文章を書くことを教えるのはむずかしい - 教育課程も混乱している?

作文教育は行われているのか?

日本人は論理的な文章を書くのが苦手だと言われている。国際化のこの時代、論理的な文章を書くことの重要性は再三指摘されている。国際化というだけではない。論理的な文章は論理的な思考と表裏一体の関係にある。非論理的な思考では現代社会は立ちいかない。論理的な文章が苦手ということは、現代社会で生きていくうえで大きな障害になりかねない。

論理思考の欠如は日本文化であるとか国民性であるとか、生得的に変えられないもののように言われる場合もある。そういう側面もあるのかもしれないが、それ以上に教育によるものであるように思えて仕方ない。論理的な文章を書く訓練を受けていないから、書けない。それだけのことのように思う。

いつも感じているそんなことを改めて思ったのは、こんな記事を見かけたから。

toyokeizai.net

この記事のタイトル、まるで日本では作文教育が行われていないかのような印象を与える。ところが、実際には作文は小学校から中学校にかけての国語科の定番だ。だから記事中でも、問題にしているのは高校、大学の作文教育だ。そこで話がかみ合わないのに気づく。「作文」って何?

さく‐ぶん【作文】
[名](スル)
1 文章を書くこと。また、その文章。
2 小・中学校などで、国語教育の一環として、児童・生徒が文章を書くこと。また、その文章。綴 (つづ) り方。
3 (略)

デジタル大辞泉

「2」によれば、見事に、高校・大学は除外されている。そりゃあ、記事にあるように「大学でも高校でも、作文の指導をまじめにはやっていません」というのはあたりまえ、ということになる。

ただし、「1」の意味で考えれば、「文章を書くこと」は高校・大学に入ってさらに重要になるのだし、それが教えられていないのはおかしいということになる。けど、それを「作文教育」と言ってしまっていいのだろうか? 少なくとも教育業界で通用している「作文」の用法からいえば、ちょっとちがう。とはいえ、教育業界のジャーゴンは信用すべきではない。

たとえば、教育業界でふつうに使われている「勉強」という単語は、公式には一切使われていない。学習指導要領にもその解説書にも1回も出てこない。同様に、「宿題」という用語も公式には使われない。「作文」もその類で、文部科学省の文書には出てこない。それでは公式にはこのあたりはどう定められているのか。学習指導要領によると

(小学校1〜2年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 経験したことや想像したことなどから書くことを決め,書こうとする題材に必要な事柄を集めること。
イ 自分の考えが明確になるように,事柄の順序に沿って簡単な構成を考えること。
ウ 語と語や文と文との続き方に注意しながら,つながりのある文や文章を書くこと。
エ 文章を読み返す習慣を付けるとともに,間違いなどに気付き,正すこと。
オ 書いたものを読み合い,よいところを見付けて感想を伝え合うこと。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 想像したことなどを文章に書くこと。
イ 経験したことを報告する文章や観察したことを記録する文章などを書くこと。
ウ 身近な事物を簡単に説明する文章などを書くこと。
エ 紹介したいことをメモにまとめたり,文章に書いたりすること。
オ 伝えたいことを簡単な手紙に書くこと。

 

(小学校3〜4年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 関心のあることなどから書くことを決め,相手や目的に応じて,書く上で必要な事柄を調べること。
イ 文章全体における段落の役割を理解し,自分の考えが明確になるように,段落相互の関係などに注意して文章を構成すること。
ウ 書こうとすることの中心を明確にし,目的や必要に応じて理由や事例を挙げて書くこと。
エ 文章の敬体と常体との違いに注意しながら書くこと。
オ 文章の間違いを正したり,よりよい表現に書き直したりすること。
カ 書いたものを発表し合い,書き手の考えの明確さなどについて意見を述べ合うこと。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 身近なこと,想像したことなどを基に,詩をつくったり,物語を書いたりすること。
イ 疑問に思ったことを調べて,報告する文章を書いたり,学級新聞などに表したりすること。
ウ 収集した資料を効果的に使い,説明する文章などを書くこと。
エ 目的に合わせて依頼状,案内状,礼状などの手紙を書くこと。

 

