マストドンは絶滅しても

しょせんは亜流?

マストドン、最近何かと話題になっているツイッター・ライクなソーシャルコミュニケーションツールのことだけれど、これは流行る。いや、流行らない。どっちなんだ?

まず、現状のままのマストドンが流行るとは思えない。理由はいくらでもあげられるだろう。たとえば、

  • 先行のTwitterと比較して、ほとんど機能的に何も変わらない。
  • 主なメリットは、「Twitterではない」ということ。
  • 盛り上がっているのがオタクとGeekだけ。
  • ユーザーの増大によって発生する問題に無防備
  • インフラを維持するコストをどう償却するのかが見えない。

など、シロウトが思いつくだけでもいろいろとある。中身に入ったら、もっといろんな問題があるのだろう。上記は、外側だけのこと。

実際、「短文をつぶやく」という機能に限っては、マストドンTwitterクローンでしかない。140文字の制限が500文字まで長くなっているといったところで、流れてくるtootのほとんどが数十文字でしかないのだから、この違いはあってないようなもの。細かい機能の違いの中には(単純に慣れていないだけだろうが)使い勝手がわるいものもあるし、Twitterのように周辺にぶら下がって利用できるサービスもない。

そんななかで一部のユーザーが盛り上がっているのは、「Twitterが窮屈に感じていたのにここは自由だ」みたいな感覚が大きいようだ。つまり、「Twitterではない」ことがほぼ唯一のマストドンの強みになってしまっている。しかし、そういう感覚は、もしもマストドンがメジャーになってしまえば(あるいはTwitterを置き換えてしまえば)消えてしまうだろう。

ただし、Twitterとの違いがないわけではない。それは、自分の属するインスタンス内だけである程度世界が区切れるということだ。ただ、そうはいっても、それがどういうふうに発展していくのかはまだ不明。だからここは「現状」のほうに含めずに、後のほうで「将来」に含めて書く。

ユーザーが増大することによる問題は、ごく初期にエロ画像問題として発生していたが、不特定多数の人々が通信を行うことに伴って発生するさまざまなリスク(法的なリスクを含む)に対してどう対処できるのかは、けっこう大きな問題だろう。

Twitterのような営利企業はそういった問題の解決にコストをかけることもできるわけだが、マネタイズの方向性もわからないマストドンでは、それが可能かどうかもわからない。

とまあ、シロウトが観測した大雑把なところでもこんな感じだから、まずマストドンが流行することはない。しかし、じゃあそれでおしまいなのかといえば、そうではないと私は強く感じている。これは絶対に流行る。

進化は不可避

マストドンは、いつまでも現状のマストドンではないだろう。なぜならそれはオープンソースだからだ。オープンソースのプログラムの常として、進化は急速に起こる。いま、Geekたちのあいだでこれほど盛り上がっているのだから、開発が停滞することは考えにくい。1ヶ月後には、マストドンは現在のものとは一変しているはず。

そして、これもオープンソースで起こりがちなこととして、プログラムはフォークしていく。フォークするだけなら似たようなものが乱立するだけで「だからどうなの?」ということでしかないのだけれど、フォークした先で、思いもかけないような変化が起こる可能性がある。それは最初は現在のものにちょっとした機能を付け加える程度のことであるかもしれない。けれど、それが全体の性格を大きく変えるかもしれない。使い方が変わってしまうかもしれない。そうなれば、Twitterと比較することさえ意味を成さなくなるだろう。

そんな未来を考えたときに、マストドンのもうひとつの強みは、その分散型の構造だ。どこかに情報の処理が集中するのではなく、あちこちに林立したインスタンスごとに情報が処理され、その情報がインスタンスを超えて流通する。そういうスタイルそのものが、次の新しいメディアの基盤になる可能性は高い。

インスタンスごとに区切られた世界というだけなら、これまでにも閉鎖的な文化をもったWeb上の空間はいくらでもある。区切られた世界を繋いでいくことも(たとえばURLを貼り付ければ)可能だ。けれど、それがシームレスに行われることはなかった。そういう意味でマストドン的世界は新しい。


だから、マストドンは流行りかけて廃れるかもしれないが、それが残す遺産は廃れない。その遺産の中から、次世代のメディアが誕生する。それがマストドン直系であれば、「マストドンが流行る」未来が生まれることになる。私個人としては、そうなるような気がしてならない。

そろそろ次が来る──経験則でしかないけれど

というのも、Webに乗っかったメディアの変遷を見たら、「そろそろ次が来てもいいなあ」という頃だからだ。その出発点は、画期的なものである必要はない。発展していくポテンシャルだけあればいい。そして、オープンソースマストドンには、上記のようにそのポテンシャルがある。

思い起こせば、私が最初にWebをマス(といっても私の力では数百人程度まで)に対するアプローチとして使い始めたのはメールマガジンだった。そして、そのシステムを使い始めた最初は「それってローカルの同送リストと同じじゃないの」と思ったものだ。次にブログだったが、「それって逆順日記じゃない」としか思わなかった。Twitterが出たときも「ミニブログ」としか思わなかったし、Facebookに至っては「こんな個人掲示板みたいな古臭いものなんか使うもんか」と思ったりもした(実際使わなかった)。そもそもSNSなんか、みんなミクシィの亜流だとさえ思っていた。サービスが出始めた頃っていうのは、多くの人は過去にあったものに似たものとしてそれを理解しようとする。そして、「いまさらそれはないだろう」と否定的に思う。けれどいま、Facebookミクシィの真似だとかいったら、笑われるだけだ。だから、スタート時点の現在のマストドンTwitter亜流だからといって、それがここから先に大きな潮流にならないと否定する理由にはならない。

数年おきにメディアに大きな潮目が訪れるのは、ハードウェアが進歩するからではないかと思っている。パソコンをもつ人が増えて「ホームページ」が流行り、携帯でメールを受信できるようになってメールマガジンの影響力が大きくなった。常時接続が一般化してトラフィックの増大に耐えるインフラができ、ブログが流行した。SNSの大衆化はスマホの普及と軌を一にしている。通信技術が進歩して新たなデバイスやサービスが拡大すると、それに乗っかるようにしてコミュニケーションのためのメディアが勃興する。

じゃあ、いまはどんなハードウェアが生まれているのか? たぶん、10年後に振り返ったら、それが明らかになっているはずだ。だが、いま私には見えていない。ひょっとしたらそれは、「格安SIM」の普及かもしれないなとかも思う。私はMVNOのSIMを2011年から使っているのだけれど、最初の数年は完全に異端者だった。それがここ数年は一気に市民権を得てきている。そういう背景とマストドン的なネットワークは、どこかでシンクロしないだろうか? あるいは、そういう一国内特殊事情ではなく、もっとグローバルなデバイスの変化が起こっているかもしれない。いずれにせよ、スマホの拡大一辺倒で来たここ10年ほどのハードウェア的な状況に、そろそろ潮目が変わる時期のような気がしている。

