Mさんへの報告 ─ または「人生にムダなどない」ということについて

若気の至りに痛い苦言

Mさんは、私のクラブの先輩であると同時に顧問教官という立場でもあった。だから、私が大学をやめるにあたって、心配、というよりももっと高い立場からの意見を出してくれた。もちろん若造の私は耳を傾けようとさえしなかった。が、けっこう耳に痛かったのは覚えている。それは、「君は高い学費を親に払わせて、それをムダにするつもりか。学費だけではない。学生の教育には、学生の負担分とは比べものにならないほどの税金が投入されている。それは、社会に役立つ人材を養成するために、君のために与えられた金だ。君にはその投資に応えて有用な人材になる義務がある。だというのに、君はそれらのこれまで君に投資されてきた金をすべてムダにするつもりか」というものだった。ケチな私にとって、その理屈は痛かった。

工学部で受けた教育に金がかかっていることは、実感としてよくわかる。それをすっかりムダにするのかと言われて、反論できるだけの材料はなかった。工学部が期待する社会のために役立つ技術者にならないことだけは確実だった。さらに加えて、私の場合、たまたま私の在学中に自然災害が起こり、被災者として学費のほとんどが自動的に免除になるという特例を受けていた。ということは、私の教育費はほぼ全額が公的な資金でまかなわれていたわけで、それだけに私は社会に対してより大きな義務を負っている、のは否定できない事実だった。それをドブに捨てるような扱いをされたら、納税者は怒って当然だ。私は身を縮めて謝るしかない。けれど、無鉄砲な私はもうやめると決めてしまっていた。目をつぶり、耳をふさいでやり過ごすよりなかった。

あれから長い年月がたった。私に対する投資はムダだったのだろうか。客観的にその判断をする立場には、私自身はない。それでも、主観的には、大学の教室で過ごした日々は、私のなかで重要なベースになっている。私という「人材」をつくり上げる欠かせないパーツになっている。そして私という「人材」が社会にとって投資しただけの値打ちがあったのかとどうかということになれば、たぶんそれはあった。なにせ安いから。アホほど安い。たとえば私はある役所系の半端な有期雇用で1年間を過ごしたことがある。このときの給与総額は1年間で180万円だった。で、私のやった仕事の価値は余裕でその数倍を上回るので、この1年だけでも投入された税金以上のモトはとれているはずだ。

大学で得たものは? ゼロ?

とまあ、埒もあかない計算はさておこう。勝手な人事評価などするものでもないし。問題は、私自身にとって、それがどのように役立ったのか、だ。

ある人が社会にどの程度貢献しているのかを測る尺度はない。それは、「貢献」というのが避け難く価値観を含むからであり、社会の価値観は一筋縄ではいかないものだからだ。それでもたとえば、現代社会では、「幸福」がかなりの最大公約数として考えられる。もしも最終的にその社会の幸せの総量が増加したかどうかということであるのなら、その構成員であるたった一人の幸福が増大するだけでも、社会に対する貢献は認められる。少なくともそのぶんだけは幸福が増加したのだ。つまり、自分が幸せになることが社会貢献の第一歩だという考え方もできる。もしもそういう屁理屈が認められるなら、私は大学に通ったことで、その後の人生の幸せがまちがいなく増加した。では、どのように?

中途退学する学生にありがちなことだが、私は優秀な学生ではなかった。というよりも、劣等生だった。だから、「学生時代にこれこれのことをやったから、それが社会に出て役に立ちました」ということは、ほぼない。たとえばコンピュータに関しては当時フォートランの授業が必修であったのだが、私にとってはちんぷんかんぷんだった。ずっと後になって表計算ソフトやDBソフトでマクロを組んだりPythonでごくかんたんなプログラムを書いたりする段になって、過去のコンピュータ教育の成果が役立ったかといえば、そんなことなど、ひとカケラもない。申し訳ないが、フォートランの授業は自分にとって過去も現在もゼロでしかない。

同様に、電磁気学とか、線形数学とか、謎でしかなかった。教養の物理学実験、化学実験は自分でもなにをやってるのか全く不明でただただ他の人の邪魔にならないようにだけ気を使っていたし、まして専門課程の実験はほぼオブザーバーでしかなかった。これらが何らかの形で直接に自分の役に立ったことは、どう考えても、ない。

もちろん、なかには少しばかりの役に立ったことがないわけではない。私が「あ、自分の英語は役に立つのかも」と思えたのはオープン講座の英会話を受けたときだし、英語商売をやるようになってからでも思い出すのは教養2年めの英語教師のことだったりする(彼女はitをほぼカタカナの「エト」と発音していた)。微積分に関しては学科の教授のこだわりで再教育が行われたが、これがなければその後、私は数学の問題集の編集などできなかっただろう。飯のタネと直結する知識・技能をまったく学ばなかったのかといえば、それはウソになる。

あるいは、現代まで引きずられている宇宙開発の基礎的な概念(半世紀にわたって驚くほど変化していない)や、自動車エンジンやら船舶やらの構造、合金の物性や構造物の強度計算など、飯のタネにはほぼ無関係だけれど「知っといてよかったな」と思えるようなことも、いくらかは学んだ。

ただ、これらのことは、その後、図書館で借りた本やら、さらに後になってインターネット経由で学んだことに比べれば、たいした知識ではない。たとえば物理学に関しては私は仕事をはじめて数年後に一念発起してファインマン物理学を図書館で借りて勉強しなおしたのだが、たぶんそのときの勉強のほうが大学で教えられたことをはるかに上回る効果があった。写真史に関してはその分野の仕事をしたときに専門家レベルに渡り合えるだけの知識を付け焼き刃でつけた。農学に関しては大学では一切触らなかったが、いくつかのニッチな分野では農学部出身者以上の知識があると自負している。つまり、知識に関しては、大学以後に得たもののほうが、大学で得たものよりも桁違い以上に大きい。

ハッタリをかます能力こそ、大学の値打ち?