(小学校5〜6年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 考えたことなどから書くことを決め,目的や意図に応じて,書く事柄を収集し,全体を見通して事柄を整理すること。
イ 自分の考えを明確に表現するため,文章全体の構成の効果を考えること。
ウ 事実と感想,意見などとを区別するとともに,目的や意図に応じて簡単に書いたり詳しく書いたりすること。
エ 引用したり,図表やグラフなどを用いたりして,自分の考えが伝わるように書くこと。
オ 表現の効果などについて確かめたり工夫したりすること。
カ 書いたものを発表し合い,表現の仕方に着目して助言し合うこと。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 経験したこと,想像したことなどを基に,詩や短歌,俳句をつくったり,物語や随筆などを書いたりすること。
イ 自分の課題について調べ,意見を記述した文章や活動を報告した文章などを書いたり編集したりすること。
ウ 事物のよさを多くの人に伝えるための文章を書くこと。

 

(中学校1年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育成するため,次の事項について指導する。
ア 日常生活の中から課題を決め,材料を集めながら自分の考えをまとめること。
イ 集めた材料を分類するなどして整理するとともに,段落の役割を考えて文章を構成すること。
ウ 伝えたい事実や事柄について,自分の考えや気持ちを根拠を明確にして書くこと。
エ 書いた文章を読み返し,表記や語句の用法,叙述の仕方などを確かめて,読みやすく分かりやすい文章にすること。
オ 書いた文章を互いに読み合い,題材のとらえ方や材料の用い方,根拠の明確さなどについて意見を述べたり,自分の表現の参考にしたりすること。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 関心のある芸術的な作品などについて,鑑賞したことを文章に書くこと。
イ 図表などを用いた説明や記録の文章を書くこと。
ウ 行事等の案内や報告をする文章を書くこと。

 

(中学校2年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育成するため,次の事項について指導する。
ア 社会生活の中から課題を決め,多様な方法で材料を集めながら自分の考えをまとめること。
イ 自分の立場及び伝えたい事実や事柄を明確にして,文章の構成を工夫すること。
ウ 事実や事柄,意見や心情が相手に効果的に伝わるように,説明や具体例を加えたり,描写を工夫したりして書くこと。
エ 書いた文章を読み返し,語句や文の使い方,段落相互の関係などに注意して,読みやすく分かりやすい文章にすること。
オ 書いた文章を互いに読み合い,文章の構成や材料の活用の仕方などについて意見を述べたり助言をしたりして,自分の考えを広げること。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 表現の仕方を工夫して,詩歌をつくったり物語などを書いたりすること。
イ 多様な考えができる事柄について,立場を決めて意見を述べる文章を書くこと。
ウ 社会生活に必要な手紙を書くこと。

 

(中学校3年)

B 書くこと
(1) 書くことの能力を育成するため,次の事項について指導する。
ア 社会生活の中から課題を決め,取材を繰り返しながら自分の考えを深めるとともに,文章の形態を選択して適切な構成を工夫すること。
イ 論理の展開を工夫し,資料を適切に引用するなどして,説得力のある文章を書くこと。
ウ 書いた文章を読み返し,文章全体を整えること。
エ 書いた文章を互いに読み合い,論理の展開の仕方や表現の仕方などについて評価して自分の表現に役立てるとともに,ものの見方や考え方を深めること。
(2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。
ア 関心のある事柄について批評する文章を書くこと。
イ 目的に応じて様々な文章などを集め,工夫して編集すること。

引用が長くなったが、学習指導要領を見る限り、論理的で読みやすい文章を書くための国語教育は、段階を踏んで着実に行われるようになっている。多くの教科では、義務教育の9年間で社会生活に必要なだけの基礎を身につけるように課程は工夫されている。英語なんてわずか3年間で英文法の基本を身に着けて日常会話ができるように組み立てられている(実際にそれができるようになっていないのは別の話として)。国語教育でも、義務教育の9年間にしっかりとした文章が書けるようになるはずだと、この指導要領を見る限りは思える。

「作文」と生活綴方 

「作文」が辞書にあるように「 小・中学校などで、国語教育の一環として、児童・生徒が文章を書くこと」であるのなら、上記の指導要領の目標を達成するための手段として「作文」が実施されているはずだと、そう考えて差し支えないように思える。しかし、実際にはそうではない。誰だって、自分自身の学校時代を振り返ってみればわかるはずだ。

日本の国語教育で、「作文」はどのような位置づけにあったか。それは、「生活綴方」の巨大な影響を抜きにしては語れないだろう。「巨大な影響」というのは、私のようなその道のシロウトでも無着成恭の「山びこ学校」は読んだことがあるし、そこで主張されている綴方の直系のものとしての作文教育を受けた記憶がある、ということだ。生活綴方については「山びこ学校」を読めばイメージがわかる。大雑把な私の理解をまとめれば、技巧や定型にはまることなく、自分自身の言葉で自分自身の生活に根ざしたリアルを作文にまとめることを目指す思想だ(もっと正しい理解には、このあたりの論文「戦後作文 ・綴 り方教育史研究」や「無着成恭編 『山びこ学校』の成立 とその反響」いずれも菅原稔、「戦後生活綴方教育全盛の時代」奥平康照、さらにそれ以前の事情については「生活綴方成立史の研究」岡屋昭雄あたりを読むべきなんだろうな)。それはそれで実際、とてつもなく重要なことだと思う。定型的な文なんてほぼ無意味だし、中身の伴わない技巧なんて吐き気を催させる以上の機能はない。

