熱い人に出会わない

これまでの人生で、何度も熱い人に出会ってきた。その多くはただ熱いだけ、暑苦しいだけの人だったが、なかには「この人は確かに情熱に見合った行動力がある」と思わせてくれる人もいた。何人かのそんな人の下で働くことができたのはラッキーだったと思う。

情熱と行動力のマグニチュードが最も大きかったのは宮本重吾氏だった。といってもこの名前でピンとくる人はほとんどいないだろう。長くなるので書かないが、社会を農業から変えようという途方もないビジョンをもっていたけれど、それがあまりに大きすぎたためにそのカケラも実現できなかった人だ。実現できない夢を現実のものにしようとするわけだから、ホラ吹きとかドン・キホーテとか、ひどいときには詐欺師呼ばわりまでされたこともあった。が、その情熱で結局だれもが「宮本さんならしかたないか」みたいに納得してしまっていた。昨今も田舎にいて夢物語をかたるブロガーが顰蹙を集めているようだが、似たような感じで宮本さんに騙された若い人々もけっこういた。まあ傍迷惑な人でもあったが、行動力も抜群で、だからこそあり得ない国政選挙への挑戦なども、ちゃんとやってのけた。自分が播いた種が百年後に芽を出すことを信じていた人だった。いや、やっぱり長くなりそうだ。やめとこ。

あるいは、ちょっと名前は出さないのだが、某ベンチャーの社長だったMさんも、行動力と情熱を兼ね備えた人だった。最終的には出口戦略に失敗してやはり多くの人を失望させたのだけれど、あそこまでVCを引っ張りまわしたのは立派といえば立派だった。それだけの行動力は、やはり正体不明のあの情熱の裏打ちがなければ続かないはずだ。それだけのものをもっていた人だった。

こういった人々のもとで、私はずいぶん勉強させてもらった。彼らは情熱があるだけに注文もムチャであることが多い。そういうムチャな注文に何らかのカタチをつけていくのはずいぶんと面白かった。私はもともと、自分が考えたこと、自分が手を下したことで何かが生まれたり何かが変わっていくのをみるのが好きだ。基本的にそういう仕事を選んでやってきたようなところがある。熱い人々との仕事は、クリエイティブな衝動を十分に刺激してくれるものだった。

翻訳のような職人仕事が好きなのも、それまでそこになかった文書ができていくのをみるのが好きなのであって、決して作業そのものが好きなわけではない。生来のズボラであって、できるなら縦のものを横にしたくもない。それでも横書きの英文を縦書きの和文に変えていく作業は、そこに新たなものが生まれるから仕事としてたいせつにしてきた。Web時代以前に長く続けた編集屋も、同じ意味で自分の仕事だった。自分の頭の中だけにあった本が形になるのは快感だった。いま、収入の中に家庭教師の比率が大きくなってきているけれど、これも自分が働きかけることでひとが変わっていく、その過程をみることができる仕事だ。成長期の子どもたちは、数ヶ月単位で大きく変わる。そして、これらの仕事の間にいくつか挟まるさまざまな仕事も、やはり物事が生まれること、変わることを実感させてくれるものばかりだった。少なくとも、雑多な仕事たちの中のそういう側面に頼ることで、私はなんとか生きてくることができた。

 

ただ、そういった職人仕事を一人で続けていると、「そろそろ次のステップに」と感じる時期がやってくる。私はおそらく、本当の意味での職人ではない。職人であればひとつの分野を極めてくのだけれど、私の場合、ある分野で少しものが見え始めてくると、その周辺のことが気になり始める。職人仕事は自分の視野を広めてくれるから、どうしてもそこで終わらない。次の段階へと進みたくなってくる。

そんなとき、頼りになるのが熱い人だ。こちらの専門分野なんかはお構いなしに、能力のギリギリのところまで要求してくる。そこに応えようとすることで、自ずと新しい境地に進むことができる。学習参考書という狭い分野でしか編集の経験がなかった私をもっと広い本づくりの世界に進ませてくれたのは宮本重吾さんだったし、若い頃に中断していた文芸翻訳の仕事を実務翻訳の世界で再開させてくれたのはベンチャーのMさんだった。熱い人たちは、私にとっても必要な人たちだった。

 

そしてこのごろ、思う。ここしばらく、熱い人に出会わない。そろそろ次に進みたいような気がする。だけど、熱い人があらわれない。

他力本願はいけないのかもしれない。けれど、熱い人たちだって、ひとりではやっていけないのだ。熱い人たちは、明らかに私の能力を必要としていた。そして私はその能力を提供することで、成長の機会を得た。一種の共利的関係だ。だから私は望んでしまう。

 

そろそろ、熱い人に出会いたいな。