 

だから、マストドンは流行するし、流行しない。いまの形のマストドンは、その名の通り化石となって埋もれていくだろう。だが、そこから生まれる新しい生物は、巨象のように大きなうねりとなっていくにちがいない。ま、私はそうなることに昼飯ぐらいなら賭けてもいいな。

 

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話題に乗っかってしまって、マストドンを10日ほど前から使っている。「使っている」といったらちょっとちがう。登録して、10人ばかりをフォローして、100ほど愚にもつかないことをつぶやいて、タイムラインを眺めて、それで何かが得られたかというと特に何が得られた気もしない。それでも、それをきっかけにいろいろと考えることもある。だから、無駄ではないのだろう。

どっぷり浸かっているわけでもないし、プログラムに詳しいわけでもないし、SNSには疎いし(Twitterをずいぶん昔に2年ほどやってやめてしまった)、どう考えてもこの新たなメディアを論評する立場にはないのだけど、思うところを少し書いてみた。

道徳教育推進教師に資格はない? - 無資格教員が教科を指導する矛盾

指導要領改訂で道徳科という科目ができるとかいう話を聞くのだけれど、家庭教師としては文部省のサイトに「道徳科の評価で,特定の考え方を押しつけたり,入試で使用したりはしません。」と書いてある以上、特に関心はない。特定の思想の押し付けはないと言い切ってる以上、科学教育への悪影響はあり得ないと考えざるを得ないし、成績に関係しないんだったら、まあ勝手にやってくれというところ。

けれど、ふと思った。教科になるなら、当然、専門の教師が必要になるはず。ということは、教員養成課程でそういう専門科が大学に設置されるんだろう。やっぱり社会科学の系統になるのかなあ、などと。

そこで調べてみたら、道徳に関しては「道徳教育推進教師」というのを用意するらしい(Q&A:文部科学省)。そしてどうやら、この「道徳教育推進教師」というのは学校内での役職名であって、資格ではない。いったん道徳教育推進教師になったら研修とかもあるらしいのだが、それは教員資格とは無関係なもののようだ。

これっておかしいよなと思う。というのは、現在の法体系では、学校では無資格の教員が(補助的な指導を除いて)教科指導をしてはならないことになっている(学校教育法教育職員免許法)。だから、たとえば私のような家庭教師が学校の教壇に立つことはあり得ない。そういうものとして運用されているのが学校制度だ。しかし、道徳科を教えるのに、道徳科の資格をもった教師がいない。これは法体系のほころびではないだろうか。

 

屁理屈のように聞こえるかもしれないが、これは重要なことだ。というのは、大学は腐っても大学、そこには研究もあれば学問の自治も(一応は)ある。道徳の指導ということをきちんと研究すれば、結果的に文部科学省のタテマエそのまま、すなわち

道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,自己の生き方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とする。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2016/08/10/1375633_1.pdf

方法論、すなわち、正しい批判精神と共感をどのように身に付ければいいのかという社会学的な方法論に至るはずだからだ。そういった素養を身に着けた道徳科専門教師が指導をするのであれば、アホみたいな教育勅語論争とか、そういうものからこの教科は無縁でいられるはずだ。

ところが、これが大学教育とは無縁に行われるとどうなるか。OJTとして行われる「研修」は、現場の効率化とか恣意的な目標設定とか、そういうものと親和性が高い。結果として、指導要領に記載されているのとまったく別物の指導が推進されてしまう危険性がある。

そういう危険性を避けるために、法令は教員免許の必要性を定めているのだと思う。それを無視して専門性のない教員に指導を求める現行指導要領は、考えてみれば非常に奇妙だ。

 

指導要領をはじめとして、教育行政の公的な文書類は、素直に読めば決しておかしなことは書いていない。そりゃあ、頭のいい官僚たちが知恵を絞って書いているのだから、ある意味、非常にまっとうなことが書いてある。ところが、それが現場では全然まっとうじゃない使われ方をする。ほんと、それは呆れるほどだ。

つまり、法律は、読み方でどうにでも解釈できる、と思われている。そう扱われている。だから、法律で縛ってブレーキをかけるというのが非常に効きにくい風土になっている。そんなところに、そのブレーキを外してしまったような「道徳教育推進教師」の存在は、本当に危うい。

無資格教師が教えていいんなら、私はいつでも学校に行くよ。あそこで雇ってくれたら、こんな嬉しいことはない。ま、引っ掻き回されるのがわかってるような男を雇いたい学校なんて、あるわけはないのだけどね。

漢文を教える意味はあるのか? - そりゃあるんだろうけど…

別にウラをとったわけでもない単なる与太話なのだが、中学の教科書に漢文が載っている理由は、詩吟協会(なんてものがあるのかどうか知らないが)の陰謀ではないかとずっと思っている。詩吟というのは漢詩を独特の節回しをつけて読むもので、幕末ぐらいから流行したらしいから、それほど古いものでもない。ただ、漢文が読めなければ当然詩吟もないわけで、詩吟人口の確保には、漢文教育が欠かせない。どうせ詩吟なんてやるのは国語教師あがりぐらいに決まってるので、そういう点からもよく自己完結している。と、まあ悪口はこのぐらいにしておこう。

ただ、どう考えても中学生に漢文を教える意味がわからない。確かに、日本の文化は古代中国から流れ込んできた大量の文物を消化することによって成立した。古典を読む際に漢籍の素養が欠かせないのはもちろん、現代の日常的な語句にまで、中国由来の表現が無数に登場する。中国語の文献を日本独自の方法で読解する手法として発達した「漢文」は、日本文化を理解する上で非常に重要である。漢文の研究が途切れたら非常に貴重なものが失われるわけだし、それは歴史や文学の研究に大きな困難を引き起こすだろう。だから、決して漢文はおろそかにしてはいけない。

ただ、だからといって、研究者でもない中学生にそれを教える意味があるのだろうか。考えてみてほしい。たとえば聖書は、英語の血肉となっている。英語の本には聖書の知識なしにその表現を正確に理解できない箇所はいくらでもある。けれど、中学校でも高校でも聖書は教えない。シェイクスピアもそうだ。英文にはシェイクスピアの引用、シェイクスピアへの参照は無数にある。けれど、(高校なら教科書によっては扱うものもあるが)シェイクスピアを教えることは学校ではしない。基礎教育であれば、それで十分だ。そういう味わいのあるところは、大学の専門教育でやればいい。大学でそういう分野の研究がなくなったら問題だろうが、高校までの教育でそんなことを無理矢理に詰め込む必要はない。

