エクセル問題に決着をつけるとしたら - まずは仕様策定が必要なんじゃない?

神エクセル? エクセル方眼紙?

少なくとも何ヶ月かに1回は、ネット上で「紙Excel問題」が話題になる。いい加減食傷気味ではあるのだけれど、うんざりしながらも私だってそのたんびに「Excelはどうにかしてくれ」と言ってしまう。たとえばこんな話題なんかにも、ついコメントしてしまう。

togetter.com

なぜ方眼紙的なExcelが問題なのかは、もう語り尽くされている。細かいことは省いて列記すると、

  • データが格納されている場所が恣意的で、使い回しが困難
  • 数式やマクロが存在した場合、メンテナンスが困難
  • 本来「表計算」ソフトであるはずなのにそれをレイアウトソフトとして使用しているため、文書作成に特殊技能が要求される
  • レイアウトソフトでないものでレイアウトしているため、書式の変更その他でデータを継承する際に、さらに複雑な技能が要求される
  • 用途外の使用を行っているため、環境依存の使い方やファイルの肥大など、想定外の問題が発生する

といったところだろうか。ついでに、それに対するExcel擁護派の主張は

  • なんだかんだいってもそれで用が足りる。それ以上のツールが見当たらない
  • ビジネス用途のPCには基本的に入っているので、汎用性が高い
  • ワードがアホ。パワポで作ったら数式を入れられない
  • グラフが簡単に描ける。データの分析もしやすい

みたいなところだろうか。

そして最終的な結論として、たいていはどっちも譲らないのだけれど、中間派の割と説得力のあるものは、「もっと使いやすいツールを誰か作ってくれよ」ということになるだろう。

私自身は、用途に応じてツールを使い分ければ済む話だと思っている。10年以上のLinux使いとしては、オープンソースの世界に必要なツールが揃っていることを声を大にしていいたい。ただ、使い分けにはそれなりの年季が必要だ。汎用性とか言われたら、「やっぱりExcelで作っとくか」みたいなことにもなる。だから、「Excelに代わるソフトを!」という意見も、それなりにもっともなのかなあと思う。

ただ、「じゃあ、それってどういうもの?」といったときに、おそらくそれはひとりひとりの中でイメージが大きくちがうんじゃないかと思う。イメージがちがうから、誰かにとっての「Excelに代わる、Excelを超えるアプリケーション」は、別の人にとってはそうではない。よく見る応酬は、「レイアウトするんならInDesignでやったほうがよっぽどキレイで早いじゃない」というDTP派の主張に対する「そんな高コスト(ソフト代、学習コスト)じゃ話にならない」「印刷物に手書きする書式だけの話じゃない」ってものだろう。Excelは書式の作成だけじゃなく、その書式に対して入力をしていくためのツールでもあるわけだから、レイアウトソフトの出番じゃないという意見には一理ある。けど、だからといってExcelでレイアウトするなんて、DTP触った人間には寒気がするものであることも、実感としてわかる。

Excelをまるごと代替するものは、しょせんExcelの改良版でしかない。そうやってExcelというソフトそのものがどんどん肥大化してきた歴史がある。基本的な機能は20年前、30年前と変わっていない。Excel(というか表計算ソフト)は、どこまでいってもExcelだ。その合理性も非合理性も、改良と肥大化を重ねても変わりはしない。

となると、「代替ツール」を考えるためには、いっぺん根本に戻って、ユーザーがどういうツールを必要としているのか、きっちり仕様を詰めておかねばならないのではないか。そして、そういう作業さえすれば、案外とこの長年にわたった独占状態も崩せるんじゃないだろうか?

なんでエクセル使うの?

では、ビジネスの現場では、どういうニーズがあるのだろう? ここから先は私の観測範囲だけのことなので、信頼性は高くない。問題提起と思って読んでくれればいい。とりあえず列記する。

  • 文書作成機能。罫線を引き、表組みを作り、出力したらそのまま書類として利用できるレイアウトをする機能
  • 入力機能。与えられた書式に対して必要な数値や文字列を記入する機能
  • 計算機能。入力された数値や文字列に対して自動的な処理を行う機能
  • データベース機能。入力された数値や文字列をデータとして保存・処理・活用する機能

このように分析してみれば、なぜExcelがこれほど愛されているのかがわかる。たとえば、文書作成機能だけ見れば、DTPソフトが最強として、慣れればワードやパワポのほうが使いやすかったりもする。ところが、そうやって作成されたデータには、入力がしにくい。DTPソフトで出力されたPDFに上書きするのはけっこう面倒だし(AdobeAcrobatとかIllustratorでPDFに追記するとか、オープンソースならXournalとかInkscapeとか)、ワードやパワポはすぐにレイアウトが崩れる。環境依存性も、Excelが最も小さいように感じる。だいたいが、PDFやPPTに入力されたデータなんて、どうやって使い回す? 一方、データベース機能ならそりゃデータベース専用のアプリケーション、たとえばAccessが当然有利なわけだけど、じゃあAccessの文書作成機能はどうなのかといわれたらExcel派には敷居が高いだろうし、気楽に計算機能をつけていくには学習コストが高い。初心者から上級者まで、さらにはレイアウトからデータ分析まで、多様な場面での多様なニーズにそれぞれそこそこに応えられるソフトは、確かに他にはない。

ビジネス文書には、多くの場合、書式をつくるユーザー(一次作成者)と、その書式を活用するユーザー(二次作成者)が存在する。たとえば営業報告書。報告書の書式を作成するのは上司で、それにデータを入力していくのは部下だろう。そして、そのような現場では、一次作成者のスキルは決して高くない。多くの場合、二次作成者としてデータ入力を繰り返す中でスキルを身につけていく程度の学習しかしていない。そしてExcelでは、そのハードルが非常に低い。日々、データ入力をして操作になじんでいれば、ちょっとだけ調べれば、すぐに一次作成者へとステップアップすることが可能になっている。

ということで、根っこは深いのだけれど、だからといって諦めるのは早いだろう。それぞれの機能にとって、「なぜExcelが使われているのか」をもう少し考えてみれば、出口が見えてくるように思える。

最強の入力ツールはブラウザでは?

まず、最優先で考えるべきなのは、入力機能だ。なぜなら、Excelを最も多く使うのは二次作成者だからだ。Excel擁護派の「ビジネスPCには必ずExcelは入っている。だから汎用性が高い」という主張も、二次作成者を念頭に置いたものであることは明らかだからだ。

そして、そう考えたときに、データ入力そのものにはほとんどExcelの機能は使わないのだということに気がつく。入力者は数字や文字が所定の場所に打ち込めればいいのであって、それはExcelとは無関係な文字入力だけの問題だ。ただ、文字入力する前提として入力するフィールドが何らかのアプリケーション上で開いていなければならない。それを開くためのアプリケーションとして、フィールドを作成したアプリケーションであるExcelがそのまま活用されているわけだけれど、ここは切り離してもかまわないことに気がつく。

となると、最も汎用性が高いアプリケーションは、現代ではExcelではなく、Webブラウザだということがわかる。いくらビジネス用PCではデファクトスタンダードだとはいえ、Excelは家庭用PCにはインストールされていない。さらに近年は、PCではなくモバイル端末が使われる機会も多い。というよりも、世の中は挙げてモバイルファーストの時代なのだ。モバイルでもExcelを開くツールが存在するとはいえ、モバイル端末から利用するのなら文書は基本的にブラウザで開けるようになっているのが好ましい。ブラウザで開ける文書であれば、どんな端末からでも利用できて、ビジネスでの幅がぐっと拡大する。これを使わない手はない。

Webデザイナーじゃあるまいし

入力機能にブラウザを使うとしたら、一次作成者はブラウザで開ける文書をつくらなければならない。そして、この部分のハードルが非常に高い。Webデザイナーならともかくも、専門知識のない人間にとって、ブラウザから入力可能な文書をExcelで表組みをつくるぐらいの気軽さで作成するなんてことはおよそ不可能だ。素人が気軽にいじれるようなGUIツールもない。

根本的な理由は、Webブラウザで開く文書は基本的にオンラインで使われるものであって、伝統的にはHTMLであるにせよ、現代ではCMSのようなサーバーごとにインストールされているシステムを使うものであることにあるのだろう。つまり、文書は特定のサーバーに格納され、それに対してユーザーはオンラインでアクセスする。これは、Excelのように個別の二次作成者が個別に自分のパソコンに文書を保持しているような使われ方とは大きくちがう。二次作成者自身は、データが自分のローカルにあろうがオンライン上にあろうが、どうでもいいだろう。だが、一次作成者にとっては、「ちょっと文書が作りたいな」と思ったときに、ローカルで作業できないのは困る。いちいち管理者権限でCMSにアクセスできるようにするわけにもいかない。制限した権限を与えて自由に文書作成ができるようにしてもいいのだけれど、Excelでゴニョゴニョやるのに比べたら学習コストは比べ物にならないぐらい大きい。

しかし、言葉をかえれば、このあたりさえどうにかできたら、問題は一気に解決できるのではないだろうか。Excelファイルと同じような感覚で一次作成者が気楽に書式を用意でき、それを二次作成者がブラウザで入力できるような仕組みがうまくつくれれば、Excelに頼る必要はなくなる。なぜなら、ブラウザで入力したデータをデータベースに整理するように設計することは困難ではないし、データベース化されたデータを使い回すのに文句をいうような人もいないわけだから。

ブラウザで開いただけで実行できるローカルファイルって、ない?

