なんで大砲の弾が神社で見つかる? - 複合する歴史と心理

神社に見つかる旧日本軍の砲弾

少し前、大分を中心に砲弾が神社で見つかって自衛隊が出動したとか、ニュースが流れていた。数ヶ月前から断続的に話題に上るらしい。「あそこの神社にあったんだって」「そういえばウチにもあったな」みたいな感じで、連鎖的に「発見」されているようだ。

「発見」でも何でもなく、もともとそこにあることは多くのひとが知っていたはずだ。それがそこに置かれるようになった経緯も、はじめのうちは明らかだったはず。それが年月を経ていったん忘れられ、そして存在も経緯も知らない世代に発見された。

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実際、砲弾が神社に奉納されているのは決して珍しいことではないようだ。というのも、どこだったか場所は全く覚えてないのだけれど、どこかの神社で実物の砲弾に触れた記憶が、確かに私の中にある。赤錆びて凹凸ができた表面に触れた感触が間違いなく残っている。そして私は大分県には一度しか行ったことがなく、その際に神社に立ち寄ったことはないのだから、これは大分県での話ではない。おそらく近畿圏のどこかにちがいない。

 

上記の記事にあるように、多くの砲弾は戦場から帰還した軍人が記念として持ち帰り、奉納したものだろう。だが、平和な時代を数十年過ごし、神信心とも縁遠くなってしまった私達の感覚では、それでも「なぜ?」という疑問は晴らせない。たとえば、いかに元軍人とはいえ、武器をそう簡単に持ち出せるものでないことは明らかだ。一発何億円もするミサイルほどではないにせよ、砲弾はそれなりの有価物だ。演習での使用済み品や不良品その他の理由で不要とされたものであったとしても、下げ渡しにはおそらく相当に面倒な手続きが必要だっただろう。そういう手間をかけてまで郷里に持ち帰り、そして神社に奉納する──そこには現代人の知り得ない何かがあったはずだ。 

私はそれを知りたいと思うが、ちょっといま、手掛りがない。私の母方の祖父は第二次世界大戦終戦時に海軍軍人であった。砲兵であったが開戦少し前に海軍省勤務となり、秘密火薬工廠の設立と運営に携わった。そのあたりの話はたぶん非常におもしろいのだけれど、私がきちんとしたことを聞けるようになる前に祖父は他界してしまった。だから、ごく断片的なことしか私は知らない。もちろん、旧海軍での砲弾の取り扱い規則のようなことも知らない。

それでも、ネットに見つかる少ない材料で多少の憶測をしてみようと思う。ずいぶん長いこと生きてきた私でさえ、どうもよくわからないところがある。まして、もっと若い人々にはさらによくわからないかもしれないのだから。

武器奉納の伝統

武器を神に捧げることは、古代からさまざまな民族でおこなわれてきた。それはもちろん、武器を神聖なものとして超自然的な力をそこに加えることを期待したものでもあっただろうが、一方では戦利品として奪った武器を神殿に納めることで勝利を永続する支配に変えようという願望があったのではないだろうか。たとえば、古代ギリシアアレクサンドロス大王は、小アジアでの戦利品である武器をアテネ神殿に奉納している(アレクサンドロス大王(合阪學))。

武器の奉納には、武器製造業を継続的に実施するためという側面もあったのではないかという興味深い分析もある。

垂仁天皇がなぜ武器を神祇に奉納する武器の神祇奉納体制をつくろうとしたかは明らかであった。一つはいうまでもなく、その軍事統帥者に率いられた新たな軍隊に死をも覚悟しうるだけの精神的支柱を与えるためであった。そして今一つは、その「新軍」を維持していくために必要な、恒常的な軍需物資の──しかも最先端の軍需物資の──供給体制を確立するためであった。

「古事記」「日本書記」の語る日本国家形成史 : 火と鉄の視点から(小路田泰直)2005

武器は、技術的な進歩が続いている間は、常に陳腐化する。したがって、常に最新の武器で装備をアップデートし続ける必要がある。そして古くなって時代遅れになった武器は神殿に納められ、超自然的な力でもって軍事力を補強する。そういった思想があったのかもしれない。

そして武器の進歩が止まって新旧の性能に大きな差がなくなると、神殿に納められた武器はそのまま軍事力になる。日本では平安時代から戦国時代末までの長期にわたって僧兵や神人が軍事的な勢力として大きな役割を果たしたが、これはそういった面からも理解できるのかもしれない。

弾丸型記念碑の流行

それでは、武器として刀剣や弓矢、槍などの伝統的なものから銃砲といった近代的なものへ、神殿奉納の歴史がそのまま継続していったのだろうか。どうやらそうでもないようだ。理由はわからない。憶測するなら、近代的な兵器は、近代的な思想と二人三脚でやってくる。即物的な銃火の破壊力は、超自然的な力を必要としないのかもしれない。

