「大丈夫です」は、大丈夫なの?

ミルクを入れるべきか否か?

紅茶が2つ運ばれてくる。ミルクを入れたポットがひとつ。私はポットをとり、「ミルクは?」と聞く。向かいに座った若い人は、「大丈夫です」と答える。私はちょっと考えてから、自分のカップにだけミルクを入れる。

たぶん、若い人だったら考えもしない。やんわりと拒否する場面で「大丈夫です」という言い方は、たぶんここ5年ぐらいのスパンで言えばふつうに使われている。だが、その10倍も生きていると、そういう使い方には未だに戸惑いを覚える。ちょっと考えてから、「ああ、それは『私はミルクを入れなくても大丈夫です』という意味なんだな」と解釈する。

「大丈夫です」は、状況によってまったく別の意味にもなる。たとえば同じシーンで、私がミルクポットを手に「ミルク、入れてもいい?」と尋ねたのだったら、「大丈夫です」という返答の意味は「私はミルクを入れても大丈夫です」となる。許可を与える用法だ。どちらかといえば、この使い方のほうが馴染みがある。ここ5年とは言わない、もっと前から使われているように思う。それでも、私が若い頃は言わなかったような気がする。

ミルクを入れていいのか、ダメなのか、それは状況によって変化する。つまり、「大丈夫です」という表現は、コンテクストに依存している。どうも日本人はそういうコンテクスト依存型の表現を好むようだ。

 

なぜそんなもって回った言い方をするのかといえば、それが直截的なイエス、ノーよりも軋轢を生みにくいからだろう。明快なイエス、ノーは、それだけに失礼な表現につながりかねない。だから、わざわざ回りくどく言う。回りくどく言うと丁寧な表現になるというのは日本語だけのことではない。英語でも、ストレートな命令形よりは余分にpleaseをつけたほうが丁寧だし、Will you...と相手の意思の確認にしたり、あるいはWould youとわざわざ仮定法を使ったり、果てはWould you mind to...のように相手の感情まで慮った表現にしてストレートな意思表示を避ける。回りくどさが丁寧さになるということで言えば洋の東西を問わないようだ。

だが、こういった回りくどさは、同時にわかりにくさにもつながる。ときには誤解を生む。「大丈夫です」と言われてうっかりミルクを入れてしまうようなことにつながりかねない。

「立派な男子」(古語)ではないけれど

「大丈夫」という表現は、決して最近のものではない。たとえば、1960年代のテレビドラマ「仮面の忍者赤影」では、登場人物の青影が「だいじょ〜ぶ!」という決め台詞を使っている。これは当時の子どもたちの間でけっこう流行った。なにせ、いまとちがってネタの少なかった時代だからね。

ただ、この頃の「大丈夫」は、文字通り「 あぶなげのないようす」(三省堂Web Dictionary)であって、怪我をしていないとか、うまくいっているとか、そういう意味で使われた。だからある程度より上の年齢層の人々は、「大丈夫」を基本的にそういう意味で使う。たとえば、

「あ、すみません」(人にぶつかった)

「大丈夫です」(怪我はありません)

というような使い方だ。そして、そういう意味で「大丈夫です」を理解していると、次のような使い方をされるとひどく戸惑う。

「すみません」(2、3分の遅刻をした)

「大丈夫です」(かまいませんよ) 

え?と思うのは、「そんな数分の遅刻で大丈夫じゃなくなるような事態ってあり得るの?」と思うからだ。ぶつかったのであれば、当たりどころが悪ければ怪我をするし、所持品が壊れるかもしれないし、だいいち痛いのは間違いない。大丈夫じゃない事態はいくらでも想像できる。そんな状況で「大丈夫です」と言ってもらったら、それは非常にありがたい。ところが、数分遅れて、そりゃあ相手に対しては失礼だし、数分だけの時間の無駄という損害は与えてるし、気分を害したかもしれないけれど、少なくとも大丈夫じゃない事態、怪我であるとか破損であるとか、そういったことはそれが原因でふつうは起こらない。よっぽど体力のない人なら数分立ちっぱなしに放置されて足が痛いとか、あるかもしれないが、それはまた別の話。もちろん、待たされて「大丈夫です」と言った側は、そんなたいそうなことを言ってるつもりはなくて、「気にしないでください」ぐらいの軽い意味で言ってくれている。それを理解するまでに、こっちはワンクッションかかる。同じことなら、何も言わないで笑ってくれたほうがまだ話は通じやすいのだけれど、そういうことを若い人たちに求めるのが既に老人っぽいのかもしれないと思って黙るしかない。

けっこうvs大丈夫

では、昭和の時代にはそういうコンテクスト依存型の表現がなかったのかといえば、むしろいま以上にあった。そして、「大丈夫です」と同じ文脈で用いられる言葉に、やっかいな「けっこうです」という言葉があった。

「けっこう」というのは、「よい、すぐれている」というような意味だ。だから、「けっこうです」というのは、「いいですね」ぐらいの意味だ。たとえば、訪問して「けっこうなお宅ですね」といえば、「素晴らしい家ですね」と賞賛していることになる。「このアイデアはいかがでしょう」と尋ねられて「けっこうですね」と答えれば、「それは素晴らしい」ということになる。会議の提案に対して上司が「けっこう」と答えたら、それはゴーサインだ。

ところが、「お茶をお持ちしましょうか」「けっこうです」というような問答では、「けっこうです」は拒否の表現だ。これは、「お茶なんかなくても私はこのままでいいんだ」という意味での「けっこう」なわけで、お茶そのもの、あるいはお茶をもってくるという行為がけっこうなわけではない。ややこしい話だが、「要らない」とぶっきらぼうに言うよりは、「けっこう」と言ったほうが婉曲的で、失礼にあたらない。だから、昭和の時代からついこないだまでは、この「けっこう」が盛んに用いられた。

いま、「大丈夫」が「けっこう」に取って代わられている。それにはたぶん、理由がある。おそらく、「けっこう」は、長く使われている間にもともとの肯定的な意味よりも否定的な意味のほうが強まってしまったのだろう。つまり、Noを「よい」という婉曲的な言葉で表現していたはずが、いつのまにかストレートなNoに受け取られるようになってきた。そうなると、失礼を避けるためには新たな別の婉曲的な表現が必要になる。そこで選ばれたのが「大丈夫」ではないか。

そして、「けっこう」が客観的な「よい」であるのに対して、「大丈夫」は主観的な「問題はありません」という意味を帯びている。「自分はそれを拒否したいと思っている」という主観的な思いを伝える上では、「けっこう」よりも「大丈夫」のほうがしっくりくるのかもしれない。

 

とはいいながら、やっぱり私は、「大丈夫です」という表現に違和感を覚える。若い人の間には「何にでも使える便利な言葉」的な感覚があるようだが、忠告しておくと、そういう言葉ほど危険なものはない。コンテクスト依存型の表現は、往々にしてコンテクストの読み間違いを招く。そして、読み違えた人間を「空気の読めないやつ」として排除していく社会をつくりかねない。

だから、そこは失礼とかあんまり考えず、「はい」「いいえ」をメインで会話を進めていこうよ。文脈を読まなければ何事も進められないような過去の悪習は、もうそろそろやめにしよう。「大丈夫、大丈夫」と言っているうちに気がついたら大丈夫じゃなくなっている日が来てしまうかもしれない。空気を読めない人間を排除する社会ほど大丈夫じゃない未来はないのだからね。