同様に、漢籍の素養も、大学での研究が正常に行われていれば十分だ。もしもそれでは基礎が不足するというのなら、文系の高校生には漢文を選択できるようにしておけばいい。現在のように古文A、Bと不可分に漢文をセットする必要は、おそらくない。(あるとすれば詩吟業界の振興ぐらいか)

なんといっても、漢文の方法論、外国語を無理やりに日本語にしてしまう強引さは、歴史的事情を差っ引いたらおよそ学問の方法としてふさわしくない。語学教育全体を見渡してみれば、ああいう発想の解釈が通用し始めたらろくでもないことになるのは理解できるだろう。

 

もちろん、熟語(特に四字熟語)の成立など、漢文の知識から得られる日本語の理解は小さくない。けれど、それは返り点の打ち方とか、あるいは古代の詩歌の日本ローカルの解釈とか、果ては儒教の基礎知識とかを教えなくても、ごくふつうの解説文で補うことはできるだろう。もちろん、漢文をブラックボックス化する必要まではないので、そういうものが存在したことぐらいまでは歴史として教えてもいい。

けれど、そうなったら、教材の選択があれでいいのだろうかということになってくる。漢籍の解釈は、仏典の研究で広く用いられていたはずだ。ところが、教材は唐代の詩人と儒教聖典が中心になっている。つまり、実際に日本の歴史の中で用いられてきた場面とかなりずれている。

だから私は、「詩吟協会の陰謀だろう」と、あり得ない邪推をするわけだ。だって、詩吟では漢詩を使うわけだし、幕末に詩吟をやっていた壮士連中というのはだいたいが朱子学の徒の成れの果てだ。そういう流れの学問が存在してもいいし、必要なのだろうとも思う。だが、基礎教育の場では、それはちょっとどうなのかなあと思う。それって一部の人々を妙に優遇しているだけのような気がする。

中学生に漢文を教えるたんびに思うこと、こんなツイートを見て思い出したので書いた。ま、元ツイートの発言意図とは全然無関係なことなのだと思うんだけど。失礼!

 

キャッシュを貯めこんでどうするの? - 暗記派への疑問

人間の記憶はアテにならない

家庭教師という仕事をしていると、ときどき生徒が気の毒になる。学校の教師の中にはずいぶんと大量の知識の暗記を生徒に強いるタイプのひとがいるからだ。そういう教師は、テストに暗記していなければ解けないだろうというタイプの問題を出すし、暗記していなければ時間が足りないだろうというほどの量の問題を出す。そういうテストには、暗記で対応しなければ点数がとれない。これは困る。

というようなことを書くと、勉強は暗記だと思っている人々は不思議に思うのだろう。覚えることが勉強なのだから、覚えれば覚えるほど点数がとれ、完璧に覚えたら満点がとれる。テストとはそういうものだ──そう思っている人は案外と少なくない。実際、私が教えた多くの生徒がそんなふうに思っていた。

だが、学校教育の目的は知識を生徒の脳内に詰め込むことではない。それはもう、学習指導要領にさえ書いてある。だから、たとえば入試問題なんかのようなまともな姿勢で作成されたテストでは、知識に頼った問題はごく一部しかない。ほとんどは、基礎的な知識をもとにした思考力を見る問題になっている。もちろんそういった問題でさえ、実は暗記で対応することはできる。極端な話、正解を全部暗記してしまえば、何も考えなくてもマルがもらえるんだから。だから、思考力を見るようなタイプの問題でも「解き方」を暗記してしまえば、思考力なんかなくったって正解にたどりつける。実際、多くの生徒が(それ以上に多くの教師が)パターン化した「解き方」を暗記することが学習だと誤解している。それ、ちがうから。

なぜなら、人間の記憶ほどアテにならないものはないからだ。「記憶にございません」は、なにも国会議員の専売特許ではない。思い違い、記憶の混乱、意味の付け替え、忘却は、だれにでも起こる。記憶に頼って物事を進めようというのは、そういった非常にあやふやな情報を元に判断しようということだ。そんな危険なことをやられたら、社会はたちまち混乱してしまう。

そういった混乱を防ぐのは、正常な判断力だ。ひとつの不正が起こり、別の不正が起こり、また別の場所でミスが起こり、関係のない場所でもミスが起こる。それらの不正やミスがすべて不可欠の要素となってひとつの事象が起こった場合、それらをつなぐ事実が記憶から消失していたらそれらは無関係の偶然だと言えるのか? 正常な判断力があれば、これらは何らかの目に見えない要因でつながっているとわかる。

情報は、ある程度までは欠損があっても修復することができる。DNAだって、修復の機能をもっている。コンピュータだって、そういう機能をもっている。そういった修復をするには一定の情報が必要ではあるのだけれど、常に大量の情報を保持するコストに比べれば、仮に一部の情報が失われても何とかやっていく能力を身につけるコストのほうがはるかに低い。生物は、どうやらそうやって進化してきたらしい。

記憶がアテにならないのは、人間の仕様なのだ。仕様をしっかり理解しておかないと、運用は破綻する。

暗記とはキャッシュを貯めこむこと

だから、記憶に頼るような生き方をひとはすべきではないし、実際、日常の生活の中ではそんなことはしていない。であるのに、学校教育で暗記を強要するのは奇妙だ。建前上は暗記項目は驚くほど少ない。けれど、学校教師は特に求められてもいないような細部にわたってまで暗記を強要する。

なぜなら、暗記することはスピードアップにつながるからだ。たとえば二次方程式の解の公式というのがあるが、中学3年生程度の二次方程式であれば、あんなものは暗記しなくったって方程式は解ける。ただし、解の公式を暗記していなければ、解法に相当な手間がかかる。その手間のかかる手順をいちいちその場で考えていたのでは1題解くのに何分かかるかわからない。その時間を短縮するためには、その手順を暗記するしかない。同じ暗記するのなら、そういうややこしい手順を暗記するよりは、解の公式ひとつ暗記したほうがマシだろう。結局は、解の公式を暗記することが唯一の方法として残ってしまう。もしもスピードということを優先するなら、だ。そして、入学試験をはじめとして一般にテストでは、スピードが勝敗を分ける。ならば、暗記しない手はない。