銃器の時代になってからでも、武器の鹵獲はおこなわれてきた。戦利品として獲得された武器の一部はそのまま装備品として再利用されたが、一部は利用不可と判断された。そういったものの多くは廃棄されたわけだが、なかには戦勝を記念するものとして保存されたものもあったようだ。そして、日本では、明治期には、鹵獲した武器を鋳潰して記念碑をつくることがおこなわれるようになったらしい。そして、その記念碑の形のひとつとして、砲弾型が生まれたようだ。

ということで、砲弾型の記念碑だが、そのアイデアがどこから来たのかはっきりわからないが、19世紀にはアメリカで花崗岩製の砲弾型記念碑がつくられている。南北戦争ゲティスバーグ会戦を記念する公園に建てられたひとつの碑がそれだ。

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7th New Jersey Infantry Monument - Gettysburg National Military Park Historic District - Gettysburg, PA - NRHP Historic Districts - Contributing Buildings on Waymarking.com

上記サイトによれば建立は1888年とのことだから、日本式にいえば明治21年ということになる。そして、その明治時代には、日本でも多くの砲弾型記念碑が作成されている。たとえば名古屋の「第一軍戦死者記念碑」である。

碑・玩具・版画に表現され、記録された日清戦争一新たな教材と資料を求めて一 西尾 林太郎

日清戦争記念碑考─愛知県を例として─ 羽賀祥二

上記の2つの論文に詳しいが、名古屋にはいまも日清戦争の戦利品を鋳潰してつくられた砲弾型の記念碑がある。砲弾だけでなく、大砲の銃身をそのまま利用した柵もあるらしい。かなり過激なデザインといってもいいだろう。

明治33年につくられたこの記念碑は決して最初のものではなく、たとえば明治29年には台湾に砲弾型の記念碑が建てられている(北白川宮能久親王の御遺跡と神社の造営(金子展也)2014)。実際、「戦利品を鋳潰して砲弾型の忠魂碑を作る方法は、明治期にしばし ば用いられていた方法である」と、旅順のような外地にも砲弾型の記念碑が建てられたようだ(聖地の記憶─旅順を事例に─ 高山 陽子)。

どうやら砲弾型の記念碑は、この時代の流行であったのだろう。そしてこのスタイルは、やがて戦死者の墓標へと受け継がれていく。こちらのブログには、日露戦争戦没者の墓が弾丸型に造形されている例が記載されている。

砲弾型の墓碑のルーツは「征清記念碑」(名古屋・廣島)なのか

おそらくこういった素地があって、第二次世界大戦後に多数の砲弾が神社に奉納され、そのうちの少なくないものが記念碑的に設置されるということになったのではないだろうか。

各地に見られる砲弾

実際、神社等に残っている砲弾は少なくない。さすがWebの時代、検索すると全国を丁寧に調べた研究結果を発表されている方がいる。

神社や忠魂碑にある砲弾

このページには、300以上の砲弾が神社等に保管、展示、設置されているとされている。国外のものもあるようだが、今回大分で見つかっているものの多くは記載されていないようなので、実際には全国にはさらに大量の砲弾が残っているのだろう。

注目すべきなのは、これらが鹵獲品ではなく、旧日本軍のものだということだ。そして、軍の装備品は、軍隊が機能しているときにはちょっとやそっとでは持ち出せない。これらの砲弾は、敗戦のドサクサの中であまり適法的にではなく持ち出されたものではないだろうか。

そして、それは戦勝記念でもなく(なにせ負けている)、生還の記念品としても気が利いているとは言いがたい。どのような心理で敗戦の兵士が、決して持ち出しやすいものでもない砲弾を持ちだしたのか、いくら考えても想像ができない。

 

海軍軍人だった私の祖父は清廉潔白な人柄だったが、それでも私の生家には大量のネルの布がかつてあった。なんでも元は火薬を包むために使われていたものだそうで、生理用品、もしくはオムツとして使えるからというような理由で母が譲り受けて持ってきたらしい。そして、それが実家にあったということは、つまり、敗戦時に公有物資の管理が一時的にずさんになっていたことをあらわしているのだろう。負けて、日本がなくなると感じられるときに、お上のものは無所有物のように感じられるのだろう。そして、だれもそれを持ち出すことを咎めはしない。

ただ、ネルであれば利用のしようもあるだろうが(母はこれで一時コーヒーを濾していた)、大砲の弾にどんな利用法が想像できたのだろう? 持て余して、そして神社に行き着いて、記念碑となる。そのあたりの経緯を、いまならまだ語れるひとが生きているかもしれない。歴史が埋もれてしまわないうちに、年寄りに話は聞いておくものなのだろうな。

 

追記:砲弾のなかには日清・日露戦争のものもあるようだ。そうなると、上記の話はまたちょっとちがうのかもしれないな。

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