シアワセの容相

あしたはこっちだ

太陽光発電は終わったのか?

太陽光発電に関する政策を巡っては、当初から現在に至るまで、誤解が絶えない。そして、太陽光発電は、誤解をもとに持ち上げられたり批判されたりしてきている。太陽光発電そのものは持ち上げられるべきものでも批判されるべきものでもない。それに関する政策には、いろいろと批判されるべき点も多い。だが、現在多くの人が口にする批判の多くは、誤解にもとづいたものだ。だから、最大の批判はそれら多くの誤解が発生するに任せ、それを是正しようとしていなかった点にあるといってもいいのだが、それをいっちまったらもう何がなんだかわからなくなるだろう。ともかくも、正当な批判は、少なくともマスコミやその周辺に群がる一般のあいだにあまり見られない。そして、見当違いの批判が人口に膾炙する。

こういう状況を見て、いっぺんはこのブログでも太陽光発電をめぐる政策についてきっちり事実を確認し、その上で批判しておかねばならないと思っていた。思っていたけれど、なかなかできなかった。なぜなら、いったんそれをはじめたら長くなるし、めんどうくさいし、わずか1年だけ格安の給料をもらっただけの臨時仕事の総括をなんで何年もたってから無給でやらないかんねん、とアホらしくなるからでもある。そう、私はかつて(確か2012年のこと)、ある外郭団体の臨時職員として太陽光発電普及の末端で仕事をしていた。それはもう、単純に中高年にまともな時給がつくような仕事が他になかったからという情ない理由でしかなかったのだけれど、一応は専門職として、それなりのプライドをもって勉強もした。なので、政策がどういう考え方のもとにどういうことを目指したのかについては一般の人々よりは多少は詳しい。そういった政策が現場レベルでどのように運用され、それがどうねじ曲がっていったかは、この目で見ている。もちろん末端だし政策が実施されて以降の地方公共団体レベルでの採用だから、中央官庁で実際にどういう動きがあったのかとか、そんなことまでは知らない。現場で見たごく限られたこと以外には、法令やら解説書、一般新聞・雑誌記事レベルの、どこまでも一般向けの知識でしかない。けれど、そういうレベルの知識さえなしに批判する人々が、マスコミや知識人と言われる人々にさえ少なくないように見える。そうなると、やっぱりめんどうでも、まとめられるだけはまとめておかねばならないのだろう。とてもきっちりとはいかないのだけれど。

 

前置きが長くなった。まず、私が個人的に太陽光発電をめぐる政策で最も批判されるべきものを何だと考えているのかを明らかにしておこう。上記のように「人々を誤解させた」ことは特に罪深いのだが、これはマスコミの責任でもあるし、あえて誤解をしたいと願った人々の側の問題でもあるので、それに関しては話は別になるだろう(話せば長いよ)。政策として「ああ、ここは誤りだったなあ」とはっきりいえるのは、2点だ。

  • 本来は小規模分散型で設計された政策をメガソーラーに拡大し、さらに中途半端な発電設備を容認したこと。
  • 買取価格を早期に下げなかったこと。

これらに関しては、政策がおかしかった。本来の政策理念を政治家が理解していなかったのではないかと思う。固定価格買取と補助金の2本立てでスタートした太陽光発電普及政策は、本来の屋根の上の太陽光パネルに対する事業に徹していれば、もっと健全に進行したはずだ。だが、そこを話し始めると、それはそれで非常に長くなる。だから、少なくともこの記事では後者に絞って話を進める。前者は機会があれば別途書こう(そっちのほうが現場での実際の見聞が活かせるので話としては面白いのだけれど)。ということで、以下は、「政府は太陽光発電に対する金銭的なインセンティブをもっと早くに下げるべきだった(当然、もっと早くに制度をやめるべきだった)のになぜそれをやらなかったのか」という話になる。

 

