シアワセの容相

あしたはこっちだ

なぜ学校はワープロを受け入れない? - 「現実」に過適応していると未来が失われる

私の観測範囲だけのことではあるのだけれど、現代の小学校、中学校、一部の高校においては、パソコンを使用した提出物を受け入れない。もちろん細かいことをいえば例外はあって、たとえば小学校の夏休みの自由課題なんかでパソコンを使った研究みたいなのはあり得る。けれど、パソコンで制作されたもの、たとえば読書感想文であるとか自由作文とか、ワープロ打ちしたものは、受け付けない。もちろん、「ノートまとめ」とか、「自主勉帳」みたいなのをワープロ打ちすることも許されない。

「なんで?」と思うのだけれど、これにはちゃんと理由がある。まずひとつには、「パソコン使ったら漢字を覚えないでしょう」というものだ。それから、「本人が書いたのか筆跡でわからない」というのもある。本人の代わりに親が書いたのかもしれないし、ネットから拾ってきてコピペしたものかもしれない。そういう不正を防ぐために、ワープロ打ちは認められない、というものだ。

もっともらしい言い分ではあるが、しかし、どちらかというと、これは信仰に近いのではないかと思う。というのは、私の教えている中学生に、身体に不自由なところがあって、手指のコントロールがうまくいかない生徒がいる。頑張り屋さんなのでなんとか鉛筆で筆記はできるのだけれど、文字の大きさは1〜3センチ角の不揃いになるし、真っ直ぐな線が引けず、ガタガタになる。それだけの読みづらい字を書くのに、ふつうの生徒の10倍くらいの時間がかかる。ひどいハンデを背負っている。けれど、彼女はパソコンを使うことができる。やはり手指のコントロールに難があるため一本指入力なのでスピードは出ないが、こちらの方はまだマシで、不慣れな同じ年代の生徒に比べたら遜色ない程度にはしっかり使いこなせる。そして、重要なことは、、判読が暗号解読レベルにさえなる手書き文字に比べれば、当然のことながら遥かに読みやすい文章を書くことができる。というよりも、手書きでまともに文章など、負担が大きすぎて書けないのだ。それがパソコンなら自由に書ける。思っていることを素直に表現できる。ところが、学校はなかなかパソコンの使用を認めない。いや、さすがに彼女の場合は、完全に認めないわけではない。たとえば夏休みの読書感想文に関しては、確かワープロ出力されたものを受け付けたと思う。だが、テストやノートに関しては、手書きにこだわる。タブレットのような電子機器の導入を検討はしてくれたが、最終的には手書きをさせることに落ち着いた。

その理由が、ちょっとこの時代にどうかと思うものなのだ。まず、上記の「漢字を覚えない」がある。いや、彼女はこの先、たぶん電子機器を使うことのほうが多いだろう。その場合、漢字が手書きできないことが何らかの学習上の問題を発生させるだろうか? そもそも漢字練習なんて必要ないはずじゃないか。けれど、学校としては「みんなと同じ」でなければならない。そこまでいうんならこの時代、漢字が手書きできないことにどれほどの不利益があるのだと思う。みんな、わからない漢字はスマホで調べて書いてるじゃないかと、周囲の大人を見て思う。漢字ドリルなんて全廃してもほぼ実用的には困らないと思うが、そういう発想は教師にはない。

そして、学校側の主張で最も力点が置かれているのが「手書きができなければこの先こまるでしょう。高校入試も手書きじゃないと受けられないし、どこに行っても手書きはついてまわる。ワープロが通用する場面なんてほんのわずかなんだから、がんばって、みんなと同じまではいかなくても、できるだけそこに近づけるように練習しましょう」ということなのだ。つまり、現実がそうなっている以上、そこに合わせるべきだ、という適応的な考えかただ。

たしかに、目先の利益だけ考えたら、それはそうなのかもしれない。身体の不自由な彼女のことだけではなく、それは真理なのかもしれない。世の中、まだまだ電子機器だけですべての用事が片付くわけではない。手書きで文書を書かなければならない場合のほうが多いのだし、手計算しなければならない場面も少なくない。だから漢字ドリルと計算ドリルは必須だし、パソコンを使うようなことは漢字の習得にも計算の基礎をつくるのにも妨げになるから好ましくないと、現状への適応だけを考えるのなら、それはそれで決して非合理的な考えかたではないのかもしれない。

 

けれど、そうやって現実に過適応してしまうことは、本当に正しいことなのだろうか。そこには、ここからどうやって未来をつくっていくのかという視点が欠けていないだろうか。

パソコンを使えば、たしかに漢字は勝手に変換してくれるし、計算式さえ入力すれば答えは自動で出てくるだろう。未来は、そうやって過去に必要だった負担を減らしたところで、そこに無駄に費やされていたエネルギーを解放することによって開かれるのではないのだろうか。頭の中にあった文章を文字にするのに、漢字が書けずに止まっていた筆を先に進めることが電子デバイスに求められる役割ではないのだろうか。計算の正確性が担保できるまで先に進めなかった論理的思考を、そこを電子機器に負担させることによって前に進められないのだろうか。そして、そういうふうにどんどんと新しい領域を開くことによって、未来の世代によりよい社会をつくってもらうことを期待しないのだろうか?

身体が不自由であっても、無理に現状に合わせるように頑張らなくても、できることをやっていけばそれを評価することが、社会の側にできるようにならないのだろうか。現状の入試が手書きしか対応してなければ、どうしてそこに電子デバイスを持ち込んでいけないのかと掛け合うことをしてくれないのだろうか。なぜなら、ここからの時代、ひとは他の人と同じことができるかどうかでは評価されないからだ。他の人とちがうことができるかどうかが、未来をつくっていく上で重要になるからだ。

 

そういうことを考えようともしない硬直した学校には、ときに絶望する。けれど、学校教育は等しく人々に認められた権利なのだ。絶望して背を向けるのではなく、そこをきちんと変えていかなければいけないと、絶望するたびに思う。

いつもいつも、絶望させてくれないでよと呆れながら。

 

 

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(言わずもがなの追記)

ワープロ」って、wordo processing softwareのことだよ。なんか「ワープロ専用機」と誤解されるんじゃないかって、あとから気がついた。文書作成ソフトのことをこういうってのは、もう昔気質なのかなあ。最近の人って、「ワード」って特定商品名で言わないと通用しないんだろうかねえ。