では、どんな設計にすればローカルで作成したデータをブラウザで扱えるようになるのだろうか。これは案外と厄介だ。たとえば、ローカルのHTMLファイルをブラウザで開くことには、何の困難もない。そこに表組みを作成しておくことも入力フォームを設置することも(現状、使いやすいGUIツールに問題があるとはいえ)簡単だ。だが、その入力フォームに入力したデータをデータベースに保存しようと思ったら何らかのエンジンを起動しなければいけないし、そのためにはたとえばLAMP環境を用意したサーバー上にファイルを置かねばならないとか、急速に話がややこしくなる。その関係の人々にとっては何らややこしいことじゃないのだろうと想像するけれど、ビジネスの現場でちょっと書式でも作っとこうと思ったおっさんにとっては、とてつもなく煩雑な手続きになってくる。

それを回避するためには、サンドボックス的に実行可能な環境までを組み込んだコンテナとしてファイルを用意することだろう。セキュリティ的に工夫は必要なのかもしれないが、外部から見たら1ファイルに見えるようなコンテナの中に、そのコンテナ内のデータファイルだけを変更可能な実行ファイルを予め組み込んでおく。このコンテナをブラウザで開いたときには、その実行ファイルがエンジンとなって、コンテナ内に用意された書式がブラウザ上で表示され、そこに入力したデータはコンテナ内のデータベースに格納される(そうすればローカルにおける相対位置みたいなことで悩むこともない)。そういうコンテナを設計できないだろうか。

一次作成者は、「Excel代替ソフト」を起動し、書式を作成する。それを保存すると、自動的に上記のようなコンテナが生成される。それを二次作成者に配布して(あるいはサーバー上に保管して)、データの入力を求める。サーバー上に置いたファイルに入力されたデータは既に一元管理されているわけだが、個別に配布されたファイルを集計する場合には、それが自動で可能になるような機能も欲しい(現状のExcelでは手動でコピペするのが大半だと思うが、マクロを組めば自動収集は可能だ。それを最初から実装しておくのは困難ではないと思う)。その上で、データをcsvで書き出すようにしておけば、あとはそれこそExcelでもデータベースソフトでも、好きなもので使い回せばいい。なんなら、書き出しと同時にExcelが起動するようなデフォルト設定にしといたってかまわないだろう。

方眼紙機能は、必要なんでしょうね

そういうフローを想定した場合、二次作成者に関しては何の指示も不要だ。ファイルタイプがブラウザと紐付けさえされていれば、ファイルを渡して(あるいは場所を指定して)「入力しといて」というだけでいい。たとえば「交通費の精算はここに入れといてね」で、十分だ。だから、ソフトウェアの作り込みとして重要なのは一次作成者の使用する「Excel代替ソフト」だろう。これが現状のExcelよりも十分以上に使いやすいものでなければ、だれも振り向かない。

現状のExcel人気は、その「方眼紙機能」だ。設計者の想定していないこの機能は、つまり、目視でx−y座標を定め、そこに目視で一定の大きさの枠をつくることができるということである。

これが他のソフトでできないかといえば、それはもう簡単にできる。たとえばワードだと(自分で普段使わないのでこのあたりはウロ覚えだけど)デフォルトでは図形描画はインラインになっている。これを用紙端からの絶対位置にしておいて、その上でグリッド機能を使えば、ほぼExcelと同じように使うことができる(はずだ)。ただ、その場合、文字を打とうと思ったらいちいちテキストボックスを作成しなければならない。そういうレイアウトソフト的な使い方をするのなら、まだパワポのほうがマシかもしれない(LibreOfficeなら図形描画のDrawがいちばんやりやすいと思う)。しかし、何にせよ、文字を入力したいところにそのままカーソルをもってきて入力できるExcel方眼紙にはかなわない。

ならば、そういう機能を実装すればよろしい。グリッド幅を2ミリとか3ミリにデフォルト設定しておいて、その単位で画面端からの場所をクリック操作でスタイルシートに書き込んでいくようなソフトなら、そんなに難しくはないのではなかろうか(どこまでをスタイルシートで指定してどこまでをドキュメントファイルに書き込むのがいいのかはよくわからないけれど)。データ入力フィールドは、デフォルトでは作成順にデータベース上の位置が指定されるようにしておく。タブ移動順の指定とか、そのあたりはAccessのようなデータベースアプリケーションの実装と同じようにすればいいだろう。印刷時のレイアウト崩れなどが発生しないようにブラウザ依存性を下げるにはどうすればいいのかとか、ちょっとシロウトには想像しにくいところもあるけれど、最近のウェブサイトの作りこみとか見てたらけっこう大丈夫じゃないかというような気はする。

諦めるのは哀しい

方眼紙は文化だとか日本人の性格だとか日本語の特性だとか、確かにそういう側面もあるのかもしれないが、重要なポイントは代替手段として「こうすればいい」というのが用意されていないだけの問題ではなかろうか。私は自分の経歴上、印刷書式つくるならDTP、データをいじるならデータベースソフトがよりよい選択肢と思うのだけれど、いずれも総合的に見たら難がある。仮にフロントエンドをIllustratorみたいな描画ソフトで美しく仕上げたって、じゃあ入力環境はどうするみたいな問題が発生する。入力されたデータがcsvできれいに整っていても、どうせそれを分析するのにExcel使うんだったら最初っからExcelでデータ入力しておいてよという気にもなる。

ひとつのツールで書式の作成から入力、データ処理までを一貫してやろうとしたら、どうしてもそのアプリケーションはExcelみたいになる。それを複数のツールを使ってもストレスなく一貫した作業ができるようにすることが重要で、そのためには特に汎用性の高い入力環境としてWebブラウザを採用し、その前後が素人レベルで軽快に行えるような「Excel代替ソフト」を開発する必要がある。

そんな「Excel代替ソフト」があれば、もう不毛な「紙Excel問題」は蒸し返さなくて済むようになるのではないか。意味不明の扱いにくいExcelファイルに困惑することがなくなれば、どれほど生産性が上がることか。そして願わくは、そのツールがオープンなものとして広く利用可能なものであって欲しい。特定の会社の特定の製品を買わなきゃ仕事ができないなんてことが許されるような時代じゃないんだからね。

文章を書くことを教えるのはむずかしい - 教育課程も混乱している?

作文教育は行われているのか?

日本人は論理的な文章を書くのが苦手だと言われている。国際化のこの時代、論理的な文章を書くことの重要性は再三指摘されている。国際化というだけではない。論理的な文章は論理的な思考と表裏一体の関係にある。非論理的な思考では現代社会は立ちいかない。論理的な文章が苦手ということは、現代社会で生きていくうえで大きな障害になりかねない。

論理思考の欠如は日本文化であるとか国民性であるとか、生得的に変えられないもののように言われる場合もある。そういう側面もあるのかもしれないが、それ以上に教育によるものであるように思えて仕方ない。論理的な文章を書く訓練を受けていないから、書けない。それだけのことのように思う。

いつも感じているそんなことを改めて思ったのは、こんな記事を見かけたから。

toyokeizai.net

この記事のタイトル、まるで日本では作文教育が行われていないかのような印象を与える。ところが、実際には作文は小学校から中学校にかけての国語科の定番だ。だから記事中でも、問題にしているのは高校、大学の作文教育だ。そこで話がかみ合わないのに気づく。「作文」って何?

さく‐ぶん【作文】
[名](スル)
1 文章を書くこと。また、その文章。
2 小・中学校などで、国語教育の一環として、児童・生徒が文章を書くこと。また、その文章。綴 (つづ) り方。
3 (略)

デジタル大辞泉

「2」によれば、見事に、高校・大学は除外されている。そりゃあ、記事にあるように「大学でも高校でも、作文の指導をまじめにはやっていません」というのはあたりまえ、ということになる。

ただし、「1」の意味で考えれば、「文章を書くこと」は高校・大学に入ってさらに重要になるのだし、それが教えられていないのはおかしいということになる。けど、それを「作文教育」と言ってしまっていいのだろうか? 少なくとも教育業界で通用している「作文」の用法からいえば、ちょっとちがう。とはいえ、教育業界のジャーゴンは信用すべきではない。

たとえば、教育業界でふつうに使われている「勉強」という単語は、公式には一切使われていない。学習指導要領にもその解説書にも1回も出てこない。同様に、「宿題」という用語も公式には使われない。「作文」もその類で、文部科学省の文書には出てこない。それでは公式にはこのあたりはどう定められているのか。学習指導要領によると

(小学校1〜2年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 経験したことや想像したことなどから書くことを決め,書こうとする題材に必要な事柄を集めること。
イ 自分の考えが明確になるように,事柄の順序に沿って簡単な構成を考えること。
ウ 語と語や文と文との続き方に注意しながら,つながりのある文や文章を書くこと。
エ 文章を読み返す習慣を付けるとともに,間違いなどに気付き,正すこと。
オ 書いたものを読み合い,よいところを見付けて感想を伝え合うこと。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 想像したことなどを文章に書くこと。
イ 経験したことを報告する文章や観察したことを記録する文章などを書くこと。
ウ 身近な事物を簡単に説明する文章などを書くこと。
エ 紹介したいことをメモにまとめたり,文章に書いたりすること。
オ 伝えたいことを簡単な手紙に書くこと。

 

(小学校3〜4年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 関心のあることなどから書くことを決め,相手や目的に応じて,書く上で必要な事柄を調べること。
イ 文章全体における段落の役割を理解し,自分の考えが明確になるように,段落相互の関係などに注意して文章を構成すること。
ウ 書こうとすることの中心を明確にし,目的や必要に応じて理由や事例を挙げて書くこと。
エ 文章の敬体と常体との違いに注意しながら書くこと。
オ 文章の間違いを正したり,よりよい表現に書き直したりすること。
カ 書いたものを発表し合い,書き手の考えの明確さなどについて意見を述べ合うこと。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 身近なこと,想像したことなどを基に,詩をつくったり,物語を書いたりすること。
イ 疑問に思ったことを調べて,報告する文章を書いたり,学級新聞などに表したりすること。
ウ 収集した資料を効果的に使い,説明する文章などを書くこと。
エ 目的に合わせて依頼状,案内状,礼状などの手紙を書くこと。

 

(小学校5〜6年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 考えたことなどから書くことを決め,目的や意図に応じて,書く事柄を収集し,全体を見通して事柄を整理すること。
イ 自分の考えを明確に表現するため,文章全体の構成の効果を考えること。
ウ 事実と感想,意見などとを区別するとともに,目的や意図に応じて簡単に書いたり詳しく書いたりすること。
エ 引用したり,図表やグラフなどを用いたりして,自分の考えが伝わるように書くこと。
オ 表現の効果などについて確かめたり工夫したりすること。
カ 書いたものを発表し合い,表現の仕方に着目して助言し合うこと。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 経験したこと,想像したことなどを基に,詩や短歌,俳句をつくったり,物語や随筆などを書いたりすること。
イ 自分の課題について調べ,意見を記述した文章や活動を報告した文章などを書いたり編集したりすること。
ウ 事物のよさを多くの人に伝えるための文章を書くこと。

