「敬語」は「敬語」じゃない - 文法教育に存在するバグ

敬語は不要ではないか。誰もがそう思う一瞬があるだろう。けれど、なくならない。それには理由がある。

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敬語がなければ、日本語が日本語にならない。なぜかといえば、敬語は日本語文法の中にしっかりと食い込んでいるからだ。だから、敬語は本来文法知識として整理して教えるべきなのだが、なぜだか国語教育ではそういう扱いをされていない。おい、言語学者!なにをやってる!

敬語(デジタル大辞泉
話し手または書き手が相手や話題の人物に対して敬意を表す言語表現。日本語では敬意の表し方によって、ふつう、尊敬語・謙譲語・丁寧語の3種に分けられる。敬譲語。→尊敬語 →謙譲語 →丁寧語 →待遇表現

これ、ちがうからね。いや、確かに「敬意を表す」場面で使われる。けれど、それが何のためにという説明が根本的に抜けている。目的がわからないから、「敬意は態度と気遣いで示せばいいやろ」というような誤解が出てくる。「敬意を示すこと」が目的なんじゃないから。

じゃあ、敬語というものを使う目的はなんなのかといえば、それは日本語を使ったコミュニケーションを円滑に進めるためだ。耳で聞いて(あるいは文字として読んで)理解しやすい表現をつくりあげるためだ。どういうことか?

 

日本語の特徴として、「主語がない」というのがよく指摘される。これは和文英訳なんかしてるとすぐに気がつくことだ。あるいは、下手くそな和訳を読んでいて目につくこと。英語の「I」とか「You」をいちいち「私」「あなた」と訳していたら、可読性が著しく低い日本文ができあがる。日本語に主語がないわけではないが、出現頻度が著しく低い。

だが、意味論からいえば、これはおかしなことだ。「主語」とは動作の主体のことであり、動詞があったら必ずその主体としての主語がなければならない。英語は神経質なぐらいにその主語を特定していく文章構造を持っている。日本語はそうではない。そうではないけれど、やはり動作主体としての主語は存在する。ただ、文法規則によって、それを明示的に書かない。言わない。


その文法規則の第一は、「いったん主語が特定されたら、次の主語が出てくるまではその主語が主語としての地位を継続する」というものだ。あ、これって学校で教えてくれないからね。なんでこんな重要な文法規則が中学校の教科書に載ってないんだと思うんだけど、そのぐらい、自分が使う言語についてはみんな見えなくなってしまっている。けど、ちょっと意識して文章を見てほしい。たとえば作文で、「私は就活に失敗しました。いま、コンビニでアルバイトをしています」みたいなことを書くときに、絶対に2番めの文に「私は」を書かないはず。もしも書いたら、「まともな日本語も書けないから就職できないんだ」みたいに皮肉を言われるかもしれない。主語を改めて書くのは、前から続いてきた主語が変化するときだけ。ただし、ここで言う主語は、代表的には「は」系統の助詞で特定される主語。「が」系統の主語は臨時の主語だから、1回限りしか使えない。こういう「は」と「が」の使い分けは、主語を省略していくうえでものすごく重要だから、これが下手くそな人の文はだんだん何が言いたいのだかわからなくなってくる。

そして主語を省略する文法規則のもうひとつが、「敬語」だ。たとえばここまでの文で私は文例中以外では「私」という主語を使ってこなかったが、たとえば「なんでこんな重要な文法規則が中学校の教科書に載ってないんだと思うんだけど」という部分の「思う」の動作主体が書き手である「私」だということは書かなくてもわかる。つまり、ここでは主語を省略している(英語だったらもちろんI thinkと主語と動詞をセットにしなければならないのは言うまでもない)。なんで省略できるのかといえば、「思う」という敬語を含まない表現に対応する主語は基本的には「自分」でしかないから。

つまり、敬語表現は、それが存在することによって主語が特定できる、という機能を担っている。いったん特定できた主語は次の主語が出てくるまでは主語であり続けるから、うまくすれば最後まで主語が文字(あるいは音)としては出てこない文というものをつくることができる。たとえば「本企画についてご検討いただけませんでしょうか」というような文では、「検討いただく」という敬語表現が入っているから、主語は相手であることが明瞭になる。「先日ご来訪いただい折にご説明申し上げた内容についてご理解いただけるならすぐに進めさせていただきます」というようなややこしい文でも、「来訪」したのは相手で「説明」したのは自分で、「理解する」のは相手で「進める」のは自分だということが、敬語表現からはっきりする。もしも英語でこれをやろうと思ったら、「I would like to start right away if you think it is alright to go along with the idea I described at the meeting when you visited our office」みたいに「I」やら「you」やらがどっと入ってくるはず。日本人的感覚だと、こういうのは非常に煩雑で、コミュニケーションを阻害する。そこで動作の主体を的確に表す方法として、「敬語」というものが導入されたと、まあ「導入の経緯」はウソだけど、そう思ってもいいんじゃないだろうか。

また、英語をやってて気づくのは、所有格がやたら出てくることだ。たとえばfatherとかmotherというような名詞は、通常は必ず所有格とセットで用いられる。なぜかといえば、父親や母親は、必ず誰かから見ての父親・母親なのであって、だれから見てのものかを特定しないことにはその身分になれない。だから、my fatherとかhis motherのように、ふつうは所有格をつける。ところが日本語では、ふつうはそうしない。その代わり、「父」といえば話し手の父親だし、「お父さん」とか「お父上」といえば相手の父親だとわかる。自分の親のことを「ご尊父」なんていったらおかしいというのは、敬語表現としておかしいということ以上に、だれの「父」なのか特定が混乱するからだ。「お許し」といったら、相手の許可であって自分の家族の許可ではないことは、敬語表現から明らかなわけだ。

 

つまり、敬語というのは本来は敬意を表すためのものではなく、動詞の動作主体や名詞の所有者を特定するために必要な文法要素だ。敬意なんてのは、本来はどうでもいい。ただし、そこに古来の長幼の序という常識を当てはめないことには、正しい使用法ができない。そして長幼の序みたいなのが時代遅れじゃないか的感覚が生まれると、「敬語不要論」みたいなのが出てくる。

しかし、重要なのは、日本人にとって、動詞や名詞の変化によって主語を特定する方法が文法規則に組み込まれているということなのだ。だから、何も封建的な序列を使う必要はない。もしも必要なら、それに代わった語形変化を導入すればいい。ただし、そういった語形変化を一切廃止したら、一行ごとに「私」とか「あなた」とか「彼」「彼女」が出てくる変な日本語を喋らなきゃいけなくなる。ま、それが変だと思うのが変な時代が来るのかもしれないが、当面は、それが変だと主張する方に歩があると思う。

 

だから、敬語は廃止できない。「敬語」という呼び方は、廃止したほうがいいと思うけどね。あー、国語教師! なんとかしてくれ!

 

 

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追記:

この内容、以前、id:zetakunさんのこちらの記事

www.chishikiyoku.com

を見て書きたかったのが、タイミング逃して今頃になった、というものでもあったりする。ほんと、日本語って、けっこう誤解されてるよ。