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シアワセの容相

あしたはこっちだ

軍歌を歌う小学校は実在したか

教育とか、英語とか

軍歌ってなんだろう?

先日来、「軍歌をうたわせる幼稚園」というのが話題になっている。「そりゃないだろう」とか「時代錯誤だ」みたいな感じで多くの顰蹙をかっているわけだが、そういう話を見ていて、なんか「軍歌」のイメージがちがうんじゃないかという気がしてきた。

もちろん、軍歌についてはたとえばWikipediaでさえ、かなりまっとうな記述をしている。

軍歌(ぐんか)とは、広義には主に軍隊内で士気を高めるために作られた歌のことである。歴史的な出来事を扱ったものから、戦死した犠牲者を悼むことを目的とするものまで、内容は様々である。

日本の軍歌
日本では、厳密(狭義)には軍隊によって作られた歌を軍歌とするが、一般的(広義)には戦時歌謡(軍国歌謡・国民歌謡、一部の唱歌)や軍楽など、軍隊・軍人・兵器・戦争・国体・国策などを題材とする歌や曲をまとめて軍歌と通称とする。
軍歌の分類

  • 部隊歌
    連隊歌や艦歌など、各部隊ごとに作られた歌。
    (例、「飛行第六十四戦隊歌(加藤隼戦闘隊)」、「関東軍軍歌」等)
  • 兵隊ソング(軍隊小唄、兵隊フォーク)
    主に軍人(将兵、兵隊)の間で愛唱された俗謡。
    (例、「ほんとにほんとにご苦労ね」、「海軍小唄(ズンドコ節)」、「可愛いスーちゃん」、「同期の桜」等)
  • 軍楽
    行進曲に代表される器楽曲。
    (例、「陸軍分列行進曲」、「軍艦行進曲」、「連合艦隊行進曲」等)
  • 愛国歌・時局歌(戦時歌謡との戦後名あり)
    民間が制作した流行歌。映画主題歌なども含む。
    (例、「露営の歌」、「燃ゆる大空」、「空の神兵」、「暁に祈る」、「出征兵士を送る歌」、「麦と兵隊」等)
  • 国民歌謡
    日本放送協会や新聞社(マスメディア)、政府機関などが主導して制作した流行歌。戦時歌謡に含める場合もある
    (例、「愛国行進曲」、「紀元二千六百年」、「日の丸行進曲」、「爆弾三勇士」、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」等)
このほか、戦地で愛唱された一般の歌謡曲(流行歌)や唱歌の一部も軍歌と称する場合もある。

軍歌 - Wikipedia

ちなみに、ロックギタリストを自認する私ではあるが、上記にあがっているうちの何曲かを含め、有名な軍歌なら10曲ぐらいはそらで歌える。あまり自慢したくない能力。小学生時代に父親の車のカーステレオ(8トラックのテープといってもいまのひとにはわからないだろう)用のテープが3本か4本しかなく、そのうちの1本が軍歌で、そればっかり聞いていたから覚えてしまったわけだ。右翼街宣車から流れてくるような歌は、だいたい歌える。まあ、歌うことはないのだけれどね。

 

右翼街宣車が流している「軍歌」は、ほぼ「戦時歌謡」。上記にあるように愛国歌・時局歌と国民歌謡を区別する必要はない。これらの歌は、「軍隊内で士気を高めるために作られた歌」という定義にはあてはまらない。兵隊ソングも同じ。これらが軍隊内で公式に歌われることはあり得なかった。せいぜい、酒保で憂さ晴らしに歌われる程度だったようだ。厳しい日本軍の日常では、それ以外の場所で鼻歌などうたっていたらたちまち鉄拳制裁だっただろう。正しい意味での軍歌は、たとえば海軍なら「海ゆかば」のような軍楽で演奏されるもの。そういう意味では、たいていの右翼は本来あり得ないことをやっている。そのあたりは、こちらのブログに書いてあるようなことでもあったりする。

gendai.ismedia.jp

ただ、「戦前だったら不敬罪」というのは、調べてみると案外ちがうということがわかったので、その話。

軍歌はツイート? 