 

(中学校1年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育成するため,次の事項について指導する。
ア 日常生活の中から課題を決め,材料を集めながら自分の考えをまとめること。
イ 集めた材料を分類するなどして整理するとともに,段落の役割を考えて文章を構成すること。
ウ 伝えたい事実や事柄について,自分の考えや気持ちを根拠を明確にして書くこと。
エ 書いた文章を読み返し,表記や語句の用法,叙述の仕方などを確かめて,読みやすく分かりやすい文章にすること。
オ 書いた文章を互いに読み合い,題材のとらえ方や材料の用い方,根拠の明確さなどについて意見を述べたり,自分の表現の参考にしたりすること。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 関心のある芸術的な作品などについて,鑑賞したことを文章に書くこと。
イ 図表などを用いた説明や記録の文章を書くこと。
ウ 行事等の案内や報告をする文章を書くこと。

 

(中学校2年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育成するため,次の事項について指導する。
ア 社会生活の中から課題を決め,多様な方法で材料を集めながら自分の考えをまとめること。
イ 自分の立場及び伝えたい事実や事柄を明確にして,文章の構成を工夫すること。
ウ 事実や事柄,意見や心情が相手に効果的に伝わるように,説明や具体例を加えたり,描写を工夫したりして書くこと。
エ 書いた文章を読み返し,語句や文の使い方,段落相互の関係などに注意して,読みやすく分かりやすい文章にすること。
オ 書いた文章を互いに読み合い,文章の構成や材料の活用の仕方などについて意見を述べたり助言をしたりして,自分の考えを広げること。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 表現の仕方を工夫して,詩歌をつくったり物語などを書いたりすること。
イ 多様な考えができる事柄について,立場を決めて意見を述べる文章を書くこと。
ウ 社会生活に必要な手紙を書くこと。

 

(中学校3年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育成するため,次の事項について指導する。
ア 社会生活の中から課題を決め,取材を繰り返しながら自分の考えを深めるとともに,文章の形態を選択して適切な構成を工夫すること。
イ 論理の展開を工夫し,資料を適切に引用するなどして,説得力のある文章を書くこと。
ウ 書いた文章を読み返し,文章全体を整えること。
エ 書いた文章を互いに読み合い,論理の展開の仕方や表現の仕方などについて評価して自分の表現に役立てるとともに,ものの見方や考え方を深めること。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 関心のある事柄について批評する文章を書くこと。
イ 目的に応じて様々な文章などを集め,工夫して編集すること。

引用が長くなったが、学習指導要領を見る限り、論理的で読みやすい文章を書くための国語教育は、段階を踏んで着実に行われるようになっている。多くの教科では、義務教育の9年間で社会生活に必要なだけの基礎を身につけるように課程は工夫されている。英語なんてわずか3年間で英文法の基本を身に着けて日常会話ができるように組み立てられている(実際にそれができるようになっていないのは別の話として)。国語教育でも、義務教育の9年間にしっかりとした文章が書けるようになるはずだと、この指導要領を見る限りは思える。

「作文」と生活綴方 

「作文」が辞書にあるように「 小・中学校などで、国語教育の一環として、児童・生徒が文章を書くこと」であるのなら、上記の指導要領の目標を達成するための手段として「作文」が実施されているはずだと、そう考えて差し支えないように思える。しかし、実際にはそうではない。誰だって、自分自身の学校時代を振り返ってみればわかるはずだ。

日本の国語教育で、「作文」はどのような位置づけにあったか。それは、「生活綴方」の巨大な影響を抜きにしては語れないだろう。「巨大な影響」というのは、私のようなその道のシロウトでも無着成恭の「山びこ学校」は読んだことがあるし、そこで主張されている綴方の直系のものとしての作文教育を受けた記憶がある、ということだ。生活綴方については「山びこ学校」を読めばイメージがわかる。大雑把な私の理解をまとめれば、技巧や定型にはまることなく、自分自身の言葉で自分自身の生活に根ざしたリアルを作文にまとめることを目指す思想だ(もっと正しい理解には、このあたりの論文「戦後作文 ・綴 り方教育史研究」や「無着成恭編 『山びこ学校』の成立 とその反響」いずれも菅原稔、「戦後生活綴方教育全盛の時代」奥平康照、さらにそれ以前の事情については「生活綴方成立史の研究」岡屋昭雄あたりを読むべきなんだろうな)。それはそれで実際、とてつもなく重要なことだと思う。定型的な文なんてほぼ無意味だし、中身の伴わない技巧なんて吐き気を催させる以上の機能はない。

実際、私がかつてお世話になった方々の中に一条ふみさんという女性がいるのだが、彼女が編纂した生活記録文集は凄まじいほどの力をもっていた。いくつかを読ませていただき、最終的にはその一部を託されてしまったのだけれど、私にはそれをきちんと生かすことはできなかった。それでも、その力はわかる。そんな実践をされていた人々が日本にいたことは、誇りですらある。

上記の岡屋論文に記載された国分一太郎によると、生活綴方における教育課程は

ワタクシタチハ、コノヨウナ文章ヲ書カセルスベテノ過程デ、マタ、ソノ作品ヲ集団ノナカデ研究シ吟味シ、ソレニツイテ話シアイヲサセル過程デ、子ドモタチニ、(1) 事物ノ姿ヤウゴキヤソノ相互ノ関係カラ意味・ネウチヲ見イダシ、事実ニモトヅイタ思想・感情ヲ形ヅクル態度ヲシダイニツクリアゲ、(2) 自然ヤ社会ノ事物ニツイテノ正シクユタカナ見方、考エ方、感ジ方ヲシダイニ養イ、(3)書キ手自身ノ観察力・想像力・思考力ヲノバシ、頭脳ノ能動性・創造性ヲシダイニ発達サセ、(4) コノコトニヨッテ、子ドモタチニ、自由ナ個性的ナ自我ヲ確立サセルトトモニ、(5) 人間的ナ社会的ナ連帯感ヲ、シダイニ育テテイクコトヲ目ザスノデアル。(6) 一方日本語(単語・文法・文章・文章構造ナド)ヤ日本ノ文字ニツイテノ意識的ナ自覚ヲウナガシテイクノデアル。

となっている。事実をありのままに観察し、その相互関係に関して考察し、それを通じて自我を形成していくという教育方法は、現代においても有効なものだと思う。そして、その実践を通じて表現手段である日本語を手中にしていくというのも、また一つの正しい道であるように思う。

そんなふうに、生活綴方運動そのものに対して、私は何ら否定的なことを言うつもりはない。だが、そのインパクトによって日本の作文教育は奇妙にゆがんでしまったのではないかと思う。それは、生活綴方が目指したものでは決してないはずだ。

生活綴方の負の遺産

上記の菅原論文には「「生活 を勉強するための,ほんものの社会科をするため」の指導を,「綴方を利用」 し「綴方で勉強」することを目指 して,作文 ・綴 り方教育に取り組んだ」と、当時の考え方が述べてある。すなわち、生活に密着したところから学問を作り上げていくその出発点として自分自身の言葉で自分自身の観察を報告する。それは強調しても強調し過ぎることがないほど重要なことだ。あらゆる学問はそういうふうにはじまるべきだとさえいえるだろう。

そして、当然の帰結として、その書かれた言葉が真実であるかどうかが問題とされ、それがどのように表現されているかということは二の次、三の次となる。美しく飾られた文章よりは、稚拙であっても自分自身の偽りのない報告を行ったものが高く評価される。それもまた、それでいいだろう。

実際、私の息子が通った保育園では子どもたちの言葉を保育士がメモして記録している。子どもたちが日常の中でふともらす宝石のような言葉は、息を呑むほどだ。教えこまれ、暗記した美辞麗句なんかとは比べ物にならない世界がそこに広がっている。

だが、それを重視するあまり、技巧や定型を極端に蔑視する傾向が日本の国語教育業界に残らなかっただろうか。たとえば小学校の作文。生徒が、何を書いたらいいのかわからない。そういう状況はふつうに発生する。そんなとき、教師はどう指導するか。「感じたまま、考えたことをそのまま、書いたらいいんだよ」というのが、日本の作文教育であるように思う。けれど、それってどうやって泳げばいいのかわからない人を説明抜きで水に放り込むようなことではないか。誰だって、感じたこと、考えていることはある。それを表現するためには、相応の技術が必要だ。その技術を教えない。なぜなら、技法は評価しないという奇妙な不文律が「作文」をめぐっては存在するからだ。最低限の作法、原稿用紙の使い方であるとか、「ですます調」と「だである調」の使い分けとか、そういうところは採点の対象になる。しかし、本当に重要な論理構成であるとかセンテンス構造であるとかは、基本的に放置される。それって指導要領と乖離してるじゃないかと外野は思うのだが、国語教師はそうは思わないらしい。

読みやすい文章を書くには?