けれど、そうやって暗記した解の公式、ほとんどのひとが忘れてしまうのではないだろうか。理科系なら高校数学では必須のツールだし、文系でも数学を必要とする大学受験生は忘れてはならない。けれど、数学を回避して大学に進むこともできるのだし、大学に入ってしまいさえすれば、家庭教師のバイトでもしない限りは使うこともないだろう。事実、工学部にいた私でさえ、解の公式なんてきれいサッパリ忘れていた。その後、問題集の編集を業務とするようになって改めて覚え直したが、その現場から離れて数年もするとまた忘れてしまっていた。忘れてしまっても差し支えないことは、人間、覚えていられないものらしい。

つまり、スピードアップのために行う暗記は、基本的にスピードを確保する必要がなくなった時点で重荷になる。それを保持し続けるメリットがないから捨てられる。これって、パソコンのキャッシュと同じだなと思い当たった。

キャッシュは、元データへのアクセスにかかる手間を省くためにシステムに一時的に置いておくデータだ。Webブラウザなんかでは、リモートのサーバーにアクセスすることで起きるタイムラグを回避するため、けっこう大量のキャッシュを貯めこんでいる。こいつが貯まりすぎると、パフォーマンスがかえって落ちてくることがある。ときにはエラーの原因になったりもする。だから大抵のブラウザにはキャッシュのクリア機能がついている。また、安物のスマホなんぞを使っていると、もともと少ない記憶領域がキャッシュデータに圧迫されてなくなってしまうこともある。そうなったらやっぱりキャッシュのクリアをおこなわなければならない。

人間だって同じで、大学で専門分野の勉強を始めたら高校時代の余分な暗記項目は捨ててしまうほうが頭の回転が早くなるだろう。社会人になったら、大学時代に暗記したことは捨てるべきだ。そうしなければとても新しいことに対応はできない。春四月、いまはキャッシュクリアの季節なのかもしれない。

キャッシュはクリアしても困らない

あっさりと学んだことを捨ててしまうのなら、いったい教育の意義はどこにあるのだろう。暗記こそが学習だと思っていては、この問題は解けない。しかし、人間の記憶はおよそ不確かで信頼するに足りないという立場に立てば、その記憶にいくらの情報を貯めこんだかなんてことは、およそ教育の成果とは無関係だということがすぐに納得できる。じゃあ、教育によってひとは何を身につけるのかというと、それは思考方法だ。情報を元に命題を組み立てていく能力だ。

そういう能力は、暗記では身につかない。「思考方法」と言ったときに、「じゃあその方法を暗記したらいいんでしょう」とはならない。なぜなら、それは数学の問題の「解き方」のようにパターン化できるものではないからだ。「二択を迫られたら第三の選択肢を提示せよ」みたいな公式をいくら覚えたって、それは思考方法を身につけたことにはならない(Thanks to id:hndkjさん)。思考方法とはもっと身体的なものだ。ひとが歩き方の理論を知らなくても歩けるように、思考を繰り返すことによってその理論は知らなくても使えるようになる。もちろん、「こういう体重移動をしたらもっと疲れないよ」みたいな理論で歩き方が向上するように、考え方のヒントで思考方法が改善することは実際にある。ただ、ベースになるのはひたすら練習で、練習する素材としてさまざまな知識が必要になる。

だから、学校で暗記することは、テンポラリーなキャッシュでかまわない。それを使い回すことで、システムそのものの性能が向上する。人間がパソコンとちがうのは、成長することだ。使い込むことによってアップグレードが自動で行われる。そういうアップグレードを教育というのだと思う。

それでも必要なデータセットは圧縮すべき

キャッシュは捨ててしまっていいのだけれど、それでは記憶領域に何も置いておく必要はないのかといえば、それもまたちがう。基礎となるデータセット、常に参照する必要のあるデータセットは、キャッシュとは別の意味で記憶領域に保存しておく必要がある。算数・数学の基本的な演算法則や、日常的な言葉の語義、ごくごく基礎的ないくつかの用語なんかは、やっぱり忘れてはやっていけない。

ただ、人間の記憶は非常に曖昧で頼りにならない。そして、その記憶は、量が増えれば増えるほど混乱するという特性をもっている。だから、記憶すべき情報の量はできるだけ絞り込むべきだ。まるで1980年代のパソコンのプログラムのように、削れるところはできるだけ削って情報量を倹約すべきだ。

だから私は、九九を全部覚えるのは記憶の浪費だと思う。乗法の交換法則という情報の展開方法をひとつ記憶するだけで、九九は半分だけ覚えればそれで十分になる。あるいは、「乗法とは加法の回数を指定する演算である」という根本的な定義を用いれば、実は九九は一切覚えなくても掛け算はできる。しかしそれでは実用速度が出ないので、九九を間引いて覚える。たとえば7×6=42という計算を暗記していれば、7×7=7×6+7=42+7=49と、ごく簡単な計算で失われた情報を復元することができる。

というような理屈を意識していたわけではないが、結局私は小学校2年のときに九九を完全に覚えられなかった。かなりいいセンまでは行ったのだが、あの表を見ると目がチカチカしてどうにもやってられず、8割がた覚えたところで断念した。そして、そのうちのかなりの部分をあっという間に忘れてしまったが、それは、忘れても何の不自由もなかったからだ。ただし、九九のうちの4割ぐらいは記憶に残った。それは、実際にそれを使っていたからだ。最終的に、九九は一部分だけしか覚えていない。いまだに7×3があったら「さんしちにじゅういち」とやっている。「しちさんにじゅういち」は、先に「さんしち」を言わないと出てこない。それで何の不自由もない。

こんなことを書こうと思ったのは、こちらの記事を読んだからだ。

www.nubatamanon.com

私から言わせれば、九九を全部覚えないいのは非常に合理的なことだ。記憶は思考と組み合わせなければ意味はない。そして思考力の中にはさまざまな情報圧縮・展開ツールが仕込まれている。それを使うことで保存領域を節約することは、十分に意味がある。なにせ、ハードウェア仕様から言えば、人間はここ何万年もたいしたアップグレードを受けずにいるのだから。

「教材」はケチをつける練習台

中学生の頃の私は、本当に嫌な生徒だっただろうと思う。教師から見てね。というのは、教師の誘導には絶対に乗らなかったから。単純にひねくれ者というだけなのだけれど、それが凄まじかった。

たとえば社会のテストで、「イギリス」と書かねばならない解答欄があるとする。私は必ず「大ブリテン及び北アイルランド連合王国」と書いていた。そして教師がうっかりペケでも付けようものなら、鬼の首でもとったように文句を言いに行く。あるいは、分数で答えることを期待しているような方程式の解をわざと小数で表記する。これもペケをつけられたら勇んで教師にクレームをつける。もちろんときにはこっちが走り過ぎて正当な不正解の理由を示されてグウの音も出ないこともあった。むしろそういうときのほうが多かったかもしれない。それでも私は、果敢にチャレンジを続けた。

