野菜に罪はない
私はいわゆる「有機農業」をやっている人、そういうのを志した人、その周辺の人々を数多く知っている。なかにはずいぶんと親しい友人もいる。恩人といっていい人だっている。そういうコミュニティに属していたことがあると、こんな記事を読んで「何を今頃こんなことを言ってるんだ」と情けなくなる。
こういうことを言うと身も蓋もないが、有機農産物と通常栽培の農産物と、モノそのものにほとんどちがいはない。ここでいう「有機農産物」は、JAS規格で認証されたものという意味じゃなくて、認証制度ができた20年ほど前よりもさらに昔に使われていた意味で使っている。つまり、農薬や化学肥料を極力排除しようとする姿勢の農家がつくった農産物という意味だ。そういう農家がつくった野菜をごちそうになると、確かにうまい。ときには信じられないぐらいうまい。けれど、じゃあ農薬や化学肥料を使った野菜がまずいかというと、たいていの場合、同じようにおいしい。たまには「あ、これはまずいな」という味の野菜もできるが、それは失敗作であって、きちんとつくる気になれば農薬と化学肥料を使ってもおいしい野菜はつくることができる。「野菜に罪はない」。私はよくそんなふうに言う。
有機農家の野菜がうまいことが多いのは、そういう農家の人々が多くの場合精農家だからだ。研究熱心で、だから上手に作物を育てる。味や出来栄えのちがいは農薬や化学肥料という物質によるものではなく、それらを含めた農業資材や農場の運用技術によるものだ。だから、そういうことに疎い私が無農薬無化学肥料で野菜をつくったって、たいしたものはできない。これはもう、何十年にもわたって実験済み。
味だけではない。健康への寄与だって、農薬や化学肥料を使ったかどうかに一義的に依存するものではない。ほとんどの農薬は、洗えば落ちる。だいたいが、収穫直前に使うクスリはあまり多くない。農薬は有償の資材だし、散布には一定の手間もかかる。だから、無用な時期に大量に使うようなバカは多くはない。たまにそういう人がいても、経営上は成り立たないから、最終的には離農するか、家庭菜園的な趣味に落ち着く。結局、消費者レベルで気にするほどの農薬が残留しているケースは、通常はない(もちろん事故によってそういうことが発生する場合はあるので、油断すべきとは思わないが)。
社会の歪は、弱いところに現れる。たとえば農業
では、なぜ有機農産物を買うのか? 日本の有機農業は、概ね1970年頃の公害問題に対応する形で再発見された。定説によればね。そのとき都会の消費者を運動にかりたてのは、健康被害に対する恐怖心だった。歴史書にはそう書いてある。ところがそこから10年ほどの間に、「学習」が行われ、実は都会に流通する農産物の残留農薬なんかとは比べ物にならない大きな問題が存在することがわかっていった。有機農業は、その問題に対処する運動へと形を変えていった。
いや、それは希望的な色付けをした過去だ。「そうなればよかったのにね」という願望だ。実際には、そういう意識を抱いたのはごく一部の人々でしかなかった。その一部を除いて一般には、「有機農産物=安全・安心」という神話が広がっていった。それに「おいしい」を加えて、つまりは質の高さを有機農産物の価値としてプロモーションする流れが強まった。その結果としてブランド価値が生まれ、ブランド価値を守るために有機農産物の認証制度が始まった。
だが、それは本当の問題を解決しなかった。有機農業が解決すべきだった問題は、根本的には現代の産業構造の問題だ。かつて豊かだった地方、地域、農村が、1960年代以降、急激に衰退し、過疎化、高齢化に悩むようになった。経済が回らない。その中でかろうじて生き残るためには、劣悪な条件を飲まざるを得ない。たとえば強化された労働であり、危険物の取り扱いであり、環境負荷の高い事業である。すなわちそれは、効率化のための分業と広域化、選択と集中の戦略、そしてそれらがもたらす国土と人心の荒廃の問題だ。それは産業革命以降、全世界を覆っている。
有機農業は、そういった問題に対して、人間生存の基本である自給的循環的な農業を出発点とするという指針を与えていた。そこに突破口があるのではないかと思わせてくれる何かが、そこにはあった。いまでもあると、私は信じている。信じてはいるが、見えなくなっている。
現代を覆う格差の問題、労働の問題、人権侵害の問題、グローバル化とナショナリズムをめぐる問題、そして環境問題。これらと有機農業の問題は、一見異質のものに見えるかもしれない。けれど、それは同じものだ。そして、そういった諸問題を前に、私はオロオロするしかない。
「買い支え」の理論