結局のところ、大学で身につけた知識・技能そのものは、私の人生にたいした影響を与えていない。となると、やはり私は大学での教育をドブに捨ててしまったのだろうか。私に投資された高額の教育費は、一切ムダになったのだろうか。いや、私はそうは思わない。

私はこれまで雑多な仕事をしてきたし、現在でも雑多な仕事をしている。必要があれば研究者とも対等に話をするし、小学生相手に同じ目線で仕事をすることもある。ビジネスマン相手の仕事もあれば、技術者相手の仕事もある。ゴム長靴をはいて仕事をしたこともあれば、ふかふかの絨毯の上で仕事をしたこともある。さまざまな現場で、さまざまな人々と仕事をする。そのときに、最も重要なのは相手を理解すること、背景となる情報を把握することだ。そこで必要になるのは想像力であり、自分自身を相手と同じ場所に置く力だ。そして、そんな力を授けてくれたのが大学の四年間ではなかったかと、いまにして思う。

たとえば、論文を読むことだ。科学の言葉で書かれた論文は、およそ学問の基礎だ。けれど、とっつきはひどくわるい。「一見さんお断り」的な雰囲気を、一ページ目から漂わせている。けれど、私は学生時代、そういう論文を生産する学者という人々を遠くからなりと見た。どういう人々がなにを考えて書いているのかが多少なりとも想像できるようになった。それだけのことでも、ハードルは少し下がる。

たとえば技術者の話を聞くことだ。もしも私が文系の学部で学んでいたら、数式やらなにやらをいじくる技術者は、異国語をしゃべる人ぐらいに思ったかもしれない。けれど、そういう人々と同じ教室で、自分よりも優秀なそれらの人々の邪魔にならないように隅っこに縮こまっていたとはいえ、同じ空気を吸っていた。その経験は、その違和感を緩和してくれる。

技術や学問は魔法でも秘儀でもなく、単に応用ができる事実の積み重ねに過ぎない。情報を知り、考えを深めることで、それは可能になる。そういうしくみで世の中は動いているということを、もしも大学に行かなければ私は知らなかったかもしれない。いや、最終的に知ることになったかもしれないが、そのためには余分な年月や、さらに余分な失敗や回り道が必要だったかもしれない。

シロウトのくせに平気で論文を読み、ろくろくわかりもしないのに技術者にどんどんツッコミを入れる。それは厚かましい態度かもしれないが、そうやってコミュニケーションをとることで、ようやく回り出す仕事もある。小学生や中学生相手に科学史・哲学史の背景は不要なのかもしれないが、それがあったほうがわかりやすい説明ができたりもする。屋根に登ったり床下に這いつくばるときに難しい理屈は不要かもしれないが、それが暗闇を照らしてくれると思える瞬間もある。

私には、仕事がおもしろい。ワーカホリック的な意味ではなく、家事をこなしたり散歩をしたりするのが楽しいのと同じ程度に、仕事を楽しめる。その楽しみを生み出してきた源泉のひとつとして大学教育は活かされている。高額の投資をしてもらったおかげで、それに見合った幸福はここにある。

そして、私が楽しんで仕事をしていることで、ほんのわずかずつでもその周辺に幸福が増える。いや、それはどうだかわからない。客観的評価としてどうだかはわからない。それでも、こんな学歴もコネクションもなにもない人間のところに仕事がやってくる。ということは、それを評価する人々がいてくれるということだ。対価に応じたサービスが提供できているということだ。資本主義の社会にあって、社会に貢献するとはそういうことではないのか。

ということで、私ははるかむかしに私に疑問を投げかけてくれたMさんに、遅ればせながら報告したい。教育に対する投資効果は卒業証書で証明できるものではないようです、と。卒業証書はもらわず、そのおかげで場合によってはもらえたはずの賃金も安定も地位もなにひとつ得られなかったけれど、投資効果はありましたよ、と。

私はなにも、大学教育を礼賛しようというのではない。もっといい学びの場もあるだろうし、大学そのものももっと変わらねばならないようにも思う。だいたいああいうものが「学校」の形態をとる必要があるんだろうかとさえ思う。そういうことを前提としても、自分はやっぱり大学に行ってよかったのだろうと思う。行かせてくれた親にも感謝しないといけないし、学費を実質的に負担してくれた社会にも頭を下げなければならない。その上で、やっぱりそれでも中退して、それでよかったんだろうとも思う。あり得ないほどニッチで特殊な人生の一報告として。