「平等」の残酷さ

日本では、身分制度憲法で明文的に否定されている。そのせいもあって、「生まれがいいから」というだけで特別な待遇を受けるような人生に対して、多くの人が否定的な感覚を覚える。ドラマや小説、アニメやファンタジーであっても、貴族、王族、富貴の生まれであることを鼻にかけるような登場人物はだいたいにおいて悪役か、よくて主人公の引き立て役ということになっている。たまに高貴な生まれの主人公がいたとして、彼は門地や身分によってヒーローになるのではなく、その努力や人知れぬ労苦を経て成長することによってその地位を手に入れる。「親が◯◯だから」ということで人を語ることは、現代的な感覚では正義ではない。

だからこそ、明示的に否定された身分制度が実質的に強固に残存している証拠を見せられると、私たちはたじろいでしまう。たとえば、教育機会が経済的に制限されることによる貧困の再生産。それを指摘したピエール・ブルデューの著作は、バブルの頃の日本でよく売れた。それだけインパクトが強かったわけだ。若かった私も何冊か読んで、なるほどと思った。身分制度そのものではないが、金持ちの子どもたちが金持ちになり、貧乏人の子どもたちが貧乏になるという固定化は、身分制度と何らかわるところはないのではないか。私の記憶ではブルデューは著作の中ではそれを問題だとも問題ではないとも積極的な価値判断は示さず、ただ坦々と事実関係を解き明かしていた。価値判断的な考察は不要だったのだろう。それは読者が勝手にやればいい。問題か? もちろん問題だろう。誰だってそう思う。それが現代だ。

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だからこそ、教育機会を均等にという議論が出てくる。大学無償化なんて人気取り政策だって、そういう文脈がなければ単なるバラマキにしか見えないだろう(いや、そうなのかもしれないけど)。それも、外見上の公平だけでなく、踏み込んだ公平性が求められている。たとえば無償である義務教育に通わせるコスト(教材費や文具費など)に対する公的な補助なんかは既に制度化されているし(ウチだってもらってる)、給食費に関してもよく取り上げられる。実質的に全入に近い実態になっている高校に進学するための学習塾にかかる費用が問題になる場合もある。「無料塾」みたいなのはそのような文脈で出てきたもので、それが思いもかけないようなところで言及されていたりするとなんとも不思議な気持ちになる。

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〈志望動機=改善例1〉
学生時代、無料塾で小学生を教えていた。親が十分な収入を得られていないため、子どもたちは塾に通って補習する余裕がない。そうした子どもたちのために、寄付や補助金を利用して無料の塾を開いているのだ。私はそこでボランティアとして、算数と理科を教えていた。
(中略)

〈志望動機=改善例2〉
しっかり教えると子どもたちは理解できる。それは親の収入とは関係ない。学習の機会を得られるかどうかの問題だと思った。昨年初めて無料塾から、国立大学の付属中に合格した子どもがでた。初めは落ち着きがなく勉強への興味も持てなかった。しかし、分数の計算がわかるようになってから学習態度が変わった。最後までやり通す根気も出てきた。

貧困が原因で学習の機会を得られないために、勉強の意欲を失わせてはならないと思った。これを切っ掛けに、私は学習機会を増やすための教育事業を生涯の仕事としたいと思い、御社を希望しました。

このような 「志望動機」の「改善例」が説得力をもつのは、それを見て「立派な志だ」と思う人が多いからだろう。「親の収入」という身分によって将来を左右する「学習機会」が左右されてはならない。それはそうなんだろうと思う。

けれど、それではいったい、学習機会が確保されれば、それで公平なのだろうか。親の収入と無関係に教育を受けられるようになったとして、それでも学歴によって平均的な生涯賃金が左右される現実は変わらない。学習機会が公平になり、教育へのアクセスが個人の経済状況に左右されなくなったとき、学歴は最終的には個人のアタマの良さを反映するだろう。となると、格差は親の収入によらなくなるかもしれないが、アタマの良さによって発生するようになる。

アタマがよければ高収入になり、アタマがわるければ低収入。それはいったい公平なのだろうか? 公正なのだろうか? たまたまアタマがよく生まれついただけで楽な人生を送れるというのは、たまたま金持ちの家に生まれたから上流階級というのとどれほどちがうのだろうか?

