「教材」はケチをつける練習台

中学生の頃の私は、本当に嫌な生徒だっただろうと思う。教師から見てね。というのは、教師の誘導には絶対に乗らなかったから。単純にひねくれ者というだけなのだけれど、それが凄まじかった。

たとえば社会のテストで、「イギリス」と書かねばならない解答欄があるとする。私は必ず「大ブリテン及び北アイルランド連合王国」と書いていた。そして教師がうっかりペケでも付けようものなら、鬼の首でもとったように文句を言いに行く。あるいは、分数で答えることを期待しているような方程式の解をわざと小数で表記する。これもペケをつけられたら勇んで教師にクレームをつける。もちろんときにはこっちが走り過ぎて正当な不正解の理由を示されてグウの音も出ないこともあった。むしろそういうときのほうが多かったかもしれない。それでも私は、果敢にチャレンジを続けた。

なぜなら、そうでもしなければ、あの退屈なテストなんかやってられなかったからだ。教えられたことを教えられたとおりに答えるなんて、なんの面白みもない。それよりはむしろ、意表をつく答えを考えるのに知恵を絞ったほうがずっと楽しい。なんともはや、やりにくい生徒だ。

だが、結果的に、そうやって遊ぶことが私を鍛えてくれたのだと思う。ツッコミを入れる隙がないかと問題のアラ探しをすることは、結果的に「問題文をよく読む」という基本的技能の習得につながった。「もっとひねった解答ができないか」と悩むことは、正解にたどり着いてそれで終わりという安直な姿勢に陥ることを防いでくれた。自分の小理屈が通用しないときには、論理的な思考の強固さを思い知らされた。

それが現代の日本の教育制度の核になっている科学的な態度なのだと、最近になってようやく思う。科学はロックンロールと同じで、反抗することそのものに本源的な意味がある。そこにあるものを疑い、力の限り叩き、そして叩きのめされて、ようやくある種の納得に到達する。そういう作業なしに聖典を学び、暗記し、反復することにはなんの意味もない。

学校教育法

第四章 小学校 第三十条

○2  前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。

学校教育法

「基礎的な知識及び技能」を習得するだけでなく、それを活用して「課題解決」ができなければならないと、法律でも定めてある。そして、課題解決のために用いる方法論が科学のそれであることは、各教科の各論を読めば明らかだ。

科学の出発点は「疑うこと」である。だから、あらゆる教材は疑ってかからなければならない。たとえ教科書であっても、書いてあることが正しいとは限らない。実際、アラを探しながら教科書を読むのは楽しい。これは学習参考書・問題集をつくる仕事をしていたときに気づいたのだけれど、教科書は、実は書かれてあることと同じくらい、書かれていないことを読むのが勉強になる。「ここは面白い問題がつくれるところなのになぜこの教科書では扱わないのだろう?」と考えることで、執筆者の配慮や指導要領の真意をうかがうことができる。教科書を与えられた子どもたちに同じことをやれというのはちょっとハードルが高すぎるのだけれど、それでも私はよく中学生に向かって「なぜ教科書ではこう書いてあるのか」みたいな説明をする。そうすることで理解が深まると思うからだ。ときには(特に英語の教科書なんかでは)、思いっきりケチをつけることもある。ただ、その場合も、一方的にくさすのではなく、あまり実用的ではない例文を採用しなければならなかった大人の事情も併せて話したりする。そういうのが理解できるのも、ともかくもいったんは疑ってかかる習性がついているからだと思う。

 

だから私にとっては、教材というのは単純にネタに過ぎない。だからなんだっていい。あらゆるものが教材になる。ただし、その教材は批判でボロボロになるだろう。それが教材の運命。

ところが、どうやらそういう考え方は異端らしい。こういう記事を読んで、なんだかがっかりするのはそのせいだ。

www.tokyo-np.co.jp

菅氏は記者会見で、道徳教育で使うことに問題はないかと問われ、「教育勅語にそうしたこと(道徳を説いた側面)があり、そこは否定できない」と説明。さらに「教育の唯一の根本とする指導は極めて不適切だが、『親を大切に』など普遍的なことまで否定すべきではない」と語った。

ちょっと待てよと思う。「道徳を説いた側面」があるから道徳の教材に使えるのだろうか? 「普遍的なこと」を書いてあるから教材になるのか? そういう思考は、すなわち、「教材とはそこに書いてあることをそのまま無条件で受け入れるべき聖典である」という考え方ではないのだろうか。そう思わなければ、なぜ「孝」を学ぶ教材にわざわざ「親を大切に」と書かれていなければならないのか理解できない。

道徳という教科では、「正解」は教えないことになっている。唯一の正解を教えるのではなく、社会の矛盾に対して知恵を絞る方法論を学ぶようにできている。すなわち、

道徳の時間における指導に当たっては,次の事項に配慮するものとする。(中略)
(4) 自分の考えを基に,書いたり話し合ったりするなどの表現する機会を充実し,自分とは異なる考えに接する中で,自分の考えを深め,自らの成長を実感できるよう工夫すること。

小学校学習指導要領 第3章 道徳:文部科学省

科学的な基盤の上に行われる道徳教育とは、そうでなければならない。仮に「孝」を教えるのであれば、「親を大切にすることは正しいことだ」と教えるのではなく、さまざまなケーススタディを通して「やっぱり親を大切にすることが正しいんだろうな」と自分自身で結論づけていく方向に指導するべきだ。そしてもちろん、しっかりと考えた結果として生徒が「親を大切にする必要はない」と結論づけたとしても、その思考の過程が正しければ一定の評価を与えなければならない。ま、そういうひとは少数派だとは思うけれど、それでも少数意見を尊重する必要があることは、上記指導要領の文からも明らかだ。

現実にそのような教育が行われ、かつ、それが法制度の中に組み込まれた学習指導要領にも明記されているときに、あたかも「正しいことを書いてあるから」という理由で「教材」になる資格があるなどとは、実に無理解も甚だしい。教材は、疑われ、批判され、その上に立って思考の深化を助けるものでなければならない。いったい「教育勅語を教材に」という人々はそこを理解しているのだろうか? それを理解したうえで「教材に」というのなら、それは「勅語を疑え」といっているのと同じではないのだろうか? それは、そういう人々の思想と根本的に矛盾するのではないのだろうか?

 

こどもたち、特に思春期の中学生や高校生を教えたことのある人であれば、彼らに押しつけは一切通用しないことを痛いぐらいに知っているはずだ。高圧的に「あれをやれ、これをやれ」と言っても、彼らは受け付けない。「これが正しい」と教えても、うんざりした顔で聞いているだけだ。けれど彼らの批判精神をくすぐることができたら、顔つきが変わる。思いもよらないほど深く考えるし、的確な質問も飛び出してくる。

それでこその学問だと思う。とはいいながら、そうやって火をつけても、それだけでテストの点数が突然に上がるわけでもなく、結局はあのクソ忌々しい入試制度に潰されてしまうのがオチなのだけれど。

ちくしょう、何が科学だ!学問だ!