実際、私がかつてお世話になった方々の中に一条ふみさんという女性がいるのだが、彼女が編纂した生活記録文集は凄まじいほどの力をもっていた。いくつかを読ませていただき、最終的にはその一部を託されてしまったのだけれど、私にはそれをきちんと生かすことはできなかった。それでも、その力はわかる。そんな実践をされていた人々が日本にいたことは、誇りですらある。

上記の岡屋論文に記載された国分一太郎によると、生活綴方における教育課程は

ワタクシタチハ、コノヨウナ文章ヲ書カセルスベテノ過程デ、マタ、ソノ作品ヲ集団ノナカデ研究シ吟味シ、ソレニツイテ話シアイヲサセル過程デ、子ドモタチニ、(1) 事物ノ姿ヤウゴキヤソノ相互ノ関係カラ意味・ネウチヲ見イダシ、事実ニモトヅイタ思想・感情ヲ形ヅクル態度ヲシダイニツクリアゲ、(2) 自然ヤ社会ノ事物ニツイテノ正シクユタカナ見方、考エ方、感ジ方ヲシダイニ養イ、(3)書キ手自身ノ観察力・想像力・思考力ヲノバシ、頭脳ノ能動性・創造性ヲシダイニ発達サセ、(4) コノコトニヨッテ、子ドモタチニ、自由ナ個性的ナ自我ヲ確立サセルトトモニ、(5) 人間的ナ社会的ナ連帯感ヲ、シダイニ育テテイクコトヲ目ザスノデアル。(6) 一方日本語(単語・文法・文章・文章構造ナド)ヤ日本ノ文字ニツイテノ意識的ナ自覚ヲウナガシテイクノデアル。

となっている。事実をありのままに観察し、その相互関係に関して考察し、それを通じて自我を形成していくという教育方法は、現代においても有効なものだと思う。そして、その実践を通じて表現手段である日本語を手中にしていくというのも、また一つの正しい道であるように思う。

そんなふうに、生活綴方運動そのものに対して、私は何ら否定的なことを言うつもりはない。だが、そのインパクトによって日本の作文教育は奇妙にゆがんでしまったのではないかと思う。それは、生活綴方が目指したものでは決してないはずだ。

生活綴方の負の遺産

上記の菅原論文には「「生活 を勉強するための,ほんものの社会科をするため」の指導を,「綴方を利用」 し「綴方で勉強」することを目指 して,作文 ・綴 り方教育に取り組んだ」と、当時の考え方が述べてある。すなわち、生活に密着したところから学問を作り上げていくその出発点として自分自身の言葉で自分自身の観察を報告する。それは強調しても強調し過ぎることがないほど重要なことだ。あらゆる学問はそういうふうにはじまるべきだとさえいえるだろう。

そして、当然の帰結として、その書かれた言葉が真実であるかどうかが問題とされ、それがどのように表現されているかということは二の次、三の次となる。美しく飾られた文章よりは、稚拙であっても自分自身の偽りのない報告を行ったものが高く評価される。それもまた、それでいいだろう。

実際、私の息子が通った保育園では子どもたちの言葉を保育士がメモして記録している。子どもたちが日常の中でふともらす宝石のような言葉は、息を呑むほどだ。教えこまれ、暗記した美辞麗句なんかとは比べ物にならない世界がそこに広がっている。

だが、それを重視するあまり、技巧や定型を極端に蔑視する傾向が日本の国語教育業界に残らなかっただろうか。たとえば小学校の作文。生徒が、何を書いたらいいのかわからない。そういう状況はふつうに発生する。そんなとき、教師はどう指導するか。「感じたまま、考えたことをそのまま、書いたらいいんだよ」というのが、日本の作文教育であるように思う。けれど、それってどうやって泳げばいいのかわからない人を説明抜きで水に放り込むようなことではないか。誰だって、感じたこと、考えていることはある。それを表現するためには、相応の技術が必要だ。その技術を教えない。なぜなら、技法は評価しないという奇妙な不文律が「作文」をめぐっては存在するからだ。最低限の作法、原稿用紙の使い方であるとか、「ですます調」と「だである調」の使い分けとか、そういうところは採点の対象になる。しかし、本当に重要な論理構成であるとかセンテンス構造であるとかは、基本的に放置される。それって指導要領と乖離してるじゃないかと外野は思うのだが、国語教師はそうは思わないらしい。

読みやすい文章を書くには?