1970年代から80年代にかけての先端的な有機農業関係者が考えだした概念が、「買い支え」だ。もしも有機農業的世界に近代以降の社会問題を解決する突破口があるのなら、そこを潰してはならない。潰されてはならない。生き残らねばならない。そして現代の経済社会では、生き残る唯一の方法は経営を安定させることだ。農家の経営を安定させるためには、消費者はその農産物を安定して購入しなければならない。これが「買い支え」の理論だ。有機農家は、買い支えてくれる消費者に対して、安全・安心、そして何よりもおいしさという約束をする。そこに至ってはじめて、「安全・安心でおいしい」という有機農産物のブランド的な価値づけが意味をもつ。
順序がちがうのだ。「安全・安心でおいしい」から、有機農産物を買うのではない。有機農家を買い支えなければならないから、有機農産物を買う。その買い支えに応えるために、有機農家は「安全・安心でおいしい」価値を提供する。だから、「安全・安心でおいしい」だけを商品価値として他の一般的な農産物と比較したら、有機農産物は常に割高に感じられるはずだ。そもそも「安全・安心でおいしい」というのはあらゆる農産物にとって基本的な商品価値なのであって、むしろそれを満たせないものを食品として売ってはいけないだろうというぐらいの最低線なのだから。
基本的人権の問題として
では、何のために有機農産物を買い支えるのか。それを書いたら一冊の本になるだろうから、ごく簡単な例題だけをあげておこう。農薬は洗えば落ちる。市場に流通する段階で残留農薬が問題になるようなことは、ごく稀にしか起こらない。しかし、農薬による環境破壊は、日常的に起こっている。
私は半年余の期間、田んぼの真ん中の納屋に住んでいたことがある。その年の田植え時期のことだ。カエルの大合唱で夜は眠れないほどの毎日だった。だがある日、仕事から納屋に帰ると、その大合唱が気味のわるいほどピタッと止まっていた。気がつくと、確かに異様な臭いがしていた。その日、除草剤が散布されていた。
農村では、そういうことが日常的におこなわれている。そして、それが望ましいことだとは誰も思っていない。
カエルを殺し、鮒や泥鰌を殺し、水鳥を殺し、子どもたちが田畑で遊べないようにする。そんな危険物を日常的に取り扱わねばならないようなことを、誰だってしたくない。けれど、そうしなければ農業で収益をあげることはできない。農家はボランティアではない。つくればつくるほど赤字になるようなことは、自家消費分くらいなら平気でやるが、経営としては絶対にできない。この日本で農家として生きていくことを選択するのなら、そこから逃れられない。
しかし、もしも農薬を使わないことで販売価格が1割でも2割でも上がるのなら、有機農家として経営を成り立たせる選択肢ができる。そうすることで、意にそわない苦役から逃れることができるかもしれない。そして、意に反した苦役に服する必要がないことは憲法にだって書いてあるのだから、そういう選択ができるように消費者が「買い支える」というのは、決して悪いアイデアではないはずだ。
買わない理由、そして買う理由
かつて有機農産物を買うことには、そういう意味があった。だが、その意味を正しく伝えようという努力は、「消費者の健康のために有機農産物」という商業主義に押しつぶされた。一夜にしてカエルが消えてしまう恐怖を私は社会構造の歪として語りたいのに、それは「農薬は怖い、農薬のかかった野菜は食べたくない」という迷信的な防衛意識として受け取られてしまう。そして有機農産物の認証制度以後は、それが唯一の有機農業の意味であるかのように誤解されるようになった。その結果として、有機農産物の残留農薬量が慣行栽培のものと比べて有意なちがいではないというような研究結果がしたり顔で出される。あたりまえじゃないか。いまさら何を言ってるんだと呆れてしまう。
さらにわるいのは、認証を受けた「有機農産物」のなかには、現代の産業化の果てとして生み出された作物が少なからず入っていることだ。特に輸入有機農産物のなかには、伝統的な生産方法を破壊することによって大規模に生産されたものが少なくない。あるいは、労働力を搾取することによって生産された有機農産物も、堂々と認証されている。JASは労働環境までを監視しないからね。そして、国土や人心を守ることに心を砕く人々の農産物の多くは、認証を受けられない。認証制度は厳しいので、そこにコストをかけてられない。結局のところ、有機JAS認証制度で最も利益を得たのはグローバル企業であるという笑えない現実があったりする。
だから、ブランドとして有機農産物を選ぶ意味は、基本的にはほとんどない。しかし、もしもあなたがマジメに地域のこと、環境のことを考えている農家を知っていたら、少しぐらい高くついても、できる限りはその人々から買うようにしてほしい。わずかの差額で地球が救えるかもしれないのだから。
ま、まずは野菜350グラムから、かもな。