いったい、読みやすい文章、論理的な文章を書くためには、どのような技術が必要なのだろうか。こんな読みづらいブログを書いておいて私が言うようなことじゃないのだけれど、それは独立したいくつかの技術に分けられるだろう。

まずひとつは段落構成だ。多くの場合、序論・本論・結論とか起承転結とか気楽に語られるが、これにはさまざまなバリエーションがある。いろいろなコツもあって、それを語り始めたら本が一冊書けてしまう。

文法的な理解も、いい文章を書く際には意外と役に立つ。これは品詞の分類とか活用形とか、そういった学校文法的なことではない。そういう知識が多少役立つ場面もあるが、たとえば主語と述語に見られる規則性であるとか、品詞の入れ替えによるセンテンスの改良であるとか、敬語の文法的な位置づけであるとか、センテンスの分割法であるとか、文法知識に裏づけられたそういった実用的な技法はけっこうある。こういうものが読みやすい文章に寄与する場面は意外に少なくない。

さらに、いい文章を書くには、事前準備も重要だ。書きたいテーマがあっても、それだけでは説得力のある文章は書けない。取材や調査があって、はじめてしっかりした根拠ができる。そして、そういった根拠については、必要に応じて引用や参照ができるような工夫もたいせつになってくる。

素材が整っても、すぐに書き始められるわけではない。最初にあげた段落構成とも関わってくるのだが、段落構成を考える以前に、あらかじめネタを広げて全体を鳥瞰して見る作業を行っておくことが有効な場合もある。

そして、これらを含みながらまた独立した技法として、推敲がある。推敲作業は個人的なものであるが、ドラフトを読んでもらったり、あるいはそれをもとに討論をするなどして深めていく作業も、よい作品をつくる上で有効であることが実証されている。

というようなことを念頭に、改めて上記に引用した学習指導要領を眺めてみると、実に、学習指導要領はそれを網羅するようにできていることがわかる。しかも、小学校低学年から一貫して、段階を踏みながらそれを身につけられるようになっている。素晴らしい!

そして学校の実態は…

だが、現実はどうか? そんな作文指導が行われているか? 私の観測範囲(つまり年間十数名の家庭教師の生徒×5年の経験)からいえば、否だ。では、国語教師は学習指導要領を読んでいないのか? そんなことはないだろう。仮に読んでいないとしても、その扱う教科書、教材の制作者は読んでいる。彼らのなかに読んでいない不届き者がいたとしても、全体の流れは指導要領が決めた方向に進んでいる。ただし、その定められた内容は、現実に合わせて往々に恣意的に解釈され、運用される。そして、素直に読んだときの「ああ、なるほど」「うん、これなら素晴らしい!」という感覚は、たいてい裏切られる。

作文、というよりも指導要領の文言に従えば「書くこと」の実際はどうなっているか? たとえば中学1年を例にとって、文部科学省の学習指導要領解説を参照しながら、それが実際にどういう扱いになっているのかを見てみよう。

まず、指導要領の(1)のアには
「日常生活の中から課題を決め,材料を集めながら自分の考えをまとめること。」
とあるのを受けて、指導要領解説には

「日常生活の中から課題を決め」るに当たっては,日常生活で直接体験したことを はじめ,他教科等で学習したこと,友人や家族から聞いたことの中から興味や関心を もったことなどが基になる。これらを「課題」として明確にするためには,何につい て,だれに向け,何のために書くのかを具体化する必要がある。特に,疑問に思った ことについて調べる,問題点について意見を述べるなど,文章を書く目的を明らかに することがその後の学習につながっていく。

と指導方針が記されている。では、そういうことを意識して作文を書くような指導をするかというと、そうではない。そうではなく、この節での試験問題は、たとえば例文があり、「これは誰に向けて書いたものでしょう」とか「何について書いたものでしょう」「何のために書いたのかをア〜エから選びなさい」みたいな設問をつけることになる。さらに

課題が決まったら,その課題に関連して「材料を集めながら自分の考えをまとめる こと」になる。材料を集める段階においては,本,新聞・雑誌,テレビ,コンピュー タや情報通信ネットワークなどの活用が考えられる。

という部分に対しては、「材料を書くときに利用できる手段として適切でないものをア〜エから選びなさい」みたいな問題を用意する。

そして次のイ「集めた材料を分類するなどして整理するとともに,段落の役割を考えて文章を構成すること」については、

第1学年ではそれを踏まえ,問題や課題などについ て述べる段落,集めた材料などについて分析する段落,それらを基に自分の考えや意 見を述べる段落など,段落の役割を考えて構成することを指導する。その際,段落の 役割を明確にするために,「さらに」,「たとえば」,「しかし」など,連接関係を 明示する言葉などを効果的に用いることも指導するよう配慮する。

と指導要領解説書にあるのを受けて、接続詞の穴埋め問題を用意する。「(   )にあてはまる適切な言葉を選びなさい」という問題だ。

ウ「伝えたい事実や事柄について,自分の考えや気持ちを根拠を明確にして書くこと」について、指導要領解説書には

記述に当たっては,接続語の使用 や段落構成の工夫などによって,読み手に対して,どの部分が根拠であるかが明確になるような表現上の工夫をすることが大切である。

とあるのを受けて、「下線部の根拠となっている部分の最初の5文字と最後の5文字を抜き出しなさい」というような問題で、指導要領の要請に応える。

そして、エ「書いた文章を読み返し,表記や語句の用法,叙述の仕方などを確かめて,読みやすく分かりやすい文章にすること」では、

「表記や語句の用法」を確かめるとは,文字や表記が正しいか,漢字と仮名の使い 分けが適切か,語句の選び方や使い方が的確であるかなどをみることである。また, 「叙述の仕方などを確かめ」るとは,文や段落の長さ及び文や段落の接続の関係など が適切であるかなどをみることである。

となっているので、「波線部の語句の使い方で適切でないものの記号を答えなさい」とか「A〜Dの段落を正しい順序に並べ替えなさい」というような問題が出題される。

オ「書いた文章を互いに読み合い,題材のとらえ方や材料の用い方,根拠の明確さなどについて意見を述べたり,自分の表現の参考にしたりすること」では、実際にそういった活動をするのではなく(少しだけはするにしても教師の情熱はそこにはなく)、そういった話し合いをしている模擬的な長文を読解問題の素材として出題することで事足れりとしている。

 

中学1年を例にあげたが、他の学年でも大同小異、つまり、教師は基本的に「問題を解くこと」の方に重心をかけていて、文章を書く能力を上げることにはあまり力を割いていない。そして、その言い訳のように、技法に走った作文の空疎さをあげつらい、拙い言葉でも真実が表現された作品の芸術性を賞賛する。しかし、良い物をより良くしていくためには、批判が重要であり、改善のためには技術的な助言が必要になってくる。それがなければ、拙いものはいつまでたっても拙いままであり、そこから真実を読み取るのは空気を読むような高等な読解力に頼らざるを得なくなる。それは普遍性を欠いている。

では、なぜ学習指導要領を曲解してまできちんとした作文指導を避けるのか。それはやってみればわかる。むずかしいのだ。ほんと、作文を書かせるのはむずかしいし、それを改善するのはさらにむずかしい。こっちもプロだから、いろいろと技はもっている。けれど、それを実践するには非常に時間がかかる。時間がかかる割に、成績には直結しない。そうなってくると、もっと点数に成果がすぐに現れてくるような「試験対策」をやってくれという要望が生徒家庭から出てくる。雇われ者の家庭教師としては、それに抗うわけにはいかない。

まして、数十人の生徒をいっぺんに預かる学校教師に、個別の生徒の発達段階に合わせた細かな文章上達のための指導ができるとはとても思えない。それでなくとも昨今は、全国学力調査の順位を気にする教育委員会からの圧力で、「得点能力」を重視するような指導にシフトせざるを得ない。良心的な教師は辛いだろうと思う。点取りゲームのコーチばっかりさせられたって、生徒のためになるもんじゃない。ま、それが生徒のためだと誤解してる教師が大半だろうから、あまり同情もしないのだけれど。

 

結局のところ、まともな文章を書けるような大人を育てたいのなら、受験制度を改めなければどうしようもない。誰だって受験では高く評価されたいのだし、そのテストの成績が文章を書く能力とは全く無関係な受験技術で決まるのなら、誰だってそっちに精を出す。そんなわかりきったことを放っておいて、「英語以前に作文教育をやるべきだ」もないもんだと思う。

この件に関しては、別な角度から、別な愚痴もあるのだけれど、あんまりとっちらかりすぎるのも何だから、ここはこのあたりでおさめておこう。しかしまあ、もうちょっと読みやすい記事が書けんのかね。たとえブログとはいえ。

それもこれも、まともな作文教育を受けなかったせいなので…

機械翻訳の時代に翻訳者はどう生き残るのか? - 「英語が得意」では食っていけない時代へと

機械翻訳がまた進化した、ようだ

20年ばかりも前に翻訳ソフトというものに初めて触れて以来、いつかは実用的なレベルの機械翻訳が現れると思ってきた。そして10年ばかり前、Googleが「あと10年で完全な機械翻訳を実現する」と言っているのを聞いて、「そりゃそうだろう」と思った。スマホ時代に入ってさまざまな翻訳アプリが登場し、最近ではGoogle翻訳の精度も増して、「やっぱりなあ」という感覚をおぼえることは度々だった。ただし、「それでもまだまだ」「この程度じゃプロの翻訳者が食えなくなることはない」という安堵感も同時におぼえてきた。そう、私は(既に収入面での比率は相当に下がったが)英和翻訳者として飯を食ってきたので。

ちなみに私は資格その他とは無縁の人生を送ってきたのだが、TOEICだけは過去に1回だけ受けたことがあり、そのときの得点は900点を超えている。まあ、そのぐらいなければプロの翻訳者としては苦しいだろう。だが、これからはそれでももっと苦しくなる。なにせ、いよいよ機械翻訳がそのレベルに近づいてきた。

news.mynavi.jp

このみらい翻訳という会社、以前から機械翻訳に関する製品開発を精力的に進めてきていて、2年ほど前には「2019年にはTOEIC800点程度の機械翻訳を」と言っている。その予定がかなり前倒しされたということなのだろう。

japan.cnet.com

で、同社のサイトにはデモが用意されているので、早速試してみた。

www.miraitranslate.com

テストのために使ってみたのは、このブログの一つ前の記事である。著作権の心配とかもないから。あえて名文じゃないほうがいいだろうとも思ったし。

上記の記事にあるように、多くの砲弾は戦場から帰還した軍人が記念として持ち帰り、奉納したものだろう。だが、平和な時代を数十年過ごし、神信心とも縁遠くなってしまった私達の感覚では、それでも「なぜ?」という疑問は晴らせない。たとえば、いかに元軍人とはいえ、武器をそう簡単に持ち出せるものでないことは明らかだ。一発何億円もするミサイルほどではないにせよ、砲弾はそれなりの有価物だ。演習での使用済み品や不良品その他の理由で不要とされたものであったとしても、下げ渡しにはおそらく相当に面倒な手続きが必要だっただろう。

 

As mentioned in the above article, a number of artillery shells would be taken home and dedicated to commemoration. But in the sense of our senses that we spent 10 years in peace and the faith of God became far away, why? The question is. It is clear, for example, that the military cannot easily carry weapons. Even though it is not as much as a missile that costs hundreds of millions of yen, artillery shells are valuable. Even if it was not necessary for used goods or goods or other reasons in the exercise, it would probably be necessary to do a very troublesome procedure.

