学校行かなくてもいいじゃない(いろんな意味で)

「義務教育」という言葉には、トラップがある。このことは以前に別の場所で書いた

「教育の義務」なのでしょうか? だったらそれはどんな義務なんでしょう? 私の質問に、正しく答えられる生徒は多くありません。「義務教育」という返答が返ってきますから、さらに「それはなに?」と追求します。ほとんどの生徒は「小学校と中学校に行かないといけないこと」と答えます。ペケです。
参考書や問題集には時に「教育の義務」と簡単に書かれていますが、正確には「教育を受けさせる義務」です。「教育を受けること」は、「権利」なんですね。「義務」ではありません。教育を受けることを望む子どもたちに教育の機会を等しく与えることが、大人に課せられた義務なのです。そして、教育というものの本来の意味からいえば、あらゆる子どもが何らかの教育を受けることを望むはずだという暗黙の前提がここにあります。教育は、突き詰めていえば好奇心から発せられた問いに対して答えを与えることです。好奇心は人間の本質的な欲求のひとつですから、だれもが教育を望み、そして社会的にそれが与えられない状態は不正であるという思想から、大人の側に「教育を受けさせる義務」が存在するのだと、これが「国民の三大義務」とされる「教育を受けさせる義務」の正しい理解です。

こういう原則論に立つと、不登校の問題が別な意味合いを帯びてくる。「別な」というのは、昨年成立した教育機会確保法を念頭に置いての表現だ。

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この法律、結局はこれまでの学校教育関係者の立場から一歩も踏み出すものでなく、「不登校は学校への復帰によって解消されるべきだ」との考え方に基づいている。すなわち、

第八条 国及び地方公共団体は、全ての児童生徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育を受けられるよう、(中略)必要な措置を講ずるよう努めるものとする。

となっている。そこには、「教育=学校」という図式からはみ出すことは想定されていない。

しかしながら、教育が権利である以上、「どのような教育を望むのか」という内容についても、それは教育を受ける者の権利であるはずだ。もちろん、社会的経験が乏しく必要な知識もない子どもに細かい教育内容まで注文をつける能力がないのは明らかなので、教育制度・教育内容は教育を施す大人の側が用意しなければならないのは言うまでもない。とはいえ、そこに本来の権利者である子どもの意見が一切入る余地がないのはどう考えてもおかしい。なので、やはり以前に書いたことを引用すると、

しかしここで、「じゃあ不登校はどうするんだ」という問いが発せられます。子どもにとって義務でなくとも、大人にとってその「子弟」に教育を受けさせることは義務です。もしも自分の子どもが学校に行かないとなったら、自分は義務を果たしていないことになります。無理にでも子どもに学校に行ってもらわないと、たった3つしかない「国民の義務」のひとつが果たせないことになります。だから大人は、その内容も説明せずに子どもに向かって「義務教育なんだから」と学校に送り出そうとします。
そもそも望まないひとに何かを押しつけることが「義務」であるはずはありません。子どもにとって教育は「権利」です。本来子どもは教育を望むものであり、望んだものを与えられる「権利」を持っているわけです。子どもが学校に行きたくないというのは、そこに自分の望む教育が存在しないからです。だとしたら、これは義務教育以前に、子どもの「教育を受ける権利」が奪われている状態だと考えるべきです。学校に子どもを無理やりに行かせることは、なんの解決にもならないことがわかります。子どもが本来持っている「権利」としての教育を用意することが先で、その権利が損なわれることのないようにサポートすることが大人の「義務」であると考えればいいわけです。

と考えて差し支えない。つまり、不登校が存在するということは、すなわち、教育の設計に問題があると考えてほぼ差し支えないのではないかと思う。それは端的には学校制度の設計だし、部分的には学習指導要領の内容だし、根本的には社会が学校に求めるものと現実の学校の実態との乖離であると思う。

ただ、じゃあそれらを改善すれば完全に不登校者がいなくなるのかといえば、そういうことでもないように思う。そんなことを感じたのは、こんな報道を読んだから。

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この事例では、そもそも「中学生の娘」は教育を望んでいない。芸能活動に全力を注ぎたいから学校をいわばズル休みしているのであり、どんな素晴らしい教育制度を用意しようが、おそらく学校に行かないだろう。そういう異端者は、社会がどのように変化していこうと、必ず一定少数は発生する。そこまでを制度に組み込もうとしたら、制度が立ちいかなくなるか、社会的コストが大きくなりすぎる。だから、原則論から言ってもどうしようもないこのような異端者は、ルール違反と見なさなければならないと、私も思う。

ただ、そこに「送検」というような強硬手段、さらにはそれに続く可能性のある裁判や刑罰といったことまで行う必要はあるのだろうか? これに対しては、異議を唱えたい。

なぜなら、異端者を排除する社会は、長い目で見て必ず衰退するからだ。異端者は、確かに社会の秩序を乱すかもしれない。確かに合理的ではないかもしれない。一時的には社会の不利益になるのかもしれない。けれど、社会は常に変化を続けている。人間社会を取り巻く状況も、どんどん変化を続けている。そのような変化を前提とした未来を考えるとき、異端を排除して均質化してしまった社会ほど脆弱なシステムはない。

異端者が発生したときには、その異端者の存在による社会的な損害を最小限にとどめながら、できるだけ異端者を温存するように取り計らうべきではないかと思う。つまり、私たちは、非合理的なものを自分たちの一部として取り込むことにもっと寛容でなければならない。異端者のような一見ありえない存在が、ひょっとしたら遠い未来の適合型を生み出す母型になるかもしれない。未来に何が起こるか、だれも責任をもって予言はできない。だからこそ、未来の可能性をつぶすようなことは、絶対にしてはならないのだと思う。

 

とはいいながら、現実の不登校生を目の間にすると、「どうして人並みのことができんのや!」と怒鳴りたくなる日常を送っているのが私の現実ではあるのだけれど。