地)への渡航も制限されていた。昭和に入って安価な労働力が必要になってから朝鮮半島から内地への人の移動が少しずつ増え始め、やがて戦時体制になって労働力が不足して徴用や密航を含めた人々の移動が強化され、日本の降伏時点で200万人からの朝鮮籍の人々が内地に在住していた。

日本の降伏とともに、これらの人々の地位は非常に不安定なものとなった。日本が既に朝鮮半島を領有しないことは明らかであったが、その一方で朝鮮半島には独立した政府が存在せず、38度線を境界にソ連アメリカが分割占領している地域でしかなかった。日本政府は朝鮮半島に対する主権を持たないので、その地域の人々である朝鮮籍の人々を支配する権限を持たないことは明らかであった。その一方で、外国人として扱うにはその帰属する国家が存在しない。そうであっても、朝鮮半島にはその人々による国家がやがて成立するものという前提で政府は動かざるを得なかった。国内に自身が管轄できない人々が大量に存在するのを政府が好むわけもなく、朝鮮籍の人々は朝鮮半島への帰国が前提となり、多くの人々が引揚船に乗り込んだ。しかし、当然ながら帰国を希望しない人々もいた。その事情は多種多様だ。既に内地で生活基盤を築いていた人々は、生業を捨てて帰国するわけにいかなかっただろう。来いと言われて来て、帰れと言われて唯々諾々と帰ることを好まなかった人もいるだろう。非公式なルートで来て帰れなかった人もいるだろう。なによりも、朝鮮半島はまだまだ不安定であり、戦後混乱期とはいえまだ内地のほうが安定していた。統治機構さえはっきりしないような場所に帰りたいひとは多くないだろう。むしろ、政情不安な朝鮮半島を逃れて内地へと密航するひとさえ現れた。そして、日本政府も昨日まで日本人だといっていた人々を都合が変わったからすぐに立ち退けとは、論理上も倫理上も、言うわけにいかなかった。だから何十万人もの人々が日本に残った。

多くの日本人は、彼らにどう接していいかわからなかった。戦前は二級国民として差別の対象であり、感覚的にはそこに変化があるはずはなかった。しかし、日本は敗戦国であり、彼らは新たに生まれるであろう独立国の外国人である。日本の警察は、外国人に対して日本人に対するのと同様の扱いをできなかった。特に経済犯に関しては、外国人であるが故に戦後の物資統制を免れるのだという理屈を否定することはできなかった。それ故に在日の人々は好むと好まざるとにかかわらず闇物資流通や加工・販売の担い手となり、日本人が手を出せないような脱法的な行為にまで手をひろげるようになった。これが日本人の反発をかい、戦勝国民でも敗戦国民でもない「第三国人」という蔑称が生まれることになった。この時点で在日朝鮮人とは、すなわち朝鮮籍をもちながら内地に居留を続ける人々であり、外国人でありながら故国が成立していない難民でもあった。ただし、現代的な意味での難民としては認定されなかった。

やがて朝鮮半島に2つの国家が成立し、あっという間に戦争が始まった。戦争中の国に帰国したいひとは多くないだろう。日本国内では朝鮮戦争の特需を受けて経済が成長し始めた。この時期に実業家として成功した朝鮮人も少なくない。その成功を聞いて、戦争中の朝鮮半島から日本へとわたってくる人々もいた。現代的な感覚なら彼らもまた難民として認定されるだろう。だが、そういう枠組みを当時の日本は持たなかった。そして日本は独立し、朝鮮籍の人々は正式に無国籍になった。彼らは韓国なり北朝鮮なりに帰国すればその国籍を回復できたが、日本にとどまっている限りにおいては国籍をもてなかった。

朝鮮戦争の停戦後、建国事業を進めていた北朝鮮は労働力と資本を必要としていた。そのなかで目をつけられたのが日本で無国籍状態となっている在日朝鮮人であった。北朝鮮政府は強力な宣伝活動によって彼らを「帰国」させる事業を進めた。これは日本政府としてもコントロールしにくい勢力として邪魔者であった在日朝鮮人を厄介払いできる機会でもあった。両者の思惑は一致し、帰国事業は大々的に進められ、やがて多くの悲劇を生んだ。その一方、在日朝鮮人を日本政府との取引材料にして引揚者の引取を拒んでいた韓国政府は、1965年の日韓基本条約の締結とともに在日朝鮮人に対して日本永住権をもつ韓国人としての国籍を付与する権利を得た。これによって、在日朝鮮人は、新たに韓国籍を取得して在日韓国人となるか、それを実行せずに無国籍なままの在日朝鮮人であり続けるかの選択をすることになった。したがって、「在日朝鮮人北朝鮮国籍」という理解は誤っている。単純に、韓国籍を取得することに躊躇した人々が旧来の地位を保持し続けただけに過ぎない。もちろんその理由の中には北朝鮮支持というものもあり得る。しかし、単純に韓国政府が信頼できないとか、いまさら韓国籍を取得するメリットを感じないとか、そもそも祖国は統一されているべきであるとか、なかには手続きがめんどくさいとか、さまざまな理由(あるいは理由の欠如)があったのであろう。こういった旧朝鮮籍の人々に難民としての地位が与えられたのは1981年以降である。