最初のセンテンスは、ほぼ文句はない。ただ、硬いなあと思う。もうちょっと柔らかく訳して欲しい。とはいえ、そこらの下手くそな翻訳者ではこのレベルもいかない。

次のセンテンスも、アラはある。sense of our sensesなんて詩的な表現かと思ってしまう。それでも、「なぜ?という疑問は晴らせない」を「why」の一言で片付けるような大鉈は、過去の機械翻訳ではなかなかにできなかった。個人的にはここはもうちょっと原文に沿った訳をして欲しかったのだけれど、翻訳のコツとして「原文に沿いつつ、原文から離れる(不即不離)」というのをよく言うので、そういう意味では、コイツはデキる。

ただ、その後に、意味不明の「The question is」が入っているあたり、やっぱりアホなのかなとも思う。ひょっとしたら「疑問は晴らせない」をここにこんなふうにもってきているのかもしれない。だとしたら、まだまだ文脈は読めていない。

その次の文は「いかに」が訳せていない。それに「持ち出す」が「持ち運ぶ」になってしまっている。その次の文はまあいいとして、最後の文は、ちょっと文脈を見失ってしまっている。

ということで、「TOEIC900点以上」はちょっと大げさだと思うが、改良されたGoogle翻訳といいこのみらい翻訳のデモといい、確かに生ちょろい翻訳者よりはまともな文が書けている。ちなみに、このみらい翻訳のサイトには「統計的機械翻訳 (汎用モデル) 」と「統計的機械翻訳 (特許モデル)」のデモも用意されているが、どっちも同じ文で試したらダメダメで、意味が根本的にわかっちゃいない。そういう意味では、確かにAIというのかニューラルネットワークは強い。機械なんだから「理解している」というのとはちょっとちがうのかもしれないが、見かけ上は「理解している」のと非常に近似な挙動を返している。

翻訳者はどうなる?

さて、そうすると、翻訳者は今後不要になるのだろうか? ある意味ではそうだと言えるし、別の意味ではそうではないはずだ。つまり、「英語が読めます」とか「読みやすい日本語の文が書けます」といった語学力レベルだけで仕事をしている翻訳者は生き残っていけない。もちろんそういう翻訳者だって即応性が求められるようなオンサイトの翻訳なら利便性があり得るので絶滅まではいかないだろう。また、他の業務をやっていての兼務なら、やはり利便性を買われるケースもある。だが、専任で機械と競争するなんてむちゃな話になってくる。

しかし、翻訳者のやっていることはそのレベルの仕事だけではない。テキストとしてやってくる原文情報を大きな枠組みの中で判断して、最も適切なアウトプットを用意してやることもまた、翻訳者の仕事だ。そして、それはまだ機械翻訳が進出していない領域だ。機械にできないというのではない。単純に、まだそこまで対象として取り上げられていないというだけのこと。だから、しばらくの時間的猶予はある。

ビジネス文書がやってきたとき、それを翻訳することで、翻訳者はその文書に対するクライアントの反応をある程度誘導している。恣意的な誘導はすべきではないが、何らかの方向性が文書内に読み取れるのなら、その読み取ったことをクライアントに伝えるのは翻訳者の務めだ。たとえば詐欺的な請求文書なら、それが詐欺であることが明らかにわかるように訳出しなければ犯罪の片棒をかつぐことになる。そういった判断は、まだまだ機械にはできないだろう。また、そういう判断をされても困るのだし。

そんなふうに、コンテクストを読む仕事が、翻訳者に求められる。だが、その仕事は本当に翻訳の本質そのものなのだろうか。翻訳者の概念そのものが、これから先の時代、急速に変化していかねばならないようにも思う。

 

とはいえ、そういった変化を(あまり意識もせず)私たちは受け入れてきた。私が初めて翻訳で報酬をもらったときと10年前、そしていまとでは、明らかに翻訳に求められているものがちがう。言葉にするのはむずかしいが、ちがっている。いつか、そういうことも分析できたらおもしろいだろうな。機械に仕事を奪われてすることがなくなったら、やってもいい。もっともそのときには生きていくためにまた別のことで忙しくなっているのかもしれないが。

なんで大砲の弾が神社で見つかる? - 複合する歴史と心理

神社に見つかる旧日本軍の砲弾

少し前、大分を中心に砲弾が神社で見つかって自衛隊が出動したとか、ニュースが流れていた。数ヶ月前から断続的に話題に上るらしい。「あそこの神社にあったんだって」「そういえばウチにもあったな」みたいな感じで、連鎖的に「発見」されているようだ。

「発見」でも何でもなく、もともとそこにあることは多くのひとが知っていたはずだ。それがそこに置かれるようになった経緯も、はじめのうちは明らかだったはず。それが年月を経ていったん忘れられ、そして存在も経緯も知らない世代に発見された。

www.oita-press.co.jp

実際、砲弾が神社に奉納されているのは決して珍しいことではないようだ。というのも、どこだったか場所は全く覚えてないのだけれど、どこかの神社で実物の砲弾に触れた記憶が、確かに私の中にある。赤錆びて凹凸ができた表面に触れた感触が間違いなく残っている。そして私は大分県には一度しか行ったことがなく、その際に神社に立ち寄ったことはないのだから、これは大分県での話ではない。おそらく近畿圏のどこかにちがいない。

 

上記の記事にあるように、多くの砲弾は戦場から帰還した軍人が記念として持ち帰り、奉納したものだろう。だが、平和な時代を数十年過ごし、神信心とも縁遠くなってしまった私達の感覚では、それでも「なぜ?」という疑問は晴らせない。たとえば、いかに元軍人とはいえ、武器をそう簡単に持ち出せるものでないことは明らかだ。一発何億円もするミサイルほどではないにせよ、砲弾はそれなりの有価物だ。演習での使用済み品や不良品その他の理由で不要とされたものであったとしても、下げ渡しにはおそらく相当に面倒な手続きが必要だっただろう。そういう手間をかけてまで郷里に持ち帰り、そして神社に奉納する──そこには現代人の知り得ない何かがあったはずだ。 

私はそれを知りたいと思うが、ちょっといま、手掛りがない。私の母方の祖父は第二次世界大戦終戦時に海軍軍人であった。砲兵であったが開戦少し前に海軍省勤務となり、秘密火薬工廠の設立と運営に携わった。そのあたりの話はたぶん非常におもしろいのだけれど、私がきちんとしたことを聞けるようになる前に祖父は他界してしまった。だから、ごく断片的なことしか私は知らない。もちろん、旧海軍での砲弾の取り扱い規則のようなことも知らない。

それでも、ネットに見つかる少ない材料で多少の憶測をしてみようと思う。ずいぶん長いこと生きてきた私でさえ、どうもよくわからないところがある。まして、もっと若い人々にはさらによくわからないかもしれないのだから。

武器奉納の伝統

武器を神に捧げることは、古代からさまざまな民族でおこなわれてきた。それはもちろん、武器を神聖なものとして超自然的な力をそこに加えることを期待したものでもあっただろうが、一方では戦利品として奪った武器を神殿に納めることで勝利を永続する支配に変えようという願望があったのではないだろうか。たとえば、古代ギリシアアレクサンドロス大王は、小アジアでの戦利品である武器をアテネ神殿に奉納している(アレクサンドロス大王(合阪學))。

武器の奉納には、武器製造業を継続的に実施するためという側面もあったのではないかという興味深い分析もある。

垂仁天皇がなぜ武器を神祇に奉納する武器の神祇奉納体制をつくろうとしたかは明らかであった。一つはいうまでもなく、その軍事統帥者に率いられた新たな軍隊に死をも覚悟しうるだけの精神的支柱を与えるためであった。そして今一つは、その「新軍」を維持していくために必要な、恒常的な軍需物資の──しかも最先端の軍需物資の──供給体制を確立するためであった。

「古事記」「日本書記」の語る日本国家形成史 : 火と鉄の視点から(小路田泰直)2005

武器は、技術的な進歩が続いている間は、常に陳腐化する。したがって、常に最新の武器で装備をアップデートし続ける必要がある。そして古くなって時代遅れになった武器は神殿に納められ、超自然的な力でもって軍事力を補強する。そういった思想があったのかもしれない。

そして武器の進歩が止まって新旧の性能に大きな差がなくなると、神殿に納められた武器はそのまま軍事力になる。日本では平安時代から戦国時代末までの長期にわたって僧兵や神人が軍事的な勢力として大きな役割を果たしたが、これはそういった面からも理解できるのかもしれない。

弾丸型記念碑の流行

それでは、武器として刀剣や弓矢、槍などの伝統的なものから銃砲といった近代的なものへ、神殿奉納の歴史がそのまま継続していったのだろうか。どうやらそうでもないようだ。理由はわからない。憶測するなら、近代的な兵器は、近代的な思想と二人三脚でやってくる。即物的な銃火の破壊力は、超自然的な力を必要としないのかもしれない。

銃器の時代になってからでも、武器の鹵獲はおこなわれてきた。戦利品として獲得された武器の一部はそのまま装備品として再利用されたが、一部は利用不可と判断された。そういったものの多くは廃棄されたわけだが、なかには戦勝を記念するものとして保存されたものもあったようだ。そして、日本では、明治期には、鹵獲した武器を鋳潰して記念碑をつくることがおこなわれるようになったらしい。そして、その記念碑の形のひとつとして、砲弾型が生まれたようだ。