アタマの良さだけでは学歴差にはつながらないのかもしれない。学問は努力だ。やる気だ。頑張りだ。天才は99%の努力だ。それは生まれもったものだけではなく、本人の心がけだ。心がけひとつで運がつかめるのなら、それは公平だろう。だが、努力はだれだってできるのだろうか? だれだって、同じように頑張れるのだろうか? 努力家、頑張り屋というのは、けっこう性格として決まっていないか? そういう性格に生まれなかったら、もう底辺にあえぐしかないのだろうか?

 

平等は残酷だ。現代社会では必ず格差は発生するし、どっちにしてもダメなものはダメと判定される。それでも、家柄・資産によって発生する格差よりもアタマの良さや性格によって発生する格差のほうが社会に受け入れらるのは、そのほうが社会にとって有益であると考えられているからにちがいない。生まれがよくて能力のない人材、努力しない人材よりは、出自によらずアタマが良かったり勤勉であったりする人材のほうが社会にとって役に立つ。役に立つ人々を優遇するのは当然だろう。そんなふうに考えられているのではないだろうか。

 

単純に平等を実現するのであれば、労働と所得を切り離せばいい。人は働くから生存できるのではなく、人間であるから生きていける。そして、人は生きるために働くのではなく、生きることがそのまま労働になる。そんな社会が実現すれば、おそらく平等は達成される。貧困もなくなる。ただ、現代の経済システムは、それをやってしまったら崩壊してしまう。競合と競争の上に常に優秀さを確保することがなければ、経済は動かない。そのエンジンを外して経済を動かす方法を、まだ人類は実現していない。

であるならば、そのために格差を利用するのもまた、現状ではやむを得ないのかもしれない。やむを得ないと断言するつもりはない。それ以外の道はどこかにあると思う。けれど、それが見えない段階でそっちの話をするのはだいぶとアレだ。だから、「社会にとって役立つ人材を優遇する」ということを公平であることの上位において考えるとする。そうすると、なぜ教育機会の不平等がこれほどまで問題視されているのかが別な側面から見えてくる。再生産を通じた格差の固定化が社会問題とされるのか、角度を変えて理解できる。それは、そういった固定化が、優秀な才能を埋もれさせるからだ。親が金持ちだというだけで能力のない人間がトップに立てば、経済が落ち込む。出自がどうであろうと優秀な人間を必要なポジションにつけるべきだ。そのための機会均等。なんとも身も蓋もない。

 

そして、そういうふうに見ると、貧困の再生産について書かれたこんな記事の末尾に書かれてある一文も、「ああ、そういうことなんだね」と思えてくる。

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そして何よりも、企業や社会がどういった目線で人材を評価し、人材にどんな能力を求めていくのか、あるいはどういった形で彼らの能力育成を行っていくのかということとセットで考え行動して初めて、この大きくて硬い「負の構造」を崩すきっかけが見つかるのではないだろうか。

つまり、「人材の評価」や「人材に求める能力」「能力育成」など、産業社会にとってプラスになる人材を求めていく中で自ずと格差の固定化は解消せざるを得ないということだろう。そしてそこで重要になるのは、

今日本社会のなかで注目されている「21世紀型スキル」や「キー・コンピテンシー」といった新たな能力観の形成が、家庭の環境に大きく影響を受けることが明らかになっているのだ。

という部分で触れられている「21世紀型スキル」や「キー・コンピテンシー」なのだろう。どういうことか。

 

現在の教育機関の価値体系は、1960年代、1970年代の企業の価値体系から一歩も踏み出していない。それはすなわち、勤勉であり、正確性であり、指揮系統の順守である。少なくとも中学校、高校においては、指導要領がいくら変わろうと、実際の指導は勤勉性、正確性、忠誠を高く評価する価値観でもって行われてきた。ところが1980年代以降、企業が求める人材は大きく変化した。それも当初は一部成長性の高い企業のみでの変化であったものが、やがて普遍化していき、逆にそれ以外の旧態依然とした価値観のもとに運営される企業がブラック企業として悪目立ちするようになっていった。そういった1980年代以降の価値体系を「21世紀型」みたいに呼ぶのはちょっとどうかとも思うのだが、現在多くの企業で重視されている基本的な技能は、