なぜなら、そうでもしなければ、あの退屈なテストなんかやってられなかったからだ。教えられたことを教えられたとおりに答えるなんて、なんの面白みもない。それよりはむしろ、意表をつく答えを考えるのに知恵を絞ったほうがずっと楽しい。なんともはや、やりにくい生徒だ。

だが、結果的に、そうやって遊ぶことが私を鍛えてくれたのだと思う。ツッコミを入れる隙がないかと問題のアラ探しをすることは、結果的に「問題文をよく読む」という基本的技能の習得につながった。「もっとひねった解答ができないか」と悩むことは、正解にたどり着いてそれで終わりという安直な姿勢に陥ることを防いでくれた。自分の小理屈が通用しないときには、論理的な思考の強固さを思い知らされた。

それが現代の日本の教育制度の核になっている科学的な態度なのだと、最近になってようやく思う。科学はロックンロールと同じで、反抗することそのものに本源的な意味がある。そこにあるものを疑い、力の限り叩き、そして叩きのめされて、ようやくある種の納得に到達する。そういう作業なしに聖典を学び、暗記し、反復することにはなんの意味もない。

学校教育法

第四章 小学校 第三十条

○2  前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。

学校教育法

「基礎的な知識及び技能」を習得するだけでなく、それを活用して「課題解決」ができなければならないと、法律でも定めてある。そして、課題解決のために用いる方法論が科学のそれであることは、各教科の各論を読めば明らかだ。

科学の出発点は「疑うこと」である。だから、あらゆる教材は疑ってかからなければならない。たとえ教科書であっても、書いてあることが正しいとは限らない。実際、アラを探しながら教科書を読むのは楽しい。これは学習参考書・問題集をつくる仕事をしていたときに気づいたのだけれど、教科書は、実は書かれてあることと同じくらい、書かれていないことを読むのが勉強になる。「ここは面白い問題がつくれるところなのになぜこの教科書では扱わないのだろう?」と考えることで、執筆者の配慮や指導要領の真意をうかがうことができる。教科書を与えられた子どもたちに同じことをやれというのはちょっとハードルが高すぎるのだけれど、それでも私はよく中学生に向かって「なぜ教科書ではこう書いてあるのか」みたいな説明をする。そうすることで理解が深まると思うからだ。ときには(特に英語の教科書なんかでは)、思いっきりケチをつけることもある。ただ、その場合も、一方的にくさすのではなく、あまり実用的ではない例文を採用しなければならなかった大人の事情も併せて話したりする。そういうのが理解できるのも、ともかくもいったんは疑ってかかる習性がついているからだと思う。

 

だから私にとっては、教材というのは単純にネタに過ぎない。だからなんだっていい。あらゆるものが教材になる。ただし、その教材は批判でボロボロになるだろう。それが教材の運命。

ところが、どうやらそういう考え方は異端らしい。こういう記事を読んで、なんだかがっかりするのはそのせいだ。

www.tokyo-np.co.jp

菅氏は記者会見で、道徳教育で使うことに問題はないかと問われ、「教育勅語にそうしたこと(道徳を説いた側面)があり、そこは否定できない」と説明。さらに「教育の唯一の根本とする指導は極めて不適切だが、『親を大切に』など普遍的なことまで否定すべきではない」と語った。

ちょっと待てよと思う。「道徳を説いた側面」があるから道徳の教材に使えるのだろうか? 「普遍的なこと」を書いてあるから教材になるのか? そういう思考は、すなわち、「教材とはそこに書いてあることをそのまま無条件で受け入れるべき聖典である」という考え方ではないのだろうか。そう思わなければ、なぜ「孝」を学ぶ教材にわざわざ「親を大切に」と書かれていなければならないのか理解できない。

道徳という教科では、「正解」は教えないことになっている。唯一の正解を教えるのではなく、社会の矛盾に対して知恵を絞る方法論を学ぶようにできている。すなわち、

道徳の時間における指導に当たっては,次の事項に配慮するものとする。(中略)
(4) 自分の考えを基に,書いたり話し合ったりするなどの表現する機会を充実し,自分とは異なる考えに接する中で,自分の考えを深め,自らの成長を実感できるよう工夫すること。

小学校学習指導要領 第3章 道徳:文部科学省

科学的な基盤の上に行われる道徳教育とは、そうでなければならない。仮に「孝」を教えるのであれば、「親を大切にすることは正しいことだ」と教えるのではなく、さまざまなケーススタディを通して「やっぱり親を大切にすることが正しいんだろうな」と自分自身で結論づけていく方向に指導するべきだ。そしてもちろん、しっかりと考えた結果として生徒が「親を大切にする必要はない」と結論づけたとしても、その思考の過程が正しければ一定の評価を与えなければならない。ま、そういうひとは少数派だとは思うけれど、それでも少数意見を尊重する必要があることは、上記指導要領の文からも明らかだ。

現実にそのような教育が行われ、かつ、それが法制度の中に組み込まれた学習指導要領にも明記されているときに、あたかも「正しいことを書いてあるから」という理由で「教材」になる資格があるなどとは、実に無理解も甚だしい。教材は、疑われ、批判され、その上に立って思考の深化を助けるものでなければならない。いったい「教育勅語を教材に」という人々はそこを理解しているのだろうか? それを理解したうえで「教材に」というのなら、それは「勅語を疑え」といっているのと同じではないのだろうか? それは、そういう人々の思想と根本的に矛盾するのではないのだろうか?

 

こどもたち、特に思春期の中学生や高校生を教えたことのある人であれば、彼らに押しつけは一切通用しないことを痛いぐらいに知っているはずだ。高圧的に「あれをやれ、これをやれ」と言っても、彼らは受け付けない。「これが正しい」と教えても、うんざりした顔で聞いているだけだ。けれど彼らの批判精神をくすぐることができたら、顔つきが変わる。思いもよらないほど深く考えるし、的確な質問も飛び出してくる。

それでこその学問だと思う。とはいいながら、そうやって火をつけても、それだけでテストの点数が突然に上がるわけでもなく、結局はあのクソ忌々しい入試制度に潰されてしまうのがオチなのだけれど。

ちくしょう、何が科学だ!学問だ!

学校はなんのために? - 不登校をめぐる見落とされがちな事情

学校は教育のため?