まず、固定価格買取制度(フィードイン・タリフ:FiT)がどういう発想で生まれたのかということを明確にしておかねばならない。私がこの話を最初に聞いたのは確か1990年代半ばのことだった。「太陽光発電を劇的に普及させる方法がひとつあるんです」と、あるセミナーで紹介されていたのだが、それは「劇薬」とも表現され、また、「大多数の人々の理解が得られなければ無理でしょう」とも言われていた。その「理解」とは、すなわち、「太陽光発電を普及させることは未来の世代にとって良いことである」という共通認識のことだ。もしも多くの人々が太陽光を利用することが良いことであると考えるのであれば、最も合理的な方法はFiTである、というわけだ。

では、なぜFiTなのか。その時代、太陽光発電の普及を阻んでいた最大の要因は、設置コストの高さだった。だからそれを埋め合わせるための補助金も用意されていたのだが、補助金で埋め合わせてもなお、太陽光発電は割に合わなかった。割に合わない太陽光発電の設備をつけようという個人は、よっぽどのソーラーマニアでしかない。けれど、もしもこれが割が合うようになったら、多くの人々が自宅の屋根にソーラーパネルを載せるだろう。じゃあ、どうなったら割が合うようになるのか? それは、設置コストが下がることだ。たとえば、10年間で100万円の電気代を払う家庭があるとする。この家庭が太陽光発電設備を備えることで完全に電気を自給できるのなら(このとき既に系統接続はできるようになっていたので、売電分と買電分の差し引きゼロでかまわない)、設置コスト100万円なら10年でもとがとれる。その場合には、「じゃあ、11年目からは電気料金が無料になってお得じゃないか」と設置に前向きな人は増えるだろう。だから、何としても設置コストを下げねばならない。

資本主義の世の中では、価格は大量生産によって下がる。当時の太陽光発電で最も費用の大きな部分を占めていたのはソーラーパネルの価格だった。それが高止まりしているのは、量産効果が出ていないからだ。だとしたら、ソーラーパネルが大量に売れる状況をつくればいい。多くの人々が競って屋根の上にソーラーパネルを載せるような状況が出れば、必ず価格は下落する。

ここで、「卵が先か鶏が先か」の状況が生まれていることに有能な人が気づいたわけだ。普及のためには価格が下がらなければいけないし、価格が下がるためには爆発的な普及が必要になる。では、どちらかを人為的に起こしてやればいい。もしも太陽光の普及が国家レベルで追求すべき目的であるのなら、そこに税金を投入するのもありうるだろう。

ただし、補助金では効率が悪い。補助金は1990年代当時に既に存在したが、補助金だけでは元がとれない。そして補助金の額を増額して普及を目指すには、財源が足りない。しかし、もしも電気の買取価格を高めに設定し、差額を国が負担することにすれば、補助金の予算よりも遥かに低額で「元がとれる、割が合う」太陽光設備の設置が可能になる。なぜそうなるのかはかなり面倒な計算式があったはずなので、興味のある方は調べてもらえれば出てくるはず。同じ予算を使うのなら、補助金よりも買取価格保証だというのが、経済学者の算出した答えだった。

ただし、もしも固定買取価格を長期に維持したら、最終的には補助金を出すよりも政府支出は高額になる(政府が出さずに電気料金に上乗せという形にするのなら、最終的には消費者の負担が増加する)。だが、その心配はない。なぜなら、FiTを導入したら、メーカーはどう対応するか。当然、ソーラーパネルの需要拡大が見込めるから、増産態勢に入るだろう。増産によってソーラーパネルの価格は下落する。下落したら、それに合わせて固定買取価格を下げる。固定買取価格が下がっても設置コストが下がるので、消費者はやはりソーラーパネルを設置するだろう。そうすれば需要が続くから、さらに設置コストは下がる。下がった分だけまた固定買取価格を下げるということを継続的に繰り返していけば、最終的には固定価格による買い取りを廃止しても太陽光発電は設置したほうがお得だという状況が生まれるはずだ、というのが、FiTの筋書きだ。

