真実以後にモノを書くこと - あるいは私小説家とブロガーと

若い頃、「気軽に『真実』という言葉を使うな」と釘を刺されたことがある。もう記憶もはっきりしていないのだけれど、たぶん酒の席かなんかで、「君の言う『真実』は、単なる『事実』だろう。事実をいくら積み上げても真実には至らない」というような話ではなかったかと思う。出版業界の末端でアルバイトをしていた時代という以上の具体的なこと、相手も文脈も一切忘れたが、それ以来、真実とか事実という言葉を使うにはことさら慎重になった。だからそういう会話があったのは事実なのだろうと思っている。

「事実」はfact、「真実」はtruthの訳語であると考えてほぼまちがいないようなので以下はそのようにして話を進めるのだけれど、一応、定義がどうなっているのかを見てみる。

じ‐じつ【事実】

[名]
1 実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。「意外な事実が判明する」「供述を事実に照らす」「事実に反する」「事実を曲げて話す」「歴史的事実」
2 哲学で、ある時、ある所に経験的所与として見いだされる存在または出来事。論理的必然性をもたず、他のあり方にもなりうるものとして規定される。

デジタル大辞泉

 

しん‐じつ【真実】

[名・形動]
1 うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。まこと。「真実を述べる」「真実な気持ち」
2 仏語。絶対の真理。真如。

デジタル大辞泉

 

fact
1:  a thing done: such as
a obsolete : feat
b : crime <accessory after the fact>
c archaic : action
2   archaic : performance, doing
3:   the quality of being actual : actuality <a question of fact hinges on evidence>
4  a : something that has actual existence <space exploration is now a fact>
b : an actual occurrence <prove the fact of damage>
5: a  piece of information presented as having objective reality <These are the hard facts of the case.>

(Merriam-Webster)

 

truth
1  a archaic : fidelity, constancy
b : sincerity in action, character, and utterance
2  a (1) : the state of being the case : fact (2) : the body of real things, events, and facts : actuality (3) often capitalized : a transcendent fundamental or spiritual reality
b : a judgment, proposition, or idea that is true or accepted as true <truths of thermodynamics>
c : the body of true statements and propositions
3  a : the property (as of a statement) of being in accord with fact or reality
b chiefly British : true 2
c : fidelity to an original or to a standard
4  capitalized, Christian Science : god

(Merriam-Webster)

となっている。つまり、一般的には「事実」は「実際にあったこと」であり、「真実」は「嘘のないこと」である。英語ではtruthは部分的にfactと重なるが、大きく括っていえば日本語とよく対応している。

ということから、「事実はひとつだけれど、真実は人の数だけある」というような説明がよく見られる。つまり、話す人が「嘘偽りないこと」と信じていればそれは「真実」なのであり、人間の感覚が偽りを含んでいる以上、それは「事実」と異なるのが普通である、という解説である。

トランプ当選以後にpost-truth、ポスト真実という言葉が語られるようになった。この言葉も、この「事実」と「真実」の理解に沿って語られることが多いように思う。たとえば、

brighthelmer.hatenablog.com

このブログ記事では、「真実は一つではない」と、「解釈」こそが「真実」を構成するのだというしての展開がされている。人が何かを「正しい」と信じるのは必ず解釈の過程を経たうえでのことなので、「正しいと信じていることの言明」が「真実」であるのなら、それはそのとおりだろう。

 

しかし、私は「真実」という言葉のこのような用法にはどこか違和感を覚える。それは、遠いむかし、私に「気軽に真実という言葉を使うな」と言った先輩の言葉の重さをずっと引きずってきた感覚として、なのだろう。単純に「私が正しいと思っていること」は、「真実」ではないと思う。

ここでもう一度、先ほどのpost-truthだが、この言葉、実際にはどういうものなのか。どうやらこれは、post-truth politicsと、政治的な文脈で使われるようになったのがはじまりらしい。面倒なのでWikipediaのpost-truth politicsの解説によると(良い子の皆さんは一次資料にあたってください)、

The term "post-truth politics" was coined by the blogger David Roberts in a blog post for Grist on 1 April 2010, where it was defined as "a political culture in which politics (public opinion and media narratives) have become almost entirely disconnected from policy (the substance of legislation)".