ということで、砲弾型の記念碑だが、そのアイデアがどこから来たのかはっきりわからないが、19世紀にはアメリカで花崗岩製の砲弾型記念碑がつくられている。南北戦争ゲティスバーグ会戦を記念する公園に建てられたひとつの碑がそれだ。

http://img.groundspeak.com/waymarking/display/24a0cb76-91c1-43aa-9159-63f5ff408e4e.JPG

7th New Jersey Infantry Monument - Gettysburg National Military Park Historic District - Gettysburg, PA - NRHP Historic Districts - Contributing Buildings on Waymarking.com

上記サイトによれば建立は1888年とのことだから、日本式にいえば明治21年ということになる。そして、その明治時代には、日本でも多くの砲弾型記念碑が作成されている。たとえば名古屋の「第一軍戦死者記念碑」である。

碑・玩具・版画に表現され、記録された日清戦争一新たな教材と資料を求めて一 西尾 林太郎

日清戦争記念碑考─愛知県を例として─ 羽賀祥二

上記の2つの論文に詳しいが、名古屋にはいまも日清戦争の戦利品を鋳潰してつくられた砲弾型の記念碑がある。砲弾だけでなく、大砲の銃身をそのまま利用した柵もあるらしい。かなり過激なデザインといってもいいだろう。

明治33年につくられたこの記念碑は決して最初のものではなく、たとえば明治29年には台湾に砲弾型の記念碑が建てられている(北白川宮能久親王の御遺跡と神社の造営(金子展也)2014)。実際、「戦利品を鋳潰して砲弾型の忠魂碑を作る方法は、明治期にしばし ば用いられていた方法である」と、旅順のような外地にも砲弾型の記念碑が建てられたようだ(聖地の記憶─旅順を事例に─ 高山 陽子)。

どうやら砲弾型の記念碑は、この時代の流行であったのだろう。そしてこのスタイルは、やがて戦死者の墓標へと受け継がれていく。こちらのブログには、日露戦争戦没者の墓が弾丸型に造形されている例が記載されている。

砲弾型の墓碑のルーツは「征清記念碑」(名古屋・廣島)なのか

おそらくこういった素地があって、第二次世界大戦後に多数の砲弾が神社に奉納され、そのうちの少なくないものが記念碑的に設置されるということになったのではないだろうか。

各地に見られる砲弾

実際、神社等に残っている砲弾は少なくない。さすがWebの時代、検索すると全国を丁寧に調べた研究結果を発表されている方がいる。

神社や忠魂碑にある砲弾

このページには、300以上の砲弾が神社等に保管、展示、設置されているとされている。国外のものもあるようだが、今回大分で見つかっているものの多くは記載されていないようなので、実際には全国にはさらに大量の砲弾が残っているのだろう。

注目すべきなのは、これらが鹵獲品ではなく、旧日本軍のものだということだ。そして、軍の装備品は、軍隊が機能しているときにはちょっとやそっとでは持ち出せない。これらの砲弾は、敗戦のドサクサの中であまり適法的にではなく持ち出されたものではないだろうか。

そして、それは戦勝記念でもなく(なにせ負けている)、生還の記念品としても気が利いているとは言いがたい。どのような心理で敗戦の兵士が、決して持ち出しやすいものでもない砲弾を持ちだしたのか、いくら考えても想像ができない。

 

海軍軍人だった私の祖父は清廉潔白な人柄だったが、それでも私の生家には大量のネルの布がかつてあった。なんでも元は火薬を包むために使われていたものだそうで、生理用品、もしくはオムツとして使えるからというような理由で母が譲り受けて持ってきたらしい。そして、それが実家にあったということは、つまり、敗戦時に公有物資の管理が一時的にずさんになっていたことをあらわしているのだろう。負けて、日本がなくなると感じられるときに、お上のものは無所有物のように感じられるのだろう。そして、だれもそれを持ち出すことを咎めはしない。

ただ、ネルであれば利用のしようもあるだろうが(母はこれで一時コーヒーを濾していた)、大砲の弾にどんな利用法が想像できたのだろう? 持て余して、そして神社に行き着いて、記念碑となる。そのあたりの経緯を、いまならまだ語れるひとが生きているかもしれない。歴史が埋もれてしまわないうちに、年寄りに話は聞いておくものなのだろうな。

 

追記:砲弾のなかには日清・日露戦争のものもあるようだ。そうなると、上記の話はまたちょっとちがうのかもしれないな。

www.yomiuri.co.jp

 

なぜ有機農産物を選ぶべきなのか、あるいは選ぶべきではないのか?

野菜に罪はない

私はいわゆる「有機農業」をやっている人、そういうのを志した人、その周辺の人々を数多く知っている。なかにはずいぶんと親しい友人もいる。恩人といっていい人だっている。そういうコミュニティに属していたことがあると、こんな記事を読んで「何を今頃こんなことを言ってるんだ」と情けなくなる。

www.sankeibiz.jp

こういうことを言うと身も蓋もないが、有機農産物と通常栽培の農産物と、モノそのものにほとんどちがいはない。ここでいう「有機農産物」は、JAS規格で認証されたものという意味じゃなくて、認証制度ができた20年ほど前よりもさらに昔に使われていた意味で使っている。つまり、農薬や化学肥料を極力排除しようとする姿勢の農家がつくった農産物という意味だ。そういう農家がつくった野菜をごちそうになると、確かにうまい。ときには信じられないぐらいうまい。けれど、じゃあ農薬や化学肥料を使った野菜がまずいかというと、たいていの場合、同じようにおいしい。たまには「あ、これはまずいな」という味の野菜もできるが、それは失敗作であって、きちんとつくる気になれば農薬と化学肥料を使ってもおいしい野菜はつくることができる。「野菜に罪はない」。私はよくそんなふうに言う。

有機農家の野菜がうまいことが多いのは、そういう農家の人々が多くの場合精農家だからだ。研究熱心で、だから上手に作物を育てる。味や出来栄えのちがいは農薬や化学肥料という物質によるものではなく、それらを含めた農業資材や農場の運用技術によるものだ。だから、そういうことに疎い私が無農薬無化学肥料で野菜をつくったって、たいしたものはできない。これはもう、何十年にもわたって実験済み。

味だけではない。健康への寄与だって、農薬や化学肥料を使ったかどうかに一義的に依存するものではない。ほとんどの農薬は、洗えば落ちる。だいたいが、収穫直前に使うクスリはあまり多くない。農薬は有償の資材だし、散布には一定の手間もかかる。だから、無用な時期に大量に使うようなバカは多くはない。たまにそういう人がいても、経営上は成り立たないから、最終的には離農するか、家庭菜園的な趣味に落ち着く。結局、消費者レベルで気にするほどの農薬が残留しているケースは、通常はない(もちろん事故によってそういうことが発生する場合はあるので、油断すべきとは思わないが)。

社会の歪は、弱いところに現れる。たとえば農業 

では、なぜ有機農産物を買うのか? 日本の有機農業は、概ね1970年頃の公害問題に対応する形で再発見された。定説によればね。そのとき都会の消費者を運動にかりたてのは、健康被害に対する恐怖心だった。歴史書にはそう書いてある。ところがそこから10年ほどの間に、「学習」が行われ、実は都会に流通する農産物の残留農薬なんかとは比べ物にならない大きな問題が存在することがわかっていった。有機農業は、その問題に対処する運動へと形を変えていった。

いや、それは希望的な色付けをした過去だ。「そうなればよかったのにね」という願望だ。実際には、そういう意識を抱いたのはごく一部の人々でしかなかった。その一部を除いて一般には、「有機農産物=安全・安心」という神話が広がっていった。それに「おいしい」を加えて、つまりは質の高さを有機農産物の価値としてプロモーションする流れが強まった。その結果としてブランド価値が生まれ、ブランド価値を守るために有機農産物の認証制度が始まった。

だが、それは本当の問題を解決しなかった。有機農業が解決すべきだった問題は、根本的には現代の産業構造の問題だ。かつて豊かだった地方、地域、農村が、1960年代以降、急激に衰退し、過疎化、高齢化に悩むようになった。経済が回らない。その中でかろうじて生き残るためには、劣悪な条件を飲まざるを得ない。たとえば強化された労働であり、危険物の取り扱いであり、環境負荷の高い事業である。すなわちそれは、効率化のための分業と広域化、選択と集中の戦略、そしてそれらがもたらす国土と人心の荒廃の問題だ。それは産業革命以降、全世界を覆っている。

有機農業は、そういった問題に対して、人間生存の基本である自給的循環的な農業を出発点とするという指針を与えていた。そこに突破口があるのではないかと思わせてくれる何かが、そこにはあった。いまでもあると、私は信じている。信じてはいるが、見えなくなっている。

現代を覆う格差の問題、労働の問題、人権侵害の問題、グローバル化ナショナリズムをめぐる問題、そして環境問題。これらと有機農業の問題は、一見異質のものに見えるかもしれない。けれど、それは同じものだ。そして、そういった諸問題を前に、私はオロオロするしかない。

「買い支え」の理論 

1970年代から80年代にかけての先端的な有機農業関係者が考えだした概念が、「買い支え」だ。もしも有機農業的世界に近代以降の社会問題を解決する突破口があるのなら、そこを潰してはならない。潰されてはならない。生き残らねばならない。そして現代の経済社会では、生き残る唯一の方法は経営を安定させることだ。農家の経営を安定させるためには、消費者はその農産物を安定して購入しなければならない。これが「買い支え」の理論だ。有機農家は、買い支えてくれる消費者に対して、安全・安心、そして何よりもおいしさという約束をする。そこに至ってはじめて、「安全・安心でおいしい」という有機農産物のブランド的な価値づけが意味をもつ。

順序がちがうのだ。「安全・安心でおいしい」から、有機農産物を買うのではない。有機農家を買い支えなければならないから、有機農産物を買う。その買い支えに応えるために、有機農家は「安全・安心でおいしい」価値を提供する。だから、「安全・安心でおいしい」だけを商品価値として他の一般的な農産物と比較したら、有機農産物は常に割高に感じられるはずだ。そもそも「安全・安心でおいしい」というのはあらゆる農産物にとって基本的な商品価値なのであって、むしろそれを満たせないものを食品として売ってはいけないだろうというぐらいの最低線なのだから。