いったい、読みやすい文章、論理的な文章を書くためには、どのような技術が必要なのだろうか。こんな読みづらいブログを書いておいて私が言うようなことじゃないのだけれど、それは独立したいくつかの技術に分けられるだろう。

まずひとつは段落構成だ。多くの場合、序論・本論・結論とか起承転結とか気楽に語られるが、これにはさまざまなバリエーションがある。いろいろなコツもあって、それを語り始めたら本が一冊書けてしまう。

文法的な理解も、いい文章を書く際には意外と役に立つ。これは品詞の分類とか活用形とか、そういった学校文法的なことではない。そういう知識が多少役立つ場面もあるが、たとえば主語と述語に見られる規則性であるとか、品詞の入れ替えによるセンテンスの改良であるとか、敬語の文法的な位置づけであるとか、センテンスの分割法であるとか、文法知識に裏づけられたそういった実用的な技法はけっこうある。こういうものが読みやすい文章に寄与する場面は意外に少なくない。

さらに、いい文章を書くには、事前準備も重要だ。書きたいテーマがあっても、それだけでは説得力のある文章は書けない。取材や調査があって、はじめてしっかりした根拠ができる。そして、そういった根拠については、必要に応じて引用や参照ができるような工夫もたいせつになってくる。

素材が整っても、すぐに書き始められるわけではない。最初にあげた段落構成とも関わってくるのだが、段落構成を考える以前に、あらかじめネタを広げて全体を鳥瞰して見る作業を行っておくことが有効な場合もある。

そして、これらを含みながらまた独立した技法として、推敲がある。推敲作業は個人的なものであるが、ドラフトを読んでもらったり、あるいはそれをもとに討論をするなどして深めていく作業も、よい作品をつくる上で有効であることが実証されている。

というようなことを念頭に、改めて上記に引用した学習指導要領を眺めてみると、実に、学習指導要領はそれを網羅するようにできていることがわかる。しかも、小学校低学年から一貫して、段階を踏みながらそれを身につけられるようになっている。素晴らしい!

そして学校の実態は…

だが、現実はどうか? そんな作文指導が行われているか? 私の観測範囲(つまり年間十数名の家庭教師の生徒×5年の経験)からいえば、否だ。では、国語教師は学習指導要領を読んでいないのか? そんなことはないだろう。仮に読んでいないとしても、その扱う教科書、教材の制作者は読んでいる。彼らのなかに読んでいない不届き者がいたとしても、全体の流れは指導要領が決めた方向に進んでいる。ただし、その定められた内容は、現実に合わせて往々に恣意的に解釈され、運用される。そして、素直に読んだときの「ああ、なるほど」「うん、これなら素晴らしい!」という感覚は、たいてい裏切られる。

作文、というよりも指導要領の文言に従えば「書くこと」の実際はどうなっているか? たとえば中学1年を例にとって、文部科学省の学習指導要領解説を参照しながら、それが実際にどういう扱いになっているのかを見てみよう。

まず、指導要領の(1)のアには
「日常生活の中から課題を決め,材料を集めながら自分の考えをまとめること。」
とあるのを受けて、指導要領解説には

「日常生活の中から課題を決め」るに当たっては,日常生活で直接体験したことを はじめ,他教科等で学習したこと,友人や家族から聞いたことの中から興味や関心を もったことなどが基になる。これらを「課題」として明確にするためには,何につい て,だれに向け,何のために書くのかを具体化する必要がある。特に,疑問に思った ことについて調べる,問題点について意見を述べるなど,文章を書く目的を明らかに することがその後の学習につながっていく。

と指導方針が記されている。では、そういうことを意識して作文を書くような指導をするかというと、そうではない。そうではなく、この節での試験問題は、たとえば例文があり、「これは誰に向けて書いたものでしょう」とか「何について書いたものでしょう」「何のために書いたのかをア〜エから選びなさい」みたいな設問をつけることになる。さらに

課題が決まったら,その課題に関連して「材料を集めながら自分の考えをまとめる こと」になる。材料を集める段階においては,本,新聞・雑誌,テレビ,コンピュー タや情報通信ネットワークなどの活用が考えられる。