私は学校行かなくてもいいじゃない(いろんな意味で) と思っている。というのも、自分自身が高校時代にはほぼ完全に授業から精神的にエスケープしていたし(早い話が体育以外はほぼ完全に居眠りしてた)、自分の息子(中3)も天下に隠れのない不登校生だからだ。これで不登校をけしからんみたいなことを言ったら、矛盾に身がよじれて立ってさえいられないだろう。

とはいえ、子どもが生まれるまで、というよりも子どもが生まれてからだってしばらくは、そういうことを考えたことはなかった。目の前の子育てで目いっぱいで、将来この子が学校に行くとか、その学校がどういうところだとか、そういうことを考える余裕はなかった。けれど妻はちがった。彼女は彼女で、相当に学校に恨みがあったらしい。そういう場所に自分の息子を行かせることに抵抗があったようだ。そして、息子が3歳になってしばらくして、「学校をどうする?」という相談を持ちかけてきた。その日から、勉強の日々がはじまった。

類は友を呼ぶというのか、私の友人・知人には、けっこう不登校の子どもを育てているひと、オルタナティヴな教育を模索しているひとがいた。そういう人々に会って話を聞き、またいろんな本を読んで情報を仕入れた。フリースクールのようなところに見学にも行った。不登校であっても、オルタナティヴな学校やホームスクーリングなど、さまざまな選択肢があるのだということも知った。

そういう予備知識があった中で、最終的に息子をふつうの公立小学校に進学させようと決めたのは、まず第一には、子どもたち同士の関係性を重視したからだ。ホームスクーリングでは友だち関係が築けない。特別な学校に進めばそこでの友だちはできるだろうが、保育園を通じてせっかく数多くできた地元の友だちとは疎遠になる。たまたま素晴らしい保育園に通うことができたという事情が大きいのだけれど、そこでできた子ども同士の関係を尊重したいと思った。学校制度の意味は、そこで教えられている教科内容よりもむしろそこで培われる社会性にあるのではないかと、そんなふうに考えたわけだ。

ただ、これは理由の第一であるにしてもすべてではない。当初は自分でも意識していなかった。けれど、小学生の息子が保育園よりも早い時間に帰宅するようになって、改めて気づいた。親にとって、学校制度が何よりもありがたいのはその託児機能なのだと。

実際、働く女性にとっては、保育園から小学校に進む時期がいちばんのピンチなのだそうだ。それは同じ保育園から進学した子どもたちの家の人々と話していて実感した。私は結婚以後は(2年間を除き)ずっと自営業なので少々の無理は効く。たとえば学童保育からの下校のお迎えに出るとか(最初の1ヶ月はそうした)、PTAのクラス委員を引き受けるとか、仕事に差し支えないように実行することができた。けれど、ふつうに定時勤務が入っている保護者にそれはできない。特に恐怖は夏休みだ。ある程度は学童保育がカバーしてくれるとはいえ、完全ではない。6歳の子どもを家に放りっぱなしで職場にはりつかなければいけないプレッシャーに耐えかねて離職する人だっている。

私のような自営業でさえ、影響を受けないわけにはいかない。保育園は自営業でも就業と認めてくれるのだけれど、学童保育は自宅にいるかどうかが判断基準になるらしい。こっちはそんなことは知らないので当然のように利用していたのだが、ある日、それを理由に学童保育から追い出されることになった。長期休暇中、子どもが仕事場兼用の自宅にいたのでは、とても仕事にならない。「早く新学期が始まらないかなあ」と祈るようになって、ようやく気がついた。特に小学校低学年のあいだ、親にとって学校がありがたいのは何よりもその託児機能なのだと。

若衆宿と学校と

小学校も高学年までくれば安心だ。鍵を預けて留守番させることもできるし、なんなら食事を用意しておいて「6時を過ぎたら自分で食べておいて」みたいなことを言うこともできる。その頃から私の自営業も、以前からのデスクに縛り付けの翻訳業に、外回りの家庭教師が加わってのダブルワークになった。息子が休みのとき、仕事場の邪魔になるようなら「ちょっと外に遊びに行ってくれ」と追い出すこともできるようになったし、不在にするときには鍵っ子としてあとを任せることもできるようになった。そうなってくると、学校の託児機能の重要性は薄れてくる。

その一方で、託児機能とはややニュアンスがちがう「安全な居場所」としての学校がありがたくなってくる。小学校の4年生から5年生ぐらいの時期は、発達上、探検期なのだそうだ。自分の知らない場所をどんどん探検して回る。それができるだけの体力と知恵がついてきてるからそういう時期がくるのだとはいえ、親としてはやっぱり不安になる。放っておいたらどこまで行くかわからない。そんなときに、学校に行っている時間だけはふらふら遠出をしているはずがないという安心がある。

さらに、小学校6年生ぐらいから思春期に入る。ここから高校1年ぐらいまでのあいだの時期は、親子関係が大きく変わる。衝突が起こるのはふつうだ。そういう時期に、毎日決まった学校に行ってくれるのは本当にありがたい。家庭という社会単位と学校という社会単位のあいだを往復することで、子どもも親も正気を取り戻す。学校には、そういう役割もある。

息子は中学1年生のときに学校のやり方に腹を立ててフリースクールへと逃げこみ、身分的には不登校生になったのだが、多くの不登校生とちがって人間関係で学校に行けなくなったのではなかった。だから、フリースクールへは皆勤賞もので通っていた。ところが昨年のある時期、そんな息子にも人間関係の悩みができて、フリースクール不登校になるという二重の不登校生になってしまった1ヶ月余の期間が訪れた。このとき、既に身長が大人サイズになってきたいい若い者が自宅にゴロゴロしているのは、はっきりいって親である私にとっても鬱陶しかった。そして、本人も鬱陶しかったのだろう。耐えられなくなって再びフリースクールに行くようになった。「居場所」というものがこの年代の人々にとってそれほどまでに重要なのだということを、私は教えられた。

地方によってちがうが、思春期から思春期後期ぐらいの若者は、かつて若衆宿とか若者組と呼ばれる社会集団を形成していたそうだ。つまり、家庭の外側に居場所をつくっていたわけである。面倒だから、Wikipedia。ほんとは一次資料にあたりましょうね。

若者組 - Wikipedia

青年団 - Wikipedia

託児所としての機能が不要になってからも、思春期前期ぐらいまでは親は安心のために託児機能的な意味で学校を必要とする。それが一段落したら今度は、子離れのためにやはり学校を必要とするのだと思う。おそらくかつての農村では若者組や青年団がその役割を果たしていたのだろう。現代では中学から高校にかけての学校制度がその役割を担っているのではないだろうか。