基本的人権の問題として

では、何のために有機農産物を買い支えるのか。それを書いたら一冊の本になるだろうから、ごく簡単な例題だけをあげておこう。農薬は洗えば落ちる。市場に流通する段階で残留農薬が問題になるようなことは、ごく稀にしか起こらない。しかし、農薬による環境破壊は、日常的に起こっている。

私は半年余の期間、田んぼの真ん中の納屋に住んでいたことがある。その年の田植え時期のことだ。カエルの大合唱で夜は眠れないほどの毎日だった。だがある日、仕事から納屋に帰ると、その大合唱が気味のわるいほどピタッと止まっていた。気がつくと、確かに異様な臭いがしていた。その日、除草剤が散布されていた。

農村では、そういうことが日常的におこなわれている。そして、それが望ましいことだとは誰も思っていない。

カエルを殺し、鮒や泥鰌を殺し、水鳥を殺し、子どもたちが田畑で遊べないようにする。そんな危険物を日常的に取り扱わねばならないようなことを、誰だってしたくない。けれど、そうしなければ農業で収益をあげることはできない。農家はボランティアではない。つくればつくるほど赤字になるようなことは、自家消費分くらいなら平気でやるが、経営としては絶対にできない。この日本で農家として生きていくことを選択するのなら、そこから逃れられない。

しかし、もしも農薬を使わないことで販売価格が1割でも2割でも上がるのなら、有機農家として経営を成り立たせる選択肢ができる。そうすることで、意にそわない苦役から逃れることができるかもしれない。そして、意に反した苦役に服する必要がないことは憲法にだって書いてあるのだから、そういう選択ができるように消費者が「買い支える」というのは、決して悪いアイデアではないはずだ。

買わない理由、そして買う理由

かつて有機農産物を買うことには、そういう意味があった。だが、その意味を正しく伝えようという努力は、「消費者の健康のために有機農産物」という商業主義に押しつぶされた。一夜にしてカエルが消えてしまう恐怖を私は社会構造の歪として語りたいのに、それは「農薬は怖い、農薬のかかった野菜は食べたくない」という迷信的な防衛意識として受け取られてしまう。そして有機農産物の認証制度以後は、それが唯一の有機農業の意味であるかのように誤解されるようになった。その結果として、有機農産物の残留農薬量が慣行栽培のものと比べて有意なちがいではないというような研究結果がしたり顔で出される。あたりまえじゃないか。いまさら何を言ってるんだと呆れてしまう。

さらにわるいのは、認証を受けた「有機農産物」のなかには、現代の産業化の果てとして生み出された作物が少なからず入っていることだ。特に輸入有機農産物のなかには、伝統的な生産方法を破壊することによって大規模に生産されたものが少なくない。あるいは、労働力を搾取することによって生産された有機農産物も、堂々と認証されている。JASは労働環境までを監視しないからね。そして、国土や人心を守ることに心を砕く人々の農産物の多くは、認証を受けられない。認証制度は厳しいので、そこにコストをかけてられない。結局のところ、有機JAS認証制度で最も利益を得たのはグローバル企業であるという笑えない現実があったりする。

 

だから、ブランドとして有機農産物を選ぶ意味は、基本的にはほとんどない。しかし、もしもあなたがマジメに地域のこと、環境のことを考えている農家を知っていたら、少しぐらい高くついても、できる限りはその人々から買うようにしてほしい。わずかの差額で地球が救えるかもしれないのだから。

ま、まずは野菜350グラムから、かもな。

教師の仕事は「教える」ことではない - 情報提供者としての自覚

ひょんなことから始めた家庭教師の仕事も、けっこう長くなった。やってて面白いなあと思うのは、これが全力投球を要求されるからだ。子どもだましの古臭い知識を適当に教えとけばいいとか、あるいは生徒が問題を解く監督だけしときゃいいとか、いや、たしかにそういうレベルの家庭教師だって世の中にはいるだろう。だが、それでは生計を立てていくことはできない。小遣い稼ぎぐらいなら何とかなるかもしれないが、一人前の仕事にはならない。

たとえばそういうやり方が、保育園児に通用するだろうか? 保育園児にはその発達段階に応じた読み聞かせや概念把握のトレーニングなどのスキルが必要になる。そのやり方が小学校低学年児に通用するかといえばそうではない。5年生には5年生の、6年生には6年生の方法があるし、中学生でも学年によってやることは全部ちがう。英語なら最初のうちは音読ばっかりで喉が枯れるほどだし、入試前になったらそれはそれで別種の反復練習がある。高校生ぐらいになると、生徒ごとにやることが大幅にちがう。

そして、家庭教師は原則としてどんな教科でも扱う。数学でも英語でも理科でも社会でも国語でも、必要と要請があればさらにそこからはみ出してでも教える。だから、実に多様な知識と、それを組み合わせていくスキルが必要になる。そして、それがうまく働けば、単一の教科を専門とする学校教師を超えていくことができる。そのあたりは以前、別の場所でも書いた。

suzurandai.weebly.com

そんなふうに常に自分の知識・技量のギリギリのところで勝負してると、ほんとに自分はモノを知らないのだなあと痛感する。だから、いまのWebの時代はありがたい。英語の発音の微妙な違いは非ネイティブである私が発音してみせるよりWeb上の辞書にあたればいい。知らないことをその場で調べることは滅多にないが、帰ってから勉強し直すことは珍しいことではない。あやふやだった知識を補強しておけば、似たような状況に陥ったときにもっときちんとしゃべることができる。

 

そういうふうに常に自分自身が知識のアップデートを続けていると、伝統的な「教える」というスタイルがとれなくなってくる。「ここはこうなっていますよ」みたいな言い方をしたら、それがちがっていることに気づいたときに格好がつかないからだ。たとえば、最近よく目にするようになったsingular theyのような用例が現れたら、「単数はheかshe、ここはtheyは使えませんよ」みたいなことがウソを教えたことになってしまう。

mazmot.hatenablog.com

自分の知識が完全ではないことを前提に生徒に接すると、「教える」という態度が消える。その代わり、自分の知っている情報を提供し、そしてそれをきっかけに一緒に考えるという姿勢に変わってくる。「一緒に考える」というとキレイ事のように聞こえるだろうが(私だって自分がこういう立場になる前は教師がそんなこと言ったら「ウソつけ」と思った)、けっこうほんとに考える。自分自身の理解を無条件で信じるつもりはないから、それもいったん保留して、自分が提供した情報と生徒の知識からどんな結論が導かれるのかと考える。その上で、もしも自分の理解と別な結論が出るようなら、それは考察の道筋がおかしいか、考察するための前提となる情報が不足しているわけだ。たいていは後者だから、そこから自分が何を伝え漏らしたのかがわかる。そうやって学習を進めていく。

だから、教師の仕事は「教える」ことではないのだと思う。学問は基本的には合理的な思考の積み重ねで成り立っている。思考の出発点になる情報を提供し、思考の過程を助ければ、それで十分だ。理屈の上では、そういうことになる。

 

だが、理屈通りにはいかないことが実際には数多くある。それは、慣習だ。合理性だけで成り立っているような学問の世界だが、実際には「昔からそうやっているから」という慣習で決まっていることが少なくない。

たとえば、座標軸を描くとき、なぜ右側を正、左側を負とするのか。なぜ縦軸をy軸、横軸をx軸とするのか。それについての合理的な説明はない。強いていうなら、統一しておいたほうがわかりやすいからだ。それだけのことでしかない。昔からそうやってるから、それに倣っておけば混乱が生じない。だからこれは、「こうしなさい」と「教える」のが適当なことになってしまう。

だが、慣習というのはえてしていい加減なものだ。それをこのブログ記事を読んで改めて感じた。

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この記事の話題の中心は、数学で用いられるエックスとカイの書き方をめぐるものだ。そして、どのような場面でエックスを使い、どのような場面でカイを使うかとか、エックスとカイをどのように描き分けるかとかいうようなことは、慣習でしかない。慣習でしかないからこそ、教師は偉そうに教えてしまう。けれど、それって本当に「教える」ことが正しいのだろうか?

まず、そもそも論で言えば、エックスとカイは同じ文字だ。ルーツが同じで別々の国で用いられるようになったものだから、中国の簡体と繁体のような違いと思っても、当たらずとも遠からずだろう。同じ文字だけど、外見がちがう。判別がつく程度に外見が違うから、それぞれ別の場面で使われる。

ただし、この「判別がつく」というのは、活字の上での話だ。実際に人々が日常的に使うレベルでは、基本的にこの2つの文字は判別がつかないだろう。どっちもペケでしかないのだから。

こういう「活字でしか区別がつかない」ような記号の使い分けを、実は数学は伝統的に利用してきている。もっとも幅広く使われている伝統は、「変数はイタリック体で表しますよ」というものだ。これは基本的に万国共通の慣習。

ただ、ここで注意して欲しいのは、「イタリック体」は活字(フォント)の分類であって、「筆記体cursive)」ではないということだ(正確に言うと、イタリック体は筆記体の一部の流派の文字を元にデザインされているので、無関係ではない)。だから、手書き原稿の段階では、実はイタリック体と正体(日本の印刷業界ではローマンと呼んでいるが、これが実は正確ではないことは編集業者の豆として昔から知られている)の区別は本来はつかない。しかし、印刷したときに変数をイタリック体にしたほうがわかりやすいから、印刷ではイタリックを使うように指定する。指定は簡単で、伝統的には青鉛筆(日本だと赤ペン)で下線を引く。すると植字工はイタリックの活字を拾う、というのがかつての印刷工程の約束だった。

印刷物でそのように表現するということが先にあって、じゃあ手書きの数式でもそれがわかったほうがいいじゃないかという発想が生まれる。少なくとも日本人にはそのほうが自然だった。なぜって、日本人は、似たような形の文字を無数に扱ってきた民族だからね。「人」と「入」なんて、図形的にはほとんど同じなのに、微妙な書き方で区別して何の不自由もない。カタカナの「ロ」とか「ニ」を漢字の「口」「二」と書き分ける。そういう人々だから、当然のようにイタリックとローマンも書き分けようとする。

