変わってこその文化、受け継いでこその文化

地味に凄いWebsiteがあった。

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日本の中世文書

数はまだ多くないのだが、古文書の画像が公開されている。それだけならまあ珍しくもない。凄いのは、それに音読音声をつけてくれていること。古文書の素養などまったくない私でも、音声を聞きながら文面を追いかけると、「ああ、ここにその漢字があるよ!」と、たしかにミミズがのたくったみたいにしか見えない筆跡に意味が見えてくる。そういうのを繰り返していけば、いつかこういった古文書を、ほんのわずかでも読めるようになるのではないかと希望をもたせてくれる。

技術的にはおそらくたいして目新しいことではない。四半世紀も前に「マルチメディア」ともてはやされたような発想を出るものではない。けれど、それが実装されてみると、「教材とはこうあるべきなんだなあ」と実感させてくれる。進歩というのは最先端だけでなく、それが時間をかけて広く行き渡って応用されていったときに実感されるのだなあと、そんなふうにも思う。

しかし、考えようによってはこれは進歩ではなく退化なのだろう。古文書一般の解読までいかなくとも、くずし字程度であれば、ほんの半世紀ぐらい前までは読み書きできる人が少なくなかった。たとえば私の祖母はいまからおよそ四分の三世紀前の戦後すぐに新潟に単身赴任していた私の祖父にラブレターもどきの近況報告を送っているのだが、これが立派なくずし字であり、私たちの世代にはふつうに読めない。いとこ連中がよってたかってああでもないこうでもないと言い合いながらようやく解読したが、当時は手紙文でこういう字を書くのはごくあたりまえのことだったのだろう。これが読めれば幕末期から明治期ぐらいの文書は読めるはずで、つまりそういった能力が戦後急速に失われていったわけだ。これは退歩でしかない。

けれど、私たちは一方的に嘆くべきなのだろうか。そうではなかろう。たしかに古文書を直接読解する能力は失われたかもしれない。けれど、日本社会全体を見渡せば古文書に対する学問は進み続けているし、直接そこにかかわることのできない私たち一般の者もその成果からの恩恵を受けることができる。神武以来の皇統を暗唱させられた私の親たちの時代に比べれば、現代の子どもたちははるかに実証的で実用的な歴史を教えられている。

文学作品にしてもそうだ。私は源氏物語の古写本を読めない。ありがたいことに現代では一部の画像をWeb上で見ることができるが、とびとびに文字が推測できる程度でしかない。そして活字化されたテキストでさえ、注釈なしには読めないし、そういう読み方では一帖を読み切るだけの根性もない。けれど、私は高校生の頃には与謝野晶子訳で源氏物語を気軽に読み通すことができたし、後にはサイデンステッカー訳の英文で改めて読み直してそのスケールに圧倒されることもできた。古文を読み切るだけの素養は多くの個人の中からは失われたかもしれないが、それは日本社会、あるいは人類社会の中では保存され、そしてそれが結果的に多くの個人に恩恵を与えている。だから、個人レベルでの退歩は、決して社会全体の進歩と矛盾しない。

 

文化とは、人間の集団の生活様式のことである。生活のあり方は個人によって異なっているが、なんらかの集団をとったときには、その中で共通する様式が認められる。それを文化と呼ぶ。だから、文化は生産様式と密接に結びついている。そして生産様式(経済といってもいい)が変化を続ける以上、文化も変化を続ける。

だから、時代が変われば文化が変わるのは当然なのだ。そう思えば、なぜ長年にわたって受け継がれた日本文化が戦後になって急速に変化したのかも理解できる。稲作は、弥生時代以来、多くの改良を経ながらも、基本的作業は同じであり続けた。だから、文化の中にも変わらないものがあり続けた。もちろん、生産様式の改良が起こるたびに文化にも変化は起こってきたのだが、変わらない部分はしっかりと残ってきた。ところが、1950年代から60年代にかけてのエネルギー革命は、その変わらない部分までを変えてしまった。だから多くのものが失われた。それを押し止めることはできない。失われたものがいかに貴重なものであったとしても、それは生活の中で活かしていくことが不可能になっている。既にレガシーとなってしまっている。もちろん、そういった文化遺産からは学べることが非常に大きいのだし、単純に捨て去っていいものではない。だがそれは、参照されるものであっても文化そのものではない。忘れてはならないものであっても、日常に用いられるものではない。それが文化というものであり、文化を受け継ぐというのはそういうことだ。