という部分に対しては、「材料を書くときに利用できる手段として適切でないものをア〜エから選びなさい」みたいな問題を用意する。

そして次のイ「集めた材料を分類するなどして整理するとともに,段落の役割を考えて文章を構成すること」については、

第1学年ではそれを踏まえ,問題や課題などについ て述べる段落,集めた材料などについて分析する段落,それらを基に自分の考えや意 見を述べる段落など,段落の役割を考えて構成することを指導する。その際,段落の 役割を明確にするために,「さらに」,「たとえば」,「しかし」など,連接関係を 明示する言葉などを効果的に用いることも指導するよう配慮する。

と指導要領解説書にあるのを受けて、接続詞の穴埋め問題を用意する。「(   )にあてはまる適切な言葉を選びなさい」という問題だ。

ウ「伝えたい事実や事柄について,自分の考えや気持ちを根拠を明確にして書くこと」について、指導要領解説書には

記述に当たっては,接続語の使用 や段落構成の工夫などによって,読み手に対して,どの部分が根拠であるかが明確になるような表現上の工夫をすることが大切である。

とあるのを受けて、「下線部の根拠となっている部分の最初の5文字と最後の5文字を抜き出しなさい」というような問題で、指導要領の要請に応える。

そして、エ「書いた文章を読み返し,表記や語句の用法,叙述の仕方などを確かめて,読みやすく分かりやすい文章にすること」では、

「表記や語句の用法」を確かめるとは,文字や表記が正しいか,漢字と仮名の使い 分けが適切か,語句の選び方や使い方が的確であるかなどをみることである。また, 「叙述の仕方などを確かめ」るとは,文や段落の長さ及び文や段落の接続の関係など が適切であるかなどをみることである。

となっているので、「波線部の語句の使い方で適切でないものの記号を答えなさい」とか「A〜Dの段落を正しい順序に並べ替えなさい」というような問題が出題される。

オ「書いた文章を互いに読み合い,題材のとらえ方や材料の用い方,根拠の明確さなどについて意見を述べたり,自分の表現の参考にしたりすること」では、実際にそういった活動をするのではなく(少しだけはするにしても教師の情熱はそこにはなく)、そういった話し合いをしている模擬的な長文を読解問題の素材として出題することで事足れりとしている。

 

中学1年を例にあげたが、他の学年でも大同小異、つまり、教師は基本的に「問題を解くこと」の方に重心をかけていて、文章を書く能力を上げることにはあまり力を割いていない。そして、その言い訳のように、技法に走った作文の空疎さをあげつらい、拙い言葉でも真実が表現された作品の芸術性を賞賛する。しかし、良い物をより良くしていくためには、批判が重要であり、改善のためには技術的な助言が必要になってくる。それがなければ、拙いものはいつまでたっても拙いままであり、そこから真実を読み取るのは空気を読むような高等な読解力に頼らざるを得なくなる。それは普遍性を欠いている。

では、なぜ学習指導要領を曲解してまできちんとした作文指導を避けるのか。それはやってみればわかる。むずかしいのだ。ほんと、作文を書かせるのはむずかしいし、それを改善するのはさらにむずかしい。こっちもプロだから、いろいろと技はもっている。けれど、それを実践するには非常に時間がかかる。時間がかかる割に、成績には直結しない。そうなってくると、もっと点数に成果がすぐに現れてくるような「試験対策」をやってくれという要望が生徒家庭から出てくる。雇われ者の家庭教師としては、それに抗うわけにはいかない。

まして、数十人の生徒をいっぺんに預かる学校教師に、個別の生徒の発達段階に合わせた細かな文章上達のための指導ができるとはとても思えない。それでなくとも昨今は、全国学力調査の順位を気にする教育委員会からの圧力で、「得点能力」を重視するような指導にシフトせざるを得ない。良心的な教師は辛いだろうと思う。点取りゲームのコーチばっかりさせられたって、生徒のためになるもんじゃない。ま、それが生徒のためだと誤解してる教師が大半だろうから、あまり同情もしないのだけれど。

 

結局のところ、まともな文章を書けるような大人を育てたいのなら、受験制度を改めなければどうしようもない。誰だって受験では高く評価されたいのだし、そのテストの成績が文章を書く能力とは全く無関係な受験技術で決まるのなら、誰だってそっちに精を出す。そんなわかりきったことを放っておいて、「英語以前に作文教育をやるべきだ」もないもんだと思う。

この件に関しては、別な角度から、別な愚痴もあるのだけれど、あんまりとっちらかりすぎるのも何だから、ここはこのあたりでおさめておこう。しかしまあ、もうちょっと読みやすい記事が書けんのかね。たとえブログとはいえ。

それもこれも、まともな作文教育を受けなかったせいなので…