時代とともに戦前から戦後すぐにかけて発生した朝鮮半島に生活の記憶がある在日韓国・朝鮮人は減少し、現在はその二世、三世が民族的アイデンティティとして在日を生きている。さらに主に韓国から新たに渡航してきたニューカマーがそれに加わっている。

歴史と、個人の軌跡と

こんなふうに歴史を振り返ると、いろいろな感慨を覚える。まるで評論家にでもなったように、たとえば「日本が朝鮮半島を植民地化したのが問題の根っこだ」とか「日本国籍がないことを利用して金儲けをした在日朝鮮人はけしからん」とか「奴隷を連れ去るように帰国事業を進めた北朝鮮は卑劣だ」とか「韓国もそれに劣らず在日朝鮮人を政治の道具に使った」とか、いろんなことを言いたくなる。「歴史」とは、人にそういった感覚を抱かせるものだろう。

だが、そのなかで生きてきた個人が辿った軌跡に注目すると、そういった感覚は消える。たとえば、生まれ故郷をはなれた土地でいきなり国籍を失い、そして帰国しようにも故郷は荒れ果てている。そんなときにとりあえずいまの場所でなんとか活路を見出そうと誰かが思ったとして、それを非難することはだれにもできない。そして、目の前に脱法的な仕事があり、それを選択することで少しでも豊かになれるときにそうすることは、それを拒否するよりもずっと自然なことだろう。政治的な理由であれ経済的な理由であれ故郷にとどまることが著しく困難である人がそこを離れる権利は、国際的にも難民という概念で認知されている。難民に対して文化的なアイデンティティを捨てることを強要するのは、現代では犯罪行為とさえみなされるだろう。

私の親しい友人にも、戦後の混乱期に親が日本にわたってきて(密航かどうかまでは知らない)土建でひと財産なして(だから彼は高校はお坊ちゃん校に行っていたらしい)、さらにその後波乱の人生を送った男がいる。彼の生涯を聞いてみると、「アホやな」と思うことも多いのだけれど、ひとつひとつの選択は「ああ、自分ならそこまでうまくやれないな」とか、「そりゃそうやで」と思わされることも多い。結局、ひとりひとりの人間は、そのときに最善と思われる選択をし、精一杯に生きている。それが結果としてネガティブなことになる場合もあるし、振り返ったらアホと思えることもある。けれど、それを批判することはできない。

そういった個人のギリギリの選択が束ねられ、社会が動いていく。そして、社会の動きは歴史としてまとめられる。

そう思うとき、評論家のように「あのとき歴史が動いた」だの「これが正義だ」だの、「あの国は卑怯だ」だの、そんな考えかたをするのはそもそもおかしいのだと感じられるようになる。人間は、つねに自分自身のことでしか動けない。狭い視界の範囲内のことしか見えないし、ごく身近な人々のことしか考えられない。そして、そういった行動は、だれにも否定する権利はない。人間が行うことには、たとえ誤りを自分自身が悔やむようなことがあったとしても、他人からダメ出しをされるようなものではない。結果は全て自分に返ってくるので、あとはそれを引き受けるだけだ。

そしてそれを束ねたものが歴史であるときに、歴史とは、それを知り、学ぶことができるものであったとしても、それ以上のものではないことがわかる。まして、歴史でもって特定の個人を攻撃したり、特定の人々に何らかの感情をもつことなど、無意味であり、異常である。

 

社会とは、個人の集団である。しかし、社会の行動原理は、個人の行動原理とはまったく異なる。つまり、人間によって構成されるものでありながら、人間とはまったく別個の研究の対象になる。それが社会学の立場だ。そういう基本を忘れ、あたかも社会集団を人間であるかのように扱う人々がなぜか絶えないように思う。社会科が教育課程に組み込まれて長いのに、それが変わらないのは、やっぱり受験教育のせいなのかと、やれやれ、いつもの結論になってしまった。愚かだなあ。