  • コミュニケーション能力
  • 批判的思考力
  • 情報収集能力
  • 自己管理能力
  • 公正な判断力

などである。定義は曖昧でケースバイケースでいろいろと異なっているが、こういった重要な能力を「キー・コンピテンシー」と呼んでいる。過去数十年にわたって多くの企業はこのような能力を備えた人材を必要としてきているのに、実際の教育機関では20世紀型(というよりも19世紀型)の勤勉・正確・忠誠といった能力を強調するものだから、ここにミスマッチが生じてきている。

そして、そのミスマッチに乗じて「再生産」の中で重要な役割を果たしてきたのが、おそらくは上記引用にある「新たな能力観の形成が、家庭の環境に大きく影響を受ける」という部分なのだろう。すなわち、経済的に余裕のある家庭では、学校の教育にかかわらず、コミュニケーション能力や批判的思考力を高めるような文化的資産が大きく、それにともなって情報収集能力や自己管理能力も高められていく、というような流れなのだろう。

そして、上記記事の文脈では、そういった「教育以外の環境」にアプローチすることによって、格差の固定化を解消できる、ということになる。そしてそれは、固定化されることによって埋もれる才能の発掘であり、よりよい「優秀さ」を社会にもたらすことである、という言外の価値観を表現しているようにも思える。その際、「じゃ、能力に恵まれなかったオレたちゃどうすりゃいいんだよ」という声は、雑音でしかないのだろう。

 

社会というものを高いところから見下ろして論を張ると、どうしてもそういうことになってしまう。現代はその経済システムを抜きにしては回らない社会であり、経済をまわすためには優れた人材の労働が必要であり、そのためにはインセンティブとしての待遇の格差は欠かせないことだという立場から社会を見れば、「じゃあいかにして優れた人材を確保するのか」が重要で、それを阻害する格差の固定化は解消されねばならない課題となる。その際に、教育現場では重視されていないが実際のキャリア形成では非常に重要なキー・コンピテンシーを得る機会を広く与えていくことが重要になる。私は上記記事をそんなふうに読んだ。だが、低いところ、個人のレベルから見れば、全く別な構図ができあがる。

苦しい生活をする個人は、そこから抜け出すための手段を必要とする。その手段が教育であるのなら、そこにすがりたい。だが、現実の教育は、抜け出す手段を与えてくれない。そこで得られる勤勉・正確・忠誠といった価値は、実際にはブラック企業へ直結する価値観であり、貧困へと至る道だ。そこに陥らないためには、コミュニケーション能力・批判的思考力・情報収集能力などの、学校ではなぜか重要視されていない能力を磨かねばならない。そうやって、はじめて人生ゲームを逆転することができる。

そしてそう思ったとき、現代の学校システムの欺瞞性が見えてくる。なぜ学校ではコミュニケーション能力を潰すような授業しかしないのか。なぜドリルばっかりやらせて批判的なディベートをさせないのか。なぜ授業中にネットへの接続を禁じるのか。それは、そういった多くの企業が求める人材育成をあえてやらないことで、勝者にさらにポイントを与え、敗者からさらに奪うためではないのか。

そして、そこに目をつぶって、学校の勉強の補完をする学習支援なんて、何の意味があるのだろうか? 「無料塾」が学校の勉強よりもさらに質の低い「勉強」を教えたって、貧困の再生産のサイクルは断ち切れない。なぜだれもそこを指摘しないのだろう? もしも本当にそのサイクルを切りたいのなら、学校が教えないキー・コンピテンシーを伸ばしていく教育こそ、そこで行わなければならないのではないだろうか。

そして、それをやろうとしないでボランティアやって自己満足した挙句に「教育事業を生涯の仕事としたい」なんていったって、あの質の低い受験産業をなにひとつ変えることができないだろう。ま、これはジャーナリストが書いた模範解答に過ぎないから、そんなふうに目くじらを立てることではないのだけれど。