と、「政治がポリシーからほぼ完全に切りはなされた政治文化」と定義づけられている。つまり、世論やメディアの論調などの政治的言説がポリシーと何らの整合性をもたない状況を伴う文化である。ここで「ポリシー」をあえてカタカナ書きにしたのは、これが「法制度の実体」と括弧書きされているからでもあるし、「政策」という言葉に置き換えるとちょっとはみ出す部分も出てくるように思うからでもある。

policy
1  a : prudence or wisdom in the management of affairs
b : management or procedure based primarily on material interest
2  a : a definite course or method of action selected from among alternatives and in light of given conditions to guide and determine present and future decisions
b : a high-level overall plan embracing the general goals and acceptable procedures especially of a governmental body
(Merriam-Webster)

と、ポリシーの定義の最初に来るのは「物事を進めるための深謀遠慮」であり、次に「現在・未来の判断を導くため、複数の選択肢のなかで与えられた状況下で選ばれた一定の方向性や行動方法」のことであって、結局は「政策」ということになっている。つまり、ポリシーは政治レベルだけでなく個人レベルでもその行動を決めていく基本的な思想である。

そういった思想と、実際に行われている施策が完全にズレていて、かつ、それを不思議とも思わない状況が、つまりはポスト真実である、ということだろう。そう思うと、この場合の「真実」は、単純に「自分はそれを実際にあったことだと信じている」という意味で使われているのではないはず、と思い当たる。

たとえば、既に前政権となったオバマ大統領のポリシーはアメリカ憲法にうたわれた自由と平等であり、さらにその前提としての世界平和であったことは疑う余地がない。ところが、実際には核廃絶が一歩も前進しなかっただけではなく、アメリカの軍事行動は世界各地でより一層激しくなった。格差問題は解消しないどころか拡大した。政治はポリシーと完全に矛盾していた。ここで重要なことは、ひとつひとつの政治的行動の正しさをオバマ本人に質したら、よっぽどでもなければ「自分のとった選択はその時点でベストだった」と答えるはずだということだ。つまり、「正しいと信じているかどうか」ということでいえば、これらは全て「真実」である。しかし、それはより根本的な真実とは大きく乖離している。そして、この「真実」とは、ポリシーの根幹を成すその人の信念、しかも、それが社会的に共有された理念としての信念であろう。

 

ここで「真実」=truthの定義を見なおしてみよう。すると、「絶対の真理」や「a judgment, proposition, or idea that is true or accepted as true」(真あるいは真であると受け入れられている判断、、前提、概念)、さらには「真如」「神」といった宗教的な概念を指す場合もあるのだと書かれている。おそらく、むかし私に注意した先輩の念頭にあった「真実」はこういうものであり、私もそう受け取ったのだと思う。さすがに神仏のことまで言わないにせよ、不動の行動基準となるような一組の概念セットを「真実」と呼ぶ用法はそれほど特殊なものではない。むしろそちらの方が広く使われているような気がする。そして、そのほうが「事実」と対比させる上ではより使いやすいのではないだろうか。

 

そういった「真実」の使い方は、実は近代日本文学においてはふつうにみられるものである(だから出版業界の片隅にいたときに先輩からそういう言葉が出たのだと考えれば非常に納得がいくことでもある)。いま手許にその根拠となる適当な文献がないのだけれど(図書館にでも行けばかんたんに見つかるはず)、たとえばネット上で公開されている論文を検索してたまたまトップに出てきたものを引用すると、

私小説」においては、その特性上、作者自身の細々とした身辺雑記や心境吐露を主要事とするだけに、描かれる事象はすべて作者の知悉した世界であり、まさか「絵空事」をでっち上げているのではなかろうという読者の期待に副った展開が図られる。したがって、そこに描き出されるのは、すべて「ありのままの現実」であり、「実はほんとはかなり嘘をついてる」(丸谷才一)2)にしても、原則的には嘘偽りのない「真実」が隈なく語られているのだという幻想が振りまかれる。
『本格小説』(水村美苗)における「語り」の構造―表象の自由と読者関与の可能性をめぐって― (柴田庄一

あるいは、

彼らはその出発において失うべきなにものも持たぬ生活失格者なのだ。彼らをささえる唯一の矜恃は芸術家としての真実性以外になかったのである。辛うじてその真実性を唯一のアリバイとして彼らは極貧の生活にもたえしのんだ。葛西善蔵から藤沢清造をへて川崎長太郎にいたる代表的私小説家の生活コースがここにさだまった。彼らは芸術家として作品のリアリティではなくて、制作態度の誠実性にすがるしかほとんどほどこすすべを知らなかったのだ。とすれば、彼らが近代小説としての芸術的方法なぞ確立する遑もなく、みじめな日常生活の断片をその破滅的なすがたにおいて文学の世界に持ちこむしかてだてのなかったのも、また当然だろう。日常性の次元と芸術の次元とを等価にむすぶことによって、辛うじて職業作家としての生活が成立する。
平野謙:メディアの中の〈私小説作家〉─葛西善蔵の場合(山本芳明)の引用による