 

つまり、FiTの導入にあたっては、設置コストのモニタリングを厳正に行い、その結果を素早く固定価格の変動に反映させていき、最終的に固定価格買取制度からの離脱を行うという微妙な舵取りが必要であると、これは制度導入前の経産省のレポートにも明記されていることだった。それをやらなかったらどうなるか? 価格が高止まりしたら、太陽光発電を設置した人々が不当に儲けることになり、それを補償する税金が無駄遣いということになる(結果的には税金ではなく電気料金への割増となった)。そういった不公平は、許されるものではないだろう。一方、低く設定しすぎたとしたら、設置へのインセンティブははたらかず、設置コストが下がらないままに推移し、制度からの離脱ができなくなる。それはそれでやはり税金の無駄遣いだろう(もちろん実際には電気料金の負担の増加に帰結する)。

だから、これは「劇薬」であり、「多数の人々の理解が得られなければ無理」な政策であるわけだ。そして、たとえ多くの人々の理解が得られても(実際、国会でこの制度が承認されたわけだから、その時点での理解はあったわけだ)、運用をほんの少し間違えるだけで大きな副作用に苦しんでしまう「劇薬」であるわけだ。だが、運用は、それほど難しいわけではない。設置コストの相場を算出し、それに機械的に合わせていけばいいだけだ。制度のスタート時点では、誰もが楽観していた。

 

さて、現実はどう推移したか。最初の数年でソーラーパネルの価格は急速に下落した。太陽光発電設置業者の数は雨後の筍のように増え、業者間の競争から工事費も下落し、制度開始前に比べれば設置コストは数年でほぼ半額にまで落ちた。これを受け、政府や自治体は、それぞれが用意していた設置時点での補助金を急速に縮小したり廃止したりした。補助金がなくなっても買取価格が保証されていたので、設置へのインセンティブは下がらなかった。新築一戸建てには太陽光発電装置がセットされるのが標準のひとつになった。すべては順調に見えた。

しかし、そこから設置コストは底を打ってしまった。ソーラーパネルの増産効果による価格下落が限界に近づいてきたからでもあるし、増産効果のないその他のコスト、施工費などが占める部分が相対的に大きくなってきたからでもある。現在、政府の調査では1kWあたり設置コストが30万円程度と見積もられている(実際には規模を上げ、いろいろ工夫することでもっと下げられるが、それはおいておく。あくまで平均的な見積)

しかし、じゃあ太陽光発電は割が合わないのかといえば、実は固定価格買取制度のもとでは元がとれるどころか、大儲けできる。現在の買取価格は1kWあたり24円であり、運用のしかたによって大きく異なるのだが、年間で1kWあたり7〜8万円4〜5万円ぐらいの儲けになる(「儲け」というのは、売電収入と自家消費による電気料金の低減分を合わせた漠然とした数字だからだ)。つまり、10年どころか4〜5年6〜7年で設置コストが回収でき、それ以後は継続的に儲かってしまう。(注:当初の計算がかなりズレていた! 現場からしばらく離れているうちに感覚が衰えていた! 「大儲け」まではいかない。少しの儲け。これも雑な計算なので、あくまで参考値

つまり、kWあたり30万円という設置コストは、実は固定価格保証を外してもかなりいいところに近づいている数字なのだ。いま、完全に制度から離脱するには、10年で計算するとまだまだ元がとれない。けれど、FiT導入から10年、これまでの実績からみると、太陽光発電設備の耐用年数は10年どころではないことが明らかになってきている。パワーコンディショナの交換などのメンテナンス費用はかかるが、20年、30年と使い続けられることがわかってきている。となると、それだけの年数で設置コストとメンテナンスコストの合計を割り算するつもりがあれば、実は既にkW30万円というのは合理的な人なら「新築するなら太陽光載せるのは当たり前じゃない」と判断できるだけの数字になっている、ということなのだ。

 