だから、使えもしない過去の技術を学ぶことは、学術的な意味、次の変化の参照項目として保存する意味、未来に備える意味、あるいは失われたと思っているけれど実際には失われていない生産様式を再発見する意味はあっても、実際に使える生活様式における意味はほとんどない。たとえば算盤を習う意味は、半世紀前には実用的な意味があった。つまり、本来の意味での文化を算盤は支えていた。けれど1970年代に電卓が急速に普及して以来、生産現場で算盤を活用する場面は急速に失われた。だから現代では、算盤を学ぶことに実用的な意味はない。伝統芸能の保存としてその道に面白さを見出すのなら、学んでもいいだろう。芸能のひとつとして取り組むのは推奨されたっていい。けれど、それが実社会に出てから役立つだろうという考えで算盤を習わせるのは、時代錯誤でしかない。つまり、算盤は、現代の文化からは失われ、文化遺産の仲間入りをしているといえるだろう。

 

学校教育においてまず重要とされているのは、日常生活に出発点を置くことだ。これは文部科学省の出している学習指導要領を読めば明らかだ。くどいほどに「身の回りの」という形容が出てくるだろう。そして、身の回りの現象とはすなわち生活であり、それは現代の文化である。基礎教育はまず現代の文化に適合して実施されねばならない。そして、その基礎の上に、文化遺産を参照する力を涵養していくものであるべきだ。学習指導要領を読むと、そんなふうに組み立てられているように受け取れる。現代の文化で最も重要なのは合理的な思考を組み立てていく能力であり、それを表現する能力である。学習指導要領は、そういったコンピテンシーを重視している。

であるのに、学校現場はそうなっていない。そこに見られる技能重視の姿勢はまずもって問題なのだけれど、そこで重視されている技能、たとえば漢字の書き取りであるとか計算のドリルというような技能は、現代では既に実用的な役割を終えつつある。どちらかといえばレガシーに属するものだ。レガシーは完全に無視していい、というわけではない。文化遺産はつねに参照可能であるべきだし、そこを学ばなくて何の学問よということである。けれど、それを実用的な技能として身につけるべきかといえば、それはそうではなかろう。なぜなら、漢字が書けなくったって、筆算ができなくったって、現代社会では何の不自由もないからだ。あるいは、不自由があるのならそれを改良して不自由がないように技術を進歩させるべき方向に社会が動いているからだ。生産様式がそういう方向にシフトして長い。

だというのに、学校は相も変わらず、手書き、手計算にこだわり続ける。なぜそうなるのか。ここでいつもの結論になるのでもう自分でも辟易しているのだけれど、それは大学受験を頂点とする入試システムのせいだ。

入学試験を公正に行おうとしたら、それは伝統的な手書き、手計算の技術の上にしか成立し得ない。もちろん手書きの部分についてはマークシート方式の導入で何十年も前に改良されているわけだが、しかし、そこで大きく脱落する論述のスキル評価に関しては対応ができない。できないことを無理に導入しようとすると、今回の大学入試改革騒動のような悲惨なことになる。そして理科系の入試においては、電卓ひとつ持ち込ませない。それが公正な入試を妨げるからだ。公正な入試を追求する限りは、最新の技術よりもレガシー化した技術でもって評価するほうが圧倒的に有利だ。だから、入試システムが出口で待ち構えている限り、学校教育は単なる参照項目でしかない文化遺産をあたかも実用的な技術であるかのような顔をして教えるしかなくなる。

 

文化は変化するものだ。そして、未来はもっともっと大きく変わる。変わってもらわなければ、現在の地球環境問題のような大きなことから、日常のちょっとした不便に至るまで、さまざまな問題が解決しないまま将来に残り続ける。それは絶望的な未来だ。そうではない未来を信じられるからこそ、このクソのような現世にも生きる価値があると思える。それを封殺するようなことだけはしてほしくないと、切に願う。