不登校生への圧力は親の都合

学校は勉学の場であり、あるいは社会関係を学ぶ場である。不登校の問題は、通常、そういった文脈で語られる。不登校になれば教育機会が奪われるわけだから、その分の補習をしましょうというような話は前者、居場所をつくりましょうというような話は後者の考え方から出てくる。そして学校や教育委員会の公的な立場はあくまで「学校への復帰のために」であるのだけれど(少なくとも法制度上はそうなっているのだけれど)、それも上記の2つの学校の存在意義から説明されている。

けれど、実際には学校なんてたいしたことを教えていない。これは家庭教師のプライドにかけて断言する。本当に教科指導の内容だけを知識・技能として身につけるためだけなら、6年間の授業を半年に圧縮しても十分に足りる。さらに、社会関係を学ぶはずの場でいびつな社会関係に苦しむぐらいなら、むしろそれは有害であるとさえいえる。だから、勉学のためにも社会的成長のためにも、必ずしも学校は最適であるとは言い切れない。他の選択肢もあってかまわない。いろんな可能性を探ってみたらいいと思う。

しかし、親にとっての学校の存在意義は、実はそれだけではない。ホンネで包み隠さずにいえば、親としては子どもが学校に行ってくれるのがラクなのだ。自分自身が学校に対して疑問符をつけている私のようなひねくれ者でさえ、親としては息子にふつうに学校に行ってほしい。そうすることで、余分なトラブルを避けることができる。余分なことにエネルギーを奪われずに済む。キレイ事を抜いてしまえば、子どもは託児所に放り込みたいし、反抗的な若者はまとめてどっかで集まっていてほしい。

 

おそらく、不登校問題をややこしくしているひとつの要因は、実はこの親の都合なのだろうと思う。Webと端末の発達したこの時代、自学自習にはなんの問題もない。不登校生を特別視する風潮さえどうにかすれば、学校に行かなくても社会性を育んでいくことは十分に可能だ。だが、それでは親は困る。そのぐらいに、学校制度は社会・経済の現状と深く結びついている。しかし、子どもの問題を語るときに、そこがポイントとして議論されることはあまりないように思う。

私自身は、学校制度に懐疑的だ。自分が教育を受ける子どもだったら、もっと別な枠組みで多くのことを学びたいと思うだろう。だが、親の立場に立つとそれは急変する。考えてみれば「入学おめでとう」というあの言葉、「もうすぐ一年生だね」「中学は何部に入るの?」というようなわくわくするようなあの言葉たちも、ひょっとしたら親としての自分の無意識の策略の一部だったのかもしれない。人間の二重性のなんとも不可思議なことよ。

あーあ、だから大人はイヤだ。

 

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追記:なぜだかこの記事、Googleからのアクセスが多い。なんでだろうと思ったのだが、どうやらこの新年度直前の時期、「学校 なんのため」みたいな検索語でサーチしているひとが多いらしい。なるほどね。

だったら、この記事はご期待に添えなかったと思う。もしもそういうことなら、このブログのこっちの記事のほうが多分、多少は役に立つんじゃないかな? よかったらそっちに行って。

mazmot.hatenablog.com

「教育勅語を教材に」は、もちろんあり得る

私の祖母はもうずいぶん前にこの世を去っているのだが、私をずいぶんとかわいがってくれた。その祖母が小学生だったか中学生だったかの私に向かって話してくれた言葉を思い出す。

「じゅんちゃん、なんでも覚えといたらええんやで。覚えて悪いことは泥棒だけや。覚えといたらきっと役に立つ」

その当時から雑多な知識ばかりでちっとも系統だった勉強をしなかった私にとって、この言葉はずいぶんと救いになった。まあ、そのせいでこの歳になるまで人生の裏街道を歩み続ける結果になったといえばそうなのかもしれないが、それはそれでずいぶんとおもしろいことでもあったから、恨み言は言わない。

泥棒のことはさすがに学ばなかったが、実際、私はずいぶんといろんなことを学んできた。違法ではなくてもどうにも怪しいような文書の辻褄の合わせ方とか、そんなこともいくつかの職場で経験した。その一方で、高邁な思想や思慮深い分析、学術的に価値のある講演なんかも聞いてきた。それらは全て、私の役に立っている。

ただ、脱法行為が私を犯罪者にしなかったのと同様、価値ある思想や知恵が私を賢者にすることもなかった。しょせん、外部からのインプットは素材でしかない。それをどんなふうに血肉に変えていくのかは、本人の器量だ。あるいは、器量をつくっていく教育というものだ。

 

だから、教育のための素材、つまり「教材」には、あらゆるものがなり得る。厳選されたベストのものだけが教材に適しているという考えは、ちょっとおかしい。小学生が平仮名の練習をするときにはきれいなお手本が必要かもしれないが、同時に下手くそな見本もあれば、それを回避するためにどうすればいいのかを教えることもできる。モノは使いようであって、モノそのものが問題ということは、ふつうはない。

なぜこんな話をはじめたかというと、少し前、文部大臣の「教育勅語を授業に活用することは、適切な配慮の下であれば問題ないと思います」という発言が話題になっていたからだ。そりゃ、問題ないと思うよ。実際、歴史の授業では(そこまで突っ込んでやる時間があるかどうかはわからないけれど)教育勅語の原文を生徒に読ませるぐらいのことはやってもいいと思う。ただし、どうもこのときのやり取りは、そういうことではなかったようだ。

松野博一文部科学大臣記者会見録(平成29年3月14日):文部科学省

このやり取り、非常に興味深い。というのは、官僚的なソツのない回答と、どうみてもこのひとの個人的なデキが表に出てしまっているだろうっていう「おいおい、待てよ」的な回答が入り混じっているからだ。

たとえば、

教育勅語は、日本国憲法及び教育基本法の制定等をもって、法制上の効力を喪失しております。文部科学省としては、学校現場において教育勅語を活用することとした場合には、憲法教育基本法等に反しないような適切な配慮が必要であると考えております。

とか

まず教育勅語を、先ほど申し上げたとおり、憲法教育基本法に反しないように配慮をもって授業に活用するということは、これは一義的にはその学校の教育方針、教育内容に関するものでありますし、また、教師の皆さんに一定の裁量が認められるのは当然であろうかと思います。

とか

文部科学省としては、これも繰り返しになって恐縮でありますが、憲法教育基本法に反しないような配慮があって、教材として教育勅語を用いることは、そのことをもって問題とはしないという見解です。

とかの部分は、ご立派というか、そこだけ読めばまずは文句のつけようのない法治主義的な発言だろう。法律に違反しないように使うとか、法律の制限内での自由を認めるとか、よくわかってるよと思わせてくれる。ところがどっこい、