そして、その伝統の上に、英語のアルファベットとギリシア文字も書き分けようとする。しかし、エックスとカイなんて、本来は無理なものだ。印刷工程できちんと指定しておけば、本来はそれでいい。

 

ではあるけれど、確かに書き分けができれば、それはそれで便利だ。日本人でなくてもそう思う。ということで、英語圏でもやっぱりよく似たアルファベットとギリシア文字は数式を書く際には書き分けるべきだという考え方もあるようだ。ただ、そのやり方は日本式のものとずいぶんちがう。たとえば、こんなサイトが検索に引っかかる。

Tips for mathematical handwriting

これを見ると、まずエックスとカケルを区別するには、エックスの左の入るところを曲線にするというコツがあるとする。ちなみに、エックスはふつうに二本の線をクロスさせるのであって、決して日本の数学教師が好んで教えるような)(式ではない。そして、カイの方は、右下がりの線よりも右上がりの線を長く書くことで区別しろと言っている。

 

つまり、日本の数学の教師が偉そうに「教え」ていることなど、しょせんはローカルルールでしかない。もちろん、ローカルルールは否定されるべきだなどというつもりはない。英語圏には英語圏のローカルルールがあるわけだし、それ以外の国にもそれぞれのローカルルールがあるだろう。それで誰も困らないのは、国境を超えて流通する論文は基本的に印刷されたものであり(もちろん現代ではPDFだろうが)、そこではローカルルールから生成された正しいフォントが使用されているからだ。正しいフォントの使用で表現されたものは、万国共通だ。

だから、最終的には「わかればいい」レベルの話でしかない。「わかればいい」レベルの話なら、絶対的な正しさはなくて、いくつかの解が並立することが可能だ。印刷業界でも、同じ作業を表現するのに複数の流派があったものだ。それで別に困りはしない。

結局のところ、教師に許されるのは、あるローカルルールが存在しているという情報と、場合によってはそれが発生した根拠を伝えることでしかないのだと思う。その情報にもとづいてどう行動するのかは生徒の合理的な判断によるべきだ。実際、エックスとカイの両方を使うようになったら生徒は嫌でも書き分けをするようになるのだし、その際に、ローカルルールはいい参照項目になる。そういった情報を提供することには価値がある。そういった価値のある情報伝達者を教師は目指すべきだ。

 

しかしまあ、「先生」なんて呼ばれて持ち上げられると、つい「正しいこと」を「教え」たくなってしまうのが人情なのだろう。それがどれほど危険なことか、どれほど恥ずかしいことなのかを、教師と呼ばれる人々はきちんと自覚しておいたほうがいいよ、うん。

 

自戒を込めて。

「大丈夫です」は、大丈夫なの?

ミルクを入れるべきか否か?

紅茶が2つ運ばれてくる。ミルクを入れたポットがひとつ。私はポットをとり、「ミルクは?」と聞く。向かいに座った若い人は、「大丈夫です」と答える。私はちょっと考えてから、自分のカップにだけミルクを入れる。

たぶん、若い人だったら考えもしない。やんわりと拒否する場面で「大丈夫です」という言い方は、たぶんここ5年ぐらいのスパンで言えばふつうに使われている。だが、その10倍も生きていると、そういう使い方には未だに戸惑いを覚える。ちょっと考えてから、「ああ、それは『私はミルクを入れなくても大丈夫です』という意味なんだな」と解釈する。

「大丈夫です」は、状況によってまったく別の意味にもなる。たとえば同じシーンで、私がミルクポットを手に「ミルク、入れてもいい?」と尋ねたのだったら、「大丈夫です」という返答の意味は「私はミルクを入れても大丈夫です」となる。許可を与える用法だ。どちらかといえば、この使い方のほうが馴染みがある。ここ5年とは言わない、もっと前から使われているように思う。それでも、私が若い頃は言わなかったような気がする。

ミルクを入れていいのか、ダメなのか、それは状況によって変化する。つまり、「大丈夫です」という表現は、コンテクストに依存している。どうも日本人はそういうコンテクスト依存型の表現を好むようだ。

 

なぜそんなもって回った言い方をするのかといえば、それが直截的なイエス、ノーよりも軋轢を生みにくいからだろう。明快なイエス、ノーは、それだけに失礼な表現につながりかねない。だから、わざわざ回りくどく言う。回りくどく言うと丁寧な表現になるというのは日本語だけのことではない。英語でも、ストレートな命令形よりは余分にpleaseをつけたほうが丁寧だし、Will you...と相手の意思の確認にしたり、あるいはWould youとわざわざ仮定法を使ったり、果てはWould you mind to...のように相手の感情まで慮った表現にしてストレートな意思表示を避ける。回りくどさが丁寧さになるということで言えば洋の東西を問わないようだ。

だが、こういった回りくどさは、同時にわかりにくさにもつながる。ときには誤解を生む。「大丈夫です」と言われてうっかりミルクを入れてしまうようなことにつながりかねない。

「立派な男子」(古語)ではないけれど

「大丈夫」という表現は、決して最近のものではない。たとえば、1960年代のテレビドラマ「仮面の忍者赤影」では、登場人物の青影が「だいじょ〜ぶ!」という決め台詞を使っている。これは当時の子どもたちの間でけっこう流行った。なにせ、いまとちがってネタの少なかった時代だからね。

ただ、この頃の「大丈夫」は、文字通り「 あぶなげのないようす」(三省堂Web Dictionary)であって、怪我をしていないとか、うまくいっているとか、そういう意味で使われた。だからある程度より上の年齢層の人々は、「大丈夫」を基本的にそういう意味で使う。たとえば、

「あ、すみません」(人にぶつかった)

「大丈夫です」(怪我はありません)

というような使い方だ。そして、そういう意味で「大丈夫です」を理解していると、次のような使い方をされるとひどく戸惑う。

「すみません」(2、3分の遅刻をした)

「大丈夫です」(かまいませんよ) 

え?と思うのは、「そんな数分の遅刻で大丈夫じゃなくなるような事態ってあり得るの?」と思うからだ。ぶつかったのであれば、当たりどころが悪ければ怪我をするし、所持品が壊れるかもしれないし、だいいち痛いのは間違いない。大丈夫じゃない事態はいくらでも想像できる。そんな状況で「大丈夫です」と言ってもらったら、それは非常にありがたい。ところが、数分遅れて、そりゃあ相手に対しては失礼だし、数分だけの時間の無駄という損害は与えてるし、気分を害したかもしれないけれど、少なくとも大丈夫じゃない事態、怪我であるとか破損であるとか、そういったことはそれが原因でふつうは起こらない。よっぽど体力のない人なら数分立ちっぱなしに放置されて足が痛いとか、あるかもしれないが、それはまた別の話。もちろん、待たされて「大丈夫です」と言った側は、そんなたいそうなことを言ってるつもりはなくて、「気にしないでください」ぐらいの軽い意味で言ってくれている。それを理解するまでに、こっちはワンクッションかかる。同じことなら、何も言わないで笑ってくれたほうがまだ話は通じやすいのだけれど、そういうことを若い人たちに求めるのが既に老人っぽいのかもしれないと思って黙るしかない。

けっこうvs大丈夫

では、昭和の時代にはそういうコンテクスト依存型の表現がなかったのかといえば、むしろいま以上にあった。そして、「大丈夫です」と同じ文脈で用いられる言葉に、やっかいな「けっこうです」という言葉があった。

「けっこう」というのは、「よい、すぐれている」というような意味だ。だから、「けっこうです」というのは、「いいですね」ぐらいの意味だ。たとえば、訪問して「けっこうなお宅ですね」といえば、「素晴らしい家ですね」と賞賛していることになる。「このアイデアはいかがでしょう」と尋ねられて「けっこうですね」と答えれば、「それは素晴らしい」ということになる。会議の提案に対して上司が「けっこう」と答えたら、それはゴーサインだ。

ところが、「お茶をお持ちしましょうか」「けっこうです」というような問答では、「けっこうです」は拒否の表現だ。これは、「お茶なんかなくても私はこのままでいいんだ」という意味での「けっこう」なわけで、お茶そのもの、あるいはお茶をもってくるという行為がけっこうなわけではない。ややこしい話だが、「要らない」とぶっきらぼうに言うよりは、「けっこう」と言ったほうが婉曲的で、失礼にあたらない。だから、昭和の時代からついこないだまでは、この「けっこう」が盛んに用いられた。

いま、「大丈夫」が「けっこう」に取って代わられている。それにはたぶん、理由がある。おそらく、「けっこう」は、長く使われている間にもともとの肯定的な意味よりも否定的な意味のほうが強まってしまったのだろう。つまり、Noを「よい」という婉曲的な言葉で表現していたはずが、いつのまにかストレートなNoに受け取られるようになってきた。そうなると、失礼を避けるためには新たな別の婉曲的な表現が必要になる。そこで選ばれたのが「大丈夫」ではないか。

そして、「けっこう」が客観的な「よい」であるのに対して、「大丈夫」は主観的な「問題はありません」という意味を帯びている。「自分はそれを拒否したいと思っている」という主観的な思いを伝える上では、「けっこう」よりも「大丈夫」のほうがしっくりくるのかもしれない。

 

とはいいながら、やっぱり私は、「大丈夫です」という表現に違和感を覚える。若い人の間には「何にでも使える便利な言葉」的な感覚があるようだが、忠告しておくと、そういう言葉ほど危険なものはない。コンテクスト依存型の表現は、往々にしてコンテクストの読み間違いを招く。そして、読み違えた人間を「空気の読めないやつ」として排除していく社会をつくりかねない。

だから、そこは失礼とかあんまり考えず、「はい」「いいえ」をメインで会話を進めていこうよ。文脈を読まなければ何事も進められないような過去の悪習は、もうそろそろやめにしよう。「大丈夫、大丈夫」と言っているうちに気がついたら大丈夫じゃなくなっている日が来てしまうかもしれない。空気を読めない人間を排除する社会ほど大丈夫じゃない未来はないのだからね。