まず、「軍歌」が上記Wikipediaの記事で通常の定義と日本における定義がちがうように書かれている点だが、これはどうも歴史的にそういう使われ方をしてきたのだからしかたない、というしかないようだ。

明治時代出版「軍歌集」にみる軍歌の変遷について(長谷川由美子,綿抜豊昭)

によると、「軍歌」という言葉の初出は明治18年であり、当初より「行軍中欠ク可ラサルモノトス盖シ行軍途上之ヲ諷唱ス」とされながら、実態としては流行歌であったようだ。こちらの論文

明治30年の宮内省式部職雅楽部(塚原康子)

によると、軍隊内での使用を想定されて作曲された「軍歌」は、海軍が依頼してできた明治13年の「君が代」と「海ゆかば」を初めとするらしいが、 こちらの論文

ci.nii.ac.jp

あるいは上記の長谷川論文によるとその数年後からは軍歌集の出版が相次ぎ、唱歌集の出版点数を超えるほどであったらしい。明治27年から翌年にかけての日清戦争時には一気に出版点数が増加し、この頃に「戦時歌謡」的な軍歌の下地ができたようだ。こちらの古いエッセイ「明治の戦争歌」(小島吉雄 昭和13年3月)には、

日清戦争の時のことである。軍樂隊が廣島大本営に於て御前演奏をした時、外国の軍歌を奏しあげたところ、日本の軍歌をやれとの御下命があった。然し、その時は叡聞に達し上げる程の適當な軍歌が未だなかった。止むを得ず樂手の一人たる菊闇義清が豫て試作しておいた「喇叭の響」といふのを俄に作曲して演奏申上げた。ところが、一両日後、大元帥陛下には御製の軍歌を下し給はつたといふ挿話がある。

と、音楽としての「歌」と文芸としての「歌」(短歌)を完全に同一視した記述が見える。ちなみに昭和13年というのはまだ戦時色がそれほど強烈でもないのか、与謝野晶子の「君死に給ふことなかれ」に関しても触れているが、「西欧的個人主義」と切り捨てている程度で強い非難はしていない。ともかくも、日清戦争時には多数の「軍歌」がつくられたが、それは歌詞を重視したものであり、どちらかといえば文芸作品、あるいは現代のTwitterの短文投稿のような感覚ではなかったのかと思われる。ネットのない時代だから、歌でメッセージを拡散させたんだろうな。

つまり、「軍歌」は、草創期には「君が代」「海ゆかば」に代表されるような軍楽曲として創作されたが、すぐにそれを離れて大衆流行歌として受け入れられるようになった。これがすなわち、日本において「軍歌」の用法が本来の定義から離れて「戦時歌謡」や「兵隊ソング」をもっぱら指すようになった理由だろう。だから、軍隊で公式にそれらの俗謡が歌われることはなかったのだし、それをあたかも自分たちのテーマソングのようにしている右翼私兵隊は噴飯物だということにもなる。

軍歌を歌う小学校

そういった文芸、しかも日本古来の「うた」と結びついた軍歌であったから、それは決して歌いやすいものではなかったようだ。そこに新風を吹き込んだのが日露戦争を受けてつくられた「戦友」である。

京都府福知山市 真下飛泉資料室

右翼の街宣車がよく流している「ここはお国を何百里…」という大陸侵略の歌であるが、実はこれは戦時中は厭戦気分を煽るものとして禁止されていた。それもそのはず、教育者であった真下飛泉が日露戦争前線の悲惨さを聞いてそれを小学生にも歌える口語詩としてつくりあげたのがこの歌であるからだ。このあたりは、こちらの論文に詳しい。