さて、そうなると、この度、経産省が制度からの離脱を検討し始めたというのは、遅きに失したと批判を受けても、「太陽光発電を見捨てるのか!」という批判にはまったく当たらないことがわかるだろう。

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むしろ、遅すぎるのだ。もう5年も前にやめてもよかったし、その数年前に買取価格はいまの半額にしてもよかった。なのにそれをやらなかったから、「太陽光を設置できる金持ちをなぜ優遇しなきゃいけないんだ!」という批判にも晒されることになった。本来金持ち優遇ではなかったし、そうであってはならない。ちなみに私の家も2010年に太陽光発電設備を設置しているが、当初の計算では「10年では元がとれない」だった。幸いにいろいろなラッキーが重なってどうにかこうにか10年で設置費用ぐらいは回収できそうになったが、当初はむしろ、「未来の世代のために代替エネルギーを普及するのだから少しは負担をしよう」ぐらいの考えだった。本来はそれでいいのだ。

 

さて、ここからは現場から見た経験を踏まえての批判なのだが、では、なぜ買取価格を政府は下げられなかったのか、そして買取価格保証制度の廃止をもっと早期にできなかったのか、その理由だ。それは、一言でいってしまえば利権だろう。

太陽光関係の仕事をしていたとき、業者が暗い顔をしてはよく愚痴ったものだ。「来年は買取価格が下がるそうですね。政府はいったい、太陽光を普及したいのかどうか、私らにはわからんですよ。もっとやれと補助金を出してるからどんどん儲かるのかと思ってこの仕事を始めたら、ハシゴ外されるでしょう。私ら振り回されてばっかりですわ」。そんな感じの政治不信は、業界では普通だった。

私としては、「アホか」と言いたいのをぐっとこらえるのが精一杯だった。さいしょっから、政策は価格を下げていくと明言している。それを「これからは太陽光だ! 親方日の丸だ!」と誤解して過剰な投資をやったのはおまえらの不勉強だろうと、呆れるしかなかった。だが、そんなふうに思いながら事務仕事をしている脇で業者と話している担当者は、「いや、だいじょうぶですよ。これからの時代、太陽光に政府が力を入れることはもうまちがいないですから」みたいに根拠のない慰めをしていたのだ。それは、担当者自身がそう信じていたからにちがいない。つまり、不勉強だったのは、業者だけではない。役所の人間さえ、自分たちの親方が何を目論んでいるのかを知らなかったのだ。

 

だから、急速に伸びた太陽光業界が、「いまここで買取価格を下げられたら私らは潰れる、失業率が増加する、それでいいんですか」と政治に脅しをかけたら、政府としては業者のアホさなんて指摘するわけにもいかず、諾々と高価格を維持するしかなかったのだろう。また、行政の末端で太陽光発電の普及に当たる人々も、過剰なインセンティブがあったほうが仕事がしやすいので、買取価格が高値維持されることは歓迎だった。情ないのは、行政の人間が、「これだけ儲かるから」と業者の片棒をかつぐような広報をしていたことだ。むしろ、金銭的なインセンティブは市場に任せて、なぜ代替エネルギーが必要なのかとか、それをどのように実現したいのかとか、そういったことを広報すべきだっただろう。そして、FiT制度が正しく運用されるように世論を誘導すべきだったのだと思う。

長くなったが、書きたいことの半分にも届いていない。それでも、これだけでも現状の批判がどれほど的外れか、少しは想像してもらえるのではないかと思う。少なくとも、「政府が太陽光発電を見放した」みたいな捉え方や、「太陽光発電なんて元々おかしいんだ」みたいな考え方が思いっきり的外れだってことは、理解してもらえるんじゃなかろうか。

 

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追記:時間の隙間で書いたんで勘違いしてた。どうやら今回の話はメガソーラーが対象のようだ。ということで、私の批判点の第一の項目の方を書かねばならなかったようだ。やれやれ、また宿題が増えた。