ここで用いられている「真実」は、決して「作者がそう思っている」という主観的事実のことではない。それであれば、どんな駄文を書いてもそれが作者の主観と異なることがなければ「真実」となる。そうではなく、そういった主観的事実を通じた作者自身の世界観、そしてそれを通じることによって自分自身が見るのとは異なった角度から見る現実世界を「真実」と呼んでいるのではないだろうか。つまり、昭和文学のいう「真実」とは、生身の人間をフィルターとして使用することによって担保される「嘘偽りのない」現実のことであろう。

きちんともっと別な文献を探せばもうちょっとしっかりした議論もできるのかもしれないが、ここで私が言いたいことは、たまたま手当たりしだいに引っぱり出した文献からだけでもすぐにこういう話ができるぐらいに「私小説」的世界では「真実」が、少なくとも「その人が正しいと信じている事実」以上の意味で用いられてきたことは明らかだ、ということだ。そして、たぶんそれは「ポスト真実」という言葉の真実(truth)の用法を考えるときでも重要ではないだろうか。この「真実」は、実際にあったかどうかが確認できる「事実」ではなく、より根源的な人間社会の原理としての真実である。そして、それが既に原理としての力を失っている、と見るのがポスト真実の意味するところではないか。すなわち、理念というものが現実の行動に対して何らの作用を及ぼさない世界だ。あらゆるものがその場の力関係と感情によって動く。理性が民主主義社会の根幹であるとするなら、ポスト真実はつまりポスト理性であり、つまりはポスト民主主義であると言っていいのかもしれない。

 

とまあ、「ポスト真実」について思うところはこの程度なのだが、こういうことを考える過程で見つけた上記の2つの文献、「たまたまトップにあった」だけということで貶めるつもりは何もなく、これらはこれらでそれぞれなりにしっかり書いてあって面白い。その紹介みたいなことをしても仕方ないので書かないのだけれど、読んでいて思ったのは、昭和初期の「文壇」と、現代のネット社会って、どこか似ているなあと思うこと。特に、「私小説家」と「プロのブロガー」は、似ている。

上記引用の山本芳明氏の論文によれば私小説家の発生は第一次世界大戦後の景気変化に大きく影響されたようだ。そして、社会の動向が表現形式に影響を与えるということでいえば、ネット広告との関連を無視しては語れないブロガーの存在もまた、同じような文脈で語ることができるのかもしれない。また、それ以上に、多くのブロガーが自分自身の日常の断片を売り物にしている状況は、そっくりそのまま私小説家の状況と重なる。リアリティのもつ強みに頼るがあまり社会規範を踏み外してしまうことも、また一部の私小説家、ブロガーに共通する。人生の破滅、までいかなくても、それに近いところまで行く。あるいは、個人としての信用を著しく低下させてしまう。

だからといって、私はそういう在りかたを批判しようというのではない。やはり遠いむかし、私は昭和初期にデビューしたある私小説作家の全集編纂に関わったことがある。関わったといえば聞こえはいいが、大物編集委員たちと会ったこともなければ編集会議に参加したこともない末端の文字校正者に過ぎなかった。とはいえ、相当に分厚い全集を端から端まで読み尽くして、大きな感動を受け取った。そこにひとつの「真実」を見た。それは私自身の「真実」の一部のどこかを構成しているはずだ。

そういう感動を与えるためには、この作家の場合、半世紀以上にもわたる粘り強い創作活動の継続が必要だった。二流作家と見られ、経済的にも苦しみながらも、この作家は死ぬまでペンを手放さなかった。 文を書く、ひとに何かを伝えようとする、そういう行為は、それだけの忍耐を必要とする。

だから、現代の私小説家であるブロガーたちにも、 私は死ぬまで書き続けて欲しいと思う。ひとの評価は、瞬間最大風速のPVやアフィリエイトの売上や収益によってではなく、結局は棺を覆ったときに定まる。だからこそ、社会状況や経済情勢が変わろうと、メディアが変わろうと、書くと決めたひとは死ぬまで書いて欲しい。読者を動かしたければ、そのぐらいの気概で、この真実以後の世界を書き抜いて欲しいと思う。

 

ま、アクセス数が気になる気持ちもわかるんだけどね。私も毎日チェックしてるし。それが私の真実、か。

 

 

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ちなみに、ちょっと前から私小説家とブロガーのことをぼんやり考えていたのだけど、これで記事を書こうかと思ったのは、こちらのブログ記事を読んだのがきっかけ。作品と作家の問題は、むずかしいと思う。

www.saiusaruzzz.com