「真下飛泉伝」の試み - 「戦友」成立を中心として -

これによると、戦友は反戦詩なのだそうだが、そこまでいったら言い過ぎなような気もする。「お国のためだ」のような言葉もある。戦争そのものを批判する言葉はどこにもない。だが、上述の小島吉雄が明星派を「西欧的個人主義」と批判した言葉そのままに、大義や国家とはまったく別次元の個人的視点から見た戦争の現実がそこにある(真下飛泉は明星派だったらしい)。これが「戦友」が戦時下に当局から睨まれた原因であろう。

ともかくも、「戦友」は、軍歌に言文一致隊という新しい流れを持ち込んだ。だが、それが何のためだったのかというのが実はポイント。上記論文から引用すると、

 飛泉は唱歌や軍歌の用語を問題にしているが、当時の小学唱歌の歌詞はどのようなものであったのか。弥吉菅一氏によれば、日本の国家的新体制が要求した学校唱歌が整備されたのは伊沢修二編の『小学唱歌』が出版された明治25、6年であり、当時の学校唱歌の特徴は、大体において、
(1) 詞章が文語調でこどもには難解。
(2) 内容が教訓的でありすぎる。
(3) 伝承童謡が抹消されている。
の3点に要約できるという。このような唱歌に加えて、明治25、6年から同40年頃にかけては軍歌流行の時代となり、軍歌が兵士のためのものにとどまらず、「小国民ヲシテ奮テ義勇奉公ノ壮志ヲ誘興シ、敵愾ノ心ヲ喚起セシムル方法」(「大捷軍歌」緒言、明治27−8年)として、「高等小学校教科用ニ充ツル」(「戦争唱歌」明治37年)ことになった。軍歌が教育の場に流れ込んできたのであった。

 と、積極的に軍歌を学校で歌うことを推奨する流れがあったらしい。また、上記の長谷川論文には、

初出が《軍歌集》でありながら、唱歌に再録された作品は多い。曲の再録が《軍歌集》の中でなく、学校教育の現場で使われた唱歌でくりかえしなされたことにより、「軍歌」は「唱歌」に変身を遂げた。レコードは入手困難な時代で、曲の流布は学校における唱歌教育と出版物によっておこなわれた。

と、軍歌がひろまるうえで学校教育が果たした役割が述べられている。「戦友」も、作者の真下飛泉が勤務していた小学校で子どもたちが上演した演劇中で用いられたものである。つまり、大衆歌、俗謡としての軍歌が歌われる場は、もともと、実は軍隊ではなく学校だったわけだ。

そう思えば、数年前に亡くなった伯母が子どもの頃の思い出の歌として「水師営の会見」や「一列談判破裂して」などをうたっていたのが頷ける。そういう歌を学校でやっていたのだろう。もともと映画音楽である加藤隼戦闘隊や麦と兵隊のようなあまりに流行歌的なものが学校で歌われたかどうかは疑わしいが、戦意高揚的な歌が学校教育の中で盛んに用いられていたことはやはり確実なようだ。

平和な最期を迎えるために

例の「軍歌をうたわせる幼稚園」で、どのような「軍歌」がうたわれているのかは知らない。選曲によってはかなりツッコミどころもあると思うし、おそらく戦前教育そのものではないというのはほぼまちがいないと思う。せいぜい想像にもとづいた劣化版。だとしても、「学校で軍歌を使った教育」というものがかつて存在したことは事実だし、それを復活させようという動きが怪しいこともいうまでもない。

最期は老人施設で自由を制限された生活を余儀なくされた伯母だったが、私は彼女の話を聞くのが好きだった。だが、その口から出てくる歌が、他国の人々を一方的に武力でいためつけるような内容のものでしかなかったのが返す返すも残念だ。年老いて、軍歌しか歌えないような未来はほしくない。もっとも、年とってI can't get no satisfaction!なんて歌しかうたえない自分も想像したくないのだけれど。