これは政治事項に関する中立等の話もありますし、まず何よりも憲法で規定されている精神でありますから、教育基本法の内容等に反する部分に関しての指導方法ということであろうかと思います。しかし、具体的には、私も繰り返しお話させていただいておりますけれども、個々の事案がそれに該当するかどうかは、所轄庁によって判断、指導されるものだと考えております。

というあたり、「おや?」と思わせてくれる。つまり、このひとは、教育基本法教育勅語を対立的に考えているわけだ。そう思ってみると、「憲法教育基本法に反しないように…活用する」ということが、別の意味で言ってるのではないかという気がしてくる。

つまり、現行の法体系に則って教育現場で「教育勅語を活用する」という意味は、あくまでそれを教材として利用するということでしかない。この場合の「教材」の意味は、「過去にこのような文書が用いられていた」という事実を伝えるものである。そういう意味では、非常に重要な教材だ。そして、そのような扱いをする限り、教育勅語の内容が教育基本法に反していようがいまいが、それは何ら問題ではない。

ところがそれをわざわざ問題であると認識しているということは、つまり、「教育勅語の活用」が、教育基本法を代替・補完するようなものとしてイメージされていることをあらわしているにちがいない。そう思って見直すと、先ほどの「一義的にはその学校の教育方針、教育内容に関するものでありますし、また、教師の皆さんに一定の裁量が認められ」のあたりも、ずいぶん怪しいものであるように見えてくる。つまり、教育の枠組みをつくるものとして法律以外の文書を「活用」することを認めているように読めてくる。これは、法治国家としてはちょっとあり得ないことではないだろうか。

そう思って読むと、

先ほど申し上げましたとおり、教育勅語を授業に活用することは、適切な配慮の下であれば問題ないと思います。それは一般論から言って、その活用の仕方、これはもう教師の教え方の問題であると思いますし、それは積極的に評価する、消極的に評価する、その項目によってそれぞれ違うものであろうかと思いますので、個々どれをもっていい、どれをもって悪いということは言及しませんが、いずれにせよ、その教えている内容が憲法教育基本法に反するということであれば、それは所轄庁の中で適切な指導がなされるものと考えております。

 

というあたり、まっすぐ読めばどうにも意味不明なのだけれど、これはもう、「教育勅語の内容を項目によっては指導方針の枠組みを形成するために使ってもよい」と言っているように受け取れる。それはもう、ダメダメだろう。なんとなれば、学校教員は、教員としての専門技能や見識以外には、ただただ法令によってのみ縛られる。教育関係の法体系は憲法に発して教育基本法、学校教育法、学校教育法施行規則と降りてきて最終的に学習指導要領となって現場に徹底される。だから、教員は専門知識の他には学習指導要領以外に自分を縛るものを持ってはならない。それ以外のもの、特に廃止された法令でもって教員を縛るのは、それはもう法治主義ではない。すなわち、上級法である憲法違反ということになってしまう。

 

ここで重要になるのが、教員を縛るもうひとつの規範、専門知識だ。「知識」と書いたが、すなわちこれは教員としての素養ということだ。いったい教員にはどのような素養が求められているのか。

これは実は、やはり現行の法体系にあらわされている。指導要領を読んでいると、現代の教育は基本的には科学的であるよう求められていることがわかる。これは、自然科学領域だけでなく、社会科学領域についても強調されている。

そして、科学的な態度の根本は批判精神だ。与えられたものをそのまま受け取るのではなく、批判し、検証し、確信が持てるまで熟慮したうえで受け入れるのが科学的な精神だ。指導要領は、あらゆる教材に対して学習者がそのような態度で臨むよう求めているのだと読み取ることができる。教員の素養とはそれを支援するため、自らも科学的な態度であらゆる教材に接することだ。

つまり、それが教育勅語であれ何であれ、まずは批判が先行しなければ科学的な態度ではない。そして、教育勅語を部分的にであれ全体であれ何らかの規範として受け入れるということは、その段階で科学的とは言いかねるだろう。なぜなら、教育勅語はその本質として一切の批判を受け付けないからだ。批判し、検証された段階で、勅語勅語でなくなる。君主の言葉とはそういうものだろう。

 

では、憲法教育基本法、さらには学習指導要領はどうなのか。現行の法体系は、無批判に受け入れるべきなのだろうか。私はそうは思わないし、実際、自分自身が家庭教師として生徒に教える際にはそうはしていないつもりだ。

生徒によって一律ではないのだけれど、たいていの中高生に(場合によっては小学6年生でも)私はまず指導要領を教える。そのために数学と英語の指導要領は常にカバンの中に持ち歩いている。そして、「こういう目的のためにこれからこういうことをすることになる」と、教科のあらましを説明する。ふしぎなことに、学校ではこういうことをしてくれない。だから家庭教師がやるしかない。

その説明は、相当にいちゃもんの多いものになる。現場で教えていると、どうしたって指導要領の無理なところが見えてくる。そういうところも包み隠さず話す。そしてその上で、最終的に、それが学校教育の枠組みになっていることを納得してもらい、そして教えはじめる。批判をして、その上で、受け入れる。

民主主義国家の法律は、不変のものではない。それは、代議制の合意のもとで変更可能だ。変更可能なものは、批判に耐える。批判にもとづいた改正が期待できるからだ。すぐに変わらなくてもいい。変えていける可能性があるから、おかしなところをおかしいということが意味を持つ。

先々変更できないものは、そうではない。批判は愚痴にしかならない。そんなものに意味はない。そして、詔勅、勅令、勅語のたぐいは、基本的に変更を受け付けないものだ。綸言汗の如しである。それが君主制だ。そして、君主制は科学主義と相性がよくない。科学主義と民主主義は、表裏の関係にある。だからこそ、民主主義を標榜する憲法下での教育は科学的であることを要請するのだろう。

 

私は、科学万能主義を信奉しない。どっちかというとアレな異端者である。民主主義だって胡散臭いものだと思っている。もっとマシなものがどこかにあると信じている。しかし、それは少なくとも、科学主義、民主主義の先にあるものだと思う。そこを乗り越えた未来に何かもっといいものがあると信じているだけで、それ以前の過去に戻るべきだとは思わない。

だから、過去のことをネタにするのはOKだと思うが、そこに戻ることはあんまりだと思う。ま、人間なんて愚かなもので、前に進んだつもりが実は後戻りしているだけ、なんてこともあるのかもしれないけど。

 

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追記: やっぱり政府のオッサンらの考えてることは、せっかく役人が矛盾せんように工夫してタテマエ論でおさえようとしたことを遥かに超越する。こんな報道があった。

www.tokyo-np.co.jp

これは、あかんわ。この記事、書きなおさな。

 

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再追記:ということで、別記事を書いた。

mazmot.hatenablog.com