獣道の楽しみとアホらしさ ─ または大学中退者の末路について

秋の「キャニオニング」は楽しいだろうな

先日、妻が息子を「キャニオニング」に連れて行きたいと言ってきた。場所を聞いてみると、むかし、山岳部の連中と一緒に行った美しい沢である。「沢登りに行くのか」と思ったら、どうもそうでもない。所要時間から考えて、沢のなかのいちばん爽快な場所だけを訪れて帰ってくるようだ。「あ、これは楽しいだろうな」と思った。

山登りの中でも、「沢登り」というのは、かなりマニアックなジャンルだ。確実に濡れるし、多くの場合服が臭くなるほど汚れるし、だいたいが危険だ。そして、かなりの確率でヤブ漕ぎを覚悟しなければならない。もともと登山道ではないところを登るわけだから、最後は踏み跡とも獣道ともつかないルートを勘と地図を頼りに登っていく。少なくとも私が登山をしていた数十年前の時代にはそうだった。愛好家の間でだけ話の通じる世界であり、一般登山客からは「アホなことを」と思われていたにちがいない。

もちろん、沢筋は、美しい日本の山岳の中でも特に美しい場所だ。流水に磨きぬかれたナメ滝やダイナミックな瀑布をたどりながら身体を動かす歓びは、他に代えがたいものがある。けれど、そこにたどり着くまでには長い林道歩きや退屈なアプローチを要求されるし、核心部を抜けたあとにはとてもスマートとは言えないヤブが待っている。人里離れた山奥に踏み込むためには、野営道具も一式、背中に背負わねばならない。核心部まで車を降りてから徒歩20分、そこを抜けたら快適な登山道を30分で戻ることができる、みたいな場所はごく限られている。そういう場所なら、確かにおしゃれな「キャニオニング」は成立するだろう。そしてそれは、まちがいなく楽しいはず。

だが、そんな楽しさのエッセンスだけとり出したようなフィールドは、ごく限られている。多くの沢愛好家があの時代に挑んだのは(いまのことは、知らない)、危険で汚く苦しさのほうが多い沢登りだった。情報の少ない時代である。地形図を睨んで、「ここだ」と思った沢に準備を整えて突入する。未知の滝の美しさに息を呑むこともあったが、クライマックスのないしんどいだけの労働に後悔しながら頂上を目指すことも多かった。安定した道、世の中に認められた道を外れて自分だけの道を選ぶと、往々にしてそういう結果が待ち受けている。学生時代、一年の3分の1を山登りに費やした数年間で、私は痛いほどそれを思い知った。

ドロップアウトの論理

道を外れなくても、美しい景色は手に入る。楽しいクライミングだって、いくらでも味わえる。それを知っていながら、そこから外れて「パイオニアワーク」にうつつを抜かしていたあの頃の私を動かしていたものは何だったのだろう。それは、観光地と化した名勝、プレイグラウンドとして名高い自然と触れ合える場所、たとえばスキー場なんかを訪れたときに感じる居心地の悪さだった。「ここは自分がいるべき場所ではない」と、その感覚は告げていた。

他人と同じことをやるだけなら、自分は自分である必要がない。そういう人生は、他人に任せておいたらいい。自分は自分だけができることをやるから、自分だ。生意気かもしれないが、若かった私はそんなふうに思っていたのだろう。そのくせ気が弱いから、面と向かって世間に歯向かうこともできない。しかたないので、とことんマイナーな世界でとことん自分だけの世界のめり込んだ。そのひとつが沢登りだった。もちろん、危険な単独行を許さない山岳部組織の中にいたから、パートナーに遠慮してそこそこにメジャーな場所にもよく行った。ありていにって、楽しかった。それに比べて自分で立案して無理やり後輩を巻き込んだような計画は、だいたいが苦しいだけで楽しみのない山行になった。それでも、私はそういう計画にこだわった。なぜなら、それはおよそ他人に真似のできない自分だけの山登りだったからだ。なんで自分は大学を卒業しなかったんだろうと、たまに考えることがある。それは結局は、ヤブ山と知りながらあえてそこに突っ込もうとしていたあの頃の感覚そのものではなかったのかなと思ったりもする。

割が合うのはまともな生き方

いい高校に入り、いい大学に進み、いい企業に採用されていい仕事をする人生を、「決められたレールに乗っている」と表現する人がいる。そういうとらえ方もできるのかもしれないが、私には「評判の観光地に行って、絵葉書にあるような景色を見て、感動する人生」と表現するほうがぴったりくる。評判になるような観光地には、ほぼまちがいなく人を感動させる何かがある。その感動を味わうのは、決してわるいことではない。そして本当にその光景を素直に受け入れるだけの心の準備ができていれば、感動は保証されている。世の中には感動なんかどうでもよくって、観光地に行っても晩飯のオカズの品数のこととか椅子のクッションの悪さのこととかばかりを愚痴る人もいるが、そういう人のことまではいわない。いい学校を出ていい企業でいい仕事をしているはずの人でも、人生に満足しない人がいる。その大部分は、本質的ではない部分で、文句を垂れているに過ぎないと私は思う。名勝とよばれる景色にほぼまちがいなく人を感動させる何かがあるのと同様、優れた大学での教育にも一流の企業での仕事にも、人生を満足させる何かはほぼまちがいなくある。はずだ。

観光地に行くにはレールに乗っているだけじゃダメで、それなりの事前準備やら宿の予約やらと、手間も努力も資金も必要とする。観光地を外れてヤブ山に突っ込むのなら、そういうのの大部分は不要になる。だが、その先に待っているのはバスの便さえない山奥に至る退屈な林道歩きであったり、立入禁止の冊をのり超えるちょっとした違法行為であったり、何の保証もない危険であったり、そのあげくに泥だらけでおよそ美しいとはいえない光景であったり、最悪の場合には開発が入ってすっかり自然が破壊された工事現場であったりするわけだ。いずれにせよ最後に待っているのは獣道で、ときにはそれさえない木登りに近いヤブ漕ぎだったりもする。死ななければそれで儲けものという結果が待っていても、何の文句も言えない。大学をやめることも、単位はとらなくていいし、就職活動だって要らない。その代わり待っているのは、何十回書いてもむなしく返ってくる履歴書だったり、低賃金で肉体的にきつい労働だったり、どう計算しても数十万円が足りない月末だったり、頭を下げて回る恥辱だったりする。もちろんうまくいけばおよそ他人にはできない特殊な仕事をこなして勝利の叫びをあげることもできる。滅多にはないが賞賛してくれる人があらわれたりもする。だが、ごく稀にあるそういった歓びが苦痛にまさるものかといえば、かなり疑問だ。基本的に、割は合わない。アホらしい営み。

山に近づくもともとの目的が美しい景色を見ること、そこに一体化して自然のなかで歓びを感じること、感動をもらって帰ることであるのなら、まずは評判の観光地に行くべきだ。できるだけよく考えられた、たとえば「キャニオニング」みたいなプランを選んで、そこに積極的に参加すべきだ。それがどうしても居心地悪く感じる人、そこに疎外感を感じる人、「それは自分じゃない」としか思えない人が、道を外れてヤブに突っ込んでいく。得られる感動も歓びも、おそらくはずっと小さい。下手をすれば命を落とす。そこまでいかなくても、罰金ぐらいとられるかもしれない。社会規範をはずれることは、法律違反と際どいところなのだから。得られるものは、本来の目的のものではない。居心地の悪さから逃れてほっとする安心であり、「自分はしょせんこうなんだ」という諦めであり、その裏返しとしての自信である。よくてその程度。たいしたものではない。

老父の笑顔と息子への不安

はるかむかしに大学をやめたことも、実利からいえばマイナスばかりだった。人並み以上の年収があった年度はたぶん人生を通しても2回しかないし、ぎりぎり人並み程度の年収があったのもそれに加えて1回か2回、あとは貧困線を余裕で下回る日々が続いている。金はないし、まして名誉などどこを探してもない。普通に考えたら大外れの人生を送ってきたのが私だ。

その私が、数ヶ月前のこと、たしかガンの手術の準備で入院していた高齢の父親を見舞ったとき、「おかげさんで、おもしろい人生やわ」と言った。私のことをずいぶんと心配してきた父親は、「そうか」と、安心したようにポツリと言った。

いや、実際、おもしろい。もしももう一回やり直せるとしても、この人生を他の人生と取り替えたいとは思わない。もちろんん、「あそこでああやっとけばよかった」とか「あれはもうちょっと別な方法があったんじゃない?」とか、小さなことでの後悔はないことはない。というか、はっきり言ってそればかりだ。けれど、じゃあそこに巻き戻しをしてくれたら別なことをしていただろうかといったら、それはたぶん私の人生ではない。だれか他の人ならそうするかもしれないが、私ならたぶん、おなじことをしてしまうだろう。そのぐらいに、私はもう、私から抜けられなくなっている。アホなことをと思いながら、やっぱり大学を中退するのかもしれない。

これはまともな感覚ではない。のだろうか? 私にはわからない。私は自分のことしかわからない。私にとっては自然なことだが、他人にとってどうだかはわからない。だからだれにも同じことを勧めたいとは思わない。それは自分の息子であってもだ。

その息子、中学生の息子が、ちょうど1年前、学校をやめたいと言い出した。 もちろん私は反対した。中学を不登校になることぐらいで、将来の可能性が閉ざされるとは思わない。いくらでも自分の望む方向に進むことはできる。ただ、それはけっこうめんどうくさい。なにもわざわざしんどいことをしなくてもいいじゃないかと、他人事なら思う。そして、学校から離れて同年代の他のひとたちとちがうことを数年もやってると、もう他人と同じ人生には戻れなくなる。そのために費やすエネルギーが非常に大きくなってしまうからだ。それだったら、なにも他人と同じことをやらなくったって、と思うのは自然な流れ。ああ、めんどうくさい。

君の未来には、楽しみが待っている。もしもそれを楽しむだけの力があれば、だけれど。もしもそれがなければ、そこに残るのはアホらしさだけだろう。君を疑うわけではないが、父親としてはそれを怖れる。

結局は血筋なのかもしれない。私はそうやってきた。やめろといっても、君もそうするつもりらしい。獣道を選ぶアホな性格は、いったいどの染色体の上に存在するのだ?